阿耨達池円舞曲

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遠野妖怪保護区の北方、雄大な山地の広がるイーハトーヴ合区の奥に阿耨達池あのくだつちと呼ばれる池がありました。白く冷たい雲で覆われた高原を進むうちにふらりと立ち現れるこの池は、周囲が常に凪ぎ、朝夕問わず清冷とした空気が流れています。池の水は底の砂利が明瞭に見えるほどに澄み切り、手を入れればたちまち氷がまとわりつくするほど過冷却されていると言われています。このような謂れから、法華経にて清涼たる池と謳われる阿耨達池の名を冠されるようになったとされています。かの宮沢賢治も憧憬の念を抱き、自身の詩作や童話のモチーフに使用するほどでした。

さて、これほど霊験灼かな名を冠していますから、修験のために阿耨達池を訪れようとする者も珍しくはありません。特に明治の初めに修験禁止令が出されて以降は、秘密裏に修験を行うことを余儀なくされた僧たちが異界「寒戸郷」で隠れて修験を行っており、イーハトーヴ合区が寒戸郷に融合した後は阿耨達池へこぞって向かったのでした。しかし、阿耨達池までは急峻な道、寒冷な気候が待ち構え、果ては"カイコウ"と呼ばれる摩訶不思議なことの起こる土地柄故、強靭な身体と精神を持つ者でなければ阿耨達池へ辿り着くことはできませんでした。

その阿耨達池に辿り着くことのできた数少ない人物のひとりに彗山すいざんという名の修験僧がいました。禁止令後も修験道の命脈を保っていた山形県の羽黒山で修業を積んだ彗山は、時の政府の目を搔い潜るため山形からほど近い遠野妖怪保護区へ来ていたのでした。

彗山が阿耨達池に辿り着いた時分、既に日は傾き、空は群青とも茜ともつかぬ風合を見せていた。明るいうちにと池の渚に近づく。渚はどこまでも白く伸び、一たび足を踏み入れればきしりきしりと砂が鳴った。砂を拾ってみれば透き通る複六方錐。石英かなにかでできているようだ。

ひとしきり池を観察していると、水底から砂を踏むような音が近づいているのに気がつく。彗山が音の方角を見遣ると、黒黒とした何かがぬるりと水面から現れるところであった。その何かは全身が黒褐色の皮膚で覆われ、濡れた爬虫類のようにてらてらと光っていた。二足で歩いてはいるものの人間とも猩々ともつかない姿をしていた。彗山が身構えていると、その黒の妖怪は明朗な声で彗山に声をかけてくる。

「ああ。ようやくヒトと出会えた。ここは何処か。私の知る池ではないようだが」

黒の妖怪が云うに、こことは別の池で村の者と暮らしていたのだが、自身の与り知らぬ間にこの池に一人佇んでいた。黒の妖怪は、元の池の水がなければ一日と経たずに水へと戻ってしまうのだが、阿耨達池は元の池と近しいためか何故か命を繋ぐことができている。元の池に戻るためにはこの池を出る必要があるが、出れば身体は水へ戻ってしまう、そのような予感があるのだと。

「それはたいそう心苦しいことでございます。可能であれば貴殿の力になりたいところですが、私はただの一修験僧。お力になれることは多くありません。私にできることは修験の旅路の中で貴殿の郷里を探し、時折お話に伺う程度のことでしょう。」

「いえ、それだけで十分にございます。たとえ細い糸であろうとも、望みが一つでもできたのならば心も晴れてくるというものです」

黒の妖怪が空を見上げると、十六日目の月がのそりと山の端から顔を出した時分だった。

「今日はここで失礼いたします。私はこれからワルツを踊らなければいけないのです」

「ワルツですか。またどうして」

「元の池にはパートナー1がおりまして。波が穏やかな月の日にはワルツを踊るのが常だったのです。ほら、元の池に戻った時に踊りが下手になっていては恰好がつかないでしょう」

そう云うと黒の妖怪は体をくるりと回し、池の中ほどまで躍り出る。ゆったりと右の足を引いて会釈をした後、誰もいない空間へ手を伸ばした。


幾星霜経ち、彗山は修験の旅の最中様々な所を訪れた。しかし、黒の妖怪の郷里と思しき場所は見つからない。彗山は旅を重ねるごとに老いていったが、黒の妖怪も回を重ねるごとに衰弱していく様子が見て取れた。

「修験の人よ。私はもう長くない」

黒の妖怪が彗山にそう告げる。過冷却の水は着実に黒の妖怪の身体を蝕んでいた。

「最期に私の我儘を聞いていただきたい。私が物言わぬ存在となった場合、私を元の池まで連れていってはもらえないだろうか」

彗山が答えに倦ねていると、それを悟ったかのように黒の妖怪は微笑む。

「心配をする必要はない。きっと貴方なら分かるはずだ」

そう云うと黒の妖怪は空を見上げる。上弦の月が南の空にぽっかりと浮かんでいる。

「私のようだ」

黒の妖怪はぽつりと云った後、彗山へ一礼し、糸に引かれるように池の中心へ躍り出た。そのままくるりと回ると、夜の明けるまでその優美な動きを止めることはなかった。

翌朝、彗山が目を覚ますと黒の妖怪の姿は池になかった。数日瞑想をして過ごしてみたものの、黒の妖怪が現れることはなかった。望の月が昇り始めたころ、熱された炭が爆ぜるような音が聞こえてくる。彗山は目を開け、音がしたと思しき方へ眼をやると、月明りに照らされた白砂の中に一つ、熾火のごとく耀うものが目に入る。近づいてみれば、紅色の柘榴石が赫灼たる光明を放っている。なるほどと独りごちた後、彗山は吸筒すいづつに池の水を満たす。そして、赤い柘榴石を水の中にそっといれてやった。

「お水の加減はいかがでしょうか」

彗山が声をかけると、かぽかぽと吸筒が鳴り、そのまま静かになった。

この後、彗山は二、三年に一度、阿耨達池を訪れ、吸筒に池の水を汲んでは旅に出ていたが、ここ数年はその姿をとんと見なくなった。彗山が悟りの境地に達してしまったためか、黒の妖怪の郷里を見つけ本懐を遂げることができたのか、それとも道中で亡くなってしまったのか。その理由を知る者はいない。


Tag: tale jp 遠野妖怪保護区
URL: http://scp-jp.wikidot.com/anavatapta

ファイルページ: 阿耨達池

ファイル名: 白い朝.jpg
タイトル: 白い朝
著作権者: 飯豊町観光協会
ソース: Wikimedia Commons
ライセンス: CC BY-SA 4.0
公開年: 2014


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