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第一夜「とある兄と自動人形」
夕暮れ、列車の揺れに自分は目を覚ます。がたんごとん、がったんごとん。乗客のしゃべり声が大きくなると、連られて車両もがったんごっとん。どうやら運転士の気性は少々荒いようだ。乗り過ごしの危機から救ってくれたことを感謝すべきか、折角の睡眠を邪魔されたことを恨むべきか、複雑な思いに自分は顔をしかめた。これから向かうのは帝都郊外。衛生環境、治安、景色、そのどれもが帝都よりもひどく劣る。帝都へ来る地方民にとって最大の障壁であり、夜は本当に大正40年も終わりに差し掛かる世かと疑ってしまうほどの凄惨な光景が広がる。都市へ出稼ぎに来たものの働き口がなかった人々(いわゆる、労働市場の供給過多だ)が、郊外でスラムを形成する……という話を大学で聞いたが、まさにその現象がおきているのだろう。乗っているこの電車も、帝都の駅ではゆったり止まっているが、郊外になると5秒として扉を開けず、そそくさとベルを鳴らして行ってしまう。誰も口にはしないが、態度は言葉よりも露骨だった。
「まもなく────」
発動機と乗客の騒がしさに負けじとがなり立てる運転士。チンチンとベルが鳴る。声は端々しか聞こえなかったが、外を見るに目的地に着くようだ。膝の上に置いていた荷物は手に、切符を運賃箱に置いた。扉が開く。これから自分は死んだ弟の家に行くのだ。
「そちら、イシタニソウイチロウ様のおります帝都新聞社でありますか」
先週、勤め先の新聞社へこんな電話が来た。確かに石谷総一郎とは自分の名前だ。電話を替わって応答すれば、「誠に残念なことではありますが」という枕詞を置いて、電話越しの声は弟である石谷源次郎の訃報を伝えた。
正直、ぴんと来なかった。弟は10年前に親から勘当されて、自分とも疎遠になった。3日会はざればなんとやら、況や10年をや……という感じで、もうほぼ他人なのだ。遠くに住んでる疎遠な顔見知りが死んでも、そこまで悲しむことではあるまい。そんな無情を「お伝えいただきありがとうございます」という一言で隠す。
詳しく聞くに、彼は帝都郊外に居を構えていたそうだ。そこで10年生きて、先週死んだ。親が「他人の遺し物など知らん」の一点張りなせいで、こちらに遺産相続と遺品整理を頼みたいのだという。確かに自分は弟と明確に縁を切ったわけではない。しかし、遺産や遺品は良くも悪くも遺産や遺品。事実上の爆弾を背負わされてはたまったものではないので、先に詳細を訊く。どうやら借金のような面倒事を持っているわけではないらしい。本当にささやかな貯金と大小様々な遺品、そして家だけだそうだ。これで相続拒否したらどうなるのだろうか、そうした好奇心に駆られて、
「断ったらどうなるのでしょうか?」
と訊いてみたら、
「大東京市が接収し、遺品は売却、遺産は市の財源となります」
と返ってきた。帝都のものになるのは道理も道理だ。しかして家族だった男の遺品がどんなものだったのかも知らないで帝都に全部使われるのも気が引けるし、何より世間体というものもある。引き受ける損もほとんどないので、とりあえず相続することにした。
「そういえば、弟はどう死んでいたのですか」
「帝都郊外で死因がわかることはごく稀ですので……」
すこし、気の抜けたため息が出た。
そうして自分は勤め先の新聞社にどうにかこうにか掛け合ったところ、「戻ったら帝都郊外に関して記事を一本仕上げる」ことを条件に土曜の午後と日曜全日の公欠を勝ち取って、今に至るというわけだ。
日は既に落ちて、残陽は夜に抵抗するが、赤は黒に翠、青と変換されて飲まれていく。遠くに見える帝都は、もう電気を煌煌と灯して繁栄を謳っている。対するこちらと言えば、1町に1本あるかないかの街灯が弱々しく剥き出しの土を照らし、掘っ立て小屋とも不細工な箱ともつかない乱雑な家から仄かに火の光が漏れる。靴磨きの少年はいそいそと露店を畳み、婦人たちは足早に自分の家へ帰る。路地裏からは異様な視線を感じる。メモに取った住所と簡易的な地図からすれば、完全に夜になるまでに辿り着ける見込みはない。つまり、これからが最も大変だということだ。
どうかこれ以上、面倒が自分の身に降り掛かりませんように。
そう祈って、自分は走り出した。
夜が、来る。
物陰に隠れる。そっと辺りを見回して、人がいればそのまま隠れる。人がいなければその間に10mほど駆け足で静かに進む。そしたらまた物陰に潜む。これを繰り返す。少なくとも丸腰で堂々と路地を歩くよりは安全だ。ここでのコツは悲鳴も、命乞いも、怒号も、全部無視することだ。正直もどかしい。7秒もあれば半町くらい走り抜けられるのに、毎度毎度隠れる必要があるから5分ほどかかるのだ。そして、聞こえる声が精神を揺さぶる。悲鳴や命乞いはかなり心に来るものがあるのだ。しかし、目を塞いで、耳を塞いで、息をひそめて、じっとして音を立てなければ……遅々としてはいるが、着実に進むことができる。隠れて、進んで、隠れて、進んで……その繰り返し。この調子なら、21時には弟の家に着きそうだ。息をひそめて気合いを入れ直す。周りの人影は先ほど上がった悲鳴の方へ向かう。その隙に駆け出した。10m、いや、この人の空き具合ならもう少しいけるか。そう欲を出したのが良くなかったのかもしれない。
本来なら隠れるべき物陰を横目に、人がいないことも確認して駆け抜ける。そして、次の角を曲がれば弟の家だ。そう思考回路が結論を出したところで、ぐん、と足の回転を止められる感覚がした。あらかじめ決められた動作が正常に遂行されず、そのエラァは転倒という事象につながる。
「あがっ!」
一回転、思ったよりも派手に転んでしまう。膝や顔面に鈍痛を覚えた直後、ニタニタと笑う声が聞こえた。足首の位置に縄を仕掛けていたのだろう。
「おい、獲物がかかったぜ」
「他の奴らが来る前にとっととバラしてずらかるぞ」
ぞろぞろと出てくる下卑た男たちは、どうやら自分を解体していろいろ売りつけるつもりらしい。人体や他人のつけていた義躯は一定の需要がある。闇医者は常に臓器を欲しがっているし、聞いた話では、帝都郊外に出回る義躯は全部他人から奪ったものだそうだ。今更になって全身が粟立つ。鉈が振り上げられる。きっとその刃で首が断たれるのだ。取り抑えられた手足はどれほど力を入れても動かず、目は鉈をただ見上げるのみ。振り下ろされる。反射的に目を閉ざす。
来世は身内の相続とは縁遠い人間に生まれますように───
とか一瞬考えたが、開いた口はまだ諦めきれなかった。「助けてくれ!!」とか、そのようなことを叫んだ気がする。それでも非情な刃は振り下ろされてしまう。
しかし、冷たい金属が暖かい血肉にめり込む気配は一向にこなかった。代わりに聞こえるのはうめき声と殴打音。ふと抑えられていた力が消えて、代わりにぐい、と引っ張り上げられるような力を感じた。
「こちらへ!」
何がなんだかよくわからないが、取り敢えず目の前の危機は去ったようだ。自分をぐいぐい引っ張る力の方向へ走り出した。
逃げる、逃げる、逃げる。脚は定められた調子で路地に音を刻み、肺は忙しく膨張と収縮を往復する。先ほどの男たちはしつこくこちらを追いかけてくる。振り切れない、しかし追いつかれない。そんな距離感でかれこれ5分走っている。待ち受けている罠は手を引く人の動きを真似して全部避け、襲い掛かる人々は手を引く人が全部殴り飛ばして突っ切った。
「ど、どこまで行くんだよ!振り切るならもっと曲がれよ!これまで2回しか曲がってないじゃないか!」
「必要な行為です。ご了承ください」
「だからって、こんな調子じゃ撒けないだろ!ああもう軒並み殴ってるから追っかけがすごい数に!」
「それは誤解というものです。別に、手を放しても構わないのですよ?ご主人があれだけの数を捌けるというのなら、ですが」
「ご主人」?首をかしげながら少しだけ背後を見遣る。無数の目線がこちらを射止めていた。それはさながら肉を目の前につるされた飢えた獣のように。取り押さえられた感覚が想起され、とにかく腕を引っ張る女に頼ることにした。
「……ああもう、わかったよ、じゃあ助けてくれ!」
「承知いたしました」
嫌味を我慢して逃げる夜。雲の切れ目から初めて顔を出した月明かりは街灯よりも心強く街を照らす。そこで彼女は何か気づいたようだ。
「あ、左に曲がります」
「は?ぐえっ!?」
やおら手をぐんと引っ張られて、軽く身体を浮かせつつ左へ投げられ……もとい、曲がった。曲がった先には8尺ほどの大きさもある影ががちゃがちゃと金属音を立て、赤い目を光らせていた。
「姉さま、御助けを!」
彼女は突然低い声でそう叫ぶと、影の立てる音は勢いを増し、「死に給ふ事勿れ」と呟いたと思えば、先ほどの挙動不審な動きからは予想もできないほど機敏なそれで追手に襲いかかって行った。今度は「ぎゃあ」とも「うわあ」ともつかぬ男たちの悲鳴が聞こえる。声が遠ざかっていることから、男たちは逃げているようだ。もうこちらには来れまい。
「……一件落着。でございます」
「い、今のは?」
「状況から、その指示語は先ほど利用した大きな影をさしている可能性が高いと判断しました。説明いたします。あれはアネギクと呼ばれる自律機械でございます。電脳網の文化人が仰るには、『概念的な弟守護装置』とのこと。視界に入った際、画像検索にて得た情報を利用しました」
「概念的な弟守護装置」
「はい。『弟を守りたい』という想いを持つあまり、弟らしき存在はすべからく守護できる機械でございます。私は設計上女声のため、想定された周波数より数段下まで低くしなければなりません。しかしご主人は男性でいらっしゃいますので、特段声に関して努力する必要はなく、先ほど私が言ったように言えば助けてくれるでしょう。この周辺では少しばかり珍しくありますが、郊外全域統計によると一か月での遭遇率は42%だそうです」
今、初めて月明かりに照らされた彼女をみた。冷たい光を受ける黒髪、硬い表情、素肌……黒い洋風の服装は、エゲレスの近代衣装を模範としたものだろうか。10代後半から20代前半を思わせる外見に加え、言葉遣い、ここまでの言動──特に、20貫弱はある身体を片腕で浮かせたという事実──から察するに、彼女が人間ではないことは容易に理解できた。
「自動人形……」
「はい。『初雪』はここに」
「自動人形が、何の用で俺を助けたんだよ。というか俺をご主人とか言うけど、俺は君に見覚えがない」
「……なんと。ご主人ではない?」
「じゃあ、君の主人の名前は何だ?」
この奇妙な事態が仕組まれたものだという懸念もあり、主人の名前を訊く。言えないならばその時点でクロ。自動人形三原則と法令によって、主人の名前を人に言えない自動人形は存在しないはずである。詐欺か美人局か、最善でも良からぬことに使われている一般的な違法自動人形だろう。言えて、かつ自分の名前ならクロ。見知らぬ自動人形に名前が知られているということは、何かしら意図が存在する。シロの可能性があるのは他人の名前を出した時だ。まあ、この場に絶対のシロはないのだが。
「はい。私の主人はゲンジロウでございます。源に次の郎と書き、源次郎でございます」
「俺の名前は総一郎だ」
「では、本当にご主人ではない」
「そう言ってる」
僅かな沈黙。自動人形は明らかに動揺し、視線を落とす仕草をした。
「……そう、だったのですね」
感情を持っているとしか思えないような挙動は帝都でもよく見るが、やはり慣れない。人ではない存在が、中枢電算子の筋書に沿って部品を駆動させているに過ぎないというのに。
しかし、重要なことがその自動人形の口から漏らされた気がした。
「なあ、主人の名前をもう一回聞いて良いか」
「はい。ゲンジロウでございます。源に次の郎と書きます」
……弟の名前だ。そう、声が漏れた。そして、それを自動人形は聞き逃さなかった。
「ご主人の兄なのですか、貴方が」
「……この辺に、弟の家がある。そこへ行こう。できれば案内を頼みたいが……大丈夫か」
そもそも郊外の人口は多い。その分人の名前も被ることがあるだろう。そんな中でたった一人、ハズレくじがあるだけだ。確率で言うなら弟でない方が高い。それに弟の遺品の中に自動人形があるとは聞いていない。どうか他人との人違いでありますように。
「地図の読み込み、完了しました。私が起動した場所と一致します。ルートを算出しました。行きましょう」
……頭を抱えた。大東京市の仕事の雑さと清々しいまでの楽観の虚しさに。夢のような期待は触れようとすればかき消えてしまう、どうしようもないものであった。
「頭痛ですか」
「うるさい。考えることが増えて憂鬱なだけだ」
ああ、どうして楽観や期待というものはこうも脆いのか。もし建築物だったら手抜きが過ぎる。補強工事はまだなのか。手抜き建築と言えば、この弟の家もなかなか心配になってくる。この土地を買い上げた時点で資金が尽きたのであろうことが容易に想像できる甘い造りだ。見かけこそ一階建てのごく普通の民家という感じで郊外の中ではかなりマシな方だが、柱の配置や部屋の間取りが滅茶苦茶である。雨漏りの跡が目立ち、一部の畳は腐っている。カビやコケは生活が想像できないくらいには酷い。にもかかわらず、ゴミが散らかっていないのはこの自動人形のおかげだろう。居間の壁に空いている乱暴な大穴は、そこから自動人形が飛び出したことを示している。
「では、ご主人のお兄様」
「……何だ?」
神妙な顔つきで自動人形はこちらと向き合う。
「ご主人について、知っていることを話していただけますか」
「やめてくれよ……」
こうして弟の家へ来たのは、弟を悼みに来たわけではない。ただ単に世間体を守るための法的根拠に基づく作業なのだ。それを説明すると、自動人形はうつむく。
「君がそばに居たんだろ。俺よりも君の方が知ってると思うけどね」
沈黙。自動人形の表情は変わらず、声色はさらに曇る。
「……私には、ご主人の名前と声紋を除くほぼすべての記録が存在しません」
「存在しない?」
そんなこと聞いても納得できるわけがない。そう言っても、「ご主人の声紋と三原則、臨時規定と基幹制御機構以外は全て初期化されている状態であり、最古の記録は先ほどの再起動時にございます」と返ってきた。
「先ほど?ずっと前から稼働してたわけじゃないのか?」
「はい。いいえご主人のお兄様。私の電池機能の消耗具合から試算すれば、連続して2年は稼働されていた状態にございます。こまめに整備されていれば、最大8年の稼働です」
「じゃあ、なんで今になって再起動したんだ?」
「はい。それは声紋認証が成功したためです。『誰でもいいから助けてくれ』というご主人と思しき声が聞こえてきましたので。その焦燥具合を算出すれば、三原則の第三条、『主人の安全の確保』を実行すべき時だと判断し、緊急の立ち上げを行いました。しかし、人違いでした」
「……つまり、整理すると……」
この自動人形は、多分かなり前から源次郎に仕えていた機械で、ある時電源を落としたか、落とされた。しばらくして、兄である自分の情けない声を聴いて源次郎と誤認、緊急起動して助けに入った……ということか。突っ込みどころというか、訊きたいことが多すぎてどこから掘ればいいのやら。
「わかんねぇ……」
初期化は主人たる源次郎がこうしたのだろうか。だとすれば、なぜ?自身の声紋と名前を残すというのは中途半端だ。初期化するなら全部初期化した方が都合が良いし、それしか残さないのもそこそこ面倒ではないか。考えうる限り有り得そうな可能性を3つほどに絞り込むが、「結局、このことは考えても無駄」という結論に行き着く。
それよりも、このボロ家と遺品、そして何よりこのぽやけたような堅苦しいような顔の自動人形をどうするか、考えなければならない。家は住居としての要件を満たすかも怪しいので解体以外の選択肢はないとして……
と、思考を切り替えた直後である。どんどんどん、と戸の叩く音がした。いや、戸を殴る音がした。時刻は21時半。もう夜も遅い時間だ。
「こんな時間に誰だよ……」
「おそらく、ご主人のお兄様への郵便かと」
「となれば郵便受けは頭で荷物は鉈か斧かな。頼んでもないし頼まれたって言うなら宛先を間違えてる。当局なら即刻処分だなこりゃ」
帝都郊外の夜。真っ当な人間ならまず家で寝息を立てている。戸を叩くということはつまり、そういうことだ。
「お話が早いですね」
「むしろ遅いくらいだ。本当に早いなら、君の世話になっちゃいない」
「なるほど。ではお話が遅いようですね」
「言い直さなくて結構」
「そうですか」
戸が破られるまで気長に待つわけにもいかない。荷物を早々にまとめ、逃げる支度を整え、侵入経路上に箪笥など障害物を山のように重ねて裏口を探す。対する自動人形は正座したままだ。
「君は逃げないのか?」
「私は大原則に基づき行動します。ひとつ、主人を定め、これに従うこと。ふたつ、死なないこと。みっつ、主人の安全を最優先にすること。あなたは主人ではありません。よって、付き従うことはございません。ご了承ください」
「オイオイオイオイオイ……」
すました顔でよく言うものだ。今、この石谷総一郎は護衛が欲しいのだ。この自動人形の言う三大原則は人形三原則と大きく異なるが、原則としている以上それに忠実なのは目に見えている。第三が駄目なら第二で攻める。
「君、この状況から察するに、俺よりも憎悪の対象にされてると思うぜ。なんせ、アイツらは多分君が殴ったロクデナシ達だからな」
「……つまり?」
「君は恨まれている。捕まれば良くて全部初期化の上売り飛ばされるが、最悪鉄屑にされて路傍にポイだ」
「なるほど。では逃げましょう」
さすがに自動人形、原則にかかわることは決断が早い。だが、本題はここからだ。玄関の破られた音が耳を刺す。急げ、急げ!
「そこでだ」
「まだ何かあるのでしょうか」
「協力しないか。君一人、俺一人でそれぞれ逃げてちゃとても保たない。君のバッテリの損耗具合からして全力で稼働すれば何時間で動けなくなる?4時間か?5時間か?夜が明けるまであと7時間はあるぞ。ふたりで別々に死ぬ方法で逃げるより、生き残る可能性がある方を考えようぜ。俺がお荷物なのは1時間だ。君の性能とこの周辺の地理は1時間で把握する。そこさえ乗り切れば、生き残れる見込みはないわけじゃない」
「……了解しました。これよりお兄様と生き延びます」
思いの外乗りが良い自動人形のようで助かった。障害物の山はがらがらどんと突破される。同時に、自分らは裏口から外に飛び出す。人脈も何もないこの一人と一機は、文字通り目に映る者皆敵だ。人のいない場所を見つけ、アネギクのような郊外の怪物を利用する。逃げ回るのは自動人形の役割、土地を把握して判断するのはこちらの役割だ。1時間で一帯の地理と自動人形の動き癖、そして限界を把握して、作戦を立てる。今夜が初対面だからか、なかなかうまくはいかない。思考が多くの時間を割き、咄嗟の判断はしくじる確率が高かった。それに、自動人形はやや血の気が多く(機械なのに!)、先に殴り始めていることも多々あった。啖呵を切った時に言った数字よりも累計で3倍ほどお荷物になった気がする。時には隠れ、時には蹴散らしてその場を凌いだ。必要とあらばゴミ箱の中にすら入った。1ヶ月は郊外でなければどのような場所でも生き延びることができるという気持ちにもさせられた。そうして逃げ回るうちに、いつのまにか空が白んで、街は静かになっていった。
「……なんとか。だったな」
「はい。私たちは夜を生き延びました。顔は覚えられましたが……当面私たちは一目置かれる存在になったことでしょう。これにて、一件落着。でございます」
「その……いろいろすまなかった。俺が来なければ、こういうことにもならなかったのに……」
自動人形の顔が光に照らされる。その光は陽光か帝都の光かはわからないが、真っ直ぐな視線は少し息苦しい。
「同情を、なされているのですか」
「同情?……ああ、するよ。助けるべき人はもう居ないし、助けられたかと思えば人違いだし、目覚めたら記憶はないし、こんなことに巻き込まれるし……」
正直な気持ち、この自動人形に対しては可哀想だと思う。そしてその境遇へ導いた最後のパーツが自分であったという罪悪感も。この自動人形の表情は変わらない。ぽやついていて、どこか堅苦しい表情。それでいて、放たれる言葉には躊躇がない。純粋無垢を隠せない自動人形に、自分は幾許かサンチマンタリズムの虜になった。
「では、私の臨時主人になってくれますね」
「は?」
前言は撤回する。突然思考が遺産相続の時のそれに引き戻された。そうだった。こいつは弟の遺品だ。
「ご主人の情報が不足している今、ご主人については知るべきことは多数存在すると考えました。が、ご主人が逝去された現状では能動的な調査が必要にもかかわらず、原則に基づき行動が制限されます。故に、お兄様に臨時の主人権限を付与します」
「待て待て、死んだ人間に執着することはないだろ」
「原則第一条、主人を定め、これに従うこと。第三条、主人の安全確保を最優先に。これらが実行されたかどうかが不明です。原則実行確認とその評価は、これより後の行動を修正すべきか否かの判断材料になります。そしてこれは、後々信用や誠実という概念的評価の保護、回り回って第二条の遵守に繋がります」
自動人形を保有したことのない人生だからか、ここまで来ると、自動人形の体を装った人間が演じているのではないかとさえ思ってしまう。待て、流されるな。
「事情はわかったが、少し待ってくれ。俺は帝都都心に住んでる。君の相続だけでも大変に面ど……煩雑だというのに、主人になってしまえば簡単には手放せないし逆も然りだ。俺よりも断然乗り気で君を大切にするであろう人間だって沢山いるだろ例えばピグマリオン派とか……だからまだ主人登録は待っておいた方が良いんじゃないかな、なあ」
もはや懇願であった。この現場の目撃者がいたならば、近辺はしばらく噂が蔓延ることになる。きっと噂に尾鰭がついて「自動人形に土下座するボンボンが出た」とか言われるのだろう。しばらくの沈黙。さて、自動人形の反応はというと……
「了解しました。邂逅の経緯、お兄様の素性、そして法的根拠と私の大原則の第一条及び第二条の遂行のため、臨時主人権限を今より貴方に移行しました」
「話、聞いてた?」
全く話を聞いてなかった。いや、逆だ。聞いた上でこれなのだ。もうテコでも動かないと言いたげな無表情に頭を抱える。それよりも「移行しました」とは、もう既に主人として登録されたようだ。こうなるともうお手上げである。引き継ぎで膨大な時間と労力を取られる。まだ三十を越したばかりという若手のため、満足に人を雇えるほどの金はない。臨時とはいえ主人となった以上、体力と時間の双方を鑑みると……このまま大人しく降伏するのが最善であった。
「はじめまして……ではないですが、自己紹介を。私は黒曜式汎用自動人形ホ号33型、機種名『初雪』。声紋及び愛称の登録を実行してください」
こうして自分、石谷総一郎は、この思い切りが良く押しの強い自動人形『初雪』の主人となった。さて、これからしなければならないことが沢山ある。少なくともこの自動人形一機で当分は徹夜が確定だ。
───自動人形は、本当に面倒だ。
第二夜「お願いがあるのですが」
その後の話であるが、取りあえず簡易的な相続手続きを済ませ、「ご愁傷さまでした」という事務的な挨拶で以って大東京市とのやりとりはひと段落した。これから本格的に市とは書類の応酬になるのだが、とにもかくにも、である。これで弟、源次郎の遺品たちが大東京市の小遣いになることは阻止できた。有給は月曜の到来とともに別れを告げ、またいつも通りの一日(実際は相続絡みの書類が重なるため2週間と少しは非凡な忙しさになる)が始まった。
「やあやあ、石谷クンじゃあないか。郊外に行っていたと聞いたが、やや、ちゃんと五体満足かな?臓器は抜かれていないかね?」
新聞社にて早々に話しかけてきたのは、同期の花丸である。中肉中背の自分とは違い、やや瘦せ身で高身長。顔つき、愛想共に良く、その上で気が利く。記者という選抜に選抜を重ねた超弩級の逸材にもかかわらず庶民の遊びすら心得ており、その軽妙な文体はどの層からも好かれる。有体に言えば完璧と呼ばれる男である。最初は胡散臭いと思っていた笑顔も、「数少ない同期として、仲が良いに越したことはないだろう」と距離を詰められて何年もすれば、一応友人と呼んでも差し支えない程度の距離感にはなった。
「ちゃんと無事だよ。ほら、指のひとかけらも取られちゃいないさ」
「ほう……ほうほうほう!どうやら本当に大した怪我もせず生還できたようだ。帝都郊外に行って無傷で帰ってくるとは、社史にも載るのではないかな?初めて無傷で滞在した我が社の記者としてね」
「とはいえ、2日だけだ。先達は少なくとも一週間は滞在してる。それに俺も危うく死ぬとこまで行ったんだし、たまたま運が良かっただけだよ」
おだて上手、褒め上手。完璧な花丸は人付き合いも上手い。きっとこうして政治家や役人連中から情報を引き出しているのだろうか。
「訊きたいことは山ほどあるが……諸々ひと段落したら飲みに行かないか。私も郊外には少々疎くてね。間近で見た景色とやらはとても気になるところなのだよ。もちろん私の奢りだ」
「わかった。落ち着いたときに言うよ」
隣り合う机、それぞれが山のように積み上げられた紙束と手帳に挑む午前8時、1日と半分の後れを取った巻き返しに励む。12時、きんこん、かんこん、と社内に響く昼食の時間と共に、それはやってきた。
「石谷クン、石谷クン、君も捨て置けないなア」
「なんだなんだ、何の話だ」
取材から帰って来た三条がいつもより幾分下心が見える笑顔を見せた。
「君に用のある黒曜のような淑女さんが玄関前にいたよ。いやぁ美人だ。自動人形なのが非常にもったいない。きっと人間だったならいい奥さんになれただろうに」
「自動人形……?」
嫌な予感がして玄関へ行くと、黒曜石のように澄んだ長い黒髪のモダンガールがたたずんでいた。こちらに気が付くと、ぽやついたような堅苦しい顔で一礼する。
近くの定食屋で食事を済ませる。自動人形とは言うまでもなく弟の遺品、黒曜式汎用自動人形ホ号33型。所有権は自分にあるが、大東京市からの認可が正式に降りておらず、弟の家にしばらく置いておくことにした。はずなのだが……
「本題に入ろうか。君はなぜここにいる?」
「はい。説明いたします。改めまして、お願い事があって来たのです」
「いや、そうじゃなくてだな……俺、君に勤め先を教えたか?」
「はい、いいえお兄様。電脳網で情報を入手しました」
自動人形の調査能力、恐るべし。数こそ少ないとはいえ普通新聞記者の名前など普通に調べて出てくるはずがないのだが。
「はぁ……まあいいや。で、お願い事ってなんだ」
「はい。一言で説明いたしますと、『ご主人の生前を共に調べてほしい』という依頼でございます」
正直な気持ち、嫌である。今は人生の中でも一、二を争うほど多忙なのだ。遺品相続の正式な証明書の発行に、自動人形の所有権移行手続き、あの家の解体と登記関係の事務処理、その他諸々と日常の業務。どちらも待てと言って待ってはくれない。日常の業務は会社が、それ以外は市が停滞を許さない。
「今は無理だ、やることがありすぎる」
「郊外に長期滞在、では駄目なのですか。郊外へ来れば、私が事務処理業務を承ります。それに、郊外は現在進行形で不可解の領域。きっと記者であるお兄様のお眼鏡にかなう題材が豊富にございます」
一気に、周囲の空気が変わった。帝都において「郊外」「郊外の住人」とは憐憫と同情、そして穢れの対象である。遠くから見る分には悲劇の観客でいられるが、悲劇が舞台の向こうから迫ってくるのは誰だって嫌なのだ。自分も例外ではない。それこそ法律や条例に行けと言われない限り行きたくないし、近づきたくもない。しかし、今この場に居る人の多くは、「気づかぬうちにその悲劇が視界に居た」という状況下にある。それはもう、一気に空気が張り詰める。
「ごめんおっちゃん、お会計」
一通り謝り倒して、少し多めの金を店主に握らせ店を出る。近くの路地に自動人形を連れ込んだ。
「あのなァ、郊外の長期滞在って正気で言うようなもんじゃないぞ。それは端的に言って『お前、今から手足を失うなり死ぬなりしてこい』って言ってるのと同義だ。あと、自分が郊外出身であることは悟られないようにしてくれ。お前の為でもある」
「そうでしたか。大変な非礼をお詫びします」
素直なんだか頑固なんだか、よくわからない自動人形である。きっと素直ではあるのだろう。それは決して万人に対してではなく、自身と自身に下された命令に対して、だが。
「とりあえず、現時点では無理だ。忙しすぎるし、郊外の長期滞在は論外だ」
「しかし……」
「二週間。二週間くれ。そしたら君はおそらく帝都に来ることができる。それからでも、遅くはないだろう」
「二週間、ですか」
明らかに不服の声色が混ざっていたが、この辺りで戻らなければ。そろそろ午後の業務が始まる。
「じゃあ俺はこの辺で。もうすぐ昼休憩終わるから。またな」
やや強引に会話を切り上げ。そそくさと社内に戻った。
午後の予鈴が鳴った。
「やや、あのお嬢さんとはどうだったかな?」
戻って早々、三条は話しかけてくる。
「俺がそのように見えるか?」
「いや?けれどもあるだろう、ひとめぼれで人が変わってしまう、アレが」
「君が意外に下世話な男だとは、割と衝撃だ」
「そりゃあ心配くらいするだろ、30を過ぎて嫁の一人も取らないものだから。出世できないぞ」
ため息を吐く。良かれと思って言っているのだ。嫁、嫁、嫁……そのようなものは弟が勘当されたときから諦めている。出世も半ば諦めている。この紙束の山が常在の机に向かっているのが性に合っているというのもあるが。
「花丸……君は知ってるだろ。いいとこの生まれなんだから」
「ああ、弟クンが見合い相手の親御さんを殴ったんだろ?あの時は相当話題になったし、まさか同期にその兄が居るとは思わなかったなァ。君は関係ないし、本当に可哀想な話だけどもね。僕が女だったら君の嫁になってたかもだ」
「気持ち悪いこと言うなよ」
「なに、冗談ってやつさ。華族や政治家連中には相手にされないだろうが、君にはきっと良い人がいる。そう信じているよ」
「慰めとして受け取っておく」
「せめて応援として受け取っておくれよ」
軽口をたたき合う和やかな5分間は、本鈴にて終わる。
「じゃ、郊外の記事を書くんだろう?頑張りたまえよ」
そう言って、花丸は席を外す。
「ああ、そっちも脚は大切にな」
本部に常駐する必要がある記者倶楽部にこそ在籍しない花丸だが、独自に人脈を持っているからこそ他社と比べて異質で面白く正確な記事が出せている。華族のコネで有利に立ち回れる、と言ってしまえばそれまでだが、そのためには自分の脚を限界まで使う。以前、そのせいで疲労骨折までしたのだ(車の類は最大限使っていた)。本人は充実した人生だと笑っているが、少し心配になるくらいだ。
しかし、ここは人の心配をしている場合ではない。自分の忙しさを思い出し、己の手で頬を打った。
かちかち、かち、かちかちかち。たん。かちかち、たんたんたん。タイプライタァの文字鍵盤は指にて叩かれる。押された鍵盤はその直下に存在する紙面に、印字された文字と同じそれを打ち込む。紙面は染料によって線を刻まれ、それは集まることで単語となり、文節を成し、文章を構成する。電端は使わない。電端という最先端機器でデータを作成したところで、印刷所がそれを受け取り印刷できるような機材を持っているとは限らないからだ。最先端は、普遍的ではない。帝都の金持ち文化人が趣味でやるような、所謂オタク趣味であるのだから。
たん、かちかちかち、たん。かちかちかちかち、たん。
2時、3時、4時。文字を打ち、案をまとめて、編集へ出す。却下、修正のための赤線と赤字が書き込まれ、その通りに修正する。
5時、6時、7時。日が暮れる。次々と人が帰りだし、多忙を極める自分のような人間が残る空間になった。花丸が帰ってきて、その勢いで会社を出た。次の取材らしい。
8時、集中が切れてきた。動かし続けた手を止めて、思い切り伸びをする。あの自動人形との邂逅から48時間が経とうとしていた。にわかに信じられないが、これが現実であるのだ。芯の通った、しかしてどこか抜けているあの顔がちらつく。黒髪は黒曜石のように透き通った髪。
「なんで初雪なんだ……」
初雪という機種名は、その風貌には似合わないだろう。そう、考えを巡らせた瞬間のことである。
パリン、と、一昨日にも弟の家で聞いたような音が耳を刺した。即ちそれは窓の割れる音。反射的に音の鳴る方を見る。割れたガラスを踏み砕く音は、余りにも帝都に似つかわしくない。社内の人間が「どうした」「何が起きた」とざわめいて駆けつける。帝都の光に照らされて、犯人の姿は露になった。
「申し訳ありません皆さま。緊急の要件のため、こちらの窓を割って入らせていただきました。弁償は後々させていただきます。それと、これからそちらの社員をひとり拉致することをお許しください」
自動人形は自分を抱えた。自分は頭を抱えた。
走る。帝都のきらびやかな街並みを自動人形が走る。小脇に抱えられている自分が若干惨めだ。道行く人の視線は自動人形ではなく、自分に向かっているのも惨めさを加速させた。
「おい、俺を赤ん坊か何かと勘違いしてないか」
「申し訳ありませんお兄様。こちらの方が速いので」
実際、速い。退勤の時間帯である今は人がそれなりに多い。その中を疾走しているのだ。器用なことに人とはぶつかっていない。静と動の切り替わりが激しく、慣性の法則を感じない走りをしているが、こちらにはそのしわ寄せが揺れとなって三半規管を刺激し続けている。
「一体どういうことだ、ワケを聞かせてほしい」
「一言で説明するならば、『狙われています』」
「それは俺か、君か」
「私です。郊外へ帰ろうとしたときに気付きました」
「俺は肉壁か」
「半分肯定します。貴方を連れ去った理由の一つは私に対して不用意に手出しできないようにするためでございます」
「俺の安全が損なわれている気がするんだけど」
「いざとなれば私がお守りいたしますので、ご安心を」
ため息を吐く。自動人形の押しが強いせいか、ひどく振り回されている気がする。
「で、もう半分は」
「はい。もう一つ理由がございます。それは、このような状況を打破してもらうためです」
「はぁ?」
素っ頓狂な声が出た。何に狙われているかもわからないのに、その状況の打破?突然の器物損壊と不法侵入、そして誘拐という犯罪三拍子を決めておいて、まだ自分勝手を決め込むつもりか。
「そんな頓珍漢なことがあるか!!」
ほぼ泣き言であった。
「申し訳ありません。こうなってしまったのはひとえに私が再起動を果たしたことにあります。目的は不明ながら、追手は私の機動をすべて把握しており、帝都の中でも活動できていることが確認できました。そして、私のみを執拗に狙っております。となれば、再起動した私を不快に思うか、私という存在に価値を見出した自動人形を扱う勢力が居ると見て相違はないでしょう」
「君、一体何をすればそうなるんだ!」
「帝都郊外は何でも起き得ます。理不尽の体現でございます故」
「昨日の朝『その辺のごろつきには当分狙われることはない』って言ってたよな」
「はい。それは違えてないと思われます。今私達を追っているのは自動人形でございます。自動人形を使役できるのはそこそこの実力を持つ者と、電脳網の文化人は仰っておりました」
「その文化人、やたら郊外に詳しいな……」
人の海を抜けて、だんだんと建物の背が低くなっていく。
「じゃあ、運悪く俺たちが実力者に目をつけられたってことか?」
「有体に言えば」
ため息が止まらない。郊外に差し掛かっている以上、とりあえずこの状況をどうにかしないことには明日の朝日を拝めないので、考えを巡らせる。いきなり乱暴な入り方をして乱暴な勢いで自分を拉致したという状況がなぜ発生したのか。それはこの自動人形が「悪」であること、そして攫われた自分が「無辜」であることを演出したかったのだろう。赤の他人と自分の区別がつかない、つまり、「自分がこの自動人形の臨時主人である」ということが露見していないなら、演出は功を奏し、「人質を取った」という推測に至るはずだ。その追手が都心部の、武力を行使しうる公権力の者なら必ず襲うことはしない。郊外の勢力でも、公権力が強力に作用する都心部で下手を打ちたくはないはず。要するに、「聖域」たる都心部での狼藉は何者でも躊躇するはずだ。では、聖域の加護を失うこれからはどうすればいい?
「とりあえず、あれから源次郎の家には帰ったのか?」
「いえ。日中は都心部の方が騒がしく人も多いので都心部にて撒こうとしたのですが、全く通じませんでした」
「あんな風に道を走ってりゃあ酷く目立つだろうな……家に帰るぞ。適当な衣類はあるか?」
「はい。ご主人の遺品について私は一切の関与をいたしておりません。お兄様が手を入れていなければ、あるかと思われます」
「わかった。玄関の修理は?」
「完了しております」
処分はまだ行っていないので、あることは確定した。玄関も直っていれば、土日の騒動は色々誤魔化せる。
「自動人形、君が狙われているんだから、帰ったら絶対に見つからないような場所で待機していてくれ。あと撒けないなら家へのルートは最短全速力で。足跡から辿られたら困るから、近くまで来たらどうにか混乱させる足取りで。絶対にごろつき共には手を出すなよ、面倒は避けたい」
「承知いたしました」
小脇に抱えられながら、速度を上げて凄惨な街を駆け抜ける。生ぬるい風は惨い音と陰鬱な臭いを乗せて顔に衝突する。目も碌に開けない状況に、今だけは感謝した。
「まもなく到着いたしますが、ここからご主人の家に着くまで口を開くことは厳禁といたします」
そう声が聞こえたら、大きな音がした。次いで妙な浮遊感。風が下から吹いて、腹の底から衝撃が走る。さらに浮遊感。これは、目を閉じていてもわかる。跳躍だ。跳躍で歩幅を限界まで広げている。帝都ではないから上空に行けば姿を目視することはできない。姿を追うことは不可能だし、そこでうまくかく乱できれば逃げ先を悟られることなく事なきを得るだろう。
上空で、わずかに目を開いた。高度は80尺強、といったところか。自分の会社の屋上よりも高い場所で見た帝都は、暗い海に浮かぶ島のようで、港の場所を示す灯台のようで、とにかく綺麗だった。カメラを社内に置いたままだったことを思い出し、落胆した。今が最高の撮影機会だった。この風景をうまく写真に収められたら、出る場所を間違えなければ日本写真史にも残るだろうという傲慢が出るくらいには良い景色だった。
「良い景色でしょう?」
口は開けない。頷いて答える。
「私もそう思います。さあ、落ちますよ」
落下の衝撃に備える。家まであと少しだ。
「気分悪い……」
源次郎の家に辿り着いたころには、跳躍の衝撃と郊外に蔓延する臭いで腹が陥落しかけていた。実際は休む暇もない。追手のことを考えれば、自分たちは行方をくらましたということになっている。どのような勢力の人間であろうと、周辺の聞き込みをする可能性も高い。ここに居るのは郊外に新しく移り住んできた田舎者、という設定でやり通す。此処は郊外、良心的なあれそれは捨てて、とにかくいい加減な人間の想定で受けごたえをしなければならない。未だ時計の短針は9を指している。居留守や寝留守をすればどうなるかわかったものではない。自動人形には隠れて待機するよう命じて、身もだえしながら着替え、横たわる。畳は一部腐っていて、臭いが鼻を刺す。照明は薄暗く居間を照らし、荒れた息だけが響く。
源次郎は、こんな景色を毎日見ていたのだろうか。だとすれば、こんなに悲しい人生はない。自分の暮らしも花形の職業につけたとはいえ、下働きなものだから良い都心の中でも中の下程度だ。しかし、これは想像を絶する。このような生活でよく10年も生きられたものだと、改めて感嘆した。
喧騒が響く傍らの夜、玄関の戸が叩かれる。痛む腹を抑え、戸を開けた。
「何です?」
「夜遅くに申し訳ございません。実は人を尋ねておりまして」
目に入ってきたのは、黒い短髪で、前髪によって左目が隠れた少女。いかにも大正浪漫然とした、聡明そうな乙女である。こんな時間に堂々と振舞ができるのなら、きっと自動人形か相当な実力者であろう。
「もしかして、具合が悪いのですか」
「ああ、ちょっと、食べ物に当たったみたいで……」
「では質問に手早く答えていただかないとですね」
意外にがめつい。しかし、そのくらいなら想定内だ。もし看病するとか言って家に押し掛けようものなら即興で一芝居打たなければならなかった。
「では質問です。黒髪長髪で、侍従のような自動人形を見かけませんでしたか。小脇に男を抱えておりました」
「いえ、知りませんけど……」
「では、この辺で衝撃音が聞こえませんでしたか?」
「近くで聞こえましたよ、あっちの方で」
「その時間あなたはここで何をしていましたか?」
「便所にこもってたんですよ……そのくらいわかるでしょう?」
「確かにその通りですね。申し訳ございません。形式は守らねばなりませんので」
と、この調子で問答を重ねる。
「ではこれが最後の質問です」
「はぁ……」
気持ち悪さが最高潮に達しつつある。早く終わらせてくれ。こっちの気持ちを察してくれ。
「ここ、つい先週まで他の人が住んでいたんですよね。最近来た方ですか?」
「そうですけど……なんで私のことを訊くんですか?」
さっさと終わらせたいこちらの意思とは関係なく、無垢でまっすぐな瞳がこちらを射抜く。
「あなた、どの方言の名残も感じられません。ここの生まれではないことはその振舞いからわかります。どこから来られましたか?関東圏ならここに来ずとも仕事があるでしょうに」
「……っ」
不覚。郊外は地方各地から流れ込んできた大量の労働力が形成した土地であることを腹痛のあまりすっかり忘れていた。一極集中、人口の集積地であるということは、様々な方言が飛び交う土地であるということを意味する。郊外の更に外側の関東圏は郊外の実態を知っているため、帝都にわざわざ移り住もうとしない。しかし、他の地方の人間は郊外のことなど露知らず、郊外へ積もりに積もっていく。つまり、関東方言、すなわち標準語で喋る人というのは郊外では逆に珍しくなっていた。帝都で一生を過ごしてきた自分は方言をあまりにも知らない。
「……あなた、まさか」
彼女は表情を変えない。きっと自動人形なのだろう。感情の機微が読み取れない。万事休すか。相手の動きを注視する。少しでも動けば自動人形に助けを求める言葉が出るように、喉に声を込める。さて、この自動人形の次の言葉は。
「都心からあぶれてしまった人ですね?」
「……はい?」
「帝都の空気は綺麗すぎますからね。まあ、ここは汚すぎると思いますけど。こんな時間帯に言っても説得力無いですが、郊外は貴方を歓迎すると思います。最初は慣れるのに時間がかかりましょうが、きっと良い場所ですよ」
「か、歓迎ありがとうございます……」
「ああ、それと、この家は注意しておいた方が良いですよ。何せ我々が追っている対象はこの家を中心に活動しています。争いに巻き込まれないためにも、早めに引き払うことをお勧めします」
最後に「お時間取らせてしまいすみません、お大事に」と残して、少女は駆け出した。
「バカでよかった……」
ため息をついた。緊張の糸が緩んだせいか、腹痛は山津波の如く押し寄せる。その夜は、便所にて過ごすこととなった。
朝、ようやく腹痛が収まったころに、自動人形は顔を出した。
「おはようございます。体調はいかがですか」
「あぁ……うん。だいぶマシになった」
冷静になると、考えるべきことがまた増えたことに頭を抱えた。最近は頭を抱えてばかりな気がする。
「まずは会社に連絡しないとだな……なんと言えば良いんだ、『あの自動人形、実はウチのなんですよ』とか言えるわけないよな……帰ったら十中八九警察から色々訊かれるだろうし、自動人形もあの様子じゃ探し続けるだろうし、複数いることは確定している……追い払い続けるのは現実的ではないけれど、どこかへ逃げるとなると……どこへ逃げろと?」
この自動人形は持ち主が死亡した状態で臨時の管理権限をこちらに置いている、所謂「みなしご」の状態だ。持ち主のいない自動人形、しかも未認可のものならば、「知らない奴に攫われた、隙を見つけて帰って来た」でどうにかやりようはある。しかし、これでは相続に影響が出てしまう。法律で持ち主でなくとも管理権限を持つものは責任が存在する以上、簡単に放棄することができない。嘘をつこうとすればどこかでバレる。正直に言えば会社から何と言われるかわからない。
とりあえず、肝心なところは言及しないで誤魔化す。
結局、答えはこれだった。
帝都へ戻る。自動人形には隠れて待機を命じて、新聞社へ戻った。
「ただいま戻りました……」
声を聞いたみんなは安堵のため息をつき、花丸は喜んで飛びついた。編集は呆れ顔でありながら、とりあえず安心したようで、口々によかったと言い合った後、いつもの業務へ戻っていった。自分はと言えば、警察からの事情聴取を済ませて、やっとの思いで自分の作業机に戻った。
「いやあ本当に良かった!君が自動人形に連れ去られたというから、ああ、君は郊外で喧嘩を売ってしまったのだな、それでこうなってしまったのだ……こりゃもうダメかもなと思っていたのだが……君は帰ってきた!」
「あ、ははは……」
「君、一体何者に何処へ連れ去られたんだい?」
「……何者かは分からない。郊外に連れ去られたのは覚えてるんだが……些か懸命に逃げてきたから」
最大の障害は警察であるが、次点では花丸の名が上がる。同じ新聞記者、人から情報を引き出す名手だ。同業者であるだけ、最大限警戒しなければならない。
花丸が訊く。自分が答える。花丸の話は心地よく、思わずなんでも答えたくなるカリスマ性を秘めている。しかし、口車になど乗ってはならない。いい加減な政治家の答弁のように、曖昧な答えではぐらかした。
「────まあ、そんなところだ」
「それは、大変だったね。情報は曖昧でいまいちわかるようなわからないような感触だったけれども、少なくとも君は誘拐された。気が動転してしまえばそうなるのも無理はない。よく帰ってこれたものだよ、本当に」
「あれはもう奇跡の類だよ。次同じ目にあったら間違いなく死んでる」
午後の鐘が鳴る。
「そうかい、また君の武勇伝が増えるね。飲みに行く時が大変楽しみだよ」
「おう、楽しみにしておけ」
花丸はいつもの勢いで外へと飛び出した。直後、「石谷」と唸るような声で呼ばれる。声の主は編集長だった。表情は固く、影で「鉄仮面」などと呼ばれているその顔は、彫りが深く髭を多く蓄えている。中年太りに差し掛かりつつあるが鍛えられた体躯で、威圧感も十分。欧州の諸侯と言われても、何も反論できる要素がないくらいだ。その鉄仮面は、こちらを深淵から観察するような目つきでこちらを見ていた。
嫌な、予感がした。
「というわけで、こちらへ来ることになったと」
「二度と来るつもりなんてなかったのに……」
二度にわたる帝都郊外からの無傷生還。長期滞在からの帰還ではないものの、二度目の帰還は誘拐からの逃走だ。既に会社の周辺では話題持ちきりであり、その生存力と胆力を認めた編集長の「石谷による『帝都郊外冒険録』連載」の企画は、たっぷりの福利厚生補助を伴って通った。否、通ってしまった。
「早速祝いましょう。引っ越し祝い、連載祝いというものです」
何も祝えることではない。しかし決まってしまったものは仕方がない。いつまでも落ち込んでいるわけにもいかず、絶望を怒りに変え、怒りを原動力に行動計画を立てる。
「ええい、畳を張り替えろ、製図させろ、君は建て替え全般を全部全部、全部やってもらうからな!こんな環境で住んでられるか!」
「かしこまりました」
すっくと自動人形は立ち上がる。
「ところでお兄様、その代わりといたしましては大きなお願いがあるのですが」
「わかってるよ、源次郎のことを追うんだろ。俺も追うよ」
「……良いのですか」
「俺に小説家の才能はない。あることをあるがままに書くだけだ。それなら事実の面白さで勝負するしかないだろ」
なぜこの石谷総一郎が5人も採用されれば良いほうで、有って無いような縁故に縁故を伝って履歴書が100も200も届く新聞社に入れたのか。生まれも育ちも大いに関係あるが、最も重要なのは「腹を括ればとことんやる」性分だ。
「俺の弟だぞ、見合い相手の親を殴るようなロクデナシが面白くもない人生送ってたら……その時はその時だ」
面白くない人生を送っているわけがない、そう啖呵を切ろうとしたが、途端に自信をなくす。だが書くと決めたのだ。源次郎のことも追うし、連載も書き切って見せるとも。
かくして自分と帝都郊外の付き合いは、これから始まったのだ。
第三夜「少年」
筆者ニモ驚キノコトデアツタガ、帝都郊外トハ完全ナル無法ノ地トイウワケデハナイ。法律ノ代ワリニ、「日中ハ暴力沙汰ヲ起コサナイ」「犬ヤ猫ニハ絕對ニ手ヲ出サナイ」等樣々ナ暗默ノ規律ガ存シ、皆ソレニ從ツテ生キテヰル。少々野蠻デハアルガ、而シテソノ魔訶不可思議ナ律ハ、帝都郊外ガ自滅シナイ理由デアツタ。
石谷総一郎『帝都郊外冒険録』第2話ヨリ
帝都郊外の朝。男型の自動人形がこちらを訪ねてきた。念のため、合図でこちらの自動人形に隠れるように合図をして、がらがらがらりと戸を開けた。
「こんにちは」
なんとも紳士然とした自動人形だ。郊外にはとても似合わない。
「……おはようございます」
「体調いかがですか」
「おかげさまで」
「そうですか、それは良かった。以前、貴方を訪ねた自動人形がおりましたでしょう」
「あぁ……」
あの片目が隠れた少女体型の自動人形か、と大体の状況を察する。
「あれは指揮者としては優秀ですが、いささか慌ただしくてね。自らが動くとなるとこうしたことを忘れてしまうのです」
と、小さな紙片を手渡された。見れば、住所番地と思しき文字列と電脳郵便の個人番号であった。
「これは、どこの……?」
「我々の事務所の情報です。お母様は自動人形に関すること全般を生業としております。しかしご多忙のため直接本人が応対することは叶いません。そこで、伝票や経理などの事務仕事や応対、営業を多くの自動人形で賄っているのです」
手紙をよこしたり、電話をしたり、電端で連絡を取ったりするだけで十分であり、直接訪ねる必要はございませんと自動人形は言う。
「もし、我々の探している自動人形が現れたなら、ご報告お願いします」
報告してやるものか、と内心では思いつつ、「親切にどうも、そのように報いたいと思います」と口では返した。要件も終わったことなので、と、自動人形は踵を返す。何事もないようで少し安心した。が。
「ああ、そうだ。最後に一つ」
「何でしょう」
「最初の内は誰も信じられず、嘘を吐くことも仕方のないことではございます。しかし、郊外に生きる以上、人付き合いは重要なものにございますれば。信用なるものについて、今一度考えてくだされば幸いです」
心臓が跳ねる。今見抜かれたのか、それともあの自動人形は最初から見抜いていたのか、どうして見抜かれたのか。それはわからない。しかし、少なくとも「自動人形を匿っている」のは露見している。「いつ」「どうやって」、それがわからないのに結果がわかる。わからないは特大の恐怖となって自分の身体を締め付ける。肉食獣がいつの間にか背後にいるときの草食獣の気持ちが理解できた。
「……わかりました」
落ち着け。相手はカマをかけてきただけかもしれない。努めて平静を装い、返答する。それでも声は若干震えていた。自動人形はそれを聞くと、「では」とさわやかに笑いかけ、去っていった。
「……はは」
壁によりかかり、乾いた笑いが漏れた。
「というわけで、これより今後の方針を決めたい」
「後学のために、会話は全て録音しておりました。ふりかえってみますか」
「即刻削除だ。とにかく、これからどうするか。これを考えなきゃならない」
相手が上手かこちらが劣悪か、この際それはどうでもいい。重要なのは、「彼らは自分らのことについて把握している」ことだ。あの自動人形、最後の一言で全ての発言に含みを持たせてきた。
「あれは降伏勧告だ」
確信を持って言う。
「いざとなれば組織一個分の動員ができる、帝都郊外初心者だから情けをかけているに過ぎない、少しだけ猶予をあげるから疾く君を差し出せと言っている」
「それは……困りますね」
困る。そう、困るのだ。この自動人形は護衛役で、居ないとなると仕事に支障が出る。居なくても困らない環境を作れるかどうかすら怪しいのに、おいそれと渡すわけにはいかない。しかし、ここはあの自動人形たちが日々を暮らす場所、箱庭のようなものだ。対するこちらは片や郊外一年生、片や記憶喪失という体たらく。正面からやり合えば、敗北は火を見るよりも明らかである。かといって逃げ続けても追いつかれるのは時間の問題であるし、アネギクのような化け物に頼ろうにも、不確定要素が多すぎて話にならない。「早々に詰み」、そんな言葉が脳裏をよぎって、ますます悲しくなってくる。
「そもそもなんで数ある自動人形の中で君なんだ、帝都と郊外を行き来できるんだから、その辺のヤツ誘拐すればいいだろ……」
「私が有能で頑強で可憐な自動人形だから、では」
無表情は両手を1の形にして頬に当てた。
「自動人形選びは用途によって基準が違うからな。有能で頑強で可憐、この三つを基準にすると歓楽街の業務用になるが……あの業界は新品を好むんだ。華族とか豪商とかのものだったのならともかく、郊外の中古品に執着するとは思えない」
「冗談だったのですが」
「知ってる」
「新しい形の突っ込みを学習」
「その記憶容量はもうすこしためになることに使ってくれ……まずは君の性能と経緯を書き出してみるぞ」
黒曜式汎用自動人形ホ号33型、機種名『初雪』。瞬間最大馬力は1800馬力、中枢機能群はこの時代にしては優秀すぎるほどのものを搭載し、同時演算の許容範囲も広く、並列処理に対して強い。記憶性能及び知能は平均的、しかし、長期的未来予測機能は劣悪……などなど。まとめると、運動性を重視されており、咄嗟の判断はある程度できるものの計画を立てるのが苦手な機体である。軍隊で喩えるなら、参謀ではなく戦車のような歩兵の性能である。電脳網で調べた同型機とはまるで別物だ。おそらく黒曜式というのは基礎がその機種だからというだけであり、中身は在り合わせだろう。少なくとも正規の自動人形ではない。郊外出身の生まれに違わぬものだ。
「それで、君はこの前に目覚めて、活動を開始した。俺の弟源次郎を主人としている遺品で、記憶はほとんどすべてがない、と」
となれば、力仕事ができる機体を望んでいるのだろうか。初期化自体は少し手間がかかる作業ではあるし、記憶喪失状態である自動人形は貴重なのだろう。ましてここは郊外、他人から奪う程度で「記憶は」新品同然のものを調達できるとなれば、動機は十分に思える。しかし、それにしては労力を割きすぎではないか?この自動人形に目をつけ始めてもう3日目だ。そんな時間があれば別の自動人形を攫って初期化すればいいのだ。瞬間最大馬力は正直な話過剰性能なことであるし、調節だって難儀するはずだ。では、突然どこかで運動型の自動人形需要が爆発して、そこら中から奪って回らないといけないほどになったのか。いや、そのような話は聞いたことがない。経済新聞のどこにもそんな記事は載っていなかったし、社内ではそんな話を欠片も聞いたことがない。第一、そのような生産の大流行が起きたときには生産者最大手の東弊舎と流通大手のガラテア商会が黙っていないだろう。ここぞとばかりに安価で大量に供給を始めるに違いない。
となると、源次郎が何かやらかしたことに対する報復、あるいは負債の返済か。そうなればもう何もわからない。源次郎のことがわからない現状、源次郎に原因があった場合、首魁に訊くしかないだろう。
「とりあえず、俺たちに要素を増やしていくぞ。あいつらに無条件降伏するわけにはいかない。そんなことは馬鹿のすることだ。勝てなくても、こちらに有利な条件を整えて和解を引き出す必要がある。そのためにはどうすれば良いと思う?」
「相手の弱点を知り、そこを補うことを条件として妥協していただく、ですか」
「そうだ。あいつらが君に執着する理由は必ずある。それを探るためには、やはり取材と探索しかないだろう」
座しても流れるのは無秩序な噂だけ。確たるものを掴むには、手当たり次第に歩いて訊くしかないのだ。むんずと鞄を掴み、仕事道具をかき集める。
「これから情報収集だ、源次郎のことを調べつつ、ネタ探し。それから奴らとの和解の準備。一石で3羽狙うぞ」
結論から言えば、源次郎についての情報はあまり集まらない。というのも、ほとんどが留守なのだ。焦っていて失念していたが、平日の昼間とは当たり前のように人がいないのであった。かといって道行く人々はあまり他者に関わろうとしない。こちらが話しかけても避けてしまう。喫茶や食堂のような場所を当たってみるが、法外な情報料をねだってくる上にいい加減な情報が多い。
「帝都と郊外じゃ別世界だな……」
「左様にございますか」
「郊外の人間は基本的に四六時中精神が張り詰めている。取り付く島もないとはこのことだ。度胸持ってるやつは隙あらば金をせしめようとするし……」
「帝都ではありえないのですか」
「帝都の人間は基本的にお人好しだから、帝都の人間同士なら警戒心は薄いんだよな。例外はもちろんあるけど。例えば政治家はいつも用心深い。でも、あれはあからさまに拒絶するものじゃない。嘘と安心でできた香りで人をあえて踏み込ませ、そして確実に取り込んで養分にする」
同期の花丸の家系は典型的なそれだ。華族の中でも高貴な身分、いわゆる堂上華族である花丸家は、そこまで身分が高くないにせよ政争が絶えない環境であったという。華族の中に発生している「派閥」同士の争いは、嘘と安心の迷宮を心に作った人間だけを生かしてきた。そうしてきた人間たちは次第に暴力を忘れ、代わりに人を食い物にする生き方を覚えていく。今、華族の間では、「いかに相手を黙らせるか」ではなく、「いかに人を味方につけ、こちらに尽くさせるか」が流行しているそうだ。
閑話休題。特に得るものはなく、次で最後とあばら家の扉をノックする。
「はァい」
「客人かな、強盗かな」
「強盗?夜でもないのにそんなモン現れた暁にゃ、最後の晩餐でもしてやるかね」
「じゃあ、客人が来たら?」
「飲むに決まってんだろ」
「なんだァおめえ、そりゃ飲んでばっかじゃねえかよ」
どっ、陽気な笑い声に気後れしつつ、酒の香る室内へ入った。室内はほの暗く、資料でよく見る江戸の家の作りにどこか似ていた。土間の左手に台所があり、奥には4畳ほどの散らかった部屋。郊外の掟なのかは知らないが、畳は一部腐っている。中心に置かれた碁盤を囲む男女が3人。典型的なオヤジと形容できる中年と、白髪で威勢のいい老人、いなせな女である。そのうち、女が反応した。
「お、いらっしゃい」
「どうも」
「ウチは見ての通り場末のあばら家だよ。「此処を訪ねる者は誰も拒まない」たァ決めてはいるが、人を呼ぶような場所じゃないし、金目のものもこの通りすっからかんさ、飯だって雀の涙だ。夜ならまだしも真昼間だぞ。人違いじゃないのかい」
「いえ、求めているのは情報であって、尋ね人や探し物を目当てにしているのではありません。また、この情報収集は虱潰しでございますので、人違いではありません」
自動人形が割って入ると、女の表情は一変。怪訝な表情が驚きの真顔に、そして歓喜の笑顔へと早変わり。
「おお、クロか。久しぶりだな。おいお前ら、クロが顔出したぞ」
「クロだって」
「見間違いじゃねえのか」
中年も老人も、クロという名に反応し、どたどたとこちらへ寄ってきた。
「本当だ、クロだ」
「久々だなア、一体どれくらい顔出してなかったんだ?ざっと……2週間くらいか。見ないうちに大きくなったか?」
「タケノコかよ」
わいわいと勝手に盛り上がる3人を、自動人形は声を張り上げ制止する。
「失礼ながら申し上げますと、私は未だ名無しでございます。クロとは心当たりのない名前なのですが」
きょとんとして、3人は顔を見合わせた。
「っつーこと言われても、なあ」
「その綺麗な髪、ポァッとした顔、その服」
「これでクロじゃなくてなんだってんだィ」
とことん息の合う3人だ。たしかにこの自動人形は特徴的であるし、人は覚えやすいだろう。今の状況から考えられるのは、「適当言って手持ちの金をせしめようとするいつもの風景」か、「この自動人形はこの3人と知り合いだった」のどちらかだ。酒に酔っていて、囲碁や将棋をやっているこの無害そうな3人に対する信用と疑いは、おおよそ2対8といったところ。困惑気味の自動人形は満足に受けごたえできそうにない。
「まあまあ、この子も困っているではないですか。まずはこちらの質問に答えてもらっても良いですかね」
「アンタ誰だい」
いなせな女は怪訝な顔をした。
「この自動人形の臨時の持ち主です」
さらに怪訝な顔をする。見兼ねたのか、自動人形は会話に割り込んだ。
「ご主人である源次郎の兄、総一郎です。源次郎の死に際し、遺産相続として総一郎に私の所有権が移行しました」
しん、としたあばら屋。今度は驚愕の表情である。これは……手間が少し省けそうだ。
「今……源次郎が、なんだって」
「ご主人は亡くなりました。私の記憶はほぼ全てが消失し、申し訳のない話ではございますが、あなた方のお顔もお名前も、そして源次郎とは何者かも私は存じておりません」
「と、いうわけでして……源次郎のことを訊けたら幸いに思いま……」
「ついに死んだか源次郎ッ」
老人の喝にも等しい声に肩が跳ねる。
「今日は飲むぞ、お前ら手持ちの酒全部出せ」
「くそう、お前さんもご愁傷様だったなァ」
「日頃飲んでばっかだろうがこの野郎ども、それで葬式になるかい!あ、総八郎だったか」
「総一郎です」
どうやらこのいなせな女がまとめ役のようだ。振り返って早々に名前を間違われる。
「今夜はウチで過ごしなよ。どうせロクな葬式やってねえんだろ」
これが平時なら、喜んでそうしただろう。しかし、喫緊の問題に際しては話が別だ。情報を得られたら早く整理したい状況。長居はできないと断ると、「いいわけこわけは要らねえよ、ほら、さっさと酒か肴を持ってきな」と聞く耳持たずな始末。
自動人形は困惑が解けていないようで、主役のように扱われる中でこちらを見る。自分は「とりあえずなされるままに」と肩をすくめた。
10年前までの源次郎という人間は、馬鹿で将来に対する視点が不足し、いつも感覚で生きていた。自分の快・不快に敏感で、不快を感じ取ればあらゆる手段で排除を試みた。しかし、基本的には善人で、あらゆる人間から関心を持たれる存在だった。彼を気にいる人も多くいたが、それと同じくらいに、彼を気に入らない人間も少なくなかった。
では、10年前からの源次郎はどうだったのか。
「カッコいい奴だったよ」
「絶妙にダサいけど、憎めない奴だったなあ」
「漢。その一文字以外に何がある」
「じじ殿良いこと言うじゃねえか。漢と書いて漢、漢!ああ、そういうやつだったよ。カッコいいっつーにはなんか足りねンだよな」
「自分でカッコいいって言ったくせに」
「てやんでいこのオヤジ、やるってのか」
「やらいでか!」
「まあまあまあ……」
酔っている3人の忙しなさは拍車がかかり、情報は一向に得られない。中年と女は取っ組み合いになり、老人は自分へと向き合う。
「なあ、青年」
「はい」
「意外か」
「何が、でしょうか」
「この空気は意外か」
「まあ、意外です」
帝都郊外はロクデナシの街。悲劇が延々繰り返され、奪い奪われを至上とする、陰惨で、野蛮な者のための街。そのような印象を抱いていたからこそ、このような空気に気後れしたのだ。たしかに、平日昼間から働きもせず日常的に囲碁に酒盛りとは確かに都心には似合わないが、ここまで明るい雰囲気は郊外にも不似合いだ。
「源次郎も最初は面食らっていたな」
「源次郎とは、どのような経緯で?」
「2年前。いきなりここに駆け込んできた」
ぐびりと焼酎を一杯。ガラガラの喉で一息つく。
「なんでもやるから頼みごとがあれば言ってくれってな。なんでも、子供一人養うことになったから、とか」
「子供って……」
口ぶりからして、養子だろうか。
「3年間、よく遊んでよく働いてたもんだ。初めて会った時は割と元気がなかったんだが、俺たちとつるむようになってからアッという間にハツラツになってなあ、途中でクロも来るようになって、賑やかだったぜ」
それは酒のせいでは、と思ったが、口に出すのはこらえる。
「何でも屋として熱心に働いていた。どんな難題も必ず解決するって触れ込みでな。実際その通りだったが、依頼人が気に食わないと殴ってたぜ」
こんな風に、と老人の拳が風を斬る。綺麗な回転を効かせた正拳突きだ。素行において源次郎は10年前と何ら変わっていないことに頭を抱えたくなった。
「まあ、殴っても文句が言えないロクデナシ共ばかりだったけどよ。いやあ、スカッとしたんだぜ、アイツの拳は」
また焼酎を一杯。
「源次郎はわかりやすい男だった。後悔したくないから、後悔しない生き方をする。なかなかそれは難しい生き方だが、それこそが粋ってヤツよ。どうだ、お前さんが見ていた源次郎は。そんな粋な漢だったか?」
そう問われると、わからなくなる。素行については確信したつもりだったが、どうだっただろうか。彼は破天荒であった。自分はいつも結果に振り回されて、彼の行動の理由など、知ろうとしなかった気がする。
源次郎が勘当を言い渡されたあの日も、結局「見合い相手の親を殴った」ことに呆れ果て、また、姿を現さなかった源次郎に、もう何かを言う気すら失せた覚えがある。
あれは、後悔をしていなかったと言えるのだろうか。
老人は目を細める。その意図を図りかねた。ここで策を弄するのはかえって分が悪くなるという経験則に従い、素直に答えることにした。
「正直な話、わかりません。私には、弟のことはわかりかねます」
もっと話せばよかったのかもしれない。もっと弟と話せばよかった。荒事を起こした時、親にこっぴどく怒られ、殴られた時、「なぜそのようなことを」くらいのことは言えばよかったのかもしれない。そうでなくとも、何も言わなくとも、そばに居れば何か変わったか。今この場で、確信を持って言えたか。「漢であった」と。
「家族との仲は、微妙だったか」
「……はい」
「そうか」
会話は途切れてしまった。中年は女に投げられ勝負がつく。再度口を開いたのは老人だった。
「何某の日記にもある。『しなかったことで後悔を覚える』とな」
「はぁ」
「この世の誰もが源次郎ではない。後悔しない生き方なんぞ、誰にでもできるものではない。俺たちみてェな江戸からの流れ者は特にそうだ。そうなっちまった理由は、大抵何かをしなかったからだ。まあ、俺は今の生き方が一番楽しいがな」
老人は立ち上がり、女へ取っ組み合いを仕掛けた。敗退した中年は自動人形の隣に座り込む。
「ひぃ、負けた負けた。寄る年波には勝てんか。爺や、無理はすんなよ」
「クロとは、どのような自動人形だったのでしょうか」
「ああ?」
「私には、記憶がございません。クロはなぜクロという名を貰ったのでしょうか。ご主人は、どのような方だったのでしょうか。クロから見たご主人は、私の思い出せないものです」
「クロは、そうだなァ、お前とあんまり変わらなかったよ。ポァッとした顔で真面目なことしか言わねえ。少なくとも、印象はあまり変わってねえな」
自動人形は語らない。表情にも出さない。しかし、雰囲気というものは出せるようで、すこし安堵のそれが漏れているようだった。
「そういや、クロってのはお前の髪が綺麗な黒色だからって話だぜ」
自動人形は沈黙している。どこか落胆の意図もあったか。
「深い理由だと思ったか?」
「……ええ」
「これでもまだマシな方だぜ、最初にアイツが挙げたのは酷すぎて全員でとっちめた」
懐かしむ目つきは中空を見る。
「お前、クロとは名乗らねえのかい」
「クロとは以前の私の名前、ですが、記憶領域に存在しない私を私と定義するには、現在の私と余りにも断絶しています」
老人は投げ飛ばされてしまう。見事な一本背負いは、少しの手加減で落ち着いた着地になった。中年は手を叩き笑って老人を支えに行く。
「そんなに難しく考えなくてもいいと思うけどな」
「私は演算のため、要件や定義、条件が必要です」
「だったら、なんか違ったら違う、違わなかったら違わない、それでいいじゃねえェか。それで、クロって名乗るのはどうなんだ?」
「では……なんか、違います」
「だったら、名前をねだるなり自分で考えるなりすれば良いンだよ。爺や、無理すんなって言ったじゃねえかよオイ」
「老人扱いするってのかテメェ」
「どッからどう見たってそうだろォが。鏡でも見ろ西南世代」
「日露帰りの新兵が言うじゃねえか」
取っ組み合い。愉快な3人は一通り暴れて、一通り疲れて、ひとしきりに倒れ込む。
「なんで死んだんだよ、ゲンジロぉ」
突然さめざめと中年が泣き出した。
「べらぼうめ、良い年したオッサンがオイオイ女々しく泣くんじゃねえやい気持ちワリィ」
「たまたま運が良かっただけだ。10年など、江戸流れなら長生きな方じゃねえか」
「そうだけどさァ」
釣られて他の二人も涙ぐみだす。今度は泣き上戸か、と半ば呆れて、自動人形に帰る合図を送った。腕時計を確認すれば、もう夜も近い。早く帰って情報の整理をしなければ、と、あばら家の扉を開けた。目の前には路地ではなく、軍服と指揮者の燕尾服を合わせたような黒服に身を包んだ、いつかの夜に質問攻めをしてきた少女がいた。にこやかである。
「どうも」
しっかり目が合った。後ろに立つあの紳士めいた自動人形もいることもしっかり確認して、全力で扉を閉めた。が、それを彼女は許さない。
「なぜ閉めるのでしょうか」
「とても嫌な予感がしたからでは不足か?」
「私たちはその中にいるであろう自動人形にようがあるだけです、その自動人形を差し出せば、特に用はありません」
嫌な予感は見事的中。だからこそお断りだ。和解をしろ、双方の妥協点を見つけろ。
「お生憎様、ウチの自動人形は商売道具で借り物なんだ、そんな直ぐに渡せと言われても無理ってやつだぜ、持ち主に言ってくれなきゃ困ってしまう」
「その持ち主はとうに死んでおります」
「そのまま言わないと通じないようだから言うぜ、『無理なものは無理』だ、せめて何か妥協しろ」
「まあ!郊外暮らしも板についてきましたね。ですが───」
凄まじい力で扉が開かれようとする。しかし、今はまだ負けるわけにはいかない。もう一度土間を足で踏み締めて、腰を入れて扉を引っ張る。
「交渉は自身が相手と対等な、あるいは相手よりも有利な時にするもの。この状況下であなた方が切る手札として不適当です」
「じゃあ降伏以外に良い手札があれば教えてくれないか、俺たちはどうしても君達にアイツを売る気にはなれないんだ」
「あるわけがないでしょう?私たちの使命は、その自動人形を回収することにあります、その要件を達成しなければならない以上、和解や講和、まして折衷などまかり通るはずがないのです」
力がどんどん強くなっていく。自動人形も力を貸してくれてはいるが、このままでは扉がもたない。
「埒が開かん。斯様な扉に頼らずとも、あばら家の壁一枚程度────」
「ちょっと、待ちなさい『流星』!」
瞬間、あばら家の扉の隣に魚雷が突っ込んできたかのような大穴が空いた。衝撃波で自分はのけぞり、尻餅をつく。風が吹き、闇夜の海が流れ込んできた。弱々しい照明は、深海を浅瀬に変えた。あの3人組は何だ何だと困惑している様子。
「これでどうだ、『彩雲』」
「……野蛮ですね」
彩雲と呼ばれた少女型の自動人形は肩で溜息の動作をする。
「強硬策で解決できる事例は少ないのに。こうした行動になると短絡的かつ暴力的になるのは流星の悪癖です」
紳士めいた方が流星、少女の方は彩雲というようだ。
「殴った方が速く済んだ事例は過去に5件中3件程度の割合で存在する。殴った方が大抵の場合早いだろう」
「殴ってしまえば穏便に済むことも平穏無事には居られなくなってしまいます。貴方はお母様の立場を悪くしたいのですか。ほら、こうして喋っている間にも────」
相手が舌戦を繰り広げていると認識するや否や、自動人形は最大瞬間馬力を開放し、流星の首へ腕をひっかけ、宙へ浮かし、向かいの家に蹴り飛ばした。がらがらと音を立てて塀が崩れ、流星は早々にがれきの下敷きになる。
「相手は反撃の機会をうかがっているものです」
間髪入れずに自動人形は彩雲にも襲い掛かったが、彩雲は最初から動きを先読みしているかのように避けている。大ぶりな攻撃の隙を縫うかのように少しずつ初雪へ打撃を入れており、鳴ってはいけない音が徐々に甲高く鳴っていった。どちらが優勢か見比べるまでもない。
「あなたは……33型。頭もちょっとだけ良いはずなんですが、その構え、技術、戦術思想。全て素人ですね。戦闘経験が足りません。流星よりは機転が利くようですが、今のままでは不意打ちによる軽微な損傷が精々でしょう。流星を100点とすれば、25点といったところです」
「静かにしていただけますか、演算の邪魔です。それと私の名前は33型ではございません。それは型名の一部にございます」
「それは失礼しました。では名前をお教えいただけますか」
「名前は……総一郎殿!」
「えっ」
「名前をお教えいただけますか!クロ以外で、私の名前を!」
先ほどからの急展開に、自動人形が自分の名前を初めて呼んだことも含めて一瞬混乱した。しかし、今まで「君」呼ばわりで愛称の設定をしていなかったことを思い出す。
この自動人形が、初めて「お兄様」ではなく「総一郎」と呼んだのだ。おそらく自分に名前で呼ばせるための策として。自動人形の策にまんまと嵌るのは正直なところ癪な話であるが、呼ばれてしまった以上、こちらも返さねば人間として名が廃る。
「……ユナ、君の名前は友那だ!」
即興で名付けたこの名前を、友那は口角を上げて受け取った。
「しっかり考えてくれたのでしょうね。後で理由を伺います」
「なるほど、友那。名前を今までもらっていなかったのは意外でありましたが、どのみちその名前も不要になります。お遊戯は終いにございましてよ」
「舌を回す余裕があること、存分に理解しました。間近で見るからにあなたは十分脆いようですね。私が全力で殴ればその場で四散する程度にはッ」
全力の正拳突きは空振り。すんでのところで避けられた。代わりに掌底の打撃を腹にもらう。
「やはりそれが全力ですか。少しヒヤリとしますが、最高速度さえ解析できればなんてことはありません。あなたの今回の失敗は、最初に全力を出してしまったことです。本気は相手が手の内を出し切ってから。これは当たり前、常識の兵法です。そんなことも知らないとは……流星が付いてくる必要はなかったようです」
このままではジリ貧。そう悟って、背後のトタン板を破る。
「べらぼうめ、何してんだこのバカ!」
「御免、姐さん達!後で弁償なり何なりするから!逃げるぞ友那、彼らの狙いは君だ、あまり戦うな」
それだけ言って飛び出した。友那は無言で頷き、足元を強く踏み込む。その反動で起き上がった畳をつかんで、彩雲へ強く叩きつけんとした。
「私がそこまで脆弱と思われるのは困ります」
彩雲は手刀で防ぎ切る。畳がその斬撃にも似た衝撃に液状化したのは、決して彼女の技術によるものではない。
その畳は、酒によってひどく腐っていた。源次郎の家よりもひどく。衝撃で遂に液化した中身がこぼれ出し、彩雲の眼球に覆いかぶさる。目を押さえて呻く彩雲を横目に、友那はそのまま裏の穴から逃走した。
彩雲は目を抑えて「流星、視覚と腕を貸しなさいッ」と、強引に流星の視覚を乗っ取る。一面真っ暗ではあるが、腐った畳の液体に浸された視界より幾分マシであった。
暗闇を作る瓦礫を流星の腕力で強引に除けて、夜の郊外を見回した。瓦礫に埋まった死体を物色しようとした郊外の人々が、その様を見て恐れ慄き、しまいには逃げ出した。それに意を介することもなく、流星は彩雲の元へ駆けつける。
「なにしてたの」
「これだ。あの自動人形は想定していた出力を超えていた。作戦の修正案を作成、今をもって提出する」
沈黙。無線通信で修正案を受け取った彩雲は「理解はしました」と、諦め口調で話をしめた。
「お母様の言いつけがなければ、あんなの壊していたところです」
「調子に乗るのは、彩雲の悪癖だ。ここは流星に任せろ」
「わかってる。私の機能があれば、私はあれらを───」
「おうおうおうおう、俺たちの家の中だっつうのにこんなデカ穴ほがしておいて、それでいて謝罪の一つもなしか。あの源次郎の兄助の方が立派じゃねえか」
女の声がする。流星の視界を借りれば、いなせな女が鉄棒を担いでいた。他にも、中年は歩兵銃を、老人は真剣を向けている。
「詫び酒置いて帰ンな。ここは今葬式中、争いごと全部棚に上げて、仏様とお別れをする時間だ」
「呑んで騒いでが葬式とは、この国では見られない風習ですね」
「それが、彼奴等が帝都からあぶれた原因だろうな」
「これからは夜だ、詫び酒持ってねェ上に言うこと聞けねェ、そんなわがままこくってンなら、命置いて帰ンな」
3人、一歩も退く気配はなく、逃すつもりもない。彩雲は肩で溜息の動作をした。
「だから言ったでしょう、流星。暴力に頼れば、大抵の場合面倒な結果がやってきます」
「全て斃せば全て些事」
今夜も、ロクデナシのための夜が始まる。
第四夜「人形の夜」
帝都郊外トハ、魔窟デモアル。夜ニナレバ人ナラザル者ガ街路ヲ蠢キ、各々ガ理由ニシタガヒ行動スル。弱キ者カラ強キ者マデ、幅ハ広ク、然レドモ決シテ侮ルコト勿レ。
石谷総一郎『帝都郊外冒険録』第3話ヨリ
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