【アブサンの夢共著】タイトル未定

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とても疲れている。

船乗りにとって、死ぬ機会はいつでも隣にある。波と闘い、闇雲に闘い、ふと見渡せば流されているのは自分の身ではないか。はあ。いつもみたく疲れから出る、嫌な妄想だ。

俺は今、財団サイト併設のバーに一人でいる。夕暮れがほのかに潮の香りが漂う店内に影を成している。ヴィンテージと呼ぶには小綺麗なバーだ。タバコや安酒特有の臭いもなく、汚れた体を浄化し切るには物足りないくらいにさっぱりしていた。

店には他に、錨の匂いのする職員たちの各々が伸びていたり、立ち話をしていたりする姿が見える。すっかり赤々と日焼けしたカウンターは、海の勇ましい野心の象徴というよりも、疲弊した俺たちの心を表しているようだった。

筋肉が鉛のように重い。俺はいつものようにカウンターに座ると、これまた疲弊した顔のマスターが裏口から出てきた。軽く目線を交えると、マスターは後ろの棚からいつもの安酒を選りすぐる。その無骨な背中を眺めているだけで、疲れが一気に質量を持つようだ。

海洋オブジェクトの回収任務は、酷い環境下で行われる。まず荒波と揺れる船体は当たり前にあるとする。更に、お前の命を終わらせるためだけに産まれた怪物が、お前を殺しにくるだろう。逃げ場のない、この海の上で。それを俺たちは丁重に迎えなければならない。一切の傷も付けず丁重に、丁重に──

安い酒を一口含むと、酔いは一気に回った。瞼が重くなる。酒は良いものだ。終わりのない生活がいつまで続くのか、そんな不愉快なアイデアと距離を置かせてくれる。それでも、うんざりする現実は消えないままだが。

その時、店の扉がうるさく軋んで、聞き慣れた声が耳に届いた。
「は、お前、こんなところで飲んでいたのか。酷いツラしてるぜ」

そいつは同じ海洋回収チームであり、俺の友人だった。ああ、お前もまるで酷い顔だよ。俺はボソボソと呟く。そいつはよろめきながら席へと近付き、手前で力尽きた。俺の手は慣れたように倒れた浮浪者を引っ張り上げ、カウンターに座らせた。

「参ったね。こりゃあ」
いつものように、友人は引き摺られながら不満を垂れていた。

そうやっていつもの話が始まる。俺もつい愉快になり、やがて互いの任務の苦い思い出を投げ合い始めた。闇の噂が立ち込める港町。異界から流れる漂流物。その他深淵から来るあらゆるコズミック・ホラー。言葉を交わすうち、少しだけ疲れから救われる気がした。

不意に、鈍い音が鳴る。待ちかねたように友人が取り出したのは、薬品を思わせる緑の酒瓶。そいつはニヤリと笑った。

「それは?」

「アブサン」

更に猫みたくニヤついた。続いてポケットから銀の包みを取り出した。掌に乗せたそれからは、強烈な匂いのブルーチーズが姿を見せる。

「お前──」俺が呆れている間に、そいつはぼそぼそと呟きながら、勝手にショットに中身を注いでみせた。一通り堪能した後、「試してみろよ」とそれを俺の方に寄越した。

慎重にグラスを手に取る。アブサンの香りは、まるで海底に巣食う薬草だ。アニスの鋭い甘さと、どこか冷たい苦みが混じる。一口遊ばせると、舌の上でスパイスが弾け、金属が燃えるような感覚が喉に広がった。ブルーチーズの濃厚な塩気は、腐敗と熟成の境界にある禁断の味。噛み締める度にアブサンの刺激と絡み合い、脳裏で奇妙な火種が散った。

「どうだ? 火種を感じたか? 脳の中が水で侵されていくのを感じるか?」
友人はニヤけた。そいつも笑って、アブサンを一口。

奇妙な酒の効き目もあって、話は尽きなかった。任務の愚痴から、上司の愚痴、来週の職員交流会がどうだとか。はは、どうせ上層部が私腹を肥やすだけだろう、連中が共倒れするのにいくつ賭けようか、と茶化しながらアブサンを一杯。そしてチーズと来た。

この奇妙な組み合わせは、「夢の扉を開く」らしい。どうにも。確かに酔いが深まるにつれ、現実が歪む感じがした。かと思えば軽い眩暈。友人の笑い声。自分の笑い声。誰かの笑い。

一服後の笑いも終えると、友人はふらつきながら立ち上がった。

「じゃ、良い夢を」

そいつはアブサンの瓶を残して、転ぶようにバーを出て行った。俺は時計を覗いた。もう2時間は経っていたと考えた。10分だった。

バーの内側は変に生暖かい。不快に蒸されているようだ。俺が汗をかく度、瓶を伝って下へ下へと滴り、ここは現実と離れていく。それでもアブサンの瓶は、ランプシェードの光を不気味に偏光させながら沈黙するだろう。俺は息を飲み、アブサンは黙る。時間だけが流れるのが心地よい。

もし宿に帰っても眠るだけなら、しばらくこうしておいても良いのだろう。アブサンを啜る。もう一度。

気がついたら、海の中を揺蕩っていた。

潮の流れに従って、身体が揺れている。海の中にいるのは何故だろう。ここまでの記憶がすっぽりと欠落してしまっていて、思い出すことができない。何かをしていた気がするが、それが何だったのかも不明瞭だ。

海の中だと言うのに、息苦しさはない。それどころか呼吸ができている。口を開いても海水は入ってこず、酸素が流れ込んでくるだけだ。

不思議だな、というのが第一印象だった。

周りを見渡しても、何もない。魚も、藻も、ゴミも、何一つとして存在していない。寂しい世界だった。ここにいるのは自分一人だけ。音もない空間をたった一人で漂い続けるのは、とても孤独だと思う。誰かいないのか? そう呼びかけようとしたが、声は無数の気泡となって海水に溶けていった……。

身体に力が入らないのに気付くまで、そう時間はかからなかった。海流により、手足は力なくふらふらと揺れる。頭も視界もぼんやりとして、上手く物事を捉えられない。

泳ごうとした。動こうとした。だがしかし、手足はこれっぽっちも動作しなかった。

漠然と、これが夢なのだということを理解した。理解は自然なものだった。積み重なった違和感が集まり、解としての煌めきを示すようなものだと思う。

──ああ、だから海の中にいるのか。だから、身体が思うように動かず、思考も視界も不明瞭なままなのか。夢。全ては夢だからこそ、こんなにも不可解なのか。

示された解に納得していると、目の前に一つの、それも巨大な魚影が現れた。影は段々とこちらに近づいてきている。なんなんだ。ここには何もないはずではないのか?

心臓の鼓動が早くなった。背筋が冷たくなり、呼吸も乱れていく。焦燥、不穏。何か仄暗いものが背後から迫ってきていると錯覚するような心理体験。怖がっている。目の前の影の正体に、逃げられないというこの現状に、強い恐怖を抱いている。

影が迫る。ああ、俺を食う気なのか──

しかし、影は俺の目の前で止まった。よく見ると、コバンザメ程度の体躯を有したクジラがそこにいた。

クジラは動かない。つぶらな瞳で俺を見つめながら、真正面の位置で静止している。口を開けて俺を飲み込むこともなければ、鰭を動かすこともない。

何もない空虚な顔で、ただ見つめてきている。

本当に真っ平らで空虚な顔だった。それはなんとも形容しがたく、捉えどころがない。海の中、微動だにせず互いの顔を見つめあっている。

それがなんだか不気味だった。心の中がぞわぞわする。クジラは何かを伝えようとしているのだろうか。それともなんだ、凶事の予兆だとでも言いたいのか。クジラはこちらを見つめ続けている。目を離すことはなかった。

水中なのに冷や汗が伝う感覚がした。逃げたかったが、本能が動いてはいけないと告げる。

このまま眠り通すしかないのか……。

奇妙な夢を見ていたからか? それとも、夜更かしか? 酒か? どうとでも捲し立てられるだろう。目が覚めるとソファの上に投げ出されていた。シャワーも浴びないままだ。午前1時。暗い天井だけが見える。

身を起こすと、隣に置かれたブルーチーズとアブサンの瓶が目に入った。それらは微かな月明かりに揺られていた。昨夜の記憶はおぼろ気だが、暗澹とした、あのクジラの視線は頭から離れようとはしなかった。それは間違いなく惨い事象だった。一瞬胸騒ぎが起こったが、全く気のせいだった。

酷いことに、今日の仕事は全く以て身が入らなかった。まるで力が入らない。しかし幸いにも、日常は不吉な予感を裏切るかのように平穏だった。マニュアルに従ってオブジェクトを回収し、ことは終いだった。全ては上手くいった。

帰り道、友人は言った。
「はは、良いもんだろう。アブサンってのは」
そう笑ったが、その目は笑っていなかった。

そいつは早々に帰り、結局俺だけが残された。突如として視線を感じ、体が硬直するように思えた。しかし辺りは無人であり、それはいつもの疲労から来る症状だった。サイトに降り注ぐ夕焼けは、平穏そのものだ。疲労だけが確実性を持つ。

今日もこのままバーへと寄って、癒されることなく眠ることになるだろう。家へと帰り、またソファに倒れ込んで。その瞬間、アブサンが脳裏を過ぎった。過って、ただそれだけだった。今は。

また海の中を揺蕩っている。昨日の夢と同じだ。

ということは、まさか。何かを思い出したかのように顔を上げる。そこには小さなクジラがいた。二日連続で同じ夢を見るとは珍しいこともあるものだ。

クジラは俺を見つめ続けている。昨日の夢と変わらない。少しも動いたりせず、ただ淡々と俺を見つめ続けている。気味が悪かった。背中に悪寒が走る。一体なんなんだ、こいつは。俺に何か恨みでもあるのか? なんて考えながら、その場で漂い続けている。

──逃げなければ。

頭では理解しているのに、身体が動かない。水中だからだろうか。水やその流れが行動を阻害しているのか。もしくは、単に疲れているからなのか? 今日は一日中疲れていた。それが夢のせいなのか、酒を飲みすぎたからなのかは分からないが、とにかく疲れていた。もしかしたらこの二つの要因が重なっているのかもしれない。

とにかく、動けない。

クジラは俺を見つめているし、俺はクジラを見つめている。次第にクジラが得体の知れない怪物のように見えてきた。一種のアノマリーかもしれない。そうだ、起きたらサイトに連絡を取らないと……。

それからどれくらいの時間が経っただろう。分からないが、あまり時間は経っていないように思う。夢の中での時間は、現実世界では一瞬にも満たない。引き伸ばされた時間の感覚を味わっている。この思考ですら、現実世界ではコンマ数秒以下の瞑想なのだろう。ああ、疲れた。もう目を覚ましたい。寝ても覚めても疲れが取れない。

こうなったきっかけはなんだ。考えて、すぐに思い至った。

アブサン。同僚から貰った奇妙なハーブ酒。飲むことで不思議な夢を見るというのはこういう意味だったのか。

あの時の会話を思い出そうとする。僅か十分間の会話。体感時間は数時間だったが、実際にはそんなことのなかったもの。でも、思い出せない。曇りガラス越しに見る光景みたいにボヤけてしまって、目的の記憶を探し出せない。唯一想起できた言葉。それは──

「じゃ、良い夢を」

何が「良い夢」なのか。疲れが溜まって、寝た気すらしない。

その時、視界の端からゆっくりと細長い影が漂ってきた。深海のゴミか……何かだろうか? 俺は嫌に慎重になっていた。影がこちらへ近付く度、少しずつ明瞭になる。不吉な予感がした。

俺は見張った。間違いない。同僚から貰ったアブサンの瓶そのものだ。瓶のラベルも、中に収められた液体の残量も、全てが本物と同一だった。海上から差し込む光が偏光して、不気味にでらでらと光っている。どうしてここにこれがある?

瓶に手を伸ばす。しかし、身体が硬直してしまった。手足が上手く動かない。瓶は手の先から離れていって、海の底へと沈んだ。暗所へと落ちていく様子を、俺は黙って見ていることしかできなかった。

そんな中でも、クジラは俺を見つめている。

クジラを見ていると鼓動が早くなる。心臓がどくどくと拍を打つ。胸が苦しい。ぎゅうと締め付けられる感覚がある。でも、その苦しさの中にも心地良さはあった。夢だからだろうか、不思議な気分だ。

そのクジラは、どの仕事でも見たことのないものだった。海洋アノマリーの収容任務に従事する以上、海棲生物は多く目にする。それはクジラも例外ではない。資料や体験を通じて世界各地のクジラを見てきた。だが、俺はコイツを知らない。夢だから、種類などないのかもしれない。俺がクジラを見つめる。クジラが俺を見つめ返す。

海面から差し込む光が不気味に揺れる。水の生暖かさとその光が、奇妙な緊張感の後を引いている。

突然の恐怖が目を覚まさせた。飛び起きると、そこは自室だった。汗は冷たく、まるで海水のように背中を濡らしていた。天井がぐるぐるとして視界は歪んでいる。体は火照り、内側から燃え上がるようだ。バーに入った後の記憶が全くない。体がベタついて気持ちが悪い。また風呂に入らなかったのか?

時刻は午前2時。体を起こそうとするが、疲れがまるで抜けていない。丑三つ時の沈黙は、やけに気味が悪い。ベッドの端に座る。沈黙が不愉快だ。

誰かが俺を見ている。

部屋は不気味な青い光に満ち、静けさが波を作っている。頭痛の導きがごく自然に、机の上のアブサンの存在に気付かせた。

疲れから出た怒りの矛先は、アブサンという荷物を押し付けた友人へと向いた。今度恨みの一つでもぶつけてやろうか。今は気力すら湧かないが。

もう一度夢へ舞い戻ることなど望まなかったが、仕事までに少しでも眠るためにもう一度横たわるしかなかった。目を閉じる直前まで、俺はアブサンの瓶を見つめている。それは誘っている。笑っている。アブサンのラベルが、こちらを見つめている。

交流会は、いつもの財団併設のバーで催された。当のアイツがアブサンを俺に差し向けて来た場所だ。

仕事終わりのような、ある種のノスタルジックな雰囲気は無かった。十数人がこじんまりとした様子で集められている。規模の小さい宴会では、ヒノキは安っぽく野暮ったいイメージしか与えない。昼下がりの安酒の入り交じった匂いは、無性に腹立たしかった。

俺の足取りは数人のスタッフの問いかけを無視した。

「おい」

社員交流会の大勢の中に、俺はそいつを見つけた。気取った格好のそいつは、異国人との会話を切り上げてこちらを向いた。その手に持たれたグラスには、アブサンではない酒が揺られている。

「何のつもりだよ」

「おはよう、夢見は楽しかったか?」

途端に、尋常じゃない程の眩暈が襲い掛かる。レッドカーペットの赤黒さが、うねりを描くように見えた。

「あの、あの酒は一体何だよ?」

「は、お前、酷い顔してるぞ。病気か? 気でも悪いのか? すぐそこに医療スタッフが──」

思うように言葉が出ず、俺は奴の肩を強く押していた。奴のアブサンではない酒の注がれたグラスは滑り、安物のスーツにシミを作った。奴の上げた顔には、不信の視線が宿る。

緊張からか脇が熱される。火傷するほどに熱いのに、交流会の人々は何ら無関心だ。

「質問を質問で返すなんて、まるで鏡とでも話しているみたいだな」
友人は乾いた笑いを送った。その目は笑ってない。

交流会の静けさが、異様な緊張を作っている。俺は沈黙して、睨み付けることしかできなかった。

「お前が黙ると俺たちも黙るんだ、そうだろ?」
目は笑ってない。

零れた酒はカーペットを侵し、それらはより水々しく見えた。俺が口を開こうとしたタイミングで、そいつは話し始めた。

「だからアンタにはあれが必要だったんだ」

気が付くと友人の掌には新しいグラスがあり、緑の液体が揺られていた。それは培養液を想起させる。
「この薄暗い日常から脱出するためのスパイスだ。ある種の刺激を外から与えるような、夢の扉のノブみたいなもんだよ」

友人のグラスから海面が揺れるように溢れ、一滴のアブサンが滴り落ちる。足元の広大な海のようなカーペットへ。海に一滴のアブサンを入り混ぜたとしても、それは海いっぱいのアブサンになるだろう。
「良い興醒めにもなっただろうに」

耳を澄ましても、交流会は静かだった。足音も、グラスがぶつかり合う音もしない。囁きも、笑い声も、グラスに液体が注がれる音も……注がれる音?

「それで、夢見は楽しかったか?」
友人から笑みがすっかり消える。

「お前は……狂っている」
体が疲れてきた。疲労の波が一気に押し寄せる。呼吸の仕方を忘れたみたいだ。
「い、異常事態だ、今すぐお前を突き出して、本部に連絡を……」
内ポケットをまさぐるが、そこには何もない。携帯も、財布も、遠い昔に友人と取ったエージェント登録証さえない。

「夢見は楽しかったか?」
奴のグラスのアブサンが揺れる。
「帰るんだ」

嘘だ。嫌だ。

友人のグラスから更にアブサンが溢れる。アブサンの染みたカーペットが淡い夕陽に照られ、海水に巣食う薬草の香りを醸し出した。潮の匂いはなかった。乾いていて、青臭くもあった。ノスタルジックな雰囲気が蘇った気がした。

その手を離せ。

大気が水平線のように輝いて、それは絶望感を表していた。俺は逃げ出した。体が重く、思うように足が回らない。頭が働かなかった。交流会の光景は、横目にずっと長く見える。いつものバーよりも、ずっと横長に。

交流会の人混みは、マッコウクジラが列を成して縦に眠るようにも見えた。

俺は思わず飛び起きた。

今もなお、俺は天井を見つめていて、クジラは俺を見つめていた。

部屋は水で満たされていて、青く不気味な明かりで照っていた。

気分が悪いみたいだ。もう少し眠ることにする。

きっと今、俺は眠っているのだろう。

また水の中だ。身体は泥のように疲れ切っていて、拘束されたように動かない。手足を微動させることすら叶わず、その場で漂っている。

ここが自室であるということは辛うじて理解できた。俺はソファに横たわっていて、机の上には奇妙な雰囲気を持つ酒瓶が置かれている。部屋の照明がゆらゆらと揺れる。光が波になって目に到達した。

部屋の奥から、いつもの如く、影が近付いてくる。その度に心臓が鼓動する。鼓動はどんどん大きくなっていく。俺の中で心臓が動いている。それも、はち切れんばかりに。

どくん、どくん。

水中に心音が響く。なんだか不思議な気分だった。響いている心音は懐かしい子守唄のようにも聞こえる。母親の声とも捉えられるし、オルゴールのメロディとも思える。なんとも形容したがいノスタルジーが身体にまとわりついて離れない。

クジラがやってきた。ヒレを自由自在に動かし、水をかき分けて泳いでいる。クジラはこちらを見つめながら、アブサンの瓶が置かれた机の前で静止した。その双眸で俺をじいっと見つめている。

ふと、クジラが現実なのかと思った。俺は夢で、クジラこそが現実。いや違う。俺が現実で、クジラが夢だ。いや、本当に?

仕事は水中で、酒はクジラだった。いや、アブサンの瓶が水中で、俺たちの仕事はクジラだ。そうじゃない。アブサンの瓶は夢で、夢はクジラだ。違う、違う違う違う。

思う通りに思考がまとまらない。酩酊しきった頭では考えることも叶わないというのか。それとも、酩酊したと思い込んでいるだけで、実際は正常なのか。分からない。何も、何も分からないままだ。仮に俺はクジラだったとして、仕事で、水中で、アブサンの瓶で、夢だ。ああもう訳が分からない。最初から全部虚構だったのか? 俺がおかしくなってしまった可能性は? そもそも俺は実在しているのか?

クジラは俺を見つめている。何の思慮も持たない、虚ろな眼で、ただ。

嫌だ。そんな目で俺を見るな。やめろ。どっかいけ。消えちまえ。心の中で思ってもクジラに伝わるわけもない。そもそもクジラなのだから人語を理解できるはずがないんだ。駄目だ駄目だ。これじゃ、俺は──

腕が動いた。咄嗟にアブサンの瓶を掴み、それを呷る。

夢なら覚めてくれ。現実なら終わってくれ。

クジラは俺を見続けている。その目は限りなく無だった。哀れみも同情も、何もない。俺はアブサンを飲み続けた。空になった瓶を噛み砕いて咀嚼した。何度も何度も噛み、大口を開けて飲み込んだ。その瞬間。

──ああ、そうか。

ようやく理解した。なんだ、案外簡単じゃないか。そういうことだったのだ。口から漏れ出た空気が、声にならぬ気泡となって水中を漂う。

「俺が、クジラだったのか」

薄暗い、地下深くの室内。仄かな緑色に照る水槽に映った、俺の顔が見返す。本当に真っ平らで、空虚な顔。


tale jp 共著 アブサンの夢



ページ情報

執筆者: four Boretto
文字数: 9377
リビジョン数: 29
批評コメント: 1

最終更新: 09 Feb 2026 06:07
最終コメント: 19 Jun 2025 03:03 by four Boretto

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