暗闘
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──人類が健全で正常な世界で生きていけるように、他の人類が光の中で暮らす間、我々は暗闇の中に立ち、それと戦い、封じ込め、人々の目から遠ざけなければならない。 -管理者

先天的に特異性を保有する者は、財団が言うところの光の中で暮らすことはできない。生まれ時からすでに窮屈な暗闇の中に身を置くことを余儀なくされているのだ。財団にはそういった人達を正式に雇用する救済事業機関としての側面がある。監視や定期的な検査の受診が永続的に義務付けられる為、実質的には雇用という名目の準収容なのだが、それでも最低限の人間らしい生活は許容されていた。

無論それは対象の雇用のメリットが特異性の危険性を上回っていればの話である。


2006年、冬。東京都葛飾区立石。深夜。
財団のフィールド職員、エージェント・滝沢は入り組んだ小路の中を歩いていた。

滝沢は二日前、日本に拠点を置く蛇の手の傘下組織に潜入中のディープカバーエージェントから、情報を手渡したいという緊急連絡を受けていた。早急な対応を求めていることから、極めて重要性の高い情報と思われた。
人気のない洞窟めいた薄暗い路地を進み、滝沢は指定されていた合流地点に向かっていた。その裏路地の最も長い通路の中央で、情報が内包されたレターボックスをフラッシュコンタクトで受け取る手筈になっていたのだが──

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──そこにディープカバーエージェントの姿は無かった。

何か想定外の事態によって、合流が困難になったのだろうと滝沢は直感した。情報の渡し手が合流直前で危険を察知し、受け手との接触を先延ばしにする、というのはよくある話だ。そのようなことを思いながら、滝沢がその道を通り過ぎようとした時、内ポケットに入っていたカント計数機1がそれを引き止めるようにして震えた。取り出して確認してみると、それは、その場の空間現実性強度に若干の変動性があることを示していた。

空間現実性強度の持続的な微差変動。それは現実改変の典型的な痕跡とされる現象の一つだった。変動の周期と振幅から、その場で改変が行われてからそれほど時間は経っていないらしいということまでが分かった。
滝沢がカント計数機の示す改変の起点、先ほど自分が通り過ぎた道に目をやると、街頭の光を赤橙色に照り返す小さな金属片を見つけた。

それは0.15kg程のベリリウム銅合金の板だった。財団エージェントの皮下に埋め込む個人識別用IDタグの部品に使われているものだ。ベリリウムは元々内部現実性強度が高い金属であり、現実改変の影響を若干緩和する性質を持つ。そのため、現実改変でエージェントが丸ごと消滅してもベリリウムを含む部品はこのように残ってエージェントがそこにいた痕跡になったりする。

(ディープカバーエージェントは合流地点に来なかったんじゃない。合流地点に到着した後、何者かの現実改変によって消されてしまったんだ)

現実改変者を暗殺に使う。蛇の手の傘下組織ならば十分にあり得る話だった。実際、現実改変は暗殺と相性が良い。非常に強力な上、武装は必要ないし、証拠は何も残らない。滝沢が発見した現実性濃度の変動性も、時間が経過すれば完全に無くなってしまうものだ。
滝沢がそう思い至ったところで再びカント計数機が震えた。カント計数機が感知したのは滝沢の後方10mの地点に存在する大きな現実性の歪みだった。滝沢は肩越しに背後を振り返って、奥の暗闇の中に立つ、何者かの影を見た。それは、確実にこちらとの距離を詰めてきているようだった。滝沢はすぐさまその反対方向へと駆け出した。

現実改変者には幾つか種類が存在するが、今回のそれは現実性異常型と呼ばれる最もありふれたタイプだった。この世の正常性を保つ「現実性」には強度という概念が存在し、現実性異常型はその強度をある程度操作することができる。周囲の現実性強度を下げ、自分の体内の現実性強度は高めることで、外の現実を自身の表層意識に描いたイメージで塗りつぶすことができるのだ。

しかし、それは決して万能ではなく、遠くのものや、知覚できていない対象には影響を及ぼせないという欠陥も存在する。そのため、敵対的な現実改変者への対応には遠距離からの不意打ちが定跡となるのだが、それはこちらの存在が対象に気付かれてないことを前提としている。そのほかの策は対現実改変者用のユニットなどに頼るものになるが、それらは常備できるほどコンパクトなものではなかった。現実改変者と会敵した場合、常人は逃げる他ない。

路地は迷路のように複雑に入り組んでいたが、滝沢はこの付近のマップ情報を事前に頭に叩き込んでいた。この路地は曲がり角と細かな分かれ道が多く、追っ手を撒くのに適した作りになっていたため、相手が現実改変者とはいえ逃げ切るのはそれほど難しいことではないように思えた。暗殺者を煙に巻くため念入りに回り道をし、滝沢は表通りに脱出するためのルートを全力で駆け抜けていく。

しかし、路地を抜けるための最後の角を曲がった先で、滝沢の足は止まってしまった。

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表通りに通じていたはずのその道は粗雑な造りの壁によって塞がれていた。無論、滝沢が記憶していた地図にこんな行き止まりは存在しない。あるはずのないその不自然な壁は、対峙する滝沢を嘲笑うかのように正面から暗い重圧をぶつけてきた。

(あらかじめ退路を絶っていたのか)

暗殺者は人1人を跡形もなく消滅させる程の力を持っていた。この程度の物質を生み出すことができても不思議ではない。他の抜け道も同じように壁で塞がれているだろう。滝沢は辺りを見渡したが、暗殺者から身を隠すような空間はどこにも見当たらない。来た道を引き返せば、こちらを追ってくるそれとかち合ってしまう。完全な袋小路だった。

(逃げ場がない)

滝沢がそう察すると同時に「カツン」と、すぐ背後で足音が鳴った。暗殺者はすでに改変の有効範囲にまで滝沢との間合いを詰めていた。滝沢は振り返ることなく、ゆっくりと両手を挙げ、抵抗の意思がないことを示した。だが、暗殺者がそれに構うことはない。暗殺者は、ディープカバーエージェントにそうしたように、目の前の標的が消える現実をイメージした。それだけでエージェント・滝沢という存在は音もなく、何の痕跡も残さず、その場から直ちに消失してしまうはずだった。

だが、そうならなかった。

現実は変わらず、滝沢は未だに両手を挙げたまま突っ立っている。予想外の出来事に戸惑いながら、暗殺者は再び目の前の男が消えて居なくなるよう強く念じた。しかし、それでも滝沢はそこにいる。暗殺者の発揮した改変力は、見えない何かよって完全に打ち消されていた。暗殺者は静かに狼狽え、恐怖した。全能の力が唐突に失われてしまったのかと錯覚し、嫌な汗が全身から噴き出る。そして、理解不能の現象に暗殺者が一歩後ろに下がろうとした時、全てが静止した。

暗殺者の目に映る全てのものが運動を停止させ、あらゆる音はピタリと止んでしまった。暗殺者の視界には静止画のような映像が映り続けている。暗殺者の体も同様に、自分の体が石になってしまったのかと感じるほどに、身動き一つ取ることができない。
そんな空間の中で、滝沢だけは平然と動いていた。滝沢は降伏を示していた両腕をいつの間にか下げ、ゆっくりと暗殺者の方に振り返ろうとしていた。

暗殺者は何度も何度も、頭の中で目の前の男が消えるように祈った。しかし、それに現実が応答することはない。恐怖に唇を震わすこともできず、ただただ目の前の男が振り返るのを見ていることしかできない暗殺者は、その男と目があったタイミングで、周囲の空間ごとひしゃげた。


ここはとあるサイトの食堂。エージェントや研究職員が集う憩いの場。今はランチタイムで人が多くやや騒々しい。そこでB定食を食べていたエージェント・滝沢に声をかけたこの白衣姿の男は、現実改変の専門家で滝沢の「管理」を担任している職員だ。首から提げている職員証には「現実性異常対策室長官」の文字がある。

「滝沢くん、さっき審議会から連絡がきました。無罪だそうです」
「本当ですか?ああ、助かりました。ありがとうございます土橋博士」
「どういたしまして。そちらにも後で連絡が行くと思いますが、先に詳細を聞きますか?口頭になりますが」
「ええ、お願いします」

ここはとあるサイトの食堂。今、滝沢と話をしている白衣姿の男は、現実改変の専門家で滝沢の「管理」を担任している職員だ。首から提げている職員証には「現実性異常対策室長官」の文字がある。

「まず、ディープカバーエージェントから情報を受け取るという本来のあなたの任務は、結果的には達成されたと結論付けられました」

裏通りでの一件の後、暗殺者は滝沢が呼んだ収容スペシャリストたちによって回収され、近くのサイトに無事移送された。暗殺者が生み出した壁も突発的鉱害への対応を装ってその晩のうちに撤去され、あの一件は物の見事に無かったことになった。
ディープカバーエージェントから受け取るはずだったレターボックスは暗殺者が所持していた。暗殺者と同様にボロボロになっていたが、内包されていた情報は何とか復元することができた。その内容は、今後のアジア圏での蛇の手の動きを推し測る上でとても有益なものだった。

「まあ、それは今回の審議の本題ではないので詳細は割愛します」
「はい」
「で、本題は。あなたが自己防衛のために許可なく自身の特異性を行使したか否かです」

滝沢は正常な人間ではない。彼は財団では準現実改変者と呼ばれる類の有特異性職員である。準現実改変者とは内部現実性強度のみが基準値よりも高い人間のことを指す。現実改変者とは違い、外部現実性強度は基準値で維持されているため、素の力だけで改変を起こすことはできない。低現実性環境や現実改変者の周囲などに立ち入らなければ、有害的なアノマリーは引き起こすことはないため、他の種類の有特異性職員と比して収容房入りが免がれやすい傾向にある。

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