あの時ほど、Dクラス職員でなくてよかったと思った時はない。少女の持ち帰ったカメラやマイクで、自分が指示を出していた男の大雑把な特徴を把握できたが、20年経った今でも、男の事は思い出せないままでいる。
忘れられるとはどんな気持ちなのだろうか。それは身をもって体験しないとわからないことだろう。少なくとも、私にはわからない。ただ、そこに想像を絶する苦しみと恐怖があることは容易に分かる。だからこそ、あのDクラス職員の行動には敬意を表する。その男の勇気ある行動に救われた少女は、今では財団職員として立派に働いているのだとか。喜ばしいことだ。
「通してくれ」
目の前の警備員は何も言わず扉を開ける。私は扉をくぐり、例の百貨店に入った。中は不気味なほど静かで、実験当時の姿とまるで変わりない。
制限時間は三分以内だ。それ以上はいけない。私には妻も今年から高校生になる息子もいる。愛する妻と息子のためにも、時間は絶対に厳守しなければならない。次に来た時、私が身寄りのない老人になっていたなら、彼と放送を変わってもいいかもしれないな。財団は許しはしないだろうが。
「聞こえているか?」
誰もいない虚空に向かって、私は声を張り上げた。だが返ってくるのは静寂のみ。もとより返事など期待していない。ただ聞こえてたらいいな、くらいのものだ。
「君が救った女の子は財団の一員として立派にやっているぞ」
そういえば彼は何歳だったのだろうか。ひょっとすると、すでに私のほうが年上になってしまったのかもしれない。残酷な話だ。私たちが年を取り、朽ちていくのに、彼だけは一人取り残されたまま。御伽草子の浦島太郎みたいに、仮に出られたとしても外はもう自分の知る世界ではない。子供の時は何とも思わなかったあの話が、今ではひどく恐ろしく感じられる。
「君の姿形はわからないが、君の勇気ある行動を我々は知っている。覚えている」
「君の想いは、あの少女に受け継がれ、彼女の子供やその子孫に引き継がれるはずだ」
「記憶には残らなくても、君は、君の想いは消えない」
よくこんなクサいセリフを吐けるようになったな、と一人自嘲気味に笑う。時計を見ると、もうあと数十秒しかない。私はどうしても言いたかったことを、四階にある放送室に届くように、声を張り上げて言う。
「我々は君を忘れない」
ふう、と一つ息を吐き、私は扉に向かって歩き出す。心は晴れやかだ。言葉は届いてなくとも、私の想いは届いたはずだ。なぜだかわからないが、何となく、私はそう思った。
ジ、ジジ…
少しのノイズと共に、その言葉は私の耳に届いた。
『…アンタの想いは確かに受け取ったぜ。オッサン』
目に浮かぶ涙をぬぐい、私は放送室を後にした。
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