エージェント・海野の顔 [改稿キャンペーン]
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 サイト-8181のやたらめったに広い通路は、窓もない。諜報機関の工作員として正式に雇用されて一年ほどが経ったある日。少しの暇を利用して廊下の散策をしていると、
「あの、」
 不意に後ろから、若い男に声をかけられた。
「はい?」
 振り返ると、狐面が左の掌をこちらに向けていて、ぼくはぎょっとする。
「エージェントの──海野うんのさん、ですよね……?」
 ぼくの顔を見るなり、男は人違いをしでかしたのではないかという疑念に駆られている。当然だろう、ぼくの顔を一発で覚えられる人などついぞ会ったことがない。
 白衣の左胸に職員証が見え、ぼくは眼前の人物が虎屋という上席研究員だと知った。諜報機関の職員は、基本的に職員証のようなすぐに人定される代物を外に出さない。どこでこの博士がぼくの顔と名前を一致させたのかはわからないが──ぼくは友好的な表情を作って、職員証を取り出す。
「合ってます。ぼくが海野です」
 ああよかった、と虎屋博士は息をつく。くぐもった声音に、ぼくはふと思い当った。見たところ何の変哲もない構造をした仮面だが、あれでは蒸れるんじゃないのか。
「……なにか?」
 自分の顔をやたらと真剣に覗き込む変な新人に、博士は怪訝そうに首をかしげた。ぼくは慌てて「何でもないです」と告げて、話の先を促す。そうですかと簡単に納得した博士は、持っていた紙袋をごそごそと探り始める。
「どれかな──実は、海野さんに見せたいものがありまして」
 ぼくに? と聞き返すと、虎屋博士は「ええ」と一瞥をくれて、再び眼下の紙袋を探る作業に戻ってしまう。
 この博士は、ぼくのことを以前から知っていたらしい。諜報機関に出入りしている科学者はそう多くなく──そして、この男はその中にはいない。紙袋から得物を取り出すのに難儀している博士を見るうちに、ぼくはようやく思い当たる。
 あの唐揚げのオリエンテーション。認識災害という精神汚染に関する講習会で、とびきり奇特な講演をしていた博士だ。数十人いた新人の一人であるぼくが、この上席研究員に認識されていたとは思いもよらなかった。いったい、何を見せようというのだろうか。
 なかなか探し物が見つからないらしく、所在無く虎屋博士のつむじを眺めていると、携帯が鳴る。
「──はい。海野です」班長からの連絡だった。現場の作業班が何か掴んだらしい。「虎屋博士、申し訳ないのですが」
「ああ、すみません。お仕事入っちゃったみたいですね」
 では後で、と残念そうに虎屋博士は会釈する。それを尻目に、ぼくは一目散に廊下を駆け出していた。

 


 

 始まりは、数ヶ月前にさかのぼる。  
「どうです?」
「あー全然ダメだわ。ほら、何にも分からない」
 西塔は使えないポラロイドを放り投げ、あわててぼくが受け止める。こちらのことなど意にも介さない先輩エージェントは、ゆるみきった様子で望遠鏡をのぞきこむ。
 それは、一つの監視対象に固定されていた。都心から少し離れた立地に位置する、七階建ての雑居ビル。一階は文房具会社のテナント、二階には公認会計士事務所、三階には旅行代理店───そして四階に、問題の政治団体が入居している。21世紀にもなっていまだ現存する国粋主義者団体は、最近になって代表者の名義を変更した。
「三川十七ねえ……いかにも偽名だ」
 顔のぼやけた写真を、ゴミ箱代わりになって久しいポリ袋に放り込む。あの男の顔面に張り付いた異常性が、写真撮影にNGを出しているのだ。写真だけではない。映像はもちろん、スケッチも不可。彼の顔を描画するあらゆる手段が封じられている。
 そんな状態で約二週間、こうして狭いアパートで張り込みを続けていた。時折様子を見に同僚が来ていたが、この部屋の惨状を目にすれば途絶えがちになるのもわかる。そんな苦行みたいな作業を共にする相棒は、切れ長の目で中空を睨んでいる。
 エージェント・西塔。西塔さいとう道香みちかというフルネームで、人々はようやく彼女が女性なのだと知る。鋭利な双眸は獰猛な印象を与え、無頓着な服装は独り身の男を思わせる。中身も外見とさして変わらず、ぶっきらぼうで面倒くさがりときている。年上の後輩である僕に対しても、こちらが頼む前からタメ口を利いてきていた。
 俗物な人格とは裏腹に、彼女にもやはり厄介な事情というものが存在する。詳しいことは聞かされていないが、この二週間を過ごしてわかったことがひとつあった。
 たぶん、前の人格のほうがよかった。
「……やっぱり、誰かしら送り込むしかないんじゃねえかな」
「ぼくが行きましょうか。郵便配達役か何かで」
 それもいいけどよ───西塔は吸い殻が積み上がった灰皿を足で追いやって、気怠げに親指を外に向ける。
「そもそもどうして、あいつを追わなきゃならないんだよ」
「理由なんて聞くだけ無駄じゃないですか」
「くだらん右翼団体追ってなんになる。アノマリーを持ってるような様子もねえ。おかしな男一人だろ。とっとと収容チーム派遣して拉致すればいいだろうが」
「あのカナヘビさんが本気なんですから、ただ者じゃないんじゃないですか」
「そうは言うけどよ」
 ぼくは曖昧にほほえむしかなく、西塔はますます無気力感に身を預けていってしまう。
 和室の畳はやけに丈夫で、敷物を敷いていないとすぐに痺れてくる。飲み物を取ってきます、といってその場を立ち、冷蔵庫を開ける。中には空っぽになる寸前の烏龍茶しか入っていない。たったこれだけ残して、自分が飲み干したのではないとでも主張するつもりなのだろうか。
「……買い出しに行ってきます」
「おうよ」
 西塔は自腹を切ることを無言のうちに求めていた。班長から捜査費用でもらった財布が、見渡すところどこにもない。もちろん横領なんてまねをこのエージェントがするはずはないが、どうにも最近の様子を見ているとその自信も揺らいでくる。
「なにが欲しいですか?」
「チューハイと裂きイカ」
「ユンケルとサンドイッチですね」
 ちょうつがいが掠れた音を立てて、薄いドアが開く。仲春にしては日差しが強く、僕は少し表情を険しくした。一日に数分しか外の空気を吸っていなければ、こうなるのも当然かもしれなかったが。
 ユンケルとチューハイが入ったレジ袋を提げながら歩いていると、監視中のビルへ郵便配達が一人入っていくのが見えた。
 咄嗟に電柱の裏に身を隠し、出てくる人間の容姿を見定める。資料にあった、ほかのテナントに出入りのある人間ではない。となれば例の団体に関連する人間かもしれないが、その割には気になる特徴があった。身長は普通の男だが、首周りの筋肉がどうにも普通の鍛え方には見えない。歩き方には隙がなく、戦闘教練を受けた人間のそれを思わせる。
「西塔さん。今入っていった奴の顔撮ってもらえました?」
「ああ」
 照会の結果が出るまでは少しかかった。諜報機関の人工知能徴募職員AICが弾き出した奴の正体は、日本で活動する世界オカルト連合GOCの工作員であるという。
「そろそろこちらから動いていったほうがいいのかもしれませんね」
「今までが無駄に慎重すぎたんだよ。こうなるって分かってたはずだろう」
 忌憚なく指導部の方針を批判した先輩エージェントは、どこからともなく捜査用の財布を取り出してきた。
「さっそく取り掛かる前に、これで一杯ひっかけよう」
「そういうのは、終わった後にしてください」

 

 ぼくらが追っていたのは、三川みかわ十七じゅうしちなる男だった。
 本名不詳。旧帝国陸軍少佐。参謀本部第2部第8課(参謀総長直轄第13班)に所属。彼が機関長を務めた特務機関・三千機関は蒐集院と協力関係にあり、異常性物体の蒐集およびそれを軍事転用することを目的としていた組織とされる。詳細な資料は散逸。降伏した独伊の異常性物体蒐集のために欧州へ赴き、それ以降行方不明。現在生存していれば97歳。
 要するに既に死んでいる。
 そのはずの人間の名前が、例の国粋主義者団体の代表に使われた。話としてはそれだけなのだ。だが、不可解なことにサイト-8181諜報機関はこれに対し"作業"を始めた。
 ここまでで、わかったことがいくつかある。特務機関長の当時から知り合いであったというエージェント・カナヘビや大和博士は、彼の顔が『認識できない』という異常性について知らないと証言している。このことから、この男の持つ異常性が──ぼくのように──生来のものではないことは明らかだった。
 もっとも、異常性自体はほかにもある。確かに、彼の顔を写した写真や動画を見ても、ぼくらは彼の顔を認識できない。しかし、それが適用されるのはあくまでも首から上にだけに限られており、袖や裾から覗く手足は視認することができる。そして、どう見てもそれは、97歳の老人のものではなかった。
 明らかに彼は老人ではない、せいぜい20代の青年なのだ。無論、ぼくらは彼が三川十七を騙る別人である可能性を考慮した。カナヘビたちに彼の行動データを渡し、本人であるかどうかを確かめさせるという試みも行った。
「三川やな、こいつ」
「何も変わってないな」
 口を揃えてそう言う彼らの顔は珍しく真剣で、当初延長に告ぐ延長を誰もが覚悟していた捜査会議は、瞬く間に終了した。そしてその彼らでさえ、三川十七の顔を思い出すことはできなかった。三川の持つ相貌失認の能力は、過去にさえも干渉するのではないか。そんな推論がなされたが、今のところ証明には至っていない。

 

『作業班が団体構成員の一人を確保しました』
 その連絡が虎屋博士との会話を途切れさせてしまった、あの電話である。元公安出身者たちが、公安に成りすまして参考人を確保する。そんな奇怪極まる状況の中でへまをやらかした構成員には、心底同情したいところだ。だが、こちらとて尻尾をつかむのに必死だった。
「なんだ、あんたら」
 明らかに警察施設とは異なる取調室に連れてこられ、構成員の顔は恐怖に歪んでいた。白髪頭の60代半ばの男は、筋金入りの右翼活動家らしく、渉外部門の取り寄せた公安のファイルには、20代の始めに██████████会に入会して以来、ずっと反米保守でやってきた、とある。諜報の側でも一応マークしていた人物であるため、当然蒐集院ともつながりがあり、いくつかの未収容オブジェクトに関与の疑いがあるようだった。本人に自覚はないようだが。
「これは、聞き出すよりかは『言わせた』方が早くありませんか」
 班長にファイルを返しながら僕がそう言うと、壮年の元調別1は難しそうな顔をした。許可取ってきて、と左手で電話の形を作った班長に軽く会釈して、ぼくは財団専用端末を取り出す。工作担当監督官オペレーションズ・ディレクターからゴーサインが出るまでは、少し時間がかかるかもしれない。それまでに尋問で結果が出れば"処置"の適用は取り止めになるだろう。
「班長、申請は出しました」
「……いいだろう。後はお前らの手腕に任せる」

 

 結局、"処置"は実施された。まあ当然かと納得したぼくをよそに、班長は苦虫を潰したような表情でいる。「倫理委員がうるさいんだよ、これ」事情を聞いたぼくにそう答えた班長は、早速処置に関する報告のために電話を取り出した。
 "処置"の結果、判明した事実が一つある。三川十七の顔は、この男に認識されていたのだ。作業班の間ではやはりそうかという感想が支配的で、行動確認作業の段階でそれ自体は既に十分に可能性として検討されていたことだった。
 三川十七は自分の異常性を制御している。選択的に異常性を行使して、普通に生活を送りながら我々による調査を阻んでいるのだ。行確の際に、団体構成員たちが三川の異常性の影響を受けている様子が見られなかったことは、やはり偶然ではなかった。
「───"処置"により、あの構成員は我々のエージェントとして活動させます」
 班長がしきりにうなずいて、ええ、ええと繰り返している。時限的な記憶操作と、人格再構成の技術によって仕立て上げられた即席エージェント。頭の中身を総とっかえされた男は、当分あの右翼団体で活動することになる。
 この工作に関する作戦立案は主に西塔によるものであり、彼女は本作業班の副班長だった。
「倫理的ハードル同士を天秤に掛けた結果があれです。むざむざ貴重なフィールドエージェントを失うことはありません」
「お前はその比較自体が倫理的ハードルを越えていないか考えなかったのか」
 あと、人命というものはみな等しく貴重だ───という班長の訓示を聞く西塔の表情に、動揺の二文字はない。というか、本人自体には悪気はないのだと思う。確かに判断には一定の説得力がある。ゼロ2のように個人責任の原則なんて嘯いたところで、見つかったら逮捕されるどころではすまない要注意団体相手に、そんなものは通用しない。
「監督官は一応作戦を承認した。無駄にだけはするな」
 捨て台詞のようにそう言い残して部屋を後にする班長の背中を、西塔は物言わずただ睨んでいた。鋭い目つきがこちらに滑ってくる。───擁護しろよ、ということらしい。
「あ……明日から、頑張りましょう」
「ああ」

 

 記憶処理医の協力であっという間に完成した即席エージェントは、あっという間に三川に見破られた。団体施設に送り込まれたエージェントは、しばらくの間無言で三川に見つめられていた。それはまるで、彼の視神経に相乗りしているぼくらまでをも見通すかのような瞳だった。
 そして三川はエージェントに対して二、三身を案じるような質問をする。何のことはない、体の具合や、趣味の競馬の調子を聞いた程度だ。エージェントはよどみなくつ自然に受け答えをした。完璧、そのはずだった。
 その数時間後。奴は団体からエージェントを追放した。三川はどうやってか、構成員が洗脳されていることに気が付いていたようなのだ。
「どうしてバレたんでしょうね……」
「知るか、そんなこと」
 西塔も、今朝から随分機嫌が悪い。差し出したコーヒーカップは見向きもされず、湯気はどんどん薄くなっている。
 しかし、この失敗で最も動揺しているのは今ここにはいない──サイト-8100に呼び出しを食ったらしい──班長だ。倫理委員会にお伺いを立ててまで執行した作戦が、こうも見事に失敗しては、立つ瀬がない。
「あの即席エージェント、どうするんです?」
「最悪終了だな」
「そんな」
「冗談だ、まあ悪くてDクラス雇用、良くてセキュラ処置だろ」
 セキュラ? とぼくが如何にも無知そうな発音をしたことで、西塔は説明する気になったのか、私服のジャージのポケットから手帳とボールペンを取り出して、さらさらと英語のスペルを綴り始める。
「Secularizationで、セキュラ処置」
「還俗……つまり解雇ってことですか」
「そうだ、人格はまた別人になるけどな。こうなったら、わたしたちが乗り込むしかねえだろ」
「簡単にいってくれるな、西塔」背後には、いつの間にか班長がいた。これいいか? と西塔の前にあったコーヒーを承諾を待つまでもなく飲み干すと、乱暴に椅子へ腰掛けた。「話が幕僚部に行くほどの騒ぎになってるんだ」
「幕僚部って……日本支部理事会のですか」
 あの胡散臭いサイト管理官──エージェント・カナヘビの肝いりで進められた作戦は、すでに最上級監督職員たちの関心を惹いている。にわかには信じがたい話だった。大規模な要注意団体の影も見えない、単なる亡霊を追うような任務だと断じていたのは、どうやら誤りだったらしい。
「ああ。詳しい話は後々だが、諜報機関内で専従の機動部隊を結成する動きもあるらしい」
「ヤマを横取りされるのは気に入らないな」
 西塔は、ぼくがさっきからずっと冷ましていたティーカップにすっと手を伸ばし、奪い取る。そしてぐいっと一息に流し込んだ。
「熱い」
 
 
 
「なんでしょう、報告とは」
 初めて入ったサイト-8140の大資料室は、思いの外小綺麗だった。もっと埃を被って暗い倉庫のようなものかと考えていたぼくの予想は、もはや失礼に当たるだろう。部屋の主である種子島たねがしま調査員の怪訝そうな顔が出迎えに来ることは予想済みであったので、あらかじめ職員証を見せて本人だと確認させる。
「お待ちしていました。ついてきてください」似合わないカイゼル髭をたくわえた猫背は、別段悪くもなさそうな脚をかばうようにステッキを突く。機械化された書架の林立する大資料室の中で、彼の姿は時代錯誤という言葉を体現するようだった。「本職も調べを進めていたのですが──少し分かったことがありまして」
「はあ」
 この20代半ば──外見はどうみても3、40だが──の調査員は、この大資料室をほとんど一人で回している。この歳にしてOSINT3に関する高いスキルを有している青年は、確か、内調4出身だという噂を聞いたことがあった。年齢的に一体いつ入庁していたのか、その件について彼が沈黙を破ったことはない。
「参謀本部の資料を徹底的に洗いましたが、どうしても三川十七のいた機関の情報は拾えませんでした」
 意図的に削除された可能性がある、ということを付け加えた種子島は、部屋の一番奥のスライドドアの前で止まる。室内なのに中折れ帽を被っている調査員は、職員証を懐から取り出した。彼も諜報機関の職員は大抵、内ポケットにしまっておくことが多い。
「海野さんは、確かクリアランスレベル3でしたね?」
「ええ、まあ」
 渉外部門との兼ね合いで一応レベル3を下賜されていたことを、いまさらのように思い出す。
「それはよかった。煩雑な手続きが要らないですむ」
 種子島はドアに内蔵されているカードリーダーと複合型の本人確認装置───指紋、虹彩、顔の三つを一度に要求される───を通って、スライドドアの中に入っていく。ドアは種子島を通すと瞬く間に閉じ、ぼくにも再度同じ手順を踏むことを求めてくる。収容室でもないのに随分と厳重な警戒態勢が敷かれているが、一体何の部屋なのだろうか。
「……おや、随分かかりましたね」
「なんか顔認証がエラーを起こしちゃって……」
 あと一度間違えたら保安を呼ぶという警告まで出してきた本人確認装置は、自らの顔認識機能のエラー状態を確認して回復すると、一言の謝罪もないままにドアを開けた。おかげで、ぼくは釈然としない面持ちで入り口をくぐらされた。
「少しお待ちください。ここに所蔵されているのは基本的に禁帯出なんです。───今回は特例ですよ」
 種子島はそう言って、真っ暗闇に浮かぶコンソールで作業を始める。
「うっ……」
 照明が一挙に点灯し、思わずぼくは目を伏せてしまう。やがて光に目が慣れてきてあたりを見回すと、そこは巨大な基地のような空間だった。異常な大きさの書架がずらりと並んでいる様は壮観で、まるで巨大なコンテナターミナルにいるかのような錯覚さえ起こさせる。ここから最深部まで優に20メートルはあるだろう。
 家屋サイズの書架群の間では、自走式のスタッカークレーンが待機している。主人がなにか指示を与えると、ガシャン、という大きな音とともに起動して走り出した。
「ここは全自動書架検索室です。日本支部の集めた機密資料のほとんどは、この中にバックアップが取られるんです」
 黄緑色のスタッカークレーンが、パトランプを回転させながら近付いてくる。それを背景に、種子島は誇らしげにぼくに向き直った。大都市郊外のサイトというだけあって、小規模な地上施設という印象のあったサイトー8140だが、認識を改めなくてはならない。
「さて、届きましたね」
 スタッカークレーンは、かなり小さいプラスチックのケースを勢いよく降下させ──地上目前で急に減速し、主人の位置をトレースして届けにくる。種子島がにこやかにケースを受け取ると、クレーンはその巨体を折り曲げて、休止状態に入った。
「で、その文書はなんなんでしょう」
「一冊は、蒐集院の内部資料です」
 ケースを開いた種子島調査員はいつの間にか白手袋をしていて、慎重に冊子を取り出す。
 『蒐集物覚書帳目録██████████番』と書かれた数枚に及ぶ報告書は一枚一枚ビニールのカバーに入れられており、腐食も少ない。ここです、と種子島が指さした部分を見ると『蒐集者・三千機関』と書かれている。
「恐らくカナヘビたちが言っていた特務機関でしょう。これ以外にも数点の資料で名前だけは出てきています」
 つまり詳細なことは載っていなかった。徹底された秘密主義ということか。
「では、もう一つの書籍は?」
 これですか、と種子島は少し勿体ぶるようにゆっくりと一冊の本をケースの中から引き上げる。これまた古い本だ。だが装丁がビニールで覆われてはいない。こちらは要注意団体の内部資料ほど重要性が高くないということだろうか。
「8課の人間の書いた手記です」
 見れば昭和██年初版発行と書いてある、市販されていたの本のようだ。受け取ってページをさらさらとめくってみても、どこかしらおかしな点などもなく、ただの本だった。特務機関出の大尉が自伝をまとめて出版したものらしい。このサイトは、こんなものまで所蔵しているのか。
「あんまり売れないで絶版なんですがね、ここです」
 種子島はページを暗記しているのか、ぼくの手の上に本を載せたまま数ページさかのぼりはじめる。当惑するエージェントに構いもせず、ページ真ん中辺りの一文を指さす。
『わたしの友人の三川という者は三千機関という機関に属し、しょっちゅう色んなところを飛び回っていた。なんでも、奇妙なモノを集めているという話だった』
 これだけ──という言葉が喉から出掛かったところでこらえた。わざわざこんな大掛かりな資料室にまで連れてこられて、見せられたモノはたまたま名前が出てきたというだけの本二冊とは。
「なんだか、物足りなさそうな顔してますね」
「いえ、そんなことは」
「まあ情報量としては貧弱です」
 その点に関しては、ぼくと認識を共有している。
「……ですが大事なのは、この著者がまだ生存している可能性がある、ということです」
「本当ですか」だとしたら重大な発見だ。三川十七を直接知っている人間から情報を聞き出すことができる。「著者の名前は」
鳥居とりい三省みつよし、元陸軍大尉の男です」

 
 
 8日後までには、鳥居三省との直接的接触が認可された。同時進行で基礎調査──プロフィールデータの構築が行われ、鳥居三省の現在の住所や、妻が数年前に他界して一人暮らしであること、二日に一回訪問介護を受けていることなど、彼の生活に関する詳らかな種々の情報が出揃った。
「今回はぼくが、軍事雑誌記者として近付きます」
「ほう」
 西塔はぴくりと右眉を上げて、物珍しそうにぼくの顔を見つめてくる。鋭利な目は相変わらず見る者を威嚇しているが、今は少しそれが緩いようにも思える。長期に渡って進展のない作業に、徐々に疲れがたまってきていた。
「とうとう海野自らか」
「機会があればぼくが行くつもりでしたから」
 顔を覚えられないという特徴は、潜入など身分詐称が必要な場面では大いに役に立つ。収容作業中の隠蔽工作の時も、僕は潜入専任のエージェントとして現場に向かうことがある。警察官として接触した人間に、3分後には郵便配達員として再び接触するなんて芸当だって可能だ。
「じゃあ」
 西塔に別れを告げ、サイト-8181の食堂に入る。ここのおすすめは唐揚げなのだが、訳あって急ぎの時には皆それを頼みたがらない。
「……もしもし」
 渉外部門の権限をフル活用して調べ上げた電話番号に掛けると、およそ1.5コールの間に受話器が取られた。
『はい、鳥居ですが』
 事前の行確で判明していたことだが、鳥居三省は御年93歳にしてはかなり健康な人間の部類にある。未だに杖に頼ることなくしっかりと歩行し、会話や記憶にも支障がない。時折訪問介護のヘルパーにセクハラまがいの冗談も飛ばしている。今も、随分はっきりした発話だ。
「わたくし、雑誌の記者をしております海野と申しますが───」

 

 取材の約束は電話より三日後と、少々急なものだった。電話以降も鳥居の生活に変化は特に観測されず、三川周辺にも特に動きがない。今でも時折三川の消息が一時的に掴めなくなることがあるようだが、行確担当チームが相当しつこく追跡をしているらしく、確実に一日以内にその姿を捕捉するようだ。
「ここか……」
 都市郊外の分譲マンションの一室が差出人の住所となっている封筒には、達筆な字で認められた歓迎の手紙が入っていた。突然の電話には驚かされた。当時のことを聞きたいというのではあれば是非家にきてください───という内容の手紙が丁寧折りたたまれているのを見た時は、軽い感動さえ覚えた。
「ごめんください」
 ドアが開くと、実はもう何度も拝見している皺だらけの、目つきだけは異様に強い老人が立っていた。ここまで至近でその顔を見るのは初めてだったが、いざ会ってみるとその立ち姿には隙が感じられず、どことなく三川と同じような雰囲気がある。戦時下の諜報機関員というエリートともなると、皆斯様な雰囲気をまとうものなのだろうか。
「よくいらっしゃいました。さ、散らかっていますけど、中にあがってください」
 言葉とは裏腹に、一人暮らしとは思えないほど整理整頓された部屋に案内される。西塔との張り込み部屋の惨状が思い出され、独りでに苦笑が漏れる。ちゃぶ台の上には数冊のアルバムとノートが置かれていて、若い頃の鳥居の写真らしきものもある。
「今お茶を持ってきます」
「いえ、お構いなく」
 用意周到な鳥居は、盆の上に煎茶の入った湯飲みを二つ載せて、すぐにこちらに戻ってきた。さっきから、とても一人暮らしの男とは思えない行動のきめ細やかさに、感心してしまう。
「さて、お話というのはなん、っ、ごほっ」
 急に目の前の老人が咳き込み始め、ぼくは慌てて大丈夫ですか、と背中をさする。大丈夫です、ただの風邪ですよ、と言われてみれば少し喉の調子が悪そうな鳥居は、すっと隣のチェストから使い捨てマスクを取り出した。
「すみません、失礼とは思いますが、これで……」
「ええ、どうぞ、ご自愛なさってください」
 鳥居は少し目を細めてほほえむと、それで何でしたか、と中断された会話の続きを始める。
「確か、8課の機関のどれかについて聞きたいと仰っていたようですが」
「ええ。鳥居さんの著書にある、この組織についてなんですが……」
 鞄から借りた本を取り出すと、この老人は目を丸くして口をあんぐりと開けた。
「おお、この本を持っている方がいるとは」
 ぐふぐふと咳き込みながら、我が子のように白い装丁の本を撫でた鳥居老人は、感動に身体を震わせながらぼくの指さした文に目をやる。
「ああ……これですか。三川少佐の」
「三川?」
 知らない体であえて鸚鵡おうむ返しをすると、案の定鳥居は「ああ、それはそうですね」と威儀を正して話す体勢を作る。
「三川少佐は、中野でわたしの同期だったんです」
 鳥居が訥々と語り出した内容は、三川の学生時代から参謀本部への配属後までに渡る、ほとんど詳細が残されていなかった来歴についてだった。話に聞く限り三川と鳥居は大分親しい仲にあったらしい。士官学校で先輩後輩として三川と出会った鳥居は卒業の後、数年の軍役生活を経てから陸軍中野学校───当時の名称は防諜研究所───へ入学したときに、再び三川十七と出会った。
 恐ろしく頭の切れる三川は学校でも優秀な成績を収めており、卒業後には鳥居とともに参謀本部第2部第8課に配属され、晴れて二人とも特務機関員となる。
「その三川少佐は、第8課で何をしていたのですか」
「わたしにも詳しいことは話しませんでした。───ただ、軍事利用のために色々なものを集めている、と。しょっちゅう戦地にも行っていましたよ」
 腕組みをして当時のことを一つ一つ思い出している鳥居も、やはり三川から詳しいことは聞かされていなかったらしい。しかし三川の人となりについてはかなり分かったことが増えた。これなら、行動予測も更に立てやすい。
「三川少佐は、どんな人だったんです? 写真とかは」
「少佐の写真ですか……」眉間に皺を寄せて、鳥居は考え込むような動作を取った。「いや、残ってないと思いますね」
 写真嫌いだったんですよ、あの人は、と懐かしむように中空を仰いだ鳥居は、「そういえば」と二の句を継ぐ。「写真で見たときとは別人みたいな顔をしてらっしゃいますね、海野さんは」
「そうですかね?」
 思わず頬に手をやってしまった。
「あ、そうだ思い出しました。海野さん、やっぱり似ていますよ。少佐───三川少佐に」
「えっ」
 ぼくの顔が、三川に似ている。あの男については恐ろしく眉目秀麗だという証言があるが、あいにくぼくはそんなに顔のいい方ではない。
「そんなに似てますかね……」
「ええ。そっくりですよ」
 良く気づいたと言わんばかりの鳥居の自信たっぷりな態度は、何故かぼくを不安にさせた。急にそんなことを言い出すなんて、なんだか妙でさえある。
「今日は面白い日だ。少佐に似ている人を見つけたのは、もう2人目ですかね」
 鳥居がやけに感心したような口振りで言って、少し冷めてしまった煎茶をすする。
「何処で見たんです、その似ている人」
 まさかとは思いつつ、ぼくは尋ねてみる。実は先ほどよりこの会話は、耳の中に設置された盗聴器によって、近くの指揮車両に載っている他の班員にも聞こえている。恐らく鳥居が場所を言いさえすればすぐにでも向かうだろう。
「え……えと、海野さんがくる少し前、そこの████神社で」
「なるほど。あ、そうなんですか」
 耳の奥で班員たちの慌ただしい会話が響いている。西塔と他に1名が現場を押さえに行くようだ。そろそろ、ぼくの方も潮時かも知れない。聞くことは聞いただろう。後は処理班に任せればいい。
「……鳥居さん、時間も時間ですし、そろそろお暇しようと思うのですが」
「ああ、もうこんな時間でしたか。───すみません、年寄りの長話につき合わせてしまった」
 陽は既に傾いている。西日がどこかの窓から一直線に居間に伸びていて、ぼくらの影が壁いっぱいに伸張している。時刻は既に午後5時を回っていた。
「いえ、お願いしたのはこちらです。謝るなんてとんでもない」
「ははは、こんな年寄りの話でも役に立つこともあるのですね」
「……それでは」玄関でローファーに踵を押し込んで、謝辞を改めて口にする。「またお会いする機会がありましたら、その時は」
 ええ、と鳥居は初めに会ったときと同じような微笑を浮かべた。「その時はよろしくお願いします」
 
 

 取材を終えたその足で西塔たちのもとへ向かう目論見は、一件の着信によって阻止された。出てみればそれは、担当していたオブジェクト収容の事後報告で、情報管制を担当したぼくへの謝罪と追加の仕事の発生を告げていた。
「ち……」
「舌打ちすんな」
 集音マイクを外すのを忘れていた。誰かは分からないが、あの野太い女性の声はたぶん西塔だ。襟口に隠してあったマイクを引き抜いてから、もう一度大きく舌打ちをする。我ながら子供かなと思いつつ、駆け足に軽自動車のドアを開いた。

 

 ──それからたった一時間後の話である。
 鳥居三省が、死体で発見されたという連絡を受けたのは。
「どういうことです、これ」
 先ほどから忙しそうに指示を出している班長に、ぼくは憮然とした面持ちで詰め寄った。初めは面倒そうに手を振って「あっちへ行け」としていたが、この上更に新しく鳴った受話器を取ると突如として顔を青くした。茄子みたいな顔色をした班長は、持っていた電話のいくつかをまとめて保留にした。席を蹴飛ばして、ぼくを諜報のオフィスから外に連れ出すと、
「どうなってるんだ」
 それはこちらの台詞だ。班長の顔が今はトマトみたいな色をしている。
「班長、落ち着いてください。聞きたいことはぼくにもあります」
「そんなのは後回しだ。あの神社の現場押さえに行った一人が重体で見つかった。西塔は拉致されてる。それと──お前、三川となにがあった」
 一瞬、目の前が真っ白になった。小一時間ほど前に文句を言われたばかりのあのショートヘアを思い出して、すぐに意識が現実に戻ってくる。だが班長の最後の言葉は腑に落ちない。──ぼくが、三川と?
「どういう意味ですか、それ……」
「そのままの意味だ。立て籠もった三川がお前と話したいって言ってる」
 三川十七が、ぼくを呼んでいる。どうして、現場を押さえに行った西塔が当の三川に捕まっている。何故───脳内の記憶という記憶を掘り起こし、それらを再び繋ぎ合わせて、導き出される一つの仮説が、脳内にひらめく。
「あれは……三川だった」

 
 
 三川十七のいる廃工場内部には、幾重かの結界が張られている。
 技官は、難解な言葉を交えて状況説明をしてきた。半分も理解できないので半ば聞き流しながら、僕は───祈りが込められてますとか、訳の分からない説明のあった───ボディアーマーを着込む。
 機動部隊員で構成された突入隊が、現実改変によって永遠に廃工場内を迷い続ける結果に終わってから、誰一人として三川十七のいる部屋にはたどり着いていない。
「君が今行こうとしている場所に行くには、ヒューム値の著しく低いところを通過する必要がある」
 説明とともに渡された計器は、その場の現実の強度を計測するものらしい。明らかに着ぐるみに身を包んでいるように見えるその博士は何でも、異次元研究に掛けては財団一の権威らしく、とても僕には信じられない。
 全ての準備を終えて野営を出た僕は、緊張を飲み下すようにして深呼吸を繰り返す。調息法というやつで、奇妙な方向に高揚している気分を鎮静化するのにとてもよく効く。丁度、冷気を多分に孕んだ夜風が僕の頬を叩いて、目を覚まさせる。
「エージェント・海野、突入します」
 ドアをやや乱暴に開いて、銃口を差し込む。内部は停電していることもあって大分暗い。アサルトライフルの威嚇的な銃身に取り付けられたライトを空間へ向けると、舞った埃でチンダル現象が起こり、光の道筋がいやに強調されて見える。特殊部隊経験などない、それっぽく構えているだけの僕にとっては、幾分頼りない光源だ。
 三川の声明によると、僕が侵入する分にはどうやら迷宮に迷い込むことはない。この空間の主導権は、完全に向こうに握られているのだ。
『████い。████と████を████の██。……』
 無線通信は早くもダウンした。先ほど渡された計器───カント計測器の液晶を覗き見てみると、その値は『0.55/1.00』を表示している。確か1を下回るかあるいは上回れば、もう現実改変が起こっていてもおかしくないという話であったから、既に僕は三川の仕掛けの内部に入り込んでいるらしい。
 徐々に進みつつ周囲の状況を観察していくと、あらゆる部分が朽ちかけている工場内部の構造は、実はかなりシンプルだということが分かる。それ故に、どこに何が隠れているのかが分からない。
 壁面の幾つもの部分が既に脱落しており、梁がところどころ露呈している。床も、決して安心して歩行できるような状態では既にない。建屋全体として、腐敗の途中にある野生動物のような観がある。
 裏口から内部へ侵入した僕は、既に三川のいる場所と壁三つ隔てた部屋にいることになる。三川のいる方向へ進むたびに、ヒューム値が何らかの動揺を示す。基本的には下方に修正される傾向があるようだが、時折急に跳ね上がることもある。
 今のところ僕には、異常を検知することができなかった。それ自体が既に、僕が三川の罠にかかった証左であるのかもしれない。
 目に付く場所全てをクリアリングしていく。何らかのトラップが仕掛けられている可能性も決して低くはない。視界のあらゆるものが怪しく映る。今、視界の端で何か動かなかったか───神経過敏な状態が継続され、アサルトライフルを握る手が、段々と痺れてくる。
 ドアを蹴破る瞬間が、もっとも心臓に悪かった。爆薬の反応を確かめてからであるとはいえ、ドアを開けた途端に爆発でも起これば一巻の終わりだ。
 次のドアを開けると、恐らく三川がいる。今のところまでは、事前情報の通りに進めている。廃工場に張り巡らされた結界は、いまだ発動していないと見ていいのだろう。
 三川は本当に僕と対話することを狙っているのだろうか───不意にそんな考えが頭に浮かぶ。僕と似ているようで異なる認識災害を顔に張り付け、通常の人間として暮らしている三川十七とは、いったいどんな男なのか。
 今更考えることか、と頭を振って邪魔な考えを追い出そうと試みる。別にこれから面接にいく訳ではないんだ、そんなことが聞かれたりするのではない。三川がどのような男であれ、確保することは既に決定事項だ。彼がどのような男であるかは、作戦の成否に影響しない。
「……あれか」
 恐らくは最後のドアである、古ぼけたスライド式のそれを勢いよく開く。すばやく身体を滑り込ませると、「おや」という戸惑い気味な声が聞こえてきた。
「ずいぶんとまた物騒な格好をしているじゃないか」
 ドアを抜けると黴臭さが一段と増して、鼻腔を刺激する。天井のかなり高い、何もない部屋の中央に男が一人立っていた。
 そのすぐ側には卓上スタンドライトの置かれたサイドテーブルがあって、それが男───三川十七の顔を照らしている。なるほど証言にあったような眉目秀麗な顔立ちで、僕がライフルを構えたまま硬直しているのを見ると首を傾げて微笑んだ。しかしその双眸は異様に鋭いままで、何か偏執的なものさえ感じさせる。
 異常性が消失されて顔が見えているという事実に、今更驚くまでもなかった。しばらく僕が押し黙っていると、微笑のままいきなり三川の長靴の先がサイドテーブルの裏の何かを軽く蹴り、「うっ」という呻きが聞こえてくる。
「エージェント・西塔ですか」
「いかにも」
 必ずお返ししますよ、という三川の言葉に、僕は「助かります」とだけ返した。この部屋の天窓は全て木材で塞がれていて、月明かりすら差さない。そんな広大な空間に一人───足元に転がる人質と僕を含めれば三人───立っている三川十七の姿には、一種の神聖性さえあった。
 人工的な暖色の光に照らされる白皙の青年は、雅楽的な優美さを備えた動作で、足元に転がる拘束された女性を地面に投げ出した。またしても西塔は───どうやら猿轡をされているらしい───苦しげな呻き声を上げ、恐ろしい形相で三川を睨みつけている。
「こういう顔するからやなんですよ」
「西塔を返却していただきたい」
「今はまだ待ってくださいよ。私は君と話がしたくてここに呼んだんだから」
 言いながら三川は、リボルバー拳銃を懐からすっと取り出した。鈍いガン・ブルーが、安物のスタンドライトが放つ光線に応えている。僕が何か変なそぶりを見せれば撃つという意思表示であるらしく、これで僕らは所謂メキシカン・スタンドオフに陥った。もっと早く撃つべきだったか、などと後悔してみても始まらない。三川はその気になれば西塔を盾にできる。仮に三川を無力化したとしても、この男がこの場の結界を解かぬまま死ねば、僕らは先の機動部隊員と同じ末路をたどることになるだろう。
 そして僕らが無事なまま、この男が結界を解く可能性は著しく低い。
「思ってたより美青年だ。僕の顔なんてそんな似てない」
「気付かなかったでしょう、あの時は」
 鳥居三省の声で答えた三川は、酷薄な笑みを浮かべている。あるいは、そう見えているだけだ。彼の顔があれであるとまだ決まったわけではないことを、僕は思い出す。認識災害を起こす対象相手に、『そう見える』は何ら効力を持たない言葉だ。
「あなたの狙いは何だ、何を求めてるんだ」
 いつの間にかリボルバーの銃口が西塔から離れている。三川はなっちゃいない、とでも言うようにサイドテーブルに寄りかかった。そして、わざとらしい嘆息を一つして見せてから、その視線が僕の方へ再び注がれる。
「君はどうしてそちらにいる?」
 質問を質問で返されることは、僕に対する一つの効果的な挑発だ。しかしそれ以上に、散々手こずらされた相手に対して最後の最後にワッパを掛けられないという今この状態が、元刑事の僕にとって最も癇に障っている。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。なんで君は財団にいる?」
 三川が顎で指したのは、僕のボディアーマーに小さく縫い付けられている財団の意匠だった。
「それは……僕の仕事だからだ」
「おかしいとは思わないのか」急に、三川の言葉に熱がこもり始めたように感ぜられる。「どうして君は収容されていない」
「知ったことか、そんなこと」
 吐き捨てるような僕の言葉など三川には届いていない。足元に縛り上げられている西塔を、三川はもう一度強く蹴った。「この女もだ」と叫ぶように言い、血の気が引くほど強く握りしめられた拳がリボルバーの撃鉄を起こす。
「こいつには過去がない。何にもだ、何にも覚えちゃいない!」
 西塔が苦痛に喘ぎながら咳き込む声が、僕の心を棘だらけにしていた。銃把を握り締めるグローブがきりきりと音を立て、奴が撃つ前に撃つ───と先ほどまでの冷静さがどこかへ飛んでいく。
「……なんてね。ジョークだよ」
 急にリボルバーをテーブルの上に放り出した三川の顔には、再び涼しげな微笑が戻っている。全て冗談だったとでもいうのか、とても26、7の軍人とは思えない挙動だった。最も諜報員である以上、通常の軍人とは違った思考回路を要求されるのかもしれない。いずれにしたって、僕の怒りが収まったわけではない。
「いい加減にしてくれ。───財団はお前を確保する」
「私を? なら君もだろう?」
 三川はわざとらしく、両の手の指を自分の頬に絡みつける。刹那、三川の顔が消えた。いや、消えた訳じゃない。僕が認識できなくなっただけだ。再三にわたって僕らを苦しめてきた、三川の認識災害。僕とよく似た、その顔に張り付けられた異常性。
「お前は財団に敵対している」
「なら君は『おかしくない』のか」鳥居になっているときに気付いたよ、と三川は更に付け加えて、僕が論駁する隙を与えずに二の句を継ぐ。「やっと自分と同じ存在を見つけたと、そう思ったんだが」
 実年齢97歳の青年は、白皙に内包する一世紀分の経験を翳に映しこみながら、名状しがたい瞳で僕のことを捉えている───ように感じる、本当のところは分からない。
「海野一三、君は私と同じだ」
「ふざけるな」
 声の震えが止まらない。動揺を隠そうとする試みがことごとく失敗に終わり、奥歯がカチカチと硬い音を立てて鳴り続けている。こんな妄言一つに、どうして自分がここまで動揺させられているのか、分からなかった。分からない? 違う、知っている。僕は心のどこかでそれを認めていた。三川十七が僕と同じであることを。確保されるべきはどちらなのか。僕の正義はどこにある。財団に依拠するそれが絶対に正しいという確証が、今までどこにあった。
「君は本来こちらにいるはずだし、君の仲間たちもそうだろう。───この足元の女も」
 またしても靴先であしらわれた西塔は先ほどからぐったりとしている。見える範囲に外傷はないが、早く手当をしなければ。
「ビスマルクは元気か?───葦船は」
 ビスマルクとは多分大和博士のことだろうが、葦船は誰だかわからない。多分それがいつの間にか表情に出ていたのだろう、三川は納得したように頷いて、「そうか、今はカナヘビだったな」と続けた。
「………………」
 僕は見知った顔たちを脳裏に思い浮かべて、三川の言にも一理あることは明らかであることを、改めて理解する。僕たちは、確かに収容されるべき存在であるはずだ。それは、間違いない。
 ふと、子供の頃の記憶が蘇った。
 親にさえ気味悪がられた僕の顔は、僕の人生を狂わせるには十分すぎる『異常』だった。
 虐められていたうちは、まだ良かった。そのうち誰もが『知らない人』である僕を無視するようになった。それでも友達になってくれる人は確かにいた。でもその人だって、結局数分もすれば僕の顔を忘れてしまう。
 僕は自分の顔を憎んだ。こんな顔のせいで僕の人生は台無しだと、何度も鏡に映る見覚えのない自分の顔を罵っていた。
 最も、一番熱心に僕の顔を憎悪していたのは僕の両親かもしれない。寝付けない夜は、よく親の喧嘩を子守唄にしていた。
 いっそのこと殺してしまいましょう。そんな言葉を初めて耳にした時の感情は、もう覚えていない。
 財団に入って、初めて僕は自分が不幸だという思い込みは誤りであることを知った。彼らは僕の何倍も厄介な事情を抱え込んで、それでも使命を果たそうとしている。
 ───僕は、その姿に憧れて、財団に入ったはずだ。
「……残念だが、三川十七」僕はようやく唇の震えを抑え込む。「お前のもとには行けない」
「どうした、君だって本当は分かっているはずだ」
 ───君も、君の同僚も、誰一人まともな人間なんていないじゃないか。
 大きく息を吸ってから、肺の中の酸素を一つ残らず吐き出す。
「僕だって、給料分は働く義理があるのでね」
 射撃は正直得意な方ではない。だが、流石にフルオートなら外すこともないだろう。最善がダメなら次善。手に入れられないものなら端から必要はなく、確保できないなら殺すしかない。この結界は解けないだろう、だがそれでいい。いつか財団が、僕らの骨を拾ってくれる。
「おい……」
 痛快な気分で三川の恐慌に満ちた顔をスコープの中央に据えながら、レバーを操作してフルオートに切り替えた。あとはもうトリガーを引けば、数十数百の鉛玉が瞬く間にあいつの体を粉砕する。
「降伏するか」
「ふっ、ふざ、そんなことするわけ───」
 試しに三川の横2メートルぐらいを3秒ほどを撃ってみる。途端に尋常ならざる爆音と反動が同時に僕を襲い、銃口がいきなりに上方へ向かってブレていく。ブレた拍子に5.56mmの弾丸が三川の右腕の一部を食い千切ったようで、男の悲鳴が工場の大空間の中に響き渡る。
「あっという間に脳天だな、これは」
「何をやってるのか分かってるのか、お前」
「ああ。死ね」
 再び三川の正中線に向けて銃口を向ける。次で決める。外さないように確実に狙わなくてはならない。
「……うううう!!」
 突如として三川がテーブルの上に投げていたリボルバーをひっつかみ、自分のこめかみに押し当てる。焦燥に引き攣った笑顔は、少なくとも先ほどまでの美青年ではない。
「あっ、おい待て───」
 破裂音。油脂の混じった肉を捻じ切ったかのような粘着質な音とともに、様々な赤黒のものが、その場に飛散する。銃声で意識を取り戻した西塔は、自分の頬にかかったそれに対して顔をしかめて、猿轡をとると真っ先に拭き取るよう喚き始めた。
「……死んだのか、三川は!?」縄を解かれた西塔は、居ても立っても居られないといった様子で立ち上がって、自分の後方を振り返る。彼女の数メートル後方で、突き飛ばされるかのように地面に転がっている顔のない遺体は、最早誰だか分からない。「……どうなんだ───海野。これは……」
 流石にこれが生きているとは思えない西塔は、そのうち静かになった。
「いったい何なんでしょう」僕は呆然とつぶやいた。「こいつは……何がしたかったんだ」
 急に僕のボディアーマーの内側で、ブザーが鳴った。 
「あれ」
 さっき仕舞ったカント計測器が音の主だった。場のヒューム値が一定以上急激に変化すると、警告音が鳴る設定になっていたらしい。
「……おい、どうした海野」
 計測器を見たまま固まる僕の肩を無理やり引き寄せて、西塔もカント計測器の液晶画面を覗き込む。計測された数値は『1.00/1.00』とあり、この場が極めて安定した現実状態にあるということを示している。
「三川の結界が解けたのか?」
 その三川───らしきもの───は、ここで死んでいる。結界を解くためのプロセスをなにか遂げていたようには、見えなかったが。
『こちら作業班より、エージェント・海野へ。無事か?』
「……通信」いつの間にか回復している。できるだけ動揺を抑え、目の前の情報を端的に頭の中で整理する。「───三川十七が自発的に終了を図りました。エージェント・西塔も無事です。一応、医療班の派遣を」
『了解した。───結界の解除をこちらで確認したが、なにがあった』
「原因は不明です」
 無線の向こうで何事か話し合われているようだった。差し当たって僕らが本物なのかだとか、そういうことだろう。
 少なくとも僕は生きている、と思った。血生臭い匂いがいつの間にか鼻腔に満ちていて、それが余計に自分の生存を実感させる。
「なあ、海野」
 西塔は、しゃがみこんで遺体の右手首を手に取っていた。鋭い目つきが不可解そうに歪んでおり、しきりに手の中で細い手首を転がしながら、何か探している様子だ。
「どうしたんです」
「ほくろがないんだよ。こいつの手首」
 は───? という僕の顔を見た先輩エージェントは、出来の悪い生徒を見る教師のような表情をした。
「行確の時に見たのに覚えてないのか、奴の右手にはほくろがあっただろう」
「………………」
 そもそも知らなかった。
「こいつはひょっとすると三川じゃない」エージェント・西塔は立て膝のまま遺体の腕を拱かせると、盛大な舌打ちをした。「顔を吹き飛ばしたのはそのためか」
「してやられましたね、僕ら」
 敗北感を滲ませながらアサルトライフルを床に置いた僕に、いや、とエージェント・西塔は言った。
「奴は逃げた。つまり私たちの勝ちだ」
 
 


 
 

「査問会、ご苦労」この事件の間に少し老けた気がする班長が、辞令の入った封筒を僕に手渡した。「君には2週間の休暇が与えられる」
 日本支部理事会のお歴々の前───実際に姿は見えなかった───で、1日に渡って行われた査問会からやっと解放された僕のもとに届いたのは、三川事件が凍結されたという知らせだった。
 三川はあれ以来再び消息を絶ち、僕らの前から姿を消した。件の偽物───鳥居三省を殺害し、エージェント・西塔を誘拐したあの男は別人と言うことが判明し、その催眠には蒐集院の技術が盗用されていたという。顔を吹き飛ばしたのはやはり、捜査の攪乱のためだったらしい。
 結局、奴の目的がなんだったのかは知れないままだ。理事会は事態をそれなりに重く見ているらしく、警備体制強化のために近頃重要オブジェクトが配置換えされるというような噂もある。
「……はい。ありがとうございます」
 事実上の謹慎のような扱いに、抗議する気にもなれなかった。確かに今の僕に必要なのは休息だと思う。今再び三川と対峙して今度こそ正気を───そもそも、あれは正気だったのか───保っていられる自信はない。
「また2週間後に」
「ええ。それでは」
 諜報のオフィスから出ると、朝の日の光がちょうど廊下を照らしていて、僕は思わず目を細めた。昨日まで窓もない部屋に幽閉されていたから、今は少し目が光に敏感だ。
「………………」
 今度こそ暇になってしまって、僕が廊下をあてどなく歩いていると、またしても背後から声をかけられた。
「エージェント・海野、さん、ですか……?」
 そこにあったのは、やはりあの狐面だった。虎屋博士の当惑している表情が、何となく仮面越しに伝わってくる。僕は、最近背広の胸ポケットに入れることに決めた職員証を取り出して「そうですよ」と告げる。
「ああよかった」安堵の息で仮面を少し浮かせた虎屋博士は、持っていた紙袋から、今度はすんなり何かを探し出した。「先日、渡しそびれてしまいましたから」
「これは……」
 虎屋博士が取り出したのは、黒い烏天狗の仮面だった。
「木場技師長が私にと作ってくれたものの一つです。───海野さんの認識災害にも効果があるんじゃないか、と」
「いいんですか、こんな大事なもの」
 私は着けませんから、と虎屋博士は気前よく仮面をこちらに差し出してくる。手に持ってみると、何製かは分からないが、恐ろしく軽くて丈夫だ。
「ありがとうございます」
 狐面は、いえいえ───と嬉しそうに言うと、自分の仮面に手をやり、目の前で唐揚げになった。
「…………ひっ」
 あまり見慣れていない身としてはもう少し気を遣ってほしいところだが、流石にこれをもらった手前だ。そんなこと言うわけにはいかない。
「じゃあまた、エージェント・海野」
「はい。ありがとうございました」
 去ってゆく唐揚げを見送りながら、仮面を付けてみる。
「……意外と蒸れないんだな」
 もう少しぐらい、この人たちを信じてもいいかもしれない。そんな風に思った。

 

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