地獄の門

プロット(梗概)
日本支部理事会は選挙の時期を迎えていた。理事会幕僚部の各総局から一号理事"獅子"の後任候補が推薦され、理事会メンバーによる投票が行われる。主を失った一号理事官房で新たに首席補佐官代行に内定した引坂は、臨時に編成された高位監督者人事委員会の事務局長を拝命し、今回の後任理事選挙の管理者として忙しい日々を送っていた。
そんな中、引坂はO5-9の招きでサイト-01──閉鎖時間施設へと招かれる。そこでO5司令部が子飼いの二号理事を昇任させること企図していることを告げられた引坂は、それを理事会へと伝える。強硬な反発が起き、幾人かの理事は管理総局の阿形か五号理事を推挙する方向で固まろうとし始める。二号理事のプロフィールは理事にさえ厳重に秘匿されており、これが理事会から強硬に反対論が出ている原因だった。
七号理事とRAISAから承認を取り付けた引坂は、二号理事を含む有力候補者について調査を開始する。阿形危機管理局長本人は理事への就任について否定的であり、可能であれば最年長者である五号理事を代表理事へ推挙すべきという考えを持っていた。だが管理総局での職務経験を重視される一号理事という職責上、現任の管理総局官僚でもっとも経験が豊富なのは彼であることを引坂は示唆する。だが、彼は引坂にある相談を持ちかける。阿形を推す職員団体の一部に不正蓄財の疑いがあるというのだ。引坂は事務局の人員を用いて調査を開始させるも、糸口をつかめない。
そんな中、引坂のもとに二号理事が自ら面会を申し込んでくる。理事選挙では候補者から委員会の方へ接触することは禁じられていた。二号理事は七号理事の使いであるマクリーンとともに現れ、今回の理事選挙から大規模な反腐敗運動を開始する腹積もりであることを告げる。二号理事の目的は日本支部に対する統制を強化したいO5とは別のところにあり、阿形を勝たせることで幕僚部内の腐敗勢力のあぶり出しを行いたいとのことだった。
理事会は反二号理事でまとまりつつあり、阿形と五号理事の一騎打ちの様相を呈し始める。しかし以前に発生した不正アクセス事件での引責で阿形に対する追及が起こり、一転して阿形が窮地に陥る。現状に危機感を覚えたマクリーンは並行していた事件に合わせて医療政策局長を逮捕し、五号理事の後援組織に打撃を与える。
結果、反二号理事グループは阿形擁立で一本化され、サマルカンド・クラブへの推薦候補は阿形で決定された。引坂は推薦状への調印を行うためサイト-8100へ向かう途中、謎のCI系ゲリラによって襲撃を受け、行方不明となる。
理事選は人事委員会トップと推薦状が消えたことで一時凍結を余儀なくされるはずだったが、引坂は東京の〈地獄の門〉からすでにサイト-01に到着しており、推薦状を基に辞令が発表される。マクリーンは引坂が狙われることを察知し、サイト-01に接続後の肉体を車に乗せていた。襲撃してきた集団はおそらく医療政策局長の手駒であったが、詳細まではわからない。なんとか一命を取り留めた引坂は、新たに一号理事"獅子"となった阿形に近侍し、初の理事会に臨む。

 
 

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 サイト-01が基底時間流から完全に隔離されたのが、実に三〇年以上前、一九七〇年代のことである。物理的防御の技術向上がほぼ飽和した五〇年代、当時中欧・スイスの山岳地帯に造成されていたサイト-01の「ひとつ」は、数十に張り巡らされた物理・魔術・対現実改変防御によって強固な要塞と化していた。このころ、財団政治部門はスイスによる孤立主義の維持のために、世論をミーメティック兵器で誘導するなど強硬な手段を用いている。
 東西冷戦は核による平和だった。超常コミュニティのレイヤーを通して世界を見ると、実はこの均衡が超科学兵器による産物でもあったのだと理解することができる。米ソ二大国は五〇年代以降、勢力拡大のために正常性維持機関との協力を打ち切った。独自の非主流科学研究を進めていく中で、相対的に財団の地位は低下した。技術的優位は揺るぐはずのないものだったが、しかしサイト-01の主たち──つまりO5司令部、またの名を財団本部──は、自らの居城の安全に疑問を抱き始めていた。
 従来、サイト-01はいくつかのサイトがその名を冠されていた施設群とも言うべきものだった。スイスに位置する「アルプス・コマンド」が最大拠点として、事実上の本部とみなされていたが、中枢の会合施設はすべてのサイト群に備えられている。常に移動し続けるO5評議員や高位監督者は、敵対組織による捕捉を逃れるためにいくつもの隠れ家を必要としていた。移動手段はさまざまである。徒歩から超音速輸送機まであらゆる方法が採られていたが、これらの全容を知る人間は財団内に存在しなかった。
 ともかく、保安上の必要は彼らにすさまじい非効率を強要した。施設防御における不安のほかには、これが「閉鎖時間施設(Isolated Time Facilties)」の開発理由として挙げられるだろう。物理的に存在するサイト-01のひとつは現在もアルプス山脈の内部で使用されており、O5司令部直轄の機動部隊の司令部として機能している。
 O5評議会構成員の多くに異常な長命者が多いことは、この閉鎖時間施設の稼働開始と無関係ではない。基底時間流内に存在する次元から離脱している間、その人間に経過する時間は基底時間よりも数倍早いものとなる。施設にとどまる時間が長いほど、加齢は相対的に加速していく。このため、評議員の多くは抗老化処置を受けることとなり、その結果長命な監督者の出現を招いているのだ。
 そして、O5-9は今年で一〇〇歳を迎える監督者である。閉鎖時間施設の開発を主導した彼は、基底時間で言えばすでに五〇年ほどその地位にあった。東洋系の顔立ちで中肉中背の男性だが、英語だけをしゃべるようになって久しいらしく、母語をしゃべることはめったにない。
 だが、彼はこれから母語を久しぶりに使ってみようと決めていた。彼が呼び寄せた故国からの客人は、英語がそこまで得意ではないというから。閉鎖時間施設へ初めて訪問する人間は、あまりよい心地を覚えないのが通例である。であればこそ、事務的な英語をしゃべるよりは幾分ポジティブな効果が期待できようというものだった。
「アストン、あとどれぐらいで彼はここにやってくるかね」
 革張りの椅子にかけたまま、O5-9は虚空へと呼びかけた。ほんの三秒ほどの沈黙を経て、部屋に女性の音声が流れ始めた。
「主観時間ではあと一〇分ほど、基底時間では一〇秒ほどです」
「彼の調子は」
 あまりよくないようです、とすぐに返事がある。姿の見えない補佐官は、一時も目を離すことなく客人の様子を見守っていた。訪問者が調整された催眠状態に没入しなければ、閉鎖時間施設がその門扉を開くことはない。
 それには大抵、薬物や精神変性をもたらす音楽、ミームが使用される。当人の精神状態から時間感覚を引き剥がし、脳内に時間閉鎖施設という概念そのものが存在するための空隙を作り、そしてようやく基底時間流の外へと意識を飛ばすことができる。
 そして彼らは、「地獄の門」の前に立つ。そう呼ばれるようになって久しいアルプス・コマンドのサイト-01接続管理施設には、その名にふさわしい一〇のセキュリティ関門が敷設されていた。その最後のひとつは考える人ザ・スィンカーと呼ばれるミーム的情報抹殺エージェントの接種である。この処理によって調整された訪問者の脳からは、余計な情報が抜きだされ、必要最小限の情報単位として閉鎖時間溝の内部へと送信される。
 地獄の門を潜り抜け、無事に閉鎖時間施設への進入を果たした訪問者は、まず部屋に掛けられた服を着ることになる。接続の際に服や装飾品の類は脱がなければならないため、訪問者は全裸の状態で待機する規則だった。保安上もその方が都合よく、この規定について訪問者からの要望はたびたびはねつけられていた。
 部屋はきわめて懐古かつ西洋趣味な意匠であふれている。ヴィクトリアンスタイルの書き物机などが整然と並ぶ中、部屋の中央には蓄音機が、ほかの家具からは孤立するように配置されていた。入院患者の着るスモッグ姿になったところで、示し合わせたようにアストンが──実際には姿など見えないのだが──やってくる。コード・ネーム「アストン」は、O5-9の世話役として機能する、人工知能徴集職員の一機である。
 さきほどまでなかったはずの扉が壁に出現し、アストンの導きによってひとりでにドアが開く。同じくヴィクトリアン調の廊下が続き、その途中にいくつもの部屋が並んでいる。そのどれもに人名が刻まれており、訪問者はやがてそれらがO5直属の補佐官たちのものだと気が付く。
「O5-9はこちらで、あなたを待っておいでです」
「どうも」
 廊下は最初の外見からは想像もつかないほど長大であった。情報災害を利用した保安システムの一環として、施設内部は感覚器官を意図的に狂わせる仕掛けが数多く仕込まれていた。おかげで彼はすでに吐き気を催しており、一歩ごとにそれは大きくなっていた。
 案内されたドアには、なんの表札も刻まれていない。意を決して握りこぶしをつくり、軽くたたいてみる。「どうぞ」という柔和な老人の返事がされ、そして訪問者が開くまでもなくドアは動き始めた。訪問者が驚いたのは決して奇妙な光景によってではなく、聞こえてきた言語が確かに日本語として聞き取れたからであった。
「こんにちは、引坂ひきさかくん」 
「こんにちは、O5-9」
 好々爺。まず引坂の脳裏に浮かんだ熟語はそれだった。背の小さな老人は、ロッキングチェアに身を預けたまま、右手だけ挙げた。人懐っこい微笑みは、およそ秘密組織の最高権力者に見えるものではない。ひとりでに部屋の中央からソファが動いてきて、引坂の背後で止まった。驚きに固まっている訪問者を見て、O5-9はくすくすと笑った。
「ありがとう、アストン。……かけてくれ、さっそく話をしよう」
「失礼します」
 座ると同時に、左手にはさきほどまでなかったはずのコーヒーカップが二つ出現していた。湯気が立っており、つい最近淹れられたものだと分かる。立て続けに戸惑っている引坂は恐る恐るカップに手を伸ばした。
「感覚の同期がまだ万全じゃないようだね」O5-9は老眼鏡越しに、引坂の様子をうかがっていた。「東京はいまメンテナンスの最中でね。ここまでわざわざご足労願った」
「いえ、とんでもございません」
 恐縮している引坂をよそに、老人は手にしていたファイルを手渡す。内容は人事ファイルだった。O5司令部管理総局人事局が出した結論が、数ページにわたって事細かに記されている。ほかにも「候補者」のリストが添付されていたが、彼らが一致して推挙するのはこの人物ということになる。
「二号理事を横滑りさせて首班をやってもらうのが一番だと、サマルカンド・クラブは考えている」
「……承知いたしました。理事会に持ち帰って検討いたします」
「うん、頼むよ」
 話は終わりか、と引坂はO5-9の表情を読んだ。皺に埋もれておぼつかない老人の表情は、しかしかたまったままなにも語ろうとしない。やがて中年の男が居心地の悪い沈黙に飽いてきた頃、不意を突くようにして監督者は口を開いた。
「引坂くんは、たしか管理総局の出身だったか。あそこには優秀な候補者がいると聞いたよ」
「はあ」
 怪訝な様子で返事をした引坂は、「これは評議会としての意思ではない」という言葉で、さらに眉をひそめた。O5に私人としての発言など存在していたのかという疑問と、それに対する警戒感がないまぜになって眉目を曇らせている。
「日本支部の各総局からの推薦候補がいることは承知している。サマルカンド・クラブは二号理事の昇格を推薦したが、知っての通りこれは単なる勧告であって、まだ強制力はない。わたしが望んでいるのは、財団にとってよりよい決定がなされることだ。きみたちには建設的な議論と現実的な選択、この二つを期待しているよ」
 これは明らかな恫喝だぞ、と引坂は無表情のうちに警戒感を強め始める。サマルカンド・クラブ──O5評議会の持ついくつかのコード・ネームのひとつ──は、三週間後に不在の理事会首班を選任する会議を控えている。それまでに日本支部理事会は、後任の人選についてコンセンサスを得なければならない。
 だが、話はそう簡単ではないのであった。O5-9の言葉通り、後任候補には各部局からの推薦を受けた者たちが名を連ねている。ここから、理事たちの投票によって三名にまで候補を絞り、最終的に全会一致で後任候補を決定する。ここまででも、相当の時間が費やされることは容易に想像がつく。
「……議論が公平なものとなるよう、善処いたします」
「それはけっこうなことだ。財団には絶対的なひとりのリーダーはいない。あるのは絶対的な組織だけだ。そして組織の意思とは、活発な議論によって決定される」
 O5-9がどうやら元は日本人かそれに近い人種であったことは、引坂にも察しがついていた。皮肉に気付いているのかも曖昧な答えを返してきた老人は、不敵な笑みを浮かべたまま二杯目のコーヒーに手を伸ばしている。砂糖も何も入れず、ブラックのままぐいと一気に飲み干してしまった。
「この年になってくると、味覚が鈍って来ていてね。これでも少し苦いぐらいだ」
「大変ですね、長生きというのは」
 ここにいると実感がなかなか湧かないが、とO5-9はロッキングチェアの揺れを止めた。背もたれから身を起こして、前傾になる。伸びた白髪の眉毛の下に、鈍い光を宿した双眸があった。日本支部からの使者は少しぐらい愛想笑いでも浮かべておこうと、口角だけを吊り上げる。
「三週間後までにと言ったが、実際にはそれよりも短い期間しか残されていない。その点はとても申し訳なく思うよ」
「たった数日であっても、支部のトップが不在という状況は望ましくありませんので。人事委員会が一丸となって全力を尽くします」
「配属間もないきみたちには、荷が勝ちすぎているかもと思ったんだが、いらぬ心配だったかな」
 差し伸べられた手を、引坂は丁重に両手で包んだ。老人の皮膚はやわく、乾いた感触であった。机に置かれていたファイルを取り上げて、今度こそ引坂はお暇すると宣言した。O5-9は左手を挙げると、ふたたびロッキングチェアに揺られ始める。帰省の終わりのような、牧歌的な錯覚を起こさせる光景だった。
 これから遭うであろう苦難を考えると、老人の微笑みは素直に受け取れ切れるものではない。なにより、引坂の頭痛の種の半分はかの老人たちの意向にあった。幾重にも刻まれた皺が、たまたま笑顔の形に動いただけ──引坂はそう考えた。
「引坂くん」
「はい」
「期待しているよ」
 引坂は深々とした一礼を、返答にかえた。こんどは右手を挙げて応えたO5-9は、彫像のように動かなくなる。見えない補佐官アストンによってドアが閉ざされ、ふたたびあの長かった廊下に出る。だが、帰り道の様子は一変していた。
 あの感覚を狂わせる認識災害は鳴りを潜め、ひどく殺風景な打ちっぱなしのコンクリートの廊下が現れている。後ろを振り返ると、もうそこにあのチーク材でできたドアはない。向き直ると、すぐそこに出口と思しき鉄製のドアが控えていた。
「ITFは保安上一方通行に設計されているため、ちがう通路を通って帰ることになります」
 アストンは聞かれるまでもなく、ひとりでに説明を始めた。おそらくは、毎度訪問者が尋ねてくる内容なのだろう。引坂はすぐに出口の前にたどり着き、見えない補佐官に向かってどのように礼をすればいいのかという疑問にぶつかった。
「……ここまでありがとうございました」
 とりあえず虚空に向かって謝辞を述べると、すぐにどこからか声が返ってくる。
「いえ、また近いうちにお会いできることを楽しみにしております」
 社交辞令まで完璧にこなす人工知能に舌を巻きながら、引坂はドアノブに手をかけ、ひねる。
 一寸先は闇だった。出口にはもうITFの作り出す認識空間が存在しておらず、なにも感知できないただの空虚が闇の形をとって存在していた。
 意識が暗転する。猛烈な吐き気と倦怠感が脳内を支配し、目から視神経を通って、脳髄にまでミミズが這い回っているような感覚が襲いかかってくる。やがて頭蓋骨の内側で火花が散るような音がし始め、それが耐えられないほどに加速していく。脳髄がどんどん肥大化して、ついに頭蓋骨をかち割って破裂しようとしている──。
 叫び声を上げながら飛び起きた引坂は、すぐに駆け寄ってきた白衣の男に助け起こされる。冷や汗が顔中に浮かび上がり、呼吸の仕方もあやしくなっている官僚に対して、白人の男はやわらかい笑みを浮かべた。
「あ……ああ……」
「おつかれさまでした。しばらく別室でおやすみください」
 聞き覚えのある声だと引坂は思い、胸のIDタグに目をやった。名前はアストンというらしかった。

 
 

 理事が後継指名を行わないまま辞任した場合、ただちに理事会は後任候補をO5評議会へ送付する規定がある。今回の一号理事・獅子の更迭はまさにこれに該当する案件だった。一週間前に設置された高位監督者人事委員会は、その後任候補を決定する選挙の管理の任を帯びている。
 選挙は二段階にわたって実施され、全体では二週間以上の長期にわたって後任候補選びが行われる。一次投票では幕僚部の総局ごとに擁立された候補に対して、選挙権を持つ一定以上のクラス──原則として、各総局における課長クラス以上の役職者──の職員による投票が行われる。そこで一定数以上の得票を得た候補者たちは、二次投票へと進む。二次投票では投票人は理事たちに制限され、日本支部として推薦する後任候補がひとりに絞られる。O5評議会はよほどのことがなければその推薦を受け容れ、当該の人物を後任理事へ任命する。そもそも評議会が認めるような人材でなければ推薦されないのだから、それは当然のことだった。
 選挙の各段階で大きな役割を果たすのは、各総局における「職員団体」である。いわゆる生活協同組合が各総局に設立されており、職員の福利厚生を担っている。この職員団体は便宜上組合と称することが多いが、実際には理事会指揮下にあり、予算も幕僚部から拠出されている。
 理事選挙において唯一選挙活動を許されており、総局本部のあるサイトにおいて課長級職員たちの投票行動に影響を及ぼすことができるのは、彼ら職員団体だけであった。とはいえ、それらの投票というのは大抵上長──これが職員団体の「顧問」や書記長を兼任することがほとんどである──の影響下にあり、結局のところ「組織」として上意下達をより強固にするための選挙活動にすぎない。
 そもそも、この投票制度自体が組織の民主的統制を目的としたものでないことは、衆目の一致するところだった。財団地域支部の最高幹部は政治力ではなく、あくまでも実務能力によって選出されるべきであり、そのために本格的な投票制度は害をなしても有益ではない。
 職員団体の推薦する候補者も、実態としては各総局の人事担当者や理事が持っているノーメンクラトゥーラから選ばれている。年単位の選抜を勝ち抜いた、次期高位監督者にふさわしいと判断された人材だけが立候補を許される。そこに民主主義的手続きが介在する余地はない。
 この二週間にわたって行われる選挙は、結局のところ、総局間の調整のために設けられた期間だった。
 帰国した引坂は、予定通り人事委員会の事務局長を拝命した。設置準備室長からの横滑りである。全身麻酔後の感覚が残る頭を抱えたまま、男は新たな勤務先を訪れる。サイト-8101は、とくに粛清が厳しかった政治局のオフィスがあった施設だった。いまだ人員補充が進まないため、敷地の広さに比べるといやに閑散とした印象を受ける。
 都心の大規模オフィスビルに偽装されたサイトは、真新しいガラス張りの見た目に反して、内部は完全武装の職員が闊歩する物々しい雰囲気である。時刻はまだ午前八時だったが、見たところ事務職員よりも警備の人員のほうが多いようにすら見えた。
「引坂事務局長、おはようございます」オフィスの前で彼を出迎えたのは、審査部の相沢だった。「もう下の者はみなそろっているので、訓示の方よろしくお願いします」
「ああ、うん」
 事前の顔合わせで、相沢とはすでに知り合いだった。選挙違反を取り締まる審査部のトップを務める男は、もともと内部保安総局で辣腕を振るっていた中堅官僚だ。
「明日には後任候補選挙に関する第一回理事会が開かれます。人事委員会事務局には昨日までにすべての総局からの推薦が集まりました。問題になりそうなのは」
「倫理委員会か」
「はい」
 部屋に入ると、ずらりと並んでいた事務局職員たちの顔が一斉にこちらを向いた。見ると若手が多く、40代の相沢と引坂は完全に最年長クラスのようだ。約80名の事務局と、予備役に入っていた元局長級の職員五名で構成される委員たちが、人事委員会の全貌となる。
「おはようございます。事務局長の引坂です。……」
 威勢のよい挨拶が返ってくる。まだ早朝だったが、職員たちはだいぶ前からここに集合していたらしい。やる気があることはよいのだが、このままだといずれは労務管理が杜撰だと倫理委員会からお叱りが来そうである。見れば、室内にはコピー機やらラップトップやらが整列させられており、事務局としてすぐにでも稼働できる状態に整備されていた。
 手短に訓示を終わらせ、すぐに各部長を集める。事務局は書記部、審査部、システム部を持ち、それぞれに各総局からの出向職員たちが詰めている。相沢をはじめとして、各部の長にはそれなりに出向元でも活躍していた中堅が入っていた。
「人事委員会のシステムは基本的にすべてスタンドアロンで運用せよというお達しがRAISAから来まして、イントラネットから遮断する作業をいまやってます」
「この前の不正アクセス事件か」
 システム部の笠山はええ、とうなずくと、作業を監督するためにその場を離れた。先日の日本支部データベースへの不正アクセス事件の傷は癒えておらず、理事更迭と併せて混乱の余波はまだ続いている。
「わたくしからもよろしいですか」
 書記部からも報告があるらしく、七原部長の手には書類がある。各総局の推薦候補を後援する職員団体について概要が記載されたものだった。人事委員会は後援組織の身辺調査や選挙不正を摘発する任務も帯びているため、これらの調査報告には事前にすべて目を通しておく必要がある。
「倫理委員会事務局職員組合と内部保安総局職員協同会議はRAISAから特例的に非公開組織として認められているので基本的に構成員の氏名が非公表なのですが、審査部が審査に要するとして申請すれば個々人に対しては機密指定を解いてくれるそうです」
「ずいぶんな譲歩だな」
「それだけほかの理事からの反発がすごいということです」
 相沢がため息交じりに応えて、部門長会議はお開きとなる。引坂の今日のスケジュールはすでに夜まで埋まっている。数点の確認事項を始末してから、事務局長はすぐに隣の会議室の扉を叩いた。
「失礼します、引坂です」
 そこで待っているのは、予備役の元局長級官僚たちである。管理総局の大先輩に一礼してから、引坂はO5-9から預かった資料を提出する。O5のサインが入ったコピー不可の紙であるため、委員たちは老眼鏡を額にずらして次々と回し読みをし始める。
「やはり二号理事の横滑りを推してきたか……RAISAのスタンスは変わってないんだろう。こりゃ……」
「すでに医療総局と物流総局を中心に五号理事を推す流れが作られてきているらしい」
 白髪頭たちが次々にうなりはじめたところで、上座にいた委員長の女性が「引坂事務局長」と呼びかける。瀬上委員長は元・医療総局 医療政策局長の職にあった人物で、任期途中で降りなければ理事への昇任は確実と目されていた才媛だった。降りた理由は杳として知れない。
「理事会への報告の準備はできていますか。明日には会議ですが」
「資料の方はできました。委員長の方から報告されると伺っておりますが」
 引坂は完全に平静を保っていたはずの顔を少し曇らせる。瀬上はその微妙な変化を知ってか知らずか、こともなげに答える。
「そのつもりだけど、直接O5-9と会ったのはあなたでしょう。質問が来ると思っておいて」
「はい」
 鋭い双眸で引坂を一瞥した瀬上は、「よろしい。では、報告ありがとうございます。事務局長」とふたたび眼下の資料へと目を落とす。それが退出してもよいというサインだと受け取った引坂は、すぐに回れ右をする。
 彼女と会うのは二度目だった。医療政策局長の前、統括サイトの医療部門管理官をしていた頃の瀬上と、引坂は一時期いい仲であると噂されていたことがある。人智などとても及ばぬAICのご高配の結果を、人間たちは受け入れるほかはない。実際のところ、引坂と瀬上の関係はとてもいい仲などと呼べるものではなかった。
「まったくどういう人事なんだか……」
 腕時計の時針は十二時を示している。サイト-8101は内部にいくつかの飲食店──もちろんすべてがフロント企業である──が入居しており、職員食堂として重宝されていた。メニューの価格帯で、なんとなく店ごとに集まる職員たちが似通ってくる。
 財団で勤続二〇年を迎える引坂は、一番空いている少々高めの和食屋へと足を踏み入れた。半個室のような形で仕切りがあり、若干ながらプライバシーに配慮されている。客層が高級幹部をターゲットにしているため、少々席数が少なめになっても構わないという判断なのだろう。
「おひとりさまでいらっしゃいますか」
「ええ」
 頼んだせいろを食べ終わってくつろいでいると、聞き覚えのある声がした。仕切りになっているのれんを少しめくって入り口をのぞくと、瀬上がちょうどひとりで店へやってきたところだった。引坂はあわてて暖簾の後ろに隠れるが、ヒールの音はどんどん近づいてきた。
「隠れなくてもいいでしょうに」
「瀬上委員長、どうしてこちらに」
「どうしてですって。わたしのほうがここに勤めて長いんだから、むしろあなたがなんでここにいるのって聞きたいわ」
 と瀬上は心外そうな顔をしながら引坂の前に腰を掛けた。店員がにこやかにコップをもう一つ置き、呼び鈴を指差してから注文をまた取りに来ると告げる。のれんが下がり、引坂はいやでも目の前の女と向き合わねばならなくなる。しばらく続いた沈黙のあと、最初に口火を切ったのは瀬上だった。
「ねえ」
「……わたしはもう終わりましたんで、会計してきます」
「まあ待ちなさい」
 瀬上は立ち上がろうとする引坂を強引に押しとどめ、もういちど座らせる。コップの煎茶をぐっと飲んだ人事委員長は、「わたしの古巣の話なんだけれど」とひとりでに話し始める。
「待ってください、瀬上さんの話を聞くなんてわたし言ってませんよ」
「つれないこと言わないで。深刻な話よ」
 半分冗談のような瀬上の調子からは、さきほどの仕事人然とした緊張感は跡形もなく消えている。昔よく見た、プライベートのときにする表情だ。引坂との形容しがたい関係の終了後には、ほとんど滅多に会うことがなかった。あれから非財団職員の相手と結婚し、所帯を持った引坂にとっては苦々しい思い出である。
「なんです」
「これを見てほしいんだけど」
 瀬上が取り出してきた分厚いファイルは、管理総局・総合企画局の調達計画に関する資料の一部だった。完全に高度機密に分類されるような代物である。目を剥いた引坂は、人事委員長へすぐさま非難の視線を浴びせる。動じない瀬上は、「これは管理総局にいる部下に調べさせたものよ」と言った。
「どのみち持ち出し禁止の書類でしょう」
「これ、医療総局に調達されてる記憶処理剤のところ、見て」
 赤いマニキュアの指す数字の羅列は、一見しただけではよくわからない。怪訝そうに顔を上げた事務局長に対して、瀬上はページをぺらぺらとめくって、ふたたびまた数字の羅列が表示された表を指差す。
「日本支部は年間数十トンの記憶処理剤を他支部から輸入してる。でもそのうち使用されたり備蓄されたりということが追跡できるのは、全体の九九・九八パーセント。のこりの〇・〇二パーセントはわからない」
「秘密部局向けに提供されているのでは」
「秘密部局向けの記憶処理剤はその名目では調達されていないの」
「だとしても、こんな大っぴらな紛失が他部局にも気が付かれない形で行われているとは思えませんが。しかも実際にこうして記録されているんですよね?」
「この数字は予算執行前のものよ」手を止めた引坂に対して、畳み掛けるようにして瀬上は続けた。「計画段階ではこの〇・〇二パーセント分が入った数字になっているけれど、執行後の計画書ではその分の数字が消えている。わたしたちにも存在が明かされていない秘密部局向けの処理剤が回っているならともかく、だとすればここに計上する必要はないはず」
「………………」
「こっちでも調べを進めておくけど、いま二号理事への対抗馬になってる五号理事を推してる連中、よく洗ってみた方がいい。選挙中にまた粛清事案を起こしたくないでしょう」
「脅しですか」
「ご注進よ。もう行っていいわ」
 ファイルを閉じた瀬上は、代わりにメモリーカードを差し出してきた。このファイルを電子化したデータが収蔵されているらしい。しばらく逡巡したあと、引坂はカードをすばやく懐へ隠した。瀬上もかばんへファイルをしまいこみ、当初の沈黙が戻ってくる。ややあってから引坂は立ち上がり、軽く会釈をして、暖簾をくぐった。
 入れ違いに店員がやって来て、引坂の顔を不思議そうに見た。連れだと思ったのだろうが、思ったよりも早く出てしまったからだろう。伝票はすでに瀬上の手にあった。事務局長は何も払わずに店の外へ出る。
 とっとと職場にもどろうと決意して、引坂はエスカレーターへ乗り込んだ。

 
 

「……以上がO5-9からの提案の要旨です」
 翌日、引坂と瀬上の姿はサイト-8101地下の理事会専用会議室にあった。彼らを取り囲む六名の人影は、実際にはそこにいるわけではない。ホログラムで映し出された仮の像だ。空席の議長席に座るべき人間を決める会議の一回目は、始まる前からすでに険悪なムードを醸成していた。
「二号理事には、出馬のご意思はあるんですか」
「ええ」
 ホログラムの人型──五号理事は、体を前に乗り出して尋ねる。理事会では最年長とされており、AICが弾き出した適任者はこの老人だった。医療総局、科学総局、工学技術総局の職員団体から後援されており、幕僚部においても信頼が厚い。
「これはわれわれの信頼関係の問題ですよ。二号理事が倫理委員会の監督者として特別なセキュリティクリアランスのもとにあることは理解していますが、それがわれわれをも例外としていない」
 製造総局と物流総局を統括する三号理事は、やや張りつめた声音で言った。もともと一号理事と折り合いの悪かったとされるこの女性は、内心二号理事による一号理事の更迭劇自体は歓迎していたはずだが、この折、O5による二号理事推薦には最も強硬に反発を示した。
「どうおっしゃられても構いませんが、わたしはO5評議会からの要請があるのであれば出馬することはやぶさかではありません」
「一週間後には総局ごとの推薦人を決定する一次投票でしたね。引坂事務局長、準備のほどはいかがですか」
「はい、遅滞なく準備を進めております」
 今しがた引坂へ進捗を尋ねた男は、内部保安総局を統括する七号理事である。彼は現在、推薦候補となっている二号理事に代わって議論の舵取り役を任されていた。倫理委員会と同様にO5評議会の直接指揮下にある内部保安総局も、おそらく二号理事の支持へ回ると目されている。相沢をはじめとする審査部の面々には内部保安総局出身者が多いが、人事委員会に任命されてからは古巣との連絡は基本的に遮断されていた。引坂も管理総局の情勢は直接に入ってくることはほとんどない。書記部や審査部による調査活動の中で、その内情を若干うかがい知ることができる程度だった。
「一次投票は各総局の役職者のほとんどが投票権を持っている。その分不正の起きる余地も大きくなる。しっかりと、取り締まりをしてください」
「はい、かならず」
 その後も、反二号理事の姿勢を鮮明にする三号理事をはじめとする数人と、二号理事の抑制的な言い争いは続いていた。突如として首班の首が飛ばされたことで、理事会のO5への警戒感は相当なものだろうと引坂は予想していたが、いざ目の当たりにすると想像以上のものであったことが知れる。
 三号理事たちが二号理事の推薦に強い拒否感を覚えている理由はいくつかあるが、最も大きいのはその「特殊なセキュリティクリアランス」にあるだろう。倫理委員会幹部と内部保安総局幹部についてはO5司令部にしかクリアランスが与えられておらず、たとえ支部理事であっても詳細なプロフィールへのアクセスができないようになっている。
 ──そのような人物を、理事のトップに推薦はできない。そういう意見に帰着することは十分に合理的と言えた。だがO5からしてみれば支部全体のガバナンスを疑わざるを得ない状況であり、一時的に子飼いの人間をトップに据えて事態の鎮静化を試みることには一定の理がある。調和よりも前進、信頼よりも実力を重んじる財団組織のやり方としては正しいと言えた。
「……それでは、本日の理事会は終了とします」
 七号理事が疲労の色を浮かべつつ閉会を宣言すると、つぎつぎとホログラムの幹部たちが室内から消えていく。最後の一人が消えると、会議室だったはずの部屋は青色のクロマキーに取り囲まれたスタジオに変貌した。遠隔会議のためだけに整備された部屋は、電源が入っていない状態ではそう長居出来ない外観を有していた。
「……さて、戻りましょうか」
 始まる前よりも少々げんなりした表情の瀬上がそう言って、引坂の方を振り返る。朝っぱらから理事同士の確執を見せられればこんな表情にもなるであろう、引坂は同情の面持ちでうなずき、部屋を後にした。
 サイト-8101では理事選による選挙活動は全面的に禁止されていたが、ほかのサイトでは今日から活動が解禁される。職員たちはイントラネットを通して期間中いつでも投票が可能であるため、各職員団体による候補者の広告もイントラネット上が中心となる。
 それぞれの内部部門ごとか、あるいはサイトごとに存在する職員向けの生活協同組合が後援組織の母体となり、それらの幹部は大抵その部門の幹部も兼ねている。財団には労使対立は存在せず、常に強いのは使用者──有り体に言えば階級が高い方だった。
 だが平等選挙と秘密選挙の原則だけは守られている。ただし自由選挙と言えるかは微妙なところで、実際二次投票時の理事の投票先は、各総局の局長級幕僚たちとの協議のうえで行われるのが通例と言われている。つまり、この選挙活動は一次投票時のみに役立つわけではない。二次投票時にも幕僚部全体で数十名いる局長級幕僚を対象とした活動は効果を上げる。
 数日後。引坂は、開始から三日ですでに十件単位で発生している選挙違反事案を相沢から手渡されていた。
「反二号理事キャンペーンを張っている連中が、財団に対する侮辱を禁じた内規総則に反しているとかで……」
「くだらんが、対処してくれ」
 強硬な態度で反対派に接しているのは、なにも三号理事だけではないらしい。O5の信任を得て横綱相撲を取るかに思われた倫理委員会も、決して引き下がる様子はない。おそらくは内部保安総局もバックアップに回っているのだろうが、選挙違反に関しては人事委員会の専権となっており、普段の警察権の行使は封じられている。
 お互いの陣営に対する難癖に近い告発合戦は、しかし相互監視機能がはたらくことも意味している。引坂は人事委員会の処理能力のキャパシティーを超えない限りは、ある程度この事態を容認する構えでいた。
 紙束を渡して自席へ戻ろうとする相沢を呼び止めた事務局長は、手招きして近くへ来いとジェスチャーする。その仕草で用件に察しがついた審査部長は、引坂が具体的な名前を出す前に「総企の件はまだです」と答えた。
 ため息をついて、引坂は「わかった」と返す。瀬上委員長の発言をどこまで本気にしていいものか。審査部の人員は、諜報機関のエージェントまがいの真似をするための資産ではない。
「ある程度がんばってなにも挙がらなかったら引き揚げていい。ほかにも仕事はいくらでもある」
「了解です」
 腕時計に目を落とすと、そろそろ約束の時間が近づいてきていることに気が付く。引坂は隣の委員室に向かうと、すでに通信が始められていた。部屋のスクリーンには『七号理事官房』という文字が映っており、七号理事の補佐官が委員たちと話をしている最中だった。
「失礼します、遅くなりました」
「これから始めるところです。補佐官、七号理事はもうご到着ですか」
「はい」
 スクリーンが動き、『七号理事』と『記録・情報保安管理局RAISA-JP局長』の文字が出た。内部保安総局とRAISAのトップが一堂に会していることになる。口火を切ったのはRAISA局長のほうだった。
「人事委員会と理事会の双方から要請がありましたので、O5司令部の方にお伺いをたてまして、このたび二号理事の人事情報に対するアクセス制限の一部緩和が認められました」
 要は理事会の要求に、内部保安総局とRAISAが折れた格好だ。粛清の波が押し寄せつつある日本支部のガバナンスを取り戻すためには、O5はこの程度の譲歩ぐらい応じるということだ。
「ただし、野放図に開放するわけではありません。あくまで人事委員会と理事会のみに絞られますし、その中にも細かいクリアランスを新設します」
 七号理事──内部保安総局としては、開示される情報を理事に提供する際には、かならずRAISAの確認を要するものとしている。二号理事のプロフィールはあくまでも支部における最高機密には違いなく、開示にあたっては事前の検閲を必須とするのは譲れないラインだった。
「選挙終了後の記憶処理については、ほかの理事からの反対論が強く実施する予定はありません。しかしながら、O5評議会からは再考を促されています。選挙の終了後に改めて協議を持つ必要があるテーマです。少なくとも、人事委員会のみなさんについては機密接触のあった方全員が記憶処理を受けていただきたい」
 RAISA局長から会話の手綱を譲られた七号理事は、きわめて抑制的な調子をたもっていた。いま現在理事会の紛糾に手を焼かされている当人の心情は、察するに余りある。
「情報隔離作業が追加になるので、事務方の方で準備をする時間を下さい。クリアランス付与はいつごろになるんでしょうか」
「可及的速やかに付与されます。いまこの場でと言われても可能です」
「では、事務局長の方から合図があり次第ということで」
 その後、数点の事務処理に関する確認事項が共有されると、理事との会議は終了となった。委員たちはひそひそとした話し合いをふたたび始めたが、各々の表情は心なしか明るい。理事会としても譲歩を引き出したことで、決定的な対立は回避されるだろうという予想が立った。
「事務局の隔離準備はいつごろ終わりますか」
「一両日中にはかならず」
 結構です、と瀬上が言った。事務局長の出る幕はすでに終わっており、引坂は丁重に一礼すると廊下へ出た。理事のプロフィールへの接触資格は、財団の中でも特級レベルのクリアランスだ。ある意味、出世ととらえてもよいのではないか──などと引坂が考えていると、「事務局長、あとでいいかしら」うしろから女性の声がする。
「瀬上委員長、申し訳ないのですが本日は作業で多忙な予定でして」
「三十分だけでいいから、来なさい」

 
 

 業務時間の終了後、瀬上が選んだ店は、赤坂の料亭だった。サイト-8101からはかなり近いため、万が一深夜作業が発生したとしても引坂は対応できる立地である。だがここに行くと知らされた彼の反応はまず、不審と怪訝だった。Aクラス職員が仕事の話をするのに選んでよい場所ではない。サイト外で下手を打てば機密漏えいでしょっぴかれることになる。
「どうしたんですか」
 引坂の問いに、瀬上はなかなか答えようとしなかった。ただ両者の間にある漆塗りの卓を見つめており、何から話すべきかということを思案しているような雰囲気がった。三十分という時間を真に受けていたわけではないが、事務局長という立場は決して自由に休息をとってよい類のものではない。苦言を呈するために開いた口は、声を発する前にさえぎられた。
「調査に出していた部下が消された」
 いつの間にか、瀬上の双眸はまっすぐに引坂を捉えていた。そんなものを受け取っても、どうしようもない男は、首をかしげながらうなった。どうやら、最も恐れていた事態が彼女の身に起こりつつあるらしかった。
「それはこの場でしてよい話ですか」
「もはやサイトは安全な場所ではないわ」
 この女が悪質な冗談を言うタイプの人間ではないことは、引坂もよく知るところであった。冷水が入ったコップが濡れそぼっていく。いますぐにでも席を立ち、話を聞かなかったことにしたい──官僚としての本能が、男の脳裏で騒いでいた。
「証拠はあるんですか」
「連絡がつかない。三日以上置くなと厳命してある。そして内部保安総局はわたしを捕まえに来ていない」
「忠誠心にあつい部下が、あなたをかばっているだけかもしれませんよ」
「もし内保に捕まったらすぐに白状しろとも厳命していた。ありえない」
 人事委員長閣下は、事務局長の想像をはるかに超えて肝の据わった人間だった。職権を濫用して探偵ごっこに興じている人間にしては、ずいぶんと覚悟の決まったやり方であった。それだけ、瀬上には確信があったということでもある。引坂は己の見当違いを悔いつつ、しかし審査部の調査がここ数日まったくの空振りであったことも思い出す。
「審査部も医療政策局には手を入れてますが、釣果はさっぱりでしたよ」
「内規を守りながら調査をやってたんじゃ、なにもつかめないのは当然だよ。うちの資産アセットは盗聴やら盗撮やらもやっていたから」
「聞きたくなかった話ですね。それで、結局なぜ『消された』と判断するに至ったんでしょうか。まだ、内部保安総局があなたを泳がせているだけという線が完全に消えたようには思えませんよ」
「疑り深いのね。そうね、グレアム・マクリーンはわたしたちのことはとっくにつかんでると思うわ」
 その『たち』に自分が含まれていないことを祈りながら、引坂は挑発的な上司の言葉に耳を傾けている。
「──そのうえで、見逃している。たしかにあなたの言うとおり、わたしたちは泳がされている」
「どういうことです、内保がそんな真似をする理由はなんです」
「いまは理事選挙の最中よ。派手に内保が捕り物をできるようなタイミングじゃない。ただでさえ奴は一号理事を更迭した件で管理部門から恨まれているのに、状況が悪すぎるもの。革命を起こすならこれ以上敵を増やしている場合でもないでしょうよ」
「……わかりました」
 あくまでも話を聞いただけだ、と自分に言い聞かせつつ、引坂はうなずいた。もうすべてが遅かった。この女から機密入りのメモリーカードを受け取ってしまっている時点で、男は反逆罪の片棒を担いでいるのだ。
「それで、どうなさるおつもりなんですか」

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