201█年、冬 (PEJEOPATシリーズ第一話)
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「本名、コンスタンティ・アレクセイヴィッチ・イヴァーノフ。ロシア連邦軍大尉。在京ロシア大使館の駐在武官付副官」
「捕まえろ。ロシア連邦軍参謀本部情報総局GRUの子飼いらしいが、詳しいことをロシア支部がしゃべらない」
 班長は長く鼻息を吐き、連日の折衝に疲れた様子でソファに腰掛けた。
 ぼくら──非特定組織専従班は、諜報機関が広域指定していない非特定要注意団体への諜報活動を基本とする、いわば便利屋のような側面がある。ロシアの小規模GOI所属のスパイの尻尾を掴む任務というのは、いかにもわが班に回ってきそうな内容だった。
「麻布台に行ってきます」
「西塔が外事警察に対象の情報がないか照会に行ってる。あとで合流しろ」
 班長の言葉に頷き返し、ぼくはため息混じりにはい、と答えた。脳裏に切れ長の目を持った同僚の顔が浮かび、また長い長い共同生活が待っているのかとげんなりする。
「またお前と行確か」
 基礎調査はすでに終了している。外事警察はろくに情報を持っていなかった。というより、取り上げられていた、という方が正しいのかもしれない。外事警察が持っていたのはオープンソースの情報だけで、イヴァノフが日本においてアレクセイ・キリリチェフという偽名で活動しているという程度のものだった。
 警察庁は特事調査部が介入のための準備を進めているらしい、というのは西塔が個人的な人脈から聞きつけた話で、どうやら有益な情報はそのぐらいだ。外事警察はすでに、特事部の情報封鎖に巻き込まれている。
「こちらのセリフですよ、西塔さん」
「お前頼む出前が蕎麦ばっかりだからイヤだ」
 広域司令部諜報機関はすでに港区のマンションをひとつ借り上げていて、即席の監視所として機能させはじめていた。ぼくと西塔はこれから数日、何人かの交代人員とともに監視の任に当たらねばならない。
 すでに凍える寒さが到来している折、気の遠くなるような長時間の追尾に比べれば、まだ屋根の下で過ごせるぶんマシだろう。
「……ロシア人、なにしたんだっけ」
「あまり詳しいことは。この前、通信システム隊の幹部が一人更迭されたんですが、それに関わってるそうです」
「そんな案件でわたしたちが?」
「上の考えてることはわかりません。とりあえずあの工作員は、ウエットワークのために遣わされた可能性が高いですね。班長が自衛隊担当に当たって、当該幹部の生死を確かめてます」
 部屋に置かれた複数台のモニターは、ロシア大使館の入り口を複数の角度から映している。警備の警察官にぼくがなりすますという方法もあったが、特事課に手がかりを与えないため警察との協力は見送られた。
 今回の件に通信システム隊が関わっているとすれば、"夜鷹1"による関与の可能性が出てくる。かのGOIは防衛省の外局組織という体ではあるが、合同情報会議に代表者を派遣せず、内閣の超常コミュニティからも独立している。比較的情報が少ないことから、政府系としては諜報機関が最優先で解明を目指していた。
「おい、あれ対象じゃないのか」
 カップラーメンをすすっていた西塔が、レンズ越しにその姿を捉えたようだった。駐在武官の予定はロシア支部が渋々引き渡してきた情報の一つで、それに照らせばほぼ定刻通り、武官が大使館から出てきたことになる。
「こっから、なんだ、どこ行くんだ」
「ロシア系通信社の幹部と会食だそうです」
 やり取りをしながら、ぼくらはすでに尾行の準備を整えている。偵察衛星がもたらされる位置情報をもとに駐在武官とその副官──つまり対象──の公用車をトレースし、ぼくらはそれにしたがって車を転がす。
「会食の場所は?」
「都庁近くのホテルです。その幹部が宿泊しているそうで、ワーキングランチってやつですかね」
 すでに当該ホテルには非特定組織専従班の工作員が潜り込んでおり、会話内容について逐一報告するための態勢が整えられている。あえてぼくらが追尾行動を起こすのは、イヴァノフが会食の過程でどこかへ離脱する可能性を踏まえてのことだ。比較的些末ともいえる案件に、公安警察なら考えられないぐらい潤沢な人的資源マンパワーを投じている。
 ──というのは、ぼくの早合点かもしれない。"上"の諜報機関が持ってきた情報は、イヴァノフが防衛省系GOIの人事異動に関与しているらしいというなんとも曖昧なものだった。これが実際にGRUによる暗殺であり、その実行犯がイヴァノフであったとすれば。自らの管轄内で無法を働かれた日本支部が、何らかの行動を起こすことは間違いない。
 ぼくらは、その片棒を担がされているのかもしれなかった。
 ホテルのレストランに着いたロシア人たちは、周囲に人いない卓へ案内されていた。副官や秘書官たちも近くに固まっており、イヴァノフの姿もそこにある。ワーキングランチとはいうものの、件の幹部と駐在武官は旧知の仲であるらしかった。
「予定だとあと1時間半ほどはあのままです」
「つまらんな……」
 スラヴ人らしく輪郭の丸い顔に、少々鋭すぎるきらいのある双眸が光っている。コンスタンティ・イヴァノフは控えめな微笑を浮かべたまま、武官と旧友の会話に耳を傾けていた。1時間半の会合の末、結局副官は何をしでかすこともなく駐在武官事務所への帰途についた。
「空振りかよ」
「まだ始まったばかりです」
 不平を言う西塔の運転は荒い。常に追尾を警戒している関係でまっすぐ帰投するわけにもいかないわけだが、それにしたって赤信号をいくつも無視されるのは元警察官として胸がざわつく行為だった。
「なにをそんなに苛立っているんです」
「言いたくない」
 いま一度持ち合わせているイヴァノフのプロフィールに目を落とす。彼の経歴はほとんどが黒塗りで潰されているが、その間から赤い血がしたたり落ちてきているような気がした。ロシア軍の将校としてチェチェン紛争に参加していた、というのが彼の公にできる最後の情報だ。最終階級は大尉。キリリチェフとしての階級と同じ。
 ‎ロシア人たちは当然ながら、日程外の行動を一切取らない。ロシア支部が寄越してきた情報はまったく正確で、ぼくらの時間はこのまま、ただ無情に消費されていくだろう。予定では、彼らはこのまま10分後には事務所に着いている。
「──はい、海野です」
 班長からの電話だった。
「やっぱり殺しだ。新宿の路地で幹部本人と見られる死体が見つかった。その身分はいま別の人間が背負ってる。人事情報はもう書き換えられてるが、財団が持ってる人事名簿のバックナンバーと食い違った。誰かが入り込んだ形跡だ
「では"P"部局がウエットワークをやったと」
「そいつらがやったという確証はない。機構が聞き付ける前に現場を押さえようと思ったが、一足遅かった。一番乗りしてるのが刑事部じゃなくて公安で、なぜか本庁の刑事ばかりが捜査に参加してる。十中八九特事部の連中だろうよ。なんか妙だが、とりあえずまだ機構は絡んできてないらしい」
 異常存在絡みではない事件に、特事部が出張る必要はない。となれば、その殺人には超常組織が関与しているとみるのが順当な推理だろう。だが、その点は置いておいても、特事部の動きがあまりに早すぎるように思える。
 西塔が急ブレーキをかけ、シートベルトがぼくの首を締め上げる。
「ちょっと、西塔さん」
「いまからその現場行くぞ」
 

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「ちょっと、ここは一般人立入禁止なんです」
 規制線に立つ警察官が、事件現場へ猛然と歩いてきた怪しい二人組へ声をかけた。男女二人組のペアはそれぞれスーツに身を包んでいたが、まとっている雰囲気はだいぶ異なる。片方は見るからに堅気の会社員の男、もう一方は半グレの構成員かのような目をした女。
「あん? うるせえよコスプレ野郎。警察手帳出してみろ」
「あの、齊藤さん」
 しょっぱなから喧嘩上等の突っかかり方をした同僚に、ぼく──男はあわてた様子で制止に入る。だが警察官は不幸にも不心得な新人で、警察手帳を女の前に突き出した。
「れっきとした警官です。これは公務執行妨害ですよどうぞお引き取りください」
「──やっぱり特事警察か」
 半グレエージェントの西塔は手帳の情報をデータベースへ照会し、迂闊な新人警官の人定を手に入れた。違和感に気づいた新人刑事が手帳をひっこめると、次は二人が身分証を提示する。
「財団渉外部門から来ました、齊藤です」
 齊藤──西塔──は名刺大のケースを開き、いくつかある名義のうちの一つを名乗る。
「機構連絡事務局から来ました、忌野です」
 ぼくもそれにならって名刺を、よく見えるように目線の高さまで掲げて名乗る。
「帰れ。お客様がいらっしゃるなんて連絡は受けていない」
「なら今から電話してやるよ。上の上の上にな」
 黄色いテープをまたごうとするエージェント・齊藤を押しとどめようと、刑事は立ちふさがる。
「じゃあ電話してからここをまたげ」
「なんの騒ぎだ」
 奥からベテランと思しき刑事が、特事警察らしくマスクに眼鏡という出で立ちで現れた。見覚えがある。諜報機関の特事警察構成員リストに載っていた顔だ。階級は警部補。もう数年で定年。家族構成まで明らかにされている。
「こんにちは」
「……お引き取り願え」
「おお、これは大屋さん。お久しぶりです」齊藤の顔が酷悪な形にゆがみ、苦々しい中年と好対照をなす。「ずいぶん冷たいなあ。久しぶりの再会だのに」
 何やら因縁があるらしい二人の様子に戸惑っている新人は、一瞬の隙を突かれて齊藤の侵入を許していた。だが大屋と呼ばれた刑事は特に追い払うような仕草を見せるでもなく、眼鏡を外して目頭を押さえている。財団の工作員に弱みを握られるという最悪のステータスを持っているベテランは、一言だけ漏らした。
「何しに来た」
「なにって、現場検証だよ。ほら、こちらはPEJEOPATのリエゾン」
「嘘つけ。どうせ同僚かなんかだろ」
 一瞬で見破れるところは、さすが特事部とはいえどベテランのなせる業だろう。日本国内では各組織に身柄保障義務の生じるPEJEOPAT連絡事務局の調整連絡官リエゾンは、財団や連合もよく使う身分詐称の一つとなる。
「機構はすでにこの案件の組織間調整に動き出してる。上司に叱られる前にヤマをこっちにも寄越せ」
「早いな。またうちのモグラがチクったってわけだ」
「異常存在関連事件の報告義務は各組織にあります」
 一応役柄としての務めを果たそうと、ぼくはすべての組織がないがしろにしてきた建前口上を述べた。鼻で笑うことすらしない大屋は、首をただ傾けて曖昧な表情を作る。ついてこいという合図らしく、西塔はどうもどうもと言いながら歩き出す。
 フットカバーをつけさせられ、手袋にヘアカバーと完全防備の格好でテントをくぐると、そこには殺人事件現場でよく目にする光景が待っている。鑑識はすでに撤退し、刑事たちがまばらに立っていた。全員がこちらの面識率の確認を阻むように、顔を何かしらの手段で覆っている。
「被害者は──」
「犬山等助44歳。3等陸佐。通信システム隊所属」
 遺体はすでに科警研法科学第5部2へ持ち去られ、殺害現場にはホログラムによって再現された遺体の状況が映し出されている。首筋にナイフが突き立てられており、凶器は被害者自身が握っているそれだろう。
「殺しですか」
 納得しているわけではない。PEJEOPATの調整官らしい当たり障りない言動を心がけた結果、微妙なニュアンスを持った発言が出てしまっている。大屋は腕組みをしたまま、目だ、と言った。
 タフブックを操作していた新人刑事がエンターキーを叩くと、遺体の瞳孔部分が拡大表示される。巨大な顔が現場に広がり、一種異様な光景が現れた。暗い虚無が沈む瞳孔の内部が照らされると、赤褐色の網膜がところどころ焼け焦げているのが見えた。
「視覚を介した情報災害インフォハザード。パラテック絡みの犯行で決まりだ」
「使われた兵器は」
「いまんとこ不明。──よく見てみろ」
 拡大された網膜に写っている火傷のような紋様は、ところどころが欠落しており、意図的に出力が調整されたような印象を受ける。これでは、使用された情報災害兵器を同定するのは困難を極めるだろう。
「とはいえ自殺衝動惹起のものであることは確実だ。とりあえず通常の刑事事件として立件はできねえ」
「ラボにこの遺体のデータを持ち帰る。いいな?」
 言いながら齊藤は新人を押しのけ、タフブックにフラッシュメモリを差し込んでいる。やっぱりそうきたかと言いたげな大屋は、ぼくの方をちらと見た。
「情報共有に関する協定には合意されているはずです」
「好きにしろ……」
「──ロシア人のやり口とは思えんな。そもそも死体を残す必要だってよくわからない」
 その気になりゃまるきり消せるだろう、と齊藤はつぶやいた。
「ロシア人?」大屋は迂闊な諜報エージェントの言葉端をつまみ上げた。「財団はそう考えてるのか。なんでまたそうなる」
「あんたらは調べたのか? こいつの背後関係」
 ややふてくされた様子でエージェントはしゃがみこみ、遺体のホログラムをあちこち眺めている。刑事はまだこちらの発言を消化しきっていないようで、探るような調子を崩さずに言った。
「駐在武官の周辺が接触してることぐらいうちでも把握してる。ロシア大使館のきな臭いやつなんてみんな視てるからな」
「ならわかるだろ。こんな方法で殺される理由なんてそうそうあるもんじゃない」
「早計だ。物証が挙がってない」
「じゃあなんだ、そっちの身内がやったのか?」
「ふざけるな、おれたちは法執行機関だ。こいつが何をしでかしたにせよ、いきなり殺すなんてことはありえない」
「特事警察は」ぼくはだんだん怪しくなってきた話をなんとか軌道修正すべく、二人の間に割って入った。「この事件を何を経由して知ったのでしょうか。第一発見者は。異常存在に遭遇した一般市民を不法に拘禁することは禁止されています。場合によっては、条約に基づいた査察を──」
「匿名の通報だ。本庁に確認してみろ。通信指令室ではなく、直接特事課に連絡が来たんだ」
「いつ」
「数時間前だ。なにが言いたいんだ、お前らは」
 大屋はいよいようんざりだと言いたげにぼくを睨み、新人を急かすとその場をあとにした。その場に重たく湿った居心地の悪さだけが残され、ホログラムの失せた現場にはもう乾いてしまったアスファルトがあらわになっていた。
「周辺のカメラ映像のスクレイピングが終わりましたが、手がかりなしです」
「現場で話すな。あとで聞く」
 西塔は消えてしまったホログラムに寄り添うように、その輪郭をなぞる。本人の自宅からほど近い路地裏で、まるで見せしめのように殺された男。勤務先から帰る途上だったようだ──近くの料理店から包丁を持ち出し、それで自らの頸動脈を断ち切った。
「もしロシアじゃないなら、じゃあ誰がやったんだ。何のために」それはぼくへ向けられた問いではない。「特事部に現場を握らせた。誰がやったかはわからないようにしつつ、死んだことは明らかにするためだ。誰へのメッセージだ」
「まだピースが足りませんね。イヴァノフ──"P"部局の犯行でない場合、この事件の解決は一気に困難になります」
「もう出るぞ忌野。ここは用済みだ」
 ぼくの偽名を呼んだ齊藤は、殺された犬山が歩いてきた道を辿りだす。
 死亡推定時刻は数時間前──午後2時頃とされていたが、遅効性の情報災害であった場合、これに暴露したタイミングは下手をすれば数日前という可能性まで出てくる。
「妙だ、何もかも」
「ええ」
 一度分かれて追尾を撒いた後、ようやくぼくは西塔の車に合流を果たした。特事警察とて、素人の集団ではない。大屋がなんだかんだと言って西塔と縁を切らないのは、面識を増やすことを至上命題とする公安警察のやり方に沿った行動だと言える。そして当然、彼らの前に姿を現したぼくらには追尾が付く。
 すでに車を乗り換えていた西塔は、やはり不機嫌そうにハンドルを握っていた。
「そもそもだ、海野。イヴァノフを見張るように言い出したのはどこのどいつだ」
「少なくとも広域司令部よりも上の諜報機関でしょう。もしくは渉外部門か──」
 そうじゃねえ、と先輩エージェントが言い出すのは想像がついていた。ただぼくは、この面倒な性格をした人間が、効率的に憂さを晴らせるように立ち回っているに過ぎない。西塔はつまりこう言いたいのだ。そもそも、犬山の死にイヴァノフが関わっていると知っていた人間は誰なのか
「犬山の飼い主は何も言ってないんですか」
「夜鷹部隊か、まだやつが構成員と決まったわけじゃないが──いや、まさかな」
 何か脳内から雑念を振り払うように、西塔は微笑んだ。ようやく機嫌が直ってきたかと安堵したぼくは、次の瞬間急ブレーキによって気道を潰された。

 

「逃げられた?」
「はい。大使館内の盗聴システムがここ数時間対象の声を拾っていません」
 現場視察を終えたぼくらを待っていたのは、臨時で出動してきた交代要員の困り顔だった。イヴァノフの姿が消えている、という。
 偵察衛星、ドローン、張り込みと複数のレイヤーに渡って構築された監視をかいくぐって脱出するというのは至難の業だ。考えられる可能性を一つ一つ潰していくしかない。
「大使館周辺のEVE放射は」
「アポーテーションの痕跡は確認できません」
「普通に変装かなんかしたんだろうよ。"P"部局の工作員だ、財団の監視システムに多少詳しくてもおかしいことはない。それより問題なのは」
「気づかれてる、ってことですね」
 派手に動いたとすれば、犬山殺害の現場に出向いたときぐらいのものだろう。だが多少この界隈に身を置いている人間であれば、あそこまでの事件を起こしておいて、財団が首を突っ込んでこないはずがないことは容易に想像できるはずだ。
 そこから大使館自体がすでに諜報機関にマークされていると想像できるのは、単にイヴァノフという男の慎重さ故なのか。
「夜鷹が彼に通報したという線は」
「ありえますが、自分とこの関係者を殺したやつをわざわざ助けるんでしょうか」
「彼らが殺させた、というのは」
 細い切れ長の目がこちらを見ていた。西塔なりに考えがあっての発言であることは間違いなかったが、この時点でその結論に達するにはいくつかの飛躍がなくては無理だろう。
「お言葉ですが、憶測がすぎるのでは」
「いや、動機はあるかもしれん」
 後ろから割り込んできた班長は、工作担当監督官オペレーションズ・ディレクターと会ってきた、と言った。複数の作業班を束ねる監督官は広範な権限を持ち、事案対処について戦術チームの投入、あるいは機動部隊によるオペレーションを諜報機関管理官へ要請することができる。つまり、ぼくらにとって上の上の存在ということだ。
 班長は、サイトに戻るよりここに寄った方が早かったと、ぼくらが買い溜めていたペットボトルの一つを開けた。
「さっき、理事会経由でロシア支部諜報機関に公的な情報共有の打診を出したらしい。クリアランスと機密保持の問題でこちらに開示されてない案件があるみたいだ」
「それが動機となにか関係が」
「大使館内をもう一度洗い直せ。死んだ幹部とつながりがありそうだ」
 班長が机に放った書類は、公安の内部資料らしかった。
「外事警察……? 特事部ではなく」
 西塔が書類を取り上げ、いくつかページをめくっている。肩越しにその内容に目を通すと、異常存在に全く無関係な基礎調査の結果が載っていた。
「犬山3佐は外事にマークされてたわけだな」
「特事の情報封鎖で気づくのが遅れたが、イヴァノフ以外の大使館員とも接触していた可能性がある」
「"神州"にオーダー出しましょうか。西塔さん、遺体のデータはどちらに」
 人工知能運用部門AIADは諜報機関にかなりの規模にのぼる演算リソースを貸し出しており、諜報活動専従である人工知能徴募職員AIC分離人格サブシステムを用意している。"神州"と識別名称を与えられているそれは、AIADの疑似人格搭載型メインフレーム制御系開発計画から、やや外れた存在だった。
 非英語の学習基盤を持ったシステム多様性政策の一環──という門外漢にはいささか不明な何らかの事情があるらしいのだが、とにかく諜報機関にとって類まれな処理能力を持った"人員"の存在は、絶大な信頼をもって迎えられている。
 ぼくはイントラネット専用端末を開き、西塔からフラッシュメモリを受け取る。声を持たないサブシステムは、遺体のデータを受け取ると、即座に彼とロシアに関係を持つ人間との接触状況をリストアップした。
 リストの系統は3つ、オシント、テキント、ヒューミントに大別されている。
 このうちオシント、公的記録に残されているものは該当なし──特事の情報封鎖も影響しているだろうが、これはだいたい想定のとおりだ。ヒューミントの情報も同様に該当なし。諜報機関の自衛隊担当も暇ではない。すべての隊員と人間関係を結んでいるわけではないのだから当然だ。
 そうなると、結局もっとも手軽で信用ならないテキントだけが残る。神州は、財団諜報機関がアクセスできる都内の監視カメラ群から、スクレイピングされた映像をいくつか拾ってきていた。
 AICは結果の確度を90%以上とし、接触者の分析を表示する。
「……会合自体は目につく場所でやっていないようですね」
「だが、確実にイヴァノフ以前に特定の誰かが接触していた」
 オレーグ・バラクシン、駐日ロシア大使館1等書記官。犬山3佐が殺害される以前には接触が途絶えているようだが、その時期はイヴァノフの着任と前後している。犬山とは同じ店に出入りしているというだけで、神州にも決定的な証拠は見つけられないようだった。
「バラクシンの経歴を調べろ」
 神州は瞬時にロシア支部諜報機関の一時クリアランスを取得し、そのデータベースへアクセスを果たす。件の外交官は要注意人物として、政府のデータベースからそのまま人事情報が引き抜かれていた。
「ロシア連邦軍参謀本部情報総局……」
「イヴァノフと同じ出自か? 部署は」
「削除されていますね。神州は"P"部局所属の可能性が極めて高いと」
「──あいつが消しに来たのは犬山じゃない」ノートパソコンをぼくからひったくった西塔の顔は、ようやく真実を探り当てた者のそれだった。「ターゲットはこいつ、この男だ」
 

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「──夜鷹部隊は裏切り者を始末したんだ」
 西塔はたどり着いた一つの仮説を、ぼくらに向かって披露した。
「バラクシンは"P"部局のケース・オフィサーとして犬山に近づき、情報を略取していた。だが犬山も見返りに"P"部局の情報を得て、あの二人は夜鷹とGRUの双方からマークされ、ある時まずい情報を掴んだ。おそらくイヴァノフはこの件を調査し、必要によってはウエットワークを行うための要員だ。だが先に行動に出たのは夜鷹だった。犬山を殺害し、超常組織間に伝わるようにあえて特事課に捜査を行わせた。イヴァノフ──GRUへのメッセージだったのかもしれない」
「これで手打ちにしろと」
「たぶんな。それでイヴァノフが引き下がるとは思えないが」
「バラクシンが逃げ出したのだとすれば、それは身の危険を感じてでしょう。しかし逃げ場が? この狭い日本に」
「夜鷹が手引きするかもしれない。一種の亡命になるか」
 ロシア大使館に潜入していたエージェントの情報によれば、例の1等書記官、バラクシンは体調不良によって欠勤しているということだった。すでに無人偵察機UAVがバラクシンの自宅が無人であることを突き止めており、待機していた別の作業班が行方の捜索に乗り出した。
「神州の手を借りて過去4時間、ロシア大使館に出入りした人間全員をトレースする」
 班長は再び工作担当監督官と接見するべくオフィスへ戻り、ぼくらは張り込みを引き払うべく準備を始めた。西塔はたった数時間でも部屋を腐海に沈める能力を持っており、ぼくはゴミ袋を諸手に抱えてマンションを出た。
 実際に気の遠くなるようなトレース作業を行うのはすべて神州の役目だ。最近の諜報機関の予算の中で無視できない規模となりつつある光熱費の大半は、彼らAICの大規模演算時の消費電力が原因だった。全地球常時観測衛星システム
GLOCOSS
とリンクしたリアルタイム追尾が数百もの人間を対象に同時並行で行われ、別のサブシステムはバラクシンが最後に出勤した日の動きを逐一調べ上げている。いまや財団諜報機関のテキントとオシントの大半は、人工知能たちにアウトソーシングすることが通常となっていた。
 一時間とかからずに、バラクシンが潜伏していると思しきホテルが同定された。
「行きましょう」
「ああ」
 ボディーアーマーを着込んだ西塔は、普段は着ない黒いジャケットを羽織っている。流石にいつものワイシャツ姿で、ホルダーの拳銃を晒すわけにはいかないからだろう。
「イヴァノフの居場所は」
「神州の報告では、対象が潜伏中とみられるホテルの周辺に4台ほど所有者不明の車両が確認されています。このどれかがイヴァノフのものかと」
 武装したフィールドエージェントがそのすべてに接触を試みているが、おそらくすでにもぬけの殻だろう。ウエットワークのための部隊は、現時点でホテルに侵入を果たしている可能性がある。
「わたしとおまえで現場を押さえる。イヴァノフが抵抗した場合には、後方待機の戦術即応チームが出る。いいな」
「はい」
 セーフハウスを出たぼくらの前に、白いバンが止まる。開いたスライドドアには、強襲作戦装備で身を固めた戦術チームが待っていた。一瞬ぎょっとしたぼくは、その中から見知った顔を見つける。
「乗れ」
 班長は戦術チームの客員幕僚として、一応程度の武装を備えていた。馬子にも衣装という言葉が喉元まで出かかったのを飲み込み、狭い車内へ乗り込む。
「フロアまではこのチームが制圧を行うが、最終的な接触はお前たちに任せる。第一目標サブジェクト・ワンは10階中央の部屋にいる。ルームサービスとして内部へ侵入しろ。カードキーの複製はこれだ」
 西塔が羽織ったジャケットの胸ポケットには、"齊藤"と書かれたネームプレートが光っていた。イヴァノフがおそらく単独犯でないことは当初から予想されており、戦術チームを中核とした統合対処チームの陣容はバックアップ併せて16名となかなかの大所帯だ。
「行ってこい。幸運を祈る」
 バラクシンが潜伏していると見られるホテルは、都内でも上流に位置するクラスのものだった。ぼくらを乗せたバンは地下駐車場へ進入し、その場に即席の通信指揮所を構築した。同時に、場内でイヴァノフが逃走に使用すると思しき車両が何台か確認され、すべてが走行不能な形に手を加えられた。
 ホテル側には警察による凶悪犯の捕縛を目的とした作戦である、と通達しており、10階周辺のフロアから人を払うように指示が出されていた。高層階に宿泊していた客たちは強制的に退去させられ、万が一に備えて財団の医療・防災部隊も手配されている。
「……遅い」
 ぼくらはエレベーターで一気に9階まで上昇すべく、なかなか降りてこない電光掲示をにらんでいた。西塔は苛立った様子で、足を周期的に打ち続けている。
 すると隊員の一人が異変に気が付き、無線を吹き込んだ。
「こちらエコー。無線通信の一部にノイズ。ジャミングの可能性大」
「総員、周波数帯を変更」
 やはりここにイヴァノフと、バラクシンがいる。ぼくは思わず、左胸の自動拳銃に手を伸ばしていた。現役の刑事時代にはついに一度も使うことがなかったが、今回ばかりはそうもいかないかもしれない。
「──突入各班へ、こちら監視班。FLIRにて監視を実施中のところ、10階フロアにて不審な人影を一、また8階・9階フロアに複数の人影を目視にて確認。警戒されたし」
 なに、と西塔が顔を上げる。犯行は深夜に行われるだろうという予測が立てられていたが、もうイヴァノフたちは仕留めるつもりでいるらしい。
「監視班、CP。内部映像の詳細求む」
「現在監視カメラ映像を確認中──対象発見。第二目標サブジェクト・ツーです。現在P1へ向け進行中」
「突入B班、CP。配置完了はまだか」
「CP、突入B班現在ヘリにて現場へ急行中。現着予定時刻2201」
 統合対処チームの指揮官の声音は、いたってフラットであり続けていた。だが現場にいる誰もが焦燥感に駆られていた。屋上から制圧に入るB班の到着までは、あと6分。おそらくそれだけの時間があれば、イヴァノフは仕事を終えられるだろう。
 異様に長い数秒間がその場を重いセメントのように押し固め、その沈黙はエレベーターの到着によって破られた。想定より、何もかもが早すぎる。監視班はその間にも報告を続け、イヴァノフが部屋の内部へ侵入したと告げた。
「戦闘と思しき状況……生体熱源が、一つ消失」
「任務を続行する。現場を保全し、第二目標の確保を実施する」
 エレベーターのドアが開いた。
「行こう」
「はい」
 ぬるい空気が顔に触れ、ぼくらは駆け出した。

 

「スロジェストヴォム、ペルヴェイイ・セクレター・ア・クラッサ(よいクリスマスを、一等書記官)」
 男はロシア人だったが、グラッチは好みでなかったらしい。愛国心の足りないその目を限界まで開き切った表情は、そのもの恐怖を体現しているというにふさわしかった。抵抗する暇を与えられることもなく、サイドテーブルに伸びていたはずの手は無残にたたき折られている。大腿部の貫通銃創は、非情にも逃げおおせる希望を多量の血とともに流失させていた。
 頭部に一発と胸に二発。エージェントは一応フラッシュライトを瞳孔に当てて、即死したことを確認する。アレクセイ・キリリチェフ駐在武官付副官は、かつての同僚の最期を写真に収めると、踵を巡らせた。GRUと財団の双方から付け狙われていた男の最後にしては、まだ穏便なように思える。逃げ出そうとした夜鷹部隊のカットアウト──気絶している──を脇に追いやって、暗殺者はドアノブに手をかけた。
 首筋を悪寒に似た微弱な電流が走り、仕舞い込んでいたグラッチのグリップをふたたび親指が探り当てていた。トリガーに指をかけ、左手で慎重にドアを開いていく。壁越しにかすかな痕跡を感じ取り、イヴァノフはドアの前にいる者がなんであれ撃つ覚悟を固めた。ふと床に視線を落とす。黒光りするオックスフォードの革靴が、先端だけ覗いている。
 彼の得意とするハンティングの鉄則は機を待ち続けることだが、いまのイヴァノフは狩られる方の立場にあった。決断は早いほうがよく、機を逃せばそれが最期になる。
 ドアが嫌な音を立てて開け放たれる。同時に鈍色の鉄塊が火を吹き、数発の弾丸が靴の主へ向けて撃ちこまれた。
「動くな」
 初歩的かつ、幼稚な手だった。後頭部に突きつけられたそれを感じつつ、両手を挙げる。床に置かれていたのは、たしかにこの男の靴のようだった──ただし、左足の分だけだが。
「コンスタンティ・イヴァノフ大尉」
 この国では名乗っていないはずの名前。階級はGRUから仮に与えられたものだったが、それは彼の軍籍と偶然の一致を果たしていた。あるいは、それも調べ上げられているのかもしれない。
「警視庁公安部だ。ご同行願う」
「断る。外交官特権を行使──」
 グロックが首筋へ振り下ろされるのをぎりぎりで回避した軍人は、振り向きざまにためらうことなくトリガーを引く。弾丸は身を沈めていた男の頭上を過ぎ、素顔のしれない刑事は鋭い気勢を発した。ほぼ同時にグロックのグリップの底が水月にめり込み、イヴァノフは防弾チョッキに心から感謝した。
「ジュードーか? 日本の警官はピストルを撃つよりそっちの方が得意だそうだな」
 黒いスーツ姿の二人が、拳と蹴りの応酬を繰り広げている。刑事は平凡な顔をした日本人だった。肘鉄を起点にしてふたたび懐へ入り込んだ日本人は、逆の手でイヴァノフの後首を掴もうとする。イヴァノフは守勢に陥ることなく反撃に出て、逆に男の首へ肘を回す。組み合った二人は、単純な力勝負に引きずり込まれていく。体重の重いイヴァノフは上から覆いかぶさるようにしてアドバンテージを得ようとし、刑事は壁を蹴って拘束から逃れようともがいた。
 もう数分もすれば掃除屋がやってくるはずだった。そうなれば一介の刑事に過ぎないこの男は、間違いなく処理されるだろう。相手の打倒を目標とせず、ただ時間を稼ぐだけでいい。そう考えを巡らせていたイヴァノフの心中を読んだかのように、男は言った。
「FIAはお前を捕まえろと言ってる。抵抗はよせ」
「……なに」
 一瞬の間隙があった。すかさず靴下からナイフを取り出した刑事は、首に絡みついた左腕へ突き立てた。拘束を抜け出た男はグロック19を構える。だが南オセチアの戦場を生き延びてきた軍人にとって、その程度の虚仮脅しは足を止めるほどの事由とならない。
 片腕で照準を定めないまま数発撃ち、刑事がひるむ横を走り抜けていく。血が点々とその後を追い、階下へ続いていた。
 状況はかなり悪い。FIA──財団諜報機関が自分に手配をかけるなどという状況は、まさに最悪事態想定の中だけの話だった。GRU、ひいてはロシア連邦軍、政府と財団が決裂したのか──それはさらに考えにくい事態だろう。となれば、結論は一つしかない。
 祖国は彼を売ったのだ。
 止血を終わらせたイヴァノフは立ち上がる。ホテルの中は、財団のお膳立て通り無人だった。数フロア下には、バックアップチームが待機しており、数時間前にブリーフィングした部屋もある。あの時まで、まだ周りは全員味方だった。
 連絡を取ってみるべきだろうか。無線はジャミングによって通じないが、緊急連絡用の簡易思念交信機があったはずだ。
「本部、こちら"アリョーシャ"。目標を処理した。現在正体不明の工作員から攻撃され受傷。応援求む。送れ」
「ネガティブ。現在われわれは不明な武装集団により包囲されている。ただちに離脱、不可能な場合は投降せよ。送れ」
「アリョーシャ了解」
 喜ぶべきことに、あのGRUとFSB上がりの混成チームの連中は彼を裏切ってはいないようだった。彼らも包囲されているのであれば、イヴァノフと状況は同じである。財団の変心に踊らされ、いままさにからめとられようとしているのだ。
 彼の知らないところで、事態はすでに最悪の形で進行していた。ホテルに潜入したのは数時間前、その時点では日本支部と思しき武装集団は確認できなかった。明らかに日本支部──と思しき集団──は、イヴァノフの動きを読んでいる。大使館に監視が付いていることは察知していたが、ここまで早くバラクシンへのウエットワークが明るみに出るとは想定外だった。
 日本支部諜報機関はもうすでに、自分を捕らえると決心している。彼らのシマで散々暴れたことは認めざるを得ない──外交問題に即発展しかねないという事案の繊細さから、日本支部や政府にもできれば気取られるなという注文は、やはり無茶の上塗りにすぎなかった。
 GRUは自らの不始末を、自らの手で拭おうとした。その見栄が彼を動かし、そして最終的にロシア支部による暗殺任務ウエットワークというろくでもない事態を招いている。彼の人生を振り返れば、自分のキャリアと生命はほぼ表裏一体を成していた。今もまた、組織の体面と論理によって彼のキャリアと生命が同時に危機にさらされている。
「……クソっ」
 上から階段を駆け下りてくる音がする。バックアップチームからの応援は期待できない。あの一等書記官の逃走を防ぐため、ホテル内にあるすべての部屋は施錠がされているはずだ。やり過ごすのは至難の業である。
 反対側の非常階段へ駆け出したイヴァノフは、嫌な予感を振り切るようにして階段室のドアノブをひねった。
 左頬に衝撃。あの刑事とは別のエージェントが、満身の力を込めて右ストレートを繰り出していた。よろめいたイヴァノフは、飛びかけた意識を踏み締めた右脚でつなぎとめる。
 雄叫びを上げると、切れてしまった口の中に鉄の味が広がった。腰の捻転を最小限に、フックを撃ち出す。エージェントはその動きを読んでいたかのようにスウェーすると、完全に虚となった右脇腹へもう一撃を加えようとする。
 その拳の行く手には、グラッチの銃口が待っていた。しかし引き金を引くより早く、エージェントは身を沈めて足払いを仕掛ける。これを脚の動きのみでかわしたイヴァノフは、新手のエージェントの顔を見た。女。どこかで見たような、するどい目つき。あるいは彼の旧知かもしれない女が身を起こす前に、彼は飛びかかって動きを封じる。脚で両腕を制圧しながら首を絞め、グラッチの銃口を当てた。
「どこかで会ったか」
「お前なんて知らねえ、クソ野郎……」
 苦しげにうめく女──西塔は、両手を封じられてなお抵抗を止めずにいる。太い腕が徐々に気道を絞りつつあり、額に血管が浮かび上がり始めた。もう10秒としないうちに意識が落ちるというそのとき、ふたたび非常階段のドアが開け放たれる。
 海野、と女が叫ぶ。イヴァノフは舌打ちをして、グラッチが見えるように西塔のこめかみへ押し付ける。さきほどの刑事は同僚が人質に取られたと悟り、階段を下りる足を止めた。
「上と話をさせろ。おれはロシア支部諜報機関のエージェントだ」
「ロシア支部?」
 刑事が発した怪訝そうな発音に、イヴァノフは眉を上げた。どうやら、まだ彼のツキはなくなりきってしまったわけではないらしい。
「FIAがおれを捕まえると言ったな。さしあたって容疑は1等書記官暗殺か?」だがな、とロシア人は続けた。「バラクシンを殺せと言ったのもFIAだ」
「どういうことだ」
 刑事の拳銃を握る手が、不意にゆるむ。イヴァノフは自嘲とも愚弄とも取れる微笑みを浮かべて、首を振った。
「どうやら、日本支部おたくらには知らされていなかったようだな」

 

 イヴァノフの拘束は一日で解かれた。日本支部が手駒のエージェントをとっ捕まえたという報せを受けたロシア支部渉外部門は、ただちに謝罪と弁明を行った。
 GRUとロシア支部の双方に身分を持つエージェント・イヴァノフは本件事案において、当支部の命令に従い忠実に職務を遂行したに過ぎず、財団 日本支部の職権を侵害し、日本国の法規、公共の秩序安寧に対しこれを紊乱したことは決して本意ではない──。ロシア支部の作成した謝罪文書の写しは、ぼくらにも届けられた。
 オレーグ・バラクシンの暗殺命令はGRUが出したものとされた。その方が都合がよい、ということで話がまとまったのだとみるべきだろう。イヴァノフは、保身のためだけにロシア支部のエージェントを名乗ったわけではない。あれは本当にロシア支部の命じた任務だったのだ。
 犬山等助の殺害についてはGRUもロシア支部も関与・計画を否認している。西塔の推理はほとんど正解だったのだ。彼は夜鷹部隊の外部協力者であり、バラクシンに係わったことで彼らに殺された。物証が上がったわけではないが、それは今回ぼくらが得た唯一の成果──夜鷹部隊のカットアウト──がこれからしゃべってくれるだろう。
「釈然としねえな」
「この書類の量がですか」
「違えよ」
 休暇を言い渡されたぼくらは、まだ8181の諜報機関オフィスから出れずにいた。一人一人に用意される小さなデスクには、休暇前に処理すべき書類の束が積まれていた。部屋の中でもひときわ書類の積まれたデスクの主──われらが班長は、昨日からロシア支部のエージェントと政治局の担当者の三人で飲みに行ったきりだ。ぼくよりも独身の長い班長にとっては、家に帰れるかどうかなど大した問題ではないのだろう。
「結局、分からずじまいかあ」
「なにがですか」
 いろいろだよ、と西塔は言う。彼女は、ぼくが合わせて振る舞っているだけであることには、とっくに気がついている。エージェントであるぼくらには、それ以上知る必要がない事柄はたくさんあった。それらを気にしないそぶりができることは、この組織に身を置くうえで重要な処世術だ。
「そういえば、どうして西塔さんあんなに不機嫌だったんですか」
「あ? いつだよ。わたしはいつも不機嫌だろ」
 自覚があるのか。
「あのワーキングランチの帰りです。なんかいらいらしながら運転してたじゃないですか」
 ああ、あれ、と珍しく西塔はすぐに自らの行動を思い出した。常になにかを考え込んでいる西塔というエージェントの生態からすると、この回顧の速さは特筆に値する。
「ロシア人が嫌いなんだ。特にいっつも酒臭いやつ」
「はあ」
「むかし仕事でロシアに行ったとき、飲み負けてひどい目に遭った」
「なるほど」
 そういえば、イヴァノフに拘束されたときも、彼の口からウォッカの匂いがして心底不愉快だったとか言っていた。西塔は書類を投げ出すと、休暇のために買い込んでいたのであろう缶ビールを取り出した。
「まだ昼間ですよ」
「いいんだよ」
 プルタブを開けると、ぷしゅ、という炭酸のさわやかな音がした。部屋中の視線が集まり、しかしそれを意に介さない女エージェントは喉に金色の液体を流し込む。
「やっぱこれだわ」
 ぼくはやや呆れながら、あの、と声をかける。
「西塔さん、帰り車じゃなかったんですか」
「あ、忘れてた」

 

「わかった、お前わざとやってるんだろう」
 毎度毎度、日本に来るたびに面倒事の後始末を押し付けてきやがる。ロシア系通信社の幹部──ロシア支部諜報機関の工作担当監督官は、のんきにバーボンをあおっているエージェントを苦々しく見つめた。
 空のグラスを置いたイヴァノフは公式なペルソナ・ノン・グラータをなんとか免れたが、日本支部とロシア支部の多少険悪なやり取りの末、副官の解任と帰国が命じられている。
「いや驚きましたよ。だってGRUの内偵調査で報告を上げたのに、財団そちらから濡れ仕事をやれって命令が下りてきたんですから」
 筒抜けなんですね、と大使館をクビになった男は笑っている。ここに至るまでの自らの苦労も些事とみなしていそうな表情は、監督官にとって理解しがたい代物だった。
「そんな分かりきったことを。お前のせいでスケジュールがめちゃくちゃだ」
「もとはと言えばあんな1等書記官なんぞをカバーに使うからです。おたくらがあんな見せしめ的にブッ殺すと決めなければ、日本支部だって嗅ぎ付けなかったし、あのおっかないカラテ使いも来なかった」
「日本のことわざだ、敵を騙すにはまず味方から」
「孫子ですね」
 まあいい、と幹部は言った。
「単刀直入に聞く。なぜバレた」
「監督官が大使なんかに会ったからじゃないですか」
「茶化すな、その前にはバレてたろう。お前のおかげであのミーティングは完全に消毒しなきゃならなくなった」
 本来バラクシンの処遇について折衝が行われるはずだったワーキングランチだが、エージェントへの追尾を察知したロシア支部は、会談内容を完全に──盗聴を前提とするような──無害なものへ変更する必要に迫られていた。イヴァノフのもたらした副次的な影響の一つである。
「こっちは日本支部がどうやって嗅ぎ付けたのかで大わらわだ。支部間の情報共有機能が抜本的に見直されるかもしれない」
「そうですか。まあ、政治のことは頑張ってください」
 幾杯目かのバーボンを空にしたイヴァノフは、バーカウンターから一足先に降りた。痣がまだ生々しい顔には、軽薄な笑みが貼り付いたままだった。監督官はその背中に「近いうちにまた会うかもな」と告げる。エージェントはゆっくりと振り返ると、首を振った。
「しばらくこの国はごめんです。面倒なことになりそうだし」
 店内の視線が、彼の背中に突き刺さっていた。監督官とイヴァノフが旧交を温めるという目的のためだけに保全されたオーセンティックバーは、いま保安担当職員たちで貸切となっている。
「日本にもGRUと同じような立場の組織がある。彼らはこの件で相当頭に来てるでしょう」
「警告しておこう。昨日、日本支部の諜報職員と飲んだんだ」
「威勢はいいけど、すぐ潰れるんですよね」
 日本人と飲んだことあるのか、と幹部が問うと、イヴァノフは首をかしげた。
「怖い目つきをした女でしたよ」

 


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