名を背負う者たち

キュビズムの始祖、ゲルニカの作者と聞いて、あなたは誰を思い浮かべるだろうか?…そう、パブロ・ピカソである。しかしこの問いにおいて私が望む回答は、「パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード、ルイス・イ・ピカソ」であった。人々がその名前を覚えないのは、「パブロ・ピカソ」で十分だからである。それは名前の「記号化」と言えるだろう。この話は記号化された名前を使う私と名前を背負って生きる彼女の文化的な相違から生じるものである。


AM7:00。アラームが鳴り、瞼を開く。いつも通りだ。シャッターを開けても外は暗いままであった。約10日間の間日光が差さない時期 — "夜期"。7時といってもUTC(世界標準時)に合わせられた形式的なものであって、太陽が輝ける時間ではない。ここ、月の裏側では自転と公転がうまい具合に組み合わさり、約10日間の間日光が差し続ける時期 — "昼期"と約10日間の間日光が差さない時期 — "夜期"が繰り返す。

AM7:15。節水を心がけながら顔を洗い、髪を整え、ジャンプスーツに着替えた。これもいつも通り。朝食まではあと15分。PCを開いてメールを確認する。3件。2件は地球にいる同分野の研究者から。さらっと目を通し、急ぎの内容ではないことを確認する。ここまでいつも通り。最後の1件は地球にいる、財団と世界に蔓延る異常とはまったく関係ない弟からだった。

私と4歳離れた弟は、小さい頃からおちゃらけていて、能天気であった。様々な要因から雇用が減る現代日本において、大学を卒業していないというのはかなりのハンデであるというのに、彼は両親の決して強くはない財力によって所謂"お金を出せば入れる大学"に入れてもらったのに関わらず、その大学を中退した。しかもその理由は交際相手の妊娠!彼は工務店に入社し、彼の家族を支えている。彼は彼なりに"交際相手への愛"だとか"道徳心"でその道を選んだのだろう。しかし、今は毎日をなんとか暮らしていけるだろうが、いつか子供が高校や大学に入学するときに、金を出すことができるのだろうか?こうやって"貧困ループ"は生まれてしまうのではないだろうか?しっかりと貯金を貯め、経済的に安定するまで結婚・出産をするべきではなかったと私は思う。実際、彼に12年前、金を貸して欲しいと頼まれたことがある。本当に嫌だったが、何の罪もない姪が悲しむのも嫌だった。その後、金は返ってきていないし、彼と会ってすらいない。

そんな弟のメールタイトルは「借金について」私は本文を見ることなくノートパソコンを閉じた。


7:30。食堂に着いてから、並んでトレイを受け取る。モーニングはAとBの二種。Aは基本的な洋食で、パンとサラダと何か。Bは洋食以外で、各国の文化的な朝食が配膳される。今日は日本食。日本人として、という訳ではないが、単純に好みなのでBを選ぶ。白米・味噌汁・焼鮭・漬物。想像されるような宇宙食だとか微生物を団子状にしたものではない。月面の水耕栽培施設で農作物は生産される。肉や魚もあと数年待てば地球から冷凍した状態で持ってくる必要もなくなるだろう。

財団はQOLを重要視している。ただでさえ行動を制限されているというのに、食事まで不味かったら職員のストレスは勢いよく溜まっていく。そうすれば仕事のパフォーマンスも悪くなり、最悪、全員真空の世界に放り出されることになるだろう。

座席を探していると、ジェニーが手を振っているのが見えたので、私は彼女の対面の席に座った。彼女の名前はジェニファー・ライス。省略してジェニー。私と同じ独身で、外宇宙支部における彼女の仕事は物品の管理。往還船で地球から何を持ってきて、何を持っていくべきかを考える仕事である。こんな重要できっちりとした仕事だが、仕事以外の時は陽気で、とても話していて楽しい。

「おはようなごみ、今日のBのスープには"あなた"が入っているのね!Bにすればよかったかも。」

申し遅れました、私の名前は味噌 和。ここサイト-0006を拠点にして低重力下における現実性について研究しています。"味噌"という名字は全国に数百人しかいない珍しい名字で、よく名乗っても聞き返され、漢字も分からない人も多く、しかも、こうやって小学校時代はイジられ続けたので、私はあまりこの名字が好きではない。

「そんなこというけど、主食は"ライス"なんだけど。」
「わぁ、このジョークって言われた側はつまらないのね。」
「え?今気づいたの?子供の時には言われなかったの?」
「あ!えー、まだ話したことなかったっけ?私、結婚してるの。だから、"ライス"は新姓。」

訂正。彼女の名前はジェニファー・ライス。省略してジェニー。そして、私と違って既婚者。呆然とする私に、彼女はフォローをした。

「隠していたんじゃないのよ?話すタイミングがなかっただけ。」

これじゃ追撃よ、ジェニー。ジェニーは嘘をついている。ジェニーは私にそのことを隠していた。それも、とびっきりの善意で。私はすぐに"味噌 和"を取り繕って笑う。

「なんだ、そうだったの。えー、そう、旦那様も財団の方?」

せっかくの日本食も、味はしなかったし、ジェニーの話は頭には入ってこなかった。そう!正に"和の耳に念仏"!ジェニーは私に"念仏"を唱える気持ちはなかっただろうし、そもそも私が彼女の家庭について聞き始めたのだから、客観的に見ればこの会話は決して念仏ではないはず。だけど主観的に見ればこれは念仏だった。

私は結婚している人を僻んでいるわけではないし、結婚しないことをアイデンティティーにしているわけでもない。もし私の望むような人が現れて、その人も私のことを愛してくれて、世界も私を愛してくれるなら、結婚して、子供も産んで、幸せな家庭を築きたい。でも実際はそんなことはない。妥協した人生を歩むぐらいなら、真摯に今の仕事に向き合っていたい。それに、月の重力は私を椎間板ヘルニア(腰が痛くなる病気)から守ってくれる。ただ、それだけ。その意思をしっかり持てれば良かったんだけれども、小さい頃から知らず知らずの内に刷り込まれていた"幸せ"を私の心は、実際のところ、渇望していた。だから、私は欲望に乗っ取られないように"馬" — "味噌 和"を取り繕ったのだ。


8:30。ジェニーと別れて、検査の準備をした。私の管理する研究室は2つあって、1つはたくさんの本に埋もれた部屋で、もう1つは実際に現実について観測する部屋。今回は後者である第2研究室で検査を行う。

検査の対象である白い四足歩行の生物は予定していた時間ぴったりにやってきた。彼女の名前はストローン。地球とは異なる星から連れてこられた異星人エイリアン。連れてこられた、といっても財団が拉致したわけではない。あるオブジェクトが現実改変を行い、彼女を地球に向かってテレポートさせたと考えられている。元いた星は地球と比べると低重力であったそうで、彼女は現在このサイト-0006に身を置いている。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします、味噌和さん。」

高音が小さく響いてから、首元につけられた機械が発した音声が私に挨拶をした。彼女達は音の僅かな高低で会話をしていたという。私たちはそれを聞き取ることはできないし、彼女も私たちのように発音することはできないので、このような翻訳機を用いている。

第2研究室に隣接する検査室の台上に上がったストローンは腹部を天井に向ける。手術に使われる無影灯のような造形をした固定型カント計数機が彼女の上にぶら下がっている。私は機械との距離などを調整してから扉を締め、計数機を起動。測定はすぐに終わり、PCに結果が表示されたのを確認してから、終了したと伝える。

地球に出現した2025年2月、当時の彼女の内部ヒューム値は人間のものとは違い、0.8 Hm。これはオブジェクトの現実改変によるものだと考えられていたが、6ヶ月経った今日でも、上昇しなかった。これは私の推測の域を過ぎないが、彼女らの種族がもともと内部ヒューム値が低いのではないだろうか。まあ、確かめようもないし、そもそも結論を出すには早すぎる。定期的に検査に来てください、というオチ。

「なるほど。つまり私に変わったところはないんですね?」
「うーん、まぁ、とりあえずは、というところです。さて、ヒュームについての講義に移りましょうか。」

講義、というのは彼女の希望によって成立した私の追加業務である。ストローンが直談判によって表した凄まじい学習意欲はサイト-0006管理官の心を動かした。彼女らの言語の研究も非常に早いテンポで進んだというが、担当したイレーネ博士によるとこれもその学習意欲の賜物だという。最初はたどたどしかった英語が検査を重ねるたびにどんどん流暢になっていくのには私も驚かされた。私だって英語を完全に習得するのにまるまる8年ぐらい使ってるのに、彼女は存在すら知らなかったはずの言語を3ヶ月で仕上げるだなんて!加えて、有人宇宙機についての勉強も行なっているらしい。有人宇宙機の勉強も、ヒュームについての勉強も母星に帰るためだそうだ。科学的手段だけでなく、魔術的手段も模索する視野の広さは私も見習わなければならない。


10:00。講義も終わり、私は一息をつく。ホワイトボードに広がるヒュームについての基本的な要素は私に基礎を確かめ直す機会を与えてくれた。少しストローンに感謝。

「ありがとうございました。ではまた来週お願いします。」
「はい、お疲れ様でした。」
「さようなら、味噌和さん。」
「待って、一つ聞いてもいいですか?」

私は咄嗟に彼女を呼び止める。普段だったら気にしないだろうが、少し彼女の学習意欲に感化されたのかもしれない。

「どうして、私の名前をフルネームで毎回呼ぶんですか?」

少し間が空いて、彼女が答える。

「私の本名をご存知ですか?」

知らない。考えたこともなかった。

「ストローン、じゃないんですよね?」
「はい。これは地球の研究者の方が私を見つけた際にお付けになった名前で、それが現在も使われているだけです。」
「すいません…。」
「いえ、いいんです。私もイレーネ博士をはじめとした数人にしか伝えていないですし、そもそも人間は発音できませんし。」
「もし良かったら、聞かせてくれませんか?」

彼女の機械に聞かせるためではなく、私のために聞かせた音は、私の骨の髄にまで伝わってくるような、心地の良い音だった。高音と低音が浜辺に押し寄せる波のように耳をかき混ぜていった。

「エラー・果実が多い森・苔が生える洞窟・エラー・エラー・エラーの多い湖畔・獣がいる平原・エラーが降る雪原・エラー」

機械音声は淡々と彼女の名前の意訳を述べた。エラーはそれが翻訳機に設定されていないということ。講義中も専門用語が出る度に専用のデバイスを取り出して設定していた。しかし今回はしなかった。

「これが私の本名です。といっても最後のエラー以外は名字みたいなものなんですけど。」
「土地の情報が名字になっているんですね?それって…」
「そう、日本人の名字やヨーロッパの一部の地域の姓と同じですね。先祖が住んでいた場所を代々名字として継承していくのが、私たちの文化なので、その文化を重要視する私たちは普段からフルネームで呼び合っていたんです。それを慣習的に行っていたただけなので、不快に感じられるようならばやめますが。」
「なるほど。大丈夫です。外宇宙支部は多文化主義です。互いの権利が侵されない限り、互いの文化を尊重し合うべきでしょう。それにしても、祖先から続く名字を継ぎ足して現在まで続かせ、そして未来につなげていくのは素晴らしいですね。」
「はい、その未来のためにも私はなんとかして母星に帰り子を産まなければ。」

私は一瞬で怪訝とした顔をした。先ほどまで多文化主義を謳っていた人間のものではなくなっていた。

「子を産む?そのためだけにそこまで勉強を?他に何か…何かないんですか?」
「だけ、っていうのはどうかと思いますが。私にとっては生きる理由です。」
「失礼しました。確かに文化を尊重するのは重要だとは思いますが、それはそれとしてあなたにはあなたなりの人生があるのではないですか?」
「つまり、出産せずに生きる道もあるのではないか、ということですよね?とんでもない!私は部族のためにも、という使命感もありますが、自らの欲求にしたがってパートナーと協力し次世代を支える子を養育したいと思うのです。」
「そんなに偉いことなんですか?」
「え?」

クールダウン。落ち着け私。私とストローンは違う。

「そんなに…そんなにあなたの星では結婚・出産は尊ばれることなんですか?」
「尊ばれるというか…。結婚っていうのはちょっと違うんですけど、基本的に皆そうしますので。」
「基本的に?例外の方がいらっしゃるということですよね?そのような方はどうされるのですか?」
「不妊症だったりとかするんですよね。それでも子を産む代わりに私たちの手伝いをします。これらは当たり前の概念なので、それを望まない者はいません。」
「あなたはここにきて行わないという選択肢を知ったはずです。あなたの人生はあなただけのものです。」
「先程も言いましたが、私は誰かのためではなく、私のためにその選択肢を選ぶのです。それに、私は私の人生が私だけのものではないと考えています。家族や部族の皆はもちろん、私まで命のバトンをつないでくれたご先祖様のものでもあるのです。何か驕ってはいませんか?本当に味噌和さんは自分の力だけでこの月面に来たのですか?」

驕り。その言葉は私の口を止めるのに十分なほど私の奥深くに突き刺さった。


10:30。「とにかく。味噌和さんがなぜ私に子供を産ませたくないのかわかりませんが、私は自分の信念を曲げません。」と言い残しストローンは傷心する私を置いて部屋を出て行った。彼女が私の思想を察しないのはそれほどに"文化の違い"というものが大きかったのだろう。しかし、私が彼女の思想を理解するのにこの言葉で片づけてはいけないのだと思う。それは思考の放棄だからだ。彼女の言葉と自分の半生を重ね合わせながら、私は片付けをしていた。

私は私だけの力で生きてきたわけじゃない。成長するまでに両親の世話になったし、大学に行くのも弟ほど高くはないといっても大学院までいかせてもらった。その過去があるから今私はここにいる。決して自分の頭脳だけじゃない。そして、ご先祖様。「味噌」という名字は味噌屋が名乗った名字だという。きっと明治時代に自らの職に誇りをもってそう名乗ったのだろう。残念ながら私は味噌屋ではないが、彼らの努力によって私が生まれた必然に感謝して、私も今の仕事に誇りを持つ。しかし結局のところ、やっぱり私は結婚はできない。精子バンクを利用した出産・育児も難しいと思う。だから、まずは両親に顔を見せようと思う。今まで何かと理由をつけて逃げ続けていたけど、会ってしっかり話したい。そう決めた私は気分を切り替えて、帰省の計画を練りながら仕事に戻った。


Subject : 借金について

Sender : 味噌 勤

Body : (添付ファイルなし)

久しぶりです。お元気ですか?

結も13歳になり、中学1年生。あと2年すれば高校生、5年すれば大学生。しかも実はもう一人妊娠しました。養育にはかなりお金がかかります。

このままでは家族を支えられないと思ったので、起業することにしました。もちろん考えなしに言っているわけではなく、自分なりに利益がでるであろう経営モデルを考え、机上の空論にならないよう経営コンサルタントの方にもマネジメントをお願いしています。

そのうえで和に借金したいと考えています。というか、投資してほしいです。和から昔借りた金を返せていないのは覚えています。それを返すためにもよろしくお願いします。

以下は具体的な計画です。

 

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