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こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向あおむきに寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔やわらかな瓜実顔がおをその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
自分は透き徹おるほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにみはったまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写っ、て……
「あなたは、誰ですか……?」
女がそう言って、私もようやく、自分の名前を思い出したのだ。
「アレックス・ソーリーです」
私の発言を聞いて、こいつは一体何者なんだといった困惑顔で、女は私を見つめる。しかし、そんな顔で見られてもあれ以上の答えは持ち合わせていない。というか、想定外だとでも言いたげな雰囲気だが、想定されているセリフなんてものがあるのなら、これに台本もあるということになるのだろうか?
それがあったとして、何かこの沈黙を打破してくれるのか?私は打破してくれると信じたいが、手元には生憎何もない。オゥ!ベーグルがいつの間にか手に握られている。全く、サラリーというのは本当に素晴らしいものだ。現物支給でなければ、もっと。オリエンテーション時に渡してくれれば最高だったのに。
そんなことを考えても仕方がない、私はとにかくここから抜け出すなり何なりの行動を取らなければならないのだから。この空間は私がここに来た時からずっと風景も単調で、行き場を失った女が一人いるだけだ。彼女がどうするつもりだったのかは未だによく分からない、彼女が持っている台本が私には渡されていないからだ。カーディーラーレベルの酷い情報の非対称性だ。ならば、それは是正すべきではないか?
───全くもってその通りだ。
「ここはどこですか?」 聞いてみよう。
……沈黙。
「あなたは、誰ですか……?」
ファック!
ああ。ツイてない。もしかして、そもそも意思がないNPCなのか? もう一度聞いてみるべきか。
「ええと、ここはどこですか?」
相手の女がしばらく沈黙する。ベーグルがあるか確認しているのだろうか。
「ここ?私はここで演劇をしておりました。台本はありますが、うぅん、今は生憎持っていません。(代わりに、頭の中に)」
「その台本はどんな展開なのでしょうか?」
台本通りに与えられた役をこなせばここから脱出できたりするのかもしれない。この場所にドアはないし、他の出口も見当たらない。やり方/道を見つける必要がある。この世に台本があって、全てがそれに記された通りに進むっていう考え方を信じるか?私としては旧時代的な考えだと思う。いやまあ、台本の執筆者として神を信じるのも自由だ。つまりだ、旧いやり方もたまには役立つものじゃないかって自分に言い聞かせたところだって話に落ち着く。
「台本はあなたが書いたんじゃないんですか?」
何ということだ、神は死んでいないどころか、私であったらしい。この世は私の意のままということか?
目的を見失いつつある───本当にそろそろ真面目にこの問題へ取り組まなければならない段階なのかもしれない。いや、しかし……魔法が使えるとなれば使おうとするのは人の性だ。仕方ない。
「よし」と私は両手を打ち合わせる。「では、ここにドアを」
言った瞬間、目の前の空間に扉が現れる。造作もない。神とは案外楽な稼業だ。もっと早く気付くべきだった。私は誇らしげに扉へと歩み寄り、取っ手に手を掛けて、開く。
扉の向こうには、また扉があった。
その扉を開けると、さらに扉がある。私はそれも開ける。次も扉。次も。数えるのをやめた頃には、私は無数の扉に囲まれた廊下のようなものに立っていた。どれも同じ木目、同じ真鍮の取っ手。もはやどれが最初の扉だったのかも分からない。
「これは、ええと……」私は振り返って女に問う。「これもあなたの台本ですか?」
「いいえ」女は静かに答える。「これは、あなたの台本です」
なるほど、道理で。私は自分の書いた台本の出来の悪さを、他人事のように恥じた。もう少し推敲すべきだった。少なくとも、扉の数くらいは事前に決めておくべきだった。
扉の一つに、小さな窓が付いていた。覗き込むと、その奥にも寸分違わぬ廊下が広がっていて、さらにその先にも同じ窓付きの扉が続いている。合わせ鏡のような光景だ。だとすれば、この奥のどこかに、もう一人の私が立っているはずだが、いくら目を凝らしても見当たらない。私はふと、自分がもう随分長い間、この場所に立ち尽くしていることに気付く。時間の感覚はとうに失われていた。時計を見ようにも、手にあるのはベーグルだけだ。時刻を教えてくれる気配は微塵もない。
「そろそろ」女が静かに言う。「終わりにしましょうか」
「終わり方も、私が決めるんですか?」
「さあ。あなたの台本ですから」
無数の扉が、一斉に、音もなく閉まっていく。最後の一つが閉まる寸前、私はその奥に自分自身の後ろ姿を見た気がした。確かめる暇もなく、視界は白く塗りつぶされていった。
そうして、夢から目が覚めた。
見慣れない天井が視界に入る。見慣れない、というのは正確ではないかもしれない――ここ数週間、寝起きのたびに同じ感想を抱いている気がする。ここは自宅だというのに、違和感はいつもついて離れない。
私は起き上がり、寝室のドアを開ける。リビングに出て、身支度を整え、また扉を一つ抜ける。玄関のドアを開け、職場へと向かう。そのまま駅まで歩き、電車のドアが開くのを待って乗り込み、閉まるのを待って降りる。
そして、職場の入口に着いた。今日の私は非現実の割合が高いらしく、反応の悪い自動ドアに少しばかり気を乱されてしまった。自分の不運を嘆きながら、ぶつけた額をさすり、ふと考える。ここまでで、いくつの扉をくぐっただろう。寝室、リビング、玄関、電車、自動ドア、オフィス、エレベーター――数えてみると、七つ。七つの扉を抜けて、ようやく一日が始まっては、3桁の番号からかかる業務用電話に応答する。こうして、自分の所属部門を観測する仕事に巻き込まれてしまって以来、毎日が不可思議に溢れた非現実な体験となっている。そう、まるで、あの夢の続きにいるような───
そこまで考えてから、ふと、疑問が浮かぶ。だとすれば、私は今、本当に目覚めているのだろうか。それとも、あの夢だと思っているものこそが本来の現実なのだろうか。
……まあいい。台本があろうとなかろうと、腹は減る。私はこれからも、次の扉へと歩いていかなければならないのだから。
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- portal:9789149 (25 Jul 2025 02:59)




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