私が生まれ育った村には棚田があります。小規模ですから世間には知られていませんし、観光客が訪れることもありません。
あの棚田には、大きな特徴と秘密があります。稲穂の時期になると、波の音が聞こえる田圃があるんです。目を閉じて聴いていると、本当に波打ち際にいるような感覚になります。それがおもしろくて、子供の頃は暇さえあれば遊びに行ったものでした。そこの持ち主はずいぶん昔に亡くなり、それ以来村で管理しています。波の音について、大人達は特に何とも思わず単にそういうものだと考えているようでした。
でも、今はもう行きません。なぜかといえば、あそこは恐ろしい場所だからです。そのことを知っているのは、私と友人だけでした。お互いの家族も、村の人達も何も知りません。
あれは、小学五年生の九月のことでした。あの頃、私と友人は毎日のように棚田に通っていました。ちょうど稲刈りが近付いた頃でしたから、波の音が聞こえるうちは毎日行こうと決めていたんです。
その日も、放課後に二人で棚田に行きました。他には誰もいませんでした。棚田の背後には山があります。それを眺めたり、田圃の畔道に座ってお喋りしたり、波の音に耳を澄ませていました。それから、友人が小さなぬいぐるみを見せてくれたんです。白いうさぎでした。買ってもらったばかりだと言っていたのを思い出します。彼女はそれをとても気に入っているようでした。
そうしているうちに、彼女は不意にぬいぐるみを田圃に落としました。拾い上げる素振りがないので、私が手を伸ばました。けれど、あっという間に田圃の中に吸い込まれていったんです。
びっくりして友人を見ると、彼女はにっこり笑って言いました。
「おもしろい!」
それから、こうも言いました。いらないぬいぐるみを持ってくる、と。私は引き留めようとしましたが、彼女は聞き入れませんでした。そのまま自転車に乗って、自宅の方へ走り去ってしまいました。
あとに残った私は、不安でたまりませんでした。どれくらい待ったのか、よくわかりません。ただ、風が吹いて稲穂が揺れていました。規則正しい波の音がいつもより大きく聞こえる気がして、早く帰りたいとばかり考えていました。
ふとぬいぐるみが消えた辺りを見てみたら、その場所が盛り上がっていました。何かがもぞもぞと動いたと思ったら、そこからうさぎが出てきたんです。全身土まみれでしたが、あれは確かに白い毛でした。学校で飼われているのよりも大きく、口許からよだれを垂らしていました。
腰が抜けるというのはああいうことをいうんでしょう。私は怖くてたまらず、声も出ませんでした。うさぎはゆっくりと畔に上がってきました。その時、こちらを見たんです。目は真っ赤でした。ただ、左右で大きさが違うんです。左目は右目の何倍も大きくて真ん丸でした。それが、こちらを見ているんです。全身が震えて泣き出してしまいました。
うさぎはしばらく私を見ていました。それから棚田を上り、ぴょんぴょん跳ねて山の方へと行ってしまいました。今思い出しても、普通のうさぎよりずっと速かった気がします。すっかり姿が見えなくなった頃、ようやく友人が戻ってきました。
私は自分が見たことの一部始終を話しました。すると彼女は悔しがったんです、私も見たかったと言って。信じられませんでした。
「ぬいぐるみよりもいいものを持ってきた」
と言いながら、リュックサックから人形を取り出しました。忘れもしません。それは、病気で亡くなった彼女の弟に似せて、手作りされたものだったからです。
布の頭に綿を詰めて、髪の毛は毛糸で目はボタン。鼻と口はフェルト。そういう素朴な人形です。彼女は三人きょうだいの真ん中で、お母さんは手芸が好きな人でした。子供達をモデルにした人形を作っていたものです。
これでやってみよう、と人形を見せる友人は楽しそうでした。何度「やめようよ」と言ったことか。彼女は聞き入れてくれませんでした。それでもさすがに気が咎めるところはあったようで、人形に──というより弟に対してでしょう、「ごめんね」と言いました。そうして、ぬいぐるみを落としたのと同じ場所に人形を置いたんです。
あとは同じでした。土の中に吸い込まれ、そこから出てくる。その姿が本当に怖かったんです。やはり土にまみれて、酷く汚れていました。元の人形は三十センチほどの大きさだったのが、出てきた時には一メートルはありました。目は真っ黒でした。ボタンではなく、サインペンでぐるぐると殴り描きしたように変化していました。鼻も口も、手描きのようでした。
口は真っ赤で大きく開き、白くぎざぎざした歯が描かれていました。体には恐竜の絵のTシャツを着て、短いジーンズを履いていました。それは、友人の弟が好きでよく着ていたものだったんです。ゆっくりと畔に上がってきたかと思うと、私達をじっと眺めました。私がそっと友人を見ると、彼女はとても嬉しそうにしていました。凄い、と呟いていたんです。
人形だったものは、うさぎと同じように跳ねながら山へ入っていきました。私達は、誰にも言わないと約束して別れました。家に帰る道々、怖くて泣き出しそうになるのを堪えていました。帰宅すると祖母が出迎えてくれましたが、「もうすぐ稲刈りだから棚田で遊ぶな」と言われ、心底震え上がりました。その夜は一睡もできなかったのを覚えています。
翌日も友人に誘われましたが、口実を見つけて断りました。もう、あんなに怖いのは御免だったからです。加えて、友人の態度にも不安を感じていました。そのまま帰ろうとした時、彼女が思いがけないことを言ったんです。
「人間はどうなのかな。仕事で田圃に入るのは平気みたいだけど」
そんなことを考えちゃだめだと強く言うと、彼女は不服そうながらも頷きました。けれど、その日以来、私達は疎遠になっていきました。私は棚田に近付くのをやめました。
それから数日のうちに棚田の稲刈りが行われました。けれど、あの田圃だけ米の出来が良くありませんでした。大人達がそう話すのを聞いて、あのことと関係があるのかもしれないと思いました。確かなことはわかりません。でも、きっとそうだと信じています。
私は高校入学と同時に村を離れました。親戚の家に居候したんです。あの日のことも彼女のことも、なるべく考えまいとしていました。けれど二年生の九月、ちょうど稲刈り直前の頃に彼女から手紙がきたんです。
あの日起きたことを覚えていますか。私は忘れたことはありません。波の音がいつもより大きい気がして、それを聴いていたら、あのうさぎをあそこに置いてみたくてたまらなくなったのです。あの後、私は一人で 何度も山の近くまで行ってみました。弟とうさぎに会えるような気がして。そして、何度めのことだったか、とうとう二人に会えました。あの日と同じように汚れて、仲良さそうに跳ねていました。でも、怖くありませんでした。
あの子は、私を見て「お姉ちゃん」と言いました。声は違っていたけれど、弟が言ったと信じています。でも、すぐに山に入ってしまって、追いかけられませんでした。そこでやっと、もうやめようと思ったのです。それからは、あの田んぼにも山にも行きませんでした。母が、弟の人形がないと言って不思議そうにしていたけれど、本当のことは言えなくて黙っていました。
最近、弟とうさぎの夢をよく見ます。二人とも山で楽しそうに跳ねながら、時々私を見つめます。何も言いません。ちらちら見るだけ。怖くありません。でも、気になってたまらないのです。だから、母が作ってくれた私の人形を持って、あの田んぼに行こうと決めました。弟達が、そうしてほしいと言っている気がするから。
もしかしたら、家には帰れなくなるかもしれません。理由はないけれど、そんな予感がします。だから、ひとつだけお願いがあります。私のことを友達だったと思ってくれるなら、誰にも、私の家族にも何も言わないでください。弟とうさぎを探してほしくないから。山で見た二人は、本当に楽しそうだったから、ずっとあそこにいて欲しいと思います。こんなことをお願いしてごめんなさい。友達になってくれてありがとう。元気でいてね。
それから間もなくのことでした。母から連絡があり、彼女が行方不明になったと知らされたのは。あの田圃のあの畔で、彼女の靴だけが見つかったといいます。小さな土の塊が足跡のように山へと続いていたので、すぐに山狩りが行われたものの、発見されなかったと母は教えてくれました。
何があったのか、もう誰にもわかりません。田圃に吸い込まれたのは友人の人形だけだったのか、それとも、あの日口にした疑問を自ら確かめたのか。いずれにせよ、彼女は今も、弟とうさぎと一緒にあの山に居る。私はそう信じています。それが彼女の──彼女達の望みなんだと思うんです。
悔やむことがあるとすれば、どうして疎遠になってしまったのかということと、すぐに大人達に話していたら、ということです。あのまま友達でいたなら、何かが変わったのか、彼女を引き留められたのか。そばにいて話を聞くことができたのにと、今も考えています。
結局、あの日のことも手紙のことも誰にも話せないままです。なぜあの田圃にあんな力があるのか、波の音がするのか。私達が体験したのと同じことが以前にもあったのか。私にはわかりません。知りたくもありません。そういえば、彼女が消えた年のあの田圃の米は、とても出来が良かったそうです。
今でも、帰省した時には棚田に近寄るまいと決めています。確かに綺麗な眺めですが、あの田圃のことを思うと足が向きません。あの場所の秘密を知っているのは私だけになりました。それはとても重荷ですが、友人との約束は守っていきます。
付与予定タグ: tale jp 依談
ページコンソール
批評ステータス
カテゴリ
SCP-JP本投稿の際にscpタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にgoi-formatタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にtaleタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
翻訳作品の下書きが該当します。
他のカテゴリタグのいずれにも当て嵌まらない下書きが該当します。
言語
EnglishРусский한국어中文FrançaisPolskiEspañolภาษาไทยDeutschItalianoУкраїнськаPortuguêsČesky繁體中文Việtその他日→外国語翻訳日本支部の記事を他言語版サイトに翻訳投稿する場合の下書きが該当します。
コンテンツマーカー
ジョーク本投稿の際にジョークタグを付与する下書きが該当します。
本投稿の際にアダルトタグを付与する下書きが該当します。
本投稿済みの下書きが該当します。
イベント参加予定の下書きが該当します。
フィーチャー
短編構文を除き数千字以下の短編・掌編の下書きが該当します。
短編にも長編にも満たない中編の下書きが該当します。
構文を除き数万字以上の長編の下書きが該当します。
特定の事前知識を求めない下書きが該当します。
SCPやGoIFなどのフォーマットが一定の記事種でフォーマットを崩している下書きが該当します。
シリーズ-JP所属
JPのカノンや連作に所属しているか、JPの特定記事の続編の下書きが該当します。
JPではないカノンや連作に所属しているか、JPではない特定記事の続編の下書きが該当します。
JPのGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
JPではないGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
ジャンル
アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史任意
任意A任意B任意C-
- _
- portal:8657511 (08 Jul 2023 07:26)