手紙

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この手紙を元の世界の貴方がたに宛てて、私に書ける限りのことを書いてみたいと思います。急いで書きますので乱筆乱文をお許しください。

私の名前は桧川みどりと申します。年齢は四十代です。曖昧なのはご容赦ください。おそらく四十二歳かと思うのですが、今となっては正確なことがよくわからないのです。

順を追ってお話します。
私がこの青鈍歩行道路に入り込んだのは、平成二年四月十四日のことでした。曜日も覚えています。土曜日でした。翌日は知人のお嬢さんの結婚式で、それに参列するため夫の運転する車に乗り、式場のあるホテルへと向かって東名高速道路の下り線を走っていました。

ちょうど厚木の辺りに差しかかった頃でした。私はハンドバッグの中を検めていました。ハンカチを忘れたのではないかと思ったのです。サービスエリアで買えるかしらと考えていた時、夫が短く叫びました。おどろいて顔を上げると、空の色がとても奇妙なものになっていたのです。

それは見たこともない色の空でした。薄墨のような、それとも青や緑を帯びた灰色のような、どちらにせよそのくすんだ空の色はとてもおそろしく見えました。道は大きくカーブしていました。前にも後ろにも他の車はありません。ここはどこなの、と私は言いました。夫は首を横に振り、俺にもわからんと呟きました。この辺りにこんなカーブはなかったと。

記憶はそこで途切れています。気が付くとここに、この青鈍歩行道路の上に立っていました。片側二車線で照明が立ち並び、高速道路にそっくりです。案内表示の看板が設置され「青鈍歩行道路(上り)」と書かれていました。夫の姿はありません。私は混乱しました。夫の名前を呼びましたが応えは返ってきませんでした。そして、大勢の人が一方向に向けて歩いているのです。

改めて見渡すとあの奇妙な色の空がどこまでも広がり、とても不安になりました。中央分離帯の向こう側は下り線らしく、こちらとは逆方向に歩く人々の姿が見えました。道路の両側には山があります。私はとりあえず歩こうと考えました。そのうちに夫に会えるかもしれないと期待しただけでなく、じっとしていられないような気分になったからです。

歩き始めてどれほど経ったでしょうか、歩くのに適さない靴と服装の私はすっかり疲れてしまいました。特に脚の強張りや爪先の痛みを感じるようになっていました。もう限界だと思ったその時、目の前に分岐が出現していたのです。案内看板には「薄暮サービスエリア」と書かれていました。さっきまでこんなものはなかったのに、と怪しく思わないでもなかったのですが、とにかく休みたい一心でサービスエリアへ入ることに決めました。

そこは高速道路の大規模なサービスエリアと瓜二つでした。広々とした駐車場までありましたが、車は一台も停められていません。代わりにベンチやテーブルが置かれ、休憩する人々の姿がありました。そこには十人ほどいたでしょうか。私は建物に入ることにしました。中にはそこで働く人がいるはずですから、この歩行道路について何かわかるのではないか、ひょっとしたら夫も立ち寄ったのではないかと期待したのです。

建物内も高速道路のサービスエリアと同じつくりでした。食堂や買い物できる店舗、自動販売機、お手洗いなどが一通り揃っています。その時気が付いたのですが、体はすっかりくたびれているのに、少しもお腹が空いていないのです。それでも私は食堂に行きました。とにかくこの場所について教えてもらいたかったのです。

食堂では三人の女性が働いていましたが、おどろくべきことに全員が同じ顔、同じ髪型をしていたのです。年格好も着ているものも同じで、その光景はとても不気味でした。食欲はありませんし、よほど引き返そうかと思いましたが、期待を捨てることはできず注文のカウンターに近寄りました。私に気が付くと、彼女たちは同じ声で言いました。いらっしゃいませ、お疲れでしょうからお代は結構です、と。

私は必死になって、ここはどこなのですかと訊ねました。夫についても説明し、立ち寄らなかったかと問いました。けれど彼女たちは、何になさいますかと繰り返すばかりです。私は怖くなりました。背後では四人が食事をしています。あんなものを食べて大丈夫なのかしらと思いましたが、何も注文しないのも気が引けましたし、とにかく腰を下ろしたくてサンドイッチを頼みました。味におかしなところはなく、お腹が痛くなるようなことも起きませんでした。
  
サンドイッチを食べ終えた時、隣のテーブルの女性に話しかけられました。私はびっくりし、彼女の顔を見つめました。
「あなた、ここにいらしたばかり?」 
それが彼女の第一声でした。私は頷くのが精一杯でしたが、それでも自己紹介しました。彼女は敏子さんといい、ここに来たのは昭和六十二年だと言うのです。それが本当なら、敏子さんはもう三年もこの歩行道路にいることになります。私が日付を教えると、敏子さんは苦笑いをしました。
「そう、いつの間にか三年も過ぎたんですね」

それから敏子さんは色々なことを話してくれました。ここに来た当時の年齢は三十二歳だったこと。中国自動車道を走っていたこと。三年の間ひたすら歩いていること。彼女よりも長い間歩いている人も大勢いること。この空の色は青鈍色という名であることなど。

敏子さんは一枚のチラシをショルダーバッグから取り出しました。最初にサービスエリアに立ち寄った時に見付けたそうです。そこには次のように書かれていました。

ようこそ、青鈍歩行道路へ!
人生は旅
焦らず歩きましょう
我々はあなたの歩みに期待しています
いつか辿り着くその日まで

文章はたったそれだけです。ほかに、円と棒をくっつけた姿の人間が歩いている絵が描かれています。敏子さんと別れた後、私も同じものを店舗内で見つけました。何がなんだかわからず、途方に暮れました。我々とは誰なのでしょう?どこへ辿り着くのでしょう?そこに着いたら、元の世界へ戻れるのでしょうか?夫と再会できるのかもわからず気落ちしました。

店舗内を歩き回ると、運動靴やズボンなど歩くための服装が並んでいました。他にもタオルや絆創膏など運動のための物が様々あり、通常のサービスエリアとは品揃えがずいぶん違います。ハンカチもありましたが、それを目にすると心細さが増して涙がこぼれました。いずれも食事と同じく無料でした。店舗にいたのも、食堂の店員たちと同じ顔の女性でした。私は薄暮サービスエリアを後にしました。ずっと留まる気持ちにはなれなかったのです。これは現実なのだろうかと思ったのを覚えています。

そうして、どうやらもう四年間も歩いているようなのです。私は、というより私たちは時間の流れを感じません。腕時計は止まっていますし、サービスエリアに時計はありません。お手洗いの鏡に顔を映してみても、ここに来たあの日と変わりがないのです。どれだけ時間が過ぎたかについては、道中で出会う人からここに入り込んだ日付を聞き、推測するだけです。それに間違いがないなら、今は平成六年二月のはずであり、私は四十二歳になっているはずです。

そもそも、ここに時間の流れがあるのかすらわかりません。朝なのか、昼なのか夜なのかはっきりしません。空の色はつねに青鈍色だからです。先に「四年間も歩いているようだ」と申しましたが、感覚のうえでは一ヶ月ほどのような気がして、本当にそんなにも歩いたのだろうかと思うほどです。これについて、今まで話した人全員がそう感じていました。気候は一定しており、秋本番のような空気の肌触りです。寒くはなく、歩くのにちょうどよい気温です。それが何やら皮肉なことにも思えますが。

サービスエリアについても書いておきます。先に述べましたように、私たちは体に疲れや痛みを感じます。そして、くたくたになりもう休みたいと思った時にサービスエリアへの分岐が現れます。ですから、疲れ切って倒れることはありません。サービスエリアの名前はいつも同じ、薄暮といいます。建物のつくりや店舗などの配置、代金を支払う必要がない点、中で働く女性など、毎回そっくり同じです。それにも慣れてしまいました。空腹を感じることはありませんが、食事は必ずとるようにしています。それが正気を保つ術であるように思うのです。

休憩が終わると出発します。緩やかなカーブの続く平坦な道を、ひたすら前に向かって歩きます。東西南北、どの方角に向かっているのかわかりません。インターチェンジは皆無です。行く先の案内看板の設置は等間隔らしく、「辿り着くにはこちら」と書かれたものが現れます。残りの距離は示されていません。歩いても歩いても終点は見えず、周囲の風景は山ばかりです。

私たちは引き返せません。一度やってみようとしたのですが、そうすると足が道路に張り付いたようになってしまい、一歩も踏み出せませんでした。諦めようと思ったとたんに動くようになりました。そもそも引き返せたとしても元の世界へ帰れるわけではない、というのは承知の上なのですが。

下り線に入ることも叶いませんでした。夫とは一向に会えず、もしかしたらあちら側にいるのではと思いました。中央分離帯を乗り越えようと考えましたが、そもそも近寄ることすらできませんでした。見えない壁のような何かがあるのです。あちらにいる人たちに呼びかけようと誰かが大声を上げても、聞こえないようです。それでもお互いに「向こう側の人」が見えているらしく、下り線の人たちもこちらを見たり声を上げている姿がありました。

私たちは時には歩きながら、時にはサービスエリアで会話します。ここではそれが唯一の娯楽なのです。そうしていると、仲良くなったり喧嘩が起きるなどの人間関係も生まれます。不思議なことに、歩いているのは成人の男女ばかりです。子供やお年寄りは見かけません。誰もが高速道路で青鈍色の空を見てからここへ入り込んでいます。

入院中のお父様が危篤になられたため病院に向かっていた女性、幼いお子さんを残してここに来た男性、重要な仕事に向かう途中でここに入り込み自暴自棄気味の男性。様々な状況でここに来ました。私のように同乗者と離ればなれになった人も少なくありません。誰もが苦しみや悲しみを抱いています。私は夫を探し続けていますが、彼と会ったという人を見付けられません。近頃では、ひょっとしたら夫はここにはいないのではと思うこともあります。

それでも私たちは歩いています。時には、もうたくさんだと言う人も出ます。道路上に座り込み、これ以上歩かないと叫んだり、何も言わずただ歩みをやめるだけの人もいます。実際、どれほどの間かはわかりませんが、ずっと座っているという人もいます。その人たちは最終的にはどうなるのでしょう。けれど、たいていは歩くのを再開します。なんといっても、辿り着きたいからです。それには前に進むより他ありません。

私たちの願いはただ一つ、元の世界へ帰ることである点はご理解いただけると思います。それが叶うことを信じ、自分に言い聞かせ、励まし合いながら歩いています。時折、誰某が辿り着いたらしい、それを誰其が見たらしいという噂が流れることがあります。ですが、見たといわれる人はそのことをはっきり覚えていない様子で、どうだったと訊ねられても答えは要領を得ません。

そして今です。もう何度目かもわからない薄暮サービスエリアで、私は鈴木さんに出会いました。名前を教えてくださらないので、便宜上鈴木さんとお呼びします。鈴木さんは上下オレンジ色の作業服を着て、とても目立っていました。私は彼の隣のテーブルに行きました。混みあっていて、他に空いている席はなかったからです。食事を終えた私は、鈴木さんに話しかけました。

はじめのうち、鈴木さんは胡散臭そうに私を見るばかりでしたが、やがて根負けしたのでしょうか、いつから歩いているか教えてくれました。昭和五十五年の一月からだそうです。見かけの年齢は私とさほど変わらないようでした。やがて私たちはこの歩行道路についてあれこれ話し始めました。

しばらく話したあと、鈴木さんは「辿り着きそうな気がする」と言いました。私はおどろきました。噂話ではなく、実際にそう口にする人に会うのは初めてだからです。
「理由をうまく説明できないが、そう遠くないことだと確信している」  

よく聞いてみますと、いつの間にか鈴木さんの心の中に、何かに近付いているという思いが生まれたそうです。はじめは何となくそう感じていただけだったのが、前進すればするほど強まり今や確信となったとのことでした。鈴木さんは声も表情もしっかりとして力強く、生気でいっぱいに見受けられました。私は、もしも元の世界に戻れるならどこへ行くかと質問しました。これは歩く者同士のあいさつのようなものなのです。

「帰る家なんてないよ。家族もいない」
鈴木さんはそう言いました。ならばどうするのかと重ねて問いますと、  
「戻るんだろうな、あそこに。それならここのことも報告するしかない」
という答えが返ってきました。私は、あそことはどこかと訊かずにはいられませんでした。一体なぜ、歩行道路について報告するのでしょう。

鈴木さんは「研究所のようなところ」であるとだけ言いました。それ以上は何一つ教えてくれませんでした。ですからどうか、鈴木さんを責めたりなさらないよう、お願い申し上げます。鈴木さんは研究所の詳細について何も話しておられませんし、私も誰にも言わないと約束いたしますから。

鈴木さんの話ぶりからも、本当のことを語ってくださったと信じています。ですから私は、チラシの裏面にこの手紙を書いています。いずれ鈴木さんが辿り着き、研究所へ戻った時に貴方がたに読んでいただくために。貴方がたが何を研究しておられるのかわかりませんが、私たちがここから出られるきっかけになるのではと思ったのです。

実のところ、この青鈍歩行道路はあの世、死後の世界なのではと考えたことも一度や二度ではありませんでした。実際にそう言う人は何人もいます。ですが、鈴木さんと話したことでそうではないと直感しました。私たちは生きてここにいると今では確信していますし、それは大きな慰めとなるでしょう。

どうか私たちをお助けください。私たちを元の居場所に帰してください。私たちは訳もわからずここに入り込み、いつ終わるかもわからない歩行道路を歩いています。大切な人や場所から引き離されました。あまりに理不尽です。私は夫に会いたくてなりません。子供に恵まれなかった私たち夫婦にとって、お互いだけが家族です。

私はこの手紙を鈴木さんに託します。このあと鈴木さんは、できる限り走ってみるそうです。一緒に行きその瞬間を見たいと思いもしましたが、私にはそんな体力や脚力はありません。どれだけ心に念じてみても、辿り着くという予感も芽生えません。私は、これを読まれた貴方がたが私たちを助けに来てくださるものと信じます。今やそれが唯一の希望となりました。どうか私たちをお見捨てにならないよう、心よりお願い申し上げて結びといたします。
                               かしこ
  おそらく平成六年二月
                             桧川みどり
研究所の皆様

白衣姿の男が二人、オフィスで話をしている。年長の男が書類の束に目を通しながら言う。
「それで、このDクラスはまだ記憶が戻らないんだね」
「はい、博士。自分はおかしな色の空を見て目が眩み、次の瞬間、このサイトにいたと主張しています」
「一九八〇年一月、彼はオブジェクトの調査に参加するため機動部隊と共に名神高速道路を移動中だった。途中奇妙な空が出現し、そこを通過した時には彼の姿のみ消えていた。それから十年後。今回、突如としてここに──元の居場所に現れた。そして、その間の記憶を喪失していた。そういう理解で合っているかね」
はい、と若い男が頷いた。
 
「このチラシと手紙を持ち帰ったのは手柄だな。差出人については?家族は?」
「桧川みどりが行方不明になった日付と場所は手紙のとおりです。彼女の夫は、今も情報提供を求めるビラを配り続けています。警察や周囲に疑われかなり苦労したようですが」
「インタビューの日程を調整しなくては。一刻も早く話を聞きたい」
若い男は書類ケースから一枚の紙を取り出し、年長の男へ手渡す。微笑みを浮かべた桧川みどりの写真が印刷されていた。
 
そこには、奇妙な空を目にし気付いた時には妻がいなくなったと記されている。件のDクラス職員についても、同乗していた機動部隊員たちは彼が姿を消した瞬間を目にしなかったと証言した。

「しかし不可思議なものだな。もはや帰還はあるまいと議論が重ねられ、そう結論付けられたその日に姿を現すとは」
年長の男は若い男にビラを返しながら言い、ふと表情を変えた。若い男が怪訝な顔で訊ねる。
「どうかなさいましたか、博士」
「いや、一つ思い付いてね。あくまでも直感に過ぎないが」
「と仰いますと」

辿り着くとは、青鈍歩行道路に入り込んだ者の周辺が再会を断念する、まさにその時を指すのではないか。年長の男はそう述べ、首を横に振った。
「仮にそうだとするなら皮肉なことだよ」
「皮肉ですか」 
「誰かが待ち続ける限り彼女たちは帰れない」
 
若い男が得心したように呟きを漏らす。それにしても、と彼は続ける。
「我々とやらは何のつもりでしょう。観察が目的なのでしょうか」
「単に眺めて楽しんでいるだけかもしれんぞ」
その言葉に若い男は眉を潜めた。
「だとすれば悪趣味です」
「しかし、私たちにしても、水槽を泳ぐ金魚に心慰められるだろう」
それと同じさ。年長の男が呟く。若い男は物言いたげな表情を見せたが、言葉を飲み込みビラを書類ケースにしまう。

ふと窓の外に目をやると、穏やかな紺碧の空が広がっていた。

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  1. portal:8657511 (08 Jul 2023 07:26)
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