(原題: ウツボは死んで、腐って朽ちて、朽ちさせて。)
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「っぐし」

SCP-173の収容コンテナの外で小さく音がした。橙色のツナギに身を包んだ3人は幸いにも既に施錠を終えていたため、頸椎の砕ける音がその後に続くことはなかった。鼻をすする初老の男の脇で、残る2人は胸を撫でおろす。

「おい爺さん。あと1分早けりゃワシら死んどろうが」

bless you の言葉に続け、Dクラスの1人は男の胸に指を当てて言った。初老の男は苦笑いを浮かべている。

「悪い悪い。まあ無事なんじゃけえ大目に見てくれや」

「風邪なんか?」

「分からん。熱はねえけど、そうかもな」男は天井を見上げる。「昨日から寝れとらんのよ。そねーなことあんませんけど、アレよ、年甲斐なく初仕事で緊張しょーったんかもしれん。それで冷やしちまったか」

「気ぃ付けえ、寝不足やこー……」

「眠うはねえんじゃ、それが」真剣な表情を浮かべる仲間の心配とも文句とも取れる言葉をよそに、男は首を横に振って拘りのない様子で言葉を返す。「でもまあ今日はゆっくり寝てえわ」

そうこうしていると白衣を纏った職員が遅れて姿を現した。簡単な身体検査を受けたDクラスたちは誘導に従い、その場を後にして宿舎への帰路に向かう。靴音とツナギの擦れる音、溜息と骨を鳴らす音に混ざって、小さなくしゃみはもう一度鼓膜を震わせた。









◆ ◆ ◆





◆ ◆ ◆











インド洋ベンガル湾沖大陸棚底におけるSCP-3000遺骸サンプル回収



SCP-3000は,インド洋ベンガル湾の海底高地に生息する,ウツボ様大型海洋生物である.不対鰭が1つに癒合する点,対鰭を欠く点,体表に広く分布する微細な斑点,鰓孔付近の明瞭な黒斑など,形質状態は非異常のGymnothorax javanicusとの共通性が高い.しかし,背腹側視において頭部直径は約2.5m,前後側視において胴部直径は約10mであるが,ポストクラニアルは矢状軸方向にG. javanicusとの顕著なアロメトリーが見られる.超高精度重力衛星により観測された負のブーゲー異常に基づき,全長は600-900kmに達すると推定される.

SCP-3000の特筆すべき点は,存在が仮定される腺房細胞において,健忘作用を有する高分子化合物Y-909が産生される点である.Y-909はムチン様高分子糖タンパク質で構成され,当該物質のコアタンパクはN-アセチルガラクトースアミンに代表される無数の糖鎖が結合・重合している.既知の範囲内において,当該コアタンパクはSCP-3000を除く他のどの生物種においても確認されていない.財団はSCP-3000が分泌したY-909からコアタンパクを単離し,長期間の保存が可能でかつ強い効力を示す記憶処理剤の製造開発を可能としている.

2022/02/06時点において,インド洋ベンガル湾沖のサーモグラフィ探査・音響探査・海流モデリングはいずれもSCP-3000の海底への完全な固着を示唆しており,その能動的活動は観測されていない.先日に実施された生命兆候の緊急調査を経て,SCP-3000は死亡したと考えられている.SCP-3000の死亡およびそれに伴うY-909の確保経路の喪失は,今後のヴェール維持およびDクラス職員の雇用において吃緊の課題である.従って死因およびY-909産生経路の解明のための各種サンプルの採取を目的とし,財団はベンガル湾沖に調査船団を派遣する.・・・




白い波を立ててインド洋を前進する出力全開の6番艦ドックの中、ダグラス・レペス博士は深海探査艇の中に寝転んでいる。本来はその実在を知ることにすらセキュリティクリアランスレベル5という最高アクセス権が求められるSCP-3000であったが、その死という突発的な事変を前にして機密の度合いがレベル3まで引き下げられた今、調査人員として彼にも白羽の矢が立ったのである。彼の担当はSCP-169、財団の知るもう一つの大型海洋生物。その節足動物の規格外の巨体ゆえに財団も完全な収容は放棄しており、ただ彼のすることは各国の情報網を検閲し、IODP    国際深海科学掘削計画の目を遠ざけ、間接的な音波と海流と諸々をモニタリングすることのみであった。しかし、そのような業務であっても類似案件に対するノウハウの蓄積は期待されるものであり、そのため彼は大洋を越えてこの場に駆り出されていた。

出航した港からは毎秒16メートルの速度で離れつつあったが、探査艇に乗り込んだレペスからその光景が見えるはずもなく、彼は曲線美を湛えるコックピットを眺めている。無数のスイッチと計器が所狭しと並び、照明とディスプレイが空間をぼうと照らす、その下のマットに体を埋めていた。これからの数時間はこの金属の世界と膨大な海だけが実存となり、文明社会は忘却の彼方に送られる。

「博士、既にいらっしゃいましたか」

頭上から男の声が降った。見上げると、声の主は外部に何やら合図をしているらしい。博士が慌てて体を起こすと、青年はハッチをがちゃりと閉め、そのままチタン合金の中に降りて軽く頭を垂れた。話してみれば、プレム・パタンジャリと名乗るその短髪の操縦士はパンジャブの出身だそうで、なるほど肌の色を除けば白人と区別のつかないほどに掘りの深い顔立ちをしている。

「そちらはアメリカのご出身でお間違いないでしょうか?アクセントが   

「いや、ステイツのサイト勤務ではあるんだが、出身はウォリントンの田舎だよ。高校の寮はマンチェスターで、大学はトロントに進学した」

「マンチェスター……するとイングランドですね」

「そう。実家が農家だったから、昔は……ほら、20余年前まではベコを飼っていてね。当時の私もよく乳搾りをやらされたものだ」

「ああ、今はされてらっしゃらない?」

「ご近所の目というものが    ああ」

パタンジャリの方を向けば、瑞々しい若さを湛えた端正な顔立ちが目に入る。

「そうか。世代じゃないかな」

「はい?」

「そう、今は辞めてる。しばらくはマンチェスターで所得補助を受給していたがね、今は職に就いているし、私も家計に金を入れてる。問題なく暮らしているよ」

「そうでしたか。それは良かったです。私の祖母も   

   世間話を続けているうちに、外界では動きがあった。艦が次第次第に速度を落としてゆくにつれて甲板は人員で賑わいはじめた。クレーンが探査艇を摘まみ上げ、2人の入った入れ物を駆動音と共に持ち運ぶ。彼らの足元では作業員が旗を振り、オペレーターに指令を出し続けている。やがてがくんと船が揺れると、緻密に編まれたワイヤーは左右に振れながら紺碧に向かって降り始めた。探査艇が肩まで海に浸ると、若干名の作業員が海に飛び込んでワイヤーを外し、水面を漂うロープも取り除かれた。海原で自由の身となった。

「それでは潜航します」

「頼んだ」

無線のやり取りの後、探査艇は僅かに白い泡を残して沈潜を始めた。地上の混雑と喧騒から離れ、煌めく真光層をやすやすと脱し、深い暗黒の底へ探査艇は進んでゆく。マリンスノーほどの大きさも持たない一個の質点と化していた6番艦本艦は、暗闇の中でとうに姿を消している。

「SCP-3000とは初めて耳にしましたが」パタンジャリが口を開く。「全長数百キロの巨大生物、それでいて記憶処理剤の原料が手に入る。そんな便利な生物を財団が保有していたとは驚きです」

「保有というわけでもないだろうさ」一瞬間を置いてレペスは返す。「まあ、恩恵に与かっているのは確かなのだろう。記憶処理剤の供給、ヴェールの維持に一役も二役も買っているはずだ。それは認めよう。だが……」

レペスは肩をすくめた。

「鎖で縛れない、柵も建てられないじゃあ、真に管理のしようがない。相手がたまたま物静かだったから良かっただけで、我々が彼か彼女を適当に管理できたわけじゃないからな。もし気が変わって尾を波打たせたなら、君の住まいはともかく、中央アジアは出鱈目になってしまうよ」

「そうとも言えますかね」

「自然界はいつでも我々の想像を超えてくるし、いつでも我々に対して優位に立ち回るものだと、私は思う。我々は    財団ではなく、人類は    生態系サービスをほんのちょっぴり理解しただけに過ぎないのだろうね。特に壮大で、イカれていて、ずば抜けた傑物を目にすれば、そう思ってしまうものだ」

白い粒子の流れを眺めながら、レペスは続ける。

「……もっとも、その乖離を財団我々は埋めようとしているのだが、まったく途方もない作業だよ」

◆ ◆ ◆



マリンスノーに混ざって現れはじめた別の有機物質は、ウツボの死骸が目と鼻の先にあることを意味していた。浮遊するゲルの破片や何かしらの溶液の煙は、やがて立体を認識できるほどに大きさを増していく。反面、レペス達に先んじて海底へ降りていた第1~5番艦の探査艇群はあまりにも遠く、針で突いたような微弱な光としてさえ観測するには至らなかった。逆噴射装置による減速が始まり、積もりに積もった柔らかな泥を巻き上げて探査艇は停止した。

「これは……」

泥の粒子の奥に、アナンタシェーシャは死んでいた。

高さ10メートルの海底山脈    3,4階建てのビルほどの壁となって横たわるウツボの死骸には、既に無数の海洋生物が所狭しと群がっている。その様はあたかも狂乱の宴である。辺縁歯で肉を削るサメの群れの足元で、グソクムシは身体を刺し込んで肉を貪り、カニは鋏脚を振りながら蠢いている。奇怪なサンバの隙間を縫って時折粘膜を放つヌタウナギに紛れ、コンゴウアナゴも肉を抉ってのたうっている。海洋底という大皿に盛られた特大の肉を前にして、腐肉食者たちは絶大で本能的な歓喜の渦に包まれていた。眩いばかりの光を当てるヒトの所作など意に介さず、彼らは爛熟した肉を腹に送り続けていた。

「そこ、照らしてもらえるか」

鰓孔は秩序のある動きをとっくの昔に放棄して、いごいごとしたワームの出入りする開放口と化していた。おそらく身軽な彼らにまさぐられたその奥部は原型を留めてはいないことだろう。その上では1匹のカグラザメがウツボの巨体から肉を掠め取っていたが、鉄を含む赤黒い噴煙柱が立ち上りはしなかった。財団が異変を察知するまで野晒しにされたウツボの死体は既に大部分の血液を海に流してしまったらしい。僅かに残った赤色は儚く漂い舞った後、サメの尾鰭に叩かれ消え失せた。

「体温も既に海水温と同じだ。もう生命を保てない」

「やはり失ったというわけですか。記憶処理剤の材料を」

鼻から大きく息を吐いてレペスは答える。「そういうことになるな。こうなった以上、我々にできるのは、この死骸から可能な限りのデータとサンプルを回収して死因を突き止めることだけだ」

「……しかし不思議ですね」

レペスは眉を寄せた。

「何がだ?」

「アノマリーですよ。財団がアテにする異常生物であっても結局は死んで、何の変哲もない魚に喰われる。異常存在でも自然界の一部に過ぎないっていうのは、技師としてオブジェクトに触れてきた自分にとっては、少し変わった気持ちです」

「ふむ」

レペスは黙念として死骸を見つめた。

「面白いかは分からないが、一つ話をしよう」

自分の中でスイッチが入ったことを、レペス自身も感じ取っていた。

「今オブジェクトを食い散らしている連中だが、こいつらは始まりの段階に過ぎない」

「始まり……ですか」

パタンジャリが探査艇を前進させる。照らされても怯むことのなかったエビやカニはここでようやく白旗を挙げ、遅れてヌタウナギもぬるぬるとその場を後にした。

「そう。クジラやウミガメの死骸にはこういう生物が集まる。ネクトン……移動能力の高い連中が集まって、そこにある肉と内臓を平らげる。資源の少ない深海なら願ってもない馳走だよ」

マニピュレータが駆動すると、聞き慣れない駆動音に警戒心を覚えたのか、サメも距離を置き始めた。探査艇はSCP-3000の頭上に陣取り、頭蓋骨に這わせて前頭骨を刈り取るように岩石カッターを構える。僅かに残された皮膚の柔らかな沈み込みの下から、ゴリ、という硬質感が刃とアーム越しに伝わるようだった。カッターはおもむろに回り始め、肉と皮を剝ぎながら頭蓋天井を削り始める。

「やがてこの皮膚すらも食べ尽くしてネクトンが去れば、後にやって来るのは多毛類や小型の甲殻類だ。やつらは腐肉食動物が食べ残した肉の破片    そして食べられない有機物を食う。骨自体を分解するバクテリアや、骨の中の脂質がそれだ。それすらも使い尽くせば、硫化水素を使う化学合成細菌とその宿主が優占する。それも済めば骨は単なる礁になって、物理的な風化を海底でひっそりと待つことになる。何百年も何千年も、冷たい海の底で静かに座して待つ」

「始まりに過ぎないというのは、これから始まる長い過程の入り口だということですか」

「そんなところだ。鯨骨群集を見てみても、動物に喰い尽くされる時期というのは全体の数パーセントにしかならない。対して硫黄酸化細菌と硫酸還元菌の卓越は1世紀も続く。遥かに長く続く、我々ヒトには気の遠くなるような生命の営みだ。君の言う通り、オブジェクトもその過程の一部、物質循環の一段階に過ぎないわけだ」

「なるほど……」

「……もう1つ加えて言うならば、鯨骨群集は分布と進化の『飛び石』だと言われている」

「飛び石?」

レペスは両手の人差し指を立て、可能な範囲で腕を伸ばしてみせた。つん、と片方は壁に触れる。2本の指を空中で交差させながら彼は続ける。

「太平洋東西のプレート境界に散らばる熱水噴出孔には、互いに遺伝的交流のある二枚貝が生息しているそうだ。しかし噴出孔の分布は大洋に隔てられ、そもそも同じ側の孔も連続しないから、固着性の生物にとってそこを渡ることは夢のまた夢だ。岩壁に貼り付いて栄養分を得る彼らが移動できるのは幼生期だけだが、移動可能な期間はあまりにも短く、海を渡るには到底足りやしない。ではどうするか。どうすれば分布を広げ、どのようにして互いの遺伝子の混ざりあいを実現できるのか?」

パタンジャリは口ごもり、自信の無い様子でレペスの瞳に視線を送る。

「……そこを繋ぐのがクジラの骨だと言うのですか?」

「ああ」レペスはにったりと笑う。「同じ深い海の底に広がり、太陽の光の加護を受けない    光合成に依存しない鯨骨群集こそが、『飛び石』として機能するんだ。具体的な数字は忘れてしまったが、キロメートル単位で距離が縮んでいればそれで十分。受け入れ難いかもしれないが、それは時間の尺度が我々にとって馴染み深い日常のものから逸脱しているからだろう。海流に乗って何千何万という星霜に身を委ねればそれで良い。彼らは遥かな海洋を旅し、クジラに乗って世界を駆ける」

「……何だか、良いですね」パタンジャリも軽く笑う。「アノマリーもどこかで地球生命の架け橋になる」

「その通り。シロナガスクジラより二回りも三回りも太い胴の持ち主だ。いくら1日に数十キロを喰い尽くすカニの群れでも、これを片付けるには年単位の時間が必要だろう。こいつの骨がどれだけ脂質を蓄えているかは知らないが、きっと何世紀もバクテリアと貝の楽園が広がることだろうさ」

「長い時間をかければ、アノマリーの身体を借りて新種が誕生するということもあるんですか?」

素朴で興味深い質問を前に、レペスは意表を突かれて目を丸くした。

「そうだな」顎に手を当て思案する。「新種……と言うよりも種分化であればその発生を許容しうる時間スケールではあると思う。特にアノマリーともなれば、その体内環境は未知の世界だ。Y-909やその合成過程の出発物質がどう生物体に作用するか、これまでに積み重ねた微々たる知見では、正直見当もつかない」

言葉を紡ぐ。

「鯨骨群集は生物に新たな生態的地位を与える意味でも、進化的な『飛び石』だった可能性が考えられている。海洋表層から深海の熱水噴出孔へ、生物を新たな環境へ誘う道程だったと。彼ら自身が遥かな新天地を覗き込んだわけではないが、無限の可能性は目の前に開かれていたわけだ。その点で、科学者の真価を外れた思弁的空想に過ぎないが    SCP-3000の死骸が何か新たな道を拓くということも、ひょっとすると」

生物地理のトークに花を咲かせていると、ボコン、とカッターが音を立てた。舞い上がる骨の粉の中、脳を守る堅牢な天井がようやく切り落とされたのである。

探査艇を前進させ、頭蓋天井の空洞を埋める。カッターを格納すると共に水の中でこもった金属音を立てつつ、底部から脳の摘出に移る。脳漿の匂いを嗅ぎ付けた腐肉食者が寄らないうちに、早急に試料を取り出さなくてはならない。

「……おや」

柔らかな脳をカバーで包む中、レペスは外部の異変に気付いた。モニターの画面上に浮かんだ僅か数ピクセルの違和感だったそれは、徐々に実存を増していく。ヒトの目では捉え切ることのできない何かがそこに居る。

「パタンジャリくん。すまないが、そこ、照らしてみてもらえるか」

「博士、作業が」

「余ったライト1つで良い」

サーチライトの光はたちまち深淵に呑まれていくが、十二分に視界を確保してくれた。光源が灯ったその刹那、ディスプレイには白々とした物体が映し出された。

「うおっ」

一瞬の驚きの後、レペスはその正体を見抜いた。何も特殊なものではない    が、異様なものではあった。漂っていたのは1匹のカグラザメの死骸である。ゆっくりと浮かび上がるそれに一見不審な点は無いように思われたが、尾側に向かって生傷が増え、尾鰭の下葉は潰れて欠けていた。それはどこかに打ち付けて圧壊したかのようで、共食いや、より高次の消費者による捕食痕でないことは火を見るよりも明らかだった。カウンターシェードで白く目立ったその腹は徐々に上を向いてゆき、その場の流れに揺られながら次第次第に昇ってゆく。

「あれはさっきの群れていたやつですか?」

「そう思うが、あれだけの個体数じゃ識別は無理だ」

諦念の次に鎌首をもたげたのは、当然の謎だった。疑問を隠すことなく、思わずレペスは声に出す。

「何故死んだ?」

パタンジャリはレペスの意思を感じ取った。短時間の潜水を共にしただけの仲ではあっても、論評と熱弁を隣で聞けば彼の興味と好奇心の強さには察しがつく。

「……持ち帰る余裕はありません。脳は1メートルあるんです、もう積めません」

噛み締めた口で息を吸う。SCP-3000の脳の回収を終えた頃、カグラザメは遥か彼方に流されていた。

◆ ◆ ◆



数週間が経って、SCP-3000に関する情報は相当なものが集積されていた。レペスの探査艇を除く5隻のサンプリング対象はうち2隻が骨組織、残る3隻が軟組織であった。それぞれの発見は目覚ましいものであり、もしアナンタシェーシャが機密事項でなかったならば今後数十年は各学会の目玉になっていたであろうものが目白押しになっていた。野生動物に食い荒らされた残滓の一部といえども、生物体から直に得られる知識というものは、これまで財団が蓄積した情報量を軽く吹き飛ばす程度のものだったらしい。

直径1メートルにも及ぶ切り株のような椎骨と長大な担鰭骨は、周囲360度よりぐるりとカメラを回して3Dモデルを作成した後、カッターでスライスした切片をデヴィッドソン固定液の大容量プールに浸すことになった。直径1メートルの骨をミリ単位の厚みで切る作業の難度は彼方から糸を投げて針の孔に通すような想像絶するものであり、精密な作業に長けたサイト中の技師が一斉召集を受けての工程となった。解剖学者らが残った椎骨を観察してドクウツボの原記載と見比べる間、分子生物学者は脂肪や筋肉ならびに皮膚を切り取ってDNAとタンパクの抽出を行っていた。弾力のある肉塊を研究者が刻む様は食肉処理場の様相を呈し、其の傍らで分類学者は肉を眺めて鱗や外分泌線について議論を交わした。

骨の固定が完了した後は、細かい切片に切り分けて脱灰の作業に入る。第一にギ酸、第二にEDTAがそれぞれ10%の濃度で用意され、順々に薄片が沈んでいった。骨を構成するヒドロキシアパタイトの溶け出しは上下左右前後から放たれるX線の観測を受け、脱灰のエンドポイントは適切に見守られる。何名もの研究者が結晶の溶けきる様を期待して入れ替わり立ち代わり装置を覗き込み、夥しい薄片に対して幾つもの夜を更かしていった。やがてカルシウムを失った切片は特殊試薬に晒され、各種染色の結果を待つこととなる。

宝の山と期待される軟組織も着々と記載が進められていた。分光分析の結果として定量化されたタンパクは幾つものスパイクをグラフに並べ、後は現生のウツボとの比較に入るだけであった。また核ゲノム配列もATGCからなる膨大な羅列をアライメントに置き、遺伝子機能の比較と共に、ついにウナギ目を内群とした系統解析が着手されていた。ラップトップに展開された近隣結合法は早速に系統樹を再現し、画面を覗きに来た研究者を無言で頷かせる。壁を隔てた重量級のコンピュータは一途にベイジアンMCMCを走らせ続け、席を外した操作者は喫煙所で時間を潰していた。



……結果として、SCP-3000の骨には骨細胞が認められなかった。これは    陸上動物のような骨を介したカルシウムの調整が海中では不要となることも要因の一つとされ    非異常の海棲ウナギ類と共通する結果であり、幾億年前にウナギ目の魚類が祖先から派生した際の系統的制約に従うものであった。ここから導かれる事実は、単に外見に類似性が認められるだけでなくSCP-3000がれっきとした魚類の一系統群に属することであり、分子系統解析もこれを大いに肯定した。

骨細胞の有無についてもう一つ研究者を喜ばせた点は、年齢推定の障壁となる二次オステオンが形成されない点である。SCP-3000の骨断面にはおそらく夏冬の気温変化よりもむしろ降水量か循環の変化に起因すると思しき成長停止線が見られたが、爬虫類や哺乳類のこうした成長停止線は破骨細胞と骨芽細胞によるリモデリングを経て往々にして消滅    すなわち、二次オステオンによる上書きを受けてしまう。しかし骨細胞を持たないウツボはこの点をクリアーしており、彼女の胚発生から死に至るまでの履歴が古文書のごとく克明に記録されていたのである。

とはいえ、成長停止線の読み取りは外縁部に向かうにつれて困難を極めた。動物の成長は3次元物体を考慮されるべきで、それはアノマリーにおいても例外ではない截然とした物理的な公理である。骨の形成を支配する代謝率が一定であれば、骨自体の表面積が増すにつれ、成長する厚みは漸近的に減少する。単位時間当たりの骨形成量が等しいためである。結局のところ、冪乗に比例して狭まりゆく成長線間隔からは、推定年齢50万歳という下限値のみが得られた。ウツボの骨を古気候プロキシーに流用する案も提出されてはいたものの、外縁成長線の過密を鑑みて留保される運びとなった。

地質時代の変遷を経験した50万年という数値は別の事実に説得力を与えてもいた。軟組織から発見された病変と寄生虫である。激しい運動をしない固着性の生物であったがため骨折の痕跡は無く、また骨細胞も存在しないが故に骨肉腫の類も見られなかったが、その代理を引き受けたかのように肉の多くは変質を遂げていた。表皮付近の壊死はトリコディナ症に起因するものと見られ、とりわけ目を引いたのは肉の中から摘出された全長20センチに及ぶ異様な体躯のアニサキスであった。サンプリングされなかった部位にはさらなる大型寄生生物が存在した可能性も否めず、魚骨群集の形成を待たずして既に特異的な進化が始まっていたのではないかとする声も各所で上がることとなった。

そうした寄生生物とは別に、軟組織には悪性腫瘍も散見された。全長900キロに及ぼうかという巨体と圧倒的なその細胞数にとって、多少のがん細胞の増殖は許容範囲であったらしく、ヒトであれば到底受け入れられない規模の横紋筋肉腫が確認された。発見された腫瘍はいずれもテニスボール大であり、それ以上の発達や浸潤を引き起こしたものは見られなかった。サンプル数が少ないものの、これは生体の細胞数とがんの発症率を論じたピートのパラドックスについてある程度の視座を与えるものである。しかしその反面、致死的な悪影響をもたらしたような証拠は無く、ポストクラニアルだけの議論では死因が表面化しない実情にあった。

細胞の大きさと血管の直径は循環器系の効率を求める方程式へ代入され、アナンタシェーシャの代謝量まで推定された。魚類にしては異様に高い体温と塩基配列から成長ホルモンの過剰分泌が議論される間、研究者らはレペスの成果を心待ちにしていた。脳が脊椎動物の生命を司る最重要器官であることは生物学者にとっては常識であり、ここまで続けられた考察と妄想をいともたやすく覆しうる可能性を秘めていたためである。

一条の光を求め、彼らはウツボの脳を欲した。

◆ ◆ ◆



時は遡って、パタンジャリと共に下船して数時間後。

レペスはアナンタシェーシャの脳をホルマリン漬けにした。その後は濃度の異なるグリセリンにより段階的脱水を行うが、ここで各段階が1週間を要する長丁場となることを鑑みて、これと別件の調査も並行して進めていた。それは海底で目にしたカグラザメに関する情報の精査である。

カグラザメの不審死について類似案件が無いか文献調査を徹底し、学術論文から学会発表の要旨、公開された学位論文を漁り、自治体の掲示板やビーチコーミングを嗜む個人ブログやTwitterにも手を伸ばす。疑似科学やオカルトサイトに至るまで情報を蒐集したのち、インド東岸で座礁・漂着した海洋生物の報告が相次いでいることが分かると、レペスは先のカグラザメとの関連を思弁した。単なる病死か事故死かもしれないが、奥底に残り続ける違和感があった。そこで良い口実があったとIODPを隠れ蓑にし、沿岸部に拠点を置いた某大学への潜入を依頼すると、パタンジャリは二つ返事で受け入れてくれた。良い友を持ったものだと内心で喜びつつ、彼は神妙な面持ちでウツボの脳と向き合っていた。

脳をアセトンから取り出してエポキシ樹脂に浸す間、彼は脳組織がいやに軽いという示唆を再認識した。素人目には、1メートルに亘るその脳は傍目には重力をも抱かせるような質量感を漂わせている。しかしレペスの目から見れば、ドクウツボとの形態学的差異の一切を包み隠した肉体の下には、異様と言わざるを得ない脳が降って湧いていた。大脳・中脳・小脳    脳の塊はいずれも痩せ細り、重量計の数値も小さく抑え込まれている。その意味するところは厳密には分からなかったが、疼く不穏な感情と凍て付くような憶測は彼の胸の内で大きくとぐろを巻きつつあった。



X線CTの結果に、彼の予想は的中した。



   SCP-3000の脳にはぽっかりと空隙が開いていた。本来ならば密であるべき領域に脳室の広がりを見せ、彼方を望遠できるかのような空間が鎮座する。内外から歪に萎縮した脳はグロテスクな塊として視認され、総身の毛を逆立たせた。ぶる、と身震いした彼の脳裏に浮かんだものは、名をクロイツフェルト・ヤコブ病と言った。


レペスは十字を切った。女王と祖国の名の下に、アナンタシェーシャの平安を祈る。


クロイツフェルト・ヤコブ病は伝達性海綿状脳症    別名プリオン病という神経変性疾患の一つである。核酸への依存を見かけ上脱却した異常プリオンは、原虫や真菌、細菌やウイルスとも異なる全く新たな病原体であり、その本質は細胞膜外に分布するタンパク質にある。寄生虫が一個の生物、がん細胞が一個の細胞として生命活動を進行するのとは別に、ニューロンのタンパク質に命は無い。ただ化学的作用によって周囲の分子を歪めていく、有機的かつ無生物的な物質群である。

異常に折り畳まれたプリオンは周囲の正常プリオンを改変し、その影響を感染、連鎖させてゆく。次々に変貌を遂げる正常なそれらはアミロイドの凝集体を構築し、平面的なβシートからなる緻密な多層線維を蓄積させる。水素結合に繋がれた幾万もの層は再生不能の脳において特に深刻な害をなすものであり、顕鏡観察を行えばカートゥーンアニメのチーズのごとく組織を蝕む微小な空胞の群体が垣間見えるはずである。細胞の死、組織の損傷を通し、長い年月をかけて異常プリオンはブレインを破壊する。治療法は無く、非異常科学でありながら財団でも手出しのできない領域が広がっている。かつての牛たちのように、SCP-3000もその猛威の波に呑まれたと見える。

2000年代の後半に入ってプリオンタンパクに対する自然免疫機構はその一端が明るみに出されており、生物体はこの非微生物感染症の制御能力を持つと考えられている。しかしSCP-3000の脳がこれほどまでに歪んでしまっているならば、数々の抑制過程は突破されたということだろう。幾万年の歴史を持つアナンタシェーシャの肉体で繰り返された、免疫機構と病原体との熾烈を極める競争は、やがて高耐性の異常プリオンの形成を許してしまったのかもしれない。

アナンタシェーシャの異常プリオンの起源にまつわる疑問    孤発性のものなのか、あるいは遺伝や捕食を介して獲得されたものなのか    は、より大きな疑問の前に搔き消された。それはSCP-3000から他種生物への伝染能力の存在可能性である。プリオンの主たる感染経路は経口摂取によるものであり、ウツボの死肉を漁った腐肉食動物群はタンパクの『飛び石』    感染爆発の火薬庫と化したおそれを否めない。その不安は彼の思考を束縛し、寝床に就くまでついて回った。




……夢には、若かりし頃の父と母が姿を現した。飛来する石礫から赤色が滲み出る。

血相を変えて騒ぎ立てる群集の奥で、牛の死骸が転がっていた。

◆ ◆ ◆



翌日の午後、デスクから鳴る呼び出し音はレペスの熟睡を破った。頬に残った塩水を拭い、寝癖も構わず書類の束を滑り落とす。ディスプレイのブルーライトに向き合い、確認のウィンドウに対してYボタンをタップする。何秒か画面が暗転した後、どこかの研究室らしき雑然とした空間を背後にしたパタンジャリの顔が浮かび上がった。

「おはようございます博士。コーチンの収蔵庫ですが、アタリですよ」

「アタリというと、つまり?」

「推測が当たっていたということです。保管されている液浸をいくつか切らせてもらいましたが、その半分以上は棚落ちしたスイカみたいな空洞が開いていました。あとで写真は送りますよ」

「なるほど」

髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。予感は当たっていた。アナンタシェーシャに起源を持つプリオンは既に食物連鎖を介してベンガル湾に広がり始めているらしい。通常の経口摂取ならば発症には数年から数十年を要することもある。アノマリーのそれもまた10年20年を静かに過ごす眠れる爆弾であるのなら、莫大な固着性有機資源を肉食魚が齧っていたのだとするならば   

   年代との照合が必要だ。種の寿命も参考になるだろう。

「種と、採集の年代は?」

「……ええと、細かい種名は記憶にないですが、自分が見たうちのほとんどはサメです。他にタイやクマノミ、フグなんかも1匹ずつ見て、それぞれ穴が確認できました。あと、直接見てはいませんが座礁したクジラも同様の症状があったそうです。年代は   

レペスは目を丸くした。

「待て、クマノミ?」

パタンジャリは言葉を切った。レペスは顔をぐいと近づけ、頭上に萌した疑問を画面にぶつける。

「今挙げてくれた連中……サメ以外の種について、そいつらはきっと、サメのように肉や脂肪の塊を平らげるわけじゃないはずだ」口早に続ける。「クジラ……クジラはどうだ?種類は分かるか?歯の形状はどうだった?」

「ニタリクジラです」パタンジャリは肩をすくめた。「歯までは分かりません。調べましょうか」

「……いや、良い。君は知らないかもしれないが、ニタリクジラなら歯の形は分かる。ブラシのような歯だ。……私の期待からはちょっと外れてしまっているがな」

パタンジャリの顔に疑念が浮かぶ。判断しかねる様子をちらと見せ、彼はレペスに問いかける。

「期待?期待とは?」

「私の予想を厳密に言えば、萎縮した脳は肉食の海棲脊椎動物にだけ見られるはずだった。無脊椎動物は良いんだ、なんせSCP-3000からの系統的障壁が大きすぎる。だから、ウナギ目に近縁な他の肉食性硬骨魚、次に軟骨魚類と海生哺乳類で検討するつもりでいた」

哲学的philosophical?」

系統的phylogenetical。説明しよう」

レペスは車輪にものを言わせてホワイトボードを引き寄せ、勢い良くキャップを外してマーカーを鞭のように叩き付けた。樹形図と呼ばれるクラドグラムが乱雑な線分で描かれる。その枝の先端のいくつかを纏めてぐるっと囲み、哺乳類(mammalia)と書き込んだ。

「生物は木の幹から1本1本枝が分かれていくように進化を遂げた。ざっと5億年あまり前、熾烈な食う・食われるの中で出現した魚のような生物、薄っぺらな原初の脊椎動物から我々の祖先は脊索を受け継いだ。ある者はサメのように軟骨を発達させ、ある者は硬骨へと進化させた。硬い骨の魚はやがて鰭を脚に変え、その末端に指を生やして陸へ上る。デボン紀に始まった陸上系統、その果てに居るのがクジラや我々だ」

板面を打つ。クジラとヒト、そして遠くに離れたサメの枝がびりりと揺れる。

「何千万年に亘る変異の蓄積だが、この系譜は一切寸断されることなく続いている。もし3000の病原体がウツボよりも根元で分かれたサメや、我々と近い葉であるクジラに感染するのであれば    その影響範囲はヒトを含め脊椎動物のほぼ全域だろう。死骸、あるいは生きていた頃のウツボを齧っていた肉食の脊椎動物ならば、脳の疾患がありうると思っていた」

あまり事情を呑み込めない様子で相槌を打つ様子が見える。

「だが君の報告によれば、脳の空洞化はプランクトンや海藻で栄養する種にも共通している。私の推論とは違う。何か想定外のことが起きている」

「……つまり、SCP-3000の肉を食べていない動物も、同じ特徴を示すってことです?」

「その通り」レペスは呻きながら文字通りに頭を抱えた。「感染経路が分からん。例えば、マッコウクジラなら良かった。ダイオウイカを喰い殺すついでにウツボの肉を漁ることくらいするだろう。だがヒゲクジラとなると……」

オキアミまで視野を広げるべきか。

「なあパタンジャリくん、甲殻類の脳は見たか?」

「一応、博士と鯨骨……いえ、魚骨群集を見た時にカニも印象に残っていましたからね。沿岸で拾われたやつから深海で採取されたやつまで、とりあえず何匹かは開いて見てみました」

「結果は?」

「ノーです。彼らの脳は普通のカニと全く同じですよ。イカやタコも同じです」

「つまり脊椎動物の外群にウツボの異常プリオンは通じない。系統的な縛りと同じか」レペスは勢いよく背もたれに体重をかけた。「奇怪だ。食物連鎖を経由しない感染経路があるのか?あるいは節足動物には感染しないだけで、保菌者のように……?」

しばらく間を置いて、パタンジャリは申し訳なさそうに口を開いた。

「博士、その異常プリオンって言うもの……それは病気なんですか?」

「そうだよ。大っぴらにする決心がついていないから、明言することは控えているがね。ペストやコレラどころじゃない、致死率100%の病がちょっと潜った海の底で伝染しているなんて、私自身の感情が認めたくはない。個人的な思惑もある」大きく肩を動かして一呼吸する。「しかしそんなものは科学者としての矜持に反するものだ。確固たる証拠が出揃えば、間もなくこれを打ち明けるつもりではいる」

「なるほど。……素人考えなら申し訳ないんですけど、病気なら空気感染みたいなことはあり得ないんですかね?」



   沈黙。

レペスはその問いに関心を持った。

「空気感染だって?」

「海の中だから不適切ですかね。ほら、インフルエンザやコロナならくしゃみや咳で感染うつるわけじゃないですか。そういうことって   

「……なるほど?」

レペスの脳内には、ある1つの病名が想起されていた。遺伝子の伝播に依存しない、捕食-被食関係も経由しない、異次元の感染経路の存在が追憶の彼岸から蘇ろうとしていた。米国はノースカロライナ州、サイト-41。レベル1のクリアランスで閲読可能なその報告書は、SCP-6448のカバーストーリーにその疾病を利用していた。

鹿慢性消耗病CWD。北米とスカンディナヴィアで猛威を振るうプリオン病が一種である。

他のプリオン病と比較したCWDの最大の特徴は、シカ科哺乳類の体液のうち血液のほか、外部に分泌されるもの    唾液および糞尿にも感染性が認められる点である。この事実は、シカ科哺乳類同士の間接接触を経た感染拡大を誘発するという、驚異的にして爆発的な感染特性を意味する。この飛び道具的経路をSCP-3000プリオンも辿るのならば、積み上がった莫大な排泄物の山、流れ去ってしまった膨大な血液の雲は、大半の水棲脊椎動物の危機となる。

「……あり得る話だ」

「そうですか?良かったです」

事を大して深刻に受け止めない様子でパタンジャリは喜んだ。写真資料の他に種と日付と採取地のリストを送付するよう指示を出して通話を終えると、研究室は再び静寂に閉ざされた。海水を介した粒子の伝播であれば、力学解析のソフトを走らせて復元すれば影響範囲を評価できる可能性はある    と思索しながら席を立つ。

計算機を立ち上げなくてはならない。シミュレーションを行うならば前提条件が不可欠となる。間を取ってウツボの全長は750kmと仮定し、全身をベンガル湾に固定させる。あれだけの巨体を維持可能な栄養分を確保できるか疑問だが、摂食量はアザック指示書の内容から算定可能なヒトの肉の量と、当該水深の個体群密度から   



   電源ボタンに向かって伸びた手が、ふと、止まる。



外分泌腺を経たプリオンの拡散?



アザック指示書はY-909の採取に関する取扱手順書だ。財団の運用のための必需品となった記憶処理剤の原料のうち、約7割はアザック・プロトコルに従ってY-909から賄われている。今後苦境に立たされるであろうヴェール維持の努力とは別に思考を掠めたものは、これまでに生産され、蓄積され、流通した記憶処理剤の量だった。


1998年の秋から、今や20年以上が過ぎている。



一体何トンの薬品が世に出回ったのだろう。


何本の瓶に薬剤が注がれたのだろう。

幾つの注射針とカップが使われたのだろう。


一体何千、何万人が、その身に薬を宿したのだろう。




財団は『飛び石』になったのではないか   
Y-909に無限の可能性を与え、5つの大陸へ導いたのではないか   

祖国のみならず、またしても。


財団がY-909を高く評価し、原料に採用した理由の1つは、その高い化学的安定性にある。加工された記憶処理剤は保管条件に左右こそされるものの、Y-909は長期保存が効く代物である。熱、薬品、放射線    数々の外的要因に対し、当該物質は抵抗性を示してきた。

そしてもう1つは、脳への強い影響である。記憶を司る脳という名の中枢神経系にY-909は作用する。強烈にして甚大で、鮮烈にして莫大な、脳への影響を与える化学物質。




それらは、異常プリオンにも当てはまる。









◆ ◆ ◆





◆ ◆ ◆











その夜、床に就いたDクラス職員の目は皿のように開いていた。いたずらに開き続ける瞼を通し、水晶体を介した光は網膜を照らし、電気刺激に変換される。とめどなく流れ続ける情報量に脳は手をこまねいている。

指が震え、四肢が動く。荒れる下腿に捲られて布団は力なく落ちていく。目にした彫刻に対する恐れではなく、巨大な組織に飼われることへの慄きでもなく    ただ彼の身体は意識の支配を外れつつあった。地震を受けたかのような著しい振動、内耳を突き破らんがごとき激しい衝突音は、彼の脳に怒涛の揺さぶりをかける。

嘔気。焦熱。平衡感覚の狂い。男の視界は発散する。男の視界は収束する。回転、傾斜、癒合、分離、集積、散逸、跳躍、落下    皺のついたシーツが眼前へと迫って来る。その遥か果ての地平を目指し、男の意識は虚空を駆ける。



80億人の暮らす星で、今、同じことが起きている。


ペプチド仕掛けの爆弾は、静かに時を待っていた。


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