私が私であるまでの幾つかの断章 それから尋常部門のオリエンテーション

このページの批評は終了しました。

評価: 0+x
blank.png

 昔、少女がおりました。

 少女は淋しかったのです。

 世界が私を置いていく。

 それは悲鳴でありました。

 少女は記憶に長けていた。

 天賦と呼べるほどでした。

 たとえ誰かが忘れても、

 少女は覚えておりました。

 壊れたものがありました。

 失くしたものがありました。

 たとえ誰かが忘れても、

 少女は覚えておりました。

 空虚を少女は知りました。

 他人と心も噛み合わぬ。

 淋しさだけが溢れゆき、

 やがてそれを痛みと思ったあたりで少女の気がついたことには、何もリズムに乗らなくたってルールに則らなくたって別によかったのでした。私には私の生き方がある、分かりにくい定型に乗せて共感されない苦しみを訴えなくたっていい、私は私の心のままでいい。こうして少女は、私は、私になることを選んだのです。


質問者: 所属と氏名を述べてください。

回答者: サイト-81██ 尋常部門記録保管室アーカイブス専属アーキビスト、藤波ふじなみ水都みなとです。

質問者: よろしい。それでは始めます。


結局、世界のすべてはうつろいゆくのだと、心の底では解っていた。


質問者: ご自分の記憶力についてどう思いますか?

回答者: 相も変わらずの漠然とした問いですね?

質問者: 私語は謹んでください。

回答者: 申し訳ありません。……ええ、私は物覚えがいい方です。その事実は、私が生きていく上で幾らかの助けにはなりました。けれど、それだけ。それ以上の何でもありません。結局のところ、どれだけ言葉を尽くそうとも、私の記憶は私のもの。私だけのものですから──


失くしてしまうのが怖いなら、すべて戻してしまえばいいのだと、そのように気づいたのは10歳に差し掛かった時分のことだった。思考で現実が塗り変えられることに気がついたとき、今まで感じていた息苦しさがほんの少し和らいだような気がしたのをはっきりと記憶している。

lilac-1385989_640.jpg

はっきりと記憶していることは他にもあって、それは例えば8歳の初夏の昼下がり。花弁が5枚のライラックは幸福を呼ぶので、見つけたら誰にも告げずに飲み込むと良いと。そうすれば願いが叶うのだと本で読んだ私はそれを心から信じて、道路脇に茂った濃紫を熱心に眺めていた。時計の長い針が120°ぶん動いたあたりでようやく見つけた幸運は随分と車道の方に寄って咲いていて、ちぎろうと上体を伸ばしたらうっかり転んでしまいそうになった。どうにか手の中に握り込んだ花びらからは汁が出ていて、なんとなく汚いような感じもおぼえたけれど、結局口の中に放り込んだら「何してるの?」

7つ年嵩の姉が笑いかけてきたので、私の舌は慌てて花弁を奥へやった。ひみつ、と答えた口蓋に張り付いた花弁が、家に帰ってうがいをする隙にそっと外して飲み込むまでのおおよそ20分間、ずっと存在を主張し続けていてうざったかった。

叶わなかった願いだから、もはや口に出して言ってしまっても構わないだろう。どうか、悲しいことのありませんように。

後になってから振り返って思ったのは、もっと具体的に願わなければならなかったのだろう。過去でも未来でもなく、そこにある現在に望まなければ、きっと叶えられなかったものを。

仲の睦まじかった両親は、その年の結婚記念日に帰ってこなかった。交通事故に遭ったらしかった。私は彼らの死に方を知らない。終ぞ教えてはもらえなかったので。その代わり私が脳内に結べる映像は、窓際で電話を取った姉の横顔だ。窓の外は晩秋。舞い散る風花は、みるみるうちに血の気が引いていった彼女の頬と同じ色をしていた。

私は記憶している。例えば角の公園に立って見える時計の、アラビア数字の並んだ盤上を走り抜けていた針たちの日に焼けた灰色を。太陽が空の高いところにあって街路樹の葉を透かしている、その木漏れ日のひとつひとつの形を。西の方からそよぎ吹き抜けていった風が揺らした木の根元で微睡んでいた姉の手の中の本の書き出しを。想起しようと思えば、他にも、幾らでも、精彩に。

私の物覚えは、かなり良い方であるらしかった。しばらく歳を重ねるまでは忘却という概念が理解できなかったぐらいには、物をよく覚えていられて、それを普遍だと思い込んでいた。

カメラアイ。映像記憶者ビジュアライザー。私の記憶能力はそのように称されるものだと、教えてくれたのもまた姉だった。写真を撮るように、場の情景が記憶に刻みつく。ビデオを再生するように、すべてを思い出す。どうやら姉や、両親や、世界に暮らす殆どの他人はこのように物事を覚えてはいないらしい。

それで私はひどく淋しい、淋しかった──淋しかったので。間違っているのは世界の方だと思った。何故って、会話の歯車が徐々にずれていってしまうから。「こんなことがあったでしょう、」「あんなふうに言っていたね、」覚えているのは私ばかりで、あなたはとっくに忘れてしまっているじゃないか。

つまり私は、ひとかけらの喪失すらも許せないでいたのです。世界から置き去りにされているかのような、そんな感覚がずっと。私の記憶はすべてを等しくフレームに収めるから、取るに足らないものなどただのひとつもなくて。紙は破れ、硝子は割れ、植物は枯れ、生き物は死ぬ、この世界が許せなかった。

私は一度見たものを忘れないから、私の記憶したものはすべて時間の流れから切り離されて、こころの中で私と生きているのだ、と慰められたことがある。

たしかに記憶していますとも。母の友人のイタリア土産だったガラスペンを光に透かした時の色合いを。テストで満点を取ったご褒美に買ってもらった、スクイーズのレーズンパンの柔らかな凹みかたを。ベランダで陽光に照らされたローズマリーの葉の深緑を。水槽の縁を指で叩いてやれば餌を期待して寄ってきた、あかい金魚の鱗の一枚一枚を。かつて住んでいた家の内装と、そこに散りばめられた思い出のすべてを。死ぬまで忘れることはないでしょう、きっと。

それでも、今この世界では。粉々に割れた硝子のペンは新聞紙に包まれていて。経年劣化のスクイーズは屑籠の中で埃にまみれていて、鉢植えのローズマリーは茶色に枯れていて、金魚は公園の土に埋まっていて、私と姉が両親と暮らした家には別の家族が住んでいる。これはまったき確かなことです。それなのに、音もなければ熱もない記憶の中に彼らを鮮明に想起できたところで、一体何になるというのでしょうね?

そう、それで、10歳に差し掛かった頃のこと。取り越し苦労の雨予報に持たされた傘を片手の帰り道、5月の道路脇にはまたライラックが咲いていて、ちらりと横目で見たら5枚の花びらが眼に留まった。

それは一人きりの帰り道。車道に車も通らない、空が緩やかに橙色に染まり始めた初夏の夕方。だから何となく、取り立てて意味もなく、何の気なしに、ただ、花びらを口に放り込んだ小学4年生の私は。そうだ、願いごとでもしようか、なんて。でも、何を?

思い出したのは、ランドセルの中の筆箱。もう随分と劣化が進んでいるのを、それでも大事に大事にしていたのに、算数の終わりに席を立った拍子に床に落としてしまった。持ち上げれば鉛筆を差し込む部分が土台と分離しているのが分かって、途方もなく悲しかったけれど、悲しかったから、誰にも言わずに仕舞い込んだ。こんな花びらを飲み込むだけであれが元に戻ってくれるなら、どんなにか心が楽だろう!

そうやって馬鹿げたことを願って唾と一緒にごくりと飲み込めば、花びらはするりと喉の奥へと落ちていった。

馬鹿な子供の馬鹿げた空想。それだけのはずでした。

家に帰って、ただいま、と言葉を投げつつ手を洗って、とんとんとんと階段を登り、部屋に入ったらランドセルの中身を全部出す。ありふれて決まりきったいつものルーティーン。そうして取り出した筆箱の蓋を憂鬱な気持ちで開けると、そこにはひとつの傷跡もなかったのです!

そのとき、唐突に降って湧いたのは確信でした。壊れたものは戻ってこない、なんていうのは、きっと嘘。私がきちんと願って思い描けば、元に戻ってくれるようになっているんだ。

だから、それからの私は、壊れて/なくなって/消えてしまったものを見つけたら元に戻すことに決めてしまいました。

端っこが破けてしまったプリントを直して。欠けてしまったマグカップを元に戻して。くたびれきったぬいぐるみを綺麗にして。もう枯れた花を前に泣かなくてもいいし、小さな生き物が死んでしまったと嘆かなくていいし、割れたガラスの破片に胸を締め付けられなくてもよくなったのだ、と。

完璧に戻せるのは、私が完璧に元のそれを記憶していたからかもしれませんでした。元に戻って、と願えば口の中には紫色の花が現れて、その花びらは5枚。かつての姿を思い浮かべて、ごくんと飲み込めば、現実はその通りになってくれる。花がどこから来ているかは分からなかったけれど、いつだってその繰り返しで、すべてが上手く行きました。

子供ごころに漠然と、秘密にしておいた方がよいことのような気もしていたので、修復作業はいつもこっそり行うものだった。だから、姉に見つかったのも、殆ど事故のようなものだった。叱られるような気がして、すっかり綺麗になった硝子瓶を手に持ったまま固く目を瞑った、のだけれど。

「いつかやるのじゃないかと思ってた、」

予想外に理解もできない言葉で抱きしめられて、私は困ってしまった。

「あなたは昔から不思議な子だったから。でも大丈夫、私が大丈夫にしてあげるからね。」

背中を撫でられて、大丈夫、と繰り返し言われて、姉も慌てているようだったからあまり説明はしてもらえなくて、それでも何となく伝えられたのは、私がこんなふうに何でも戻してばかりいると近いうちに命が危ないらしいということだった。姉がどうしてそんなことを知っているのかだとか、そういったことは教えてもらえなかったけれど、姉の言うことが間違っていたこともないので、そういうものなのか、と納得することにした。

けれどもやさしい姉の腕の中で私は、この人は私よりも弱いのだろうになあ、と何となく思えてきたような。それが何だか無性に悲しかったことを、よく、覚えています。


質問者: "放浪者の図書館"についてどう思いますか?

回答者: 思い起こすのは無限の回廊、形を持った知識の具現です。あそこが恋しくない、と言えば嘘になるかもしれません。私にとっては過去であって過去でしかないこともまたほんとうです。帰れるわけもないですよね、あなたがたに洗いざらい話してしまったのだしーー


その頃の私にとっては、世界と世界を繋ぐ図書館こそが家であり世界のすべてだった。無限の書物と回廊が視界のすべてを覆い尽くして、人間や人間でないさまざまなものが闊歩して、雑然とした空間はそれでも空間を成して、どこまでも自由で綺麗だった。

thomas-kelley-hHL08lF7Ikc-unsplash.jpg

彼らには形がある。確かにそこに存在していることを確かめられる。ページを捲ると、紙の感触が指先に触れては離れていく。綴られた文字の群れは永遠みたいで、言葉で定義したものはいつまでもそこにいるような気がして安心だった。

元はと言えば、姉に手を引かれてたどり着いた場所。ここならあなたの好きにしても大丈夫、と微笑まれた。

『なぜ?』

「あなたのようなものを殺したいひとたちは、ここには入ってこられないもの。」

何かが壊れてしまったとき、ぎゅうと目を瞑れば舌の先にライラックの花が生まれる。飲み込みながら願いを込める。元に戻ってください。望めば実際、その通りになった。私にできるそれは、現実改変、と呼ばれている能力らしく。やろうと思えば何でもできてしまうので、それを煙たがるセイジョウセイイジキカンというひとたちは私のことを殺したいらしい。彼らの世界に私がいるのは、都合が悪いらしい。すべて教えてもらったことだ。

「でも、ここなら大丈夫。水都みたいな人もたくさんいるからね、」

どんなに環境が変わっても、私の名前を呼ぶ姉の声はやさしかった。

知性体はすべて本質的に他者であり、相互理解は決して実現しない。とうの昔に理解したことだった。私の記憶していることはあなたの記憶していることではない。私の見ているものはあなたの見ているものではない。私の感じていることはあなたの感じていることではない。

けれども図書館を棲家とする彼らは寛容で、ここにいても良いと言ってくれた。

だから居心地が良かった。ずっとここに居たって良いと思えていた。無数の今日を積み重ねればやがて過ぎていく日々に、安堵が漂ってきたようで。本はたくさんあるから勉強もいくらだってできるし、娯楽だって同じくらいある。姉もいてくれる。次第に仕事を任せられるようにだってなった。

そして、毎日、花びらを飲み続けていた。直すものはたくさんあったし、彼らも悪い顔はしなかった。だから毎日飲み込んで、元に戻して、元に戻して、枯れかけた植物も本の燃えさしも死にかけた司書も、すべて戻して。そうして花びらを飲み続けていた私の眼は、いつのまにか深く紫色を纏っていたのです。

綺麗ね、と言ってくれた姉はいつものやさしい声色で、茶色い瞳が柔らかな光を帯びて私のことを見つめていました。私の瞳も一寸前まではあなたと同じその色だったはずで、あなたから遠くに離れていくのが私はひどく怖かった。怖くて。どこまでも一緒に居てほしいな、と思った。想像したんです。

そうしてあなたが瞬いた一瞬のそのあと、開かれたあなたの瞳は濃い紫色に染まっていて、あなたは気づかないのか平然とした様子で言葉を繋げていて、つまり私が変えてしまったのだと気がついた。いつも私のためにいてくれるようなあなたになんてことを、なんて、取り返しのつかないことを。それは境界の侵犯。お揃いを作り出してしまったこと自体が断絶を象徴しているようで空しくなって悲しくなって申し訳なくなって──いいえ、取り返しはつくでしょう。

目を瞑って、こっそりと花びらを飲み込んで、元の彼女の瞳を思い起こす。それからじっと見つめていると、姉の瞳は元の澄んだ茶色に戻っていて、私は息を吐いた。何も知らない姉は、私の顔に何かついてる?と笑っていた。ううん、何にも。いつも通りだよ。

こんなことが二度と起きないためには、何か対策を講じる必要があると思いました。うっかり境界線を踏み越えてしまわないように、自分を律する必要があると考えました。思うだけで叶うだなんて、単純すぎて嫌気が差す。だから私は感じたすべてを言葉にして、私の思考を解剖して、思索の海に潜り切ってから花びらを飲み込むまでは何も変えることはできないと、自分に言い聞かせることにしたのです。現実改変者は自己認識がすべてである、らしいので。言い聞かせていれば、予想外のことは起こさずに済むと思っていました。


質問者: あなたの現実改変能力を喪失せしめた一件について、どう思っていますか?

回答者: 夢を見るというのが、おそらく私向きの行為ではなかったのだと思います。

世界に対する解像度が高すぎたのかもしれません。忘れる、ということが分かりませんでしたから、溢れる情報には、重さも軽さも等しく存在しませんでした。

私の瞳はいつだって現実を見つめてしまって、なのにそれらは移ろいゆくから、どうかどこにも行かないでくださいと願うことしかできないで。そうして、それすら叶わない願いであることも理解しておりましたから。

だから、やはり、向いてはいなかったのだと思います──


突拍子のない空想が、叶うといつまでも信じていられる、そんな人間であれたならどんなによかったことか!

カメラアイ。映像記憶能力。世界に置いていかれるような心持ち。わたしの不幸は、それに加えて現実を変えることができたことだった。置いていかないで、とねだることができたことだった。

何かがあった、というわけではなくて、ただ。蛇口を締めずにいたら、やがてコップの淵を水が溢れるように。劇的なことは何にも要らなかった。

あなたも分かっていたんでしょう?

何故?

だってあなたときたら、お母さんとお父さんを戻そうだなんて、ただの一度も試してみなかった!

耳が痛いことを言われてしまったけれど本当にその通りで、私の空想が現実じゃないことなんて、いちばん初めから分かっていた。父母の不在は痛いぐらい身に沁みて知っていたから、どんなに記憶が確かでも、作り直すなんて考えることができなかった。

忘却も曖昧も許容できなかった私の、密やかでささやかな夢。現在がずっと続きますように。過去も未来も生きたくないの。ここにいられますように。願って、願って、願えば叶う力も私の手元にあったのに。破ってしまった本の頁。落としてしまったマグカップ。枯らしてしまったサボテン。死んだ姉。全部、全部、全部、なかったことに。

それでも、ただ、ぱあんと弾けてしまったのですね。

そうです、思い返せばありきたりな事故だった。姉さん、あなたは特別な力を持っていたわけでもなくて、ただ私を守るためだけにこんなところまで来てしまったのだから、いつかひどいことが起きるような予感がないわけではなかった。幸いひどいことは私の目の前で起きたので、それを私は無かったことにした。無かったことにした、とはいうけれど、結局時間を戻せているわけでもないのですから、つまり私はもう一度作り替えているだけ、それを「元に戻した」と言い張っているだけだった。

anders-jilden-u0jggBjpFQo-unsplash.jpg

そうやってずっと夢を見ていたかった。でもだめでした、さあっとつめたい風が私たちを撫ぜて、笑ったあなたの頬がもはや死肉でしかないことに気づいてしまった。

「やさしい姉」と定義だけして、向き合おうともしなかったくせに。
あの人のことを、ただの一度も、理解しようとなんかしなかったくせに。

ええ、目を逸らした、ということでもあったのかもしれません。あなたは私にやさしくて、やさしかったから、それ以上のことは何にも求めないで何にも望まないでただ側にいて欲しかったから、私とあなたの歳の差、私たちの間に流れる7年間のギャップを見ないままに、あなたがどうして色んなことを知っていてどうして私をここまで連れてくる方法を知っていたのだとか、そういうことは何にも気にしないで、ただ何も知らずにあなたの横で笑っている妹で在れればよいと思っていたかった。目に映るすべてを覚えてはいるけれど、瞼を閉じていたなら意味がない、意味のないただの姉妹で在りたかった、あなたとだけは。

変わりたくなかった。

現実を変える力を持っているのに?

現実を変える力を持っているから、変わらない現実が欲しかった。それでも、時間は止められない。ただ、流れていきました。失くしものがあまりにもありふれているこの世界で、抗うことも無意味で、それでも無意味を続けていたら、あなたがいなくなってしまった。

すべての夢は私の脳髄が勝手に作り出した幻で、それを現実に押し付けていることに自覚的であってしまったから、これでもうおしまい。すべては紫色の花びらに変わり果てて溢れて、崩れて。ここには何もないのです。

だからこんなに自問自答で、みじめにまじめな語り口。頭がおかしくなってしまいそうです。あるいは、とうにおかしくなっていたのかも。

あなたと分けたチョコレート。包み紙に書かれたカレンダーは4月。春。春が来たのだ。死と、再生。さざなみ。さざめく。ささやか。囁く。ため息。めくるめく。まばゆく。どんなに言葉を重ねても、あなたはもはや世界を見られない。

あなたが私の手を引いた。あなたが私の名前を呼んだ。あなたが私の世界だった。あなたこそが私の外縁を定義していた。どこかに行ってしまわないように、私が私を失くしてしまわないように。あなたと一緒に死んで仕舞えば良かったのに。

ああ。

覚めたくなかった、なあ。


質問者: お姉様がいらっしゃったと仰っていましたが?

回答者: ええ。名前だとか、簡単なプロフィールはお伝えしましたね。あなたがたに提供できるものはそれだけで、他には何にもありません。姉は確かに、何かではあったのでしょうけれど、もはやここにはいないのだし。私が何にも知らなかったんですから、知ろうとしなかったものですから──


昔、夏祭りで持って帰ってきた水風船が、早く割れてくれやしないかと願っていたことを思い出していました。光に透ける緑色の縞模様が可愛らしくて、たしかにそれが欲しくて釣ったのですが、綺麗と思っていたのですが、思っていたものですから、それが失われる未来がじわじわと追ってくることが苦痛としか思えなくて、それで。

water-balloon-523965_1280.jpg

結局のところ私は喪失を悼んでいるのではなくて、ただ、自分の周りにあったはずのものがもはや存在しないということに痛みを感じているだけで、つまりはどこまでも身勝手な感傷を世界に押し付け続けていたとして、それは。

だから、きっと私はほんとうに悲しんでいるわけではないのだと気づいてしまった。

それから私は私の現実を信じ切ることができなくなって、私のすべては壊れてしまったようでした。夢をみるのに向いていなかったからわざわざ虚空から花びらなんて作り出して、それに願うなんてワンクッション。そうでなければ生きられなかったし、望めなかった。それでも醒めてしまった。

そうして姉の身体だったものを掻き消してすべてをライラックの花びらに変えて風に舞い散らせて、いっそ泣きたくなるぐらいに綺麗な光景で、それですべてがおしまいでした。2年前に確かに見据えた姉の死体の様子が、薄く開いた口ともう瞬かない瞳と微かに挙げられて止まった左手の人差し指が、ずっと記憶の底に押し留めて無かったことにしようとしてきたそれらが脳裏にこびりついて離れなくなってしまっていましたから、もう元に戻すことなんてできません。

鏡を見れば、硝子玉のような、作り物じみた瞳が私を見つめ返す。自分で自分を壊してしまった、そうしないと呼吸ができないような人生でした。

だから、もはや何も叶えることも望むことすらできないのだって、当然のことです。今までできていたことが有り得ないぐらいだったのです。ちょっと力があるだけの小娘がすべてを抱え込んで何も失くすまいとするだなんて滑稽な無謀に、最初から希望はなかったでしょう?暴力的なまでのリアリズムこそが私の記憶なのだから、世界はいつだって痛いぐらいに鮮やかで、手出しする余地はどこにもひとかけらもないだなんて、最初から分かりきっていたでしょう?

けれども、考えてみれば、私のこの鮮明な記憶だって自業自得の、自縄自縛の、現実改変のせいかもしれないように思えてくるのです。

幼少期における映像記憶能力は、とても珍しい、わけではないそうです。けれども言葉で世界を解剖する術を覚えていくに従って、失われゆく能力であることがほとんどの。例に漏れず幼い私も言葉を学びました。世界を学びました。そうして忘却という概念を初めて理解した時、私は淋しかったんです。だから願った。強く願ったように、記憶しています。忘れたくないなあ、と、強く。

ほんとうのことは分かりません。私はすべてを記憶しているけれど、記憶しているからといって分かることではありません。だいたい、この世界のほとんどは覚えていたってどうにもならないことで、そんなことはとうに分かっていたけれど、それでも私は覚えていたかった。その上、行かないで、だなんて。我が儘で無謀で驕慢な、少女の成れの果てこそが私です。それだけ。

それだけかと思っていたら、おまけと言わんばかりの後遺症。それは周りに迷惑をかける種類のもので、ひとを遠ざける種類のもので、より具体的に語るならば、私の周り、私から半径2m以内にいる人は誰であれ、心でもって現実を変えることができなくなってしまったということだった。あるいは、私はもはや望めなくなってしまったけれど、それは私の力がなかったことになるということを意味しなくて、むしろ指向性を失ったそれらが他者の作用を阻害してしまうということだった。

もはや図書館には居られない、ということでもあった。

もちろん、図書館は私を拒まない、拒まないけれど、お世話になっていた住人たちはそうではなかった。彼らは自由を愛していて、互いを尊重しようとしているから、私がいることで誰かへの抑制が発生するのは都合が悪いようで。ただ、異臭からは顔を背けるように。狂った人間には見ないふりをするように。お前を近くに置きたくない、と、ここに居ないでくれ、と、口に出すわけではないけれど。

たしかにそれは仕方のないことで、コミュニティから爪弾きにされてしまった何もできない小娘が安全に暮らせる場所でもないのだから、私には出て行くしか選択肢がありますまい。

出て行く素振りを見せ始めた頃にようやく、慰めじみたことを言われたのを記憶しています。やがて時間が解決してくれるよ、きっと元に戻れるよ、と誰かが言いました。顔も名前も声色も、眩しいときにする眼の細め方も覚えている、思い返したくのない誰かが私に言いました。

それが随分と腹立たしかったものだから、私は何かを言い返そうとして、口を開いて。けれども思うように言葉が紡げなかったので誤魔化すように唾を飲み込むと、どこか喉の奥に引っ掛かるようで痛かった、その痛みを覚えています。

結局のところ私は、私の半生をこそ夢に溶かしてしまったらしいのです。


質問者: 雨はお嫌いなんですか?

回答者: 好きではないものを敢えて嫌いと呼ぶ安直を選ぶのであれば、ええ、その通りです──


居場所がなくなってしまったのだから、新しくどこかを探さなければ生きていられないとは分かっていたのですけれど。私は別に彷徨い歩くことに向いているわけではないし身を守る手段も持っていないし行く宛もなくて、ただ立ち尽くしていた。

図書館にはもう帰れない。他のところでは、受け入れてもらえるかも分からない。小学校すら卒業はしていないのだから、元の社会に戻るだなんて出来はしないだろう。

そんな頃合いに思い出したのが、図書館で聞いた噂でした。忘却と停滞が支配するがあるのだと。来るものを拒まず、去るものを追わない、忘れられたものたちのための街。終わりと停滞と慕情を宿した、しめやかに雪降る夜の街。なんて、いかにも優しそうで、暖かそうで、私のことも許してくれそうな。

だからそこなら居場所があるかと思って、記憶を手繰って、"道"への入り方を思い返して、歩いて、歩いて。

eutah-mizushima-F-t5EpfQNpk-unsplash.jpg

入り口まで辿り着いた。辿り着いたはいいけれど、ここでも歓迎はされないみたいでした。雨が降っている。しんしんと降り積む雪が、私の周りでだけはつめたい雨になって、だからすっかりびしょ濡れだった。 傘を差そうと思ったのだけれど、そんなものは手の中になくて。レインコートさえ持ってはいなくて、それで私は、ここに長くは居られないのだと分かった。寒い、ひどく寒い場所だった。

"案内人"がこちらを見ていた、その視線を覚えている。背の高い、女性だろうか。暖かそうなコートの頭周りのファーに、綿雪がまとわりついていた。昔飼っていた犬の、冬の散歩帰りの毛皮を思い起こした。それから目と目が合った瞬間の、ぴりりとしたあの感覚。

「冷やかしはお断りだよ。」

『許して、くださらないんですね。』
「すまないが。」

雨音だけがよく響いている、その沈黙が気まずかった。服を通過した水滴は背中を伝って、縦向きの寒気が私を通り抜けていく。身体の震えを内側に閉じ込めようとしていたら、それらのすべては上下の歯に押し付けられてしまった。音を聴かれないように噛み締めてから、そっと唇を開いて。

『随分と嫌われたものですね?』
「おまえが悪いわけではないよ、ただ。」
『なんですか、』

言いにくそうな顔をしますね、言葉を探すような眼の動き。きっと悪い人ではないのだろう、あなたも。

「おまえたちは、自分の世界を押し付けたがるから。」
『そうであることをやめたから、こんなふうにまでなってしまったのですけれど。』
「だが、この街はそうは思わないそうだよ。」

辺りを見回せば、何もない地面に雪が降り積もっているのが見える。きっと静謐なのだろう、と、そのように思う。 耳の奥には雨音だけが響きわたっているから、思いを馳せることしかできない。

「おまえは錨だ。招き入れれば街は破綻してしまう。」
『誰も私を覚えていなくても、私は忘れられないから?』
「分かっているじゃないか、お嬢さん。ここはおまえの居場所ではないんだよ。」

私の脚元で形を失くしていく、それは真っ白な雪だったものだ。世界は私を置いていく。分かりきったこと、分かりきったことだった。酒に飲まれて漂う街よ、あなた方もまた世界を構成する一欠片なのだから、すべては自明なことでしかなかったのでしょう。

「そんなザマでは生きづらかろうね。」
『こんな有様でも、息が続いたのですよ。』

気の強そうな風貌や言葉掛けとは裏腹に暖かさのある声色、雪明かりの反射する柔らかな瞳。いっそのこと真っ黒にさえ見える焦茶色の髪がファー付きのフードの中にきっちりと収まっているひとだった。睫毛の上にも幾らかの雪が乗っていた、重さは測りかねる程度の僅かな白だった。

「だからそんな風に成り果てるんだよ。どこへも行けない錨、成り損ないのタイプ・グリーン。世界を許せないのだろう。」
『その呼び方。あなた、焚書の──連合の方だったのですか。』
「さあね、忘れたよ。」
『……そう。』

降り注ぐ雨がいつまでも冷たい。それは私を刺すように、しんから私を冷やしていくように。

私はこんな痛みを知っていた。私の記憶が始まったまさにその瞬間からずっと、この痛みは私のものだった。思考は痛みで、追憶は痛みで、それらのすべてが私にとってはほんとうに生きているということに他ならなかった。

だから、私、緩やかに体から熱が失われていくのが心地よくて、ここで死んでしまってもいいとさえ思えたのですけれど。

「おまえは何ひとつとして取りこぼさずに歩いてきたのだから、それを誇りに思ってよいと、個人的には思うよ。」

「失くしものをしたなら、またおいで。」

もしも次があったなら、レインコートを持ってくることを覚えておきましょうか。


質問者: 財団についてはどう思っていますか?

回答者: 理想主義、というのはなかなかに綺麗なものですよね。信じられるひとは幸福でしょう。傲慢で、残酷で、冒涜的に、それでも世界を守れると信じているとして、実際に守ることのできたものもないわけではないけれども、だからといって指の間から零れ落ちてしまったものをなかったことにはできますまい。

とはいえ、勘違いなさらないでくださいね。 あなた方には感謝しているんです、これでも──


雨粒たちに冷やされきった身体のまま、夜明けの浜辺を歩きました。海の響きが懐かしくて、ついうっかりこんなところまで来てしまった。

服から何からすべてがずぶ濡れで、けれども脱ぎ捨てることもできなかったから、あまりに湿気って不快を押し付けてきた靴と靴下だけを脱いで手に持って、誰もいない波打ち際を歩いた私は世界にひとりぼっちみたいな気がしていて、腰まで伸ばした髪が重くて、砂を踏みしめるたびに素足に粒が纏わりついて冷たくて、かじかんだ指先は触覚を見失いかけていて。

灰色にくすんだ波の音が耳の中に響いている、日の出前の薄明の揺らいだ曖昧が嫌いではないので、私はずっとここに居たっていいとも思っていて。でも。

雲の裏側で陽が昇っていく、その明るさが網膜に痛かった。確かな痛みを覚えながら、私は空を見上げていた。

51845343927_9eb7bc4818_c.jpg

拝啓、世界へ。

いかにもあなたはうつくしいのだと、私、気づいてしまったのです。

つめたい氷の塊を抱きしめて、どうか溶けないでくれと願い続けるような人生でした。どれだけ冬を愛しても、春は必ずやってくる。抱きしめた氷塊はやがて生ぬるい水になって、流れて、流れて、流れ切った先ではいつのまにか春が花を咲かせている。いずれ枯れるその花さえ、それでも綺麗だと思ってしまえたのが私の疵だ。

私を置き去りにしてどこまでもあなたは移ろいゆくから、私はずっと痛いのに、まったく無関係にあなたはずっとうつくしくて、変わり果ててもうつくしくて、死んでもいいぐらいにうつくしい、そんなあなたが憎らしい。

こんな二律背反を抱え込んではとても生きられない。

だから、頭蓋を撃ち抜いて欲しかった。誰かに。

ずっと、そう思っていました。死にたかった、というわけではないけれど。

けれどもそんなひとは現れなかったものだから、撞着は壊れてしまうまで私を苛んで、こんなところまで来てしまったのに。

『それなのに、どうして今なんですか?ねえ、』
「どういった意味かな。」
『いいえ。もっと早く、たとえば10年前の初夏だとかに、見つけてくださればよかったのに、なんて。』
『恨み言ですよ、財団職員さん。気になさらないで!』

(中略)

『何にだってなれた、どこにだって行けたかもしれなかった私だけれど、何にもなりたくないしどこにも行きたくないと思ったものですから。』
『それで結局、こんなことに。』

「それはそれは、始末が悪いね。」

(中略)

「君はタイプグリーンに向いていないどころか、人間にすら向いていないね。」
『分かっています、そうして、それが私そのものであるということも。』
「そんなことだから壊れてしまうんだよ。」
『壊れても私は私です。壊れてしまうから私なんでしょうね。』

「なあ。首斬り役人の前ですべてを諦めた、みたいな顔をしながらずっと話し続けないでくれないかい。」
「これは勧誘だよ。」
『はあ?』

(中略)

「救えない人だね。」
『救われたいと思っていない者を救おうとするだなんて、ひどい傲慢ですよ?』

「それでは、これも君に取っては吉報になるのかね。」
『どういう意味です。』

「そろそろ、君に残された時間の話をしようか」

それは。


質問者: ご自分の余命についてどう思いますか?

回答者: 思ったところでどこに行けるものでもありますまい。いいんです──


眼前の胡散臭い財団エージェントの話を信じるならば、私が私であれる時間にはリミットがあるらしかった。

「持って──15年といったところかな。概算だが。」

それを私に言って良いんだろうか。自棄になって何かしでかそうとしたらどうするんだろう。このひとが分からない。私にできることなんかたかが知れていると思われているのかもしれないし、実際その通りではあるけれど。

『消費期限、というやつですね。』

冷静であれるものだなあ、と我ながら考える。余命と呼ぶにはいささか長いそれは、私の"現実性"が緩やかに確かに溶け出して、私が私を保てなくなるまでの制限時間。私の状態は、改変されないよう周囲に現実性を押し付けていて、そのために自分のストックを消費しているようなものなのだと。通常は現実改変者の死体が起こすような現象を、今の私の身体は生きながらにして発生させているのだと。

現実錨──そのように呼ばれる機械を財団は保有しているらしい──としての機能を持つ人間、だって。オンオフができるぶんだけ機械の方が優秀というのも皮肉な話ですね。緩やかに自分を消費していくということ、やがて現実性が漏出してゆくこと。15年後には、きっと私を保てなくなるということ。

私はどんな死に方だろう。眠るのは苦手だから、きっと眠るようには死ねないのだろうなあと思う。骨が残ったら嬉しい、かもしれない。真っ白な骨だけが残ったなら、生きていてよかったと思えるのかもしれない。願っても仕方のないことだから、思うことしかできないけれど。

長くは生きられないのだろうとは、ずっと前から解っていました。完全な記憶、これは恵みではなく、記憶を取捨選択する機能の欠落です。大切なものも大切でないものも等しく覚えていますから。忘却という機能を持たない私の脳髄は、いつか溢れてしまうのじゃないかと怖かった。心よりも先に身体がダメになってくれるのならば幸運だと、そのように考えて。

時間の経過は私を癒し、やがて私を殺すのでしょう。私も姉と同じように、世界から意識を失くすのでしょう。結末はそのように決まっている。それでようやく、きっとようやく、何が失われたとて一欠片も変わることなくうつくしいこの世界を、なんの衒いもなく眼差すことができるような気がしたのです。

『それで、私をどうするんですか?』

「看取ってあげるから、来てくれないか。」

莫迦な人たちだなあ、と、思った。

「ああ、それはそうと働いてももらうよ。」
「うちはホテルではないのでね。」



質問者: 現在のご自分の状況についてはどう思っていますか?

回答者: 戸惑いの方が大きかった時期もありました。適応に苦労もしましたし。けれども波の下、水の底にも都があったものですから。きっと死ぬまでは生きているのでしょう──


深い海に沈んでしまったような、最近はずっとそんな気分の私は藤波ふじなみ水都みなと、職掌をアーキビスト、記録保管室の番人のように暮らして、過去の遠近に区別がつけられないから7日前と7年前を等しく最近と呼んでいる。

私を引き取った財団という正常性維持機関は、イメージ通りの傲慢と残酷。冒涜的で暴力的で、それでも、世界を守ろうとしているのだろう、と思う。ともかく、彼らは情報提供者兼研究サンプルを得て、私は終の住処を得た。そこには何の差し障りもなかった。

人類も異常も保護せんと謳う財団の傲慢はしかし理想論に過ぎず、掬い上げようとした指の間から溢れ落ちたものたちも多いのですから。それらを扱う人々もまた財団には必要で、死が終わりとは限らないこの場所で終止符を定義して記録して保存する仕事が私にも任されました。保護できなかったことはこの組織の罪悪かもしれませんが、結局のところ永遠などというものは存在できないと決まっています。花も枯れるでしょう。造花は枯れないと言ったって、プラスチックもいつかは朽ち果てる。やがて漂う。

財団は言う。

「それ」を箱に入れて鍵を掛け、そのまま放置したとき、何も悪いことが起こらないのであれば、それはおそらくSafeです。

「それ」を箱に入れて鍵を掛け、そのまま放置したとき、何が起こるか予測がつかないのであれば、それはおそらくEuclidです。

「それ」を箱に入れて鍵を掛け、そのまま放置したとき、それが容易く脱走するのであれば、それはおそらくKeterです。

彼らはそれらを箱に入れるでしょう。鍵をかけるでしょう。境界線の策定こそが財団の根源的な機能でありますから、聡明にしてひたむきに愚かな彼らは分類するでしょう。たんと努力もするでしょう、どうかここにいてくれと。

しかし、いずれすべては流れてゆく。そして、もはや鍵なんてかけなくてよくなったということを知るのです。

或いは私であったかもしれないあなたについて。文字の羅列と僅かな画像でしか知り得ない、それでもかつてはこの星で存在を続けていたあなたについて。未来に関して可能性の一切を保有しないあなたについて。保護されなかったあなたについて。私たちの生涯は交差しなかったけれど、私はあなたが存在していたことを知っていて、あなたをアーカイブしながら生きている。あなたの記録を評価して、整理して、分類して、保管して、誰かが必要とした時にはいつでもあなたを思い出せるように。

それが私の仕事に、死んでしまうまでの仕事になりました。

憎らしくも世界はうつくしくて、置いていかないでほしい、と、思っていたのはずっと昔から。止まってほしい、にいつしか変わっていた願いは叶うことがなくて、視界から離れていくものすべてが苦しかった。

だから、覚えておくことしか、できない。そうして、忘れっぽいあなた方がいざというときに戻って来られるように、保存しておくことしかできない。それがアーカイブスの機能で、私の仕事はアーキビスト。だから私はすべてを抱えて、死ぬまで抱え続けているから、あなたは忘れてしまったっていいんですよ。それは淋しいことだけれど、世界はもとより淋しいところだ。

水底から見上げた水面のように、いつだって目まぐるしく輝かしい世界から、ひとり取り残されている。切り離されている。過去も未来も遠くにある、遠くにあるものしか真っ直ぐに見つめられないのだ。

sea-3255634_1280.JPG

うつくしいものに焦がれても、手に入るときは永遠に来ない。存在は例外なく非存在になる。巡ることは誰にも止められない。それでもきっと、なおきっと、世界はあるがままにうつくしくて、私はそれが淋しくて、私はそれが愛しくて。止まない雨が、醒めない夢が、明けない夜が存在しないこの世界を、ようやく愛せる気がして。

錨は漂流を止めるためだけにある。ここにいてくださいという祈り。それでも──運命論者を気取るつもりはないけれど──結末は決まっているでしょう。

誰しもいつかは口を閉ざす日がやってくる。自分で自分を語ることが、未来永劫できなくなる。私たち、みんな、世界に置き去りにされていくでしょう。そして、私のそれには予告と猶予があったから、死ぬまではきっとこの部屋に座っています。

諦めるというのは必ずしも後ろ向きなことではなくて、私にとっては絡まってしまった糸をそうっと引いて一本の形を取り戻すようなもので。

つまり、やっと折り合いをつけられたのです。夢を見るには現実的でありすぎてしまった私が、世界と。それでようやく、私はようやく、何もなくたって現実を飲み込むことができるようになったのですから。

だから、私の物語はこれで終わり。先のすべては、長い長いエピローグだ。


質問者: 本日はご協力ありがとうございました。退出していただいて結構です。


私の世界は多くの残滓で溢れている。何かの、或いは誰かの。

滓というのも無作法ですから、残り香、とでも言い換えましょうか。目に映るもののすべてが何らかの記憶に紐つく世界に暮らして、取り留めのない思考の中で揺蕩うような日々にいるのです。

書面に向き合いすぎて瞬きの音がなるようになってしまった眼を瞑り、他愛ないことを思い出していた。

この部屋は肌寒い、と、初めての来客に言われることがある。私はといえば、紙に照準を合わせた室温にすっかり慣れきってしまって、訴えられてもあまり分からない。

変わることのない結末と、残される記録と向き合う日々を暮らしているのです。相変わらずガラクタと宝物の区別がつかないので、等しく痛みを覚えるけれど。

気が付かされたことがあります、ただ覚えているだけでは意味がない。私はすべてを覚えているけれど、もう7年後には世界から消えてしまうのだし、書き残さないものはいずれ失われてゆく。それでも、すべてを保存するには、世界はあまりに鮮やかすぎる。眼窩の奥が痛むのです。

ならば、書き残したならば意味を成してくれるでしょうか。いまではなくていいのです。きっといつか、またいつか、誰かがいつか見つけてくれるでしょうか。

けれど、どんなに心を尽くしても、すべては記録に残せない。言葉にすべては語れない。何かを語るということは、語らない何かを選ぶことでもあるのだから。言葉にならないものがあって、それを取りこぼし続ける毎日を送って。

しかしながら結局のところ、語られたことがすべてになるので、私たちは語り続けることしかできないのです。

そういえば、来客の予定があったのでした。部門の新入職員へのオリエンテーション、だって。時計の針を確認すると思ったよりも近かったものだから、もう紅茶を淹れてしまうことにした。

tea-2356764_1280.jpg

真っ白く昇っていく、湯気が部屋の空気を温めているような錯覚。透き通っていくようなベルガモットが鼻腔に染み込む。

冷めても紅茶の香りは残る、それは脳髄にだけだけれど、それをいつまでも、いつまでも覚えています。ほんとうの意味であなたに伝える術はないけれど。それでも。

『ああ、いらっしゃい。』
『オリエンテーションの方ですよね、お話は伺っています。』


尋常部門のオリエンテーション

%E5%B0%8B%E5%B8%B8%E9%83%A8%E9%96%80%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%99_%E8%83%8C%E6%99%AF%E4%BB%98.PNG

尋常部門

アーキビスト・藤波: はじめまして、エージェント。まずは座って?楽にしていただいて大丈夫です。

それでは我々の部門についてお話ししましょう──と、その前に自己紹介ですね。藤波ふじなみ水都みなとと申します。職掌はアーキビスト。あれ、耳慣れませんか?「記録の管理者」ぐらいの意味ですね。

[ぱん。と、アーキビストは手を叩く。]

アーキビスト・藤波: 改めまして、私たちは尋常部門と名乗っています。あるいはDepartment of Normalities、略してDoN。

「正常部門」ではないのかって?いえ。異常も正常も、すべては無常ですから。尋ね続けなければなりますまい、と、いうことだそうです。

そう、財団の使命が何よりも収容であることは、あなたもご存知でしょう。し、収容した異常存在を保護し続けようとしていることも充分ご存知だろうと思います。

しかし、すべてがそう在り続けられるわけではありません。

[微かなため息。]

アーキビスト・藤波: 無力化とは、財団の失敗を意味します。特別な事情でもない限り許容されることのない、理念への違反です。ゆえに、それを繰り返してはならない。と、されています。

けれども実際の、現実に起こる問題として言うならば。異常存在の無力化という事象は、しばしば発生するものです。

[一呼吸ぶんの沈黙。]

アーキビスト・藤波: もちろん、それは財団の罪と呼ぶべきものでしょう。異常と定義して、確保して、収容しておきながら、それでも保護の手から取りこぼしてしまったものがあるのですから。

繰り返してはいけません。償わなければなりますまい。ですが──どのように?

[アーキビストはゆっくりと瞬く。]

アーキビスト・藤波: そこで、我々の出番というわけです。

私たち尋常部門は、無力化されたとおぼしきオブジェクトを査定し、適切な場合はNeutralizedクラスを割り当てて今後の処遇方針を決定します。その後、当該オブジェクトの担当だった研究チーム等と協力して無力化の経緯を調査し、記録に残します。それらの記録は、今後同じようなことが起こることを防ぐために参照性を保って保管されます。

そうですね、この部屋が記録保管室アーカイブスです。そして、ここで働く私が記録管理人アーキビスト。分かりやすいでしょう?

[アーキビストは肩を竦める。]

アーキビスト・藤波: 話が逸れましたね──とにかく、それが我々の仕事です。標語もあるんですよ?

Specify, Catalog, Preserve. 規定、記録、保存。

確保され、収容され、しかして保護の手からはこぼれ落ちてしまった異常の最期を規定し、記録し、保存するのが使命です。

[アーキビストは息を吐く。]

アーキビスト・藤波: 規定。そう、この規定というのが、なかなか厄介だったりもするのです。

ことヴェールの此方側においては、死は必ずしも終わりを意味しませんから。

[アーキビストは短く息を吸う。]

アーキビスト・藤波: ほら、たとえば。

火葬文化においては、「生きたままの埋葬」は想定できないでしょう。つまり、確実にすればいい話なんです。

燃やさなくたって、同じような効果は得られます。死体撃ち、というやつですね?脳髄に向けて、拳銃をあてがって。

[アーキビストは手で銃の形を真似る。]

アーキビスト・藤波: バン。それだけ。

簡単なお話でしょう?それが、ただの死体であるのなら。

我々が向かい合う"死体のようなもの"は、そういったわけにはいかないのです。脳機能と心臓の停止が生命の停止を表すとも決まってはいません。そもそも、肉体の死に伴って異常性が喪失するだなんていい加減、誰が言ったのでしょうか?

それでも私たちは、彼らが起き上がってこないことを確かめなければなりません。

[部屋の中に冷たい空気が流れているのを感じる。]

アーキビスト・藤波: 何も、生きていたモノだけではありません。無生物も、現象も、概念も、すべて。かつて異常だったモノ、今はもう異常ではないのではと疑われるモノすべてを、私たちは査定します。

そう──異常であったモノならば、すべて。そこには、私たちの同僚も含まれます。私たちの取り扱う、元"異常"は、アノマリーであったかどうかではありません。異常性を保有していたかどうかです。

原義に則っている、でしょう?財団の管理下にある異常性を保有するモノすべてこそが、私たちの取り扱う対象です。

[アーキビストはとん、と机を指で叩く。]

アーキビスト・藤波: ですから、業務として第一に行われる無力化判定という仕事は多分に曖昧で、状況によって多様です。

"標準無力化判定手順"というものはあります。ありますが、それを完璧に適用できる機会なんか殆どないと言っていいほどです。"異常"と一括りに言うものの、その性質が色々なのは自明でしょう?

それでも、境界線は引かれなければなりません。私たちが引かなければなりません。

[アーキビストはこちらを見据えている。透き通った紫色の瞳は、内心まで見透かすようだ。]

アーキビスト・藤波: 現象系のアノマリーなんかだと、終わったかどうかなんて無茶な判断を強いられますし、ね。情報を集めた上で会議するしかありませんが、なかなか難しいところです。まあ、この辺りの具体的な業務内容については、この後の研修でたっぷり教わってくださいな。

──そうそう、私たちの人数ですが、さほど多くはありません。詳しくは後で資料を見ていただければ分かるんですが、部門として独立している内部組織の中では最も小規模な部類だったはずです。

普段から一定の需要があるわけではないですから、人事部門的にも優先度が低いらしいですね。大規模な収容違反なんかで周辺被害がひどいと、有り得べからざる忙しさに殺されかけたりもしますし、本当はもう少し割いていただきたいところなのですが──私たちの出番の大抵は財団の失敗に由来しますから、そんなに大きく扱いたくもないということでもあるのでしょうか。

[アーキビストは首を振る。長く伸ばされた黒髪が揺れる。]

アーキビスト・藤波: とにかく。規定の後に記録が続くのは、いつかの先例に学ぶためです。無力化という失敗を、繰り返さずとも済むように。

そもそも財団という組織の主要な機能は分類です。異常と正常の間に真っ直ぐな線を引いて、線を越えてしまったものを収容する組織。境界の策定者、と呼べば、幾らか格好良くも聞こえるでしょうか。

そんな財団にやってきたアノマリーが最後に査定を受けるのが、無力化されたとき。私たちが、終わりを告げるときです。

[アーキビストは人差し指をかざす。]

アーキビスト・藤波: ピリオドを打つんです。もう終わってしまったことに対して。それでも変わらずに進んでいく、世界のために。

時間は決して止まらず、おしなべて現在は過去になり行き、世界は私たちのすべてを置いて行くから。常に、尋ねなければなりません。いかにして滅びたかを。そうして記録に残す必要があります。ここにいたことを。滅びたことを。

[深く、アーキビストは息を吐く。]

アーキビスト・藤波: 勘違いなさらないでいただきたいのは、私たちの仕事は追悼ではないということです。それらは、葬祭部門に任せておかれるべき仕事です。

追悼とは死を受け入れるために、葬送とは現在を生き延びる者のために行われるものでしょう。けれど、我々の仕事は、現在のためにはありません。常に、過去と未来のためのものです。

結末は変えられません。けれど、それが起きたこと自体に意味がないとは限りません。積み重ねられ続けたそれらがただの墓標に堕さないように、私たちがいるのです。なぜそうなったのか、どうしてそうなったのか、その知識を必要とするいつかの誰かが記録にたどり着けるように。

[アーキビストは姿勢を正す。]

アーキビスト・藤波: その役割を担っている部門こそが私たちです。

我々は規定します。我々は記録します。我々は保存します。

死とは見届けられるものです。失敗とは刻みつけられるものです。そうして、未来にこそ託されるものがありましょう。

[アーキビストは目を伏せて笑った。]

アーキビスト・藤波: 尋常部門へようこそ。


tale jp 時コン25 放浪者の図書館 酩酊街 orientation



ページ情報

執筆者: SCPopepape
文字数: 31603
リビジョン数: 60
批評コメント: 0

最終更新: 24 Nov 2025 07:18
最終コメント: 批評コメントはありません
    • _

    尋常部門をよろしくお願い致します。


    「私はね知ってる。永遠の幸せなんてないんだよ。花も枯れるでしょ?」


    本文中に、オブジェクトクラスページ内「鍵の掛かった箱テスト」からの引用を含みます。

    SealBaby-VSealBaby-Vさんにロゴを作っていただきました。感謝!

    ファイルページ: 尋常部門ロゴ(白)
    ファイル名: 尋常部門ロゴ白
    タイトル: 尋常部門ロゴ
    著作権者: SealBaby-VSealBaby-V
    ソース: こちら
    ライセンス: CC BY-SA 3.0
    公開年: 2025


ページコンソール

批評ステータス

カテゴリ

SCP-JP

本投稿の際にscpタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。

GoIF-JP

本投稿の際にgoi-formatタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。

Tale-JP

本投稿の際にtaleタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。

翻訳

翻訳作品の下書きが該当します。

その他

他のカテゴリタグのいずれにも当て嵌まらない下書きが該当します。

コンテンツマーカー

ジョーク

本投稿の際にジョークタグを付与する下書きが該当します。

アダルト

本投稿の際にアダルトタグを付与する下書きが該当します。

既存記事改稿

本投稿済みの下書きが該当します。

イベント

イベント参加予定の下書きが該当します。

フィーチャー

短編

構文を除いた本文の文字数が5,000字前後か、それよりも短い下書きが該当します。

中編

構文を除いた本文の文字数が短編と長編の中間程度の下書きが該当します。

長編

構文を除いた本文の文字数が20,000字前後か、それよりも長い下書きが該当します。

事前知識不要

特定の事前知識を求めない下書きが該当します。

フォーマットスクリュー

SCPやGoIFなどのフォーマットが一定の記事種でフォーマットを崩している下書きが該当します。


シリーズ-JP所属

JPのカノンや連作に所属しているか、JPの特定記事の続編の下書きが該当します。

シリーズ-Other所属

JPではないカノンや連作に所属しているか、JPではない特定記事の続編の下書きが該当します。

世界観用語-JP登場

JPのGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。

世界観用語-Other登場

JPではないGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。

ジャンル

アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史

任意

任意A任意B任意C

ERROR

The SCPopepape's portal does not exist.


エラー: SCPopepapeのportalページが存在しません。利用ガイドを参照し、portalページを作成してください。


利用ガイド

  1. portal:8207850 (22 Aug 2022 22:39)
特に明記しない限り、このページのコンテンツは次のライセンスの下にあります: Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 License