報われる
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昔から、出来の悪い子どもだった。
料理は絶対に焦がす。掃除をすると途中でゴミをぶちまける。勉強はもちろん不得意で、かといって運動ができる訳でもない。そもそも手順をまともに覚えられない。漢字の書き順も美味しいオムレツの作り方も、覚えようとしてもメモをしてもどうしても途中で分からなくなってしまう。そもそもメモを見る暇もないし、覚えたのにどこかで忘れてしまう。
そんな調子だから、やる気を出して覚えようとしたこともあったかどうか分からない。努力が不得手でやる気もない、地味でぼーっとした子どもが私だった。
私の分まで頭脳を持って生まれてきたかのように、三歳年下の妹は本当によくできた子だった。愛くるしい顔立ちとそれに見合った愛嬌、それと要領と志。姉が持っていないものを全て持っていた上に、おまけに頭まで良かった。中学も高校も一緒にならなかったけど、小学校の頃はよく私の後を着いてきてくれていた。
初めは本当に嬉しかったけど、いつからかそれが申し訳なくなっていった。その事を話すと不思議そうに抱きしめてくれる妹の潤んだ瞳が、やっぱり申し訳なかったのでいつからかあまり話すことはなくなった。
私の要領の悪さは子どものうちは「個性」や「大器晩成」といった言葉で片付けられていたが、大人になるにつれ段々と周りの人には気づかれていった。努力をする気がないことと、努力をしても何もできないことを。
一度病院で何かのついでに検査してもらったことがあったが、特に問題はなかった記憶がある。だから、脳の構造は普通の人と同じだ。それなのにどうしても何も覚えられないのは、きっとやる気がないからだろう。努力なんてする気もないし、やったところで何も得られないし、覚えなくたって最低限生活できているし。本当に最低限だけど。
今では家族は最早私に期待していないし、私も、自分自身に期待していない。
妹の頑張りが実を結び、県内でも指折りに偏差値の高い大学に合格したのをきっかけに私は家を出た。彼女の華々しいキャンパスライフに、愚鈍な姉はいらなかろう。

「このミス何回目だっけ?」
「……三回目ですかね」
「五回目だよ。メモ取ってる?落ち着いてやれば大丈夫だから、とにかく気をつけて」
あ、と思うけど、思うだけ。工場長がイライラしているのが分かるけど何も出来ない。原因は私なので。
年上の何も出来ない女がいるのは、工場にとってもこの人にとっても困るだろうなと思う。だからといって仕事を辞める気にはなれないし、覚えようと頑張ってみてもメモを見ようとして新しいミスをする始末で、ただただ申し訳ないな、と思う。謝意で仕事ができるのなら、この人も私も苦労はしていないけれど。
説明を終えた工場長がぼそりと呟いたのが、苛立ってドアを閉める音の前だったので。
「何なら出来るんだよほんと……。」
という言葉は、必要以上によく聞こえた。
別にショックを受けたつもりはなかった。工場長が正しいので。何なら出来るんでしょうね、本当に。我ながら不思議だ。
仕事に戻ろうとして、頭の中で何となく考えてみる。勉強も運動も仕事も料理も掃除ももちろん頑張ることも、私には出来ることよりも出来ないことの方が遥かに多い。今までの人生で人より優れているところがあるならば詐欺に合わなかったことだけだ。小学生の頃にはとっくに気づいていた真実が今更のように心を追いかけてきて、私は慌てて仕事の流れ作業に戻る。流れてくる部品を組みたてながら見て見ぬふりをして、結局こうやって感じた鈍い痛みすら今までのように忘れてしまうのだ。

「おはよう!」
さすがに一晩では全部忘れられやしなかったけど、それでもやっぱり、昨日より申し訳なさの薄れた朝。
「はぁ……おはようございます」
昨日のことが嘘みたいに笑顔の工場長の前で、私は微かな違和感を覚え始める。この人はいい人だ。こんな私を雇ってくれているし、ミスを指摘する時に気を使ってくれる。周りの人と話す時もいつも笑顔だ。
でも、こんな笑い方をする人だっただろうか?
そういえば、いつもゴミ捨て場で鉢合わせるアパートの大家さんも、今日は笑顔でこちらに声をかけてきた。いつもならしかめっ面で見られるし、挨拶なんかされないのに。工場までの道でいつも吠えてくる柴犬でさえ、今日はふやけたようなぼんやりした顔をしていた。
そんなことを考えていたから、私は今日もミスをする。大きな音が響いて、コンベアの動きが止まる。
「……すみません」
これで六回目だ。でも、誰もこちらを責めなかった。それどころか、
「はは、大丈夫?」
皮肉ではない。子供のように、工場長が楽しそうに笑っている。工場長だけじゃない。同じ場所で作業していた人たちが、手を止めて笑っている。
怖い、が勝った。失敗ばかりの私が言える話ではないけど、ミスはきちんと責められるべきだ。やってしまったことの種類によっては人命や信頼にも関わるし、それに、工場長はきちんと叱る人のはずだった。周りはもっと責めるような視線でこちらを見るのが当然だった。昨日の今日でミスなんて、流石に怒られても仕方ないと思っていたのに。
その後私は三回ほど同じような失敗をしたが、それでも怒られることはなかった。

「……もしもし、お姉ちゃん?久しぶり!」
妹の明るい声が受話器から響く。明るすぎて、何となくしんどい。
「どうしたの」
でも、電話がかかってきてよかったとも思う。
工場がおかしくなってから何日か後。世界も、麻痺するみたいにおかしくなっていたらしかった。ニュースキャスターは沈痛なニュースを伝える時も笑顔だったし、ネットにも笑顔が溢れていた。
私の分かる範囲だけでも、世界は笑顔に塗りつぶされている。アパートと工場を往復する中で、私もそのまま塗りつぶされて、画一化された幸せの一部になってしまいそうだった。皆に合わせて笑うことすら、私にはろくに出来なかった。
「実はね、私結婚することになったの」
本当?と、バカみたいな声が漏れる。大学で出会ってお付き合いしている人がいる、というのは妹から聞いていたけど。こうやって時々電話をかけてくるのは、大抵私の心配と彼氏の愚痴について話す妹だけだから。
妹から聞いた話でしか知らない人ではあるけど、誠実な人であろうことは何となくわかる。絵に描いたような幸せをまた一つ人生に増やす妹が、今は素直に嬉しかった。
「それで、明日家に彼氏連れていくんだけど……お姉ちゃんも来て欲しいな」
「……何で?」
唐突な提案に、私はいない方がなんとなくいいんじゃないかなと思う。実家からのお叱りの着信に気まずくて連絡を返さずにいたら両親は私に連絡してこなくなったから、きっとよく思われていないだろう。
「お父さんもお母さんも、なんか怖いの」
胸のあたりにつかえていた違和感が、それを聞いて泡のように弾けた気がした。そうだよねやっぱり怖いよね、皆笑顔で、と受話器に早口で語りかけようとして、
「私こんなに幸せなのに、二人は笑ってくれないの」
息が止まりかける。酸素の足りない脳が、理解を拒む。だって、あなたは。
「お姉ちゃんは、喜んでくれるよね?」
こんな世界でも、あなただけは。
「……うん、おめでとう」
「やった!絶対絶対来てね!」
また連絡するね、と言って妹は電話を切った。私はずるり、と冷えた携帯を手にアパートの床に崩れ落ちる。
彼女はきっと笑っている。弾む声で、明日私が笑顔で来てくれると信じて。完璧なまでの幸福な笑みを、その柔らかな頬に携えて。
ずっと出来ないことがあった。そればっかりだ。生来の愚鈍さを言い訳にして、出来ないことを出来るようにする努力なんてしなかった。でも、出来ることが一つだけあった。こんな世界でようやく、私は人並みになれる。皆と同じように、同じになれるように、きちんと努力ができるんだ。
のろのろと、古ぼけた鏡の前に立つ。地味なスウェットの地味な仏頂面の女が映る。
両頬を指で持ち上げる。口角を上げる。ただでさえ細い瞳が、それ以上にきゅっと細くなる。鏡の前の地味な女の唇から、ふふ、と息がこぼれる。
明日は笑顔で、実家に行けそうだ。

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