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不思議なことがあった。
私はいつも、あの女性についての説明を頼まれたときは、例えようのない表情を以て話をする。もう何年も前のことであるのに、どうしてか遠慮が働いてしまう。嬉しみだとか、悲しみだとかはさておき、そういう類いの顔であの女性を説明するのが、どの場においても正解だと思えるのだ。
さて、唐突になってしまうが(これは後に語る話と繋がるものである)、私たちが最も恐れる厄介とは何だろうか。未知の怪物、人生における難局、どうとでも言えるが、私たちが生きる上で恐怖せねばなるまいものだ。
私は、死そのものであると考える。私は死ぬのがこの上なく恐ろしい。それはもう、会える人とも会えなくなってしまうからであり、避けえぬ命運だからである。私から友人と家族を一度に奪っていった時、死は最も憎たらしく強欲な姿へと変貌した。死は、いつでも厄介者であった。もし避けて通ることができるなら、どれほど運の良いことだろうか。
女性について:我々財団はとうとう、「死」を閉じ込めることに成功した。死神を我々だけのものへすることに上手くいったのだ。これからは我々が死神を管轄し、厄介者の死は超越すべき竜門となろう。強欲な手の網目から流れることなく、我々は各々の個性を、器の満たされるままに謳歌できる。それは誰しもの良き報せであり、皆が歌い、笑い、安堵し涙を流した。
全ては上手く運ばれていた。しかし、死神の収容は上手くいったものの、我々は今なお無知である。死神の収容は偶然の産物であった。生殺与奪の実験を握っていたとして、それは一体どういうことか? どのようにして我々は冥界へと至るのか? 死神の露見とは一体どのようなものか? 我々が死への探求を止めぬ度、死の収容室はところ構わず近くにある。一人の職員が言った:一度目にしてしまえば、もう恐るるに足りることはない……。
今思うに、それは全くの禁忌であった。終始の予見はことごとく外れ、死は全くの別の形へと成ったのだ。収容室の戸を開けると、それは一人の女性の形を描いた。一人の自死を夢見る乙女の形へと。
ともかく、不思議なことがあった。
*
「こんにちは、おきていますか。」
私はこのところ毎日に、ここに訪れては、こう尋ねる。そうすれば間違いなく、こう返事を返す女の静かな声が聞こえるのだ。
「ええ、おきています。」
しばらくすると、女は夢現な面持ちで、ベッドの端に座って見せる。私の顔を見るなり、健気な微笑みを見せる。そこで私はつい愉しくなって、ちょいと世間話を差し向けてやると、また女は繕った笑みを見せるのだ。この談笑の時が、幸いにも私たちの時間を忘れさせてくれる、愉快な一時なのである。
譲歩して言葉を紡ぎ、一方がより喋るなりし、そして取るに足らない掛け合いもさっぱり終わり沈黙が続いたところで、我々のすべきことは始まる。彼女が軽く姿勢を整えると、初めて昨日の妄想を呟き始める。
「今日の夢見は、こうでした。」
妄想と言えば聞こえは綺麗だが、ほとんどの実態は彼女自身が自決する旨の夢である。この死の女は、皆が見る夢の代わりに自ら死する夢を見るのだ。不可思議なことだが、これが彼女がこの世に産まれ持つ秘境ヒッキョウ1なのである。
「その日、わたしは海にいて──」
ここで私は紙とペンを執り、それを事細かに書き留める。それはどんなに小さな事柄でも良く、ただ熱心にノートへ書き留める。女の視線、些細な予備動作までもをスケッチして書き留めていく。私は書き上がったこれを上の者に提出する。そこに何ら未練はない。これが、私と女との間に課せられた仕事だ。
「あなたは、私の死について悪しきものだと感じるでしょうね。」
しかし時折、彼女は私に質問を下す。私のこの質実剛健たる体裁を崩したいのかは知らないが、彼女自身についてどう考えているのかについて問いただしたいようだ。しかし、私は彼女の顔をちらと伺うだけで、常としてこう返す。
「そうですか。」
決まって私は出来る限り目を逸らす。どんな質問であっても、それが核心的であれば熱心には答えなかった。何も、そこまで入れ込む必要はないだろう。嘘偽りなく取り繕うことはない。まして彼女がオブジェクトであれば……。私は仕事をしていて、彼女が息災であれば全ては十分なのだ。
*
今日の夢見は、こうでした。
その日、わたしは海にいて、テトラポッドの向こう側に広がる三途に目を傾けていました。無窮この上ない海を望んで、わたしもこの一部になれたらと、乞い願います。そうして、わたしの心の内が、そうなるべきだと、酷く訴えかけてくるのです。
海の波の音は、本当のわたしはここにいてはならない気を彷彿とさせます。本当のわたしとは、何処から来て何処へ行くのかなぞ、知れないことだと言いますのに。
わたしは歩み出します。心は覚悟をしていませんが、背中と脇の下が熱を持つのを感じ、初めて我が決意を抱きます。そうして水の冷たさと体に立て籠る熱とにじっと堪え忍びます。
水はわたしの膝裏を呑み込み、間もなくうなじまで呑み込みました。もう冷たくはありません。何せ、もう私の心は苔岩のように熱を失っておりますから。
しかし、その度にわたしは、ああ、あの人に想いを伝えていれば良かったと、思うのです。嘘をつくんじゃなかったと、後悔するのだと、いつの時も、そう思ってしまうのです。
*
「こんにちは、おきていますか。」
「はい、おきています。」
女は立ち上がり、いつもの如く隅へと座った。私も暇であれば、なぜ女が常に隅へと向かうのか考えたりもする。遠慮だろうか? 畏怖だろうか? ううむ。どうにも他愛ない朝の日常であった。
「体調の方はどうですか。」
「お陰様で変わりありません。」
そうして少しばかり、また談笑を楽しむ。それが女が楽しむ唯一であるのなら、それで良いだろう。私もつい熱が入り、時に一方的にまくし立ててしまう位なら、尚更丁度良い。そうして時間が終わりに近づく時、女は問いた。
「今朝は、面白い話を聞きましたわ。」
「面白い話ですか。」
私の手は書類を引き上げながら聞いていた。女の方から話を差し向けられるのは、存外珍しいことだった。
「あなたのことを、先生と呼んでるのを聞きました。」
「今朝ここにいた彼らのことですか。」
ここにいる職員は皆、私のことを面白がって「先生」と呼ぶのだ。私の若くして卓越した冷観が、繊細さが、問題を引き起こしているのだとか言われるが、私はどうでも良い。きっと友人も家族も皆一度に失ってしまえば、誰でも達観にはなれるだろう。私は「先生」を快くは思わない。
今となってはみっともないが、私は目に見えて不機嫌になっていたと感じる。私は鋭く目配せをしたが、女は純粋故に鈍かった。それを面白可笑しく捉えることもなく、ただ好奇心の悪戯という奴で尋ねたようだった。
「わたしも先生と、そう呼んでもいいですか。」
私は書物に目を落として、ただ「勝手にしてください」とだけ言った。
しかし、しばらく沈黙が続くのを見て、私はにわかに自分の行いが大人気なく思えて、しばらく女と目を合わせなかった。なぜ彼女が私のことを先生と呼びたくなったかは定かではないが(それに、なぜ女が隅へと座るのかも全く謎であるが)きっといたずらに違いない。そのようにして私は頭をぐわんぐわんと揺らしていると、女性がこうまで近く「申し申し」と硝子を叩いてるではないか。
驚かせられた私は照れ隠しのように「何か」とだけ漏らした。
女は少し笑った。
「やっと気が付いてくださった。新しい話が来ましたわ。」
話とは、不吉な自死の夢の話である。私はさっきまでの自分の疑りが急に馬鹿らしくも、物悲しくも思えた。無気力に掴んだノートは、何故だか虚しかった。しかしこれはこれで、何とも都合が良かった。そして言ったのだ。
「そうですか。」
彼女は恭しく持ち場の方へ戻った。その時私は、彼女が真の意味で私のことを先生と呼べるのであれば、それは一体いつ頃になるのかと、想像に酔いしれていた。これから始まるであろう彼女の語りよりも、重要なことのように思えてしまうのだ。
*
今日の夢見は、こうでした。
酒の飲み方も知らぬわたしは、父に一つや二つでも尋ねておけば良かったと思いました。最期だというのに、ちっとも酔えやしないのです。そればかりか、ただ苦しいばかり、苦しいばかりで……
致し方なくなり、わたしは縄を用意しました。そうして首に縄を掛けたとき、涙が止まらなくなりました。わたしの暮らした家でわたしの死が見つかると思うと、なぜだか涙が止まらないのです。何より、わたしの子供たちがそれを見つけてしまうのだと考えると、涙が止まらないのです。
しかし、それはわたしの気質であるが故のことなのです。せめて私の子供たちが息災であるかどうかを教えてくだされば、上手くいくと思うのです。
故郷に残した子供たちや、あの方は今どうしておりますか。どうか、お教えください。先生のお答えさえ受けられれば、わたしはもうそれでいいのです。
*
「こんばんは、おきていますか。」
「はい、おきています。」
女性はすらりと起き上がると、隅へと座り早々に尋ねた。
「今日は幾分、来るのが遅うございましたね。」
私は返答に困った。何せ、私が見ているのは、決してあなただけではないのだ。この事実を知ったら、どう思うだろうか。確かに檻の中の相手は死であるが、今や女性は(少なくとも情けを掛けられる)人であり、彼女にとっては私一人しかいない。返答は目を伏せて「そうですか」と言うまでに留まった。
「何か厄介事があったのですか。」
厄介事と訊かれ、私は更にどきりとさせられた。
「いえいえ、とんでもない。さて、早く話の方を始めましょう。」
その後の応酬の終始について、私は嫌にぎこちなく見えただろう。なおも女性は微笑みを崩さず、いつものように私たちを癒そうと努めていた。私が息巻いて話題を引き出すばかりであったが、女性はしゃんとした姿勢で聴いていた。談笑の後に尾を引く静けさは、いつになく不穏に思えた。私が漫ろとノートを取り出した時、女性は不意に訊いた。
「一つ、尋ねてもよろしいですか。」
あるだけの力でもって調子を立て直し、「どうぞ」と淡白に答えた。女性の目は、私のノートの方へ注がれていた。
「一体、わたしの死に必要はあるのでしょうか。」
女性は何か、恐ろしい物事を告げるように述べた。私も思わず緊張し、放り出したノートを静かにしまった。来るべきものがきたか、私はそう感じた。
「私の死は、どのように扱われているのですか。」
「さあ、どうでしょうか。残念ですが、私は知らされていないのです。」
「先生」
先生、と呼ばれ私の体は硬直した。女性は真っ直ぐな視線であった。
実際、彼女の死に必要があるかは知らされていなかったが、本当のところは、知りたくもなかった。必要であろうがなかろうが、上の者が彼女の死をどのように扱っているかなぞ、きっと想像を絶するに他ならないだろう。そうであれば、触れないものは触れないままにするのがより良い。思うに、それこそが厄介である。しかし、それでも良いに違いない。
「先生」
彼女の声が、私を空想から現実へと引き戻した。気を張っていなければ、女性の目に吸い込まれてしまうように錯覚した。それほどまでに、真摯であった。
「知らないのであれば、知らないで良ろしいのですよ。」
私は居心地が悪くなった。答えるべきか、もっと深く調べるべきかという疑念の種が植え付けられたのだ。しばらくして、疑念は暗鬼を生じた。疑いの姿勢で取りかかるべきか、過去の私を怨むことになるだろうか、苦悶したのだ。
「そうですか。私は知りません。」
私は、また言ってしまったようだ。
「そうですか。」
女性もそう返すと、いつもの如く微笑みで以て受け止めた。私から見れば、まるで何事もなかったように、女性は笑んでいた。私はノートを取る手に迷いがあったことを告白したい。どうすれば虫の悪いことを受け止めず、水に流して生きてゆけるのかということを……。
*
今日の夢見は、こうでした。
気付きました。わたしは、もう夢の中で何百と死んでいたのです。わたしは目が覚めた時、思いました。夢の内で死ねたとて、この蟠りは墓にもあり続けるでしょう。そうして死ぬ覚悟もつかなかったわたしを滑稽に見下げ続けるでしょう。みっともないことに、それはわたしの心が許せなかったのです。
一度、一度だけ、真に自死を図ったことがあります。それはそれは苦しいものでした。私は床に打ち付けられ、毒の発作にこの世の全てを呪いました。こんなに死の瞬間が大人気なく情けないのならば、もし夢のように全てが上手くいけば、どれほど美しいでしょうか。
自ら首を締め、舌を噛み、あっさりと逝けるものなら、どれほど死は尊いものでしょう。瀬戸際の顔もきっと生前よりも美しいでしょうね。もしそのように願えたのなら、あの方は嘘偽りなく愛してくれたと考えることもできるでしょうか。
きっと死になってしまえば、それは死よりも美しい……。
*
「こんばんは、おきていますか。」
「はい、ただいま。」
彼女は随分と時間をかけて起き上がる。よっぽど長い眠りから覚めたようだ。私は、いたずらに尋ねてみたくなった。
「今日は幾分、起きるのが遅うございますね。」
彼女は不機嫌な眼差しをしたが、それも大層な遊びであった。すぐに平生を取り戻し、ベッドの隅へ座った。
「体調のほどはいつになくよろしいですよ。」
しばらくの談笑も終え、彼女が静かに息を整え、私もノートを手に取った時、不意にも彼女は目を開いていた。私が感じ取った凶兆は、彼女の視線からであった。
「一つ、尋ねてもよろしいですか。」
私は狼狽えた。私は厄介事を見る目をできる限り押さえて「どうぞ」と返した。白状すると、私は覚悟ができていなかった。彼女の問いに答えを授けることはおろか、死そのものと対面することへの決意さえ抱いていなかった。しかし、どう願えども彼女の口から忌避する問いが零れ落ちるのを止めることは叶わない。
それ故に、彼女は訊いた。
「なぜわたしをこうして囚えるのですか。」
私は考えることなく囁いた。
「それは答えられません」
思うに、私に彼女の夢を書き留める資格はないのかもしれない。それでもなお、やり遂げねばならないことはあった。たとえ彼女と誠実に向き合うことが出来なくとも。
「何故ですか。何か厄介事があるというのですか。」
彼女は切に頼み込んだ。私を疑っているな、心の中でそう考えたが、直後、私の贋物の自信は音を立ててひび割れることになった。
「やはり、それほど死が恐いのですか。」
私ははっとした。私は断として彼女の存在を疑っていたわけではないのだが、
なぜ彼女を閉じ込めていたのか、この頃になっては全く返答できなかった。きっと、全くの有象無象な目的もあったのだろうが、気など知れない。今こうして話していることが目的の全てであった。
「死が恐いのですか。」
女の宝玉のような目の玉は、私を逃すことなく見つめていた。
私は思い知った。そう、結局のところ、彼女は死そのものなのだ。人間は、死を厄介事と解釈しなければならない。それは、生きとし生けるものの掟である。談笑が、彼女の笑みが、「そうですか」という返答こそが、私をその厄介事から、また私自身の強欲な解釈から逃してくれていたのだ。
「私は、恐ろしいです」
今度は彼女が語った。
「もう会える人とも会えなくなってしまうことが何よりも恐ろしいのです。だからか、私の夢は余りに恐ろしく、私は余りに厄介です」
私は彼女の夢は酷く不吉で、近寄りがたいものと知っていた。しかし、経緯というものは不思議なもので、今や私と女性はこのようにして同じものを見ていることになる。
「出来るのなら、先生、私は夢から逃げ、生き抜いてゆきたい。美しくなくとも生きてゆきたいのです。命運に縛られることなく、我が人生を謳歌するように。」
私はそうは思えない。あなたは死であって、結局のところ、私から家族も友人も、何もかもをすっかり取り上げてしまったその人なのだ。私は怨まねばなるまい。本当は復讐しなければなるまい。厄介事と見做さなければなるまい。
「海を眺めても、もうあの方の愛を思い出すことのないほどに……。」
だから私はあなたと共におらねば、あなたが意のままに生きんとすることを抑えねばなるまい。私は生きねば──
「そうですか。」
私は不意にも、一粒の涙を流してしまった。私にも何故だかわからなかった。幸いにも、彼女に行為は見られていなかった。しかし私は取り乱して手元の資料で涙を吸い取ってしまい、似合わず大慌てをした。何とも語るに忍びない、馬鹿げた失態だ。彼女は私の目前で右往左往とする様を、もう見たことないほどに笑って流した。
「先生、もうこのお話は止めにしましょう。死が実際に死ぬことなどありませんから」
この瞬間、おそらく私はこの世で全く間抜けな顔を晒していただろう。思わず呆気にとられ、彼女は強いと確信し、敗けを認めざる負えなかったのだ。
「しかしまあ、嬉しくもなるでしょう。あんなにも厄介事の私が、こんなにも愛されて逝けるだなんて。」
女は舞うような声色で言った。
「愛してなどいません。」
私の両腕からは、力の抜けたように書類がするりと滑り落ちていった。
「私はあなたを愛することはできません。ただ美しいのです。」
誰が死を愛することができましょうか。私たちは皆死神を愛し、死に魅入られているのです。 死神は私たち皆に 等しい死を与えてくださる。 誰が独り占めできましょうか。誰が一人に背負わせられましょうか。
私は永劫を隔てる、硝子の窓に指を立てた。
「ただ美しい。」
私はただ、私だけのものにしたかった。
私はただ、死にたかった。
*
後日、ある女は静かに息を引き取っていた。いや、元々あるべきものがあるべき場所に戻ったと言うべきか。それも眠るように息を引き取っているのだという。それはそれは、綺麗な死に際だったと。やはり、死神を閉じ込めるなど完遂されるべきではなかったのだ。ああ、今ごろは土の下で、生きていたころの妄想を連ねているのだろうか。
(強く生きねば)
何とも夢のように不思議だが、この話をするたびに、彼女の死を書き綴ったこのノートが、あの時私の流した大粒の涙が、何か特別な意味を含むように思えて、仕方がないのである。
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