またある者は、永劫の痛みの中に生まれる

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要するに、大司祭にとってそれは酷く退屈な光景だった。

隠れアビルトの聖地というのは<アビルト>と似通ったものだと解釈していたが、実際そうではなかった。カレフハイトから北西に3マイルほどのところに、その決して神聖とは呼べない洞穴はある。それは何の恩恵も受けてはいなかった。関わりさえなかったのだ。カレフハイトに住まう人々にとって、それは消えて然るべき歴史だった。

然るに。

“隠れアビルト”というのはカレフハイトの商業騎士団がつけた蔑称であり、その大部分の支持者は──乞食や老人、恵まれないヨーク、そして数人のアギーの信者(酷いことに、数人の女性は既に子を身籠っているようだ)──取るに足らない者たちを指す。中には、かつてアビルトレイトを牛耳っていた資産家層やアンドンベルドの退役騎士までも見えた。大司祭は眉を寄せた。この場においてどうして<アビルト>などと呼ばれるのか、全く見当が付かなかったのである。

隠れアビルトがそれたる意義を簡単に表現しよう。洞窟の中心には巨大な縦穴がある。信者ら(適切でないかもしれないが、隠れアビルトの聖地においては、そう呼ぶのが気休めになるだろう)はそこへ向かう列を為し、流れに抗うことなく静かに落ちる。文字通り絶壁の中に身投げするのだ。司祭たち、特に大司祭と呼ばれる者は、この行為をただ眺めるためだけに時間を浪費している。

それだけ。本当にそれだけなのだ。降りた者がどうなったか、また生きているか死んでいるかもわからない。この底にはどんなに素晴らしい金銀が眠っているのか? そう訊いてみれば、信者らは「かつての自身であったもの、そしてこの先の自身であるもの」が“いる”と言う。大司祭自ら覗いてみれば、宇宙の不浄と玉虫色の悪臭が支配するだけである。どうにも。何人かはそれを宗派だと呼ぶのかもしれない。ここにおいて誰か狂人の論理を持ち得ているかなど、最早問題ではなかったのだが。

全く以て憐れむべきことである。

ベェェェェェェン。途端に、穴の底から呼び声がした。強い憎しみを持った男の呼び声。これが唯一、隠れアビルトの教義と呼べるものだ。大司祭は、それをあるホラー小説の中に読んだ経験があると考えていた──今やその書物は旧き遺物である。随分と冒涜的で、悪いジョークだ。そしてまたしても呼び声。

しかし今日この日は運が良かったと捉えていた。ここでの仕事は大司祭の習性とまで化していた(ほとんど麻痺するほどに)が、列の人々の中に一つめぼしい者を見つけたのも、一つ試しておきたいことのために大司祭が口を開いたのも、ほとんど偶然の気まぐれからだった。
「ロペス、」

列の中から一人の少女が振り返った。その表情は嫌悪に満ちている。
「どこで……私の名前を?」

不思議だ、余りに若すぎる。旧き世界であればやっと14になる程の、ああ、何故神はこうも惨いことしかなさらないのです?

「お前は、アビルトでなくヨークの娘であるね?」
少女が頷くことはなかった。その視線は更に警戒を帯びる。

大司祭はその目を、複雑な内情を見透かすようにじっと見た。しばらくすると、少女は目を反らした。まるで、そうなるように仕組まれていたように。

「哀れな人ね」
少女が呆れたように蔑むも、その目には警戒は宿っていなかった。むしろ、諦めの感情が勝っていた。

「良いですよ、大司祭様」
ロペスは列を抜け出して、近くの岩に座った。
「私は人形、私は下僕、どうかあなたのお好きな様に」
それはカレフハイトの隷族の低俗な挨拶だった。

大司祭も岩の上に腰掛けた。
「一つ、真なるサイトュと不思議の探求の話をしよう」
そう言うと大司祭は歯を剥き出して、ほとんど脅すように笑いかけた。
「どうにも、わしはお前の叔父とは知り合いだったんじゃと思うぞ」


消滅の直前にもなれば、人は誰しも自分の生きた印を何処かに刻んでいれば良かったと後悔するものだ。

語るに、彼女の叔父もアビルトではなくヨークの信者であり、彼女が5になる手前に姿を消したという。恐らくは数あるサイトュの探求、もしくは不思議の一覧のために。大司祭はこの時点で、ほとんどその男の正体を知っていた。ヨークの信者が聖職者となって後に帰還するのはごく稀で、大司祭の記憶には禁忌に触れ死にゆく者の方が新しかった。

叔父を最後に見たのは4年前だ。既に探求者の捜索は打ち切られていたはずだったが、突如として家族の元に現れたのだ。事実、祖父は聖職者として帰って来た。一度は。それを証するために、男はロペスの目の前で母と祖父を絞め殺した。彼女が最も愛していたものと、憎んでいたものを同時に。

曲がった男の顔が振り向いて、尋ねた。これが何をもたらすのか? この家族は? 血族は? 血筋は? どうなる?

ロペスは叫び、手に取った焼鏝で男を殴り付けたが、曲がった男の顔は更に曲がりを見せるだけだ。

鼓膜の内側で男は喚いた。お前も来い。お前も来い。来らば全てわかる。わからずとも、何れ惹き付かれることになる。

男はそれ以上ロペスを殺そうとも、引き込もうともしなかった。彼は西の大砂漠へと消え、二度と彼女の前に姿を見せることはなかった。

(今はもうあの人の行く先なんて知れないし、思い出すことさえ苦痛だし、誰一人としてあの事件を覚えてなんかいない)

ロペスの目は鍾乳石から垂れ落ちる水滴を追っていた。

大司祭はうんざりした。間違いない。その男は故郷なるサイトュに触れた。故郷なるサイトュもまた彼に触れたのだ。

故郷なるサイトュとは、祝福ではなく呪いである。旧きスタレルの聖地もまた、祝福ではなく呪いである。死者を二度と彼らの元へ送り返さぬための呪いである。男は端から死んでいた。欠片を探し始めた時から、サイトュの探求のために命を失くしてしまった。そう、彼女の命運はサイトュについて考え始めたその時から、既に呪われていたのだ。

大司祭はローブの下で顔を訝いぶかしめた。しかしそれは違う。彼女から感じ取った、消えねばならないという強い意思。今やそれこそが呪いなのだ。

もし彼女が最初からいなければ、どうだっただろう?

当然、その結果にさほど差異はない。彼女の叔父がヨークの信者であることも、また<スタレル>が彼に触れるのも、避けえないものだろう。彼はその後も人ならぬものとなって帰還し、誰からか何かを奪い、故郷を去り行くところまでは予想できる。無論、彼が一体誰から何をどのような卑劣なやり方で奪ったのかは、ロペスには知れないことだが。

そう、ロペスには知り得ないことなのだ。

たとえ彼女がこの場にいなくとも、愚かなヨークの連中は故郷なるサイトュの本質的に意味するところを求めようとはしないだろうし、実際冥王の裁判員は多くのアギーの女を魔女裁判にかけ続けている。

神の都の民族は憤り、常に多くの近代都市にゲイアの火を点け回る。それによって多くの人々の死に、終末の予言が生まれ、放棄された焼畑の上にまた新たな罪の国家が築かれるとも知らずに。

この瞬間もカレフハイトのブルジョアは厄介事を鎮圧するために、軍を派遣し続けているだろう。滅亡される集落は1つ2つでは済まない。行く先にあるものは全て間引かれ、引き摺り帰った狂信者の骨は錬金術のため全て売り払われ、<スタレル>の呪いは未だ各地に根付いたままにある。

屠殺が、血が、必要のない命が。失われた山の上に、和平の天使が最初の村を形作るだろう。

それは彼女の元にも将来的に、必然的に起きるだろう。神の通力によるものでなく、自然の脅威によるものでもなく。それが、彼女の性質である限りにおいて。

しかし、ロペスには唯一許されていることが常にある。即ち、目を閉じることだ。


「事実なのですか?」

「未知の経験じゃよ」
大司祭は頷いた。
「それで、その行く末が、ただここから飛び降りてみることであるね?」

「仮にそうであったとしても、全と一になること、それこそが私に残された唯一無二の道です」
ロペスの声は呟いているように聞こえた。

「私は神の見えざる手を信じません。我々を救いたるは、<ゲイア>ではありません。<ドラジン>でも、<スタレル>でもありません。私を救えるのは、私自身ただ一人」
大司祭は溜め息をついてみせた。死が人の救済とはよく言ったものだ。私でさえ自らを死から救えるのは私しかいないと言うのに。

「しかし私たちは、まだ未来ある花なのです。この奈落に底があり続ける限り、私たちに夢の可能性を授けてくださる。だから、私たちはまだ闘えます。いつか、」

大司祭は復唱した。
「いつか、」

その瞬間、隠れアビルトの全ての信者の顔が大司祭を見つめた。精錬された一つの意識が、あらゆる貴賤の口々を通して答えた。
「「「いつか」」」

そうして静かになり群衆が再び奈落を目指し始めた時、全ての精神はロペスの内側に根付いているようにさえ感じた。

「考える時間は、最早要りません」

「いつか」
大司祭はうわ言のように呟いた。
「いつか、死ねると良いねぇ」


いつしか列は数を減らしていた。ゲェ、ゲイリイィィ。ゲイリイイィィィィィ。変わらず、穴は絶叫している。もう数分後には、ロペスの手番がやってくる頃合いだろう。ロペスがそれに近付く度、穴に潜むものは渇くようだ。それが望まれた祝福すべきことなのか、悲しむべきことなのかについては大司祭は考えないことにした。ただ、何れにしても口惜しくはある。

「大司祭様はお降りになられないのですか?」
ロペスは尋ねた。その顔はまるで純粋無垢のその様だ。

大司祭は穴の底をちらと目をやると、酷く不快そうに見えた。
「ああ、そうさね。わしには未だ、見送るべき人々が待っているからな」

「それは私のように?」
ロペスは尋ねた。

「君らや私のようにだ」

そう言うと大司祭はローブから麻の布の包みを取り出し、ロペスに握らせた。

ロペスは尋ねた。
「これは?」

「旧き世界の遺物じゃ。思うに……君たちはもっと上手く使ってやれるだろうよ」

「たとえ私共のその後を知っておられたとしても?」

「さあね。ただわしは意味の無いことは嫌いなだけじゃよ」

そう言うとロペスはクスクスと笑った。大司祭は残念そうに見えた。いつしか彼らの隣には谷底が現れ、大司祭はそれ以上彼らについていくことを踏み留まった。

ロペスは醜い奴隷の別れの儀の言葉を一つ二つ呟くと、彼女の細い体は倒れるように落ちてしまった。後には小石が彼女らの孤独を憐れんで追う音があり、何も残らなかった。

大司祭はかつて彼女が小遣いであった時、彼女はどのような待遇を幸福と諭され、何を目的に物を口に詰め込んでいたのかが気になった。また、どのような鞭で悲鳴を上げるのかも。

それはおそらく、ロペスの体があの不定形な塊に行き届いた頃だっただろう。カレェフ。カレエエエエエエエフ。しわがれた叫び声があり、蒸気に弾け出されたものがあった。大地が振動し大司祭も思わず身震いをした。尚も落ちるのを止めない人々、互いを助け合ってまで地の底を目指す人の群れを見た。大司祭は思わず感心してしまい、ふむ、どうりで隠れアビルトの信者は恵まれないものが多いわけだ。


「して、残された支持者はどうなったんだね?」

エヴァマンは尋ねた。南の彼方にある洞窟で、それはマグカップに数匹の蝿が沸き上がるのを、訝しそうに眺めていた。老人──時として大司祭と呼ばれた者──はその向かい側の椅子に座り、魂の抜けたように揺られていた。
「さあね、連中の信条たるものは解せんよ。何にせよ、全てのことは移り変わりがあるものだがね」

実際、それの言う連中は全て死んであるべきだった。隠れアビルトは未完だった。全てが死に絶え、何も残らなくなるまでそれが続いて初めて完成するのだ。しかし、不思議の一覧がある限りそれが起こることはない。猿神<アビルト>が死してなお、隠れアビルトが死ねることは決してない。

男が目にしたもの全てに、終わりは公平に存在していた。彼は最早、消えゆくものについて議論する意味はないと考えていた。あらゆることが終末を迎えてしまったのだ。記憶に新しいサイトュの探求、<ゲイヤ>の若き支持者たち、カレフハイトに根付く熱心な調査兵団ら、隠れアビルトに住まう人々、そして未だ幼きロペス。重要なのは最早、終わり方だけだ。

そう考えると、大司祭には彼らが少しだけ羨ましくも思えた。

「不可解だ……」
エヴァマンは呟いて、頭を抱えた。彼は常に神学を予測できるものだと知っていたが、彼にとってその信者らの行動は、<ゲイア>、<旧きアギー>、そして<アビルト>とさえも共通するものがないのだ。しかし、それを理解する日はないだろう。何故ならエヴァマンは始めから狂ってなどいなかったからだ。
「連中は……狂っているのか?」

「いんや」
男は半ば投げやりに応えた。

「ならば、端から狂ってなどいなかったのか?」

「いんや」

「クソ……」
エヴァマンは再び俯き、数匹の蝿を訝しげに眺めた。

実際、そこには何の狂いもなかった。全ては正しく回っており、そして多くの事象は問い質されるより先に消え去っていった。瞬きするより遥かに早く。

次に男が口を開いたのは、エヴァマンが<アビルト>に関する考察資料を引き出すために立ち上がろうとした時だった。男はエヴァマンを呼び止め、そして言い聞かせた。

「時に」
老人は静かに口を開いた。
「時に、エヴァレット。どこぞの放牧民の爺さんが、私と同じような奇妙な考えを引き起こしていたというのは本当だね?」

「何だと?」

「もしそうなら、私はあの時に真っ先にカインの奴をクソトカゲに喰わしておくべきだったと悔やんでるよ」

最早恐れはない。重要なのは、終わり方だ。男が息をついて座り直した時だった。突然エヴァマンの目が見開かれ、その顔は青ざめた。怒りに打ち震えるように、全身の脈が沸騰した。男の首元に、あるはずのものがそこには無い。いや、始めから無かったのだ。

エヴァマンは叫んだ。
「待て! 首飾りはどうしたのだ?」

老人は笑って、溜め息をついて、それから数本のちりぢりになった髪の毛を引き抜く仕草をみせた。エヴァマンは答えるように急かしたが、老人は聞く耳を持っていなかった。

「不思議をどこへやった!」
エヴァマンは机を大きく叩きつけた。
「ジャック!」

その時、西の彼方より大地震が彼らを襲った。ジャァック、ジャァァァァァァッック。憎悪に満ちた、更なる叫び。大司祭はその在り処をよく知っていた。それはまさに男にとって最後の10年余りを過ごすには、余りに相応しくもない地だった。しかし、象徴的、実態的、それを何と呼ぼうがやはり相応しいものだったのだ。事実として、彼はそうした。彼はやり遂げた。

印は残らなかった。長い時代の叫びと尾を引く空虚が残り、男の生がようやく終わったのだ。

飛び去った沈黙があった。ある男は髪を掻き上げて言った。
「もう返事をするのも嫌になったところさ」

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