Tale-JP - 塵労
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午前2時。

連日の雨で湿りきった路地裏を歩き、珪一は溜息をついた。

いつからこんなに自分は落ちぶれてしまったのだと。

珪一は特に意味もなく自分の人生を振り返った。人並みに勉強し、人並みに運動し、悪くない大学に通い、見栄えの良い服を着て、一般的な幸福を得ている。何も文句を言うこともない。はずだった。

しかし人間というのは恐ろしい。いつまでも自分の現状に満足することはなく、自分の不満を探すのに夢中になる日々を送ってしまいがちなのだ。

珪一は毎日上に媚びを売り、他人の機嫌をうかがい、何かに縛られなければいけない煩わしい世間に嫌気が差していたのだ。大人になれば誰しもが感じる悩みだが、珪一はそれを人並み以上に気にしていると自負していた。

「ただぼんやりとした不安」そうも頭に浮かべてみた。芥川龍之介の最期のメッセージの一節である。深夜の静寂の中、1人自分の人生を振り返ると文学的な気分に浸れるものだと考えてみたが、気を紛らわすことはできなかった。

やがて、暗く細い道の奥に1つの小さな看板が見えた。

看板には紫地に黄色で「いせかいまくら」といかにも怪しげな字体で書かれている。しかし珪一は迷うことなく店に入った。


扉を開けるといつも通り、大きなベルが鳴る。珪一はその音が嫌いではなかった。相変わらず薄い店内を珪一はあえて大きな足音を立てて進んだ。

店の中はあまり広くなく、平均的な喫茶店のような見た目である。カウンターにはバーテンダーのような男が1人。部屋の奥にはもう1つ扉があった。

「いらっしゃい。」

聞き馴染みのある、低くそれでいて心地よい声が聞こえてきた。

「また来ましたよ。よろしくお願いします。」

珪一はそう言うと、上着を脱ぎ、慣れた手つきでシャツのボタンを1つ外してカウンターのガラス瓶の中にそれを入れた。カランという軽快な音を立ててボタンは瓶の中に溜まった。

「すっかり常連ですね。」

「確かにね。でも、この店の常連なんて俺ぐらいしかいないでしょう?」

「……そうとは限りませんよ?」

バーテンダーのような男は意味深な言葉を残しつつそれ以上語ろうとはしなかった。

「何にいたしましょうか?」

「いつもので。」

珪一は、人生で一度は言ってみたい言葉を口に出しつつ奇妙な優越感に浸った。バーテンダーのような男……正確には店主だが、その男は何も言わずに枕と毛布を取り出した。

店の奥の扉を開けると、そこはまた狭い寝室であった。薄暗く暖色の部屋の中にはベッドが1つあるのみ。店主が先程取り出した枕と毛布を敷き、珪一は何も言わずにそのベッドの中に潜った。

「では、くれぐれもやめてくださいね?夢の中では……」

珪一は全て聞き終わる前に、目を閉じて眠りへと向かった。


珪一が「いせかいまくら」を初めて訪れたのは丁度2週間前であった。その日の珪一は、休日に上司との接待ゴルフに付き合わされた挙句、夜遅くまでの飲み会で羽目を外し、酔いに酔っていた。

「なんでこんな時代錯誤な1日を過ごさなきゃならないんだ……」

珪一は酔いもあってか1人でそう呟いた。会社の最寄駅に近づく1つ手前の交差点を、珪一は誤って右へ曲がり、暗い裏路地へと足を運んだ。

気分を変えるために鼻歌を歌っていた珪一は、しばらくすると、道の奥から1人の男が現れるのに気づいた。男はこう言った。

「あなた、疲れてますね?」

酔っていてよく覚えていないところも多いが、その男は確かにこう言ったのだ。

「あんた誰?俺は別に……」

「煩わしい人付き合いに飽き飽きしているのでしょう。」

珪一の言葉は遮られ、続けてそう言われた。珪一はなんとはなしに図星をつかれたような気がした。

「でしたら、帰りに1つ、私の店に寄って行きませんか?」

「嫌だね。これ以上酒は飲めないさ。」

「お酒ではありません。私の店は、夢を売っているのです。」

「夢?」

夢を売る店……最近の小説や都市伝説でよく聞くような、見たい夢を見させてくれる店なのだろうか?珪一はそう思ったがあまり興味が持てなかった。最もまだ全く信じていなかったのだ。

「おじさん、もっと面白い嘘ついてよ。夢を売るなんて……ありがちな都市伝説じゃありませんか。」

「まあそうなんですけどもね。私の店は少し違うんですよ。まあついてくればわかります。」

「よおし。行ってやろうじゃないか。」

珪一は酔いもあってか、威勢よく返事して、男の後を歩いた。

しばらく珪一は男の後をつけ、路地裏の奥の薄暗い電球のついた看板を目にした。

「いせかいまくら?」

「はい。私の店の名前でございます。」

いせかいまくら……異世界枕とでも言うのだろうか。異世界と言ったら、珪一の苦手なジャンルの1つだった。昨今の創作界隈では、「異世界」と言う類のものが、「無双」や「転生」という言葉を携えて侵略してきているイメージが珪一の中にはあった。ああいうものは作者の欲望が鮮烈に反映されている気がして、珪一は読める気にならないと食わず嫌いしていたのだ。

「さあ、どうぞこちらへ。」


男に誘われて珪一は更に薄暗い店内へと足を運んだ。やけに長い廊下の先には古いカフェのような内装が広がっており、寝具のようなものが手前の棚につまれていた。

「……ここはマッサージサロンかなんかですか?」

「それに近いかもしれません。私の店は、寝ることで快適な夢を体験してもらう店なのです。」

「ほう……クスリか何か使うんじゃないのかい?」

「滅相もございません。私は何ら異常なもの……いえ違法その他有害なものは取り扱っておりません。あくまで純粋な心理的作用の研究結果に基づいて営業しています。」

それを聞いて珪一は更に不安になりかけたが、話を続けた。

「具体的には?」

「それは恐らくお察しの通り、見たい夢を見るというものでございます。」

「いいね。是非利用したい。で、お値段は?」

「現金はいただきません。」

「わかった。カードだろう。」

「いえ、服のボタンでございます。」

「ボタン?」

珪一は耳を疑った。金を取らず服のボタンを取るというのか。しかし、特に理由を聞くことはなかった。そこまで安価に出来るなら試す価値はあるだろうなどと考えていた。

「服のボタンとは……あなたも結構な趣味を持ってるね。でも、俺は試してみるよ。」

「はい。ではボタンはこちらに。」

男は顔色ひとつ変えずにそう言い、珪一に空のガラス瓶を差し出した。珪一はそこにボタンを服から千切って入れると、更に奥の部屋に誘われた。

「ここで寝るんですか?」

「はい。どんな夢がご所望でしょうか。」

「そうだな……なるべく煩わしい世間という印象から離れた夢がいいかな。」

「かしこまりました。」

しばらくすると男は枕と毛布を持って再び部屋に入ってきた。

「では、どうぞ。」

珪一はそれを受け取りベッドに乗せて、早速寝てみようと横になった。

「1つ気をつけてほしいことがあります。」

ここで


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