このページの批評は終了しました。
「──えー、つまり天照大神という神格は、原初は大日孁貴おおひるめのむちと呼称されていた可能性が高いと言えます。孁という字は巫女を表すために用いられたと考えられるため、天照大神は元々太陽に奉仕する女神であり、そこから皇祖神という性格に変貌したものと考えられています」
サイト-8173のとある会議室にその男女はいた。
神話・民俗学部門の研究員、車道くるまみち 光行はくたびれたジャケットに身を包み、ポインタをスクリーンに投射しながら講義を続けていた。部屋に窓はなく、スクリーン上の電灯は消されて薄暗い。
そんな車道の講義を、姿勢を崩さずに聞き続けている聴衆が一人いた。
スーツを着用し、梳かれた黒髪を後ろに垂らし、膝をそろえて画面を注視している。
名を栄さかえ 朝顔という。
「──えー、天照大神が登場する神話は無論大量にありますが、その中でも特に有名なものが天岩屋戸あめのいわやと神話です。栄さん、あなたが最も興味のあるであろう話柄でしょう」
朝顔は目を見開いて数回うなずいた。
「──えー、神話の内容はスサノヲの暴虐、蝕穢しょくえによる天照大神の忌隠いみごもり、天照大神を岩屋から出す祭儀、スサノヲの神逐かむやらいの4つのセクションからなりますが、栄さん、あなたにとっては前半2つのみが重要でしょう。スサノヲの暴虐というのは、スサノヲが高天原で田を破壊し、新嘗にいなめの宮を大便で汚したことを指します。しかしあなたはこれを咎めずにかばった」
朝顔は神妙な面持ちでうなずいた。
「しかし、スサノヲの乱暴は収まらなかった。織女が機殿はたどので神の衣を織っていたところにスサノヲは皮を剝いだ馬を投げ込み、驚いた織女は梭ひを陰部に突き刺して死んでしまう。穢れの中でも死の穢れは最も重い穢れであり、大嘗祭の続行を不可能にするものです。──栄さん、この織女の名はご存じですか?」
「──確か、稚日女わかひるめという名でした。私によく似た容貌を持った者であると記憶しています」
「──そうですか。『日本書紀』七段一書あるふみの一でもそう伝えられていますね」
車道はうなずいた。
「──えー、これを受けたあなたは岩屋戸へ籠ることになった。この部分はインドシナ半島に散見される日蝕神話と共通の構造を持っており、天照大神が太陽の神であることを再確認する意味を持つとも言えます。あるいは冬至の際に活力が衰えた太陽を復活させるための死と再生の儀式、つまり鎮魂祭の招魂みたまふりの起源であると考えられたり、天照大神が高天原の最高神となるための通過儀礼であるとする説もあります」
「つまり──」
朝顔は目を伏せた。
「私はその通過儀礼を越すことができなかった、太陽神としても皇祖神としても失格の神であるということですか。岩屋を出ることができなかった私は──天照大神の失敗例ということですか」
「……」
車道はポインタを持っていた手を下ろした。
「やはり落ち込ませてしまいましたね。あなたから『天照大神という神についてどう考えられているのか知りたい』と言われたとき、どう伝えれば御心にかなうかと苦慮しましたよ」
「いえ──いいんです。詳しく資料をまとめてくれてありがとうございます。いくら私の居場所を作ろうとしても、私が誰であるかという憂いからは逃れられません。この問いに対する解答が何なのかについて、私は逃げずに考えていきたいと思っているんです」
「素晴らしいです。私にできることならなんでもおっしゃってください。微力ながら協力させていただきます」
栄 朝顔、またの名をSCP-2050-JP-A。クラスVIIIヒト型現実改変実体であり、本来ならば財団の手に負えない天体規模の力を行使する神格実体であるはずだが、紆余曲折あり、現在は自身の能力を韜晦し、財団神域部門の主任を務めながら自己収容を行っている。その実態は日本国の信仰世界における最高神である天照大神あまてらすおおみかみ──それが天岩屋戸神話において数千年間岩屋に取り残され続けた、というifのストーリーを体現している謎の存在である。
そんな彼女にとって、「自分が誰であるか」という疑問は自身を常に苛み続けている宿痾であった。天岩屋SCP-2050-JPを出て以来、彼女はあらゆる文献を漁り、現在伝承されているあらゆる神話を調べた。しかし、古事記も日本書紀も古語拾遺も先代旧事本紀せんだいくじほんぎも、すべて「天照大神は岩屋を出た」と語っている。そして、実際に太陽はこうして天下を照らしている。
「──あなたは誰?」
遊歩道で立ち止まり、青空を見上げ、目を細めながら──朝顔は何度口にしたかもわからない問いをつぶやいた。
岩屋を出た朝顔が知った「天照大神」は、彼女の想像とは異なる女神だった。最も衝撃を受けたのは、天照大神は人民を守るよりもむしろ傷つけることが多く、また天皇家からも忌み嫌われているように思えることだった。
第十代崇神天皇の御世。天照大神は宮中で祀られていたが、同じく祀られていた倭大国魂神やまとのおおくにたまのかみと争ったことによって、疫病が流行し、多くの死者が出たという。
結果、これら二つの神は宮廷を追い出された。
「──なぜ、倭大国魂神だけでなく、私も追い出されているのでしょうか」
その後、天照大神は各地を巡った後に伊勢国に落ち着き、伊勢神宮が建立された。
その間、祀り手である倭姫命やまとひめのみことが巡ったのは、伊賀国、近江国、美濃国、尾張国であった。
「──なぜ、宮廷のある大和からそんなに遠くにする必要があったのでしょうか」
さらに、明治維新以前、天皇が自ら伊勢神宮に行幸を行ったことは極めて少ない。
なんと、持統天皇から明治天皇までの1200年間、一度も天皇は伊勢神宮を参拝していないのである。
朝顔は悄然として文献のページをめくっていた。
さらに文献を調べていくと、「天照大神」が皇祖皇宗から忌まれる理由がわかってきた。
苛烈なのである。
第十四代仲哀天皇の御世、天照大神は天皇に海を越えた新羅の国に攻め入るように促した。仲哀天皇は「海の向こうにそんな国は見えない」として従わなかった。
結果、仲哀天皇はその場で命を落とした。
その後、天照大神は改めて仲哀天皇の妻である神功皇后を教唆し、新羅の国に攻め入れさせた。この際、神功皇后は身重であったが、石を用いて出産を防いでいたという。
「──天皇を殺し、妊婦である皇后を急かしてまでも、戦争を起こしたかったのでしょうか。──戦争など、大勢の死者を生むだけだというのに」
私ならばこんな酷なことはしない──と、朝顔は文献を閉じながら思った。
「──栄さん。トリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーションという要注意団体はご存じですか?」
サイト-8173の会議室で、車道はおもむろに言った。
「──ええ、聞いたことがあります。異国の神が結成した会社で、神の顕現や翻訳などを助ける団体だとか」
「そうです。日本国の神話に登場する神格の多くもまた、当該団体のサポートの下で基底現実に顕現していることが認められています。そして──」
車道はかばんからファイルを取り出し、朝顔に提示した。
「こちらがその団体の露見のきっかけになった、SCP-1988-JPの報告書です。見ていただきたいのはこの部分──2012年5月20日の項です」
そう言って車道は報告書上の指を滑らせた。
「宮崎県高千穂町──和服の女性──上代日本語──日蝕の際に出現。これって──」
「ええ。あなたは文献からお知りになったでしょうが、高千穂はあなたの孫にあたる邇邇芸命ににぎのみことたちが天降った槵觸くじふるの峯たけのある場所です。自然、あなた──いや、天照大神にも関係の深い土地と言えるでしょう。つまり──」
「──ええ、車道さん。あなたの言いたいことはわかりました」
朝顔は車道を見据えた。
「この実体が──当世における私にあたるかもしれないということですね?」
車道はうなずいた。
神域部門は財団内部部門の一つという形をとっているが、その実態は朝顔のような強力な現実改変能力を有する神格実体を財団が懐柔し、軟禁するための組織である。「神域」という名称も、神をそこに閉じ込めるという意味で用いられたのではないかと朝顔はふと思うことがある。
しかしながら朝顔個人としては、そのような財団の施策に対して不満は持っていない。「人間と穏やかに暮らす」、「人間社会に害を成さない」ことが神域部門に所属する神格実体の職務であると、朝顔は規定している。
「難しい顔をしてますね、主任」
カップを置き、カフェテリアの隅で物思いにふけっていた朝顔に、カップを手にした男が話しかけた。長めの髪を後ろで束ね、顎髭を残した美青年──エージェント・八上と名乗っている神域部門の一員である。その実態は天照大神と双璧をなす地祇くにつかみの最高神、大己貴命おおなむちのみこと──別名、大国主命おおくにぬしのみこと──に当たる神格実体であると判断されている。
八上は朝顔の前の席に座り、カップを置いて足を組んだ。
「さて、本日はいったい何が主任の宸襟を悩ませているのですか?」
「──いつもの悩みですよ。またあなたに笑われてしまいますが」
「ひどいなあ。私がいつそんなひどいことをしました?」
そう言いつつも八上はくすくすと笑った。
「──実は、筑紫において当代の私らしき者が発見されているようなのです」
「発見? あー、Ttt社、でしたっけ?」
「はい。それで──その者に会いにいくかどうか、迷っていたのです」
「へえ。会いに行けばいいじゃないですか」
「しかし──」
朝顔は手元のカップに視線を落とした。
「会って、どうすればいいのでしょうか。私は天岩屋の試練を乗り越えられなかった『天照大神』です。私がいなくても、この世はこれまで何千年間も正常に回ってきた。私は──失敗した天照なのです。そんな私が、当代の私に会っても何を言うべきなのか」
「すっかりネガティブになっちゃってますね、主任」
八上は笑った。
「私が言いたいのはね、主任。自分が複数人いるなんて、私たちにとっちゃ別に変なことでも何もないということですよ。ただでさえ荒魂あらみたまだの和魂にぎみたまだの幸魂さきみたまだの奇魂くしみたまだの分かれるのに、民草が『この神とこの神は違う』と言ったらその通りになってしまう。私だって、八千矛やちほこと葦原醜男あしはらのしこおと顕国玉うつしくにたまと私は別の神だ、って言われたら、今からでも神格が分裂すると思いますし」
「──しかし、神格が分裂せずに統一されているのは、神話が確立して十分な時間が経っているからです。私の場合、『私が岩屋から出た』という神話が確立されている。しかし、岩屋から出なかった私はここにいる」
「だから、あなたは『天照大神の岩屋から出なかったバージョン』なんじゃないですか?」
「つまりは失敗作ということです」
朝顔は再度うつむいた。八上はばつの悪い顔でコーヒーをすすった。
「あなたにもわかるでしょう、所造天下あめのしたつくらしし大神、越こしの八口やくちを平らけし大神よ。あなたは出雲、私は大和で最高神として崇められた。その結果、各地に分散していた神格を統一し、『これらの神話のエピソードはすべて私たちがやったことだ』と人間は規定したのです。『天を照らす』、『大いなる国の主』などという説明的な名称が用いられたのも、おそらく複数神格の統合に伴うものでしょう」
「そんなこと、考えるもんじゃありませんよ」
「それだけ私が悩んでいるということです。つまり、私やあなたのような最高神の神格は、叡智圏ノウアスフィア上では分裂ではなく統合の方向に向かう。これから最高神として崇めようとしているのに、神格を分裂させるのは逆効果ですからね。だから、私がこのように分裂しているのはおかしいのです。──何笑ってるんですか」
「──失礼、やっぱり悩むのはよくないことだなあと思って。神自身がそんな民草側の事情を考察するなんて──いや、失礼」
と言いつつも、八上は失笑した。朝顔は席を立とうとした。
「──もういいです。あなたに相談した私が愚かでした」
「──ああ、ごめんなさい。怒らないでくださいよ、主任。言ってることはわかります。民草がわざわざ『もし岩屋から主任が出てこなかったら』なんて話、思いつく必要もないですもんね。つまり、あなたがここに存在するのは、民草側のせいではない、と言いたいんでしょう」
「──そうですね。叡智圏での神の成り立ちを財団の皆さんから学びましたが、その結果私の中ではそのような結論に至りました」
「じゃあ、誰のせいだと思うのですか?」
そう言って八上は少し首を傾げた。
「誰のせい──ですか?」
「はい。思うに──主任、あなたは少し優しすぎる。まだ短い期間しか接してませんが、主任はだいぶ性善説寄りの考え方をしますよね。常に民草に寄り添って物事を考えるし──岩屋に入る直前のスサノヲさんに関しても、あれだけひどいことをやられてるのにすごいかばい方だなあと思って聞いてましたよ」
「……」
「主任、世間は優しい人ばかりじゃないですよ。私だって、兄たちに2回も殺されて、2回も生き返ってるんですから。高天原の最高神として、もう少し世間には悪いヤツもいるってことを知った方がいいかもしれません」
「──何が言いたいのですか」
「私が思うに──高天原にあなたを陥れた神がいるのでは?」
そう言って、八上はコーヒーに口をつけた。
「会いに行きましょうよ、主任。陰謀の真相を突き止めに」
「──高天原に、私を陥れた神がいる」
それは、朝顔にとっては盲点だった。いや、無意識に考えるのを避けていたのかもしれない。
あの時──父神に御倉板挙みくらたなの玉の首飾りを授けられ、高天原の統治を任せられた時から、自分は必死にその職務を全うしてきた、と朝顔は思っていた。
しかし、その統治を不満に思っている神がいたかもしれない。
そして、その神は──
「──私を岩屋に閉じ込め、高天原から追放した──?」
朝顔は重々しい装備を装着した数人のフィールドエージェントとともに、窓のない車両の中に揺られていた。黒ずくめのエージェントが居並ぶ中で、朝顔の白い衣はよく映えていた。しかしながらその表情は浮かない。
財団神域部門の基本姿勢は「神格実体の望みをできる限りかなえる」ことである。天体規模の現実改変能力を有する各実体の機嫌を損じることは可能な限り回避される。今回の朝顔の要望も、複数部門の協力の下で容認されることになった。

エージェントたちが遠巻きに見守る中、朝顔は衣を風に巻き、河原の石を踏みしめて歩いた。
宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸、天安河原あめのやすがわら。
Ttt社を通じ、「天照大神」が面会に指定した場所である。
朝顔は洞窟の入り口に立ち、眼前にぽっかりと開いた闇を見上げた。
岩戸川の侵食によってつくられた巨大な空洞。名を仰慕窟ぎょうぼがいわやという。日本国において、天岩屋戸神話の舞台に比定される場所の一つである。
突如、日が陰った。
「──お久しぶりです、大日孁貴おおひるめのむち。いや──今ではSCP-2050-JP-A、とも呼ばれているそうですね」
朝顔は振り返った。天安河原の陽光が降り注ぐ石の上に、一人の女性が立っていた。
朝顔と同様、白い衣を纏い、首に玉の飾りをかけている。加えて、腰に一本の剣を佩はいていた。その微笑に、朝顔は見覚えがあった。
「外神とつかみの副社長──トート神は翻訳の権能も有しているようです。だからこうして当代の言葉で話すことも可能になっているのですが──大日孁貴、あなたは独学で当代の言葉を学んだようですね」
「──稚日女わかひるめ──」
洞窟の闇を背にしながら、朝顔は驚きの表情を浮かべた。
「──あなたがあの岩屋SCP-2050-JPから出たことを知ったときは驚きました。あの岩屋には内部の時間を独立させ、あなたを永遠に閉じ込めるための禁厭まじないを施していたのですが──やはり、長年の風化は防ぎきれなかったようですね」
「そんなことはどうでもいい。不明なことは多くありますが、私の知りたいことは一つだけです。なぜ、私を追放したのですか」
「なぜ、ですか。そうですね、歯に衣着せぬ言い方をするならば──」
稚日女はひらりと河原に降り立った。
「大日孁おおひるめ。あなたが高天原の統治者として失格だからですよ」
「……」
稚日女はのぞき込むようにして朝顔の顔を見上げた。少しあどけなさを残しているが、朝顔によく似た容貌であった。
「あなたは常々、中国なかつくにの蒼生あおひとぐさに対して軟弱な姿勢を見せていた。加えて、統治者としても姉神としても、スサノヲの駕御に失敗した。──あなたがスサノヲの異質さに気づいていないはずはないでしょう。あの者の性質は我々天津神側ではなく、国津神側のものであった。それに気づいた時点で──例えば武装してあなたを訪ねた際、誓約うけひなどせずに──速やかにあの者を地上に追放するべきだったのです」
「……」
「しかしあなたはスサノヲをかばい続けた。なんでしたか、その理由は」
「──私の弟だから、です」
「──甘い。甘すぎる。それが最高神の態度ですか?」
稚日女は顔をゆがませた。
「大日孁。邪あしき者には追放を、不服まつろわぬ者には鉄槌を下すべきなのです。あなたのやり方は甘すぎる。例えば──我々天津神は、地上の者どもが領うしはく土地を知らす立場です。土地を治めるためには、彼らにその土地が我々のものであると知らすだけでいい。それはなぜだかわかりますか?」
朝顔は答えを予想できていたが、答えずに稚日女をにらんだ。
「──地上の者どもは、我々に勝ち目などないからです。地上の神々などには少し手こずりましたが──少なくとも、蒼生どもを支配するのに労力を割く必要はありません。彼らには我々の祟りを適用するだけでよい。──大日孁、あなたは蒼生に祟ることに対し、常に否定的な立場をとっていましたね?」
「──ええ。だって──この国は、ゆくゆくは人の国になるべきですもの」
「人の国──」
稚日女は失笑した。
「──やはり、あなたを地上に追放したのは正解だったようですね。この国は天津神が領しらすべき国です。蒼生は我々を畏れ、我々の託宣に従い、我々を伏し拝み続けていればよい」
「稚日女──」
朝顔は高天原で見かけた稚日女を思い出していた。朝顔が言うことにも素直に従う、物静かな印象の神であった。
「──私が知るあなたは──そのような極端な意見を吹聴するような神ではありませんでした。──あなたを唆したのは誰ですか?」
「唆されたわけではありません。私はただ、あの方の言うことに納得しただけです。名は伏せておきますが──あなたの知らない、あなたよりも尊い神であることは間違いありません」
「その神が、この一連の事件を計画したということですか? 確かに──あなたが亡くなったと聞いた際、私はあなたの遺体を見たわけではなかった。そうして動顛した私を岩屋に入るように促し、私を封印した。そして──そのような思想を持ったあなたを、私の代わりに『天照大神』の座に据えた。そのような陰謀を企んだ者がいたのですか」
「──ええ、その通りです。そしてその陰謀の結果、この国は繁栄の一途をたどってきた。大日孁、あなたのような弱腰な最高神では為せなかった業です」
そう言って、稚日女は首をかしげて笑った。
「ですが──近年はいよいよ、蒼生の我々に対する畏怖が薄れていっているようです。特に大日孁、あなたはよくわかっているはずです。我々を観察し、分析し、収容すると豪語している、愚かしき人間集団を。そして、あなたはその集団に甘んじて隷属している」
「……」
「あなたは失格です、大日孁。あなたには──初めから最高神としての器はなかった。せいぜい日孁ひるめの字の示す通り、太陽に奉仕する巫女としての器しかなかった」
日が傾き、洞窟の陰が朝顔の身体を闇で覆った。
「──それでも」
朝顔は洞窟の陰から一歩踏み出した。
「私は、彼らの可能性に期待します。彼らは私、あるいは私よりもさらに巨大な力を持つ者に対しても、あきらめることなく挑み続けている。その際の横顔は──非常に美しいものです」
「蟷螂の斧です。彼らは我々にはかなわない。現に、そこでこそこそと見ている者たちも──」
稚日女は腰に佩いていた剣を抜いて振り返り、宙を切った。あたりに突風が吹き、数十メートル離れていたエージェントたちは全員彼方に吹き飛ばされ、岩壁に打ち付けられた。朝顔は微動だにせず、稚日女を見据えていた。
「──風に靡くだけの草莽にすぎません。──ああ、ちなみにこの剣はスサノヲが八岐大蛇やまたのおろちを討伐した際、スサノヲから献上されたものです。あなたが従わせられなかったスサノヲからね」
そう言って稚日女は笑い、剣を収めた。
「──それで、大日孁。あなたはどうするつもりですか? このまま私と高天原に帰りますか?」
「私は──」
稚日女をにらみつつ、朝顔は言った。
「──ここに残ります。稚日女、あなたの人間への向き合い方には賛同できない。私は神のための神ではなく、人のための神でありたい」
「──ふふ。まるで浮屠ふとみたいなことを言うんですね。いいでしょう、これで訣別です。せいぜい──蒼生の庇護下でぬくぬくと暮らしてください、大日孁貴」
そう言って稚日女は閃光に包まれ、消失した。
「──あなたの知らない、あなたよりも尊い神、ですか」
サイト-8173の会議室で、朝顔から報告された車道は手を組んで考え込んだ。
「はい。どうお考えになりますか?」
「候補は様々に思いつきます。天岩屋戸神話に関係する神格としては、一連の計画を考案した思金神おもいかねのかみ、儀式に用いる祭具を作った石凝姥命いしこりどめのみこと、玉祖命たまのおやのみことなど、あるいは儀式を実際に執り行った布刀玉命ふとだまのみことや天児屋命あめのこやねのみことなどが考えられますが──これらの神格が天照大神よりも上位に位置するかというと疑問符がつきます。またあなたよりも尊い神として考えられるのは、あなたの父神であるイザナキやあなたと同様に皇祖として崇められる別天神ことあまつかみである高皇産霊尊たかみむすびのみことなどが考えつきますが──この両神はあなたもご存じでしょう?」
「ええ。当時から高木神たかぎのかみと呼んで慕っていました」
車道は顎を撫でた。
「──となると、記紀の神話には登場しない、あるいはあまり注目されない神格である可能性がありますね。しかし、あなたの知らない神となると──」
「──車道さん。私、少し引っかかることがあります」
朝顔は右手を上げた。
「稚日女は、私のいた岩屋に禁厭を施していたと言っていました。中の時間を独立させて、私を永遠に閉じ込めるために」
「──なるほど。確かに、SCP-2050-JPの表面には何かしらの奇跡論紋様が施されていた痕跡がありましたね」
「はい。つまり、そのような祭祀や呪術に長けていた神であると考えます。私が岩屋に閉じ込められていた時、祭祀の内容に口を出すことができた神について、他に候補はありませんか?」
「──ひとつ思いつくのは興台産霊命こごとむすびのみことですね。『日本書紀』天岩戸段の一書あるふみの三にのみ名前が登場する、天児屋命の親とされる神格です。この項で興台産霊命は天照大神の復活の祭祀に際し、天児屋命たちに様々な指示を出しているようです。具体的な神話はこれしか残されていない、謎の多い神格ですが──ご存じですか?」
朝顔は首を振った。
「ふむ──何にせよ、神代のことなので不明な点が多く、さらなる調査が必要でしょう。しかし、やはり最も注目すべきは、あの天照大神をはじめとする日本国の神格が我々に対して攻撃的な点ですね。私もこれまで様々な神格に接触し、そのような態度の片鱗を感じてきましたが、やはり──という所感です。我々にとって再度周知すべき事柄でしょう」
「あの──」
朝顔はおずおずと言った。
「その『我々』という表現に、私は入っているのでしょうか」
「……」
数秒の沈黙の後、車道は笑った。
「もちろん! 財団はあなたを歓迎しますよ」
カフェテリアの一角。財団神域部門主任・栄 朝顔と神域部門所属のエージェント・八上は、ともに何をするでもなくコーヒーを喫し、駘蕩とした時間を過ごしていた。
「八上さんは──」
おもむろに朝顔が言った。
「──なんで、ここに来たんでしたっけ?」
「そうですねぇ──私の場合、特にそんな高い志はありませんよ。ただ、民草たちが与えてくれる変化とか、彼らが必死で働いている様子とかを楽しみたいだけです」
「──そうですか。八上さんの場合、ちゃんと外に出て神としてやってきたから、神らしい超然とした人間との付き合い方ができるのかもしれませんね。私の場合、そのような経験がほとんどありませんから──神としての振る舞い方がわかっていないのかもしれません」
「──思うに──」
八上は頬杖をついた。
「それが、主任の強みだと思いますよ。前も言いましたけど、『あの天津神を率いていた天照さんがこんなに丸い神だったなんて』って、初対面の時に衝撃を受けましたもん。まあ、後でその天照さんとは別人ってことがわかりましたが──少なくとも能力としては最高神のそれを持っていることに変わりはない。そんなあなたが、力に驕ったりこの国を壟断したりすることもなく、民草の立場を慮ってこうして過ごしている。正直、奇跡だと思います」
「……」
コーヒーをすすりながら、朝顔は稚日女の顔を思い出していた。
「──八上さん。私、目標ができました」
「え、なんですか?」
「これから、私は私が思い描く理想の天照大神に近づいていきます。人とともに生き、人のために働き、人の世をより良くしていくような神に。そしていつの日か、あの女神と私、どちらが天照大神として合格か──八上さん、判断してくれませんか?」
「これは責任重大だ。じゃあ──勝者にはもう一度、国を譲ってあげましょうか」
「結構です。あなたと少彦名すくなびこなさんたちが必死で作ったこの国を一方的に奪うなんてひどいこと、私にはできませんから」
「お、いいですね。今ので主任、大量得点ですよ」
八上はそう言って笑った。
今日も変わりなく、太陽は天下を照らしている。朝顔はいつものように遊歩道を急いでいた。
ふと立ち止まり、青空を見上げ、目を細めながら──朝顔はつぶやいた。
「あなたには負けない」
そう言って、朝顔は拳を天に突き上げた。
ページコンソール
批評ステータス
カテゴリ
SCP-JP本投稿の際にscpタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にgoi-formatタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にtaleタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
翻訳作品の下書きが該当します。
他のカテゴリタグのいずれにも当て嵌まらない下書きが該当します。
言語
EnglishРусский한국어中文FrançaisPolskiEspañolภาษาไทยDeutschItalianoУкраїнськаPortuguêsČesky繁體中文Việtその他日→外国語翻訳日本支部の記事を他言語版サイトに翻訳投稿する場合の下書きが該当します。
コンテンツマーカー
ジョーク本投稿の際にジョークタグを付与する下書きが該当します。
本投稿の際にアダルトタグを付与する下書きが該当します。
本投稿済みの下書きが該当します。
イベント参加予定の下書きが該当します。
フィーチャー
短編構文を除き数千字以下の短編・掌編の下書きが該当します。
短編にも長編にも満たない中編の下書きが該当します。
構文を除き数万字以上の長編の下書きが該当します。
特定の事前知識を求めない下書きが該当します。
SCPやGoIFなどのフォーマットが一定の記事種でフォーマットを崩している下書きが該当します。
シリーズ-JP所属
JPのカノンや連作に所属しているか、JPの特定記事の続編の下書きが該当します。
JPではないカノンや連作に所属しているか、JPではない特定記事の続編の下書きが該当します。
JPのGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
JPではないGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
ジャンル
アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史任意
任意A任意B任意C- portal:7550279 (31 Jul 2021 15:32)
コメント投稿フォームへ
批評コメントTopへ