酔い醒め、夢を見る(仮題)

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その響きは、私を象る様に

「秋音ーっ?おーい、秋音ぇーーっ」
夕暮れ時の微酔い横丁にひとりの男の声が響いていた。
芯と重みのある逞しいものであるが、今に限りどこか震えて聞こえる。
声の主の名は樋口 達夫。この街で中華料理店を営んでいる男だ。
彼の重量感満点の体、その厚い胸板は激しく上下していた。体力自慢の達夫が、さらにいえば大粒の汗をかくほどに動き回っている。これはこの街であれば、誰にでもただごとでないのは明白だった。
「どうしたんだい、樋口さん」
八百屋の吉松が、10年来の付き合いでさえ初めて見る様子の友人に話しかけた。
「いねぇんだよ、秋音のやつが」
「あぁ、あの……」
吉松はふとした違和感に首を傾げた。
「……?…………あぁ、最近引き取った……んだっけ?」
「……そうだよ。部屋にも居間にもいやがらねぇのさ」
一拍おいて、達夫は再び義娘の名を呼ぶ。どうやら近くにはいそうにないと判断したのだろう。達夫はちくしょう、と頭を叩く。
「晩飯までにゃどうにかしねえと」
多少の疑問はあれど、それについては吉松も同意見だった。微酔い横丁の土地柄、失せたということはあまり歓迎できない。
「でも、まだちいっちゃい子なんだろ?ならそう遠くにゃいかんと思う。おれも一応周りに声かけとっから、行きな。」
友人に背を押された達夫は、力強く頷き
「またな」と言って走り出した。
手を振り、吉松は思案する。
「───どんな子だったっけか、何でか思い出せねえ」
自分を少しばかり情けなく思う。ここに来てからというもの、達夫にはかなり助けられてきた。
彼が助けを求める事があれば何だって応えてやろうと思っていた。しかしどうも、今回は叶わなそうだった。
だとしても有力な情報がない分、できることなら追いかけて手伝ってやりた

「……あれ?」
ふと、吉松は自分が道の真ん中にひとり棒立ちでいることに気がついた。
「……なにしてたんだっけ、おれ」
思い出せない。数秒前に達夫が通ったから呼びかけて話していたことまでは思い出せる、のだが。
「なぁにを話したっけか?」
腕を組み考えていたところ、店の奥から妻の声が聞こえた。適当に返事をすると、数秒もせぬうちに「ぼうっとしてないで手伝え」という怒号が響く。
いけない、いけない。吉松は急いで店じまいの準備を再開した。

樋口 秋音はひとり、町外れの野原の上に寝転がっていた。ここからは夕焼けがよく見える。

彼女の好きな景色で、生まれ故郷にはなかったモノである。じわり、じわりと赤く滲みだした空。

「さよなら」と手を振るように照らす太陽に「またね」と答え輝く天が紅の群れ。
切なさと、あたたかさ。この1時間にも満たない時間のみに存在する情緒が、彼女の小さな命を動かしているようだった。

だから毎日、欠かすことなくここに来ている。明日も生きていたいと思うから。

「───やっぱり、ここにいたか」

聞きなれた声に振り向く。長い頭となめらかで細い体、近隣の人間がひょうさん、と呼んでいる老人だった。
彼はゆったりとした動作で秋音の横に座り、訊ねる。

「どうだ?ここには馴染めそうか?」

何も応えず、秋音はふい、と夕景色に向き直る。けれどもその態度で答えは明らかだった。ひょうは一瞬顔をしかめたがすぐに柔らかな表情を取り戻した。

「まぁまだ来てひと月とちょっとだかんな、無理もない……あとが怖いがね」

付け足された一言に思うところあったのか、秋音は頬を膨らます。

「ひょうさん、いじわるだ」

「秋音が無視したからさ」

「……はぁい」

秋音は特異な体質をしている。それは、忘れられ易い、というものだ。
目を見て何時間話しても、1日2日会わないだけで顔も声も思い出せなくなる。あまり関わりのない人であればその日のうちに忘れてしまう事もある。繰り返しで定着しやすくなるが、あくまでも進行を収める程度。
体こそ普通の人間と同じ構造だが、そこらの妖怪より奇妙で難しい体質だった。
非確定実存、なんて呼ばれ方もするそれは、未だに『会い続けること』以外の解決策を持たない。
そして彼女を知る者がいなくなったその時、樋口 秋音という存在はこの世から完璧に消え去ってしまう。違和感のひとつもなしに。

「…………今日は、はすむかいの……えぇと、右山さんとお話ししたよ。その隣の……えーと、橋下さんには、おはようとこんにちはって」

名前をまた聞かれたことは、あえて口にしなかった。しかしひょうにはお見通しだったらしい。わざとらしくニヤつく老人を秋音は見なかったことにした。

「……頑張ったじゃねぇの」

頭を撫でられて少し得意げに微笑む。気づかなければもっと心地良かっただろうに、と本心が秋音の人格を刺す。魚の小骨がつかえたような不快感が胸に広がった。
ひょうは少女の機微に感づき、励ましの言葉を続けた。

「じゃあ明日はあと三人多く話そうか」

「うん……うん、そうする。頑張る」

他者への宣言というよりは自分への命令のように小声で繰り返す少女。年不相応に大人びてしまった理性の、わずかな幼さが垣間見えた。しかし、可愛らしいといえば嘘だろう。
そこからしばらく沈黙が続いた。やがて太陽がてっぺん以外見えなくなって来た頃に、最近になって聞き馴染みだした声が聞こえた。秋音の名前を呼んでいる。達夫だった。

「タツさん!」

秋音は一瞬前とは対照的に満面の笑みを浮かべて駆け出した。自分を忘れず、探してくれる人がいるということが何より嬉しかったのである。達夫はそんな彼女を受け止め、同時にこちらを見つめる人物に気がついた。

「あぁ、ひょうさん。どうも秋音がすいません」

自分の腹に抱きつく秋音を撫でつつ、達夫は軽く頭を下げる。

ひょうは「たいしたことねぇよ」、と前置き
「懐いてるようで、よかった」
とカラカラ笑い、言葉を続ける。

「あれから変わりは?」

「それなんですが、一向に増えなくて」

先述の通り、秋音は不安定な存在だ。他者の認識なくしてこの世に存在していられない。しかし現在、彼女を認識している人間は両手に収まるほどしかいない。そしてその人数は、こちらにきてから増えていない。
……存在強度は体重に現れる。保護当初の彼女は体重28.4g。つい先日の検査でも、結果は同じだった。

「どうにか、してやりたいんですがね……」

悔しげに俯く達夫を、不安そうに見上げる秋音。暗くなり出した空が重苦しい空気を一層悲劇的に演出していた。
だがそんな淀んだ青紫の空の下、ひょうのみは何でもないという表情をしていた。
ぱちん、という軽快な手を打つ音が重い静寂を裂く。

「いい案を思いついてな、色々手ェ回してたんだよ」

ひょうは懐にしまっていた封筒を取り出し、達夫に差し出した。

「そいでやっと今日、返事がきてよ。」

膝を折り、秋音と目線を揃えてひょうは微笑む。

「秋音、学校行きたいか?」

少女の目が、星の瞬くように爛と光る。
言葉の響き胸踊らせ、秋音は「うん!」と飛び跳ねて答えた。

……学校。聞いたことはあった。知ってはいた。ただ諦めていた。
あの熟柿臭い暗い街、粗暴で酒に溺れる父と無責任にも消えた母親。
まだ4、5歳だった私を絶望させるには充分過ぎた。だから逃げた。
逃げ出せるかは知らなかったけど。とにかく逃げた。
振り返ってみれば、蛙の子は蛙だった。その向かう先が違っただけで。
                                 (樋口秋音の回顧録より)

「区役所じゃないのさ」

秋音はがっくり肩を落とした。

「『他の子らに見えるかも怪しいから』だって」

区役所職員、天狗の林は縮こまった彼女をみて申し訳なさそうに笑った。
彼が秋音についてのことを聞いたのはつい3日前だった。
いつも通り勝手に区長室に入り込んで勝手にくつろいでいたひょうを注意しようとした時、とつぜん
「そういえば3日後からタツんとこのガキがここで世話になる、頼むぜ」
とだけ言われ、ぬらりくらり立ち去られた、という感じだ。
で帰ってきた区長に仔細を尋ねたところ「言い忘れていた」という。

「やっぱりひょうさん、いじわるだ」

期待と異なる現実に膨れる秋音。どうしようもないことはわかっていても抑えが効かなかった。林は全く異なる理由ではあるが…深く頷く。そうだ、社会はいじわるだ。
───沈黙。
若い天狗は表情を曇らせた少女をそのままにできる心を持っていなかった。

「……先生は合わせて3人いるよ!」
絞り出したようなハイトーンが廊下に響く。
幼い少女とはいえ、年上のこんな醜態を見て通す我などなかった。目で続きを促す。
最初のひとりは秋音も知っている人だった。(相手が知っているかはともかく)
達夫がよく本を借りている、というか貸し付けられている光景をここにきてからのおよそ1ヶ月、飽きるほど見ている。見るに、犬っぽい人だったが正しい名前は知らない。

「快く引き受けてくれたって、子供に読み聞かせるのが夢だったとか」

本について語っていた犬男(仮称)の眼を思い出し、身震いした。
林は気づいていないのか、変わらぬテンションで続ける。

「あとのふたりは外から呼んだんだって」

ひとりはミエケンという場所の料理店で働いている人らしい。担当するのは家庭科と体育で歳は17。
親しみやすいようにと言っていたが、普通の17歳はこんな何もない時期に住み込みで教師になどならないだろう。
そんな林の憂慮とは裏腹に、秋音はちょうどいいなと思った。料理ができる様になれば達夫の厨房の手伝いができるだろうし、体力がつけば心配事も減るだろうと考えたからだ。それに多少なりとも歳が近い方が接しやすい……気がするからだ。
「そいで、3人目は……」

林が言い出す直前に、ふたりは目的地に到達した。部屋の札には上から『とくべつきょうしつ』と書かれた紙が貼り付けられている。室内からはかすかに音が聞こえた。秋音は扉に駆け寄って、わずかに開き覗く。
しかし正体は掴めなかった。もう少しだけ様子を見ようと秋音が考えた時、林が優しく肩を叩いた。

(いっておいで)

言葉とともに柔らかい風が周囲を包む。なでる様な、くすぐる様なそれだったが、彼女を動かすには足りていた。
敷居をそっと超えて、室内を見渡す。机と椅子、教壇がひとつずつ。奥には秋音の背の倍はある本棚、そして陽光を浴び仄かに光るもの。音の主は、それだった。

「ピアノ」

少女がつぶやくなり、ひとりでに鳴っていた音はやんだ。不思議に思い、ぐるぐる見回してみるも、周囲に演奏者らしき存在は確認できなかった。
しゃがみこんでピアノの下を探すと今度は背後から、かつかつという音が聞こえた。
古めかしい黒板に、文字が書かれていく。

『はじめまして』

少女は丸くした目で宙に浮かぶチョークを捉えた。
浮遊するそれは先の挨拶と同じ字で文章を綴っていく。

『ふしみ、といいます』
『生まれつき、人に見つけてもらいづらい体です』

その文に秋音はにこりと笑う。

「そっくりだね。わたしと」

返事はなかった。代わりに秋音の頬を何かがかすめていく。その数秒後、再びピアノが鳴り始めた。
至極当然ではあるが、つい最近こちらに来たばかりの少女には聴いたことのない曲だった。
しかしどうだろう。今にも足の指先から踊り出しそうになるくらい、全身によくなじむリズム。鼓膜を揺らしていた全ての音が溶け合って、ひとつの世界を構築しだす。そんな温度をもつ引力に手を取られ、少女は鍵盤に食いついた。
相変わらず奏者の姿は見えないままだが、確かにここにいるのだと調子よく浮き沈みするキーが教えてくれた。
上下に合わせて飛び跳ねる力強い音符の波を全身で浴びた少女は、初めて自分のかたちを自覚した。床に溜まった冷気で足先が冷たい。どくどくと巡る血潮で耳たぶが熱い。怖くはないのに肩は震え、漏れる声は揺れていた。
湧き上がり止まない好奇心と間違いのない生の実感。秋音は猫の様に丸い目を更に丸く、水晶の如くきらりと、輝かせていた。
一対の宝石は波の源を追いかける。右、右、左、次は右……。
見えない指捌きは洗練されており、片手の動き追いかけるのも、素人にすれば一苦労なほどだった。
多彩かつ複雑な動きから成される華麗なダンス。それは秋音の心を掴んで決して離さなかった。
演奏の後、少女はあまりの悲しみと悔しさに泣いた。

たった今の、胸に残留する感覚を表す言葉を知らなかったからだ。

『喜んで』いるのか『面白い』のか『怖い』のか。豊かな感性を持ちながら、出力する術を持っていない。
今の今まで表面に出ていたそれを自分ですら忘れてしまうのか、と。初めて形を感じたが故に。
見えない人は、何も言わない。言えない。だから少女の手を取って鍵盤へ乗せた。
ぽろん
雫がしたたり、心は凪いだ。
ただの一音だというのに。細指から奏でられた、か細い響きだというのに。
そこには確かにあった。彼女の抱えていたすべてが。
再び秋音の両目から大粒の涙がポロポロと流れる。今度は悲しくてでも、悔しくてでもない。
ぐちゃぐちゃに濡れ、歪みきった顔。そこに浮かぶ表情がなによりもの証拠だった。

……のち『死ぬまで忘れない』と語る日、その日の夕焼けを、樋口秋音は知らない。

彼女の心にもたらされたものの大きさは、この一言で万々に伝わるだろう。

区役所の空き部屋。そこにはひとつだけピアノが置いてある。
持ち込んだ者の記憶が正しいのなら作られたのは大正時代だという。
しかし鎮座するそれは新造されたものに勝るとも劣らずの美しさを有していた。
この地を知るものから見れば妖しい場所の、妖しいシロモノのひとつかもしれない。
しかしタネはいたって単純で、なにひとつおかしくはない。使う者がいて、使うために手入れをしている。それだけのことだ。

時計は朝の8時32分を指していた。
こつこつこつと、茜色に染まる廊下にヒールの音が反響する。
170センチはあろう女性が、ピアノの部屋に向かっていた。
黒のスラックスに、袖口にフリルをあしらった長いランタンスリーブ。ジャボも相まって、その出で立ちはどこか中世の音楽家をイメージさせた。

女性は部屋に入り窓を開けた。吹き込んだ春風にウルフカットの髪が揺れる。
肺いっぱいに新鮮な空気を取り込んで、樋口秋音はピアノと向き合った。
「今日は何を弾こうかな」
数秒も考えずに彼女は鍵盤に指を走らせる。鳴り響いた音はいずれも深みを感じるものだった。しかし衰えや古びた印象はない。10秒ほど、適当な指慣らしをし、自分もピアノも調子に問題がないとわかった。早速演奏に取り掛かる。
───じつのところ、「何を弾こうか」などとつぶやきはしたが、今日最初に弾くものだけはとっくに決まっていた。

11年前に聴いた、彼女のはじまりの曲。
敬愛する作曲家、伏見 廉次郎の最高傑作だ。激動の時代を生き抜いた彼が残した世界への讃歌。
題を『千秋』。
舞い上がる様な旋律の中にある、どこか切ない響き。それらを総じて美と昇華させる。負の側面を認めつつ、光へと進まんとした彼の得意としたものだ。いつ聴いても、弾いても、止むことのない胸の高鳴り。心に滲む、霧のような悲壮感。幾年か経った今日でさえ、消えることのない感情たちである。
だからこそ、今この時より不要、無用。裡側でとぐろを巻き出した黒々の雑念を深呼吸で吹き飛ばす。
必要なのは冷めきったアタマと血の通った指のみ。全てはそのふたつのみからはじき出される。
朝日で淡い青みをまとった視界のなか、ゆっくりと手紙を綴る様に丁寧に音を紡ぎだす。

拝啓、私の先生へ 
お元気でしょうか?空知らぬ雪の舞う惜春の候、こちらはみんな元気にやっています。

序盤はそよ風。やさしく、ゆっくり、滑らかに。
次はスキップだ。ふわりと浮かんで行く。そして次第に跳ねを抑え、静かに。そして畳み掛ける。強く、駆け出す。

花は盛りを、月は隈無きをなんとかと言った人もいたみたいですが
私は盛りの方がいいと思います。みんな楽しそうだし、綺麗だし。

勢い付きだした旋律は風に乗り、窓の外へと羽ばたく。
どうか、そのまま地の果て、海の果て、天の果てまで、と祈るようにスタッカートを刻む。
滑空しだした音が波になり、幾重にも重なって大きな塊になる。
教室中が張り詰めた音に満たされた直後、キンとした音の針がプスリと穴を開けた。小さな穴から小さく、愉快な音が流れてゆく。

先日、八百屋の吉松さんにふきの煮物をもらいました。これがびっくりするくらい美味しいんです。

静かに流れ、溜まった音符は時折ししおどしのようにカラとした音を奏でた。
幾度かかちあげられたそれは勢いに乗ってはずみ、遠くへ遠くへ転がってゆく。

旬って本当なんだなぁ、と。何度も教わっていたのにすみません。

大層な気概で挑んだというのに結局いつもの調子な自分に気が緩み、秋音はクスリと笑みをこぼす。
ほぐれた気持ちは、緩い下り坂を迎えた演奏に豊かなゆらぎをもたらした。

素早く口から息を吸う。笑みは消え、臨戦態勢といったところか。
弛緩した空気を張り裂くように一気に加速する。しかし先ほどとは違う。上り坂に逆らうための力ではない。
急勾配の坂を全速力で転落するようだった。

……こういう巡ったり、変わりゆくものを見ると『私は生きているんだ』と実感します。

音符が詰まり張り裂けそうな部屋の中で記憶のページが風に吹かれる。脈より早く再生される、濃厚でありながらも閃光のように過ぎ去った日々。そこにひとつとして同じ景色はない。そして無価値なものはどこにもない。

そういえば、夢ができました。

最高潮を迎え、塊は破裂した。静まり返る小世界。
消えかかる波を何とか絞り出したような音で繋いでいく。
まさに風前の灯。そんな時に、どうか止まないで。という五線譜に潜む誰かの声に応え、曲は命を取り戻し始める。
昇る朝日に包まれて、一歩一歩を噛み締めるように進む。
常に一瞬前より深く注意しながら弾いていく。ここが最後の難所にして、印象を決定づける。
絶対に外せない。外してはいけない。
蘇り、走り出した旋律。「この体が朽ち果てるまで走ろう」と叫ぶ。

音楽を始めて、みんなに聴いてもらえて すくわれて、

最後の一音、否、余韻まで。全身全霊で思いを乗せる。

先生の様な先生になると決めました。

一切の妥協をせず、走り抜けた。なによりも情熱的に生き抜いたのだ。

この演奏で、感謝と私なりの覚悟を伝えさせていただきます。
ありがとうございました。どうか、見ていてください。

幕引きめがけ1本1本、指を下ろしていく。

あなたの教え子より、愛を込めて。

大気と溶け合う様に、7分間の舞踏は幕を閉じた。

額に滲む汗をぬぐい、背後の窓から外を見る。
区役所すぐそばの桜の下では子供達が花びらを拾い集めている。聞くに、花びらで絵を描くのだそうだ。
同じ歳のころ、自分は何をしていたかと振り返る。確か、彼らがだいたい5歳くらいだった。ならば秋音はまだ故郷にいたころだ。
「あっという間だなぁ」
誰にいうでもなく、つぶやく。失望して、死にそうになって、助けられて…………おおよそ18年の人生で経験する内容では無いだろうというものもあったが、生きているという事実だけで帳消しにできた。
きっとこの先もそうなのだろう。貧しく思えもするが、それほどまでに彼女は移ろうことを幸福に思っていた。
「さて!」
パチリと手を叩き次の曲に取り掛かろうとした。
その瞬間、廊下から林の声がした。
「秋音ちゃーん」
「はいはーい」
扉からひょっこり顔をだし、目一杯手を伸ばし、振る。
そんな秋音のうれしそうな様をみて、林は安堵の表情を浮かべた。
「区長さんが呼んでたよ、頼みたいことがあるんだってさ」
珍しいな、と思いつつも問い返すことはせずに笑顔で
「了解でーす」
と答え、区長室へ向かった。
その背中を見送ったのち、林はかつての『とくべつきょうしつ』へ足を踏み入れた。
内装はあの頃から何一つとして変わっていない。

林は窓を閉めながら、誰もいない部屋に語りかける。
「あの子も大きくなりました。物理的にも、精神的にも」
消滅の危険性すらあったあのか弱い少女は、いつしか周りに頼られるたくましい人間になっていた。
「あのふたりも相当すごかったですけど……やっぱり伏見先生が一番大きいと思います。あの日から目の色が変わってたっていうか……いや、あの日会ったばっかでしたけどね。自分は。」
目を閉じて、この教室で過ごしていた日々を思い出す。突然アシスタントを押し付けられ驚いたものだった。

先生方が仕事に集中できる程度でいい、と区長は軽く言っていたが、心配なのはそこではない。

住人はともかく、うち2人は会ったこともない、しかも外の人間。追われる形でここに至ったのがこの保護区なのだ。そう不安を訴えた林に対して
「アテにしたくない縁じゃあったが、心配いらねぇ」
と、ひょうは話を終えた。実際この言葉は(要領を得ない部分こそあれ)正しかった。超常組織に属す人間もいたが、それはそれとできる人だったし何より全員がただ教えることに熱心だった。
しかし志の一致とは対照的に『先生』らのやり方はどれもバラバラで比喩でなく保護区中を飛び回ることになってしまった。慌ただしく、なんとも充実した日々であったか。
林のみの感情ではない。それは他心通で明らかだった。

だからこそ、あの別れのみが惜しい。林は赤い肌を更に紅潮させ、拳を強く握った。
声の震えを抑えつつ、つぶやく。
「あまり……望ましい形じゃなかったかもしれませんが」
震える声で、奏者のいないピアノに語りかける。
「秋音ちゃんは、げんきです。ちょっと体質は厄介になっちゃったけど……でも…………」

ぽろん

林は顔を上げ、室内を見渡す。自分の他に誰もいない部屋を。

「そう、ですね」

事実、音など鳴っていない。ただ彼が思い出しただけだった。彼女が関わったことで薄れていた、記憶の一端。
それでも林は嬉しかった。まるで彼が、『大丈夫だ』と『見守っている』と言ってくれた様だったから。

えぇええ!?

区役所内に女性の声が響き渡る。秋音のものだった。
「行った方が、よさそうだな」
林は急いで部屋を出ていった。

音楽には力があります。

言葉をこえて、思想をこえて、誰の心にでも届いてしまうほどの強い力。

生まれ持った体質も、背負った運命も、全部吹きとばせてしまう。

錆びた世界に魂を、枯れたものに命を吹き込むことすらできる。それが音楽です。

これらは信仰ではありません、確信です。

すぐにわかることではありませんが 生きていれば必ず巡り会う。

ですから目を開いて、顔を上げて、生きて、見ましょう。

素晴らしいものが待っていますよ。ほんとうです。

                       (とある少女の板書ノートより)

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