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樋といが水を流す音。滴しずくが地面に落ちる音。松の葉が雨を受け止め、その重さにしなっている。きょうは、天気が悪い。
「なんかさあ。『天気が悪い』っていう言い方、嫌じゃない?」
豪壮な屋敷の庭──松の木が植えられた風雅な庭で、黒い傘を差しながら3人の人物が歩いている。怪訝な声を発したのは、黒いスーツを身にまとい、首から緑のネクタイを下げている男だ。
「特に嫌だと思ったことはありませんが……」
もう一人の男がそれに答える。彼はグレーのスーツとソフト帽、黄色のネクタイを着用し、前を歩く緑のネクタイの男を円形の眼鏡越しに見据えていた。
「どのようなところが嫌なのですか?」
「ええとね……『天気が悪い』って言うときの『天気』ってさ、要は『雨』のことじゃん? でも『恵みの雨』っていう言葉があるくらいだから、雨自体はそこまで悪いものじゃないはずでしょ? それなのに『悪い』って言うのは、なんかしっくりこないなあ……」
緑のネクタイの男は、眼鏡の男のほうを向く。
「と、思ったわけ」
にやりと笑っている顔が、再び前方を向く。
「いや、ごめんね? 変な話をしちゃって。急にぱっと思い浮かんだからさ」
「いえ、興味深いお話でしたよ」
「パパってさ、いつもそんな感じだよね」
2人の男の前を歩いている少女が、出し抜けに声を発した。少女は中学校の1から2年生くらいの年齢らしく、恐らくは制服としてドレスシャツとスカートを着ている。傘の防御をすり抜けた雨粒が、シャツの袖を濡らしていた。
「『そんな感じ』って……つまりどういうこと?」
緑のネクタイの男が質問する。少女は後ろに視線を向けた。
「だってパパの話、いつも唐突に始まって唐突に終わるじゃん。聞き手を振り落とす気満々じゃん」
「満々じゃないよ〜! しっかり聞いてもらおうとしているよ?」
「樋口ひぐちさん。パパの話は真面目に聞かなくていいよ。聞くのは2割くらいでいいから」
「『2割』は酷くない? それはさすがに酷いと思うよ。彩音あやね」
「松山まつやま様の小話を聞くことは、私の重要な仕事の一つですので……」
「ちょっと〜! どういう意味だよ〜!?」
「彩音」はくすくすと笑い、前方に向き直った。
「ずっと家の中にいてつまらないなあって思ってたけど、樋口さんが来てくれたから楽しい」
「え、私は? 私が来て楽しい?」
「パパは……」
沈黙が流れる。
「えぇ〜!? 何!? なんか言ってよ!」
彩音はまたくすくすと笑い、軽やかな足取りで雨の中を進む。一方「松山」と「樋口」は、ゆっくりと歩きながらその後ろ姿を見つめていた。
「このような天気で外に出すのは気が咎めましたが……良い気分転換になったようで安心しました」
「うん。樋口がいてくれてよかったよ。彩音の緊張もほぐれたみたいだ」
「提案をしたのは松山様ではありませんか」
「伝えたのは樋口でしょ」
「……それにしても、彩音様は本当に強い方ですね。住居が頻繁に変わり、孤独の中であっても、明るく気丈に振る舞っていらっしゃる」
「うん……彩音は本当に強い。肉体的な意味だけじゃなく、精神的にもね」
松山の脳裏には、様々な情景が浮かんでいた。それは一人の男と一人の少女のあいだに横たわる、忌まわしい過去の記憶だった。
血液と肉片に飾られた破壊と殺戮の痕跡。虚ろな目で世界を見る少女。凄惨な事件を淡々と説明する報告書。記憶処理薬の分類一覧。机上の書類に落ちる涙──
「パパ?」
彩音の声を聞き、松山は足元に落としていた視線を上げる。
「どうしたの? なんか……歩くの遅くない?」
「……遅くないよ。彩音が早いんだよ」
「疲れてる?」
「何? 心配してくれてんの?」
「心配っていうか……浮かない顔してるから」
苦しみを表すように、松山の眉間にはしわが刻まれていた。それを隠すように、松山は傘を傾ける。
「なんでもないよ。それよりさ、家は大丈夫?」
「家? なんで?」
「一応ここは学校からそんなに遠くないし、送迎も部下にやらせるけど、もう少し近くがいいとか、もっと人のいる場所がいいとか思っているかなって……なんだったら、護衛を増やす? 一時的に秘書を替えて、樋口をここに置いてもいいよ。呼ぼうと思えば、ムカエルくんとかも呼べるし……」
「パパ」
彩音は足を止め、松山を見据える。それに合わせ、松山と樋口も立ち止まる。
「心配しないで。私はこの場所で満足してる」
傘の下で、彩音は静かに微笑んだ。松山もそれに応えるように微笑む。
「そうか」
松山は傘を持ち直した。その表情は穏やかだ。
「それなら……いいんだ」
静寂が空間を埋め、暗い記憶は息を潜める。傘を打つ雨を横目に、樋口は時計を確認した。
「予報ではこれから雨がさらに強まるようですし、そろそろ部屋に戻りましょう。よろしいですか? 彩音様。松山様」
「うん」
彩音の返事と松山の返事は同時だった。
「うわ〜……パパとハモっちゃった」
「え!? それすらも嫌なの!?」
彩音はまたくすくすと笑う。松山は困ったような表情で、樋口は微笑の浮かんだ顔でそれを見る。3人は屋敷の玄関に向かって歩き出した。
◆ ◆ ◆
「それで、今後の予定はどうしますか?」
とある近代建築の部屋──応接間らしき場所で、2人の人物がソファーに座って話していた。センターテーブルの上に置かれたカップの中では、紅茶が天井の照明を映している。
「そうだなあ……そろそろ紅茶もなくなるし、一緒にコーヒーでも飲みに行くか」
「そういう話をしているのではなく。私たちの計画を成就させるために、差し当たりどんな行動を取ればよいか……ということを言っているんです」
「……何度も言われている通り、『松山彩音』の確保はまだ無理だ。財団との正面衝突を避ける以上、財団の管理している教育機関に突っ込んだり、護衛を皆殺しにしたりするわけにはいかねえ。理想は松山彩音の住居を正確に把握することだが、追跡は失敗続きだ」
「財団の軍事力と技術力はいまだ健在ですからね。どうしたものか……」
「近頃は啓明結社のエージェントも活発に動いている。『フィーンド』や『アウトシンク』、その他数名。こいつらは『エイト』の息が掛かっている。財団と連合の共同戦線が敷かれる日も近いってことだろう」
「評議会メンバーの個人スタッフも何気に不安材料ですよねえ」
「『ムカエル』や『樋口文彦ふみひこ』か……あいつらも中々不気味だよなあ。まあ、とりあえずは様子見しかねえだろ」
「様子見……ですか」
「しかしなあ……『松山』が評議会のメンバーを張っていることが、俺は不思議で仕方がねえんだ。なんでこんなふざけた男が、財団の最高権力機関に加わることができたんだ?」
「私は以前会ったことがありますが、確かに愉快な方ではありましたね」
「そうか。お前は会ったことがあるのか。その時に殺しときゃよかったのになあ」
「無理ですよ。状況が状況です」
「一度だけとはいえ、一緒に茶を飲んだことがある人間を殺さなけりゃいけなくなって、罪悪感はねえのか?」
「ありません」
「つめてえなあ」
「私は計画の成就に向けて歩みを進めているだけですよ。ただし、今は『待ち』の時期です」
細く白い指をした手がカップを持つ。
「焦ることなく、共に力を蓄えましょう」
「ああ……そうだな」
もう一人の人物もカップを手に取った。
「頼りにしているぜ。創研の天使さん」
「変な言い方はやめてください」
カップが掲げられる。
「それでは……私たちの悲願に」
「乾杯」と言って、2人は紅茶を飲み干した。カップがソーサーに置かれ、かちゃりと音を立てた。
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- portal:7255862 (07 Feb 2021 13:42)




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