1919年
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員令により、Vヴェー・Sエス・ヤロシェヴィチ同志を議長とする26名で異常遺物委員会カミーシヤ・ポ・アナマーリヌィム・アルティファークタム (KpAA) が設立された。同委員会の目的は以下の通りである。
- 皇族およびロシアのブルジョワジーの人々が保有するコレクションの捜索および収集。
- 帝国非常官房の管理文書アルヒーフおよび物品保管庫の研究。
- 異常オブイェクトや超常能力を持つ市民の独自捜索。
1922年
8月17日、ソビエト社会主義共和国連邦人民委員会Vヴェー・Iイー・レーニン議議長の令により «プログレス» 研究所インスティテュートがOオー・Sエス・アナニエフ同志を指導者とする118名で創立された。この組織は異常オブイェクトや異常事象の研究、それらの生産、および科学としての応用を目指す改良を目的として設立された。当初は、様々な民生用途における広範な実用化が企図されていた。
1934年
全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)中央委員会書記長Iイー・Vヴェー・スターリンが研究所をソ連内部人民委員部 (NKVD) の管轄とした。
1935年
Oオー・Sエス・アナニエフが条項第███号に基づき、国家保安少佐Aアー・Vヴェー・クルグロフにより逮捕された。クルグロフが新たなる指導者の座に就いた。組織名も «研究所インスティテュート» という淡白なものにされ、その活動目的も根本的に改定された。科学者と士官が新たに募集された。かつて理想主義を胸に入所した所員の大半は重要度が低い部署へと異動され、危険性の低いアノマリーの取り扱いに従事させられた。ラボ、研究コンプレクス、バンカーといった施設の間に秘密裡のネットワークが形成された。研究の重点は異常技術の軍事利用および地政学的優位性の確立へとシフトした。
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3等国家保安委員コミッサールAアー・Vヴェー・クルグロフ
1941年、進攻するドイツ国防軍を前に
研究所の一連のオブイェクト群を
放棄したかどで銃殺刑に処された |
1937年
消費可能な人員や下級研究員に政治犯が使用されるようになった。研究所は統制を失っており、大半の研究施設はそれぞれ他の施設から切り離された状態で運用されていった。所員の中には粛清に遭う者もあった。
1941〜1945年
大祖国戦争中、疎開できていなかった異常オブイェクト█件が一挙にナチス・ドイツの手に落ちた。略奪された戦利品はアーネンエルベに渡った。刑事過失が認められたことから3等国家保安委員コミッサールAアー・Vヴェー・クルグロフは最高刑を言い渡され、その後任は3等国家保安委員コミッサールPペー・Sエス・サヴェンコフとなった。研究所の研究成果はこの戦争においてソ連を勝利へと歩ませしめた。
1945年
ファシスト・ドイツの崩壊。研究所は戦利品として、武装親衛隊やアーネンエルベが抱えていた複数の異常オブイェクトおよび資料を獲得した。またこれらのドイツ組織に所属していた人員██名がソ連へ連行され、研究所に配属された。
1947年
研究所の所員が████名に達した。研究施設や補助施設は██件となった。また、米ソ関係の緊張化が科学研究を促した。
1956年
ソビエト連邦共産党中央委員会第一書記ニキータ・フルシチョフはKGB上層部に対し遺憾の書状を送り、「拷問室および地下室における非人道的行為を伴う実験の停止」を要求し、国民経済の向上に関する研究や宇宙探査に関する研究に心血が注がれた。改革の中で研究所もかつての名を取り戻し、これ以降は「«プログレス» 総研エヌ・イー・イー」と呼ばれるようになった。首脳陣の新方針により、危険なアノマリーのうち応用科学的重要性を有さないものは破壊が命じられた。弾圧を受けていた所員も名誉回復し研究所に戻ってきた。研究所は引き続きKGBの下に置かれた (それにあたってKGB・第3特別セクタースピツィアーリヌィ・セクツィヤ (SS-3と略称) が設立された) ものの、研究員Gゲー・Vヴェー・コヴァレフを非軍人出身の指導者として迎えることができた。そして «プログレス» 総研は議長・フルシチョフより特命を受けた。「この地球に共産主義を打ち建てる者のために、道を拓き案内する者たるべし」と。
1964年
«プログレス» 総研は█箇所の総合研究所と、██点の研究施設、および████の所員を結ぶネットワークとなっていた。総研の大部分の施設は閉鎖都市 «バルナウル-12» にあり、残りはソ連全域に点在していた。この間始まったプロイェクトとしては«輝ける世界スヴィエトルィ・ミール»、«地球・金星ズィムリャ-ヴィニェラ»、«可変的現実拡張ヴェー・エル・エル»、«理性ラズーム-64» などがある。KGBや国防省の指導者は実際のところ、破壊するよう命じられたはずのスターリン時代のオブイェクトの大部分を密かに保存していた。そして彼らは研究所の一部を分離、秘密裡にKGB・SS-3へと合流させ、そこで囚人を被験者とする危険な研究を継続していた。
1965〜1985年
«プログレス» 総研の研究や発明の大半が大量生産および民生での活用を禁止された。彼らの発見は全てKGB・SS-3からの監督者により機密指定を受け、一部の研究は軍事に転用された。人々に自らの発明を贈り届けられず、しかも «秘密部門» の採っているやり方や研究内容に関して真実を知ってしまったことで、総研の指導者や所員らは失望した。欺瞞に満ち理想から乖離したソビエトの現実に辟易した研究者らは «雲隠れ» を企図した。この «雲隠れ» は、現存する書状やメモから «作戦オペラーツィヤ「袋中なるは猫なりやコート・ヴ・ミシキェ」» として知られている。
1985〜1988年
“ペレストロイカ” の開始に伴い総研とSCP財団とのコンタクトが随時行えるようになり、双方にとって有益な情報交換ができるようになった。研究所は危険な事象を封じ込める手法に興味を持ち、財団は総研の有益な研究成果についての情報を尋ねた。
1988年7月12日2時22分
アルタイ上空にて白い発光があり、公式マスメディアはこれを「珍しい気象現象」と説明した。現地に到着したKGB・SS-3資産はゴーストタウンと化した «バルナウル-12» を発見した。施設警備員のうち1名が、研究所の発明品によって麻痺しているのが発見された。警戒が敷かれた結果、他の研究施設でも上級研究員の失踪が発生していたことがわかった。さらには、研究所の管理文書アルヒーフの大部分、および異常オブイェクトや設備が消失あるいは損壊していた。
1988年
«生存» した総研所員 (平均従業者数の約34%) は皆逮捕され尋問を受けたが、今回の失踪には無関係であることがわかり、その後釈放され近くの科学機関での勤務に向かわされた。モスクワの研究所本部では小包が見つかり、数件の危険な事象の収容のための説明書が入っていた。また小包に加えて手紙も見つかった。研究所の主要な研究員217名の連名であった。手紙はソビエトの現実や、共産主義の理想からの逸脱、そして研究者らの成果への無関心を非難するものだった。
後年のKGB・SS-3による調査活動の結果、ソ連や旧ソ連構成国の一般の人々から «プログレス» 総研が失踪後に拡散した、多数の異常機器や異常物品が押収された。
1989〜1993年
研究所は解散された。その下部組織も解体あるいは関連機関の下に移された。1993年のコペンハーゲンでの会議では、かつてのソ連構成国の指導者ら、O5評議会のメンバー、およびGOC指導者が合意書にサインした。それによれば独立国家共同体地域において、
- SCP財団ロシア支部を設立し、旧ソ連で何らかの形でアノマリーに関与した科学者の約30%をそこに加入させる。アメリカ合衆国、GOC、およびSCP財団は、財団ロシア支部の最初の10年間の存続を保証する資金を拠出する。
- 旧ソ連構成国の所有下にあった全ての異常オブイェクトはロシア領内に移送する。移送時の安全性はGOCが確保する。
- 各国政府はアノマリーに関して保有する情報を全て交換し、かつ自国領内におけるGOCの作戦行動 (紛失した異常オブイェクトの捜索など) を承認し、その際には包括的な支援を提供する。
1994年〜現在
«プログレス» 総研の所員は今も消息が掴めていない。しかし多数の証拠から、国際的な異常物市場や個人の所有物に、同所の新発明品が稀に流通していることが断定されており、この団体は活動を続けているといえよう。こうした異常物は地球の人々に対する «ささやかな贈り物» であるものと思われる。一方でこの団体自体はおそらく異次元に存在しており、そこで同所の初志を貫徹しようとしているようである。
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