【Xコン: 幻想】濛々な正当性

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 サイレンの音が響いている部屋の中で目が覚めた。
 「うるさい」と呟いて目を開けると、見慣れたコンクリートの天井が視界に飛び込んできた。

 心地よく寝ていたところを邪魔されるとは。まさに最悪の目覚めだ。二度寝する気にすらなれない。憂鬱を感じながら目を擦る。職員として働いていた頃はぐっすり寝られたのにな。
 仕方なしに身体を起こして、ベッドから立ち上がる。胸元に小さく「SCP-4U79-JP」と印字された財団製の制服に着替えていく。ごわごわとした布の肌触りにはいつまで経っても慣れることは出来なかった。脱ぎ捨てた服を畳んでベッドの上に置く。畳まれた服の軽微な重量でシーツが歪む。
 軽く伸びをして凝り固まった身体をほぐす。背中と肩の骨がぽきぽきと音を鳴らす。どうやら相当凝り固まっていたようだ。しばらく動いてなかったからだろうか。どちらかと言えば前も動いてない方だったが、ここに来てからは尚更だ。まあ狭い部屋だし、凝り固まるのは当然だが。
 一通りの起床後ルーチンワークを終えて、ベッドに座り込む。自重によってベッドが軋む。深いため息をついて天井を眺める。そこには相変わらずの灰色のコンクリートが敷き詰められていた。憂鬱が重みを増したように思えた。

 そういえば今は何時なんだろう。

 ふっと疑問が浮かび上がる。時間を確認しようとして、咄嗟に壁掛け時計の方を見る。時計の針は5時27分を指して止まっていた。恐らくは電池切れだろう。正確な答えは分からないけど、そう思うことにした。変に執着することで損をするのはもう嫌だから。かつて踏んだ徹はもう踏まないようにしないといけない。
 部屋の照明はついていない。つまり日は昇っていないわけだ。ここの照明は時間と連動して点灯するようになっている。収容担当者曰く、収容環境下でも時間感覚を忘れないようにするためらしい。それが本当に効果的なのかは分からないけど。
 とりあえず起床時刻を過ぎてなければ問題はない。注意を受けることも悪態をつかれることもないから。よりよい精神状態を保つためにはこの上なく大切なことだ。精神状態が悪くなると身体にも不調が出てくるようになる。少なくとも、そんなことは避けなければならない。それに気狂いでも起こしたら拘束されてしまうのは想像に難くない。拘束されるなんてごめんだ。

 なんとなく机の方を見てみる。机の上には一本のボールペンが置かれていた。それを手に取って、軽く一回転させる。ボールペンのグリップが手に馴染む感覚を噛み締める。
 このペンのインクは既に切れている。それでも持ち続けているのは、このペンが僕の職員時代の名残だからだ。
 ベッドに座って天井を眺める。何も起こることなく時間だけが過ぎていく。部屋の中は静かで、物音ひとつ存在していない。ぼんやりとした時間が流れている。いつもと変わらないような、無意味で無駄な時間が。

 そうして時が流れている中で、サイレンの音が止んでいることに気が付いた。騒音が消え去ったことを確認して胸を撫で下ろす。もうサイレンなんて鳴らなければいいのだが。朝から騒音を聞くのはしんどい訳だし。
 というか、なんでサイレンが鳴っていたんだ。システムが誤作動を起こしたのか、サイト内で何かしらの異常事態が起きていたのか。理由はいくらでも思いつくけど、答えに辿り着くことは一向にない。考えるだけ無駄と判断して、思考の回転を止める。
 そもそも、収容対象である僕に知る由などないんだ。たとえそれが異常事態でも何でもない、ただの非異常性のシステムエラーだったとしても。財団は絶対にアノマリーに対して情報を明かさない。そんなことは火を見るより明らかなことだ。
 それは今回だって同じだ。「特例」なんてありえない。今まで通りマニュアルに従って対処して、マニュアル通りに情報を記録するだけだろう。

 それでも、真相が気になることに変わりはない。

 そう呟いて扉の方を見た。金属製の扉は変わらない様子でそこに存在している。この扉さえなければ真相に辿り着けるというのに。答えが気になって仕方ない。もどかしさが心の中で形を成していくのがよくわかった。
 この扉さえなくなれば。僕はここから出て自由の身になれる。囚われの身から脱することが出来る。叶うことはないとわかっていても考えてしまう。考えるだけ虚しくなるというのに。だから考えないようにしていたのに。

 自由にさせてくれよ、なあ。

 虚空に向かって呟いた。当然だが返事はない。言葉は宙を舞って、壁に衝突して、反響することなく消えていった。呟いたところで現状は変わらない。その事実を突きつけられているようだった。
 理解はしている。それでも、その事実は残酷なものだった。逃げ出すことは出来ない。事実を知ることも許されていない。一生このまま。そう思わせてしまうほどの絶望が、その事実には宿っていた。せめて死に時くらいは選ばせてほしいものだ。
 沈む気持ちと共に視線が下がっていく。天井を見ていたはずの両目には、いつの間にか白色のリノリウムの床が映し出されていた。汚れのせいかグレーになりかけている床は、まるで自分の心模様を写しているようだった。憂鬱とした気持ちが心を占有していく。鉛のように心が重くなっていく。

 ガチャリ。扉の方から音が鳴る。

 鬱屈とした気持ちのまま視線を動かす。何か変わってくれていると良いんだが。淡い期待を抱きながら扉の方を見る。そうして僕の視界に飛び込んできたものは、完全に開ききった金属製の扉だった。
 思考が一瞬止まる。なんで扉が開いている。警備はどうした。システムの誤作動か。疑念が浮かんで、ふくれて、あふれる。見間違いかと思って目を擦るけど、そこにあるのは開かれた扉だけ。その様子は「外に出ろ」と僕を誘っているようだった。
 ここで出たらどうなる。警備がやってきて押さえつけられるのは自明だ。だから少なくとも、職員が来るまでは待機していなければならない。待って担当職員の判断を仰ぐのが最善だろう。

 でも、もし職員が来なかったら?

 嫌な可能性が湧いてくる。現に職員が反応していないということはその可能性だってあるわけだ。なんなら放棄されたサイトに取り残されている可能性だってある。本当かどうかはわからない。「もしそうだったら」という可能性が頭の中を通り過ぎていく。
 少なくとも、一生取り残されるのだけは御免だ。無論閉じ込められ続けるのも同様に避けたい。でもこのままだったらそうなる可能性だって十分にある。現状を打開するためにはアクションを起こすしかないんだ。ベッドから立ち上がって、ボールペンをポケットに入れながら、扉に向かって歩き出す。

 考えるのは廊下に出てからでも問題ないだろう。




 廊下を歩き続けてどれくらいの時間が経っただろうか。最低でも一時間は歩いているような気もするが、今の僕にそれを確かめる術はない。ただただ足を動かし続けることしか出来ない。何も出来ないという現状を噛み締めながら、証明のついていない薄暗い通路を歩いている。
 こんなに歩き回っているというのに、誰とも遭遇できていない。というか、人の気配を感じ取れない。まるで廃墟の中を探索しているみたいだ。得体の知れない気持ち悪さが心の片隅に宿っている。
 まさか、本当に放棄されたのでは。考えたくない可能性だが、この状況ではありえる気がしてならない。事態は想定よりも悪い方向に動いているのではないか。そんなことはないと信じたい。だけど、そのための判断材料は不足している。

 というか、他の職員はどこに消えたんだ。

 正確な答えは分からない。近隣のサイトに避難したのかもしれないし、地下シェルターとかに避難しているのかもしれない。考えうる可能性はいくつかあるから断定することは出来ない。
 でも、答えに近づくことは出来る。こんな事態が起きているんだ。関連情報がデータベースに残っていたって不思議じゃないだろう。となると、現状の僕の目的は「管理官室に向かってデータベースにアクセスする」ことになる。
 管理官室の場所は分かっている。あとはそこを目指して歩くだけだ。段々と答えに近づいている。その事実が心臓の鼓動を早めていた。


 足を動かし続ける。そういえばサイト内を歩くのも久しぶりだな。見た感じだと様子は変わっていないようだ。サイト内はあの時のまま変わらずにいる。それがなんだか嬉しくって仕方がなかった。
 見慣れたカフェテリア、オフィス、ラウンジ。見慣れた情報が均一に配置された空間を歩いていく。職員時代の思い出が蘇ってくるのがよく分かった。

 職員だった頃はオフィスに泊まり込みになることもよくあったな。栄養ドリンクを飲みながら、収容プロトコルを策定していた頃が懐かしい。当時は頻繁に徹夜していたなあ、とオフィスを眺めながら思い出す。
 カフェテリアでは同期と駄弁ったりしてたっけな。インスタントコーヒーを飲みながら仕事の愚痴を零したり、休日の過ごし方について話したり。何気にあの時間が楽しかったんだよな。心の支えになるくらいには大切な時間だったな。
 蘇ってくる思い出の一つ一つを噛み締めながら、サイト内を歩いていく。コツコツという足音だけが通路に響いている。

 ふっと、職員ロッカーの前を通りかかる。そういえば自分のロッカーはどこにあったっけ。視線を動かして職員ロッカーを見渡す。ない。自分のロッカーは確かにそこにあったはずだ。混乱が頭を襲う。これじゃいけない。深く息を吸って感情を落ち着かせる。
 もしかしたら収容時に撤去されてしまったのかもしれない。冷静になった頭で考える。よく考えてみればすぐに分かることじゃないか。感情的になっていた自分が恥ずかしい。一発殴ってやりたいくらいだ。
 それにしても、居場所が奪われたみたいでなんだか寂しいな。かつての友人達に忘れられたみたいにも思える。何も置かれていない空間を眺めながら、ぽつりと一言呟いた。

 そういえば、ずっと与えられてばっかりだな。

 職員としての身分や居場所なんかもそうだ。雇用時に財団から与えられたものだということに変わりはない。自分の来歴も、記憶も。何もかも与えられて生きてきたんだ。そしてそれは、いつしか「当たり前」になっていたんだ。
 でも、その「当たり前」は財団による収容という現実によって砕け去った。正常処理プロトコルの実行による、異常性保持職員の一斉収容。結果として、与えられたものはほとんど奪われてしまった。
 奪われてからは色々なものが変わってしまった。名前は識別番号になったし、住環境は収容房の中になった。昨日までの友人はみんな揃って看守に変わってしまった。こうして僕は自分の居場所を失ったんだ。
 そんな中でも手元に残ったものはある。それが例のボールペンという訳だ。自分に居場所を与えてくれたものだけが手元に残るなんて。不思議な話もあるものだな。ポケット越しにボールペンを触りながら考える。

 でも、今となっては居場所なんてどうでもいいことだ。このサイトで何が起こったのか。他の職員はどこに消えてしまったのか。その真相を突き止めることが重要なんだから。
 心臓が震えていることに気付く。今までにないレベルの緊張と興奮が身体を支配している。この扉を開ければ真相にたどり着ける。それで僕は満足なはずだ。満足なはずなのに。扉を開けようとしてドアノブに掛けた手は動かなかった。
 どうして。この扉の先には待ち望んでいた答えがあるはずなのに。どうしてこの手は動かないんだ。もう片方の手を添えて、無理やりドアノブを回そうとする。
 ガチャガチャという金属音が鳴る。扉は微動だにせずに佇んでいる。ドアノブは回しているはずだ。なんで開かないんだ。疑問に思って手元を見る。

 ドアノブに添えた手は動くことなく、ただ静かに震えていた。

 どうして手が震えている。緊張を感じているのだろうか。でも、それだけでここまで手が震えるとは思えない。きっと、見落としている何か別の要因があるはずなんだ。深呼吸をして、思考を整理する。靄掛かった思考がクリアになっていって、答えが浮かんでくる。しばらく経って、答えが明確になった。
 おそらく、この手の震えは恐怖に由来するものだろう。一体何を恐れていると言うんだ。あと少しで真相にたどり着けるじゃないか。まさか。僕は真相にたどり着くことを恐れているというのか。

 真相を知れば何かを失うかもしれない。奪われるかもしれない。無意識下で考えていたであろうその思考が、緩やかに首を絞めていたんだ。深呼吸しながら、そう自覚する。
 分からないじゃないか。失わない可能性だってあるわけだろ。理屈では分かっている。分かっているのに、心では納得できていない。その齟齬が手の震えとして表出しているのだろう。
 考えてしまったら終わりだ。負の思考が際限なく溢れ出して、自分を飲み込んでしまう。そうなったら何も出来やしない。怯えて立ちすくんだままだ。
 目を瞑りながら深呼吸をして、感情を落ち着かせる。溢れていた負の思考が遮断される。手の震えが落ち着いてきた。手を握っては開くを数度繰り返してドアノブに再度手を掛ける。

 ギィ。蝶番の軋む音と共に、扉が開いた。




 薄暗い部屋が僕を迎え入れる。どうやらメインの電源システムはダウンしているようだ。これじゃあ答えにたどり着けない。どうしようか。部屋を見渡して使えそうなものを探す。そうしていると、視界の端でブレーカーのようなものを捉えた。
 近付いて調べたところ、どうやら本当にブレーカーのようだ。活路が見えた。急いでブレーカーを操作して、非常用電源に切り替える。パッと点灯した照明が僕を照らす。
 長いところ暗闇にいたからか、照明の明かりがいつもよりも眩しく感じた。視界が眩んで何も見えない。その場に座り込んで、資料が回復するのを待つ。
 明かりに目が慣れてきた。少しずつ視界が回復していくのが分かる。数分が経った頃には視界は完全に回復していた。手を着いて立ち上がって、情報管理用のコンピュータの方を向いた。

 電源ボタンを長押しして、コンピュータを起動させる。モーター音が鳴って、ディスプレイに情報が表示されていく。慣れた手つきでデータベースを操作する。
 一体何が起きたのか。その答えは目前へと迫っていた。緊張と恐怖が身体を走る。額に浮かんだ脂汗を拭って操作を続ける。マウスホイールがカラカラと音を鳴らしている。
 そうして探し続けて、関連するであろう情報を見つけた。これだ。心の中で呟いて、ファイルを展開する。画面に情報が展開されていく。ようやく答えにたどり着いたんだ。その喜びを噛み締めながら液晶を眺める。

財団の壊滅に伴う関連施設の放棄について

 頭蓋を揺さぶるほどの強いショックが、唐突に身体を襲う。理解できないし、したくもない一文がそこには書かれていた。どういうことだ。自分に問いかけるけど、有意な答えは得られない。そこにあるのは紛れもない事実だけだった。
 正直なことを言うと信じられなかった。信じたくなかった。あの財団が壊滅するなんて想像すらできない。壊滅したならば今まで収容していたオブジェクトや雇用されていた人員はどうなるっていうんだ。無数の疑問が頭の中で生まれていく。
 フェイクじゃないのか。もしくは誰かが残した悪趣味なジョークとか。きっとそうだ。そうに違いないんだ。だってそうじゃないとおかしくないか。一方的に奪っていくなんてありえないし、許せないじゃないか。
 散々奪って逃げるなんて卑怯すぎるだろう。なあ。どんな気持ちで奪われたのか分かってるのか。虚空に向かって問いかけるも返事はない。それでも、この気持ちを解き放ちたくて仕方がなかった。
 行き場のない怒りが募っていく。堪えようのない激情が心を満たしていく。そうして募った怒りは感情のキャパシティを超えて、行動として体外に噴出していった。

 半狂乱になりながら部屋を荒らしていく。機材と勢いよく衝突しても行動は止まらない。激情に突き動かされるままに部屋を嵐て回る。
 デスクを倒して、書類をばら撒き、ディスプレイを叩き割る。漠然とした怒りの感情によって室内環境が変化していく。それでも怒りが尽きることはなかった。
 ふざけるなよ。どれだけの人が奪われたと思ってるんだ。せめて奪ったものくらい返していけよ。壊れたモニターに向かって吐き捨て、拳を振るう。割れた液晶が手に刺さって、手の甲から血が出る。滴った血液が白い床に滲んでいる。


 一通り部屋を荒らし終わって、ふと我に返る。チカチカと点滅する照明が僕を照らしている。辺りを見渡すと、機材の破片や書類などがとっ散らかっていた。ふと見た手の甲は血で真っ赤に染まっていた。それでも痛みを感じることが出来ないのは、今の自分が極度の興奮状態にあるからだろうか。
 はあ、と息を吐き出して、乱れる呼吸を押さえ込む。身体の中心に宿った熱が自分の存在を発信している。感情は完全に冷めきっていない。何かきっかけがあればまたすぐに爆発してしまうだろう。そう考えながら、壊れたモニターの方を向く。
 モニターの液晶は砕けているし、繋がっていた電源コードも千切れている。もう動作することはないだろう。そう思った矢先、液晶に画像が映し出される。映し出された画像は、財団が記憶処理をするときに使用するものと同一の画像だった。

 まずい。そう思ったときには既に遅く、僕は画像の影響を受けてしまっていた。脳味噌を直接かき回されているような不快感が襲い掛かってくる。気持ちが悪くなって、その場で嘔吐してしまった。胃酸の酸い匂いが口の中に広がっている。頭が割れるように痛んでいる。
 自分が歪んで、混ざって、広がって、溶ける。脳内で記憶が分解される傍ら、過去の出来事が断続的にフラッシュバックしている。時間間隔も方向感覚も全て失って、その場に倒れ込んだ。顔面は涙や涎によってグズグズになってしまっていた。
 意識が薄れていく。地面の温度すら感じ取れないほどに全身の感覚は鈍化してしまっていた。ああ、僕は。言葉を口にするも、薄れゆく意識に邪魔される。結局、言葉を出し切れないままで僕は意識を失ってしまった。




 どこか分からないような暗闇の中で目が覚めた。目の前には木製の扉が一つ。辺りを見渡しても、扉の他に構造物は存在していなかった。どこを見渡しても暗闇に囲まれてしまっている。
 必然的に取るべき行動を定められた。扉を開けるしかない。ドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回していく。カチャ、ガチャ。ロックが外れた感触。前方向に体重を掛けて、扉を押し開ける。


 扉の先にはバーのような空間が広がっていた。

 どういうことだ。さっきまで暗闇の中にいたはずだ。唐突な状況変化に困惑を覚える。何が起こっているのかさっぱり分からなかった。これは夢の中での出来事ではないのか。果てにはそう思うようになってしまっていた。
 誰かいないのか。藁にも縋る思いで空間を見渡す。テーブル席には誰もいない。じゃあカウンター席には? 視線を瞬時に動かす。動かした視線の先で人を捉えた。カウンター席に座って酒を飲んでいる、スーツを着た中背の男性。途端に安堵が襲ってくる。彼なら何か知っているかもしれない。そう考えて呼びかける。

「あの、すいません」

 呼びかけに反応して、男の顔がこちらを向く。柔和な笑みを浮かべた顔面は若干赤みがかっていた。それに酒臭い。見た限りだと相当飲んでいるようだ。ちゃんと答えてくれるのか。一抹の不安を抱きながら言葉を続ける。

『なんだい? 君も飲みに来たのかい?』
「ああ、いえ。そうではなくて。ちょっと質問させてもらいたいなと」
『質問ねえ。答えられる範囲でだったら答えるよ』

 男の口調はゆっくりとしていて優しいものだった。よかった、これなら安心して質問が出来る。脳内に浮かんだ疑問を一点に集約して、言葉として放つ。ヒントでもいいから掴めるといいんだが。

「あの、ここはどこなんですか。暗闇の中に扉があって、それを開けたらここに来ていて。それに、本当にここは現実なんでしょうか」
『実を言うとねえ、俺も分かってないんだよ。気が付いたらここにいたんだ。どうやって来たかとかは分からないねえ』
……そうですか」
『それにさあ、ここが現実かなんて俺には分からないよ。虚構かもしれないし、もしかしたら夢かもしれない。それを断定することなんて出来やしないのさ』

 最悪のパターンだ。誰も答えを、それどころかヒントすら知らないでいる。状況を掴めなければどうすることも出来ない。ばらつく思考を纏めようとして立ち徘徊っていると、男が声を掛けてきた。なんですか、と言葉を返して聞き役に回る。

『君さあ、財団の関係者で間違いないよね?』
「急にどうしたんですか」
『いやあ、なんとなくだよ。ちょっと気になっただけさ。なんてったって、その服は財団から与えられるものだからね』

 男の言葉を聞いた瞬間、心臓が跳ねたような気がした。男も関係者だったのだろうか。衣服について知っているということはその可能性が高そうだが。男の顔を見る。表情は変わらず笑顔のままで、何を考えているか分からなかった。それが今の僕にとっては不気味に思えた。
 財団の関係者なら、財団に何が起こったのかも知っているのではないか。ふっと可能性が湧き出る。男は笑ったままこちらを見ている。恐らく、僕の返答を待っているんだろう。財団に何が起こったのか、さりげなく聞いてみようか。そう考えて口を動かす。

「見ただけで分かるものなんですね」
『まあな。財団の制服はある程度は見てきてるからな。気がついたら判別出来るようになってたんだよ』
「はあ。慣れみたいなものですかね」

 数度の応酬。目的の言葉を出すための導線を紡ぐ。次は何を言おうか。何を言えば問いかけに繋がるだろうか。会話をしながら思案する。そうして考えていると、問いかけに繋がる言葉を男が投げかけてきた。

『君、その様子だと財団に何が起こったのか理解しきってないようだね』
……そうなんです。財団が壊滅して、サイトが放棄されて。……もう一体何が何だか」
『まあまあ、落ち着いてくれ。とりあえずこれでも飲んでくれ。俺のとっておきなんだ』

 そう言って男は、緑色の液体の入ったグラスを手渡してきた。これはなんだ。そう思いながらも、僕は促されるままに液体を飲み干した。
 洗練された苦味と、清涼感のある甘い香りが口内を満たしていく。飲んでみた感じ、どうやらハーブ酒らしい。それも相当度が強いもの。喉が焼けただれるように痛い。一体何の銘柄だ。男に問いかける。

『ああ、この酒の銘柄ね。これは「アブサン」っていうハーブ系リキュールさ。気に入ってくれたかい?』
……少なくとも、僕は苦手な味ですね」
『そうか。まあ好き嫌いは人それぞれだししょうがないか』

 男が大きく笑う。空間全体に声が響いている。何が面白いのか、僕にはさっぱり分からなかった。男は僕を無視してひたすらに笑っている。目から涙を流して、息苦しそうに笑っているだけだ。大丈夫ですか。そう声を掛けると、男は笑うのをやめて、こっちに視線を動かした。

『えっと……何の話をしていたっけ。君が財団関係者だというところまでは覚えてるんだが……
「何が起こったのか、教えてくれるのではないですか?」
『ああ、そうだ! すまんすまん、酔いすぎて忘れていたよ』

 男が申し訳なさそうに謝る。本当に大丈夫なのか。若干の不安が心の中に現れ始めた。男が酒の入ったグラスに口をつける。琥珀色の液体がグラスの中から消えていく。ぷはぁ、と大きく息を吐いて、男は言葉を発した。

『何が起きたか……語ると長くなるから手短に言うと、収容活動に手が回らなくなってしまったんだ』
「収容活動に手が回らなくなった?」
『そうさ。収容キャパシティの超過、それに伴う収容違反の頻発。そうして財団は壊滅まで追い込まれてしまったのさ』

 空のグラスに酒を注ぎながら男が言う。こんなに呆気なく終わるものなのか。男がグラスに酒を注ぐ様子を見ながら呟いた。なんだか釈然としない。そう感じている僕に対して男は問いかける。

『なんだか不満げな顔だね、気に入らないことでもあったのかい? 話くらいなら聞いてあげるさ』
……やっぱり、財団がこのまま消えちゃうなんて信じられないですよ。それに、一方的に奪い続けるなんて、道理が通ってないじゃないですか」
『なるほどね。要するに君は「自分だけが奪われてる」と言いたいわけだ』

 そう言って男は笑った。何がおかしいんだ。そう呟いても、呟きは笑い声によってかき消されるだけだ。男が酒を飲む。アルコールの独特な匂いが空間を満たしている。
 思わず酔ってしまいそうだ。そう思っている自分を理性で押さえつける。ここで酔ったら得た情報を失ってしまうかもしれない。そう考えていると、男が言葉を発した。

『いやぁ、笑わせてもらったよ。君ってコメディアンの資格があるんじゃないかな?』
「おかしなことは言ってないはずですが」
『いや、言ってるね。君は自分だけが奪われてると、そう言いたいんだろう?』

 思わず押し黙る。言葉が上手く浮かばない。思考が纏まらずに霧散していく。言葉を返さないと。そう思って口を開くけど、声は出てこない。

『実に滑稽だよ。まさか自分だけが奪われてると思っているなんて。本当は他人も奪われているというのに』
「分かってますよ、そんなこと」
『いいや、君は分かってない。分かっているならそんなこと言わないからね。それに──
「それに?」
『君だって散々奪ってきただろう?』

 そんなこと分かってる。被害者の記憶だったり、オブジェクトの家族だったり。財団職員だった頃には色々なものを奪ってきていたから。そうしないと居場所が無くなってしまう気がしていたから。

「だって、奪うことが仕事でしたから──
『そうだ。財団職員にとって奪うことは仕事なんだ。君から奪ったのも仕事の一環に過ぎないんだよ』
……でも奪うことが正しい訳ではないじゃないですか」
『それはそうだね。だから正当化しようとするんだろう?』

 男がこちらを睨みつけてくる。その表情は先程とは打って変わって険しいものになっていた。男が纏っている迫力に気圧されてしまいそうになる。「これじゃいけない」と心の中で呟いて、男の顔を睨みつけた。

「正当化したっていいじゃないですか」
『何も正当化することが悪いわけじゃないさ。それ自体は誰だってしてしまうことだしね』
……何が言いたいんですか」
『つまるところ──君は奪うことを正当化したいだけなんじゃないかなって』

 思考が一瞬止まる。

「それってどういう──
『君って本当は、それっぽい理由をこねくり回して、自分の行いを正当化しようしているだけなんじゃないかい?』
……違います」
『本当かい? 君は心の底から「違う」と言えるのかい?』

 言えるわけがなかった。男の言っていることは間違っていない。僕は昔からそうだった。それっぽい理由をこねくり回して、自分の行いを正当化しようとしているだけだった。それは職員の頃も、なんなら今だって同じだ。
 ようやく自分の本質に気付いた。僕は他人から奪いたいだけだったんだ。しかも、奪ったことに対する責任から逃れたいだけの人間なんだ。そして、その本質は今だって変わっていない。

『君が「奪われた」と思っているものは、本当に君のものなのかい?』
「それは──
『本当は誰かから与えられたものじゃないのかい?』

 感情が高まっていく。心臓が早鐘を打っている。身体の奥底が熱くなっているのがよく分かる。自分の存在が絶え間なく発信され続けている。
 ふと、手元に違和感を覚えた。まるで何かを握っているような。よく見ると、ボールペンを握っていた。いつの間に握っていたのかは分からない。それでも、今やるべき行動は明確に分かっているような気がした。

 深呼吸。

 酸素が体内を巡っていく。思考がクリーンになって、今やるべき行動が明確になる。ボールペンを握る手に力を込める。ペン先まで感情が宿っているような気がした。
 ボールペンを男の眼球に突き刺す。一瞬、場が凍る。眼孔から血が流れていっている。身体に宿っている感情の熱が全身から噴出していくのがよく分かった。

『は?』

 聞き取れないほどの短い呟き。直後に耳をさす男の叫び。床と衣服を汚す血液。その全てが心地よく感じて仕方がなかった。倒れ込んだ男に馬乗りになって、ボールペンを振るう。
 この世は奪い奪われで回っているんだ。それならさ。僕が奪ったところで問題はないだろう。ぐちゃぐちゃになった思考で考える。
 奪われた分だけ、奪い返してやる。心の中で吐き捨てる。男の身体に空いた穴から血が溢れ出す。それを見るたびに、感情の熱が放出される気がした。


 気がついた頃には男は絶命していた。穴ぼこになった男の身体と、血の赤がこびりついた両手。身体に宿っていたはずの熱は、いつの間にか冷めきってしまっていた。
 静かになった空間に、僕の呼吸音だけが響いている。その呼吸音もいつかは消えて、空間に完全な沈黙が訪れる。心の中には虚しさだけが残っていた。
 本当は全部知ってたんだ。奪ったところで得られるものがないことも、今までの行動が全部僕のエゴによるものだってことも。知っていたのに、僕は行動という選択肢を取ったんだ。
 結局、僕は全部失ってしまった。自分の名前も、記憶も、居場所も。全部消し去ってしまったんだ。奪い奪われで回っているっていうのは、どうにも正しいらしい。

 手には砕けたボールペンの破片が刺さっている。その突き刺さった破片による痛みが、「もう責任から逃げられない」という事実として襲いかかってくる。

 だって僕は、一貫性のない現実に囚われているから。
 空っぽの心の中には、その事実だけが残っていた。






 ベッドの上で目が覚めた。見慣れたコンクリートの天井が視界に飛び込んでくる。時計の針は7時31分を示している。もうすっかり朝だ。一日が始まったことを認識して、ため息をつく。憂鬱な気分が身体を覆っている。
 仕方なしに身体を起こして、ベッドから立ち上がる。いつものように財団支給の制服に着替えようとした時、視界の端にあるものが映りこんだ。正体を確認しようとして視界を動かす。
 そこにあったのはブリキ缶だった。蓋にはでかでかとミントの葉やオレンジの果実の絵が描かれている。持ってみるとそれなりに重い。中に何か入っているのか。
 疑問に思いながら蓋を開ける。一体何が入っているんだ。そう思いながら覗き込んだ缶の中には、包装に包まれた緑色の棒付き飴が入っていた。そういや何かのキャンペーンで被収容者や職員に対して配ってたっけ。収容環境を改善するくらいなら解放してやればいいのに。心の中で吐き捨てる。
 棒付き飴を一本、缶の中から取り出す。包装にはうっすらと"absinthe"と書かれていた。

 アブサン。"魔性の酒"と呼ばれるハーブ酒で、飲んだ人は不思議な夢を見ると言われている。そんなアブサンを溶かして固めたものがこれだ。天井の照明に飴をかざすと、宝石のように緑が輝いた。
 変な夢を見るというが、実際はどうなんだろう。僕は変な夢を見たのか、見てないのか。そんなことは分からない。夢なんて見てもどうせすぐに忘れるんだから。まあどうでもいいだろ。夢なんかあったところで現実は変わらないんだから。
 それに、こんなことを考えたって意味はない。限りある時間を消費するだけにしかならない。それならもう少し有意義に過ごした方がいいんじゃないか。それこそ、仕事に向き合うとか。

 財団職員用の制服に着替えて、脱ぎ捨てた服を畳む。ごわごわとした布の肌触りには未だ慣れていない。もっと肌触りの良い布を使ってもいいんじゃないか。
 畳まされた服をベッドの上に置く。衣類の軽微な重量によってベッドシーツが歪む。軽く伸びをして凝り固まった身体をほぐす。ポキポキという小気味いい音が鳴る。
 一通りの起床後ルーチンワークを終えて、ベッドに座り込む。自重によってベッドが軋む。深いため息をついて天井を眺める。見慣れたコンクリートの天井を眺めながら時間だけが過ぎていく。

 なんとなく、口に飴を入れる。洗練された苦味と清涼感のある甘味が口の中に広がっていく。やっぱりこの苦味は好きになれないな。棒付き飴を咥えながら呟いた。
 憂鬱と苦味が身体の中で混ざっていく。それを吐き出すようにして、大きく溜息をついた。憂鬱と苦味が呼気とともに体外に放出される。それでも何かが変わることはなく。

 アニス由来の爽やかで甘い香りが部屋の中に充満しているだけだった。


tale jp アブサンの夢 xコン23 _イベント3



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執筆者: teruteru_5
文字数: 15508
リビジョン数: 83
批評コメント: 2

最終更新: 23 Aug 2023 08:58
最終コメント: 20 Aug 2023 23:39 by teruteru_5

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  1. portal:7178014 (30 Dec 2020 05:31)
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