セミの小便は冷たい。
今後使うこともない雑学を仕入れ、セミの放尿から身を挺して乙女の顔を守った帽子を水で濯ぐ。あのセミも防御手段故のお漏らしであったろうことはこの際考えない。別に自ら木を蹴飛ばした制裁として引っ被った訳ではないし、もちろん意図的に食らいに行ったわけでもない。
「ほんとごめん」
自然豊かで緑が美しい 言い換えれば自然以外何もないだだっ広い公園の水飲み場。周りは畑。爺婆が腰を曲げて農作業に精を出す先にはこんもりと山が茂り、その反対側にはポツポツと並ぶ一軒家と屋敷森。そんなド田舎の区画整備ミスとしか思えない空き地の如き公園で、両手を合わせてこちらに頭を下げてくる少女一名を横に立たせて洗濯に精を出すこと十数分。
先ほどから遠巻きに、ハナタレてそうな地元のジャリ共の視線を感じるのに対して「見せもんじゃねえぞ」と噛みつくほど精神性は幼稚ではない自負があるものの、どうにも気が散る。その原因かつ、私にセミを嗾けしかけた犯人はさっきから両手を合わせてこっちに平謝りしていて、そろそろ形骸化し始めようかというほどに、謝罪の文言をリピートしていた。溢れる語彙力で多様な謝罪を紡ぐ彼女に若干呆れと鬱陶しさが湧くのを自覚する。
帽子のつばに鼻を近づけて匂う。そもそも蝉の小便に匂いがあるかだとか、あれが生物学的に小便かどうか、なんてのは知ったこっちゃないが、気持ち的には鳥糞爆撃と変わらない。むしろ、ぱっと見で判断がつかない分こちらの方が悪質だった。
「え、あ帽子持っとけばいいのね。まかして!」
溌剌とした名古屋弁。そろそろ地べたに正座して、拝み屋の真似事でも始めそうなおさげ髪に洗った帽子を押し付けて、清流迸る蛇口の下に頭を突っ込む。帽子を貫通したかもしれない汚れを禊みそぎながら、同時に、頭を焼いていた灼熱をすっかり浚さらっていく。高い陽光を薄らと透過した白髪を頬に張り付けて、横のおさげ髪に一瞥をくれれば、彼女はすでに用意していたハンドタオルを差し出してくる。それに合わせて被さる無邪気な声。
「いや〜蹴飛ばした石が当たってセミ飛ぶなんてわからんもんね」
さっきまで謝り倒していた人と同一人物とは思えないあっけらかんとした声音。拳を握り込んで力を発散し、帽子をひったくって深く被り直す。湿った布地を撫でる風が熱を奪っていく心地よさで気を紛らわせ、先に公園の出口に歩き出した。
「うぇ、ちょっと待ってよ! 怒ってる? やっぱ怒ってるよね!?」
「行くよサキ。まだ聞き込みすら始まってない」
「やっぱ怒ってるじゃん」
ずっと前から彼女 現田げんださきはこういう奴だ。気にするだけ無駄だった。別に謝罪が嘘なわけではないことは長い付き合い故に理解しているわけだが、同時に、どうにも性格的に楽観主義のきらいがあることも嫌というほど知っている。さらに言えば、彼女が16年間大事に育んできた、小学生時代基準の感性が作用するせいなのか、幾分行動が子供っぽい。道端の石を蹴って歩くのは小学生まででとどめておくべきだとは思うが、これも彼女らしさだと言えばそれまでだろう。
ちょこまかと周りに纏わり付いて顔を覗き込んでくる顔に目を合わせまいと、周りの野次馬根性旺盛なガキ共を目力で蹴散らそうとしてふと思い留まる。
聞き込み。そうだ聞き込みだ。
「ねえそこの君」
言葉遣いを他所行きに切り替える。
深く被った帽子のつばを少し上に押し上げた。
「“何も 「“何もない場所”ってどこにあるか知ってるかな!?」」
横からセリフを奪われて、今回の依頼は幕をあける。
公園を出て聞き込みや下見のために色々と回ってみれば、ごく普通の地方にありふれた田舎であった。先ほどの野次ガキの聴取によれば、公園から見える田んぼいくつかを挟んだ向こうに見える鬱蒼とした山の方にあるらしい。とは言っても四方が畑だし見る場所全て山である。具体的にどこであるかはわからない。
度重なる部分整備で痛々しくパッチワークされたアスファルト。見るだけで汗の滲むような陽炎が、向かう景色を朧げに揺らす。
「見て見てお初ぅ! スタンドがアスファルトに刺さってる!」
路肩のバイクの根元に蹲み込んで、溶けたアスファルトに飲み込まれたスタンドを指差してさぞ楽しそうなサキを引き剥がした。
「バイクの下敷きになりたいの?」
「いや、珍しかったから見せたくて……あ!」
今度は何かと思えば大きいトンボの方に駆けていく。かと思えば農作業中のおばあちゃんに手を振って話をする。実に自由気ままだった。
「あの人、なんて?」
「ん〜、あっちの方は行かん方がいいよって。何でって聞いたらよくわかんないけど、行っても何もないし昔から近づかないように注意されてたから、とりあえず守ってるんだって。田舎特有の慣習みたいなものだね」
「……ふーん」
蔦が絡みっぱなしの電柱とワイヤーを覆う黄色い樹脂カバーを撓たわませて遊ぶ彼女を見ていると、視界の端、何かが彩度の高いものが目に留まった。日光を全面に浴びようと各々大きく広げて飛び出している蔓葉を掻き分ける。錆び付いたブリキの看板だ。蛍光色の黄色に黒字で「行方不明多数! 名倉の西には近づかないで! 月谷自治会」とデカデカと書かれている。塗装はだいぶ剥がれているが、私がこれを見つけられたのを鑑みるに、どうやら警告色は正しく作用しているらしい。
スマホで検索してみれば、どうやら農作業中のおばあちゃんと公園の子供が言っていた山らしい。
その後も歩いていれば、住宅のブロック塀、電柱、カーブミラーの支柱、道の分岐の道祖神の脇、畦道。至る所に、時に木の板、時にポスターの姿で散見される。認知バイアスが働いたのか、先ほどに比べて町の至る所に同じような注意喚起が見受けられた。この町の人口よりも多いかもしれない。気味が悪かった。一体近づいたら何が起こるというのか。
ふらふらと、言うことを聞かない飼い犬のような挙動であちこち止まり、走り、路地裏に消える彼女の背中を追いかける。
「駄菓子屋だ〜」
路地裏でトンボに振られたらしい彼女は、路地を飛び出して辺りを見回すや否や、躊躇なくそちらに吸い寄せられていく。その後ろを追って店舗の前まで来てみれば、いかにも歴史的価値のありそうな風体をした駄菓子屋の軒先が出迎えた。錆びてほぼ読めない牛乳屋の看板を背もたれに貼っつけた青いベンチが一つ、駄菓子の詰まった缶々と並んで置かれている。
中に入ってみれば、駄菓子屋特有のこじんまりとした圧迫感。小学生ならいざ知らず、高校生女子が通るにはいささか狭すぎる通路の両脇には、今はもうほぼお目にかからないような駄菓子が所狭しと並んでいる。ただそれも店の一部のみのようで、駄菓子屋のくせに、昭和の子供向け玩具のようなもののラインナップの方が豊富であるようだった。天井からはゴム動力の飛行機模型がぶら下がっているし、棚の隙間にはすっかり黄ばんだ双六が刺さっている。
さて、この駄菓子屋の主は何処かと探してみれば、中年のおばちゃんが一人、それはそれは気持ちよさそうに店奥のカウンターで眠りこけていた。
「すみませ〜ん! ちょっといいですか?」
どう声をかけたものかと思案していれば、止める暇もなくサキが元気に声をかけている。幸い、おばちゃんは寝起きが良いらしく、大欠伸一つを見せつける。恥などという瑣末な感性は人生のどこかで既に燃えるゴミにだしたらしい。
「あっっらやだお客さん? 珍しいねぇこんなぼろっちいお店まで来るなんてもう。お買い物?ここの人じゃないわよねぇ旅行なのかしら? 何もないとこだけどゆっくりしてってねぇ! あぁ、そうだ。おばちゃん寝ててあんまりよく聴いてなかったけど何か用があるの?」
こちらを認めるや否や大きな身振り手振りと共に捲し立ててくる。その熱量に圧倒されて、品物を見るそぶりで軒先の方に退避しつつある私とは対照的に、彼女はテンション高めに会話を続けている。何か惹かれ合うものがあるのかもしれない。先ほど見送った軒先のペンキが剥げたベンチに腰掛け、会話に耳をそばだてる事にした。双方共に声が大きく、ここからでもよく聞こえてくる。
住民への聞き込み、とりわけおばさんへの聞き込みは、もっぱら彼女の持ち回りだった。人間向き不向きというものがあるが、現田さきはどうやら天性の才を持ち合わせているらしく、おばちゃんは喋らなくていいことまで喋ってくれる。2丁目の畑中さんのところに二人目が生まれたとか、無取の方で信仰宗教にハマった人がいるから行かんほうがいいとか、最近山下さんのところの倅が耕作機で指飛ばしたとか、そんな話だ。玉石の中で石が9から10割なその会話にいちいち最適解の反応を示すのは私には到底無理なので、こういう聞き込みには向いていない。さっさと核心部分に切り込む方が私の性格には合っている。
「いや〜お待たせ!」
あれから暫くして彼女が戻ってきた。長話は無事に切り上げられたらしい。その右手をみるに、どうやら買い物もしてきたようだった。
「で、何かわかった?」
「まあまあそう焦りなさんなお初どの。ほい、アイス」
そう言ってパピコを折り、その片割れを渡してきながら彼女もベンチに腰を下ろす。いつから雨風に曝されたままなのか分からないベンチは、苦しげにみしりと鳴いた。こいつもこのアイスの如く真ん中から折れやしないか、私たちがこいつの天寿を全うさせやしないかと内心不安に思いながらも、彼女から受け取ったアイスを口に含む。
「蝉のお詫びね」
「あぁ、そういうこと」
アイスのプラを齧りながら、別にここまでしてもらう必要もなかったけどな、などと思いながらもありがたく頂戴することにした。その様子を見て許されたと判断したか、足を揃えて前に浮かしながら彼女は先ほど得た内容を語りだす。
「早い話が、公園で聞いたあの山の周りの地域に住む人は、絶対にあの山には入らないんだってさ」
「おばあちゃんも言ってたね」
「うん。あそこは昔からよく人が行方不明になるからだって。駄菓子屋のおばちゃんも子供の頃からずっと言われてるし、実際に何回もあの山の周りで人が消えてるから絶対に近づかない〜って言ってた」
「あぁ、依頼受ける時に言ってたやつね。何なんだろうね。誘拐? 自殺? てか警察は動かないの?」
「それがさ、警察もあの一帯には近づかないんだって。昔に捜索活動してた警官が一人消えちゃってから、山の近くには行かんし、クマの仕業だろうって言うて聞かないらしいね。猟友会も数ヶ月の間は体裁上は熊狩りするけど、せいぜいあの辺りの外周を巡回する程度だって」
田舎の警察組織ではたまにある話だ。大抵は自警団組合がメインに活動しているために、そもそも失踪が届けられなければ捜査はしない。面倒事の匂いがする。この依頼を受けたのは失敗だったかもしれない。遠くの山で蝉が騒がしく鳴くのを聴きながら、少し水っぽくなったアイスを吸い切って、漠然とそんなことを思い始めていた。
「お待ちかねの小遣い稼ぎや」
愛知県某所。向かう相手は二人。初めは可愛らしい相手だと思った。蓋を開ければ底無しに気色悪かった。
いつもの商談場所で、注文した昼飯を早々に食べ終えた男は本題を切り出す。
「私は東にジュース一本!」
「じゃあ私は西ね」
流れるように賭け事を始めた少女二人を無視し、対面に座る愛知県内ではそろそろ希少種であろう、自我の強い関西弁を操る男は、ヨレたファイルケースから資料をいくらか引き抜いた。
「西や西。岡山の山あいの方やわ」
自分からふっかけた博打に負けた哀れな敗者は露骨にテンションを下げ、後ろで二つに結ったおさげを揺らしながらホットサンドをモソモソ齧る。対して今回の勝者は生真面目そうな相貌を崩さない。白になるまで脱色した髪に赤い大きめのリボンカチューシャが、着用者を真似るようににすん、と澄まして立っている。
「じゃ、なるだけ高いの頼もうかな」
勝者は硬い装丁のメニュー表を机上に開き、敗者と頭を寄せ合って賭けの賞品を吟味し始めた。男が仕事の話に入ろうというのにお構いなしだ。
「前みたいにドンキの2Lボトルでよくない? そっちのがお得だよ」
「おい現田、後にせえ」
「奢られでもしないと高い飲み物買わないもん。ここで一番高いの頼むに決まってるじゃん」
「夢川もだ」
「あ、ねぇ、パフェでもええ?」
「おい」
クソガキ……何度目かも分からない脳裏をよぎる4文字を口に出さないだけの理性を男は持っていた。
苦言を歯牙にもかけず、世間を舐めていそうな態度の二人をしばし胡乱げな目で見つめる。男は言葉で仕切るのを諦めたか、無言でメニュー表の上にどさり、と資料を積んだ。
彼女たちが目も合わせずメニュー表の上から資料を押し退けようとするのを押し留め、結露したグラスを脇にやって必要なスペース分だけ机上を雑に広げる。仕事相手をこうも雑に無視できる精神の図太さは、仕事で培った性格か、はたまた年相応の生意気さか。
「ちょっと」
「仕事の話を、させろ」
「いいじゃない。気が滅入るかも知れない仕事の話の後のパフェなんて美味しくないし」
「私はジュース賭けたじゃん! ね、せめて飲み物にしない!?」
全くもって姦かしましい。女3人集めなくても十分にやかましいではないかと、漢字を考えたやつに物申したい。かといって奻かしましいと当て字をしようと思えば、すでに奻いいあらそうなんていう読みが用意されている。誠にその通りだと思う。こちらに一切意識を向けないで言い争うわ一丁前に文句を言いやがるわ、面倒臭い事この上無かった。
「今回の依頼は面白みがあるかも分からんで。報酬も高い」
二人の目線が同時に男を捉え、すう、と目の色が変わる。片眉を僅かに上げて見せれば、双方ともに背筋を伸ばした。深い焦茶色の瞳の奥には、かたや隠しきれない好奇心、かたや仕事に対するお堅い責任感が伺える。
「面白さは置いとくとしても、話は聞こうかな」
「最低何枚? 最高は?」
そして何より2人には、金に対する執着があった。彼女たちは遊び、友人、恋愛……他に打ち込める諸々などごまんとあるであろう学生のくせに仕事一辺倒。ならば金稼ぎが生き甲斐なのかと思えば、賭け事はする、パフェも食う、そもそもこのカフェで飯食って少なくない金を吐き出している時点で、支払われた報酬の数割が斡旋業者の懐に流れている。
彼女らを受け持ってからずっと、宵越しの金を持たない主義のような、短い人生を知りながら人一倍楽しむような、そんな雰囲気を感じていた。
年不相応に大人を纏っている。普段のガキっぷりからは想像もできないほどに。
そんな得体の知れない気色悪さに呑まれかける。粘っこい生唾を飲み下して喉奥を湿らせ答えた。
「……出来高で左右されるが、上限は青天井っちゅう話やわ」
モスグリーンに黄金色のラインが一本入ったセーラー服。典型的な学生服を纏う女子2名に齢30ほどの男が相対し、ともすれば若干気圧されているようにも見える光景は、人も照明も足りないこのカフェの雰囲気も手伝ってあまりに異質な空気感を醸す。目の前の仕事人たちは、どちらも目を逸らさず、黙って先を促した。
角のボックス席。猛暑。7月。平日昼。ほうと一息、斡旋業者の男は気を取り直して口を開く。
「今回の依頼は岡山の山中。まぁ安心せえ。危険性はおそらく低い。なんせ、そこには“何もない”って話やからな」
「とは言ってたけどさ。ほんとに何もないねぇ」
ぱしゃん、ぱしゃん、ぱしゃん。
角の残った岩が転がる河原に、涼しげに水を打つ音が複数回鳴る。周囲の木立からは、最近都会ではめっきり聞かなくなったクマゼミの声がしゃんしゃんと騒がしく出迎えていた。ここのセミの量は正直言って異常だ。もう少し山鳥の歌声なんかをBGMにハイキング、なんてのを妄想していたのに、鳥の声一つも上がらない。さしもの鳥類も暑さにだれたらしい。
依頼三日目。
私たちは聞き込みを終え、件の場所へ向かっている。まだ日は高くないが、遠からず木陰を消し去って私たちを焼き始めるだろう。木立の隙間からたまにちらちらと瞬く陽光は、河原の水面を踊るように、青白く跳ねている。
「そりゃ、依頼が依頼だし。寄り道してると置いてくよ」
山道も何もない奥山に似つかわしくない、明るく通る声と、対照的なまでに抑揚少なで物静かな声が呼応する。
窘めた側の少女、夢川初ゆめかわはつは白い帽子を深めに被り直した。その頭に赤いリボンカチューシャは見えない。長袖のインナーの上から白のTシャツに伸縮性の高いグレーのトレッキングパンツを合わせ、いささか体に見合わない赤のアウトドア用リュック。山仕様の装いだ。
少し歩幅を緩めて木立の方を仰ぎ見る。本当にセミが私たちを出迎えているかはわからない。なんせ、そろそろ依頼の土地に足を踏み入れるであろう頃合いである。もうとっくに踏み越えているかもしれない。彼らは初日に私の帽子に対して小便爆撃してくれやがったが、これ以上進むなとおせっかいにも忠告している可能性もないわけではない。野生の動物は、犬猫しかり、昆虫しかり、いつだって人間よりも早く災害を感知するからだ。
ただお生憎様、私たちはそこに用がある。
「お初はもっと周り楽しもうよ〜。意外な所に手がかりがあるって事はよくあるって刑事ドラマとかでも言うでしょ」
「サキがずっとやってるその石きりは手掛かりに繋がるの?」
「これは遊んでるだけ」
しゃがみながらまた一つ石を見繕って横に振りかぶったサキを見納め、置いて行くことに決めた。後ろで歓声が聞こえる。8回跳ねたらしい。
“何もない場所”にはほんまに何も無いんかっちゅう事を確かめる依頼や。詳しいことは何もわからん。せやけどそこにゃ何もないことと、神隠しだかなんだかで人が寄らないっちゅうことだけは聞いとる。これだけみんなが口を揃えてそういうっちゅうこたぁ民間に伝播するタイプの認識阻害の一種やないかとは思っとるがそれも不明や。依頼主は匿名で詮索は無用。
カフェで聞いた斡旋業者の男の話を思い返す。
「分かっちゃいたけど危険性しかないわね」
今回のものが反ミームだとして、財団がそう呼ぶ性質の何かは開けるまで危険性がまるでわからないガチャ。そもそも姿を隠している時点でろくなモノじゃない。私たちにできるのは、大凶の中から凶を引き当てられるように祈ることだけ。
何が「危険性はおそらく低い」だ。
業者の男に毒付きつつ、なんの手がかりもない以上サキの行動も案外的外れではない可能性に思い至り、腑に落ちないものを抱えながらも深く考えるのをやめた。
「麓の人の話じゃ、この辺りは人が入らないんでしょ? あるとしたらこの辺だって」
「あるのが人の遺構なら、ね。それ以外なら面倒臭いこと極まりないけど」
一つ大きな岩を回り込む。道など存在しないこともあって仕方なく河原を歩いているものの、ここの歩きにくさったらなかった。古代文明然り、人の営みは水場に興る。こんな山間部であればなおのこと。全て人の生活環境が反ミーム化した前提での皮算用の上にしか成り立たない推論ではあるけれど、何処に地雷が埋まっているかわかったもんじゃない土地など、さっさとおさらばするに限る。
「立ち入らないって言ったって、ここが神域とか、神聖不可侵の聖域ってことは特に言われてないし」
「聞き込みの雰囲気じゃむしろ忌地いみちだって感じだよねぇ」
「これだけ山奥なら部落かな」
忌地と呼ばれるものの原因は実に様々で、 穢多非人えたひにん、被差別部落、かつての処刑場みたいなものは得てしてそう呼ばれる。そしてここが忌地という話なら、今回の場合は部落なんじゃないか、そう睨んでいた。
部落は明治時代に形式上姿を消した、差別階級が集まって成した集落。インドの不可触民のようなもので、動物の屠殺とさつなど、一般人の忌避する行いを職業にしていることが多く、またその多くは山中に隠れるように共同体をつくった。日本においては、殺生を嫌う仏教と、血を穢れとする神道が混ざりあった上に農耕民族的な共同体思想も相まって、より一層差別のきらいが強かったそうだ。
「部落かぁ。つくづく変わらないもんだね。染みついた風習は」
思い出したようにサキが溢す。
差別が姿を消したとは言ってもそれは表向きで、そう簡単に人の意識は変えられない。平成に入っても部落差別はカビの如きしぶとさで地方に根を張り続け、『差別をなくそう』と書かれた看板が小学校前の標語になっていたり、地域丸ごとからよくない噂を囁かれる一家だったりが、今でもときたま見受けられた。
全く。いつの時代になっても変わらない。
「何もないなら遊んで帰ろうよ〜。何も居ませんでしたって言えば終わりじゃん」
「何もないなら依頼なんてされないでしょ」
「何か掴んでるんなら無知の私たちなんか送り込まなくても良くない?」
「鉱山のカナリアみたいなもんでしょ。何かあって帰って来なかったらここには見切りをつける腹積もりだろうね」
「う〜ん知ってた!」
先ほどから話かけてくる彼女は、どうやら石きりに飽きたらしい。手持ち無沙汰になったのか、すぐ後ろをちょこちょこと付いてきている。
「やっと真面目に進む気になった?」
「飽きた」
「ならよかった。子供遊びもほどほどにね」
正直やめてくれるならその方がありがたい。無論依頼に集中しろという意味合いが強いが、それだけではない。石きりは岩手の一部地域では儀式として扱われていた、と昔の依頼で小耳に挟んでいたから、あまり良いものではないと思っているせいだ。確か現世と幽世の攻防だったか。跳ねる回数で毎年土地神の鎮護安泰、五穀豊穣を占うとか言う内容だったはずだ。昔ながらの遊びなんてそんなもので、『だるまさんがころんだ』も『かごめ』も『はないちもんめ』も、当初の目的は負の継承や儀式。場所は遠く離れているが、何が起こるかわかったもんじゃない。
不定期に二言三言会話を交わし、惰性で足を踏み出せば、今日何度目かの不安定な石に足を取られる。
若干後悔していた。おそらく、とんだ貧乏くじ。その分割りはいい。穴蔵フリーランスに所属する理由は数あれど、私たちは生来備わっている霊感を利用して小遣い稼ぎのためにやっていた。誰が呼んだか“自主接触型ワンダー”とか呼ばれる部類のフリーランス。所属前からサキと連んで独学でやっていた霊媒ごっこを仕事にしただけだから、依頼は怪奇現象やら霊的実体やらに関わるものばかり。学校でも違和感がないように、私たちの間じゃもっぱら煤払いなんて呼んでいる。
ここは今までとは違って特になんの気配も感じない。ごくごく平和だった。そしてこの仕事じゃそれが一番、恐ろしい。
兎にも角にも、なんだかんだ今まで死んでいないのだからこの先も何とかなるだろうなんて、テスト前の謎の自信にも似た、根拠のない確信を頼りにやっている。
「あれ? 普通に屋根っぽいもの見えるけど」
勝手に先行したサキが、一方を指差しながら大きく手を振った。あれから十数分程度しか経っていない。案外簡単にカタがつくかもしれない。わずかに膨らむそんな期待を押しつぶすように、それ以上の不信感が覆い被さる。
「何もないのと違ったの」
彼女の目線の先を仰げば確かに、山の斜面に数軒ほどの茅かやを葺ふいた屋根らしきものが見える。村というほど大きくはない。集落と呼ぶのが妥当か。ただ、山奥にしてはそれなりに広く、ここだけ河岸が切り開かれていた。何もないのに依頼が来るのも、何もないのに何かがあるのも怖い。私はいつの間にか顰めていたらしい眉間を数回揉む。
気は、乗らない。
「とりあえず、行きますか!」
「そうね」
「手分けする?」
「ちゃんと仕事しなさいよ?」
「善処いたします!」
自分の両頬に一発ずつ。少しズレたナップザックを背負い直す。よしと、一言呟いて気を引き締め直した。まるでレジャー気取りのサキも、少し真面目な面持ちに切り替わる。ただ、いつまでこの真面目さが続くかはわかったもんじゃない。彼女がいつだって好奇心由来の無鉄砲さを忘れないことを私は嫌と言うほど知っている。それが良い方に転がるかどうかは多分本人も知らない。
集落は、一見して普通の限界集落や廃村、人の手で整理されず自然に戻る途中の里山のような雰囲気を湛えていた。畑と思しき跡地は雑草が繁茂し、ウリ科特有の鮮やかな黄緑の大きな葉の隙間から、黄色い花を咲かせ覗かせ、曲がり放題で先祖返りや交雑しているのであろう実が鈴成っている。畦道の塚は辛うじてかつての形が見える程度にしか残っていない。支柱は木が腐っているし、荷車が腐って、取手らしき金属だけが骨のように転がっていた。
伸び放題で当初の2倍ほどにはなっていそうな生垣を回り込んで覗いてみれば、河原から見えた建物はどこも昔ながらの日本家屋だった。かつて門かぶりの松であったと思しき木は、剪定されていたであろう頃の姿を想像できないほどに枝葉を伸ばし、道の方までせり出している。
「とりあえず、反ミームの線は消えた……かな」
上を見上げ、誰にともなく独り言。まさか石切がトリガーなどというわけでもあるまい。こんな簡単に見つけられるならば、ミーム性を持つ可能性は低いだろう。少し気が楽になる。
そう判断して見上げる茅葺き屋根は、苔むして緑色になりながら重そうに庇ひさしをもたげていた。玄関の引き戸は骨組みがかろうじて残る程度で、吹きさらしの中で原型を留めることは叶わなかったらしい。土間を覗けばかまども羽釜も全て在るべきところに収まっている。中は床が抜け落ちてまともに歩ける箇所はないが、レトロチックなドレッサーやその上に取り付けられた布切れの掛かった鏡、少しくすんだラッパのついた小さいレコードプレーヤー、形をしっかり保ったままの桐箪笥なんかの家具が丸ごと残っていた。
どの家屋もそうだ。人にも獣にも荒らされたような形跡はなく、ただ当時のままが残っている。
最後の家屋を一回りして敷地の外に出てみれば、だいぶ高台まで登ってきたらしい。川の方を見下ろしてみれば、おそらく切り立った崖の上であろう場所、森を背にして鳥居とこじんまりとした社が一つ立っているのが見えた。川の近く、低地の神社ならば水神の類か。山神も合社しているのかもしれない。
社のあたりはサキに任せた場所のはずだ。後で聞けばいいだろう。
一通り流し見だけしてあらかじめ決めていた合流場所に戻ってみれば、すでに彼女はそこに戻ってきていた。戻ってきた私を見つけるや否や、ぴょんぴょん跳ねて手を振っている。すっかり陽は昇っているのに、わざわざ日向で待っていたらしい。
「お初の方は何かあった〜?」
「全部残ってた」
「いや、何かめぼしいものあったのかなってことだよ?」
「全部残ってるのが異常だって言ってるの」
何もわかっていなさそうな顔できょとんとしているのを見て思わずため息が出る。まるで全員が夜逃げでもしたのかというレベルで、高そうな家具から小物までそのまま残っているなんてことはなかなか考えにくい。
「限界集落で最後の人が孤独死した可能性は?」
「流石に集落全員身寄りが居ないことはないでしょ。遺品を引き取ってものが少ない家だってあるはず」
「まぁ、確かに? 新聞も何枚か見つけたけど大正の物までしか見当たらなかったし、限界集落自体少ないかぁ」
ふむぅ、と言葉にならない音を漏らし、サキは大袈裟に考え込むそぶりを見せる。
昔、大正から昭和にかけてじゃなぁ。ず〜っと飢饉ばー起こってなぁ。この村だってそりゃ色々と不味かったらしいやなぁ。戦争で男手取られて、老いも若えも全員引っ立てられてなぁ。そんでなんとか持ったらしいんじゃわ。皮肉なもんだなぁ。
ふと、思い出した。聞き込みで老人が話してくれた話だ。
「……そういえば、聞き込みの時に言ってたね。大正から昭和にかけて連続的な飢饉があったって」
「じゃあ、この集落はその時期の飢饉に耐えられなかったってこと?」
「周りの集落は認知してなかったのかな」
「“何もない”ってことはそういうことなんじゃない」
「見捨ててたりして〜」
うえぇ、と舌を出してゲロ吐きそうな顔をするサキ。否定はできない。する材料はないし、部落であれば信憑性は十分だ。遺体が見当たらないのは、野生生物に食われるなり運ばれるなりしたか、あるいは家の中で静かに朽ちたのだろう。流石にいつ崩れるかもわからない家の中に入るほど愚かではないからもうここは憶測にはなるが、縁側から見る分には何も目にはつかなかった。
「誰に聞いても“何もない場所”には“何もない”の一点張りなんだよねぇ」
「嘘をついとるようには思えないけどね」
「私たちは普通に見つけられたよ?」
「わざわざこんな奥山までくる人が居ないんじゃない? 神隠しの話だってあるし、今はもう伝承か何かでここは何もないことだけが伝わってる、とか」
「なるほど。その可能性もあるかぁ。でもお初の言うとおり、何かはあったんだろうねぇ!」
ケラケラと笑いながら彼女は言う。実に呑気なものだった。畑によくある化繊の雀避けネットやら、金属製の看板やらも一才合切見当たらず、時代に取り残されているような、そんな村。今や衛星で空から地表が網羅される時代に、ここまで分かりやすいものがあって尚、周りの地域住民が口を揃えて“何もない”と言うのは、村人たちの信心深さか、はたまた。
「で、サキの方はなんかあった?」
疑うわけではないが、行きの道中での行いもある。彼女の態度から成果らしいものを読み取れないことは毎度のことではあったが、一抹の不安を抱きながらそろそろ結果でも聞こうと話をふれば、おさげを揺らしながら腰に手を置き、誇らし気に胸を張った。頭上に“えっへん”と文字でも浮かんでいそうな顔をしている。
「河原の削られて小高い崖みたいになってるところにね、人工の洞窟っぽいのがあった!」
「……河原戻ったんだ」
「12回跳ねたよ。記録更新だねぇ」
「で、見つけたその空間には入ったの?」
「いやぁ? 一人じゃ危ないもん」
結局仕事中に遊んでるじゃないかとか、道中で飽きたんじゃなかったのかとか、そんな言葉は飲み下した代わりに、締め付けられた喉に溜まった空気がため息に変わって逃げ出した。私の内心を知ってか知らずか、彼女の態度は依然として変わらない。
「神社もあったはずよね。そっちはどうだったの」
その場所へ先導されながら、情報共有を続ける。
「あ〜、あったね。なんかガサガサ野生動物がいたっぽいし怖かったから後で一緒に行こ」
「調べてないの?」
「いや〜……まぁ、廃神社ってやっぱり良くないもの溜まるっていうじゃん。クマとかが巣作ってるかもしれないじゃん」
「熊はともかく、あんた霊感あるでしょうよ」
うえへへへ、とよくわからない笑いで誤魔化すのに呆れていれば、件の場所に到着する。見れば、なるほど確かに小高い切り立った崖の下、崖の窪みに黒い空間がぽっかりと口を開けていた。部屋の骨格と思しき木材の構造物が一部分だけ露出している。入口は風雨に晒され朽ちており、小学生程度なら余裕でくぐり抜けられるほどの穴が一つ。蛇行する川の外側に位置するこの崖は、度重なる増水や氾濫で徐々に削られてきたのだろう。
スマホを出して懐中電灯をつける。照らしてみれば、それなりに奥に続いているらしく、部屋の奥まで光が届かない。しかし、照らし出されたその場所の異様さを伝えるには、入り口付近だけで十分だった。
格子、格子、格子、格子、格子。
「うわぁ」
ひたすらに並ぶ、木組みの格子。簡易的な独房のようなそれらは。
「座敷牢、かな」
「やっぱり古い集落にはあるんだねぇ。こういうの」
私の肩越しにこの光景を見たサキも、若干普段より声のピッチが高い。珍しいものを見てテンションが上がっているのか、怖いから声が上擦っているのかは分からない。ただ、いつも一貫してテンションが高止まりである彼女の声音が変化したことに、さしもの彼女ですら些か雰囲気にあてられたのを感じた。
「……いく?」
「お先にどうぞ」
「やだよお初が先に行って! 名前も初じゃん!」
「それを言ったらサキもでしょ」
どうやら本気で一番槍は嫌らしい。おおかたこの場所を見つけた時も、危ないから入らなかったのではなく、一人では怖かったのだろう。こういう仕事に携わっていようが暗闇が怖い事に変わりはない。既に河岸まで撤退したサキを尻目に、1人覚悟を決める。調査に来たからには入らない訳にはいかない。本当に鉱山のカナリアの如き体の張りかたをする羽目になるとは思わなかったが、ガスの滞留で窒息でもしたらその時はその時だ。サキまで共倒れなんて事態が防げればそれでいい。
「……よし」
身をかがめて、探索開始。
いざ内側に入ると、入り口の近くだけは外からの光で埃が煌めきほんのり明るい。
じゃり、と砂っぽい地面が靴と擦れる。どこからか地下水でも染み出しているのか、薄く湿った石壁がスマホのライトにぬるりと薄く光った。生き物のようで気味が悪い。靴音と、水滴がどこかで床を打つ音と、自身の少し早い息遣いが、嫌に耳に残る。
格子の部屋を一つ一つ照らして中を確認するが、大抵は増水時に水に洗われたのか、中には何も残っていない。それでも徐々に上り坂になっているらしく、中身のある部屋が散見されるようになっていた。その中の一部屋を適当に見繕い、格子の戸と思しき箇所を押してみる。
みしっ
湿った音をたてて、戸は奥に倒れた。倒れたというより、崩れたと表現した方が正しいかもしれない。それくらい脆くなっている。
「腐ってるなぁ……」
一言、誰にともなく呟く。自分の声を聴いたからだろうか。少し早鐘を打つ心臓は動きを落ち着けて、心なしか無駄に強張っていた肩が緩んだ感があった。先程破壊した牢の戸はおそらく引き戸だったのだろうが、錠前もついていなかったし、入れれば問題はない。本来の使い方にこだわる必要もないだろう。
格子の中に足を踏み入れ、まず目につくのは何か干草のようなもの。元は茣蓙ござか何かだったのだろうか。地面のあちこちに散らばっている。食器も。箱も。何の用途かもわからない麻の布切れのようなものや、木製の知育玩具のような何かもある。
ふと、小刻みなリズムで擦過する靴音を耳で捉え、反射的にスマホのライトを指で塞いだ。ふと辺りを闇が包む。光は淡くオレンジに光る指先のみだ。山用に着込んだインナーが腕にはりつく。一度意識してみればだいぶ涼しい。真夏のくせにぞわり、と鳥肌が立った。寒さか、緊張か。音の正体は少なくとも怪異ではない。十中八九サキだろうが、それ以外の可能性だって一くらいはある。
ふらふらと揺れる強い灯りが、歩いてきた方から近づいてくる。同時に、少し囁くような声が響いた。
「……あれ、お初〜…… 電気消した? おーい……」
最大まで張り詰めた全身が弛緩する。いつの間にか忘れていた息を吐く。吸い込めば、湿った冷たい空気が肺を満たした。まったく、肝が冷える。気を引き締めるための紐すらなさそうな彼女に、気の緩みを自覚させられるのは少々癪だった。結局入ってきたのか。後から入ってくるなら、私の配慮など無駄ではないか。リスク分散など通じなかったらしい。
ため息一つ、スマホのライトから指を退ければ、ふわりと世界に色が戻る。
ちらりと時刻を確認すれば、13時。太陽はもう落ちるのみだ。いくら陽の長い夏といえど、今日のリミットは近い。
「あぁ、生きとった〜! よかった。ポックリ逝ったかと」
縁起でもない事を言いながら後から牢に入ってきた彼女は、私を経由して、私が先ほどまで見ていた積み木と思しき木片を見てごちる。
「子供が閉じ込められてたのかな?」
「多分ね」
「……次どうする」
「ここへの入口探そうか。まさか入ってきたところが正式な入り口な訳ないだろうし」
創作や怪奇体験記ではよく聞く話ではある。座敷牢なんて、昔は地方の寒村なんかで当たり前のように罷り通っていたと聞くし、別に珍しいことでもないのだろうが、やはりこれほどの規模は異常。そう評価して踵を返し、牢を後にする。少し足並みが早くなっているのを自覚する。どうも暗闇にストレスが溜まっているらしい。
通路から見る限りどの牢も似たようなものだった。何もないか、布切れや食器があるばかり。何が、この村をここまで駆り立てたのだろうか。とても尋常とは言えなかった。
「あった。登り階段」
しばらく、サキが声を上げた。牢に向けていたライトを彼女の方へ合わせれば、彼女の正面に、こじんまりとした横穴が口を開けている。彼女は吸い込まれるように横穴に入っていく。
「掘り抜いたんだねぇ」
時折壁に光が反射し、彼女のしみじみとした声が響き、僅かに反射し闇に溶ける。彼女を追うように横穴に入り、壁面を照せば岩にツルハシの跡がくっきり残っていた。足元には不揃いで、明らかに掘り出したと思われる高さのまちまちな石階段。
「水流れとるね」
「わざわざ端に溝掘って排水も整えたんだ?」
左右の壁際を照らせば排水のためと思しき溝。現在でも機能を果たしているようで、どこからか染み出した水が一筋流れている。
今一度思う。この規模の穴を掘った当時の村人は、何に駆られてこんな地下に牢を設けたのだろう。
ゆらりゆらり、と石階段の足元を照らす二つの頼りない光が、滑る床を舐める様に揺れる。
暫くその光を目で追いながら石段を上がっていると、先を上がるサキが立ち止まった。ふと後ろを振り返れば、随分と上がってきたらしく下は暗闇に溶けて判然としない。全てを飲み込むようで、とにかく気味が悪い。定期的に、水滴の音か、規則的に小さな音が聞こえてくるような気がする。少し奥に向けて傾いた幅の狭い石段に立っていると、どうにも吸い込まれそうな、落ちていく錯覚に囚われてしまう。どこか、既視感があった。逃れるように上を見上げる。彼女が照らした頭上には、重厚な木板が浮かび上がっていた。
「木板? 少しカビてるねっ、と」
それを躊躇なく手で押し上げるのに合わせて差し込む夏の陽差しに視界がチラつく、といったようなことはなく。
「どう? サキ、どこに出た?」
「ん〜、室内。多分……神社?」
サキが私の手を掴んで引っ張り上げる。夏の湿気が顔を包む。彼女の手は、さっき押し開けた木板のせいか僅かにカビ臭い。落ち着いて見渡してみれば、彼女が神社と判断した理由が分かった。
とっくの昔に外れたであろう戸があったと思われる場所から、苔や蔦の張った鈴緒すずおが垂れているのが目に留まる、参道の左右には苔玉と化した推定狛犬、その向こうには石造りの簡素な鳥居。つまりここは拝殿はいでんで、本来は御神体を下ろすための神籬ひもろぎが祀られていたのだろう。座敷牢は、拝殿から降りる形だ。
「座敷牢での幽閉を神社の地下で……正気?」
「もしかして神への供物として座敷牢に閉じ込めてた……とか」
「本当にそうなら少なくともこの村は人身御供が罷まかり通ってたことになるね」
拝殿の床は体重を乗せるたびミシリと嫌な音を立て、今にも底が抜けそうな不安な音を立てるが、それでも私たち2人の体重を支える程度には強度は残っている様だった。
奥に、朱塗りの台が置かれている。決して高そうな見た目ではないが粗末でもないそれの上に一つ、ものがある。
箱だ。
足元に気を使いつつ台に歩み寄る。
「これがこの神社の神籬なのかな?」
サキは無警戒にもその箱を手に取りしげしげと眺め始めた。私がその台の奥にまわり込めば、ほつれた注連縄しめなわが引っかかった岩が床から突き出ている。注連縄に付いていたであろう紙垂しではとっくの昔に溶けたのか、どこにも特徴的な稲妻型は見当たらない。
「多分こっちの岩が神籬」
「……ならこれは何なの?」
「さぁ。置物か供物くもつじゃないの」
そういえば、地下の牢にも同じものがあった。あの時は知育玩具のような何かなのだろうと考え気にも留めなかったが。
立ち上がり、他の情報を探して上を仰ぐ。ここが神社ならあるかもしれない。
「あった。天井画」
拝殿の天井には、経年劣化でところどころが薄くなったり禿げたりしているものの、未だ鮮やかな絵巻のようなものが一面に描かれていた。中央のあたり、一際大きく描かれているものが目に留まる。
「半人半蛇? 妖怪の類かな」
サキも口をぽかんと開けながら上を仰ぎ見て、そう溢す。
「見た目は姦姦蛇羅かんかんだらみたいだけど、もう1匹普通の蛇と尻尾で巻き付いてるのは何なんだろ」
ずっと見上げていても首が痛い。一通り写真に収め、手元で見ることにした。拡大してみれば、半人半蛇の方はどうやら女性で、下半身の蛇の部分はもう1匹の蛇と螺旋状に絡んでいるが、大半は塗料が剥がれ落ちていて詳しいことはわからない。そのもう一方の蛇は、女性と向かい合って大きく口を開け、全体のシルエットとしては歪なハートだ。写真だとスマホの性能の限界か、どうにも画質が荒いし暗い。結局細部の確認は目視に頼ることになるだろう。
「これがこの神社の御神体なのかな?」
「可能性は高いでしょうね。どっちも神なのかな」
「二頭一尾で一つの神様なんじゃない?」
少し画面をスワイプしてみれば、下には、着物姿の村人と思しき人間たちが、この蛇にひれ伏し崇め奉っている姿が描かれている。
「こんな異形が神、か」
どちらかといえば、純粋な蛇の方が神のように思える。どうしても半人半蛇の方は姦姦蛇羅かんかんだらを想起するから、祟り神系の印象の方が強い。スマホの画面と睨めっこしている傍ら、彼女は私から離れ、朱塗りの代の方へ近づく。
「ま、後で見ようよ。それよりも取り敢えず一個はサンプルで持って帰ろうか」
彼女は背負っている荷物を下ろし、行きに買ったコンビニのレジ袋に無造作に突っ込んだ。祟りとか、そういう超常的な物事はこの世界の大多数よりも身近に知っているはずなのに、全く持って怖いもの知らずだった。
拝殿を出て、境内を見て回る。
奇しくもサキの要望通り、二人で神社内の探索をすることになったわけだ。
「なんもないね」
「よくある管理人のいない廃神社って感じね」
末社摂社もなく、この神社は拝殿に描かれたあの異形しか祀っていないらしい。
「ねぇ」
ひと足先に社殿の角を回った彼女は、こちらを見ずに私を呼ぶ。
「何? 何か見つけたの」
「あそこ」
彼女の元まで追いついて、開けた視界のその先に。ゆらめくは真っ白い特徴的な稲妻型。
紙垂だ。
おかしい。
「……綺麗すぎない?」
屋根はなく、自然木に括り付けられた注連縄。風雨に晒され、ちぎれ飛んでいて然るべきだ。拝殿の神籬がいい例だろう。室内の注連縄があの有様で、外のものが無事なわけがない。
「お初。あれ」
隣で、サキが森の奥を指し示す。薄暗い木立に目を凝らせば、不自然に削れた幹が数本ある。
「何あれ。野生生物の爪研ぎじゃない……よね」
「研ぐというよりかは……擦れた感じ? こう、こんな感じでえぐれてるし」
手で弧を描きながらジェスチャーする彼女を横で見ながら、紙垂で組まれた簡易的な結界門の脇を通る。所詮木で拵えられているから潜らなくてもいい。注連縄の下を潜るのはあまり良い予感はしない。
「え゛。行くの……」
「調査に来てるんだからこれくらいで怯まない」
渋るサキも、結局はついてきた。座敷牢窟の時と同じだ。団体様でトイレは行かないのにこう言う時は誰かの側に居たいらしい。
「で、この木もあれも、全部同じ感じなのね」
「倒木も多いねぇ」
近くで見れば、やはりその異質さが克明に捉えられた。幹は目線ほどの高さまで楕円形に湾曲し、ただ抉られたというよりは、何かに圧迫されたような見た目だった。あたりに倒れた木々も、同じような損傷を受けている。
「あまりここにいないほうがいいって奴かな」
「帰る? 帰ろ? ほら」
まるで何かが押し通ったような。その大きさは尋常ではなく。乾いてきた汗が再び滲む。拝殿の天井の蛇。御神体。まさか、まだ居るのか。
結局、写真を撮るだけ撮って、サキの急かすままに集落を後にすることにした。
「ねぇ、なんでラーメン食べようとしてるの私たちは」
「腹ごしらえだよ? こう言うところは噂が転がってるもんだし」
「ひとまず直帰して解析にかけようって話だったよね」
「まぁまぁ。これも重要な地域交流だし? あ、はいお冷」
ガラガラと氷が踊るスモーク加工の施されたポットを傾け、さながら上司の機嫌をとるかのようにお冷を注ぎ始めた彼女は、私の忠告などどこ吹く風で割り箸と手拭いを渡してくる。ここで飯を摂ることの何がどう地域交流なのかは分からない。そもそも、二日使ってすでに周辺の村人にあらかた聞き込んだ後だった。
「ていうか、荷物置きがないからってカウンターにそのレジ袋直置きはどうかと思う」
「じゃあお初が持っててよ」
「え、嫌だけど」
寂れたラーメン屋の店内で一際存在感を放つコンビニのレジ袋は、先ほど回収した箱が薄く透けていた。間違ってもコンビニで買える代物でないことは誰の目から見ても明らかだ。カウンターは布巾程度では拭い切れないのか絶妙にベタついているし、天井の蛍光灯はどれも油脂で黄ばんでいる。なんなら切れているものまである有様で、客はまばらに二、三人。夕飯時にこの人数は、店が小さいということを加味してもあまり経営がうまくいっているとは思えない。聞き込みも何もあったもんじゃない。本当にただの腹ごしらえだ。
「お待ちどう」
淡白な言葉と共にそれぞれのラーメンが提供される。割り箸を無駄に綺麗に割って麺を啜る。
「客がいない割に美味いね!」
「隠れた名店って奴かしらね」
ちゅるんと旨そうに吸い込んで第一声。なかなかに失礼な事実をしっかりと口にしたサキに被せるように、当たり障りないフォローを被せた。店主の方をチラリと伺いみれば、なんとも言えない苦笑いでこちらを見ている。見たところ若い。ここに立ち上げたばかりなのだろうか。こんな田舎の村に個人店を構えるとはなかなかの冒険家だな。そう漠然と考えながら中々にいける麺を啜っていると、客が来なくて手持ち無沙汰になったのか、店主らしき男がこちらに寄ってきて話しかけてくる。
「嬢ちゃんたち、外の人だろ」
「……わかりますか」
「そりゃあな。こんな寂れた店来るのは外部のなんも知らん人だけだ」
「先ほどは友人が飛んだ失礼を」
「あぁ、いや嫌味とかじゃねえよ? 事実でしかねえからな」
そう言いながら店主はカラカラと人が良さそうな笑い声をあげる。寂れた店内には似合わない爽やかな笑い声だった。周りの客を見回せば、地元の人間と思しき人は見当たらない。ヘルメットにバイクスーツの年若めの男性数名がいるくらいだ。ツーリング途中に寄ったのだろう。
「……話は変わるがよ、そのレジ袋ん中身はどこで見つけたんだ」
店内をそれとなく観察していれば、店主は声を一段落としてそう続けた。その目線は話す中で幾度かレジ袋を経由する。
「何か知ってるんですか」
サキがレジ袋から件の箱を取り出そうとするのを押し留め、こちらも声を落として問い返す。
「知ってるも何もな……あー、なんというか、そうだなぁ……嬢ちゃんたちはその、行ったのか?」
「行ったって、どこにです?」
店主が聞きたいことはおおよその想像がついた。なんせここら一帯、あの地はタブーだから。お説教でもされるのかもしれない。だから何も知らない体で聞いた。聞き込みにおいて相手に先に情報を語らせるのは鉄則だ。私たちは子供の無邪気さを十全に使えるのだから、使えるうちに使うに限る。
ごもる店主は少し目を彷徨わせたのちに、逡巡しゅんじゅんを振り払うように、声を落として呟いた。
「“何もない場所”に、だ」
会計を済ませ、店の軒先で適当にだべって待っている。日は下がり、西は赫く染まりつつある。都市部では到底見れないような山麓が、黒くシルエットを空に貼り付けている。
ツーリング中と思しき男たちが「ご馳走さんでした〜」と口々に言いながら店から出て、駄弁りながらやがてバイクで去っていった。それを見送って程なく、店主が顔を見せる。
「いやぁ悪い悪い。待たせたね」
店主は店に鍵をかけて店のシャッターをガラガラと落とす。錆が酷く、ギギィ、と頭の奥を引っ掻くような嫌な音を立てた。店内は脂っこいのに、こっちに油は差していないらしい。店主はシャッターに『本日所要につき予定よりも早いですが閉店します』と、決して上手くはない走り書きをセロハンで留めて店の脇に消える。程なくして金属製の階段を上がる硬質な鈍い音が聞こえた。
「こっち上がってきてくれ」
おそらく居住スペースであろう場所に、見るからに若い女子二人を呼び寄せる男の胆力に関心もなく、同時に非常識云々と文句を垂れるほどこの二人は乙女でもないし通常の常識のもとに生きてはいなかった。一つ目配せを交わし特に躊躇なく男の住居に招かれる。
「お邪魔します」
「おぉ……なんというか、年季があるね」
「ちょっと待ってな。今座れるもん出すから」
歯に絹着せぬ物言いをするなら、みすぼらしい。そんな印象。思えば、周囲の家に対してこのラーメン屋は一段劣って見えた気がする。よくあるラーメン屋だと思って気にしていなかった。これまた築40年くらいに見える押入れの襖を開けて店主が数枚引っ張り出してきた座布団に、特に遠慮せず直る。サキは、どうせすぐ見なくなるのに人様の家のテレビを勝手に付けた。
シンプルなグラスに麦茶を注いで戻ってきた店主が向かいに腰を落ち着けるのを見届けて、早速話を切り出す。
「先ほどの話についてですが……何か知っていることがあるんですね?」
男はカウンターの時と打って変わり、目を泳がせる様な優柔不断さなどは微塵も見えず、真っ直ぐに私達に目を合わせてくる。しばらくの沈黙を経て、彼はおもむろに口を開いた。
「その前に、まずはこっちの質問に答えてくれ」
私たちの顔を交互に見てくる店主に対して首肯で返す。
「よし……嬢ちゃんたちはここら一体で“何もない場所”って呼ばれてる所に行った。それで合ってるか」
「確かに行きましたね」
「そのレジ袋の中身、それはどっから持ってきた?」
「多分神社の拝殿だと思いますけど、そこからです」
サキがレジ袋から箱を取り出す。若干の土塊と共に顔ほどの大きさの木箱を3人の中央、囲んでいるちゃぶ台の上に置いた。自分でも罰当たりなことをしているとは思う。それでも、特に霊的な存在も残留思念も感じられなかったから特に咎めずここまで持ってきた。所詮はなんの効果もない箱だ。
「この木箱が何か?」
「いや、まぁ持ってきても問題はない、んだとは思うけどな……そうだなぁ。嬢ちゃんたちは違和感なかったか? なんで揃いも揃って周りの村の奴らが、明らかに集落の跡地がある場所を“何もない場所”なんて言い張ってるのか」
どうやら怒られるわけではないらしい。
「あんな山を分け入った場所、まともな道もないところにわざわざ地元の人は確認など行かないし、伝承だけが残った、と考えていましたが」
少し思案して、結局探索時に話していた内容を口にする。
「あながち間違いじゃねえ」
店主は麦茶で喉を潤して、片手間にコップを軽く揺すりながら続けた。
「嬢ちゃん達みたいな外の人らには何も言わないだろうけどな、今伝わってる伝承はこういうもんだ」
“奥山は山の神の神室かむろにて、年八つまで立ち入りを禁ず。
禁を破りて山に入いらば見初められ隠される。
死人、大罪人出た時は山に送りて彼の地鎮護の礎とすべしと言い、これもまたまた隠される。
山の神の御使いは、この地に恵みを齎し穢れを祓う。
幾年も文月の初めに村三つより神輿みこしを選び、これを神に召し上げた。
神はこれを望みはせず、自ら神輿を返すに併せ、以降御使みつかいと共にお隠れになられた。
以降、彼の地は禁足不踏の聖域と相成った。”
店主はゆっくりと、しかし詰まる事なく言葉を紡ぎ、なんとも表現し得ない表情を浮かべた。不満げな色が含まれているように感じる。
「神は生贄を望んではいなくて、生贄を送り返して山に籠った……そういう認識でいいですか?」
「よくある伝承だね。善性の土地神様ってところかな?」
「善性、と言えばそうだったんだろう。ただこれは伝えた奴の立場に都合の良い形で改変されてる」
伝承の形が変わること自体は別に珍しいことではない。長年の口伝ゆえに細部が徐々に省かれたり、逆に飢饉や天災などで信仰が追加、変性することもある。その中には、信仰の内と外で視点の違う口伝が行われることも、暗に書き換えられることもある。今回は、そう言う類のものだと男は言う。
「俺のじいちゃんがな、よく言ってたんだ。その伝承の文句はこうだった」
そう言うと先程と少々異なる語りを紡ぐ。
“奥山は穢多の忌地がため 年八つまでの立ち入りを禁ず
禁を破りて山に入らばぐし誘はれ殺さる
死人 大犯人 蛭子ひるこのいでしは 穢多にやりてこの地の神鎮護の礎としろと言ひ これも神への供物となる
山神祀りの穢多郎党は 我らの食を潤し穢れを祓いしき
さるやむごとなき立ちところなれば 姥捨うばすての非道おびただしきわざに祟りを畏れし村人は 山神様が贄にえ求め 贄足らずと言はば 幾年も文月初めに村三つより贄選び これを神に召し上ぐとし 間引かれし人の魂を神にやりて慰めむと亡骸を供物にて捧ぐ
とばかりし 御上の勅令に穢多の区分を撤廃するが伝へられき
年代を経るごとにこの風習は隠しがたくなりく
されど神の要求に贄をさしいでたりしき仕方のありし以上 うちつけにそれを取りやめば 何の起こるやなど絶えておもひかけのつかぬため 止めやうにも止められず
されど年ごろ捧げらるる人のいづるよしもなく 我々が贄をおこさぬ年ありき
されど何の起こるよしにもあらず
これに祟りなどなしと知るれば 以降人は遣らざりき
十年ごろ後 穢多ははた絶えきべかりき
元より山の神は我らの神ならず
かの神も音沙汰なく 我ら土地神たる天照の御元にも下らむ
穢多は絶えず 共に召し上げられけり
彼の地ははやく神在らず
ただ何もなく またこれよりも何も無し”
じいちゃんとやらに死ぬほど聞かされたのかもしれない。古文の語りは流麗に、しかしなんの痞つかえもなくつらつらと、遊び唄の如く語られた。
「私理系だから古文わかんないんだよね」
サキは早々に意味を理解する試みを放棄したようで、はなから私に聞く気で途中からテレビを見ている。テレビのデジタル表記が指す時刻は19時も半ばを示し、彼女はクイズ番組を相手にたまにケラケラ笑っていた。それでも話の一区切りはしっかりと聞いていたようで、私に翻訳しろと催促の目を投げかけてくる。仕事の最中であることを忘れているわけではないらしい。
つまり、この話はこうだ。山の神に贄を捧げる風習は実際のところ、
「蛭子や大罪人を穢れとして穢多集落の人々に殺させるなんていう、非人道的な所業に対する祟りを畏れて、殺した人達を神の元へ祀り慰める風習だった、ってことですか」
後々穢多非人の区分が撤廃されると、この風習はいよいよ表に出せなくなり、差別を隠蔽するために伝承を捻じ曲げた、ということなのだろう。
「嬢ちゃん。歳のわりに、なに……」
いつの間にか、グラスの中の麦茶は机の上で凪いでいる。男は言葉を選ぶように喉の奥で複数回語彙を反芻する様に見え、喉仏が不規則に上下しているのが見てとれた。気持ちはわかる。目の前の子供は、およそ普通の学生の様な見た目に似合わない知識を持ち、オカルトじみた話にも真面目に答えを返してくる。かといってスピリチュアルに傾倒した素振りもないと来れば、これほど実体の掴めないものもないかもしれない。
彼は結局、何か、オブラートに包みながらもこの子供に適する言葉を見つけることは叶わなかった様であった。
「気持ち悪いくらいに物分かりがいいな。古い言い伝えをそう簡単に理解できるってこたぁ、そういう調べもん専攻か何かか?」
「似たようなものですね」
「若いのによく知ってんなぁ。なら少し込み入ったことも教えてやろうかな」
店主は、切り替える様に話を続ける。目は微妙に合わない。
「当時は日本全体で飢饉があったらしくてな。周りの村は率先して爺婆を贄にしたそうだ。要するに体のいい姥捨。それに祟りを鎮める人柱っていう正当な名誉をくっつけたもんだな」
「村全体で公認の行いだったんですか」
案外穢多集落の人々は、被差別ながらも存在を活用され、一定の地位を築いていたのかもしれない。そんな予想に、店主は首を横に振る。
「ところがどっこい、そもそもこの風習は穢多集落でのみ行われていたそうだ。風習が始まった理由も飢饉が原因じゃない。ちょうどいい風習があったから、そこに乗っかる形で周りの村ぐるみでやり始めたってことだ」
「飢饉以前からですか?」
「あぁ。穢多ってことは被差別階級だろ? 被差別階級と婚姻を結ぶ奴はそういない。するとどうしても同じ身分の集落を作ってその中で世代を継がなきゃいけなくなる。するとどうなる?」
「なるほど。血縁が濃くなって病死などで早逝が増えると」
「その通り。これは日本各地にありふれた話だろうな」
近親間での婚姻を続ければ血は濃くなり、遺伝病や奇形が多くなる。必然的に薄命になり、死人は増え、早逝で浮かばれない魂がその場に留まらぬように神の元へ送る。おおまかに言えばこう言う流れで生まれたのか。言ってしまえば実にありきたり。隠れ里や穢多集落で発生する信仰としては目新しい点はない。ただまぁ、探索時の予想より、真相は二回りほど血生臭いようだった。
「昔は山の神も供物を要求はしなかったんだ。それでもどうしてもこの未来叶わなかった子らを慰めてやってくれっていうもんでそのうち許容し始めたらしい」
神も押しには弱いのだろうか。人に情をかけたのだろうか。随分と人間臭いものだ。GOCと関わりのある同業者からは神性にも個体差が存在すると聞くことがある。そういうこともあるんだろうと納得できないことはない。
「あの座敷牢ってさ」
「多分そう言う人たちを収容する場所なんだろうね。周囲の村からも送られてくるから大きな収容場所が必要だったんでしょ」
「あぁ、やっぱり知ってるのか」
しばしの間部屋に沈黙が降りる。安物のテレビからテンションの高いMCのツッコミが聞こえ、それに併せて差し込まれるゲラ。若干ノイズ混じりのそれは、古臭いリビングに、嫌によく響く。キッチンの蛇口は栓が死にかけているのか、先ほどから錆びついたシンクに定期的に水滴を落とし、それが反響して鈍く思い音を発する。あの牢窟を、あの暗闇を鮮明に再構築した。心なしか、あの場の涼しさが戻った気がする。
話を聞いていながらも、ずっと思っていたことがあった。私が問う前に、サキが口を開く。
「……あの、なんでそこまであの場所に詳しいんですか?」
「あぁ、言ってなかったっけか。俺ぁ、あの集落の住民の直系だよ。嬢ちゃんたちが何を調べてるのかは知らねえけど、この辺りの村ん中じゃ一番有用な事を話せる人間ってことだ」
店主は首の後ろを指で掻きながら言う。
“何もない場所”の語り部は、結局サキの読み通り、寂れたラーメン屋に転がっていた。彼女の言う通り、場末のラーメン屋の地域交流も馬鹿には出来ないらしい。
「あなたは神を信じますか?」という有名な文言がある。宗教勧誘などでもはやテンプレ化した常套句。実際に第一声でこの発言を聞いたことはないだろうと言うくらい使い回され、ネタとして鉄板化したこの文字列。そもそも最近じゃあインターホン越しに見て無視する家庭ばかりだから、ああ言う宗教勧誘の人たちもさぞ難儀しているんだろう。
もし実際にこの問いをされたとしたら、私もサキもこう答えるだろう、と言う話題をしたことがあった。その時に行き着いた答えはこうだ。
「「神は色々な定義がありますけど、神道で祀られるような神々は大抵、実在しますね」」
今まさに、一生聞くことのないと思っていたこの常套句を聞かれた訳で、テンションもあがる。対する目の前の店主は、ノータイムで紡がれたこの回答に、より一層気味が悪そうな顔を浮かべた。さもありなん。フィールドワークに来た物好き程度の認識でありたかった女学生二人が、いよいよもって真顔で『神は実在する』と宣えばそう言う表情にもなる。こればかりは相手が悪い。私たちは緞帳ヴェールの内側を知る人間。この世界に超常現象や存在がありふれている事を普通のこととして捉えている。
「それで、その質問をするって言うことは、あの集落には神が実在したわけですね」
「単に有力者を神と呼んで伝承したわけじゃないってことだよね」
店主は問われてようやく平常心を取り戻したらしく、若干の戸惑いを隠し切れないまでも口を開いた。
「嬢ちゃん方は……神を見たのか?」
「えぇ、一応それに類するものは何度も」
「何度も、ってことは、別にあの場所で神を見たわけじゃないんだな」
「あそこは特に何にも。気味が悪いのと、それっぽい痕跡があるって事を除けばなんの変哲もないただの村だったよ? 神性も霊性も何も感じなかったよね」
「そうね」
まぁ、そりゃそうか。そう男はそう呟いてほぅと息を吐き、安堵した姿を見せる。
「あなたが言うように、あの場所に神がいたのは事実なのでしょう。それについて、もう少し詳しく教えていただくことは可能ですか」
「あぁ、そりゃ一向に構わねぇよ。そう言う話をするためにこうして場を設けたんだ」
「ありがとうございます」
気になるのは、今あの場所には神と称されるものが存在しないことだ。伝承を信じるならば、山の神は穢多集落の住民が信仰していた神であって、明治に入ってしばらくすると周りの村が信仰していた天照大神に編入、融合、あるいは平定、討滅されたのだろう。本当に安直に考えれば、だが。
「私たちは、あなたが語った伝承の通りに天照大神のもとに編入されたとは思っていません」
天照大神あまてらすおおみかみは今や日本全土で広く信仰される太陽神かつ、天津神あまつかみの住まう場所である高天原たかまがはらの最高神。かの高名な伊勢神宮の御祭神ごさいじんだ。神話に詳しくなかろうが、日本国民なら一度は聞いたことがあるだろう知名度ナンバーワン、神社の御祭神指名率トップ神である。天皇の祖とも言われているそんな神が、こんな辺鄙な片田舎の神をわざわざ平定になど来ない。神と呼ばれる多くの存在は、そんなに社畜的な性格をしていない。
「その予想の通りだ。山の神は誰かの元に属することも平定されることもなければ、取り込まれてもいない」
店主は一呼吸おき、真面目くさった顔で言い放つ。
「山の神は、俺のひい爺ちゃんが殺したからな」
「……殺した? 神を?」
「そうだ」
男のあまりに突飛な発言に、数瞬思考が止まる。私の鼓膜は脳死で耳から受け取った情報を耳に伝え、なんの理解も解さずに口からただ反復するのみに留まった。さらに数瞬を理解に要し、意味を噛み砕いてもなお、やはり男の発言は現実味のないものであることに変わりはない。少なくともただの一般人からおいそれと出る発言ではなかった。
「それは、どうやって」
「そうだな……神が死ぬ時ってどんな時だと思う?」
一呼吸挟んで店主が問う。神格実体と呼ばれるものも様々だが、大抵の場合、少なくない犠牲のもとにGOCが拡散させたとかいう脳筋な噂ばかり聞く。ただ今回の場合はそうではないのだろう。ごく狭い地域で信仰を受けて生きているタイプの存在は日本全土、世界全体で数えきれないほど居るはずだ。正常性維持機関も、こんなところまで手は回らないことはままある。それでもなお神が死ぬ条件は。
「……“誰からも信仰されなくなった時”でしょうか」
「当たりだ。誰からも畏怖されず、存在を認められなくなった時に神は死ぬ。現代科学が発展してきた今だって、競馬やら受験やら、ことあるごとに人は神に祈る。でもその対象はこんな片田舎の山に引きこもった山の神じゃない。こう言うところの土地神さんは、忘れられたら最後なんだ」
「つまり、あなたのひいお爺さんが『殺した』と言うのは、信仰を捨てたってことですか」
「そう言うことだな」
そう首肯して、彼は膝に手を置いて立ち上がった。
「ちょっと待ってな。見せるべきもんがある」
そう言って男は襖を開け、奥の部屋へ消える。少し見えた奥の部屋は、煎餅布団と畳、それに小さな神棚らしきものに、富多なんとかという文字が書かれたお札が見えた。どうやら寝室兼和室の様らしく早々に視線を外す。壁が薄いのか、部屋で何か開け閉めする音がはっきりと聞こえていた。
ぼーっと、いつの間にか変わっていた番組を眺めて待っていると、不意に脇腹を小突かれた。サキは好奇心を全面に宿し、私の顔を覗いている。仕事モードは忽然とどこかへ消え去ったらしい。
「お初、どう思う?」
「どうって……嘘つく理由もないし事実なんじゃないの」
「伝承じゃあ村人全員息絶えたんでしょ?」
「そんなのあくまで伝承だし、あの人のひいお爺さんが殺ったって言うならそうなんじゃない?」
地方の土地神といえども、神は神な訳で人間が殺すのは至難だ、しかし、信仰に限っていえば、そう難しいものでもない。信仰を持つもの全員を殺すか記憶喪失にさせるか認識を改変するなどという、非常にシビアな条件が達成できればの話ではあるが。
そして今回はそれが可能な状況が揃っていた。考えられない話ではない。
「言っただろ。俺はあの集落の直系だ」
襖の開く音と共に降ってきた店主の声にそちらを向けば、腕には見覚えのある、と言うより今まさに机の目の前に置かれているものと同じ木箱が抱えられていた。ただ、私たちの持ってきた箱のそれより明らかに小綺麗だ。
「これはひい爺ちゃんの頃から家にある木箱だ。それと同じやつだな」
「なぜそれがこの家に?」
「これはもともと次に捧げられる神輿になるはずだったらしい。ひい爺ちゃんはこれを持って村から逃げた」
店主はまた対面に座り直し、箱の蓋をとってこちらに見せてくる。中身は空で、真っ黒。
「黒いばっかりで何もないとか思ったか? これな、黒く塗られてるわけじゃねえ。全部文字なんだよ。達筆すぎて何も読めねえけどな」
見るか? と箱を差し出される。受け取って見てみれば、確かにミミズがのたくったような字が細かくひたすらに書き連ねられていた。山の神への祝詞のりとか何かなのだろうが、流石に読むのは難しい。
「そっちのは確か拝殿に置かれてたんだろ?」
「そうですね」
「じゃあ中身詰まってるかもなぁ。開けないほうがいいぞ」
「振っても音はしませんでしたよ」
「詰まってるって言っただろ。文字通りだ」
そう言って私たちが持ってきた箱を軽く小突き、彼は言う。何が詰まっているのか大抵の想像は付く。言葉を濁すのはつまるところそういうことだ。
「この箱はやはり」
「あぁ。さっきも言った通りだ。早死したり周りの村から捨てられた人の神輿だよ」
「ってことは、現代でもこれを交番にでも持っていこう物なら確実に聴取ってことだね」
微妙にズレた感想を吐くサキを横目に件の箱をまじまじと眺める。
この箱からは何も感じない。感じないが、その箱が碌なものである可能性は限りなく低い。時には思念系の方がまだマシと思えるような背景を持った一品だってある。先ほどの話の後では、土塊とカビの汚れでさえ、血の乾いた跡に見えてきてしまう。難儀なものだ。
「さっきも言ったが、最初は神は供物を要求しなかった。そもそもあんな社殿すら建っちゃいなかったらしい。子らの魂を慰めてほしいってお願いして神前に護摩ごま焚いて一晩置いて、その後は丁寧に埋葬してたんだ。そうすると山からあの拝殿の岩に神様が降りてきて、魂を引き取ってくれたそうだ」
それゆえにあの神社の神籬はあの床から突き出た岩だったのか。後付けの社殿。自然に根を張る磐座いわくらを動かすわけにもいかない。だからああいう形を取ったのだろう。
店主は斜め上を見つめながら思い出すように、なおも淡々と言葉を紡いでいく。
「いつからか、一晩経つとご遺体は綺麗さっぱり無くなって、神様の元に連れて行ってくれたんだってことで形式を整えた結果がこの木箱らしい。送り神楽にして神子みこに見立てたってことだな」
いずれにせよ、この木箱は棺であり神楽。呪術的な供物であることには変わりがないが、ごくありふれた自然崇拝が転じた信仰体系のように思える。
「ひいお爺さんはこの風習が嫌で逃げ出したとして、その当時はまだ神を信仰する集落の住人はいたんじゃないですか?」
「いや、もう当時は集落としての体は保てなくなってたらしい。ガキの頃のひい爺ちゃんと足腰立たねぇ老いぼれ数人なんて有様だったらしいからな」
周辺の村からすれば、ご時世的に秘匿されなければならない村。闇に葬られて静かに消え去るべき村。そんなところに新たな血は入らない。住民は病弱が加速し、寿命は縮み、最終的には絶える。幸運にもそこそこの健康体として育ったひいお爺さんは、村の因習に見切りをつけ、村を捨てて逃げたのだろう。部屋を見回して店主は続ける。
「この家はひい爺ちゃんの代からあるんだ。増築補強はしてるけどな。だから周りから比べても部屋の内装はぼろっちいし壁は薄い。そっちの嬢ちゃんはさっきウチの店を繁盛してねえって言ったっけかな」
「え、あいや、すみません……」
唐突に失言を掘り起こされ、バツが悪そうに謝罪をするサキを店主は軽く手を振って受け流す。
「怒ってないさ。……ただまぁ、どうしようもないんだ。この家は代々村八分でよ。“何もない場所”から逃げてきたやつの家。ほとんど伝承を知る者はいなくなって形骸化したとはいえ、いつまでも不穏分子であり続ける。寄ってくれるのは旅先の人らくらいのもんなんだよ。嬢ちゃんたちみたいなね」
「今も、ですか」
「今はまだ昭和の頭が固えジジイどもが自治会やってるんでな。子供の代が若くなってきた頃には緩和してるといいけどなぁ。まぁまた食いにきてくれや。調査以外でこんな辺鄙なとこに来る用事もないかも知れねえけどよ」
朗らかに笑う彼の顔を見て、凝り固まった部屋の空気が少し和む。時計を見ればもう21時も近い。数駅離れた街中央部のホテルに戻るにはちょうど良い時間になっていた。田舎の終電は早い。店主も、垂れ流されたテレビの時刻を見て、よし、と一声立ち上がる。
「今日は貴重なお話しをありがとうございました」
「あぁ。本当は駅まで送ってやりたいんだがな」
「幼い子供じゃないですから。大丈夫ですよ」
机の箱をレジ袋に放り込み、私たちも立ち上がる。
「そうじゃない。言ったろ。俺は不穏分子だって」
「はぁ」
「要するに、こんな時間まで長いことくっちゃべってたあんたらは最高に怪しい余所者だ。そこに俺が送り届けまでしたら俺も嬢ちゃんもどうなるか分かったもんじゃねえんだなぁ」
まさかそんな大袈裟なと思いながらも、否定できない自分がいた。神が実際にいるように、こういう村の因縁も、荒唐無稽とは一蹴できない。
「俺は年頃の女子二人連れ込んだって風評が立つだけの方がよっぽどマシだからな。ただ、電柱の影と後ろにはくれぐれも気をつけな」
最後の最後まで脅すだけ脅してにこやかに玄関のドアを閉じようとする彼に、最後の質問を投げる。
「ところで、あの場所につい最近行ったことはありますか」
「いやぁ? あんな場所里帰りでも行きたかないね」
「そうですか。変なことを聞きました。では」
ドアが閉まるのを見納め、錆びた鉄階段を降りる。彼の話はこれ以上ない収穫ではあった。あの客足でどう食い繋いでいるかは知らないが、また寄るのもいいだろう。先に鉄階段を降りるサキのつむじ二つを何とはなしに眺めながら、最後まで全くもって合わなかった彼の目線と、心の奥に引っ掛かる僅かな蟠わだかまりに思いを馳せる。
何ら先ほどの話におかしな点はないはずだ。彼のひいお爺さんは、すでに限界集落と化した村を捨て、空の木箱、曰く神輿をもち、逃げ出して先ほどの土地に居を構えた。残された住人はもう老い先短く、ひいお爺さんだけが山の神信仰存続の希望だったのだから、殺したと言っても相違ない。あの異質すぎる座敷牢窟は周囲の村から委託された処分人、つまり供物を入れて置く場所で、本来は病死や蛭子の魂が山の神のもとに上がれるように供養する風習が利用されたもの。店主のいうことは辻褄が合っている。
……本当に?
疲労で鈍りつつある頭を回し、想いに耽りながら先の後ろをついていく。夏とはいえすっかり陽が落ちた街中。どこか近くの田んぼから聞こえてくる牛蛙の低い声を聞きながら、定期的に街灯が明暗を繰り返す蒸し暑い住宅街を歩く。踊るように伸び縮みする影が落ちるアスファルトは砂っぽく、歩くたびに少し滑る感覚があった。
同じような生垣が続く中、疑念が堂々巡りをし始める頃、サキが思い出したように声を上げる。
「でもなんで、神様は遺体を引き取ったんだろうねぇ。それまでも普通に埋葬されてたのに」
「神が考えることはわからないわよ。そもそも近代の日本の神々が生贄を求めるのはそんなに珍しい事じゃないし」
「まぁ確かに?」
でも、と彼女は呟き、口角を少し上げた。
「お初らしくないねぇ」
「……何が?」
「そんな、考えを放棄したみたいな答えはさ、お初と違うなって。もしかして……眠い?」
実際のところそれはその通りだった。つまみ食いで人の味を覚えると言った話はたまにあるが、どちらかといえばそれは物の怪の類だ。贄を求める神は最初から求めるし、古来の神はそもそも贄を求めない事が多い。
日中も石きりなどして遊んでいたくせに、私とは対照的なまでに元気が有り余っているように見える彼女は、何度目かの街頭のスポットライトのもとに照らされる。死にかけのナトリウム灯が明滅するのと同瞬、私の方へ振り返る彼女の長いおさげが二つ、綺麗な螺旋を描いて流れた。
「……ねえ。お初」
彼女はさも楽しいことを思いついたかのような笑みを浮かべている。生ぬるい風が一陣、彼女の後ろからこちらに抜けた。軽く張り付く前髪に鬱陶しさを感じつつも、彼女が次に紡ぐ言葉を待つ。
長年一緒にいればわかる。この笑みは絶対に碌なものじゃない。彼女はいつだって好奇心に実直なのだ。
「これ、開けてみない?」
彼女を照らすにはあまりに心許ない光の下で、レジ袋が一つ揺れた。
安宿の一室。座卓を囲み、私とサキは胡座をかいて、卓上の箱に視線を落とす。
「お初、私怖くなってきたんだけど」
「さっきあんなに楽しそうだったのに」
マイナスドライバー片手に、若干強張った表情で何とも情けないセリフを発した彼女を無言で促す。
「やっぱ、お初がやらない? レディーファーストっていうし」
「……レディーファーストを原義で用いることもそうそうないけどね」
「いやぁ……やっぱ危ないし」
「危ないのは私もそうなんだけど」
大体どっちも女だ。座敷牢窟の時もそうだったがこの女、中途半端にビビりだ。そのせいで大体調査の一番槍は私。そろそろ張り手で喝の一言でも入れてやろうか。大体、長い付き合いだが彼女の内心は私でも掴めない。彼女の欠点であり武器でもある無鉄砲は、無鉄砲のくせに今みたいにたまに気力がジャムるし、仕事に対するスタンスも掴みにくい。好奇心が全ての動力源の様な気もするし、その裏に私の掴めない何かがある様な気もする。彼女の好奇心を宿した瞳の裏はいつも、吸い込まれるように黒いのだ。まるで、あの座敷牢窟のようなどこまでも落ちて行きそうな黒。
……あぁそうか、あの時の既視感はこれか。好奇心の裏に全て見えているような、何も見ていないかのような彼女は、たまに気持ち悪いぐらい核心をつく。依頼も、私の内心も。
彼女の目から逃れるように、手元の箱に、視線を流した。
兎にも角にもこのままでは一向に進展しないので、ビビり散らかすサキからドライバーをぶん取って、土のこびり付いて固まった蓋の隙間に差し込む。
“何もない場所”の調査拠点のために数日借りた宿。学校にあるような丸い壁掛け時計の針だけが、かちり、かちり、と一際大きく耳に残る。
「ちょっとタンマ。テレビ付けよ」
「そうね」
雰囲気など知ったこっちゃなかった。肝試ししているわけでもないのに怖さなんぞ必要としていない。軽くチャンネルをザッピングして知らない芸人がボケているチャンネルを適当に垂れ流す。
「そい」
一息ついて、軽い掛け声と共にテコの原理でドライバーを押せば、ぱきん、という乾燥した音と共に蓋が開く。水気のない土の薄片がパラパラとレジ袋の中に剥がれて散った。蓋を恐る恐る取り除き、中を覗く。
「何もないね」
中身は真っ黒。何も入ってはいなかった。店主が見せてくれたものと同じだ。サキは胡座のまま後ろに倒れて寝そべった。
「つまらないなぁ」
「何もなくてよかったじゃん」
そもそもあの部屋で振った時に音はしなかったし、店主の家にあった箱を持った時と、重さはほぼ変わらなかったから、はなから何か入っているという期待はしていなかった。今回のサキの勘は、ハズレだったか。
「でもさ、中身が何もないなんで、この箱はあそこにあったの?」
彼女は頭の後ろで手を組んで、そういえば、と言ったふうに疑問を上げる。
……確かにそうだ。店主のひいお爺さんが持ち出した木箱は何も入っていなかったとしても、拝殿の朱塗りの台にわざわざ置かれた箱に何も入っていないなんて事があるだろうか。いや、話によればこの箱は供物だったはずだ。神前に置かれた遺体は一夜経つと消えたと言っていた。ならこの箱の中身も消えたと考えるのが自然だ。
「店主の人が言った通り、山の神に食われたんでしょ」
「じゃあ、何であの人は『中身が詰まってる』なんて言ったの?」
「……神はひいお爺さんによって殺されたと思ってるからじゃあないの」
「殺されたらその箱の中身、消えないでしょ。というか、捧げられるはずの箱はその人が持ち逃げしたって言ってたじゃん! なら既に置かれてたこの箱は儀式に使用済みでしょ」
サキはいつの間にか体を起こして座卓に腕を組み、その上に顎を乗せ私を見ていた。私と目が合うと彼女は組んだ腕を解いてレジ袋の中に放置されていた箱を手に取り、頼りない白熱灯の下に翳した。そのシルエットがまるで天井画にあった神に捧げる村人みたいで、いい気分はしない。
「ねぇお初、事態はそう単純には行かないみたいだよ」
あまり彼女の奇行を直視しないでいると、彼女はしばらく中を見つめ、私を見て箱を私に渡してくる。
「よく見てみなよ」
渋々受け取った箱の中は以前変わらずに真っ黒に塗りつぶされている。光量の足りない部屋の照明のもとで目を凝らしてみる。黒味の強い赤茶の下に墨の黒が見えた。それは文字のようで、先ほどの箱にもあった細々とした筆文字の一部だろう。なら赤茶はなんだ。
「今回は、中身が消えてる方で正解っぽい」
血は、ヘモグロビンの鉄分と酸素が結びつくと茶色に変色する。この焦茶は、恐らく血液。かつて確かに中身は存在していたのだろう。
「やっぱり山の神は死んでなかったってこと? あの村は廃村で、今は信仰は途絶えてるはずなのに」
神社の裏の真新しい紙垂が、薙ぎ倒され、削れた木々が脳裏をよぎる。
「とりあえず、今日はもう寝よう? 明日調べに行きゃいいよ。お初、いつもの頭のキレがないもん」
普段自由奔放な彼女に諭されるのはいささか癪だったが、今は言い返せる言葉がない。確かに明日のことは明日考えるべきだ。人間、疲れた脳みそで100%の能率が出せるわけがない。
「そうする」
蓋を戻す。何となくレジ袋を硬く結んで布団に潜り込んだ。時刻はちょうど、12の文字盤を過ぎている。
気持ちいいほどの夏晴れ。
前を軽い足取りで先行する長いおさげ髪の少女と、その後ろを少し離れて考え込みながら、生真面目そうな少女が歩く。短い影を田んぼの畦道に落としていた。
今朝は蒸し暑さで目が覚めた。最悪だ。あの安宿はクーラーの効きもすこぶる悪い。それでも若さゆえか、一晩寝れば疲労は抜けて、頭の回転もいつも通り良好だった。
「サキ、落ちないでよ?」
「大丈夫大丈夫。体幹には自信あるし〜」
道すがら拾ったカエルを手に乗せて楽しそうに畦道の端を歩く後ろ姿を眺めながら、昨日に続いて思考に沈む。
山の神を殺したとされるのは店主のひいお爺さんが子供の頃。そこから集落に残されたご老人が天に召されるまで信仰が続いていたとして、死んだ老人を新たに木箱に詰めて供養するほどの体力が、他の『足腰立たない』老人たちに出来たかといえば疑問だ。ひいお爺さんが次に送り神輿になるはずだった箱を持ち逃げしている以上、拝殿から持ってきた箱の出所はあの紙垂を垂らした何者かだろう。村八分相当の扱いをされている現状、店主にとってあの場所はそれこそ忌地であり、わざわざ行くのは考えにくい。
「どこ行くつもりで」
とすれば誰か別の、かつてあの場所を知っていた何者かがいるのか。中身が消えているということは神は死んでいないということになる。神に信仰を受けていた時期が集落の老人たちが生きていた時期だと考えて、その時期の間に奉納されたとしても、当時の老人たちにそれは難しい。
あの集落に何が起きている?
「そこの嬢ちゃんたちに言ぃよるんじゃ。どこ行くつもりで」
声が聞こえた気がして後ろを振り向けば、ネコ車を押してほっかむりをした腰が直角の老婆がいた。農作業中らしく、収穫した野菜が山と積まれている。
「サキ、ちょっと待って」
先行して気が付かない彼女を呼び止め、老婆の方へ向き直る。
「少し山の方へ涼みに」
「そねーな理由ならやめてーたほうがええ」
顔を顰めながらかけられた声は、厳しい響きだった。
「……どうしてでしょうか」
「そっちに行っても何もねえだけじゃねえ。昔っから人も消える始末じゃ。近寄らんほうがええ」
「神隠しの伝承ですか?」
「そうじゃ。じゃけぇこの森の周りにゃあ、男も女も子供もワシみてーな老耄おいぼれもみんな近づかんのよ」
「そうなんですか」
老婆はふと目を細め、顔を少し寄せてくる。全くもって潤いの尽きた肌だ。
「そっちの嬢ちゃん……お前さんたち、もしかして昨日あの男の家に入っていったっちゅう女の子か?」
「え? えぇ、まあ……」
先が後ろで、あ、と声を上げる。あぁ、初日の聞き込みの時の農作業していた老人か。勝手に脳内で納得がいった私をよそに、ただでさえしわくちゃな老婆の顔の眉間にさらに皺が増えた。
「あの男んとこだけはやめときぃ」
汚いものを思い出すような、そんな顔。
「……なぜでしょうか。話した感じでは悪い感じはしませんでしたが」
「あんたら外の人なら知らんかもしれんけどなぁ、あの店はけったいな宗教団体と繋がっとるっちゅうんで有名じゃけぇの」
「……そうだったんですか。だからあの人は村八分みたいな扱いを?」
「はぁ? んなわけねえがよ。今のご時世そんなことやっちょったら村が持たんわい。あの宗教がいかんのもそうじゃけんども、あんの男を夜に見たっちゅう日にゃ人が消える。でもお巡りさんも証拠がないから動けんちゅうて何もせん。わかったらさっさと引き返しぃ。死にたいんなら別じゃがのぉ」
一方的に忠告するだけして、老婆はネコ車をキィキィと小さく鳴らしながら、小さな歩幅で畦道を向こうに抜けていく。 全く、田舎はおせっかい焼きなのか排他的なのかわからないな、としみじみ思いながらも、私たちがあのラーメン屋の店主と話し込んでいたことが一夜にして伝わっていたことに空恐ろしいものを感じる。
とりあえず、田舎の情報網は光回線より速いとはよく言ったもので、この現象はどこでも同じようだった。プロセスを解析したら穴蔵の通信網に転用できそうなもんだ。
「人が消えるって?」
「依頼の説明にあった神隠しのことだね。あのおばあちゃんが言うには老若男女関係ないっぽい。それにあの店主」
「関係ありそうだねぇ」
老婆の背中を見送って、森の方へ踵を返す。
宗教団体。そういえば、駄菓子屋のおばちゃんが、宗教付けの人がいると言っていた気がするが、それかもしれない。あのラーメン屋が潰れない理由と何か関係があるのだろうか。いずれにせよ、店主の発言がより一層きな臭くなった。
昨日とは違い、サキも石きりや寄り道をすることなく集落へたどり着く。二度と辿り着けない、なんてことはなかった。相変わらず、神性の気配は存在しないし、セミたちは騒がしさを増している。
ふと脳裏に疑問が浮かぶ。老婆の話で疑いが現実味を帯びる。
私の違和感は、そうだ。神性。
なぜあのラーメン屋の店主は、神が実在することを何の疑いもなく語っていた? 男のひいお爺さんの代で殺したというなら、男はその神とやらを見れるわけがない。 村八分の現状だって、あくまで慣習の延長に潜む差別意識のせいだと片付けられる問題だ。昭和頭の、硬い自治会のお偉方だってその神を見ることは叶わないはずだろう。なぜ「あの集落の系譜だから村八分」なんて確信できる? そもそも嘘か? 本人はずっとそう思い込んでいる可能性は? 思い込んでいるなら、そう思わせる理由は? あの境内裏の真新しい紙垂は
「まさか、ね」
なぜこんな単純な違和感に気が付かなかった?
自明だ。私たちが緞帳の裏側、舞台裏の魑魅魍魎を知っているからに他ならない。一度知ってしまったら、それらは当たり前の存在になってしまう。
「サキ、一応聞くけど、この集落に神格存在の気配はないよね」
「ん? ないね。 昨日もそうだったし」
サキも言う通り、この村に神性は確認できない。現状この土地に神がいないことは事実で、伝承通り“何もない場所”なのだろう。
「この場所に神がいない理由は、店主の人が言ってた通りなら集落が廃村になった時に死んだんだよね」
「そうだねぇ」
小高い崖の上、自然に帰りつつある神社の石鳥居が見える。
「もしその神がさ、廃村になる以前から死んでたとしたら」
「……前から死んでた?」
「そう考えれば、山の神が一時期を境に『遺体まで持っていった』って話にも説明がつく」
「どう言うこと?」
石鳥居をくぐる。垂れた蔦が首筋を撫でる。
「神様が死ぬのって、どう言う時だと思う?」
「それは、信仰がなくなって忘れ去られた時だって」
苔むして表情のわからない狛犬と思しき像の横を過ぎる。
「それは神にとっては衰弱死みたいなものでしょ」
「衰弱死と違うとしたら……突然死、殺害?」
「その通り。この土地の神は、別の何かと争って負けたのかなって」
昨晩の店主との問答に似た語りだな、と我ながら思いながらも、一つの推測を組み立ててゆく。神というものにも色々ある。天災や疫病、飢饉だったりの厄を鎮めてくれと祀られるもの、祟りを恐れて祀られるもの、そして、他の何らかを封じるために祀られるもの。
「山の神は元々その何かからこの土地を守ってくれてた神様だったってこと?」
「うん。争って死んだ神の代わりに、この土地にその何かが居着いたんじゃないかなって」
神道は血を穢れとして扱う。月のもの中の女性が境内の立入を禁じる慣習が有名だが、あれは怪我を負った男性も同じだし、神域内での狩猟も勿論タブーに含まれる。神が血肉の詰まっている供物を貰い受けるとは考えにくい。だから伝承では神は供物を拒否したのだと考えることはできる。なら正体は、血の匂いを嗅ぎつけた何か別のもの。
地面に転がった鈴を避けて階段を上がり、拝殿の床に立つ。昨日となんら代わりなく、朱塗りの台が出迎えた。
「ここに置かれた多くの箱は、魂の供養なんて行われず、そのなんらかの存在に喰われたのかもしれないね」
「山の神には元々魂を引き受ける権能なんてなかったのかもしれないってことかぁ。勝手に人が信仰して、自身の行いの罪悪感を神に縋って和らげて、そんな人々でも神は守り続けたのかな」
「わからん。けど、この土地にはまだ何か居る。さっき私たちに忠告してきたお婆ちゃんも、依頼でも言ってたでしょ? まだ、この土地の近くでは人が消えてる、神隠しの噂がある、って」
餌がなくなった野生動物は、人里に降りて餌を探す。一度人の味を覚えた熊は、それ以降人しか襲わない。神だってそうだ。
社殿の天井を見上げる。この前と同じ、天井に大きく描かれた、少し禿げて薄くなった絵巻のような天井画。上半身は醜女の半人半蛇と尾を絡ませて、醜女に対して向かい合う蛇。一見して一心同体の同一神性に見えるそれは、決して一つの神などではなく。
「そもそも山の神を祀って封じられる存在なら、かつて人に害を与えてたんだろうし、それはもしかしたら人喰いとかだったかもしれない。それなら現代まで続く神隠しの原因にも説明がつく」
「神を殺して神の座にすげ代わってみれば、魂の救済なんて願いながら遺体を奉納してくる人間が居て、餌も信仰も得てるならわざわざ人を殺す道理もなかったのかな」
「そこに周りの村ぐるみで処理と称して生贄が送られるなら、勘違いで信仰している人間を殺すのはデメリットしかない」
一度言葉を切る。全て推測の範疇だ。それでも。
「で、あの男はその何かに、今も供物を捧げてるかもしれない」
「あ〜……なるほどね」
あの男は、自らがいまだに村八分されている理由はこの集落の直系だからだと言っていた。でも村人は宗教にどっぷりで、よくない噂が絶えないから避けているだけだった。私が違和感を覚えつつも違和感に気がつけなかったように、あの男も自身の行いが原因だと誤認していたんじゃないか。明確な根拠はない。ないがどうにも、そんな気がするのだ。
あの店主に箱のことを聞いた時、彼は何と言っていた?
『 嬢ちゃんたちは違和感なかったか? なんで揃いも揃って周りの村の奴らが、明らかに集落の跡地がある場所を“何もない場所”なんて言い張ってるのか』
そう言っていたはずだ。思えばこの時はまだ、私たちが町の人たちに聞き込みを行っていたことを店主に話してはいない。……いつからかは分からないが、三日目に“何もない場所”に行くまでの聞き込みで、跡をつけられていたのだろうか。あの真新しい紙垂は、ここに人が定期的にきていることを裏付けるものだ。今も、神に成り変わったなにかを祀っている人間がいる。
リュックからライターを取り出し、サキに渡す。私はレジ袋を解いて箱を出し、適当に河原で拾ってきた石を詰める。次いで鋏で指の腹をなぞれば、一文字に朱が浮かび上がり、やがて鮮やかな赤い玉が溢れた。血が指先を伝い滴って石の表面をなぞりながら、箱の底の方へと流れていくのを、ただ見つめる。
指先が自然に止血される頃、サキは枯れた下草や木材のハギレを抱えて戻ってきた。
「あの男の話が正しければ、これでいいはず」
つくづくあの店主の話には世話になる。宗教と繋がっていようが割と何でも語ってくれたその目的がなんであろうが、あそこまで詳しく知っている人間だ。この儀式作法だけ嘘をつくなんてこともないだろう。知られたくないことを隠すために、信憑性の高い嘘か真実を大半混ぜるのはよくやることだが、なぜ大部分を包み隠さず話したのか。なぜ彼はこの地で私達が神を見たのかを確認し、見ていないことに安堵したのか。なぜ他の家屋と違い、神社の床だけは無事なのか。今はその不確定な推論の一切合切を思考外に追いやる。
サキは適当なタッパーにした草と木材を積み、朱塗りの台を挟むように置き、そのどちらにもに火を灯す。
蓋を閉じた箱を台に置き、簡易的に魂の救済をここにかつていたであろう山の神に、台座の裏の神籬に対して祈る。
護摩火、中身の詰まった血染めの箱。山の神への祈り。伝承通りの文月。おそらくあとは、離れればいい。
粗末で結構。嘘で結構。私たちの仕事は神殺しでも、異常物品の蒐集でもない。ただ、その地の実態を調査して、結果を持ち帰り、時に魑魅魍魎を祓うだけだ。それが私たちフリーランス煤払いというものだし、斥候として求められていることだ。後の諸々は正常性維持機関なり、超常諸技術の肥やしにするなり、依頼主がどうとでもするだろう。そこまでは私たちの知ったこっちゃない。
「いくよサキ」
「りょーかい」
河原。集落の対岸の茂み。回す霊体射影機が捉えるものは、小高い崖の上の社殿。読みがあっているなら結構。外れていたなら別の手を考えるだけだ。
周囲は静寂。
ずるり。木々が騒ぐ。
どうやら今回は
大当たりを引けたらしい。
「 報告は以上です」
「ご苦労さん。仕事は無事完遂されたと判断してもええやろ。上出来や」
スーツ姿の三十路近くに見える男は、学生の女子二人から提出された記録と報告文に目を通して、その仕事内容を労った。こっちを見て会話を試みているが、目線を合わせる気は無い。仕事依頼でもなけりゃこれが常だ。
「後で報酬は個別に支払われる。数日後に確認しとき。もしかしたら色がつくかも分からんで」
「マジで!? やっっったぁ〜! 仕事しっかりやってよかったねお初ぅ!」
「まだそうと決まったわけじゃないわよ」
男は対面で資料を眺めながら、談笑する彼女らの顔を軽く見る。現田を嗜めている彼女も心なしか、誇らしげな気持ちと喜びをないまぜにしたような表情をしていた。決して口に出さないながらも、こういうところは素直でないあたり年相応に思春期らしい。少し口元が上がっているのを自覚する。
「にしたってよう分かったな。神が入れ替わってるなんて」
「あぁ、それは」
夢川は咥えていたストローから口を離して男の疑問に答える。
「サキがやってた石きりってさ。一部ではこう言う風習があるんだよね」
「ん?」
「水面は現世うつしよと幽世かくりよ、あるいは常世とこよの境界で、水面を切る石は厄とされる。その儀式のとき、私たちの立つこちら側は幽世として扱われて、逆に水の中は現世に見立てられる。石が水面を跳ねるとき、厄は土地神の結界に阻まれたことになって、逆に水中に没した時、それは土地神の結界を突破したことを意味する。少なくとも跳ねていた回数の年月は土地神が安泰だ、っていう内容の呪術的な物だね」
「へぇ」
「でもこれには決定的な破綻が存在するの。毎年行うから、その度に土地神の鎮護が保つ年数が変わる。だからどうしたって去年より2年以上減ってしまうことがある。これを気が枯れているとして貢物が増やされる、んだけど」
「けど……?」
「これさ、失敗して一度も跳ねずに終わったらもう終わりってことなんだよね。これで村は一つ消えた。文字通り、全員死んでる」
サキの相打ちはない。
「原因は、実際に出てきちゃったから。儀式は本物だった。土地神が負けて、厄の何かが出た。そういう話。 ありがとね。サキの言う通り、意外な所に手がかりがあったよ」
ずごっ、と音がして隣を見やれば、氷ばかりになったグラスの底を吸ったサキがいた。昔の子供遊びっていうのは儀式的側面があることに、今更ながら思い至ったような顔をしている。
「あの集落の有識者を発見できたのも、彼女の手柄ですね」
「……まぁ、役に立ったなら良かったよ」
彼女は夢川の方を見ようとしない。おおかた思慮の浅さに居心地が悪くなっているんだろう。所詮子供の遊びであって、今この瞬間もどこかで誰かがやっている。気にすることもないことだろうに。夢川曰く、探索中に遊んでいたらしいから意趣返しの側面があるのだろう。経験値は十分なのだからもう少し思慮を覚えるべきだったと反省すればいい。
「なるほどなぁ。で、有識者、か。“何もない場所”の集落の末裔やらいう男のことやんな」
男は味のある革鞄から一冊、丁寧にファイリングされた資料を抜き出してめくり、男の詳報を探す。紙面には、年齢から交友関係、家系や趣味嗜好に至るまで、恋昏崎の伝手を用いて網羅した情報が並んでいる。
「怪しい新興宗教と裏で繋がってる、と。村八分状態で繁盛のしようがあれへんラーメン屋がなんで破産せえへんのかって言うたら裏でそれなりの金が回ってるんやて」
「やっぱりそんなもんだろうと思ってましたけどね」
「あそこのラーメン美味しかったんだけどなぁ」
足をぱたぱたと前後に振りながら、今日も今日とていつものホットサンドを齧りサキがごちる。
「その宗教ってのはどうにも、神様を顕現させたいっちゅうけったいな新興宗教でな。まぁ、一般人がそうそう神なんて顕現できるもんじゃねぇが……今回の推測が正しけりゃGOCあたりに色々洗われて粛清が入るやろ」
「ふーん」
「欠片も興味なさそうやなお前」
新興宗教に肩入れしてもいいことはない。あの店主に固執してもなんのメリットもないだろうから、サキの対応も妥当だ。店主は、神に成り代わったあの存在を認知していたのだろうと言う確信が夢川にはあった。あの神社の中だけは、他の家屋と比べて色々と物持ちが良かった。床は一応全て貼られているし、強度もままあった。人の手が入っていなければ、いくら屋根の下であろうと床は腐る。その他の民家がそうであったように。
店主の男が私たちにいろいろ話したのは、私たちが嗅ぎ回っているのを知っていたからだろう。隠したところでいずれはバレると判断したのかもしれないし、もしかしたらあの場に行かせて贄にでもする腹積もりだったのかもしれない。あの時は深く入り込みそうな雰囲気を纏っていた気もするから、勝手に自滅するのを望んでいたのだろうか。……あぁ、そういえば、サキは一度、探索の時にあの神社に野生動物の気配を感じたと言っていた。あの場にもし、店主がいたとしたら。私たちの行動を全て見ていた可能性もある。聞き込みで既に補足していたようだし十分にあり得る話だ。自分なら殺す。
「お初が座敷牢の場所で言ってた足音、私だけじゃなくてその誰かの足音だったりしてね……」
「ねぇ、やめて」
たとえ店主があそこを管理をしていたとしても、神格の顕現という本懐を遂げることは出来ない。アレは神は神でも堕ちた神。対極の存在だ。
「興味ないんは別にええねんけど、この資料は夢川たちも目ぇ通しとき。今回の報告書には要らんけど、正常性維持機関への情報提供で恩売れるかもわからん」
「それって、見せていいものなの?」
「せやなぁ……まぁ別に見せるぐらい構わんやろ」
目だけを動かして店を見回した男は、ファイリングされた厚い資料を1冊渡してくる。
夢川は、それを訝しみながらも受け取った。
「最近ちょっと物覚えが悪くて。このファイルはくれないわけ?」
「あかんで。持ってけ言うたら俺の首がこうや」
そう戯おどけながら首の前で手を横に滑らせながら、目は笑っていない。
「つまり今私が持ち逃げしたらあんたはチェンジ出来るのね」
「お前、やめろや? なんか不服か? 専属として長い付き合いやろが……で、そろそろ読んだか」
「そう言うせっかちなとこが嫌なんですけど。すぐに仕事に戻ろうとするところが」
「そら当たり前やろ。解散するまでがお仕事やで」
うだうだ反論してくる斡旋業者の小言を右から左に聞き流しながら、サキと共に内容を頭に叩き込む。役立つと言うからには役立つ可能性がくる可能性があるんだろう。向こうさんの調査ファイルをやすやすとこんな若年フリーランスに引き渡すわけがない。見せるのだってグレーのはずだ。
男から受け取ったそれをパラパラと流し見してみれば、ふと見覚えのある文字が目に止まった。
“富多楽豊会”
店主の寝室の神棚に見た文字。富多の二字しか見られなかったから神の名前か何かかと思っていたが、そうか。どうやら新興宗教の名前だったらしい。大方あの神棚も神を顕現させた後に神籬を据えるためのもので、今は空座なのだろう。
「それよりさ、“何もない場所”には、新しく居着いたアレの気配を感じられなかったけど、あいつどこにいたんだろうね」
「そんなに広範囲の霊感を持ってるわけじゃないもの。あの場所よりも奥にいたら私たちに感知はできないわよ」
ファイルをナップザックにしまいながら答える。私たちがあの場所に行った時、霊性も神性も感じなかったのは事実だ。そして神性ならいざ知らず、霊性のようなものは神性のそれとは比べるべくもない程に微弱。霊感で小遣いを稼いでいると言ってもあくまで毛が生えた程度の超常性しか持ち合わせていない私たちに、あの山全体の気配を感じ取るのは到底不可能だ。
「山の神が神籬の磐座に山奥から出てきて姿を見せるように、居着いたその何かも、それなぞってたのかな」
儀式手順というのは意外に強制力が高い。手順をミスれば何も起きないことはザラだし、場合によっては呪われることだってある。
「その何かも固定された信仰形態には逆らえないのかもしれないわね」
「だから普段は山の神を真似て山の奥に籠ってるのかぁ。信仰ってのはめんどくさいね」
腕を組んでうんうんと合点がいったように頷いた彼女は、スッパリと切り替えたようにメニューを開く。
「じゃあお金もいつもより入ることだし……パフェ入れるかぁ!」
彼女の中ではすでに報酬の上乗せは確定事項らしい。ただまぁ、仕事はやった。清々しい気分だし、今楽しまずに何時楽しむのか。今なら食うもの全てが美味しいだろう。金も入る目処がついた。いつ死ぬかも分からないから、宵越しの金は使い切る。
「すみません、このパフェを二つ。はい。お願いします」
「まぁ、なんや。繰り返しになるがお疲れさん。次の依頼が入るまでのんびり夏休みを謳歌しぃや」
角のボックス席。猛暑。7月。休日朝。頼んだパフェを頬張る穴蔵の女子高校生二人と、資料をファイルケースにしまいながら、年相応の反応の二人を眺める斡旋業者の男。
照りつける日差しはアスファルトを焼き、それに負けじといつにも増して蝉が騒がしく、暑苦しさを増大させる。しかしカフェのステンドグラスに染められた陽光は鮮やかに机を彩色し、その熱はほぼ届かない。
緞帳は、静かに上がる。
セミばかりが大量にいたのは、ナニカの正体が蛇系だったから。鳥類の天敵である蛇の治める地に鳥は住まない。すると捕食者のいない蝉は大量に生き残る。これが真相。いずれ回収予定。
神世継 - ハブ < 序一話 - 『信仰』> 序二話 - 『熊野』
付与予定タグ: tale jp 神世継
ページコンソール
批評ステータス
カテゴリ
SCP-JP本投稿の際にscpタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にgoi-formatタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にtaleタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
翻訳作品の下書きが該当します。
他のカテゴリタグのいずれにも当て嵌まらない下書きが該当します。
言語
EnglishРусский한국어中文FrançaisPolskiEspañolภาษาไทยDeutschItalianoУкраїнськаPortuguêsČesky繁體中文Việtその他日→外国語翻訳日本支部の記事を他言語版サイトに翻訳投稿する場合の下書きが該当します。
コンテンツマーカー
ジョーク本投稿の際にジョークタグを付与する下書きが該当します。
本投稿の際にアダルトタグを付与する下書きが該当します。
本投稿済みの下書きが該当します。
イベント参加予定の下書きが該当します。
フィーチャー
短編構文を除いた本文の文字数が5,000字前後か、それよりも短い下書きが該当します。
構文を除いた本文の文字数が短編と長編の中間程度の下書きが該当します。
構文を除いた本文の文字数が20,000字前後か、それよりも長い下書きが該当します。
特定の事前知識を求めない下書きが該当します。
SCPやGoIFなどのフォーマットが一定の記事種でフォーマットを崩している下書きが該当します。
シリーズ-JP所属
JPのカノンや連作に所属しているか、JPの特定記事の続編の下書きが該当します。
JPではないカノンや連作に所属しているか、JPではない特定記事の続編の下書きが該当します。
JPのGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
JPではないGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
ジャンル
アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史任意
任意A任意B任意C- portal:7069044 (05 Dec 2020 11:50)




コメント投稿フォームへ
注意: 批評して欲しいポイントやスポイラー、改稿内容についてはコメントではなく下書き本文に直接書き入れて下さい。初めての下書きであっても投稿報告は不要です。批評内容に対する返答以外で自身の下書きにコメントしないようお願いします。
批評コメントTopへ