旅立ちの日

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黒い厚手の服に身を包んだ、やや目つきの悪い男は、探し物をしていたのだった。

薄暗い金属の空の下、直方体の建造物が無秩序にそびえたつ街の錆びた道を行く。黒いぼさぼさ頭に付いたヘッドライトに照らされた錆の道を嘗め回すように視て、金属片の小高く積もった場所は手を切らないように慎重に除く。何もなければ次へ。永遠にコレの繰り返し。

しかし、その作業も先ほど終わった。目当ての物は見つかったのだから。

「お、あったあった。おぉい!」

彼の声は摩天楼を反響し、その声に反応して駆け寄る少女の人影が一つ。

「見つかったの?」
「コレだろ?」

彼が少女にかざすのは、白い二重の円に三つの突起、それに対応して三本の矢印が中心に向かうシンプルな図形が刻印されたカセットテープだった。そんな図形に対応するかのように白い少女は、静かに表情を明るくした。

「そう、これ。ありがとうマキナ」
「気にするなよ。ただでさえ機会の少ない遠征で持って帰れる物なんて限られてる中のモノだ。何かはわからんが、大切なもんだろ?」
「うん……」
「まあ何はともあれ、日没までに見つかったのはラッキーだったな。帰ろう、じき此処も夜だ」

男と少女────「マキナ」と「シカノメ」は速足で来た道を戻っていく。夜の闇は、じわじわと東から塗りつぶしていくのだった。


歩く。歩く。焦らず、しかし確実に急がなければならない。夜はすぐそこまで迫っている。

「間に合うか……?近くって言ってもさすがに深入りしすぎたか……!」

アパートやマンションが増築に増築を重ねたような、今や一つの城と喩えられても過言ではない我らが集落は見えている。目視での直線距離は約1kmといったところか。しかし実際には門前にたどり着くまでには入り組んだ路地、「城下町」を抜けなければならない。マキナだけなら15分で抜けられる。が、シカノメがいては無茶はできない。速くても30分。夜までにはぎりぎり間に合うか、否か、そんな瀬戸際だった。

「シカノメ、ちょっとペース上げるぞ」

そう言って、シカノメの手を取り、歩みを早める。その時だった。

「うわぁ!ま、待ってくれ、まだ夜じゃないだろ!!こんなのありかよ!!」

城下町の隙間から、見慣れない白服に大きな背嚢を背負った男が出てきた。その男はマキナたちを見るなり情けない声を出してうずくまる。マキナはとっさにシカノメをわが身の後ろへやり、ただ一言「誰だ」と声を低くする。その男は無精ひげを生やし、およそ人間にしかできないであろう情けない顔と声をしていたため、その時点で機械ではないことはわかる。しかし不審者であることに変わりはないし、集落ではまず見ないタイプの人間なので、マキナは強硬な姿勢を崩さなかった。青年はショルダーバッグからレンチを取り出した。

「俺だってこんな東の端になんか来たくなかったよ!こんな場所に人間なんかいるわけないだろ!!もう200年前には飲まれた場所だぞ!旧東京の夜なんてあんなのが出るとか聞いてねえし!おかげさまで惨めに独りだ、今夜こそぼっちで死ぬんだ!!」
「誰だっつってんだろ頭かち割るぞテメエ!!!」
「ひぃっ!」

マキナの怒声で一層男は縮こまってしまった。しかし、まともにこちらを見たおかげか、「に、人間……?」と、表情がいくらか緩和した。どうやら取りつく島はできたようだ。

「マキナ、こわい」
「あぁ、ごめんなシカノメ、帰ったらヤンじいの焼売おごるから。でも、なんとか会話はできそうだ。おいアンタ、これからすぐに夜が来るからついてこい。話しながら事情は聴く」
「あ、ああ、わかった……」

マキナたちは城下町に入っていく。


「で、アンタは?」

城下町の薄暗い中、不審者はようやっと落ち着いてきた。その機を見計らい、マキナは早歩きで先導しつつ不審者の名前を尋ねた。

「……トミオカだ。『財団』から派遣された」
「ザイダン、ねえ。聞かない名前だ」
「そ、そういう君たちは誰なんだ?見る限り、正規兵ではないよな?夜も近いのに、こんなぎりぎりまで何してたんだ?」

口ぶりはまるで偉そうな大人のようで、マキナは少々いら立つ。シカノメは髪も肌も白く、眼は蒼い。それは集落の中でも非常に珍しく、本人もそれを理由に弱気になっており、周囲からは少々疎まれがちなのだ。今回カセットテープを探しに都市へ向かったのも、そのあたりの問題なのだった。もちろんそれをトミオカは知らない。本当にただ単純な好奇心で問うたのだろうが、マキナにとってはその口ぶりがシカノメの周囲の大人のように感じられたので、八つ当たりにも似た憤りが湧いてきたのだった。

「マキナ。回収屋。事情なんてアンタは知らなくていいだろ」
「……まあ、そうだな。して、回収屋とは?」

引き際はしっかりとしている。食い下がることなく、自分が不快な感情を示せばあっさりと引き下がって、別の話を持ち出した。

「都市に出て物資を回収して、必要な人に必要な分だけ届ける人」
「都市と言うと、あの高い建物が沢山ある区画のことか、あの機械たちが作ってる……そういえば、そっちのお嬢さんは?」
「そいつはシカノメ。アンタは城のどこ出身だ?」
「城ってのは今向かってる場所か、あいにくだが俺は集落出身じゃない。さっきまでは君の言う城下町で延々と彷徨ってたんだ」
「……」

マキナから、疑いの目が消えることはなかった。
まず、『ザイダン』なる初めて聞く単語、不毛の土地であるはずの集落の外から来たという言葉。すべてが気狂いのそれにしか聞こえないのだ。しかし、気狂いの芝居一つでみょうちきりんな服や大掛かりな背負い鞄を身に着けるかと言われればそれも考えにくい。
現状、この不審者の名前がわかっただけでも良しとして、歩みを進めた。


私が集落へ行く上で最大の障壁は、「城下町」と呼ばれる比較的背の低い金属の構造物群だった。近隣の「都市」と呼ばれる場所は全長100mを超える金属構造物がひしめいているが、都市を西に抜けた場所にある城下町は高くて20mがせいぜいである。誰が作ったのか、それは都市を眺めればわかることだが、機械たちが「作っている」。というのも、機械は都市を、城下町を、今も拡張し続けている。そんな機械は、ここの人間にとって「生まれたときから外にいる、金属でできた生き物」という認識であった。
<中略>
全てが忌々しい機械によって形作られるなか、人間が手づからつくったものが一つだけ存在した。何百年と前から存在し、今なお機械たちと共に拡張し続ける集落がそれであった。人口が増えるに従い、縦に、横に、奥に、城下町を削ったり都市から金属を拝借したりして成長し続けていた。今では高さ50mはあっただろう。不気味なほど均整な金属の構造物の中、荒々しく生活感を醸し出す無秩序なマンションと言うべき建造物は、対比としてはなかなかに鮮やかだった。その大きな図体の中身は無秩序な迷宮であり、ぎゅうぎゅうに敷き詰められたインフラは精密機器の機能美というよりは無骨な様式美といったところだろうか。また、その入り口は見た目に反して小さく、少なかった。これはこの世界の夜に関係していた。大きな入口が口を開けていては、何かと不都合だったのだ。結果、そんな集落は「城」とあだ名されるまでに至った。──エージェント・富岡の記録より抜粋


駆け足で、端正な金属の迷路を駆ける。

「もうすぐで入り口だ、具体的にはあと一回角を左に曲がってその先!」
「マキナ、もういつ夜になってもおかしくないよ……!」
「わかってる!トミオカ、絶対に離れるなよ!」
「こんな駆け足くらいでへばるほどやわじゃねえよ!」

薄暗かった空はいつの間にか暗闇に塗りつぶされ、ヘッドライトが城下町の輪郭を浮かびあげる。
まだだ、まだだ、あと少し、あと少しあればいい。ぎりぎり間に合う。
角を左に曲がった。ヘッドライトが照らす先には少し光の漏れた小さな穴が見える。

「がんばれ!あともうちょいだ!」

穴からはそんな声がした。漏れた光を遮る影が揺れ、此処がゴールだと自己主張を繰り返し、それを見た彼らは安堵する。そして穴への一直線、より速く駆けだそうとした、その時だった。

──バツンッ

何かが切れるような音が城下町をこだました。

それは時報だった。何かにとっては待ちかねた、外の人にとっては「時間切れ」の時報だった。心臓が跳ね、足は止まる。

「ヒッ!」
「夜だ……!」
「お前ら速く!いつまでも開けてらんねえぞ!!」

無音だった城下町に、無機的な駆動音が湧き始めた。穴の声はますます焦り、彼らは再び足を前へ。

「駆動音、近くなってねえか!?」
「後ろを見るな、もう10歩!」

後ろからは城下町が何かとこすれる音がして、それは勢いを増して近づいてくる。反響のせいで正しい距離はわからないが、確実に詰めてきていた。

「シカノメ!」
「うん」

このままでは間に合わない、そう踏んだマキナはシカノメを穴へ投げた。白いちびは直線的に穴へ吸い込まれ、マキナとトミオカは全力疾走で滑り込む。穴に入りきったことを確認した人影は、唯一その夜の姿を見つつ、間一髪でその厚い扉で城下町と集落を断絶させた。

「はっ、はっ……はっ……ふーっ…………ぎりぎりセーフ!」
「ま、間に合った……」
「お、俺生きてる……今日も……」
「全然間に合ってねえよこの馬鹿ども!!結局夜が来てからじゃねえか!!!門番が俺だから良かったんだ、他のサボりどもだったら5分前に閉められて、お前ら今頃全員ミンチだったからな!!!」

人影──もとい、薄い茶髪の少年は、だぼだぼのコートの余り袖を振り回して怒鳴り散らした。

「それは真面目にすまん、コイツ拾ってたんだ」
「あん?誰だソイツ」
「ザイダンってところのトミオカらしい」

情けない顔をした白服の不審者を訝しげに見つめる少年。勘弁してくれよとも、こんなところにちゃんとした集落があるなんてともつかないひどく曖昧な表情をするトミオカ。

「コイツどこから来たんだ?」
「わかんね。城下町から飛び出してきた」
「じゃあ城のやつじゃねえの?」
「多分東か西か、北か南かのやつなんだろうけど、あいにくコイツもよくわかってない」
「なんだそれ!なっさけねえな~」
「情けなくて悪かったな!」
「まあともかく、俺が拾ったもんだし、拾ったからには拾ったなりに面倒は見る。周りに訊かれたらそう言っといてくれ」

マキナは立ち上がる。「ありがとな、アクモ」と少年に礼を告げて、シカノメとトミオカを連れて、集落の奥へ入っていった。


城は、「上層」、「中層」、「下層」という高度的分類と東西南北の方角的分類、そして中心に通る一本の巨大な芯のような直方体構造物「軸」で大別されていた。たとえば私たちが滑り込んだ門の場所は『南の下層』、マキナやシカノメが所属するグループは『西の上層』だった。少なくとも南と西の下層は後述の事情により長らく通路以外には使われず、人の営みが盛んになるのは中層からだった。中層には主に大人たちが日々仕事をする場所として使われていて、大人たちが忙しい昼間、子供たちは上層で遊んだり、外に出て生きるすべを学んだり、あるいは下層で門番をし、外に出ていく大人の顔を覚えたりしていた。日中の屋上は子供たちの遊び場として使われていたが、夜はそれぞれがそれぞれの住居に戻り、無人になった。子供たちは声変りが終わると自分用の住居を作り、上層の自治に参加した。たまに中層に行っては大人に紛れて仕事をする姿も見られた。皆仲良し、と言うわけではなかったが、ごく少数の大人たちが定期的に視察や指導を行う以外は全て少年たちで切り盛りしていたらしく、感心するところ底なしだった。
<中略>
水道設備も、生存を優先したつくりになっていた。概形は200年以上前のものを流用し、壊れたら補修を繰り返していたようだ。北と東の境界──都市に背を向けた面──のすぐそばを流れる機械下水源(史料の日本地図を照らし合わせると、荒川と思われる)を利用し、集落で全員が生きていけるだけの水を賄っていた。
しかし、城の全てが良い集落だったかと問われれば、そうではなかった。そう言える所以を、私は城に入ってすぐに実感することとなった。──エージェント・富岡の記録より抜粋


「うっ……」

トミオカはひどく顔をゆがませて、鼻を覆った。

「……言いたいことはわかる」
「ここ、臭いから……」

西の上層に向かうための最短経路を通る彼らを最初に歓迎したのは、吐しゃ物や排泄物を5年かけて腐らせたような、鼻を刺突し壊死させるような、そういう吐き気を催す悪臭を放つ薄暗い廊下だった。

「いったい何がこんな臭いを……」
「たぶんうんことかションベンとかだと思う」
「どうやったらこんなになるんだ!?」
「いや、うんことかトイレに放置するわけにもいかんだろ?だから城に流すんだ」

どうやらマキナたち城の住民の衛生意識はそれなり……いや、ひどく低いようだ。少なくとも今は人が通路として使う居住区画であろう場所に糞尿垂れ流しなど……トミオカは眉間に手をあてた。

「……で、その掃きだめがここか……」
「南と西の下層は門の周辺以外はこんな感じだぞ」
「……100年単位ならそりゃそうだろうな!下層はどうやって暮らしてるんだ」
「あ、なるほど、アンタ東か北のヤツか。下層で暮らしている人なんてこの辺にはいないぞ。大抵中層にいるし」
「いや、だから俺は財団から……まあいいや、その口ぶりからすると、東と北のあたりは水源があるのか……」
「俺も東と北の下層は見たことないけど、ジジババが住んでるらしいな」
「そうなのか……」
「お前、自分の生まれの下層も知らないのな。変な奴」

語る話題も尽きたところで、丁度悪臭立ち込める肥溜めエリアを抜けた。ここからは中層。照明の数は一段と増え、人の往来が増えていく。

「おお、すげえ……人がこんなに……!」
「ここが南の中層。西と並んで一番都市に近いから、一番人が多いと思う。今は夜だからそうでもないけど、昼はこれの比じゃないぜ」
「ヤンおじさんも南の中層……」
「あぁ、そうだな、ヤンおじさんのとこに寄ろうか」
「ヤンおじさん?」
「ここらで一番おいしい肉屋のおっさん」
「肉屋!?」

トミオカは思わず聞き返した。トミオカの故郷にも肉は存在する。しかし、余りにも貴重で普通の人ではまず頂けない代物なのだ。それが鋼の大地しか見えないここでは、おそらく日常のように存在する。トミオカの常識が揺らいだ瞬間だった。

「行くぞ、トミオカ」
「あ、おい、待ってくれよ!」

人ごみをすいすいすり抜けるマキナを、トミオカは人波にもまれつつ追った。


南の中層、西の中層は城の中でも最も盛んなエリアだった。回廊では店が立ち並び、都市で手に入った機械の一部や金属、それと北と東の下層から手に入った食料、そして、肉が出回っていた。屋久島、いや、おそらく全世界において「肉とは、それを作るのに長期間かつ莫大な資源と土地を要求される」とは義務教育で習う常識だ。鋼の大地で、そのような場所を確保するのは不可能だと思われたが、どういうわけか実際に流通していたのは、本当に肉だった。
<中略>
食の北と東、衣住の南と西で、見事に分担ができていたわけであったのだ。─エージェント・富岡の記録より抜粋


「ヤンおじさん!ただいま!」
「おぉ、マキナの小僧やんか!遅かったけど、どうなん?調子は」
「まぁボチボチだよ。あ、そこの焼売3人前お願い」

ヤンおじさん、西の方言を話すのが印象的な好々爺である。語尾に「やん」「なん」などをつけることが多く、ついたあだ名がヤンおじさん。本名はイトシマ。マキナは幼少よりヤンおじさんの店に通い詰めていて、親しい間柄である。「城の子供は城に育てられる」などと言うが、マキナに限っては「ヤンおじさんに育てられた」と豪語するまであった。

「3人?」
「俺とシカノメと、あとあのよくわからねえあんちゃん」
「よくわからん?」
「おう、南と西の下層を知らなかったし、北と東の様子もピンと来てないみたいでさ」
「どの場所も知らん、と。はぁー、それは難儀やね」
「あ、そうだ。ザイダンって言葉、ヤンおじさんは知ってるか?」

ヤンおじさんはかぶりを振った。

「うんにゃ。知らんよ」
「そっか、ありがとう。あのあんちゃんについて知れればって思ったけど、ヤンおじさんも知らないとなると、まいったなぁ」

マキナは頭をかいた。ザイダン、ザイダン……語感は初めて聞く割には悪くない。その名前の意味するところはさっぱりだが、あの情けなく叫んでいた男が一人で思いついた文字の羅列とは到底思えなくなっていた。

「まあ、わからないことなんてぼちぼちさがせばいいんよ。人生長いんやからね。ほい、焼売3人前」
「おう、ありがとな!」


城の人々は幼少期に上層で知り合った同世代や自治世代を中心に関係を築き、自治世代になれば大人として中層入りした先代を伝手に関係を深め、そして大人になれば、商売をしていく中で関係を広めていった。これは200年の中で一種の循環となっており、程度に差はあったが、大人になって中層に下れば既に「顔は知らないけど、どんな人かは知っている」という大人が数多く存在する環境が出来上がっていた。広まっている人物評は覆すのがなかなか難しく、好評は生きるうえで大きな助けになる一方で、悪評は生きるうえで大変な障害となった。自治世代はその社会の特性をかなり早いうちから幼少世代に教え込んだ。故に子供は総じて聡く、いわゆる悪童はほぼ見られなかった。──エージェント・富岡の記録より抜粋


「ほい、トミオカ」
「うぉっ、あつっ」

少しばかりの談笑を終えたマキナは、ヤンおじさんの焼売をトミオカに投げ渡す。

「しかしまあ、奇妙なナリだな。この料理。湿気ってて、もちもちしてて、そんな中に、ぽろぽろした大豆の塊にとんでもなく上手い汁を沢山含ませた感じだ!」

「元からそういう料理だよ。芋で作った生地に肉を包んで、蒸したやつ。」
「ふーん……」
「お前、本当に何も知らないんだな」
「故郷の食いもんは本当に味気ないんだ。残念ながらな」

トミオカは焼売をかじりながら、人ごみにも慣れてきた様子。

「あぁ、故郷の奴らに教えるにはもったいない、生きてるって感じのする味だ」
「そんな大げさな、そりゃヤンおじさんのが一番なのは確かだし、マズいなんて血迷ったこと言ったら頭かち割ってたけどもさ……」
「頭は割るなんて、現実味のあること言うなよ……」

出会い頭に怒鳴りつけられたことを思い出し、トミオカは頭をさすった。
ぐいぐいと人の網をかいくぐっていくこと10分、三人は曲がり角にあたった。

「さて、と。こっから西の中層だ。西の上層はこの上。この時間帯はガキンチョが中層に帰ってて、上層には自治世代と俺みたいな奴しかいない。自治世代は一番忙しいんだ、だから上層ではあんま大きい声を上げないでくれよ」
「お、おう」

人の往来にはいつしか子供が目立つようになり、甲高い声が響くようになる。子供と親が下って来るのとは逆に、マキナたちは上へあがっていく。

「城の人は城に育てられる、なんて言うんだが、城の子供は親の手でも育てられるんだよな、大抵は。いくら一日の半分を上層で過ごすとはいえ、子供には親が居て、一日のもう半分は中層で過ごすんだ」

階段ですれ違う親子は、一瞬ぎょっとした目つきで三人を見て、何事もなかったかのように子供の手を引きいそいそと下っていく。最初こそ自分に対して向けられた感情なのかとトミオカは思っていた。しかし、どうもこちらには目線がいっていないらしい。白という目立つ色のコートに目を引かれたのかと思ったが、マキナが不自然な話の切り出し方をしたことで、なんとなく察しがついた。

「……君たちは」
「その話は後でだな」

牽制。後で、というからには、シカノメの前ではあまり話したくないのかもしれない。どうにもデリケートな問題にも見えたので、トミオカは口を閉じることにした。

「……そう、だな。悪い……」

一瞬の沈黙。シカノメはとうとう重い空気に耐えかねて、「……マキナは、トミオカがどうこう思うことはないよって言いたいんだと思う……だから……その……」と、精一杯フォローしようとした。

「あぁ、それはよくわかっているよ。大丈夫だ」

そのフォローも若干不発気味に終わり、それ以降は、気まずい上り階段だった。


西の上層、外縁

「さ、ここが西の上層、俺の家がある階だ」

中層の騒がしさとは打って変わって、上層は明かりも少なく、閑静であった。

「意外、っていうか、すげえ静かだな……」
「今上層にいるのは自治世代だからな。明日のガキンチョの面倒見る準備と、迷子が居ないか上層の見回り、最上階の戸締りに、一番忙しいときは資源配分の会議とかある。騒がしいと邪魔になるんだよな」
「やっぱここでも、思春期は大変なんだな」
「シシュンキ?なんだそれ」
「あぁ、いや、何でもない。故郷でも、青少年は大変だったよって話だ」
「そうか、じゃあどこも一緒なんだな」

こつ、こつ、こつ……都市探索用のブーツが金属の回廊とこすれる音。5m間隔でほの明るく光る電球は、機械の一部をそのまま使っているようだった。
こつ、こつ、こつ……鋼上特化型の探索靴が金属の回廊に着地する音。5m間隔でほの明るく光る電球を、45個ほど数えたところで、目的地にたどり着いた。

「やっと着いた。ここが俺の家だな」
「ここが、君の……」

目の前には、どこにでもある普通の団地のドアがあった。『マキナ』、『シカノメ』という文字が彫られている。
マキナがドアに手をかけ、引く。すると素直にドアは開き、生活感あふれる狭い部屋が顔をのぞかせた。

「さ、入れよ」
「え、いいのか?こんなに狭ければ、二人でいっぱいいっぱいだろうに」
「大丈夫だよ、なんせ3人でぎゅうぎゅうって設計にしたんだ」
「それは二人暮らしの想定だろ……」
「まあでもアンタ行き場なさそうだし、夜だし、とにかく入れよ。シカノメはどうする?眠いか?」
「……眠い」
「じゃあ、明日風呂入るか。今日はもうお休みだな」
「……うん」

シカノメを先頭にマキナが背中を押し、狭いキッチンを通りぬけ、居間に布団を敷き、シカノメの灰色のコートを脱がせて、そのまま床に就かせたところ、一瞬でシカノメは寝息を立てていた。

「いやあ、今日はだいぶ疲れてたんだな。一瞬で寝てくれて助かる」
「……ああ、そうだな」

「さて、と」と、マキナは背後のトミオカに向き直る。

「じゃあ、尋問の続きだ。トミオカ……ザイダンってなんだ?」
「財団は、かつて異常存在って呼ばれていた恐ろしい化物を封じ込めていた、世界の守護者だ」
「ふーん……じゃあそのザイダンってのは、世界中にあるってことか?都市にも、城にも、城下町にも、そんなものは影も形もなかったけどな」
「それは、200年前にこのあたりの財団施設は全滅したからだ」
「ふーん……?にしても200ネン?わからないけど大変な数字を使うんだな」
「年の概念も消えてんのか……まあともかく、ずっと前にこのあたりの財団は全滅した……そう思われていたんだ」

トミオカは、財団の人間である自分がどういった経緯でここに来たのかを話した。その内容は、おおむね次のようなものだった。

「俺の故郷である屋久島のサイトが、旧東京地区であるこの地域からの救援要請の信号を受信した。旧東京は既に200年前に機械に呑まれたはずだが、仮に人間がいるとすればそれを見逃すわけにもいかない……だから、俺たちはここに来た」

マキナは黙って聞いていた。

「けれど、結果はこれだ。向かった俺たちは、夜を経るたびに数を減らした。夜の間に髪の毛一本残らず解体された奴もいたし、精神的に参ってどこかへ行った奴もいた。最終的に俺だけが残って、あとは君の知ってる通りだ。旧東京がこんな場所だなんて初めて知ったし、こんなに人がいて、しかも独自の社会を築いているだなんて、思ってもなかった」

トミオカの顔は、今が一番安らいでいて、今が一番罪悪感に歪んでた。今まで修羅場を幾度も乗り越えたことが報われたと、仲間を犠牲にして報われるのが正しいとは思えないと、そういった顔をしていた。その人間らしい顔にマキナは多少なりとも動かされたのか、トミオカが口を閉じた後、少し目を閉じて考え込み、「わかったよ」と一言。

「俺は、アンタを全部信じることはできない。でもそれはアンタのせいじゃない。物証がないからだ。つまり、だな、アンタ個人を俺は信じるよ。ザイダンとしてのアンタじゃなくて、人間としてのアンタだ。きっと、全部信じるにはまだ早いと思うから、まずはアンタという人間を信じるよ」
「……ありがとう」

礼はいいって、これは俺の親切心じゃないんだから。そうマキナは返した。

「じゃあ、俺の方も話すか。嘘かホントかはさておき、アンタにはそれなりに喋ってもらったからな。あの中層へ下っていく大人の目の色の話だ」
「……シカノメのことでもあるのか」
「そういうことだ。シカノメはみなしご、親を早くに亡くしたんだ」
「みなしごが、あそこまで忌避されるものなのか?」
「いや、みなしごってだけじゃそこまでは。みなしごでも、遠征で親を亡くすのがマズいんだ」
「遠征……?」
「都市の最深部まで行って色々物資を探すんだ。城で出回る肉も、都市の奥で見つかったタネからできたらしい」
「へぇ……」

そのような聞いたこともない不思議なタネがあれば、なるほど肉の流通はできるだろう。もしかすれば、この城自体都市からもたらされたものが土台になっているかもしれない。しかし、機械はそんなものを作るだろうか?そんないまいちぬぐえない違和感は置いて、マキナの話に耳を傾ける。

「まあ、その遠征なんだが、東西南北、各方位の中層から50人程度募っていくんだ。でもそこで志願する奴は大抵ロクデナシか不具で評判が悪いんだ。遠征で沢山物資を持ち帰って、その中でアタリがあれば評判はよくなるから、一発逆転を狙うんだよ。マイナスがゼロかプラスになるんだ。逆を言えば、遠征に行く大人は大体悪い奴だってレッテルが貼られる。死ねば『結局その程度なんだな』って思われるんだ」
「それで、シカノメの両親は……」
「ああ。シカノメを産んだはいいものの、見た目の気味が悪いって皆で嫌がって、勝手に遠征に行って勝手に死んだ。結果的にシカノメに残った評判は、『可哀想だけど、自業自得だって、冷ややかな目で見られる娘』だ」

想像に難くない。少なくとも大人世代は極力関わりたくないし、むしろ避けたい部類だろう。なにせシカノメに貼られたレッテルは「罪人の娘」、もしくは「たたられた子供」と同等なのだから。シカノメを評判だけでしか知らないならば、なおさらに。

「大人はシカノメを避けるし、シカノメも大人に避けられてることはわかってるから委縮してる。大人も子供たちにわかるように露骨に避けるから、子供達からの印象も悪い。自治世代もなるべく子供に嫌われないように立ち回らなきゃいけないから、シカノメのことはなるべく触れてない」
「……君は周りの人とは違うようだな」
「慣れだよ、慣れ。あいつのことを知れば知るほど、あいつもみんなと変わらないってことがわかったんだ」

そんなに褒められた人間じゃねえよと青年は自嘲する。

「正直、俺も周りと変わらない。アンタがそのように見えるのは俺が人一倍シカノメと一緒にいたからだ。養うって決めたときの理由も、元はといえばたらいまわしにされるシカノメの最後の頼りが俺だったから。もっと言うと、そんな子供を無下に扱ったってなったときの評判を気にしたから。下心っつーか、保身だったんだよ」

だから、と青年は一息置いた。そして、トミオカを見据えた。

「でもアンタは違った。シカノメを見ても、別段驚きはしなかった。むしろ他の人間を見る目と全く同じだった。だからってのもあるかもな。俺がアンタを信じる気になったのは」
「まあ、俺だって初めて見たよ、あんなに白い子供は。でも、俺の故郷はそれよりもすごいのが居るからな。角が生えてて肌が赤い奴とか、そもそもすげえデカい奴とか……とにかく、全然驚きはしなかった」
「はぁー、世の中広いんだな」

マキナは照明を消し、寝そべっては大きなあくびを浮かべた。

「色々面白そうな話だけど、さすがに今日はつかれたな。俺はもう寝るけど、アンタ、行くアテとかないんだろ?せっかくの縁だ、俺の仕事手伝ってくれよ。その分泊めるから」
「ああいや、さすがにこの部屋に厄介になるのは悪いって」

俺は何処でも寝られるし、こんな部屋で俺もいるのは君たちの負担になるだろとトミオカが遠慮すると、返ってきたのは耳を疑う言葉だった。

「路上で寝てると下層に運ばれるが」
「えっ」
「まあ止めはしないぜ、文字通りのクソ野郎になりたいならの話だけど……」
「お、お世話になります……!」
「よろしい、明日からよろしくな」

かくして、トミオカとマキナ、そしてシカノメの新しい日常が始まった。


この城の死亡率は、それなりに高い。というのも、医療レベルが後退しているのだ。推測するに、20世紀後半前後の衛生観念くらいしか残っていない。自治世代まで育ってくれるのは、おそらく全体の7割。中層入りまでだと全体の半分くらいだと青年は答えた。
<中略>
中層入りしてからは死亡率はぐっと低くなるものの、だいたいは顔が皺でいっぱいになるまで(おそらく還暦を迎える前までだと思われる)に死ぬようだ。そして中層の人間は死ぬとわかれば城の通路で寝て、3日経てばその筋の人によって西か南の下層へと運ばれる。
<中略>
……要するに、青年の警告は間違ってなかったわけだ。あれで無難なことを言われていれば間違いなく下層の肥溜めに放り投げられていただろう。青年はつくづく、命の恩人である。──エージェント・富岡の記録より抜粋


夜が明けてから、トミオカはマキナと共に仕事をすることにした。『回収屋』としての仕事である。

朝に城の外に出て、日中をかけて城下町や都市外縁を歩き回り、使えそうな金属や機械を回収し、夜にお得意先へと渡す。そんな毎日だ。

場合によっては拾ったその場で修理もやるのがマキナという回収屋だ。実際に見ていると、修理の腕はなかなかだ。財団など世界の最先端に立つ組織の者でも、限られた道具で機械を弄繰り回せるだけの技術はやはり年単位での修練が必要だ。それだけ機械と共に生きているのだ。門番のアクモ曰く、「マキナは回収屋にしてはできることが多くて、せしめるお金は回収屋の中では中の上くらいだが、人気」だそうだ。実際マキナの評判は良く、マキナと一緒にいる人は老若男女問わずいつも暖かい笑顔をしていた。

「機械は、俺たちに恵みをくれるんだ」

そんなある日、そんなことをマキナは口にした。「恵み……?」と、トミオカは眉を顰める。機械とは怨敵であり、忌まわしき隣人であり、決して恵みを与える者などではない。むしろ人から空と海と土を奪った唾棄すべき侵略者だ。財団はそう説いているし、事実そうであるのは義務教育を修めた者であればだれもが知っている、彼の土地では常識とされるものだった。そんなトミオカにとって機械=恵みという等式は、お世辞にも聞こえがいい言葉ではなかった。

「ああ、城の中は機械でいっぱいだ。建物自体、機械が作った城下町とか都市の金属を使ってるしな。天井の明かりはあの空を飛んでるちっさい機械のサーチライト。電気は全部壊れた機械のバッテリーとか電源を修理して使ってる。『今の生活は機械で成り立ってる』、それを一番実感するのが回収屋さ」
「まあ、こんな鋼の大地じゃあそうもなるか……」
「あぁ、あと機械にはみだりに手を出しちゃいけない。この前横着な回収屋が生きてる機械からバッテリー抜こうとして上半身丸ごと持っていかれたし」
「マジか……」

なるほど、とトミオカは得心した。彼らは上手く機械と付き合っていくことを選んだ人々なのだろう。財団のように機械と戦う戦力を持ってない場合は、その辺の小さな機械ですら容易く人を殺しうる。ここの夜のような例外はいるにせよ、大抵の機種はこちらから手を出さない限り人間には干渉しない。全面戦争や狩りをするよりは、壊れた機械から必要なものを取ってくる方が(修理するひと手間がかかるにしても)、より生き残れるし、確実なのだろう。
話は逸れるが、ここでトミオカにとって有益な情報が一つ増えた。それは彼らが「電気を使っている」ことだ。電気の概念がある、電源がある、電気を用いたあれこれができる。ただ機械を流用しているだけの状態とは雲泥の差だ。救難信号を出したのは、間違いなくこの集落だろう。

「マキナ、この城の中で一番電気に長けているのは誰だ?」
「そうだな……北と東は俺も行ったことないし、そもそも電気を扱えるって噂を聞かないから除外するとして……西の中層のカエダかな。あいつは機械修理と電源いじりのプロだからな。俺も時々頼るよ」
「カエダ、カエダか。ちょっと明日は休みをくれ。そのカエダと話がしたい」
「おう、わかった。気をつけろよ、カエダって……その……一言で言えば変な奴だから」

都市を彷徨い、城下町でべそをかき、城に入って二人と寝食を共にし、ようやく掴んだ救援要請の真意のヒント。トミオカの胸は高揚で満ち、足は軽くなったのだった。


「西の中層、4区の……い-1098……7。ここか……」

見た目はマキナの部屋の扉と変わらない。彫られた字は「カエダ」とある。トミオカの高揚感は今絶頂期に入っていて顔が自然とにやけてしまう。いやいや落ち着け、こんなの不審者じゃねえかと頬を叩き、背負った背嚢と無い襟を正してノックを3回。

「は~い、どうぞぉ……」

家主からのゴーサインをいただき、ドアを開けると、そこには暗がりの中機械の残骸で敷き詰められた廊下が。レイアウトはマキナの部屋と変わらないが、彼のそれとはまったく別の空間に見えた。

「失礼す……ってうわぁ……なんだこれ」
「私の家へようこそぉ……ヤンおじさんの焼売は持ってきた?」
「ああ、ここに」

振り向いたのは、マキナと同い年くらいの黒いコートを羽織った女であった。マキナの言う通りカエダは焼売をせびってきたので、リュックのサイドポケットから、一人前の焼売を取り出す。

「っふへえ、ありがとぉ……そんじゃあ、バイバイ」
「いやいやいや、俺は君と話をするために来たんだが!?」
「……はぁ」

このままでは帰れないというトミオカと、別に話す要件とかあったかなとけだるげなカエダ。

「……今ねぇ、忙しいの。全く未知の言語解析、私一人じゃまず解読しきれない機械の論理。それでも私の一生かけて、少しでも機械たちを理解したくてたまらないの。ただでさえ仕事もあるのに、これ以上他人と話す時間なんて割いてられないの。わかったら帰ってねぇ……バイバイ」

力の抜けた話し方をする彼女が、力強く語った部分。そこにトミオカが食いついた。

「ま、待ってくれ!本当に待ってくれ!俺はその専門じゃないが、機械のコードを、プログラムを見ることができるのか!?君は機械の頭の中が見れるのか!?」
「そ、そうだけど……興味、あるのぉ?」

彼女は揺れた。しかしまだ警戒を解くには至らない。もう一押し。

「あるとも、財団でもその解析は数年前にやっと実現したばかりだ、君がやっていることは、この星の最先端の系譜だ!この環境で見られるとは思わなかった、どうやってやってるんだ!?」
「……うぅ、そこまで興味を持たれると、見せるしかないじゃん……」

熱意と勢いに押され、あっさりとカエダは陥落した。「入って」と、少女は奥へ進んでいく。機械の残骸を踏まないように、抜き足差し足でカエダについていけば、そこには二機の機械の頭とPCの液晶めいた画面だった。カエダが二機を起動すると、画面は猛烈な勢いで文字の羅列を形成し始めた。

「これは……」
「機械は機械同士で離れているのに意思疎通ができる。それは距離に関係なく、また発話機構が備わってない機械にも有効であり、音を伴う意思疎通ではないことが考察できた。けれど、音に頼らないとなれば私たちが直接それを知覚することは不可能。だから、この機械の意思疎通は何を以って行われるか、それを調べた。その結果、これは私のイメージだけど、私達には知覚できない波のパターンらしきもので意思疎通を行っていることが分かった。この板はその波を文字に仮置きして現在進行形で組んでるの。最終的には漫画の吹き出しみたいにしたいけど、私たちの使う基本的な文字は約50種に対してこの波のパターンは320を超えてまだある。だから時間が足りない、理解できない。二機で組んだのは意思疎通を行うためには一機では足りないからというのと、一機だとまるでフィルターをかけた文書のように全く読み取ってくれないからで……」

堰を切ったようにどっと語りだすカエダ。語ること三時間、トミオカはさすがに専門の分野ではないためある程度は聞き流したが、それでも凄まじいことをやってのけていることは十分にわかった。機械を支配する基幹ソフトウェアの汚染問題があるために財団ではとうてい真似できないし、やり口は機械の流用に流用を繰り返したものと単純で粗がある。しかし、城の中の人間一人で出せるだろう最大限の成果にほぼ差し迫っていたように見えるし、発想の流れが綺麗だ。
これは益々確信が深まる。トミオカはカエダの話を遮って、心の底から訊きたいことを口に出した。

「救援要請を出したのは君か!?」
「えぇ……?きゅ、何?」
「救援要請だ、君が出したんだろう?信号を!」

しかし、カエダは益々困惑する。あれほど饒舌な口調が、また気だるげなそれに戻った。

「な、なんのことぉ?私そんなの知らないよぉ……」
「知らないって、そんなはずは……!」

信号のパターンは完全に人語、機械では出しえないもの。都市には人っ子ひとりとしていない。じゃあ財団が誤認したのか、それは絶対に違う。何度も検証し、演算し、逆探知をした結果がこれなのだ。出した覚えがないなんてことはあり得ない。

「信号ってぇ、これのことだよね……?」

カエダは未だ猛烈な勢いで文字と黒塗りを書き起こす画面を指さした。

「私ができるのは波の文字化と書き起こしだけだよぉ……そんな人間が扱えるもんじゃないよぉ……」
「マジかよ……」

ここへきて、まさかの間違い、誤解。確信していただけに、あともう少しでその真意が聞けると期待していただけに、トミオカの失望も大きかった。

「あ、でも……妙な波のパターンは来たことあるかも……」
「妙……?」
「うん、一応記録しておいたんだけどぉ……」

カエダは画面下に山のように積まれた金属板を漁る。

「今まで見た中で一番変だった。波のパターンが全部50種類以内で収まってるの。そりゃ……偶然って言われればそれまでだけどぉ……機械もある一定の論理で意思疎通をしてるから、それは基本的にあり得ないことだし……機械は受け取った瞬間に壊れちゃったし……まあ直したけど……あ、あった、これ」

そう言ってひょいと差し出したのは手彫りの金属板。仮置きした文字の羅列で、ぱっと見では何がなんだかは全くわからない。

「うーん、これだけじゃよくわからないな……」
「私もまだ文字の仮置きしかできてないから私もわからない……普通機械がやり取りに使う波のパターンは1文で60から70種類。でもこの1文だと30種類もない。半分以下の限られたパターンでのやり取りは後にも先にも私は知らない……」
「要するに、『これは機械ではない、人間から発された波だ』ってことだな?」
「……そういうことだよぉ」

話を遮られたカエダは頬を膨らませて答えた。トミオカは胸をなでおろす。良かった、まだ希望は潰えてはいない。

「そういえば、さっき機械が壊れたなんて言ってたけど、その時期何か変な話を聞かなかったか?」
「それは知らないよぉ……あ、でも……仕事がちょっとの時期増えた、気がする……」
「仕事が、増えた?」
「うーん……私の仕事は電源修理と部品修理……機械が壊れた日は、たくさん回収屋が来て、めんどくさかったなぁ……」
「回収屋か……信号がどこから来たのか、それはわかるか?」

カエダはかぶりを振った。

「そうか……今日は話を聞かせてくれてありがとう。邪魔して悪かったな」
「本当だよぉ……今度からは妙なこと考えてないで私の手伝いをしなさぁい……」

カエダの部屋を出て、トミオカはため息をひとつ。そういえば、回収屋が沢山来た日があったと聞いていた。回収屋ならマキナが何か知っているかもしれない。

「はぁ……仕方ない、行くか」


「あぁ、あったな、そんなの」

夕方。シカノメを迎えて帰路に就くマキナの返答は、ひどくあっさりとしていた。

「そこら中動かなくなった機械があふれてたんだよな。特に都市とかすごかったぞ。見たことない機械もバッタバッタ倒れてたからな」

マキナに言わせれば、回収屋にとっては夢のような光景だったらしい。

「その日の前後で、何か妙なことはなかったか?」
「妙なこと?うぅ、ん……機械がみんな止まってるのこそ妙じゃねえか?」
「いやまあ、それはそうなんだが……」

なんでもいいから、と懇願するトミオカの望む答えは何だろう。マキナはその日の前後に感じたことを手当たり次第に挙げていった。回収屋としての収入がすこし減ったこと、いつも引きこもってばかりのカエダがドアから少し顔を出しているところを5回見かけたこと、ヤンおじさんが風邪をひいていたこと……

「……驚くほどなんもねェな。ごめん……」
「あぁいや、大丈夫だよ。しかしまあ、物事そううまくはいかねえよなあ……」

ここにきて手詰まりかぁ……と、トミオカは大きくうなだれた。
シカノメはその姿を見て、なんとなく、ふと前々から気になっていたことを思い出した。「ねえ」という枕詞でトミオカに訊く。

「今までリュックを降ろしたことがないのは……どうして?」
「あ、それは気になってたな。俺の部屋の中でも降ろさないんだから」
「え?……あぁ、すっかり忘れてたよ」

というのも、荷物はなくしてはいけないものらしく、今までの旅の中でも、いつ襲撃があっても逃げられるように肌身離さず背負ったままだったという。

「背中に手を回せばなんでも取り出せるような構造になってるから、わざわざ降ろすって発想もなかった……」

折角だからということで、トミオカはマキナの部屋へ帰ると文字通り肩の荷を降ろすことにした。

「うわ、すげえ。肩が軽い!でも動かすと痛いな……」
「肩が負荷に慣れてて、動かさないもんだから凝りに凝ってたんだろ」
「あぁ……肩が上がらねえ……こりゃ四十肩ならぬ二十肩だな……」

肩を抑えて回すトミオカに、熱烈で不安な視線を注ぐ少女が一人。

「シカノメ、言わなきゃ伝わらねえよ」というマキナの一言で決心したのか、「い、嫌じゃなかったら、ほぐすよ……?」と、しどろもどろにシカノメは伝えた。

「あぁ。よろしく頼むよ」

そうトミオカが快諾し、シカノメに背を向けた。その時である。

「……ぁ」
「……あ」

あのシカノメのことだ、触れるのが怖いのか、はたまたここまで来て委縮しているのか、そう思って待っているが、一向にほぐしてくれるどころか触わってくる気配すらない。「まだか?」とトミオカが振り返ると、仰天した二人の顔が視界に飛び込んできた。

「あーっ!!!お前のそれ!!」
「うぇっ!?なんだよ!?背中に何かついてたか!?」
「ついてるよついてる!!なんだお前その印は!!」
「は?印?」

トミオカはすぐに合点がいった。背中の印、それすなわち財団のシンボルだ。でもそこまで騒ぐことだろうか。城の住民もコートに多少は模様を入れている。模様のない世界から来た人でもあるまいにと思っていると、その叫びには別の理由があった。

「シカノメ、お前アレ出せアレ!」
「う、うん……!」

シカノメのポケットからは、カセットテープが取り出された。白い円に三つの突起、そしてその内側に黒線の円と突起に対応する内向きの三本の矢印が刻印されたカセットテープであった。
これには流石にトミオカも「あーっ!!!」と仰天。

「それは財団の破壊耐性持ちカセットテープ!財団の資料でしか見たことがない200年前のモデル!!き、君ら、それをどこで……!?」
「これ、シカノメの親が拾ったらしい分け前だよ。遠征のときの」
「へぇ、じゃあ遺産相続的なそういう……って、遠征ってことはそれは都市の最深部にあったんだな!?」
「俺は遠征に行ったことないしわからんが、まあ遠征の拾い物ってことは確かだ」
「マジか……こんなところで200年前の史料に会えるなんて……!少し貸してくれ、それを生かす術がある」

トミオカは背嚢を漁り、直方体の装置を取り出した。それは財団が用意した再生機器。200年前に人の活動が途切れたと認識している財団は、記録媒体から情報を複製・最適化し、再生する装置(平たく言えば、全自動HDリマスター化再生機器)をトミオカ達に渡していたのだった。
シカノメのカセットテープをスロットに詰めて、読み取り、壁に投影する。

「照明は消してくれ」
「お、おう」

大きな城の小さな一室で、200年前の記憶が暴き出された。


『100年、100年持ちこたえた。この100年で屋久島生存圏の構築も終わり、国後生存圏もあとは人が入植するだけだ』

壮年の男は、暗がりの一室で記録する。

『あぁ、自己紹介を忘れていたな。私は東京生存圏に存在するサイト-81TKの管理者。アヅマ・ヒロヒト。年齢は54。……おそらく享年でもあるな』

ため息をつく。

『話を戻そう。XANET事件、機械たちが我々を忘れ、生存と繁栄を至上命題とした事件からおよそ100年が経つ今まで、東京生存圏は勢力を拮抗させ、なんとかその日を暮らしてきた』

声に覇気はない。人間らしさの欠落した声だった。

『……だが、今日でそれもおしまいだ。東京生存圏は崩壊した。機械のせいじゃない。人間のせいでもない。誰のせいでもない、自然のせいだ』

皮肉が込められていた。機械が自然を脅かすのに、結局自然に自然が止めを刺したのだと。

『……だが、東京で生きる人間もいるだろう。東京生存圏が万一崩壊したとして、その後もある程度は暮らしていける準備が我々にはある。しかし、200年が限度だろう。私の記録は、200年後の東京に暮らす、後世の人間へ向ける警告だ……最も、これが再生できなければ意味がないが、最も可能性があるのはこれだ。どうか、200年以内に届くことを願うよ』

それもどうせ叶わないだろうけど、という諦観がにじむ。

『東京生存圏は、地震で崩壊した』

人間らしさのない声だったが、この一言に悔恨と無念が詰まっていた。

『免震工事が行われたのは800年前……思えば破壊耐性加工がまだ実用化されていない時代だった。言い訳なんてXANET事件のせいにすればいくらでも擦れる。だが、そんなことは後世の人間は望んじゃいないだろう。
免震機構は2900年代ので限界だったんだろうな。そして、今になって完全に壊れて、大震災という形で東京生存圏は破滅した。次は3300年代……3300年代に東京全域に地震が来る。そうなれば、機械に呑まれた後に作られた集落は間違いなく壊滅するだろう。機械もいくらか損害を被るだろうが、彼らはXANETの支配下にあるから、1日もあれば元の勢力を取り戻すだろう』

もう一度、ため息をついた。

『機械は我々とは比べ物にならないくらい強い。故に、地震が来たら逃げるでは遅い。しかし、地震を抑える方向で発展してきた我々は、正確に地震を予知する方法を知らないし、知らない技術は残せない。故にこうして警告を行うことにした。そしてこの記録が届かなかった場合も見越して、200年後となる3338年、誤差10年で強力な信号を発信するようにセットした。屋久島生存圏や国後生存圏には余裕で届くだろう。この信号は一度だけXANETのセキュリティを貫通し、主要機能を2日にわたりダウンさせる。一度しか使えない切り札だ、200年後の諸君はこの2日間に必ず逃げてほしい。万が一それでも機を逃した場合のために、信号は救難要請を含んだものにする。きっと財団かGOCが反応するだろう』

50秒の沈黙。話すべきことを話したのだろう。しかし、まだ記録を終える気にはなれなかったようだ。『……何を言おうかな』とアヅマは天井を仰ぎ見て、そうだ、とぽつり呟いた。カメラはアヅマの手に取られ、どこかへ移動する。

『……200年後の諸君、君たちが生存圏に辿り着かねば見ることのない「空」を教えよう』

映像に映るのは壮年ではなく、黒い空だった。黒い空には、無数の光る点がある。ひときわ大きい丸がある。

『これは「空」という。輝く点は「星」、大きな丸い星は「月」という。200年後の諸君、諸君の感性でも美しいと感じるか?感じたならどうか、どうかこれを原動力に生存圏へ向かってくれ。以上で記録を終了する』

人間らしさの欠けた声は、空の下で熱を帯びていた。

映像は、途切れる。


「破壊耐性を持っているから、映像加工が最も難しいカセットテープだ。これは200年前、実際に記録された映像と見た方がいいな」

トミオカはそれだけ言って口をつぐんだ。二人は黙り込んでいる。
トミオカが立つ状況は絶望の二文字だった。カセットテープによれば、あの信号が出て、二日経ってもその場から動かなければほぼ詰みである。その次善策として信号に救難要請を混ぜて発信したというが、旧東京は既に魔窟と化していた。対処法も確立できていない中で城まで来れたのはトミオカだけ。これが財団職員数十人ならまだ何とかなったかもしれない。しかし現実はこれである。トミオカやシカノメのような現地で交流関係にある者はいるが、これだけで東西南北上中下層全てを連れ出すなど不可能に近い。いや不可能だ。よしんばみんな連れ出せたとして、大所帯で旧東京の夜をやり過ごせるわけがない。かといって少人数だけ連れ出しても結果は同じだ。では地震を待つか?論外だ、トミオカはそこまで人間落ちぶれてはいない。

地震はもういつ来るかわからない。だからなるべく早めに動かねばならない。だが全員なんて連れ出せない。じゃあ一部だけ連れ出すのか?それは選ばなければならないのか?俺が?

────人の命を選べるほどに、俺は偉くなったのか?

ぐるぐる回る思考を更に回転させて、しかし結果は堂々巡り。城に住む人々の命に責任を負えるほど、トミオカが優秀な人でも英雄でもないのはトミオカ自身がよくわかっている。そうやって責任を負いたくないから逃げていると思われても、やはり不釣り合いなのだ。トミオカの命ひとつでは、この城の人々の命を背負えない。

「……でも、動かないわけにはいかない」
「アンタ、何するつもりなんだ?」
「……カエダにこれを複製してもらう」
「複製して、何するんだ?」
「城の至る所で流す。この映像で空を見たいと思った人を、屋久島生存圏か国後生存圏へ連れていく」

俺が選ぶんじゃない、城の人々が選ぶんだ。地震でここが滅びるなんて吹聴しても、信じられないのは目に見えている。なら全員とは言わず、生存圏を信じた人だけを助けよう。情けないけど、自分が命を背負うことなく城の人を最大限助けられる方法だと思うから。

そう言って、トミオカが立ちあがった瞬間だった。

ことことこと……と音がして、少し足元が揺れた。

「……まさか」

そう思った時には、遅かった。


「────カ、────カ!」

遠くから、声が聞こえた。

「───オカ、──ミオカ!」

どうなったんだか、確か揺れが来て、マキナとシカノメに覆いかぶさって……と、彼はそこまで思い出し、大きな地震が来たのだと思い至る。

「そうだ、地震が……!無事なのか、君たちは」
「俺たちは無事だ。アンタの方はどうなんだ、覆いかぶさってくれたけど」
「俺は何ともない……城の方は大丈夫なのか?」

そう訊けば、マキナは渋い顔でかぶりを振った。

「わからない」

だから今から様子を見に行くと言わんばかりにドアへと手をかけたマキナに、「よせ」とトミオカが言う。

「今、ヘッドライトが必要なくらいに暗いんだろ」
「……そうだ」
「ならやめとけ。……今が夜なら、どうなるか分かったもんじゃない。朝になるまで待とう。今は下手に動けば死ぬ」

一瞬以上の逡巡。その末に、マキナは手をドアノブから離した。


地震の発生は3340年5月18日の夜の初め頃。城は、中枢の軸を中心に末広がりな形で崩れた。下層外縁が最もせり出し、最上層中心部が垂直に落下した形になった。汚物は下層から漏れ出して、都市の西外縁部を浸した。都市への遠征はもう不可能と見ていいだろう。
最も凄惨だったのは、中層中心部。落下してきた上層によって圧壊。瓦礫を起こしても赤いシミしか残っていなかったという。生存は絶望的とみなされ、一番に城の人から切り捨てられた場所だった。門番も同様に切り捨てられた。最下層のもっとも外側で、汚物とも隔離されているような構造だったが、周囲が汚物で近づけなかったため、誰も門番のいる場所を開けられなかった。北と東は汚物の被害が無かったため近づけはしたものの、扉が壊れてしまっていて開けることができなかった。中層外縁部は死者数こそ3番目に多かったとされているが、また生存者も多かった。今思えば、ヤンおじさんとカエダの生存は、本当に有難かった。彼らが居なければ、きっと旅路の途中で全滅していただろうから。上層は、最も夜に死者が増えた場所だった。最初は親の迎えが遅い子供は自治世代の一部と中でずっと一緒にいたが、パニックになった上層を鎮めようとして様子を見に外へ出た自治世代を、夜が屠っていった。余計パニックになった上層は狂乱状態に陥り、その半分近くが夜によって解体された。
ただ、無力な自分を恥じるばかりだった。──エージェント・富岡の記録より抜粋


朝になると、三人は城跡を周った。中層外縁に住んでいたお得意様や知人はそのほとんどが生きていたが、中層中心部に行くのは自警部に止められた。
状況は先述のとおりである。どの層も、全く酷い有様だった。

「……クソッ……!わかっちゃいたけど、こんな……あんまりだろ……!」
「……何もかもが遅かった……でもこれは誰のせいでもない。カセットテープを見つけても、再生できなければ意味がない。再生できても、意味が分からなければ意味がない。意味が分かっても、行動する猶予がなければ意味がない。あの管理官の努力がふいになったのは、誰のせいでもない。200年という時間の積み重ねの結果だ。強いて言うなら、みんなのせいだ」

トミオカはそう思うことにした。そう思わなければやっていけない、心が壊れてしまう、そう感じたから。あまりに情けないと自嘲する。弱い人間であるがゆえに、自分の心の護り方はよく理解していた。

「こうなってしまったからには、仕方ない。マキナ、見知った人を集めてくれ。なるたけ多く。シカノメは先に部屋に戻って休んでくれ。時間になったら呼ぶから」
「わかった」
「うん」

二人の背中を見送り、ふと、上を見上げる。そこにはいつもの灰色の天井が広がっているが、少し穴が開いていた。その穴からは、蒼が覗いている。


崩壊した都市と城下町、そして城の瓦礫を背景に、人が集まっていた。なんでも、「これからを決める上で大事な話」らしいという。瓦礫の山に立っているのはあの友人、或いは知人に引っ付いていた、情けない顔が似合いそうな男だった。

「城は今日、崩れ落ちました。親しい人を喪った方には、哀悼の意をささげます。ご愁傷様です」

この男は、そんな枕詞で演説を始めた。城は崩れ落ち、遠征は実質不可能な状態になった。回収屋の主な活動場所も汚物に沈み、いよいよここでの生活も現実的ではない。そこで、彼は選択肢を用意した。
第一の選択肢は、それでもここで暮らしていくことだった。
第ニの選択肢はこのようなものだった。南の果てに屋久島生存圏、北の果てに国後生存圏という、人々が生活をする場所がある。そこはこことは違い、夜は外に出ても安全に暮らすことができ、青々と茂る植物と、柔らかい土と、蒼い蒼い空と、きらめくような水がある。そこへ行かないか。
この話、何も知らない人々からすれば胡乱以外の何物でもない。故に手始めに彼はバッグから青々と茂る苗を見せた。次いでそれが生える地面が土だといった。そして上を見上げてくれと言った。灰色の天井に、一つぽっかり穴がある。そこから見える鮮やかな蒼、これが空だと指さした。そしてこれに豊富な水があると言った。

「想像できないかもしれませんが、私はそれが身近な環境で育ってきました。もちろんここも負けず劣らずで好い場所だった。でも、いや、だからこそ私の故郷も皆さんに見てほしい。もちろん、死の危険はいつでも存在します。どちらにせよ、半分は死ぬでしょう。ですが、飢えて死ぬより夢見て死ぬ方が、輝いていると思うのです」

最後に、あのカセットテープの最後を再生する。

人々の目に映ったのは星と月。雲一つない夜空である。

「これを美しいと感じたなら、どうか私と死の旅路を共にしてくれませんか」

目一杯、男は頭を下げた。沈黙と騒然、4:6といったところか。地震から余りにも現実味がないことの連続だったため、これは夢ではないかとか、ここでもう回収屋として生きていけないなら、俺はついていこうかなとか、この地を見捨てるなんてできないとか、どっちにしても死ぬのは嫌だとか、様々な話が飛び交った。

「俺は行くよ!」

いつか門番をしていた少年は言った。

「いずれ死ぬってんなら、夢捨てたまんま死にたくないしな!それにここだって下層みたいにくっせぇ場所になるだろうし、そんなとこで暮らしたくねえぞ!」

「俺は全員行くなら行くんやけど、誰か一人でも行かないんなら行かんよ」

肉屋を営んでいた好々爺は言った。

「俺はここの肉屋やけん、ここに生きる人のために肉を育てるんよ。ここに根を下ろした以上、そうする義務があるっち思っとる。でもまあ……餞別として、タネの半分は分けちゃるよ」

「私は行くかなぁ……」

気だるげな女は言った。

「あの部屋、もう駄目になったしぃ……どうせ趣味ができないなら臭くない場所で死ぬ……」

などなど、このような調子で人々は行く行かないを表明した。その話は城中に伝わり、その結果、城全体の3割、人数にして120人程度が生存圏を目指すことになった。


「約120人か……思ったより多かったな」
「下層の汚物が外に出たことが結構効いたっぽいな。俺も嫌だもんあの臭い」

とりあえず回収屋と修理屋が即席で荷車を作り、そこに荷物を積んでいく。夕暮れまではまだ遠いが、旧東京を抜け出そうと思えば夜明けとともにでなければ到底夜には間に合わないため、出発は明日となった。今日はその準備に費やす予定だ。

「都市の西外縁部は汚物でいっぱいになってしまったから、都市を北から回り込んで、そのあと箱根を目指すルートになる。道のりは全体的に厳しめだが、夜は箱根を越えた辺りから出てきたし、夜の勢力圏を抜けるのはこれが最短だと思う。道は知ってるからな」
「そうか、シカノメのような子供はどうする?」
「荷車に交代で適度に載せていこう。どうせ30㎏増えるかどうかだし、誤差誤差」
「自治世代とはどうする?」
「自治世代はそのままの役割を果たしてもらおう。子供のご機嫌取りのプロだからな。マキナはシカノメといつも通りで」
「……そして暮らしは極力変えない、と。小さな歩く城だな」
「前の暮らしはかつかつって感じには見えなかったから、多分イケると思う。暮らしを無理に変えると多分不満が出るし」

急がば回れってな、とトミオカは準備を進めていく。マキナも負けじと手を動かした。

途中、「マキナ」と、トミオカが呼びかけた。しかし、「なんでもない。君たちは覚悟決めたんだろうし、心はきっとてこでも動かないだろうから」と、それきり話をやめて作業に集中した。

日は高く昇り、やがて降って夜が来る。そして次の日になるころには、空の穴はもう閉じていた。


ブーツを履き、背嚢を正す。これからが仕事の本番だと無い襟も正す。本来の目的は調査だが、「現地に人がいた場合、救助すること」も仕事内容だ。

これまで城で過ごした、今ではもう半ば瓦礫となった部屋と別れを告げる。

そして、彼は120人の行列の先頭に立つ。準備は良いか、心残りはないかと再三の確認をとった。全員、「無い」と言い切った。彼にはある。あの青年と少女に、言えなかったことがある。

──彼女は、太陽の下を歩けない。

その言葉はついぞ放たれることはなく、ただ一言「出発」と叫び、第一歩を踏み出した。


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  1. portal:6859138 (21 Sep 2020 13:00)
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