乾tale

それは満月の下。数人の男たちが夜桜を肴に宴を張っていた。
その夜は無礼講。美酒に酔い、踊りだす者、歌い出す者、それを囃し立てる者、そしてそれを遠くから眺める者。その男はその輪から外れたところで特に騒ぐわけでもなく、ひとり静かに酒をすすっていた。

「酔えんな…酔いどころを逃してしまった。」

酒臭い息を吐きながら、男は猪口を地面に置く。酔いどころを逃したといっても、頭はガンガンと内側から叩かれるように痛い。少なくとも、良い酔い方をしているわけではなかった。
しばらくこの夜桜でも見て酔い醒ましでも、と視界を動かしたとき、

「お一人ですか?」

後ろから声を掛けられ、振り向いた先には、青年の微笑みが。
それはどこか穏やかで、若々しく、しかし哀愁の含まれた、底の知れぬ何かを持つ。
 どこかで見たような顔であったが、頭痛と吐き気のせいでうまく頭が回らない。ええ、まぁ、とできているのかわからない愛想笑いをなんとか作る。

「皆が楽しそうにしているので私も…と思ったのですが、いけませんね…お酒はあまり得意ではなく。私は桜を眺めているだけで十分酔うことができるなどと言うわけにもいかないので。」

軽口を叩きながら、彼はちびちびと猪口に口をつける。そこに渋々、といった様子は見られず、むしろ味を楽しんでいるようにも見えた。

確かに、この桜の、この鮮やかな色を眺めているだけでも目が回りそうだ。青年がそのような浅はかな意味で”酔う”わけではないことは男も重々承知であったが、青年は「ええ確かに、今年はやけに色づきましたからね。お酒の程よい刺激が案外酔い醒ましになるかもしれません」と、青年もよくわからないことを言って笑った。

そういえば、と男は猪口を置く。青年がどこからか次から次へと徳利を持ってくるので、否が応でも酒は進む。
男が遂に倒れた時、空の徳利は既に20本を超えていた。
青年の方はというと、

「おっと、ついつい呑みすぎてしまいましたね。いやぁ、やはりお酒は恐ろしい。」

けらけらと笑う青年の笑顔が、彼の視界で渦巻いた。
「酒は得意ではないと言ったよな───」それはもはや言葉にならず、うめき声として口から吐き出された。

自分の猪口を持ち、立ち上がる青年に、なんとか男は

「名前は、名前は、名前はなんと───」

とうわ言のように言う。
おや、これは失礼、と青年はもう一度男の方に向き直り、

「乾、とお呼びください。つまらぬ名ですが。」

花嵐が吹き荒れ、どこかからわっと歓声が聞こえた。夥しい花弁が視界を覆い尽くし、彼はその中に消えた。

男の猪口は桜色に染まり、宵の宴は未だ熱を帯びるばかり。

「左様なら」


空を仰げば、新緑の木漏れ日が、男の目に降ってくる。枝を分け、葉を開き、陽光を浴び、その生命を全うしようと、その大樹は声高に叫んでいるように見えた。

男の左足は撃たれ、最早出血で立つことすらままならない。命を謳歌する木々に隠れながら、男は死にかけた虫のごとく弱弱しく、死から逃げ延びんと、しかしそれが無駄なことであることを、彼は薄々ながら認めつつあった。

地面には仲間の無残な遺体が。流れ、大地の糧となりつつある血液には、まだ生命の温かみの残滓が残っていた。
すまない、すまない、と痛みと疲労でうまく動かない喉をなんとか震わせ、それらを弔う。
何故自分が生き残ったのだろう、と男はこの期に及んでも考えていた。

きっとすぐに自分も死ぬのに、何故自分は生きようとしているのだろうと、すぐに思い直した。

土と、草と、人の血の混じった臭い。森の中の地獄で、彼はまだ生きていた。

そのとき、背後から足音が聞こえた。距離はかなり近い。弱った自分に対してこの距離まで気配を消して歩くとは、相当な臆病者か、もしくは油断を許さない、かなりの手練れか。

少なくとも、振り向いた先にいる者が、自らの死神となることであろう。

男はハンドガンをホルダーから取り出す。
なけなしの弾丸でどうこうできるとは思わなかったが、これは彼の、最後の意地であった。
大義や仇討と言った小綺麗なものでなく。

振り向きざまが勝負だ。その眉間に今にでも風穴を───

刹那、彼が聞いたのは、ケダモノの如き嗚咽、それが自分の喉から搾り出されたものだと理解できたのは、時間にしてほんの数秒後であった。

振り向くほどの体の動きすら許されなかった。熱く、熱い、重く、重い痛みが、背中にへばりついている。
流れる血の温度も、背の肉を灼くように熱く感じる。
咳き込めば土に赤色が混じるのが見えた。
確実に死への大きな一歩を踏み出したというのに、精神は眠りの安楽を求めているというのに、身体は生への執着により足掻いている。

いやに鮮明な意識の中、死神の顔をなんとか垣間見ようと、彼は眼球のみを動かす。
情けなく流れる涙でぼやける視界の中、見えたその顔は。

その凡庸な名を、男は今でも覚えていた。

果たして、このような場で再会することになるとは、誰が想像したであろうか?
あの桜の下で交わした盃に、死の香りが混じっていたとでも言うのか?
この運命に、”何故”という言葉が濃厚なマグマのように、粘り気のある疑問が吹き出てくる。

熱く、重い、鉄塊の如き痛みは指の末端にまで広がり、天地も今はわからない。
何故?という思考もその先に進むことは無く、ただ疑問符のみが浮かんでは消えていく。
目の前の男を殺さねばならないのに、どうしても心は疑問符に触れてしまう。
答えを置くべき場所が見つからない。この疑問符に仮初めにでも答えを与えなければ、男は引き金を引くことが、永遠にできない気がした。

しかし男の中では、この邂逅があるべき定めのように、当たり前のように肯定しているのも、また事実であった。

それに気づいた時、男は流れる血液の、あの熱を忘れる。
男の脳裏には、あの花吹雪がまざまざと思い出される。何故かあの日よりも鮮明な景色が、その眼前に広がった。

「ああ、そうか。」

そして男は理解した。
確信した、という方が正しいのかも知れない。

これが、自分の運命であったのだと。あの桜の夜と同じように、自分は独り、去る青年を見届けるしかないのだと。

『左様なら』

別れを告げる幻影と、乾の姿とが重なる。

新緑の中にも、枯れ葉は落ちる。
落葉を弔う者などいるはずもなく───


インタビュー記録:機動部隊█-█乾隊員についての聴取

対象: 機動部隊█-█部隊員:烏羽

インタビュアー: ████


録音開始,

インタビュアー:
では、これからインタビューを始めます。

烏羽部隊員: よろしくお願いします。

インタビュアー: 最近、業務の様子はどうですか?乾隊員の入隊後、何か業務に差し支えがあったりなどとか。

烏羽部隊員: いえ、特に、というか逆に助かることが多い気がします。彼はとても優秀ですし、訓練中にも色んなアドバイスをくれます…周りの仲間も、何か不満に思っているような奴は見当たりませんね…

インタビュアー:ふむ、ならば特に不満はないということですか?

烏羽部隊員:[少し間を置いて]不満というほどではないのですが…[声が少し小さくなる]いえ、これは私の個人的なものなのかもしれませんが…

インタビュアー:お話して頂いても構いませんか?

烏羽部隊員:ええ、私は時々、彼が怖くなるんです…

インタビュアー:続けてください。

烏羽部隊員:特に戦闘時の話ですが、彼の普段見せている姿と、その戦闘時の姿が違いすぎて。いえ、姿ではなく、雰囲気というか、空気感というか、いや確かに、ずっと穏やかな空気感でいてもそれはそれでおかしいのですが…いつも言葉を交わしている彼はあの場にいるのか、少し怖くなって…[数秒の沈黙]とにかく…私はもう、彼とはうまく話せません…彼は一体何者なのか…私には想像もつかないのです…[うなだれ、目線は下を向く]

録音終了,

終了報告書: 情報保護の観点より、インタビュー終了後、当該部隊員には記憶処理を施している。


「桜の咲きはじめる季節ですね。」

そう言って彼は、乾は、僕の向かいの席に、あまりにも当たり前であるかのように、その腰を下ろしたのであった。

驚きのあまり、思わずチキンをよく咀嚼しないまま呑んでしまうほど、僕にとっては、まさか食事の場で顔を合わせるなど、考えられなかったのである。

彼と僕とは、決して接点のない、同じ部隊の隊員という共通点はあるものの、彼が僕と同類の人間であるとは、どうしても思えなかったのだ。

春風のような微笑みが僕の瞳に映る。彼の瞳は、鳩が豆鉄砲を食ったような、あまりにも間抜けな僕の表情を写していることだろう。
今、お互いに向けている表情の差は所謂、月とスッポン、雲泥の、天地の差。

「え、ええ、たしかに。」

驚いたスッポンはなんとかそのあとに「桜が、お好きなんですか?」と付け加えることが精一杯であった。気の利いた返しのひとつができるほど、僕は器用ではない。

そんな僕にも、彼は平等にその美しい笑みを浮かべる。

「ええ、勿論。休みをもらって全国各地に花見旅行に行くのが夢でして…」

まぁ、そんな暇があるはずもなく、今はネットで我慢の日々です、と彼は自嘲的に笑う。
その笑みを引き続けたまま、
「烏羽さんは、休みをもらったら何をしたいですか?そうですね…だいたい5日程度で」
とこちらに問うてきた。

なるほど、5日。長いが、確かにいつかあれば大体のことはできるであろう。
ふむ、と考えたところで、ひとつのことに気付く。

自分には、取り分けて行きたいところも、やりたいこともないことに。
たったひとつ、ぐうたらしたいなぁなどというあまりにも怠惰的な思いのみしか、頭に浮かばなかった。

だが、ここで言葉にできない焦燥を感じ、居ても立っても居られなくなるほど、僕は若くない。
ただ、ここでそこまで親密ではない男に、「そうですねぇぐうたらしたいですねぇ」なんてにやけながら口に出せるほど、僕は無神経でもなかった。

「そうですね…僕も旅行ですかね、例えば北海道とか。美味しい海鮮とかが食べたいなぁ…」

我ながら無難な答えだったと思う。表情も、自分にしてはうまく繕ったのではなかろうか。
僕の表情を見て、乾は、ふうむ、と顎を撫でる。確かに北海道は魅力的ですね、と彼は答えるが、しかし、その目は、僕をじっと見つめていた。

冷ややか、ではない。むしろそれ以上に恐ろしい目の色をしていた。こちらを真正面から見据え、その瞳には───
何も、どんな表情も写ってはいなかった。
侮蔑も、懐疑も、ましてや好奇すらも、含まれてはいない。
口元はにこやかだが、眼光はこちらを射止め、離さない。ぽっかりと空いた穴のような、あまりにも空虚なその瞳の中に、僕だけがそこにいた。

僕の吐いたつまらぬ嘘から、恥ずかしいこと、隠してきた秘密、僕の心のそこにある、埃を被った”何か”が、光を浴びて、恐怖の表情を浮かべている。虚の中に紛れもない僕がいて、その虚を見つめている僕がいる。

乾は、目の前にいるこの男は、一体何を見ているのか。この瞳を通して、僕の何を見つけたのか───
わけのわからぬ恐怖心に、思考が食いつぶされそうになったとき

けらけらと、屈託のない笑い声が、それを掻き消した。
あの表情は跡形もなく消え、美しい微笑を崩し、膝を叩いて笑う乾が、そこにいた。
頭の整理がつかない僕を置いて、乾はけらけらと、そしてげらげらと。

ひー、ひー、と未だ安定しない呼吸のまま、乾は細い目をまた細くして、

「ああいや、申し訳ない。からかい過ぎましたね…ここまであなたが素直な反応をするのだから、つい」

馬鹿に────されているのか、呆然とした僕の考えを見透かすように。違う違う、馬鹿にしたわけではないのですよ。と乾が手を振る。

「あれは、ちょっとした、例えるならば心理テストに似たものといえばよいでしょう、これはよく効くのですよ。特に後ろめたいことがあるひとには…」

あぁ、つまり、僕のつまらない嘘は、

「ええ、あなたの言葉の文面は、場所に対して、北海道に対してそこまでのこだわりはないような感じでした。ですが、やけに力が入っていた。まるであらかじめ決めていた台本を、できるだけ感情を込めて読むように」
乾は続ける。
「なので試しに、先程のような”イタズラ”をしてみたのですが…あなたは想像以上に素直だ。まさかあそこまで怖がられるとは…」

僕はまた、豆鉄砲を食らっていた。どこまで乾は読んでいたのだろう。彼は驚いたような顔をしているが、実は僕がここまで驚愕することすら折り込んでいたのではないか?わからない、彼の思考が、どこまでも。

乾はまた、あの穏やかな微笑みを呼び戻し、

「ああそうそう、先程桜はネットで我慢と言っていましたが」
いつの間にか、彼の手には桜の、小さな、しかし大輪の花が一輪。

「宿舎の外にある桜も存外美しいものですよ」

そう言ってテーブルにそれを置き、乾は僕の向かいから去っていった。

桜を見上げるたびに、このことをまざまざと思い出す。あの計り知れない恐怖と、乾の微笑みと。
そして、彼が目の前に存在していたことを、僕は今でも信じられないのだ。
永遠に僕の前に、彼は現れなかったから。


「私の周りを嗅ぎ回っていたのは、あなた達でしたか」

その部屋は、否、部屋、と言うにはあまりにも殺風景で───辛うじてドアが備え付けられているところに注目すれば、部屋であると定義づけることができるだろう。
その部屋の中心で、一台のデスクを挟み、ふたりの男、そしてその様子を絶えず録画している監視カメラ。

乾の問いに、もうひとりの男は答えない。数枚の書類と、数枚の写真を取り出し、デスク上を滑らせて乾に渡す。
その写真に目を通した乾は、先程まで纏っていた柔らかな雰囲気を消す。

その様子を見た、乾の向かいに座る、やけに無個性な顔を持つ男は、やはり、心当たりがあるようだな、とはじめて口を開く。

「ええ、確かに、彼らと私の間には、決して浅いものではない関係が存在していました」
そして乾は、再度写真に目を落とし───
曖昧に、相好を崩した。


古来より、”鬼”という存在は、まさに恐怖の象徴であったことは語るまでもない。
地獄図、御伽噺、怪談。それらに留まらず、災患や疫病、または人の心の内より、”鬼”は度々その影を覗かせ、人々はただそれに戦慄し、おののいてきた。

だが───果たしていつからだろうか、”鬼”はいつしか、恐怖よりも畏怖を、畏怖よりも羨望を、人々から集めるようになった。
”鬼”という存在が変質したのか、人々の方が”鬼”という存在に適応したのか、それは各々の解釈に由るであろう。
しかし、凡俗な者では追いつくことのできぬ領域に達した者を指すということは、おそらく殆どの例にて共通しているだろう。

その男もまた、”鬼”と称された者であった。
若き頃より文武両道を見事に修め、学業のみならずあらゆる分野においてその才の片鱗を見せた。
無論蒐集院に任官された後は、特に戦闘面での活躍が目立った。
敵に相対する彼はまさに鬼気迫る勢いであり、勇猛果敢、無双の活躍を見せた。

普段の彼については、朴念仁と揶揄されるほど口を開かず、愛想もなく、休日は鍛錬と読書に時を費やすのみであったという。
もはやそれすらも、彼が鬼と称されたる由縁でしかなかった。

男は名を相田藤助と言った。凡庸な名であったが、彼自身この名について特段何かを思ったこともなかった。それよりも、自分が”鬼”と称されることの方が、彼にとっては不可思議であり、珍しく辟易したことがらであった。

藤助の邸宅には、いつからか彼と同じく蒐集院所属の、数名の若者が出入りするようになった。彼の強さに憧れ、是非とも教えを請いたいのだという。ここに来るのは別に拒まないものの、満足に教えることはできないと言ったが、若者達はそれでも構わないと言い、彼の邸宅で日々励んでいる。

やはり才能に恵まれ、それでいて若さという無限にも思える活力を持つ彼らである。覚えが早い。
時に基本的なことを教えたりするのだが、1を教えただけでそれを10までとは行かずとも7にまでに成長させることができる。

あの青年もまた、当初はそうであったように思える。

いつからだろうか、乾が”手を抜いている”ということに気づいたのは。
他の者よりも優れた才を隠すために、手を抜いているということを看破されるということが、あの青年───乾の、唯一見せた未熟な面であったということが、皮肉極まりない。

何故彼が手を抜く、という冒涜的行為に及んだのかはわからない。ただ、彼が手を抜いていても、他の弟子との差は明々白々であり、容易に埋められぬものであったことは言うまでもなく。あえてそれについては、一切口を出すことはなかった。

そして───あれは彼岸花の咲いた日。あの、ともすれば毒々しさをも感じさせるあの紅色。萎れた草葉に映えるあの色を、あの夜見たあの色を、自分は障害、忘れることはないだろう。

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