落日は遠く

こいつはいけない。これは、この暑い日は、どうしようもなく死が近すぎる。

ここのところ地球各地で巻き起こる異常気象が地に立つ地球人あるいは地球内生命体の細胞を蝕んでいて、このサイトの位置するとある極秘の場所もまた然りであった。
勿論それはこの財団の敷地外での話であって、今彼が居座る組織の中心部に近い場所に割り当てられたオフィスでは全く持ってして日差しは意味を成さないという訳なのだが、それでも、強化ガラスを隔てて突き刺さんばかりに広大に拡散する可視光線が誰のものとも知れない彼の角膜を焼くのがいけなかったのだ。そして青く青く鮮烈に澄み渡るこの硬質な空も、柔らかく流動する白と灰の奥行きのある雲も。

誰もが彼を文字通りの“万年”躁鬱病患者だ化け物だと陰で噂をするが、彼はまだ生物学的にはヒトであると主張して憚らないでいた。DNAの配列がそう証明しているのだと。奇しくも彼と同じ思考回路を持つ猿がいるが、まあひとまずそれは置いておこう。無慈悲な実験の結果で得られた類人猿のブライト化など、そこまで手を回せばすぐに溢れてしまう。全てを投げ出してしまいたくなる。猿の彼の意識はいつだって不安定であることが手に取るように分かっていた。
今となっては概念と言うに等しいが —自分自身が概念という物体を棄てた存在になるなどと、誰が予想しただろう?— 彼が彼であるとそう主張し続ける限り、彼には彼を創るに至った父も母も居るという訳だ。






と、そんな風に考えてしまうのがいけない。












ありし日のことだった。今日のように熱い日差しの中、小さく砕いた氷を口の中で転がしながら兄1の側で眠った。その年は稀に見る異常気象であったということを覚えている。茹だるような暑さは幼い体にはあまりに苛烈で、ぐずる彼に歳の離れた兄が取った応急処置だった。
薄いタオルケットをかけて、風通しの良い窓際で寝転がる。兄の服を引っ張って隣で一緒に眠るよう強請った。兄は弟の昼寝に付き合うことで自身の銃を弄り回す時間が無くなってしまうことを承知していたが、そのようなことを意に介さず小さな体の隣に横になる。穏やかな顔だ。多忙な両親に弟の面倒を見るよう頼られていた兄であったが、そこには義務感以外のものが確かに存在していた。
大きく節くれだった手が、タオルケットを一枚隔てた弟の小さな腹の上で一定のリズムを刻み続けるうちに、弟の意識は微睡みに落ちていく。まだ赤子に近い時分の弟は、母親の心音に近いそれを聞くと安心した。兄の顔を見つめる。精悍な顔立ちに映える、新緑の葉に陽光を鏤めたような瞳が弟は好きだった。兄は綺麗なひとだった。その頬に伝う一筋の汗があった。口の中が冷たいだけなのに、不思議と体をひやりとさせてくれる魔法の固体が無くなる頃、兄の手が髪を撫でる余韻を感じながら潤んだ瞳を閉じた。

まだ兄弟がふたりきりであった頃。いつかの幸福だった。






確かに存在していた筈だ。












「違う、違うんだ。トーマス2は、僕の弟は、あんたらが言うスキップなんて妙なもんじゃない」

ジェームズ・ブライトは1人の財団エージェントと対峙していた。取調室にも似た空間。必要最低限の机と椅子だけが置かれている。殺風景な白壁に四方を囲まれた部屋には外の様子が分かる窓などは設置されておらず、漠然とした息苦しさが立ち込めていた。

「残念ですが、この組織内にてそれを決めるのはあなたではありません」

エージェントの無機質な声が響く。抑揚のない低い声だった。相手に議論の余地を感じさせない為の話し方である。エージェントはこのようなスキップの家族の嘆願を何度も聞き、何度も退けてきた職員だった。今回も同じだ。今更心を痛めることなどない。だが1つ違うことを挙げるとすれば、机の上には無造作に書類が散らばっているということか。その紙面には財団に所属する上で必要な条件が事細かに記載されていた。

「頼むよ。あいつは、優しい奴なんだ」
「私は末端です。そのようなことに関与する権限はありません」
「クソっ」
「…が。経験上、余程危険でない限り、人型が手酷い扱いを受けることはないでしょう」
「本当か」
「それに、あなたが昇進さえすれば、弟さんの処遇に口出しすることも可能になるかもしれません」

エージェントの台詞を聞いた男の目には、初めて恐怖や焦燥以外の鈍い光が宿った。
この時彼の脳は明確に未来のビジョンを描き、動き出した。芽生えたものはとてつもなく強固な野心。ある程度の地位は不自由を取り除き、より多くのものを与えてくれるということを彼は既に知っていた。世界の裏舞台にて、また足掻けばいいだけの話だった。それが弟を守る唯一の手段であるなら、尚更に。

エージェントは彼が一切の迷いなくサインを終えた契約書を一瞥した。40代で異常遺伝子学、生命工学の分野にて権威と呼ばれるまでに上り詰めた天才。世界最高峰の頭脳。彼の弟は異常を発現させ、収容された。奇しくもその兄は財団職員足るに十分な知識を成熟させていたと、そういう奇妙な運命の兄弟であった。
彼は財団が必要とする人材だった。それは彼にとって多くは幸いであろう。だがエージェントからすれば、途方もない不幸であるように感じられた。此処にくることは、此処で働くということは、自ら死を手繰り寄せるようなものだ。それが10年近くを財団にて勤務したエージェントの実感だった。

ジェームズ・ブライトは今日死ぬ。彼自身が殺すのだ。外の世界で築き上げた肩書きも、もうじき出産を控えていたという彼の愛しい人をも全てを捨て置き、此処にきた。恐らくは既に狂人の域であった。

正しいことをしなければならない。






「健闘を祈っていますよ。“ジャック”・ブライト研究員」












幾千の針の様な風が吹いていた。牡丹雪が降り頻り、薄い白色の膜を作っていた。
人目も寒気も何もかもを遮る分厚い白壁が、理不尽の塊であるような超常的人型物体の力で粉々に砕け散って、吹き抜ける風が直に体を刺し貫いた。体にできた空洞から絶え間なく漏れ出る赤色が、果物が潰れたみたいに広がっていく。ピントの合わない視界の中であまりに鮮やかで瞳に痛かった。血が足りない。寒風と内臓の露出に伴う命の終わりの感覚器官の暴走は、生憎か幸いか脳が処理しきれていない。
見れば、先程の衝撃で研究対象の首飾りが飛んでいた。未だ欠けた兆候はない。大きな宝石を湛えたそれは血のように濃密な赤色で —実は彼の内臓が飛び散ってそう見えていたのだが— それを今手に入れねばならないような気がした。心臓に縋りつく心地だった。赤々と煌くそれは遍く生命の輝きを体現していた。あらゆる記憶が脳を駆け巡り、そして、彼の血塗れの粘ついた手が紅玉に重なると同時に絶命した。数分を生きたことが奇跡だった。恐ろしい執着だった。喧騒は遠くなっていた。






年の終わりに、雪が彼を覆い隠していく。












唸る空調設備の音に我に返る。凍える。どうやら冷房が効きすぎていたらしい。窓の外に揺蕩う蜃気楼と部屋の鋭利な冷気との相違に震え、こめかみを押さえ蹲った。偏頭痛が酷い。

躁鬱の間に記憶のフラッシュバックは容易に起こり、彼の今では彼のものではない体の目の下の隈を濃くさせた。今回は数十年前、数年前、または数ヶ月前のジャック・ブライトの記憶だった。さて次の記憶はどうなるのだろう。前回の記憶は誰のものだった?顔も知らないDクラスの記憶が彼の中で反響する度に、彼は手首を切り刻んだ。それを咎められれば今度は内腿に刃を向けた。死を選んだ。新たな体で目が覚めた。Dクラスは有限なのだと叱責を受けた。あらゆる刃物を取り上げられた。どうせ30日経てば殺されるのに?彼は自分を人殺しだと思っていた。何も解決しない。堂々巡りだった。

この首飾りに入ってからの記憶がいやに鮮明で、決して薄れないということを彼は自覚していた。生前覚えきれなかった収容手順も、馬鹿みたいに長いセキュリティコードも、器となるDクラスのことも、端から紅玉の中に蓄積されている。それらは宝石を濁らせるには至らない。生命が宿る脳本体に作用する記憶処理を無機物に打ち込む技術は今現在の財団では確立されておらず、精神を首飾りに護られた彼には最早通用しないのではないかという仮定は、今のところ確証を得られてはいない。だが記憶処理が通用しないとして、彼はそのことを他人に吐露するつもりは更々無かった。精神を病んでも、体を失っても、彼の生まれ持った血に共通する強かさは健在であった。

首飾りは彼に慢性的な憂鬱と不死を贈ったが、同時にそれは彼を昇進させる優秀さへと繋げた。酷い皮肉だった。自分ではない者の体が自分の意思で動いている。その致命的な齟齬に耐えられなかった。

勢いよく首飾りを白壁に投げつけた男の意識は途切れ、デスクへと頭を伏せた。そこにあるのは脳死患者の空っぽの器でしかない。






後に、衝動的に首飾りを投げ捨てるジャック・ブライト博士の器にSCP-963が強制的に装着されるようになる。素肌に接着剤をなすりつけられて、死の瞬間まで外れないよう。
無論、最悪の気分だった。





ERROR

The luzbrilliant's portal does not exist.


エラー: luzbrilliantのportalページが存在しません。利用ガイドを参照し、portalページを作成してください。


利用ガイド

  1. portal:6451996 ( 18 May 2020 01:51 )
layoutsupporter.png
Unless otherwise stated, the content of this page is licensed under Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 License