グラス博士とブライト博士

「出掛けましょう。ブライト博士。」

日が昇って間も無く経った午前。オフィスへと押し入り、彼のデスクの辛うじて空きが見えている面に書類を叩き付けた。シナモンツイストを付けて歩く銃マニアの博士程では無いにしても、相も変わらず整理整頓という言葉を知らない人だった。しかし本人曰く物の置き場所は全て把握しているらしい。猿の置物に部屋を勝手に片付けられ、あらゆるペンのインクを抜かれ、挙げ句の果てには重要書類を古代語に翻訳されていた事に気付いた時には人間らしく頭を抱えて「クソ猿が」と巨大なブーメランになって2倍で返ってきそうな罵声を吐いていた。

財団人事局長、及びSCP-963。またの名をジャック・ブライト。財団に所属し研究員として長い期間、それこそ100年単位で働き続けているその人は、口に含んでいたらしい味の薄いインスタントコーヒーを飲み込んだ証拠に小さく喉が上下した後、机上に散乱した書類の中に無理矢理カップを捩じ込んだ。突然の出来事に一瞬呆気にとられた様子の彼の髪と同じ茶で縁取られた緑の瞳の身体をじっと見つめると、表情が些か困惑したようなものに変わる。初めて見た顔かもしれない。片眉を上げながら、ゆっくりと口を開いた。

「あー…っと…グラス博士。君は、もしかしたら人違いをしているんじゃないか?」
「誰があなたを間違えますかブライト博士。いいですか。あなたは、私と一緒に出掛けるんです。」

私の言葉に誤りがない事を確認した彼は、先程私が叩き付けた書類を手に取り、じっと眺めた。滑らかに瞳が左から右にと繰り返し動いていくと同時に、今度は微かに眉間に皺が刻まれる。

「これは、通知書類かい?…この文面じゃあ脅しとも取れるな。」
「ええ、察しの通り、その書類に記載された文章はほとんど命令と同義です。あなたはこれから3日間、外で強制的に休暇を過ごして貰います。」
「O5の署名だなんて馬鹿げてる。こんな事をせずとも、私が一気に有給を消化する事は知っているだろうに。」
「それでは意味が無い、と私は一心理学者として判断しました。長期休暇中だろうと、あなたが旅行と称して他サイトで自ら仕事を請け負っていた事は知っているんです。端的に言いますと、働きすぎなんですよ。これでは心身への負担が大きすぎる…例えあなたが普通の人間の体質と少し違っていたとしても。とは言え、あなたを動かす事の出来る直接の権力は、O5しかない。ですから、掛け合いました。今日を含めて3日間、あなたはこの財団のありとあらゆる業務に携わる事はできません。」
「…さてね。私が抜けて、それでこの財団は回るのかい?」
「ご心配なく。その点においては完璧な、…いえ、9割5分型は確実な手配を約束します。仕方のない事として、あなたのコピーにまでは手を回す事はできませんでしたが…。これを。」

応酬の後、もう一つの書類をブライト博士の眼前に広げる。全てを悟ったらしい彼の顔が一番分かりやすく歪んだ。無理にでも納得して貰わなければならない。彼を理性的に屈服させるには、第一に道理の通った理屈と、捻じ曲げられない巨大な権力と、それなりの頑固さを提示する事が重要だった。でなければ、のらりくらりと躱され逆にその手腕という巧みな口車で捩じ伏せられてしまう事は火を見るよりも明らかだ。どういう訳か彼は妙な人身掌握にも長けていた。
さて、もう一押しと言ったところだろうか。

「…職権濫用か?グラス。君らしくもない。」
「そうとも言うのかもしれません。しかし、…あなたは少しの間でも、財団の外に出るべきだ。」

書類は、私自身も有給休暇を得た事を意味していた。ご丁寧にもO5の署名付きで。それが意味する事は、つまるところ私は監視役として任命された訳だ。彼が勝手に仕事へ復帰しないよう、そして、万が一にも…逃げ出さないよう。逃亡は即ち、財団の理念に反する収容違反へと直結する。その責任は全て私が一身に受けねばならないことは、覚悟の上だった。そうして冒頭の台詞へと繋がるのだ。元々共に行くつもりだったのだから、手間が省けた。監視とそう銘打たれてしまえば、それだけの話になってしまうのだが。

彼は縛られ過ぎていた。SCPとなった彼が職員としてこれだけの地位に就いている事実。それと同時に、外界での、すなわち財団の管轄から一歩先に出た場所での行動の制限。確保、収容、保護を目的とする財団は異常存在を外に出す訳にはいかない。とかく彼は社会と呼ばれる領域の情報は積極的に得ていて、それは技術、知識の分野に関して突出していた。日夜人類が生み出す最新鋭のそれを淡々と着実に取り入れていく彼であったが、それでも。それだけでは、いずれ人は死んでしまう。籠の中で愛でられ保護を受けながら一生を終えるか弱い小鳥の類ではないのだ。外界との関係の断絶は、人の腐敗をもたらす。…果たして愛も庇護も彼が受け得ているのかは定かではないが。だから、尚更に、世俗的な空気を肺に取り込ませる事は重要であるかのように感じたのだ。

「…ああ、もう、分かった、分かったから。そんなに見つめないでくれ…」

睨み合うこと数秒間。彼の方の視線が逸れ、白旗が上がったかのような台詞が聞けたので、一先ず関門は突破できた。と言っても良いのだろう。腹の底が見えない彼がいつ心変わりするか、もしくは端から応じる気などなかったという可能性すら捨てきれない為油断は出来ないが。
しかし、ここまで粘られるとは。ワーカホリックの人種の脳内は少し理解し難いものだと改めて感じた。私は同僚として、友人として、彼を心配し、あわよくば楽しんで貰おうと、そういう気概が微かにも存在しているのだが。自己満足だお節介だと思われても構わない。それだけの強情さと図太さは、ここでの仕事で嫌でも身に付いていた。私は私なりに自身の実績を信用する事が大切だと学んだのだ。他でもない、目の前のワーカホリックを拗らせた博士に。

早速と彼の身の回りの準備に取り掛かると、先程まで不服そうな顔をぶら下げていたブライト博士がぽんと手を打った。いつもの顔。私の名前を呼ぶ声に、少し悪戯な色が滲んでいるようにも見えた。

「行きたい場所があったんだ」

どこか秘密めいた彼からの提案。恐らくそれは実現するのだろう。彼の人間を形作るものの一つとして、言葉の裏に思わず絆されてしまうような緩やかな強制力が伴っていた。
しかして突然の台詞に、今度はこちらが目を白黒させる番だった。


海に来ていた。

一年ぶりの海は変わらずその青さと透明度を保っていた。季節的にまだ海水浴に適する気温ではない為か、人の姿は見受けられなかった。

長年に渡り財団に籠りきりだったジャック・ブライトが足を運びたかった場所。
休暇の為、レジャーの為に誰もが訪れる此処に彼が訪れるのは凡そ50年余り久しい事なのだと聞いた時には思わず口を噤んだ。

「服は、替えがあるのか?」
「服ですか?ええ、一応余分には…え、っちょっと、ブライト博士!?」

波が繰り返し声を発し続ける青の元へと吸い込まれるように脚を進める彼を止めようとするが一歩及ばず、気づけば彼は着の身着のままで海水に浸ってしまっていた。
彼の体が波を割るのも束の間に、直ぐに下半身が見えなくなる。逆光でシルエットになった彼の背に、何故か、不穏な予感が過った。

ここからは、彼の身勝手な独白である。
独白でしかないのだ。私の存在は、あまりにも希薄だった。

「このまま波に身を任せ、この首飾りごと沈んでしまえば、私の身体は深海の圧力で砕け散って、得体の知れない生き物どもに食われ、分解されて、死んだことになるのだろうかね。半端な深さは嫌だな。財団の、そうでなくても、どこかの組織の連中に引き上げられるかもしれない。そうだ、マリアナ海溝にでも沈めてもらおうか。おっと上に告げ口はしてくれるなよ?止められて、酷い処罰を受けさせられてしまう。溺死というのは非常に苦しいものだが、私にはお似合いだろう。踠き、苦しんで、空気を求めて、肺が水で満たされて、死んで、沈んで、浮いて、喰われて、腐って、沈んで、落ちていって、未だ人類の到達し得ない地点まで沈んでしまえば、私は一時の死を手に入れることができるのかもしれない。母なる海の一部となれるなら、なんて素敵なことだと思わないか?いや、素晴らしい事だ。命の流れに逆らう愚か者を海は呑み込んでくれる。その最たる原因である首飾りについてはどうだか知らないが…こいつはどうにも自然から生まれたと仮定するには無理がある代物だからね。もしかしたら…いや、考えるのは、少しだけ嫌だな。それと、暗い深海は、私一人では少しだけ恐ろしいかもしれない。…どうだい、良ければ、君も一緒に───」

身体は自分でも驚くほど速く動いていた。暑さと対照的な気持ち悪い冷や汗が滲む。足元に渦巻く波が鬱陶しくて憎らしくて堪らない。私の足取りを遮るかのように巻き付く流動を蹴り飛ばして、彼の腕を掴んだ。いつの間にか侵食は彼の胸元にまで及び、濡れたシャツが肌に貼り付き薄い肌色が透けていた。悪寒が背骨を震わせる。腕を掴む手すら震えているような気がした。迷子になるまいと歩幅の合わない親の背に必死に縋り付く子供のようだった。傍目には、私の必死さは滑稽にすら写っただろう。

彼は振り向いた。
潮の匂い。水平線が煌めいている。眩しい。何が?太陽が煩わしい。波が彼の脚に堰き止められ、跳ね返り、髪を、頰を濡らした。空は青く、雲は白い。どこまでも、果てがないような錯覚すら覚えた。この巨大な世界の前では、彼のものではない体はいとも容易く溶けてしまうだろう。果たして精神は、どうだろうか。考えたくはなかった。

彼は微笑んでいた。
見た事のない笑みだった。慈悲すら滲む、不器用な笑顔。それが意味する事は、死への羨望か。分からなかった。分からないことだらけだった。
私は、どんな顔をしていたのだろう。
先程までの景色が、美しいとは思えなくなっていた。畏怖すら感じる事はない。彼を奪おうとする汚れきった水溜まりへの理不尽な憎悪。視界が滲む。感傷などでは決してない。ただ、恐ろしかった。

「冗談さ」

先程までの言の葉を全て闇に葬り去ろうとする音を聞きはっと見上げると、彼はいつも通りの飄々とした表情に戻っていた。
生が誕生した場所で死を語る彼はどうしても怪物じみていて、それでもどこまでも1人の人間でしかないのだ。冗談、と茶化すその言葉こそが冗談である事は分かりきっている事実で、それでもそれを望んでペテンのまま都合良く受け入れようとしてしまう私こそが今此処で最も愚かしい人間だった。

死は彼を救わない。絶望的な事。完全な死は彼にもたらされることはないからだ。それは彼が一番よく知っている。思い知らされている。劣化する事のない脳を100年余り持て余した彼の心境が、私には分かり得ない事は幾度と納得していたが、己の力量と埋められない通常と異常との溝を許せはしなかった。こんな穏やかな昼下がりに、私の内情は黒く激しい渦を巻いていた。

「どうした、グラス。」

ここまで私の中身を踏み荒らし掻き乱してぐちゃぐちゃにして、気が済んだらしい彼が私を独り水溜りの中へと残して乾いた砂浜へと軽々と足跡を残すのがあまりに自分勝手なように感じて怒りと共に少しだけ頭が冷える。
彼の言葉も行動も、全て嘘だと分かっていたのだ。なぜなら彼は最初に着替えはあるのかと聞いたのだから。必ず、“こちら側”に戻ってくるのだと分かっていた。口だけの約束事が守られる保証などは、ありはしないのだけれど。

「ブライト博士」
「ん?」
「…いえ。そろそろ、行きましょう。」

彼を自然になど渡すものかと思いもした。
追い掛けるように打ち寄せる波を踵で踏み躙り、母なる海に呪詛を投げかける。
私が生きている間は、あなたに生きていて欲しい。そんな禍々しく愚かな望みで、自我が曖昧となってしまった彼の唯一とも言える純然たる死という望みでさえを、私の欲で穢してしまうのだろうか。それは、最も許されない事だ。…赦されない事ならば、彼の望みを叶え、私の望みも叶えられる、最適な方法も、脳裏に浮かんでいた。今ここでアスファルトに向かう彼の腕を引いて、そのまま、

そう、私は、あなたと一緒なら

しかし、まだ、その時には早い。
はやい、のです。


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