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あの夏の日、私は愛媛の海岸沿いにある病院に入院していた母親が危篤状態になったという連絡を受けて、母の最期を看取るために、溜まりに溜まった有給休暇を使って研究室を出て、父や伯母とともに病院を訪れ、滞在十日目となっていた。
蝉時雨が耳をつんざき、夏特有の湿度にも慣れた私は白いベッドの上に横たわる母をじっと見ていた。長い日をこの病室で暮らしていた私はそれが習慣となっていた。
その間にも、部屋の温度は上がり続けていた。母の唇を、カット綿に含ませた水で、父と伯母とが交互に拭ったが、拭う間も無く蒸発してゆく。しかし口の中の水分が少しでも多ければ、母は苦しそうに喉をゴロゴロと動かした。そのとき、看護師が「オレンジのジュースを作りました。自家製無農薬ですよ」と言いながら、黄色い液体の入った吸い飲みを持ってきた。「病人は、やっぱり何か食べないといけません。精がつきませんからね」と彼は言った。
しかし、今の状態でこの病人に何か食べさせることなどできるのか?
「なんとかします」
看護師はそのジュースを是非とも病人の口に入れてやりたいようだった。そして、それを止めねばならない理由を、この病室にいる人間は誰も持ってはいなかった。
看護師は右に傾げた病人の顔に近寄った。そして慎重に病人の口を開き、覗いた。顎が垂れ、乾ききった舌がだらりと出てくる。看護師は吸い飲みの口先で舌を押した。それから一滴、黄色い汁を落とした。その液体は渇いた舌にジワリとしみとおり、喉の奥へと入っていった。母の顔はピクピクと動いたが、呼吸はゆっくりと続いた。
看護師は同じように一滴一滴を舌の上に落としていった。それから彼は量を増やしながら、そして落とす速度も上げながら、どんどん、どんどん、母の口の中へと黄色い液体を注いだ。そこにはもう渇いた舌はなかった。吸い飲みの横に刻まれた目盛によれば、スプーン一杯程度が母の口の中へと注がれたらしかった。
「もうちょっと、やってみましょう」
今度は舌からでなく、横から流し込むようだった。一直線に、黄色い液体が舌と内頬に伝っていったのが見えた。
「よし、よし」
看護師は声を上げた。その途端に、母が突然眉を寄せて、咳き込んだ。と同時に、舌に押されて、吸い飲みからボトボトと汁が溢れた。さらに咳き込むと、吸い飲みの口先がすんでのところで上顎に刺さりかけて、その拍子に看護師は吸い飲みを床に落とした。柑橘類の匂いが病室に広がった。
母は喉の奥で痰を詰まらせたような音を立てると、瞼を急に開かせた。呼吸をするごとに黄色い液体が泡になって口から溢れ出る。干上がったポンプのような音が鳴ったかと思うと、息を吐くのが早くなった。
看護師は急いで病室から出ていった。……何分か経つと、医者がやって来た。母はしわがれた声を出しながら、不規則な息を吐き出した。医者は母のベッドの横へどしどしと移動すると、しばらく母の様子を眺め、胸元を開いて聴診器を当てた。医者が聴診器を当てていると、それらが幕を引く合図であったかのようにかすれた呼吸が病室から無くなった。それに呼応するように顔や手先から色が失われた。医者は立ち上がって、部屋の外にて待機していた看護師を呼んだ。医者は袖を捲って腕時計を取り出して、「13時12分」と時刻をカルテにうつさせて、いつものようにやけに歩幅の大きくさせて病室を出ていった。
全ては一瞬の出来事であった。
医者が出て行くと、私は壁に背を預けている体から重いものがなくなったような感覚がした。病室の壁と私を隔てる空間にあった重さがなくなったような気がした。そのまま空中にでも飛んでいきそうで、しばらくは自分自身を金縛りにあわせていた。
看護師が母の口を閉ざさせて、瞼を降ろさせたことに気づいたのは少し経った時であった。母の顔に近づけている看護師の指に毛があるのが見えたのは少々気味が悪かったが、彼の指が視界から失われた時、母の顔を見て、一種の感動を覚えた。あんなにも変形していた母の顔には苦痛の表情が失われて、随分と昔に会った母の顔を幻視させていたのだ。
……そのときだった。私の耳に聞き慣れない音が入って来たのは。肉動的で、途切れることなく、その音は響いていた。それが伯母の嗚咽だと気づいたとき、私は目をパチパチと瞬かせて、奇妙な気持ちが心を占めた。
人が死んだときには泣くものだ。
そんな常識のようなことを思い出すのに私は手間取っていた。どうしてだろう。人が亡くなれば泣くものだということを私は忘れていた。
そう思いを巡らせている間も絶えることなく泣きじゃくる声が聞こえて、私が責められているように思えた。ついにはその声が不愉快にさえ思えた。それと同時に泣いている伯母のことが癪に触った。
あなたはどうして泣くのだろうか?泣けば自分が暖かい人間だという証拠にでもなるのだろうか?優しい心が贈ってもらえるとでも言うのか?
一方、その隣には父が床に膝をついていた。その姿が私には白々しく思えた。
何があなたをそこまで心を動かすのか?膝を付けば母が極楽浄土にでも行くと言うのか?夫婦の中を証明できると言うのか?
……嗚咽する老婆と膝をつく老人の後ろを、看護師が忙しなく動いていたかと思うと、神妙な顔持ちで、箸を突き立てたご飯と水を入れた茶碗をお盆に乗せて持って来た。それを母の枕元に置く。そしてまた、廊下に出て、何処かへと駆け出していった。
何気なく、この男は、死ぬ直前に母にやったことを心苦しく思い、気まずい心持ちをどうにかなくそうとして、あんなにも急いでいるのかと思った。もしそうなら、そんなことはしなくていいとでも言ってやりたかったが、男はこちらの顔を伺う様子もなく、何処かへ飛んでいくので、その正否はわからなかった。
ただ、もしあの男がこちらを縋るような顔をして、こちらを見てきたとしたならば、それはそれで、聞きたくもない弁解でもされそうで、こちらが何処かへと逃げ出すだろう。
この病室に響く声に悩まされながら、そんなことを考えているうちに、私がここにいる理由なんてもうないのではないか、と思った。私はすぐに立ち上がって、部屋を出た。そのとき、伯母が顔を上げて怪訝そうな面持ちをしていたのは、印象に残った。
病院の外を出た途端、私はふらふらと目眩に襲われた。頭上から日光がジリジリと照りつけて、目を瞑ると、今度は足元がグラグラと揺らいだように思えた。やはり、かなり疲弊しているようだ。それに、十日以上、一度薬局に出て行ったきり、ずっと日中はあの病室にいたからだろう。私は、そっと病院の外のベンチに出来るだけ木陰の場所を探して、腰を下ろした。
────十日間も、私は何をしていたのだろうか。あの白くて暑苦しい病室に、一体何のために居続けたのだろう。たとえ最期の十日間だけでも母の側にいることで何かを示したかったとでも言うのだろうか。母のために何かをしてやりたかった親孝行の精神でもあったと言うのだろうか。私達親と子の関係はそこにいる、いない程度のことで揺らぐようなものだったのだろうか。少なくとも、外野から何か言われるようなことは何もないはずではないか?
私は蝉時雨を体中に受けながら、瞼を閉じた。そのとき、何を考えていたかはわからない。全てが終わってしまった────という気持ちから、遠慮も気兼ねもなく、病室の中からしか見ることのできなかった風景を見て、開放感に身を委ねたかったのかもしれない。
そして、私が次に目を開けたとき、目の前に広がる光景に衝撃を受けて、瞬きもせずにその光景を目に焼きつけた。
岬があって、その奥に童話のような島を浮かべた光景だった。しかし私が目に焼きつけたのは、波も何もない海面に数えきれぬほどの黒々とした杭が、見渡す限りに突き立っていた光景だった。……一瞬、時が止まったかのように思えた。ギラギラと輝く太陽の光が海面を反射させているだけだった。風は勢いを失い、潮の香りは消えて、あらゆるものが、その風景を、私に見せつけるように、動いた。
そして、私は渇いた目を湿らせるために目を閉じた。そこにあったのは、十日間病室から見えていた、病院の風景であった。敷き詰められたカラフルなレンガと丁寧に作り込まれた中庭、それだけであった。中庭に設置されている時計に目を向けるが時間はそれほど経ってはいなかった。
あの異様な光景は何だったのだろうか。
何らかの超常的なものか。それとも生理的活動だろうか。
手入れのされた櫛のような、墓標のような、あの杭の列のことが忘れられない。
その最中、一つの“死”が私の手の中に捉えられていたのがわかった。
あの夏の日、私は“死”を思い出した。
死亡者名: 1258、2304、8091、9333、12390、熊林研究員、灘田見研究員、神田林研究員、春日丘博士
性別:上記の順に、M,M,M,F,M,F,M,F,M
死亡者種別:上記の順にD,D,D,D,D,C,C,C,Bクラス職員
生年月日[UTC+ ](不詳の場合推定年齢を記載):上記の順に、西暦1970年12月15日、西暦1991年5月29日、西暦1989年1月4日、不明/推定年齢24歳、西暦1996年7月7日、西暦1989年10月1日、西暦1999年5月3日、西暦1969年2月27日
死亡時刻[UTC+ ](不詳の場合1時間単位までの推定死亡時刻を記載):西暦2020年8月19日1時13分
死亡地点(財団管轄区域外の場合小数点第六桁までの緯度経度表記):サイト-81██
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死亡原因/以下の項目群に記入
I部
(イ)直接死因:上記の順に、出血死、出血死、圧死、圧死、衝撃死、衝撃死、圧死、出血死(しかし全て13と指定)
(ロ) (イ)の原因: SCP-████-JPの実験中の事故
(ハ) (ロ)の原因: 不明
II部
直接には死因に関係しないがI部の項目いずれかに影響を及ぼした事象: 同研究室所属の越智研究員が休暇を取っていた、サイト-81██は三ヶ月前に襲撃インシデントが発生していた
I部もしくはII部に関連する参考資料(RAISA内部データベース分類コードにて記載):
死因の種類/下部の12項目のいずれかに記入
内因死
1. 病死及び自然死
不慮の外因死
2. 交通事故/3. 転倒・転落/4. 溺水/5. 煙、火災及び火焰による傷害/6. 窒息/7. 中毒/8. その他
その他及び不詳の外因死
9. 自殺/10. 他殺/12. その他/13. 不詳の死
その他特に付言すべき事柄(自由記述)
・SCP-████-JPの実験では到底有り得ない現象を観測。その他サイト-81██に収容されているいかなるSCPオブジェクトの異常性とも合致しないことが判明。現在調査中。
・越智研究員は現在カウンセリングを受けています。
・ああ、“死”なんて思い出さなければよかった
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