生きている死体は黎明の夢を見るか

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散る血の夕焼けが、世界中を覆っていた。

うめき声が耳元に響く。刀がひらひらと舞い、前方から歩いてくる者を斬る。そして、また虚空を裂く。今度は左側。苦痛で歪んだ顔の下を、早く通り過ぎる刀が、また後退しては間隙を斬り、またまた斬って行く。血は流れない。かろうじて敵の首を切る者の汗が流れ落ちるだけ。

敵は、あまりにも多い。

柄の端に草書体で「痘」が刻まれている剣が、目にも止まらぬ速さで回転して右側の敵を撫で切る。そして、刀の柄で後ろの敵の首を掴み取り、剣を大きく振り回して切り落とす。喉を裂くたびに拍動する一抹の生の鼓動。その拍動は時折剣を伝って手首を揺さぶった。しかし、今は、これに対する哀悼や追悼の意を表する余地はない。死と死の狭間においては、刃を輝かせ続けなければならない。そうしてこそ剣を握る者が生きることができる。それが刀を握った者の生き方だ。殺と生が違わないことを、彼は知っている。

今はさらに。

熱い血をたぎらせる肉体に向かい、歯をむき出しにして飛びかかってくる口を、体を翻して避ける。その後、自身の速度に耐えられず、倒れてしまったそれの首を切り取る。刃はそこで止まらず、再び虚空を狙う。剣は空を狙いつつ、同時に空には向けない。父から聞いた言葉を繰り返しながら、彼は刀の背で敵を押しのけながら飛んでくる敵の首を突いて退く。刀身の端に揺れる残像が幻影のように視野を乱す。

終わりは、見えない。

仁賀保有信は荒く息を吐きながら姿勢を整えた。すでに十人余りの首を切ったにもかかわらず、攻撃者たちは多すぎた。どこから飛び出すかわからないこの者たちの無数の敵意に向き合うたびに、彼は、一体どんな病原体が無辜の村民をこれほどまで変異させたのか、全く見当が付かないということを痛感した。彼が知っていることは只管ひたすら、少しでも隙が見えたら死ぬということだった。

暗くならないうちに、すべてを終わらせなければならない。

有信は、寄りかかってくる村民の額をひじでなぐって、後ろに下がった。やつらは遅くても数が多かったし、今彼らが立っている山の中腹などではさらに有利にならざるを得なかった。彼は四方から押し寄せる包囲網を眺めながら、不安そうに唾を飲んだ。戦いを続ければ続けるほど、何かの統制力のような感覚が体の奥底から抜け出ていくような気がした。

冷たくなった手足を鞭打って動かしながら、有信は剣を持ち上げた。視野に入ってくる敵は、今や五人。年齢と性別は様々だったが、共通点が一つあった。肉と血に対する熱望。彼の視界に血で染まった着物をずるずる引きずってくる女性が入ってきた。左腕がほとんど欠けて白い骨が見えた。おそらくそこに数十人が飛びかかったのだろう。そこから始まり、服の間々に見える数々の歯形を、有信は確認することができた。苦しみと死の跡。剣を持った手がかすかに震えるのを感じた。平凡な者なら過多出血で死んでしまうはずの傷。ただ、女は彼に続けて近づいていた。

死んだままで。

有信は歯を食いしばって左右の敵の脛を切り、倒れる彼らの後ろ首に刀を突き刺した。そして、すばやく身を翻して女のひとに近づいた。彼女のうめき声が耳に染み込んだ。空っぽの目の穴が彼の顔を刺すようににらみつけていた。その音、その音声に混じったものは、苦痛でも、悲嘆でもなかった。強烈な渇望、血に対する。彼の命に対する。彼の肉体に対する、渇き。

若い剣客は女の頭をつかみ、一振りで胴体と分離させた。

程なくして彼の斬撃は止んだ。有信は首と体が分離した遺体を一か所に集め始めた。冷たい遺体に還った敵は、もはや動かず、地面に土ぼこりを埋めるだけだった。

適当に穴を掘り、死体を投げ入れ、再び土で覆いながら、彼は小さくため息をついた。思ったより仕事が簡単に終わったということに対して爽快感を抱いたものの、一抹の割り切れない感覚が生じた。ここには、知らせが聞こえてくるやいなや、兄弟姉妹に助けを求めずにすぐ駆けつけてきた。一人で仕事を遂行したのは今日が初めてだった。兄上、姉上たちの影から抜け出し、自ら事を解決するほど成熟した自分を立証したかったのだ。もちろん、仕事は驚くほどうまく終わった。有信もその事実を認めることができた。


とはいえ、どうしてこんなに不安なのか。有信は山を見渡しながら、唇をかんだ。いつのまにか日の入りが近づいている夕焼けの血の裾は山を越えて傾いていった。後ろ首に寒気が漂い、あごに力が入った。何かを逃している、そんな感じだ。

尾根が風に揺れた。

彼はしばらく黙って空を見つめた。自分が形容し難い緊張に浸りつつあることを、本能的に察知した。

なぜ今、急にこんな感覚になるのか。 有信は慎重に刀の柄の先に手を上げた。本能的な既視感が首筋をつたって上がってきた。洪積世から人間意識に絶えず寄生してきた、人間本来の防御機制。その警報音は彼の脳内で絶え間なく作動していた。その根源は分からなかった。分からなかったからこそ、目的のない警報はさらに激しく悲鳴を上げた。

逃したのは何だろうか。彼の視線は土塚に向かい、再び深い茂みのどこかへ行ってしまった。一見すると、山は変わっていなかった。しかし若者は、なにか捻れたものが向こうを這っていることを本能で知った。いや、それは本能というより、彼自身の敵意と称するのが妥当であった。彼は彼の敵意でその未知のものの敵意を感じ取った。隠すことのできない敵意と悪意が、茂みの向こうから、風、野生の動物、土ぼこり、小川といった形で茂みの外の存在たちに飛びついていた。有信は、遠くの山に視線を投げながら、自分の腰につけた柄を握った。額から流れる汗一つさえ、ありありと感じられた。感覚の全ての刃が心臓の向こうから立ち上がっている、今。

山は、静かだった。

有信は拳を握ったり咲いたりしながら息を吸い込んだ。誤断だったか。彼は、木の枝を静かに拾い上げ、土塚の上に挿し込んで山を下り始めた。

背後から激しい風が吹いてきた。

有信は即座に立ち止まった。

そして剣を、鞘から抜き出した。

死体が腐る匂いがした。

そしてうめき声。

有信は跳躍しながら後ろに回り、剣をたたきつけた。かすかなうめき声とともに感染者の頭が飛んでいった。彼はひざをついたまま、片手を床につけ呼吸を整えた。なぜまだ知らなかったのだろうか。彼は歯を食いしばって視線を持ち上げた。いったいどこから飛び出してきたのか—

有信は息を止めた。彼の瞳孔は徐々に震え始めた。

尾根は風にあおられるのではなかった。

何十人もの感染者が彼の後方に押し寄せていた。

「…しまった」

有信は唇をかんで、最も近くにいるそれのあごをなぐって、首を切った。だがすぐ次に、ほかの感染者が飛びかかると、有信は慌てた表情でその胸元に刀を押し込んでしまった。感染者は刀剣が自分の心臓を貫いても気にせずに引き続き、彼のもとへ歩き始めた。

枯れた死体の口が大きく開き、有信に向かって咆哮した。

有信は慌てて刀を抜き取ろうと腕に力を入れた。しかし、どこかに引っかかったように刀は抜けず、むしろ感染者だけを引き寄せる格好になってしまった。彼は恐怖に満ちた息を吐き出し、後ろに退った。方途がなかった。感染者は次第に増えていくようだった。

逃げなければならない。

彼はつまずいて、素早く背を向けて山の下を走った。山風が顔を吹きすさぶった。彼の手に負えない仕事だった。彼が解決できることでは決してなかった。何の意地で一人でここまで来たのか。どんなに熟練した術者だとしても、疫病事態を防ぐために来る時は絶対に一人では来ないという事実をどうして忘れたのだろうか。有信は自分を責め、足を速く動かしていた。早く帰らなければならない。早く実家にこの事実を—


足の甲には、痛みが。そして、有信の視界には薄れゆく空が見えた。

墜落。

有信は背中の痛みに顔をしかめ、たちまちこれを圧倒する足首の痛みに気づき、呻いた。馬鹿らしく、木の根につまずいて転んだのだ。恥ずかしさを感じる暇はなかった。そんな時間はなかった。

「…くそ」

有信は木の根元をつかんで立ち上がった。幸い、大けがはなかったようだ。今すぐではなくても、走れそうだった。


うめき声が聞こえた。

何かやり切れないうちに、やつは素早く襲ってきた。素早く背を向けて無防備にかまれることだけは防いだが、避けることはできなかった。いつの間にかここまで後についてくるとは。不覚だった。

有信はようやく感染者の首の下に腕を突っ込んだ。だが奴の重さに勝てず、後ろに倒れてしまった。

剣さえ逃がさなかったら…!

有信は顔をしかめてようやくやつの顔をふさいだ。あがきながら彼の肉を食いちぎろうとしているやつが視野をいっぱい埋めた。所々齧り付いて腐りかけ、青黒い死体の色を帯びたその顔。光り輝く、焦点のない瞳。心臓が締めつけられた。

「う、ぅわあああああ!」

感染者と有信の口から同時に奇声が流れた。必死になって突き放そうとしたが、感染者はだるまのように有信を再び押さえつけた。すでに体は疲れてしまった状態。彼の腕は次第に衰えていった。ここからさらに時間が経てば、他のものまで走ってくるだろう。そうなれば本当になすすべもなくやられるのだ。そして、そうやって死んでしまったら…

疫病は手のほどこしようもなく広がるだろう。

ぱっ、と殴りつける音とともに、感染者の頭が裂けて、右側に吹き飛んだ。

有信は、呆然とした表情でこわばっていたが、頭の消えた死体を横へどけて、起き上がった。

一人の男が彼を眺めていた。有信の目が大きく開いた。

「お、お師匠!」

「久しぶりだな、有信」

一見有信といくつも離れていないように見える若い男だった。彼は赤い着物の上に白い羽織を着ていて、暗い色合いの笠を目深にかぶった状態だった。彼の手には鉄筋で作られた、約二寸ほどの二つの棍棒があった。有信はその笠の下でほころびたかすかな微笑を見ることができた。

「な、なぜ私がここにいると?」

男は返事をしなかった。その代わり、彼はいつの間にか近くに這ってきている二人の感染者に視線を投げた。死体たちの口から奇声が発せられた。

男の手でこん棒が回転した。

そして、真っ先に近づいてきた感染者の頭が壊れた。彼は止まらなかった。続いて二番目の感染者の足が折れ、前のめりになったやつの後頭部にこん棒が刺さった。

すべてが終わったのは1分も経たないうちだった。

「起きろ、有信」 男が、横を向いてぼんやりとした表情で座っている彼に言った。「適切な戦場は、ここではない」






闇に包まれた野原は、平和のようだった。そこには、広大な月光の下で、さっきまで死闘を繰り広げていた山が、堅固に立っていた。

有信と男は、野原の真ん中に立って山を眺めていた。遠くから吹いてくる風が彼らを取り囲む数多くの黍を揺らした。それは冷ややかで冷淡な風だった。

二人は暫時沈黙していた。有信は不便な気持ちでいらいらしながら首を掻いていた。師匠が何と言うかわからなかった。一つ確かなことは、それは決して親切な言葉ではないということだった。その間のすべての事を振り返ってみると、今、彼のそばに立っているこの人が、そんなはずがないという事がわかったから。

男がいきなり口を開いた。

「長衛門がお前の行方を知らせてくれた。近くの山里にて村民たちが疫病にかかったことを知って出かけたんだって」

「え、は、はい… そうです」

「君が見たところこの疫病の特質はいかがであると思うか?」

「あ…」有信は唾を飲み込んだ。「この病は、かなり悪しき病にて、主に身体接触によって感染源が伝わります。この病に感染した患者は死んだように見えますが、すぐに回復し、他の人々を攻撃することで、病気を移そうとします。これらは傷害を負っても平気で、噛みちぎったり引っかいたりすることに集中します。家族と親友を分けないです」

「感染状況はどうだったのか」

「山奥の村が焦土と化し、山奥のみいつの村にては感染者が発生しました。 非感染者を近くの村に移して禁制をかけました。なれど…感染者たちをことごとく始末にてきてませぬ」

「彼らは駆けていなかったのか?」

「いいえ、その勢いは強烈ですが、素早く動かしめる能力はないようです。」

男はしばらく黙っていた。少し時間が経ってから彼はまた話し出した。

「よくぞやったであろう」

有信の顔がぼやっとした。

「はい? あ、ありがとうございます、師匠」

「君が死ぬであろうと思った」

「えっ?」

男が目を向ける。

「この疫病につゐて存じておる。猛威を振るう所ごとに恐ろしき死傷者を出す、虐殺がごとき疫病だ。儂はこの疫病を元のカラコルムで初めて見たが、熟練した術者にてあとはも油断すれば感染者になるものだった。熟練した仁賀保一族の人々がかこれを処理しに来たとしても、儂は彼らの命を心配しただろう。いわんや君はどうであろう」

彼は首を振る。

「重々、この疫病は近傍の神妙な力と対応することがにてきるため、単に死体が生き返って他人に危害を加えるより恐ろしきことが起きる可能性もある」彼が厳しい口ぶりで話し続けた。「量痘派も似たような事態に遭とは相当な被害を受けた。結局、彼ら、そして儂の師匠たちと近くに住みておりき肉の道を歩む者たちが力を合わせてやっとこれを鎮圧することができた。君は死体に薄荷を遠ざけるように言われたことはないか?そのような話には必ず理由があるのだ」

有信の顔色が青白くなった。何か言おうとしたが、口がくっついて何の言葉も出なかった。汗水たらする彼を見て、男はため息をついたり、いっそう和らいで話した。

「一回、当ててみようか。君がこんなに一人にて来た事の由は、君の同胞どもに押さえつけられたくないからでは、ないか?」

ばれた。有信は照れくさそうな顔で瞬いた。

「こやつ、甘いな…」男がくすりと笑った。「時がくればすべて道を探すことを…これが疱瘡でも単純な疫病でもないことを知とはゐながらそうしたのか…君、本当に死ぬところだったのだ。 肝に銘じなせ」

「はい…恐れ入ります、師匠」

だれかが駆けつける音がすると、有信は驚いてその方向に顔をそむけた。しかし、男は一寸の動揺も見せず、相変わらず山を眺めているだけだった。しばらくして壮年の男性がきびの茎をかき分けて彼らの立っている所に姿を現した。彼は仁賀保家の奉公人,長衛門だった。

「ああ、坊ちゃん!これはどういうことですか!」

「長衛門、ここまでなんで来たんですか?」有信がうれしさを表わして聞き返した。

「大旦那様からお願いがありまして」長衛門がにこにこ笑ってうつむいた。「旦那様、ここ太鼓と鉦です」

「太鼓と…鉦? 師匠、これはどうやって…?」

男は有信に手をあげて、長衛門に頭を向けた。

「有難う、長衛門。ご厄介に成りた。君はまた実家に戻って当主にこのことを告げて、支援兵力を引いて来なさい。蒐集院にも伝達しめて」

長衛門はうつむいてきた道を走って行った。

「この疫病の感染者たちが、最も敏感に反応する感覚は何かわかるか?」

「え?それは…」 有信は顔をしかめた。「もしかして、嗅覚ですか?」

「違う」 男が彼に太鼓を渡した。「肉をむさぼる禽獣のような姿を、きっとそう感じたのだろう。なれどさにあらず」

有信は太鼓をもらってどぎまぎした顔をして、やがて目を見開いた。

「まさか、聴覚ですか?」

「そう」 彼はこん棒を一本渡した。「すると、儂らがやるべきことは何だろうか」

「…ここに、誘引する…?」

「有信、君、歌えるのか」

「…え?あの、和歌は少し詠めるのに…」

「それではお経でも覚えようか。彼らの魂だけでも慰めなければならん」

「あのう、私、般若心経を詠むことできます」

男が黙って有信を見送った。

「な、なんでそんなに… ご覧になっているんですか」

「ただ儂が覚えよう。太鼓でも一生懸命叩け」

男はやがて棍棒で鉦を鳴らし始めた。有信も早く拍子に合わせて太鼓をたたいた。男が声を整えて、それを荒げた。理解できない言語が彼の口からあふれ出た。あっけにとられていた有信は、男が今、お経を朝鮮語で呼んでいることに気づいた。

금일 영가(靈駕) 저 혼신은 혼이라도 오셨으면今日靈駕あの魂神は 、魂でもいらっしゃったら

暫くの間は、経と太鼓、どらの音だけが野原に満ちていた。

만반진수(滿盤珍羞) 흠향(歆饗)을 하고 일배주로 감응을 하야滿盤珍羞を受け入れて 、一杯酒に感応して

有信は仕事がうまく行っているのか、確信できなかった。本当に彼らがここにやってくるのだろうか。その前に、他の村民たちが出てくるのではないか。

살다 남으신 명과 복록은 자손궁에 전하시고残させた命と福祿は 、子孫宮にお伝えくださり

おかしいことに気づいたのはその時だった。有信は、山の麓が揺れるのを見て取ることができた。何か巨大な波が押し寄せるが如く。

송경법사(誦經法師) 법문을 받아 모질악 자 악심일랑 버리시고誦経法師法文を賜り、わるい悪の字—悪心など捨てて

有信は息をのんだ。

착할선 자 선심을 돌려 풍화환란 제쳐놓고 재수소원 생겨주고よい善の字—善心をそなえて 、風化患難を排して 、財運願いできてくれて」」

もう野原には、遠くから聞こえてくる奇声さえまじりあって響いていた。

왕생극락을 들어가서 인도환생을 하옵소서往生極楽に入とは 、人道転生をなさいませ

黍がぐらついてきた。今度は風のせいではなかった。男の銅鑼の音がさらに激しくなり始めた。

「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

奇声が激しく燃え上がった。

「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥阿弥陀仏」 彼の声が裂けた。 「南無阿弥陀仏!」

男が銅鑼を横に放り投げた。汗水たらして流れる彼の首がぶるぶる震えた。笠の下に見える優しい目つきが有信の視野に入った。彼の目は咲っていた。

「昔話が浮かんでこないか?」

「…え?」

きびすの折れる音が聞こえてきた。

「にせお坊さんの事なのだ、ねずみを見てにせお経を詠んだ」

広広とした淡褐色の海の波瀾。その間から次第に流れ込むある動きの表象が視界の真ん中にしっかりと見えた。

「その坊主がこうしゃべるんだ」

奇声が空気に乗って飛んだ。

「おんちょろ、ちょろ」

数台の黍が倒れた。

「穴のぞき」

有信の顔がぴんと緊張した。手からしきりに汗がにじみ出た。

「おんちょろ、ちょろ」

鼻を刺激する、激しい死臭。

「穴のぞく」

無視できない巨大な敵意が彼らを取り巻く形で迫ってきているのを、有信は感じた。それは一種の必然だった。

「おんちょろ、ちょろ」

必然的に感じるしかない、死への恐怖。

「何やら相談しており候」

男がゆっくりと歩みを運び、有信のところにやってきた。

「おんちょろ、ちょろ」

有信は荒く息を吐いていた。全身が震えた。四方からごそごそする音とともに、獣のような音が空気を振動させた。

もうその音は遠くない。

「どこかさ逃げ行き候」

そしてその瞬間、数十人の感染者たちが黍類の中から姿を現した。

惨たらしい姿だった。夢にも見たくない見た目の悪い幽霊たちが、そこに実在していた。あるものは来る時に転んだのか、足を引きずったり、あるいは皮膚を刺して、その中の筋肉を丸見えにしていた。彼らは有信と男のほうにゆっくりと歩みを移して大声を出した。有信はこん棒を強く握り締めた。顔から血の気が抜けるような感じだった。

側面からも、やつらは這い出ていた。胸元に剣が刺さった感染者が、黍をかき分けて押し入った。男は右手でこん棒を握ってあごをなぐり、倒れた者の額をたたきつけた。潰れる音がした。

「これ君の剣だか?」

男が感染者から剣を奪いて、聞いた。

「え… そうです」

「棒は、どう使うのか分かるであろう」

「はい、師匠」

사男が有信に自分のこん棒を投げると、彼はあわてた顔でそれを取り上げた。やがて男は後ろ向きになり、感染者たちと向き合った。

そして風が起きた。

同時に、最も近づいてきた感染者の首が飛んでいった。剣光がひらめいてその横、そしてその横、そしてその横に立っていた感染者の首筋も同じように切られてしまった。頭と体をつないでいた頚椎が切れてしまった感染者たちはすぐに重心を失って下に倒れた。鋭い攻勢とともに柔軟な身のこなしが風のように敵を乗り越えていった。見事な出来ばえだった。

左側に限りなく進んでいた男は、突然向きを変えて右側の敵を引き離した。刀の背と刃が共振し、うじゃうじゃする敵の頭角で踊った。あごの下を深く突いた彼の刀は、姿勢を低くしてからスムーズに進み、同時に二人の首を裂いた。日本と朝鮮と清、そして有信の知らない遠国の剣術が混在した男の剣法は、一国の色彩が起きると他の国の色彩が後に続き、いつも見当がつかず、いつも理解できなかった。

しばらく勢いづいた彼は、頭の上に刀を持ち上げ、左手の親指の上に刀などを置き、敵が十分に集まったとたんに素早く突破し始めた。感染者の何人かが重心を失ってひっくり返った。男は彼らが立ち上がる前に、首を開けた。刃が腐る血をはねながら身を裂いた。波のように揺れる彼の剣光が空中を駆け上がった。

男は有信がこの前見た彼の対人戦闘のときとは違って、限りない攻勢をかけていた。彼は、農繁期の農夫のように勤勉に感染者の首と頭を壊した。剣はただ、刺す、切る物、といった男の教えが頭に浮かんだ。今の男は、その言葉を余すところなく見せていた。背後から近づいてきた敵の首輪に刃を突き刺した彼は、すぐ左側から近づいてくるもう一つの敵の胸を蹴飛ばし、口を開けたその頭を刀の柄で殴りつけた。そして、また、斬首。地面に落ちた頭が土に顔を押し込んでいた。

有信はぼうっとして、自分の側面からも聞こえてくる奇声にびっくりして、こん棒をわしづかみにした。日が暮れかかった時点で、視野で何かを把握するのはとても難しかった。

畜生…

「おい、有信!」

「は、はい、師匠!」

「やつらが最も脆弱な感覚は視覚だ!君が彼らを見ないとしたら、彼らも君を見ることはできない!」男が感染者一つの向こうずねを蹴った。そして前のめりになるそれの首を、彼は切り落とした。「感覚に任せて闇を切り抜けろ!夜は何の問題もないであろうから」

「…はい!」

有信は息を深く吸い込んだ。空気が肺の中を埋める感覚と同時に、彼はたじろぎながら肩を伸ばし、二本の棒を上半身の高さに持ち上げる、基本姿勢を取った。しかし、うかつに攻撃することはできなかった。 ややもすると虚空だけ叩いて、一撃にあう可能性もあるから。

彼はまた息を深く吸い込んだ。

足音が聞こえてきた。

全身の神経がぴりっと響いてきた。

鼻をつく鼻持ちならない死臭。


今だ。

右腕のすべての筋肉が一瞬緊張し、手に持ったこん棒を半円を描きながら回り始めた。

それからは、一撃。

手首に衝撃が伝わった。骨が折れる音とともに、感染者の体が後ろに倒れる形がかすかに目に入ってきた。

有信の目に力が入った。

彼はすばやく前進し、そこらに集まっている感染者の群れに近づいた。鉄棒が鈍い音を立てて彼らの頭蓋骨を壊し始めた。一つ一つの脳の破片が破裂するたびに、こん棒は不気味な音を立てて、大きく泣いた。どこか塞がっていた心臓の穴道が自由に解けたようだった。これは、そういうことだったんだ。感覚に任せるというのが。闇の中でも自由に飛び回れるということが。

有信は節度ある動作で、襲いかかってくる感染者の首を殴ると同時に別のこん棒でその折れた首をもう一度振り下ろして完全に裂けていくようにした。そして、その後に近づいている別の大きな感染者の腹部を強打した。 まるで太鼓をたたくように鈍い音がし、やつの体が後ろに倒れ、後に続いてきた多くの感染者たちを踏み潰した。

若者は倒れた敵の息の根をきちんと止めておいて、呻き声が聞こえてくる他の場所へ急いで飛び出した。さらに深くなる闇だったが、彼を防ぐことはできなかった。師匠と一緒だからだろうか。今の闘志は先ほどの闘志よりもずっと自由でうまく発現していた。いかなる責任感も負債感も心配もない、純粋な闘志。有信の口元から微咲みが舞い降りた。もう終えられる。完璧に仕事を終えることができる。彼はそう思って、茂みの間を掻き分けていく存在に近づき、こん棒を頭上に持ち上げた。


しかし、打ち下ろすことができなかった。

彼の目の前に入ってきたのは、ほんの小さな子供だった。もう五歳になったばかりのだろうか。七五三もろくに衰えそうにない小さな体躯が揺らいで近づいてくる姿に、有信は何もできなかった。ただ彼は呆然とそこに立っていた。棍棒を振り上げたまま。鉄棒の重さが腕に伝わった。できなかった。それを、とても切り下ろすことは、できなかった。

続いてその子について歩いている者たちの姿が目に入った。中年の女。皮がむけ、頬の肉はかみちぎられたように落ちていた。腕は折れたように、歩みに沿って葦のように揺れた。その後を三つの人の子供たちがついてきていた。一様に血まみれになりふり構わず食いちぎられ、満身創痍になった格好で、歩いてきていた。最後を、ほぼ這い寄るような白髪の老人が、飾っていた。

一家だった。それはまことに残酷な一家の姿だった。彼らの顔に残っている似た様態を見抜くたびに、荒刃が有信の心臓を貫いた。その瞬間、彼は目の前の彼らに襲いかかることができなかった。彼らはただ単なる感染者がなかった。かつて人間だった者たちだった。一時、自身のように人生を営んでいた者たちだった。

その明らかな事実の前で、有信は限りなく無力だった。

子供が、だんだん近づいてきていた。

有信は後ずさりした。

子供の口からうめき声が聞こえた。低く深い、人間でないものが流れるうめき声だった。

有信の視界には、そうではなかった。

女性が頓狂な声を上げた。

有信の口から震えた息づかいが漏れてきた。

そうして遠くから、火矢が飛んで来て、子供の額に刺さった。

有信は目が覚めるように、はっと頭をもたげた。彼らの後方で一群の人々がたいまつと刀を持って歩いてきていた。彼らの先鋒に立った者が、彼に厳しい視線を投げた。りゅうとした身なりに厳しそうな印象の持ち主、男は有信の顔なじみだった。

「また事故を起こしたな、のぶ」

「…兄上」

最後の感染者を倒した男がゆっくりと彼らの方に歩いてきた。男を見抜いた有信の兄、仁賀保礼朝が頭を下げた。

「師匠」

「そう、礼朝」

男がにやりと笑いながら剣身から液体をふき取り、それまでがらんとしたまま有信の腰で揺れていた剣集に剣を入れた。

「久しぶりだな」

「朝鮮から来るや否や、すぐ外出されたと聞きましたが、こやつの世話をしに来られて、かたじけないんです」

「滅相もない。有信でなくても、儂は彼を助けに行ったのだ」礼朝の声に混じった、有信に対する妙な難問ぶりに、男は防御的な口ぶりで答えた。「長衛門がよくしてくれたな。君の父は?」

「支所にいらっしゃいます。僕を代わりに送りました」

「金七郎もご苦労だな」男がにっこり笑いながら、有信に手を差し出した。「こん棒をくれ」

「あっ、はい」

「儂ら二人は、近くの居酒屋に行ってよう。君に締めを頼むぞ、礼朝」こん棒で身の破片などをふき取り、男の人が言った。「言わなくてもわかるが、黍畑の間に隠れているやつらの生きている上半身などをすべて探し出さなければならない。また、問題の山村を隅々まで調べて残った感染者をすべて取り除かなければならず」

「奉じます、師匠」






普段なら村民でにぎわっていたはずの居酒屋は、昼下がりから続いた騒乱のせいか、がらんとしていた。有信と男は片隅に座り、注文の酒が出てくるのを待っていた。しばらくの間、深い沈黙が2人の間を包み込んだ。

「…君、礼朝に何か悪しきことがあったのか」 男が急に聞いた。

「…そういうのは… ないけど、」 有信の表情に苦々しい微笑が浮かんだ。「なぜ鋭くなっているのかは知っています」

「なぜか」

「私が師匠ととても親しいので」有信は唾を飲み込んだ。「それで兄上は私が次の当主に内定されたと思っているようです。八重子姉上や…秀子姉上も」

「当主に内定?」男が当惑した声で聞いた。「誰によって?」

「当然師匠によってです」有信は罪でも犯したような顔をしていた。

「当…主を儂が…決めるって?」

「ほとんどが当主になった先祖たちは、皆のもの師匠と親しかったのですが。今すぐ、私のお父さんもそうでした。幼い頃から師匠と格別な間柄だったと…」

「…はあ」男はため息をついた。「君たち、今までそう思ったんだな。どうりで、大きくなってから、儂に対する態度が尋常ではなかった」

有信がとまどう様子で男を見つめた。

「儂がどうして君にだけ関心を見しめるとか分かるか?」

「なんで…ですか?」

「一番不細工だから」

有信の瞳が一瞬呆然とした。

「…は?」

「冗談だ、こやつ」 男がにやりと笑った。

「面白くないです…」

「儂が当主を一体どうして決めるんだ?それは君ら、仁賀保一族の間で決めることではないか」 男がいすにもたれて話し続けた。「儂はあくまでも、客人だ。仁賀保家門の客人。客人が主人のお宅の政事に干渉しなければならないのか」

「やはり…」 有信の顔が少し明るくなった。

「残念か?」

「め、滅相もないです」若者が手を振った。「私はまだ兄上や姉上たちに比べて若くて弱いです。経験も足りないし…さっきのような仕事も碌に処理できてないし」

「それでもふと聞くと、君、蒐集院の正三等衛士になったそうだ。その程度ならかなり成熟したんではないか、 以前に比べると」男が意地悪く言った。「疫病神を初めて見て泣きながら家に帰りたいって言ったり、急に歌舞伎役者になるって言ったりしないか」

「いつの話をされているのですか!」有信が顔を真っ赤にして叫んだ。「七、八歳の時の話を…」

しかしそれもつかの間、有信の表情はまた暗くなった。彼の目じりは震えた。

「私はまだ弱虫です。彼らを…処理できませんでした」

「誰を?」

「さっきそこで、最後に見た感染者たちを、です」有信がぼそっと答えた。「幼い子供たちと…女性、そして老人」

「…家族だったかな」

「そうだと存じます」彼はしばらく言葉を止めた。「処理できませ… 殺すことができませんでした」

彼の手は苦痛を伴うほど強く握られていた。血が通じなくて白く変わってしまった指がたまにけいれんした。

「…弟のようでした。その子たちすべてが、私の弟のようでした」

笠の下で冷徹に輝いていた男のまなざしが、一瞬揺れた。有信の言葉が何を意味するのか分かった。有信の幼い弟、正臣。幼くして天然痘で死んだ、幼き正臣。痘術師の一族に天然痘で死んだ子。その子は五年前に死んだ。有信がその子を格別に思っていたことを知っていたので、男はその日以来正臣のことを話していなかった。有信もしなかった。

今この瞬間を除いては。

「正臣が…見えました」

「…有信」

「…さふ思考致すと、その女性は私の母のように見えました。その老人は私の祖父のように感じらるました。それですべてがあべこべになってしまいました。私の知らない、その女性の母情が感じらるました。私が経験していない子供たちの幸せな瞬間と、親に対する愛、来る明日に対する期待感が… そして老人が子どもたちを見ながら感じたどんな安定感と喜びまで… あっという間でした。そのすべてが私に来るのが、そしてそれによってすべての私の闘志が崩れるのが…」

おりしも届けられた酒を、男は有信の杯になみなみと注いでくれた。有信は杯を一気に空けては、言葉をつないだ。

「私も知っています。私も… 私がその瞬間の情に流されて彼らを処理しなかったら、疫病を防ぐことはできなかったことを、知っています。兄上と妹上たちは、最後まで苦悩せずに進んだのでしょう」彼の声が裂けた。「なれども… 私からはこの考えが消えません。たとえそうなったとしても、彼らは一時我々とともに人生を送り、明日を準備した者だということが。私たちが彼らのようになっていたかもしれないということが… そう思うと… つらいです」

男は、ため息をついた。

「こうしては…」

「恐れ入ります、師匠」

「君に謝りを受けようというのではない」男がゆっくりと話した。「ただに不憫だからだ」

有信は不思議な目つきで彼を見た。

「まず君の師匠で言えば、今の君の態度は如何ほどにも推奨したくはない」彼が厳しく言った。「剣がただに突き刺すごとく、痘術もまたそうだ。痘述とは染めるものである。疫病を治め、人民に新たな波動を起こしめることが、この痘術の根本的な動因であることを、忘れたのか」

男が自分の杯に酒を注いだ。

「痘術は変革であり、再び波動である。仁賀保一族が大き客人の歩みと違って活人の大業を担ったが、その大きな心は何も無いんだ」彼の眼差しは有信の方に向けられた。「我々はめ、め、治療する。疫鬼と疫神を排除することで、を起こすのが大業の目的である」

彼は飲み干した。一瞬の沈黙がそんなに鋭いとは、有信は知らなかった。叱責のことばの隔たりはあまりにも重かった。

「そうするために、我々は責任を果たすのだ。疫神と向き合うために自ら病にかかり、死と生の境界線の上で苦痛を選ぶのが其れなり。なれど君は今、大業に進む道の上で小志に縛られているんでないか」

「申し訳ありません、師匠」

有信が暗い顔でうつむいた。反論することはできなかった。小さなことを欲しがっているうちに大きなことを台無しにしかねないという事実を、彼自身からとてもよく知っていたからだった。それでもどうして心の奥底の何かがその小さなことに集中すべきだ、と叫ぶのか、彼にはわからなかった。何が自分をそんなに煽るのか分からなかった。何が彼をこんなに少なく、未熟で、嫌われるようにするのか、分からなかった。今ではさらに、唯一自分の側に立ってくれそうになった師匠からも叱責されているのだから。

そこで有信は、自分の師匠が厳しい表情を止めて、優しくうなずいたときに驚かざるを得なかった。

「…なれど、一生素性を君に頼る人、つまり君の叔父になって、兄になって、将来君の弟になって、甥になって、孫になる人と言えば、」

男が力なくほほえんだ。

「其れにて儂が他のやつらより君にもっと関心を見しめるんだ」

「今一番不細工だからだと…」

「冗談だってば」男がぶすぶすと言った。「そう。君の言う通り、君の兄弟姉妹はその状況でためらわなかったであろう。その家族を、そのかわいそうな人々をためらうことなく切り渡したのだろう」

彼は苦笑した。

「誤解するな、彼らが感情もない非情な彼らだというわけではない。要するに、彼ら自分の責務を真剣にそして重く受け止めるということだ」男が、しばらく蒸らして、ため息交じりの声で話しかけた。「儂の師匠である女族長、ヤカルエンの如く」

有信が目を見開いた。これまで一度も聞いたことのない名前だった。もちろん彼も仁賀保一族が方相一族だった時、一族の師となった渡来人について聞いたことがある。しかし、その渡来人たちの中で唯一、これまで仁賀保家と縁を結んでいる者は、有信自身の目の前に座っているこの男ばかりだった。そしてこの男は、有信にこれまで一度もほかの人たちについて話したことがなかった。

「故国である大可汗だいかがんの国、その方々の語彙で言えば、ダエーワから追放させた女族長は師匠三人の中で最も熱烈に自分の義務に打ち込んだ方だった」男の声にある郷愁、そして深い懐かしさと悲しみがにじみ出た。「だが、その方は、人を拝見してない。実際の人民をご覧になっていない。理想だけが、その方にとりて最も大切なことだった」

男が再び杯を空けた。

「知ってるか?君が今言った言葉」

有信が注意深く頭を上げた。

「儂が父の罪で師たちに殺させて再び生き返って間もないため、初めて痘術を行う際…」彼の視線は空っぽの杯にくぎづけになっていた。「その際、儂がその方々に話した話と··· 同じだ」

「誠…ですか?」

「儂も、儂が疱瘡で殺さねければならない人たちが、しきりに儂の家族の如く感じられた」

「…」

「されば儂がどうしたか分かるか?」

地獄のような沈黙が、再び沸き起こった。

「彼らと共に儂を殺した」

ある衝撃が有信の瞳に現れた。

「其れまで、師たちの手で死ななかった、最後の人間の儂を殺した」

「…」

「そのおかげで、数百年という時間の間、儂は構えて人間で生きることができなかった」彼の空虚な視線が虚空を突いた。「人間の外見をして人間のように行動して過ごしたが、構えて人間にはなれなかった。麻の服を着て、儂が殺した者たちに弔意を表して歩き回っても、その罪悪感は、儂を人と引き離したその防壁は、無くならなかった。儂はただにあの古の放浪者カインの如く当てもなく彷徨えるんだっただけだった」

男の視線と有信の視線がぶつかった。深い苦痛が宿った男の瞳には漆黒のように黒い闇が、そして夜のように痛い運命が宿っていた。有信は、そんな視線をいつか自信も持てるのかと思った。そんなまなざしを持てる日が来るのか、自問してみた。しかし死ぬ日が来るまで気づかないだろう。その眼差しは、自分自身は決して識別できない何かだったから。

「儂は君の兄弟姉妹がそうなるか恐ろしいんだ。いつか君の兄弟姉妹たちが、彼らの責務を果たしてから、ある日ふと自分の手を見下ろした時、そこについた血を見るのが怖くて私は怖いんだ。そういう時が来れば、人間は人間の道から降りるしかないからだ。自分が自分に降りる地獄の上で焼きつき、ただに煩悩と業火の中で生きて行くだけの…疫病神になってしまうのだ」

男の顔は少しずつふるえていた。

「人間は、人間だけが助けることができる。責務と正当性の間で人間ではなく何かになってしまうことは、大業に向かう道さえ外れてしまうことであり、人間を拝見することができなくなるのだ。活人するが、その活人の対象となる実際の民は見ることができないことが、果たして何をもたらすのか」

しばらく、彼は話を止めた。

「…なれど君は、そうならなくても、責務は果たせるであろう」男がしんとした声で話した。「哀れみを感じて君の行動をためらうこと、其れは… 君の弱みではなく、強さだ」

「…ほ、褒めすぎです」

「君は将来何をしたいのか」

「それは…どうして聞くんですか?」

「単に蒐集院で三等、二等、一等の衛士になるのが君の目的ではないであろう」男が再び杯を満たした。「君の歩みがどちらに向かうのか、其れが知りたいな」

歩き方の、方向性。男は今、有信の行方を尋ねていた。彼はふと物思いにふけった。以前まではそれを明確に考えてみたことがなかった。したいこと、進みたい方向、それらはただ遠い未来のことのように思えた。子供の頃の無意味な空想のように。考えがあちこちから湧き出て、飛び散り、ぶつかり、分散した。とつぜんとした問いに、頭の中では巨大な台風が起きていた。有信は黙り込んで考えをまとめた。一つ二つ、輪郭がつかめつつあった。幼いころからの夢。時代が彼にさせる道。それは完全にはっきりした道だった。はっきりして完全に、血に濡れた道。その道に血は絶え間なく流れ落ちるだろう。美しく、広々、鮮やかに。

だが、誰かは行かなければならない道。

有信はすぐに静かに口を開いた。

「変革を成し遂げたいです」

「変革か」男が男を興味深そうにうなずいた。「どういう変革とか」

「ご存知かどうか分かりませんが… 先月に安政五カ国条約が結ばれました」有信がゆっくりと言葉を続けた。「天皇の勅許も無く、大老でござる者が自分でおこなった事です。その条約の細部を探ると、単に日本からの利益を奪うということにしかなりません。列強は、次第に東洋に近づいています。一時期、東アジアにおける大国としての地位を占めていた清さえ、たやすく崩れていくこの頃、日本は生死の岐路に立たされ、滅亡と復興の一つとして歩みを運ぼうとしています。このような時に変革がないということは滅亡を意味するのでしょう」

有信が深く息を吸い込んだ。

「それなら私は変革の波の上に立ちます。巻き込まれるより、導きます。 引っ張られるより、先に進みます。それが私が足を移す方向です。黎明の道に進むのが…志のある者たちの仕事ですから」

男は、しばらく黙っていた。
そして彼はやがて口を開いた。

「君は、当主になりたくないのか?」

「はい…?」

「万一、君がまことに、当主になったら、どうかということだ」

異なる種類の衝撃が、全身に乗り込んできた。窓から夜が落ちて、深い闇を抱き、世の中全体を揺さぶっていた。男の言うことは間違っていなかった。客人は主人のお宅の政事に関与できないと。しかし、家のみんなが師匠と思う客の言葉は、大きな影響力を持つことができるということも、その言葉と同じくらい事実である真理だった。

今この質問が、彼の現在と未来を一変させることが、有信は分かった。何うかすると、これにより、彼は思いもよらなかったことになるかもしれない。


「嫌ですけど」

男が顔をしかめた。

「君断固としすぎでないか?」

「私は…やりたくないです」有信はうつむいた。「私は、まことに師がそんなによく見てくれても、その座は私には合わないんです」

「なぜか?その座ならば、その変革ができなさそうか」

「座の問題ではありません」有信が淡々と答えた。「座った者の問題です」

「座った者、か」

「私にとって敵はむなしい因習に巻き込まれ、変わらない者であれば十分です」 彼は苦々しく笑った。「私の家族まで敵に度すことは、難しくないでしょうか」

「……そう、君の言うことが正しいんだ」

男ががっかりした笑みを浮かべて笠を脱いだ。朝鮮式のまげが月光を浴びて輝いた。

「そのまげ、未だほどいてないですね」

「多分しばらくの間はほどかないであろう」

「なぜ…ですか?」

「二週間後、儂はまた朝鮮に行くつもりだ」

「どのくらい滞在する予定ですか?前のように二十年も滞在される予定なら…」

「違うんだ」

「では、まさか、五十年間も…?」

「行き過ぎだ、こやつ。江戸幕府以前はそんなに長く通っなれど、最近はさにあらずに」男が顔をしかめた。「…かっきり五年、五年ぐらい続くであろう」

彼は深くため息をついた。

「君は日本が夜であると言ったよな。朝鮮もやはり、夜だ。もっと濃い夜なんであろう。其れさえも西洋の文物を学び多くの部分で刷新を起こした日本とは違い、何も変えることもなく民の断末魔を無視しておっただ腐敗と無能に陥ってしまっているのだから…そして六十年間無能な王様が三人も続き、その夜はいよいよ絶頂を迎えている」彼は杯を満たし、再びあおった。「朝鮮は滅びようが滅びまいが係わり無い。なれど、その地上の民は、生きなければならない」

男が有信に視線を投げた。

「この国を復興させると?立派な誓いだ。君は、君にできることはすべてやり為せ。儂も儂ができることは何でもする。その五年間、朝鮮を、朝鮮の民を夜から連れ出すためのすべてを」彼の口元には苦笑がかかっていた。「なれど、さればもその通りなら、儂はもう帰らないであろう。たとえ行くことがあっても、彼らのために何も… しないであろう」

「それでは…どうなるんですか?朝鮮は、師匠の祖国ではないのですか?」

「新羅が、儂の祖国だ。すでに千年前に滅んだその国」男がおもしろそうに眉をつり上げた。「朝鮮はただに儂の故郷の地に建てられたもう一つの国に過ぎない」

男は自分の杯を空にした。

「儂は君とは違って、時代遅れの考え方をする老人だから、十分にできるかどうか分からないな」彼はにやりと笑った。「恩着せがましく変革するなん、滑稽でもあるが…」

「滅相もない話です」 有信が強く答えた。しかしそれもつかの間、ちょっとした心配げな口調で、彼が言葉をつないだ。「若し、失敗したらまことに···」

「若し運命がそう決まったら、しかたが無いであらうか」

杯が卓子の上にばたっと置かれた。杯が月光を浴びて輝いた。

「これ以上キム·チョルヒョンという名前で呼ばれることはないであろう。ただに、仁賀保般野のみにて」

有信は慎重にうなずいた。男は、しばらく遠い空間を眺めるように、焦点も当てずに空を見つめていた。記憶の中の何かを捜し出すような彼の目つきは、月光のように輝いていた。

「悪いことは、」 彼が呆然と話を続けた。「何も無いんだ。もったいないとは、思うけど」

彼が徳利を傾けて自分と有信の杯を満たすと、有信に手を差し出した。

「剣をくれ」

少し戸惑ったまま、有信は自分の剣を差し出した。男、般野はその剣を注意深く剣集から抜き出した。そして、剣身に手を当てた。有信は剣から鉄の匂いが放つ鋭い殺気を嗅ぐことができた。剣には十個の文字が揃った字体で薄く刻まれていた。

墓の間を徘徊しながら遺体を回収する彷塋間收屍 仁篤の波をふんで名をまもらふ跆仁浪保名」 般野がそっと微笑んだ。「君が十五になった年に贈り物をした剣だったな」

「そうです」

有信はうなずいてその日のことを回想した。師匠が最初にくれた贈り物。刀に時調二体が刻まれた姿に少なからず驚いたことを思い出した。その時、般野は、彼にそう言った。君の足に残りの二つの句を足し、君の人生の五言絶句にするように。十五歳の少年には重くて分からない言葉だった。

「この剣は朝鮮の修身道人に直接作ってほしいと頼んだものだ。環刀だが、仁賀保一族の剣法に合わせて使われるように作られているんだ。鉄と機械に長けた人々だからその質は相当なもので…」

般野は剣をじっと持ち上げた。

「一つ告白せむ。君が剣術を学び真剣を扱う年齢になった時、この剣を君に贈り物をしたのが正しい選択だったとは確信できなかった」

有信は静かに師のことばを傾聴した。

「この剣の重さが、君をただに重くするのではないかと心配していた。剣身に刻まれたこの文章が君を締め付けるのではないかと気遣った。なれど今日になってやっとその選択が正しかったということが、分かった」

彼がにっこり笑った。

「この剣を作った鍛冶屋、太九連テ·グリョンがこの剣を必ず大きな人に与えろと言ったが…」

般野は剣を再び剣集の中に入れた。

「似合いの人に行ったようで、安心する。前に進むことができる、まことの大人の者に行ったのだから」

有信は口をあけたが、閉じた。何とも言うべきことがなかった。言うべきことはなかった。それで彼はただ、頭をまた下げた。

「か、かたじけないです、師匠」

「君も儂も、君の剣名の如く、それぞれの名を守れるように努力せむ。そして、二人とも西洋の名前を持つようになることはなるべく避けて」 彼の声にはまた笑いが混じっていた。

「はい、師匠… 奉じます」有信も密かに微笑んだ。

漆黒の闇の中、その暗黒を掻き分けて出た月光が、迫り来る黎明の色彩を待つように、その場を堅く守っていた。


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