白川夜船を漕ぐ

船は寂しい桟橋を離れる。
硯の上の墨のような水面の上に、空から氷の綿がふわりと落ちて、小さな花を少しだけ咲かせて溶けていった。
夜が抱え込んだ静寂と、くすんだ橙の街灯の明かりを照り返す雪の夜の中、一階だけが細々と明るいビルに囲まれた川の上を、ぎい、と音を立てながら下ってゆく。
この孤独で小さい船の上にいる者が四つ。者、という形容詞が当てはまるのかどうか、私には理解しがたいものが少なくとも二人乗っている。隣に座って、いや置かれていると言ったほうが正しいかもしれない酒瓶が一人、斜め前にいるのが煙管、あと一人が船頭である。
隣の酒、日本酒だろうか。ラベルの紙は日焼け色褪せて、何が書いてあったのかはわからない。ぼんやりと滲んだ黒い跡が彼、この形容詞もあっているのだろうか、がゆらりゆらりとゆれる度に闇の中から見え隠れする。
時折寝言なのかわからないが発する言葉尻から分かったが、おそらく彼は酔っているのだろう。酒が酒に飲まれるというのは面白い。
斜め前の煙管は初め誰かの忘れ物かと思っていたが、いきなり煙が立ち上ったのでそうではないという事に気がついた。酒に続き煙管も自我があるらしい。全くここはどこなのだろう。
久しぶりにくだらないことで思考を続けたような気がする。以前と比べたら私も進歩したということ、いや、以前、以前とは。私はこの船に乗る前は何をしていた。思い出せない。何処まで遡っても船に乗った時からしか記憶がない。いったいどういうことなのか。一向に思考は纏まらない。不明瞭な世界で歩き続けている様だ。
 
仕方がないので夜の闇に目を投げる。ただ黒が連続し、断続的な明かりと不規則な雪が揺れている。連続的であるのにどこか不連続な景色。美しさ、懐かしさ、恐ろしさ、そういったものが全て削ぎ落とされた世界。ただ何かをぼうっと見つめるというのはいつぶりだろうか。
ふと、頭の片隅を単調な白い廊下と暗い部屋がよぎる。今のは何だったのだろうか、先程の思考には浮かばなかったものだ。しかし何かが引っかかるわけでもない、何の意味を持っているのか。
今度は少し振り向いて船頭の方を見る。
彼はこちらをちらりとも見ない。手だけが静かに、静かに、ただ機械のように舟を漕ぎ、静かな水の音と、木の擦れが鳴り続けている。人形のようにも思えた。
 
同じ動き、音、視界の連続。立ち位置が不安定になる、あたりが少しぼやけて見える、ああ、これが永劫というものだろうかと、ふと思う。
しかし、くだらない。永劫というものは元から無いというのに。
ぐらり、と頭が揺れる。頭痛だろうかと思ったときにはもうなんとも無かった。
 
「なあ、あんた」 ふと声がした。
「あんただよ、あんた。おーい、きこえてんだろう。」 声のほうを見てみたら酒瓶だった。
「あ、ああ。わたしのことかい。」 まして声をかけられるとは思ってもいなかった。何かかかわりを持つべきとも思っていなかったから少し驚いた。
だが、話し相手が酒瓶というのもなかなかに面白い。全く非現実であるというのにどうして私はこんなに適応できているのか、それだけが不思議だった。
記憶が無い、ということがうまく作用しているのだろう。
何せ人間も生まれたときには何も知らないのだから。本能や反射というものは抜きにしてだが。
となると生というのは無知から何かに適応することから始める。全てが無という状態から始まるのだ。であれば死はどうだろう。全ての信号が停止するのだから結局無に還るのと同じではないのか。出発点と終着点が同じ、そういうものなのだな、とまで考えて彼のほうを見る。
彼は体を傾けてこちらを覗き込んでいる。
 
「そう、あんただよあんた。ほかにだれっがいるってんだい。前の爺さんは寝てやがるし、船頭となにをはなすってんだ。」 少しこもったろれつの怪しい太い声だった。
「いやな、珍しくこの船に乗ってきたやつが居たなと思ってよ。そういやここらじゃ見ねえ顔だなって思ったんでよ、声をかけたってわけだ。んでよ、あんた、もしかしてももしかしなくてもここは初めてだろう。俺がぁ声かけたときも心ここに非ずって感じでよ、いやまあここのやつらはえてしてみんなそんな感じではあるんだが、あんたはずっと考え込んでいるようだったし、そんな勤勉なやつなんて、ありゃ勤勉ってあってっかな、まあいいや、あんたみたいなやつは珍しいでよ、新顔かなって思ったんだ。あんた、ここが何処だか分るかい。いや船の上だってこたぁ聞いてねえけどナ。」 そう一気にまくし立てるとからからと笑った。
 
記憶が無いから漫然として船に揺られてはいたが、環境としては明らかにここは異常な場であるのだ。彼の言葉から考えるにここはどこか違う場所なのかもしれない。
 
「ふむ、なるほど。しかし私はまだ理解できていない、もう少し詳しくおしえてくれないかね。」
「おうよ、まあそのつもりで声をかけたんだ、教えてやるよ。ここはな、忘れられた、忘れちまったものたちが集まる街さ。全てをなくした者たちが最後に行き着く街。酒に揺られて、沈んで、やがて全ては無かったことになる。そういう場所だ。おまえさん、此処から出たいかい。此処から出るには思い出すことだ。何をかなんて知らねえよ。おもいだしたやつがいるのかも知らん。そういったやつが帰ってきたということも聞かねえしよ。おれは思い出そうってクチでもねえしな。だがまあ、此処も悪いところじゃねえよ。苦痛も憂鬱も、全部忘れるまで酔っちまえば楽だからな。しっかし、俺が見た感じお前さんは違うようだ。きっと何かを思い出せるんじゃねえかな。この酩酊の街から抜け出せるのもそう遠くはねえだろう。そういったことを考えてる顔だ、そうだろう。」
「そう、かもしれないな。だけどまだ何も分らないよ。」
「そうかい、まあ、頑張りな。此処も悪いところじゃねえ、ってのはさっき言ったか。はは。」 彼はそこまでいってもう十分しゃべったとばかりに口を閉じた。
 
なるほど、ここがどういった場所なのか、彼の言ったとおりなら私に記憶が無いのも頷けよう。しかし、忘却の街、か。私は何を忘れてきて、なぜ忘れてしまったのだろう。まあ、いい。
そして、かれは最後に行き着くのが無だといった。それは死ぬのとは違うのだろうか。
分らない、死の定義というのはあいまいだ。しかし、死が全て無に帰着するのならば此処も同じなのだろう。しかし、彼は終わりに恐怖や、忌避を覚えている様子は無かった。終わりが来るのを知っていながらそれでも楽だと言った。酔えば何も怖くないとでもいうように。
忘れているから、そうなのだろうか。忘却という自己防衛機構。酒という現実からの逃避。生きることを放棄しているようであるのに、彼は今を謳歌しているようにも見える。
終わりに怯えず、今を気負うことなく、此処にいるものはみんなそうなのだろうか。
では、私はどうだ。思い出したものがどうなるかは定かではないが、きっと現実へ帰るのだろう。その者たちと私はおそらく同じなのだろう。今も、最後も混濁したこの場所から抜け出して、死という終わりを恐れ、嘆くだけの現実へ。生を受けたならば、死にいたるのは当たり前であるはずなのにそれに絶望する。
先の無い鉄骨を渡ろうとして、板を継ぎ足し続けて歩いていこうとする。明確な目的も無いのにただ運命から遠ざかろうとするだけの薄汚い欲望にまみれた現実へ戻ろうとする私たちのほうがよほど滑稽ではないのか。
堰を切ったように思考の流れが溢れてゆく。ついさっきまで忘れていた事実が脳を満たす。世界の断片が私へ帰って来る、私は、もう還らなくてはならないのだろうか。

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執筆者: R_IIV
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最終更新: 05 Nov 2021 12:00
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