老木

落ち着いた木を香らせる、古ぼけた事務机の、木目が流れる上で白磁のカップが一つ、木とは違った芳ばしさを湛えて、白い湯気が一筋昇り、ふっと掻き消えた。ぎしり、とこれまた古ぼけた椅子を鳴らしながら、春の柔らかな日が差し込む優しい昼下がりに、なにをするでもなく静寂を過ごす男が一人。懐かしさを含んだ香りを吸い込み、鳥達のさえずりに耳を傾ける。ふと気が付いて、少し冷めたコーヒーを啜る。蓄えた白髪のあご髭をなで、また、何もしないという事を始める。時間が止まったかと思えるほどに、ゆっくりと、池に浮かんだ木の葉がそよ風に流されるように、時間がすぎる。
 
男はふと、窓の外に向けていた眼差しを、机の上にぽつんと置かれた、ガラスに少しひびが入り、埃を薄く被った写真立てへと向ける。一枚のガラスを隔てた中に切り取られた、日に焼けて色褪せてしまった写真には、あまり似合っていない大きめのスーツを着た、背の高い若い男が二人、肩を組み、優しい笑顔を覗かせている。片方は男の面影が、僅かながら感じられた。しばらく写真と睨めっこをした後に、男はおもむろに手を伸ばし、写真立ての縁を優しくなぞり、先ほどまでの優しげな表情の中に、ほんの少しの、寂しさのような、哀しさのような、或る愁いを滲ませた。
 
写真立てから離れた手は、少しの迷いも無く、いつも通りだと言わんばかりに、机の上を滑り、下の引き出しにたどり着く。重ねた年月によって蓄積された、しかしほんの僅かな歪みによって、滑らかに引くことの出来ない強情な箱を、奥まで見えるように引き出した。埃と、木の混ざった香りと一緒に、古い型の、しかし上等な皮で作られた擦り傷だらけの手袋が現れる。男はそれを手に取って、軽く埃を払って、舞った埃に一つ大きなくしゃみをしてから、机の上に、手のひらが上になるように静かに置いた。
 
その開いた手のひらに、静かに自分の右手を重ね、男は目を閉じる。写真立ての中で、肩を組んでいる男達の片方の手には、今ここに置いてあるものと同じような、ボケていてあまり確かではないが、手袋が嵌められていた。


何処か遠くから呼ぶ声がする。長い長いトンネルの先から、早くしろと急かす声が。その方に顔を上げると、ふと、肩を叩かれた感覚が頭に響き、目の前が白く染まる。夢の世界の幕は上がり、現実の世界が色を帯びた。
「ったく…いつまで寝てるんだか。早く起きろ、昼休みはもう終わりだ。仕事仕事」
男性にしてはやや高いが、落ち着いた声が耳を通る。ようやっと意識がはっきりしてくると、目の前には呆れたような、困ったような顔をした同僚が、どうやら昼の温もりに包まれて熟睡していた私を、見下ろしていた。
「あ、ああ、すまない。どうにも心地が良かったものだから、つい」
「つい、じゃねえよ。さっきも言ったが昼休みは三十分も前に終わってるんだ、他の奴らはもう仕事に行ってんだよ。ここまで寝かせてやった事を感謝しろよな」
「分かったよ、夕飯奢ってやるから、それで勘弁してくれ」
「仕方ねぇな…おし、さっさと仕事済ませようぜ」
落ち着いている割には少しお調子者で、それでいて何処か憎めない、少しずつ遠ざかって行く同僚の背中を眺める。眺めていても仕方がないので、早足で彼の隣に並んだ。
日はすっかり昇りきり、柔らかな匂いが立ち込める世界に、2人肩を並べて踏み出して行った。
 
午後の任務もすっかり終わり、そろそろ日も暮れようかとしてる。向こうの空は茜に染まり、空には鳶が鳴いている。こちら側はもう深い藍が滲んでいる。他愛もない話を、とりとめもなく、2人でぽつぽつと語りながら、まだ新しい、建て直されたばかりの職員寮に帰って来た。玄関ホールに立ち込める温い匂いを感じながら、2人上下の下駄箱にとんとんと靴を入れ、2人1組の部屋へ向かう。これももう慣れたものだ、最初の方こそ2人で茶化したりしたものの、今や日常の一部だ。そんな事を考えているうちに部屋につく。いつの間に貰っていたのか、彼が鍵を差し込みドアを開ける。どちらともなく「ただいま」を言い、どちらともなく「おかえり」と言う。そして、今ここで今日の仕事が終わったと実感した。
 
昼間言った事を、律儀にも、忘れずにいた彼に連れ出され、近くの居酒屋の暖簾をくぐる。普段と同じ、香ばしく、食欲をそそる臭いが鼻をくすぐる。席に着けば、あとはいつも通りのメニューを頼み、平らげる。
「最近入った上司が煩いんだよな…まぁ、悪い人じゃあないんだがなぁ」
「まぁまぁ、入ったばっかってのは空回りしたりするもんさ、俺らも昔はそうだったじゃないか。多めに見てやろう」
「どの立場に立って言ってんだよおめぇ」
「それはお前もだろう、ところであっちの仕事はどうなった?まだお前の所に連絡は来てないのか?」
「ん?あ、ああ…そういやまだ来てねえな。そういや────」
そんな風に仕事の愚痴をこぼしたり、互いに言い合ったりしている内に、時計の針は忙しなく進み、とっぷりと夜が更けてゆく。
「────あ、そうだ。お前今度の週末空いてるか?またやりたい事があってよ」
「構わないが…また機械弄りか?程々にしとけよ、お前、休日に資材集めて変なもの作ってる俺たちがなんて呼ばれてるのか知ってるのか?」
「変なものじゃねえよ、ちゃんと役に立つもんだ。しかも施設の機械の整備とかだってやってるんだぜ?何も後ろめる必要はねえよ。それで、なんて呼ばれてんだ?」
「さぁ?俺も知らん」
「テメェ!馬鹿にしやがって…」
「はっはっは、すまんすまん。で、休日だろ?空いてるよ」
「じゃあ決まりだな…そろそろ出るか。大将、おあいそ頼むよ、こいつの金で」
「忘れてなかったか…はいよ。ごちそうさま」
2人ともすっかり気分が良くなって、引き戸を開けて外に出れば、冷たい風が頬を撫でる。火照った顔には心地よかった。街灯の白い光に照らされて、2人で闇に消えていく。通りかかった黒猫が、「おああ」と一つ、短く鳴いた。


雲の多い、所々から日の光が柱になって注ぐ朝に、冷たい風をその身に受けながら、狭い職員寮の中庭に動く人影が二つ、古ぼけた車を挟んでもぞもぞと動いている。側から見たら泥棒か何かとも思われる程には不審であった。
「────あ、それとってくれ」
「えっと、どれだ?工具なのか部品なのか分からないんだが…」
「それだよ、それ。お前の横にあるだろ、お茶」
「お茶かよ…分からねぇよ、普通」
「いや分かれよ、何回こうやって作業してると思ってんだ?ええ?」
「無茶なことを言うなよ…ほら、続きするぞ」
他愛のない話をしながら、目の前で口を開いたボンネットの中を慣れた手つきで整備していく。先ほどから主に手を動かしているのは片方だけであり、もう一人、つまり私はその職人の手捌きを眺めながら、技術をところどころ盗めればいい、と言うような思考をして、彼の仕事の手伝いをしている。
「よし、これで終わりだ。ボンネット閉めるから退いとけ、挟むぞ」
「言われなくてもそうしますよっと、お疲れさん。
しっかし、こんな古い車どこから見つけてきたんだ…まだ使われてはいるようだが、勝手に整備してもいいものなんだよな?俺は犯罪に加担する気は毛頭ないぞ」
「はは、お前もう手遅れって事に気がつけよ。この車はな、ここの寮の管理人さんの車だよ。最近ガタがきたが整備に持っていくのがめんどくさいって事で、普段機械を弄り回してる俺らの所に依頼が来たって訳だ」
「はぁ、なるほど。いや待て、機械を弄り回してるのはお前だけだ、俺は断じて違う」
「まぁそんなことはどうでもいいだろ。俺はこうやって機械弄りができる。管理人さんの車は直る。いいことずくめだ。ってな訳で、ここにある車の説明は終わり、飯に行こうぜ」
「まだ11時なんだが…まぁいいか、今日は割り勘だぞ」
「分かってる、あぁ、これ工具箱に入れてくれ」
と、彼が私に放り投げて来たのは、油に汚れて、所々に切り傷が入り、擦れた跡の沢山付いた黒い皮の手袋の左手だった。彼は機械弄り、またエージェントの仕事時にはこの手袋を必ずつける、が何故か左手だけである。本人曰く利き手は付けると感覚が狂う、だからだそうだ。彼と写真を撮る時には大抵肩を組み、私が決まって左側にいるから、この手袋が常に近くにあった。何故か仕事のたびに写真を撮りたがる彼のおかげで、その手袋が彼を私に印象づけていた。油の匂いが、どこか心地良かった。


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執筆者: R_IIV
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最終更新: 23 Dec 2020 13:02
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