霞に一つ、街灯に照らされた新しい影が差した。
しばらく立ち尽くしていた影は二度三度辺りを見回し、おぼつかない足取りで、とぼとぼと一人歩き始めた。
雑居な街の入り組んだ路地を宛てもなく進んでゆく。
「ここは何処なんだ」
初めにそう思った。そして周りを見回した。
何処か見覚えがあるようで、それでいて全く違う国にきてしまったようなその景色にしばらく目を奪われる。
そして、ふと自分に問う。
「なぜここに私はいるんだ」
答えは自分の中には無い。また、それを知り得るであろう他者に一度も会っていない事も、その答えを霧に包んでいた。
何も分からぬまま足取りは重く、また路地を広い方に広い方に向かって歩き始める。
そんなこんなで少し広い通りに出た。夜だからというのもあるが人通りが少ない。
ちらほらと営業している店の明かりが通りをぽつぽつと照らし、静かな冷たい風が吹くばかり。
その事実に少し落胆しながらも、なにか手がかりを探すために通りを歩く。
明かりの前で立ち止まっては店の様子を伺い、賑やかな店の雰囲気に気後れして次の店に足を向ける。
見知らぬ人の輪に入るというのはここまで難しいものだっただろうか。
次の店でこの通りでやってるのは終いのようだ。ここも厳しそうだったらこれまで見てきた店の中で比較的入れそうな所に行こう。
それに、私に別の通りを探す気力などはとうに無かったのだ。
店のシックな黒塗りのドアにはめられた曇りガラスから優しい灯りが漏れている。
中から人の声も聞こえない。助かったとばかりに足を踏み入れる。
冷んやりとした空気と木の香り、落ち着いた店内の雰囲気が身を包む。
「いらっしゃい」
カウンターに佇む初老の店主がにこやかな顔を携えていた。
その優しい笑顔が自分の中の凝り固まった緊張を解きほぐし、自然と足がカウンターに向いた。
少し高い椅子に腰掛け、そこで何を頼んだものかとひとしきり悩んでいると店主が口を開いた。
「あんた、見ない顔だね。どこからきたんだい」
痛いところを突かれ、戸惑いながらも事実を口にする。
「それが、分かりません」
「分からない。そりゃあどういう事だい。この街は確かにいろんな場所があるが、どんなところかは言えるだろう」
この街は、思ったより広いようだ。
解決の糸口にならない事実を反芻し、声を絞り出す。
「…いえ、そうではなく気がついたらここにいたんです。ここはどこですか」
店主が一瞬驚いた顔をし、また笑顔に戻り口を開く。
「ああ、あんた新入りか。どうやら迷い込んできちまったみたいだな。そうかそうか。
じゃあ改めてだ、いらっしゃい私の店へ。そしてこの街、酩酊街へ」
酩酊街、それがこの街の名。頭の中に一つ、細い糸を手繰り寄せた感覚がした。
「ところで、あんた注文は」
「あ、え、ええと…おすすめはありますか」
「あいよ、もちろん酒は飲めるよな」
「あ、ええ人並みには」
「じゃあ兄さんにはこいつだな。少し待ってな」
店主はテキパキといくつもの酒瓶を棚から取り出しては混ぜて、シェークしていく。
その間に、少し落ち着いた頭を整理する。
この街は酩酊街と言うところで、私はここに迷い込んできてしまった。
迷い込んできたという事はどこかに出口があるはず。私はそれを探さなくてはいけない。
「できたよ兄ちゃん。ヘルメスだ」
淡いレモンイエローが小さなグラスに注がれて目の前に差し出された。
こんなお洒落なカクテルなど、今まで片手で数えられるほどしか飲んだことがない。
恐る恐る口をつけると爽やかな甘さが口に広がり、強めのアルコールと共に歩き疲れ、乾いた身体と喉を潤していく。
たった一杯だが、私を支配するのに十分だった。
「美味しい」
自然とそんな言葉が漏れる。
「そうかい、嬉しいね。
客はあまり入らないもんだから兄ちゃんみたいなのを相手できるのはいつぶりだろう。
…そういや昔、兄ちゃんに似たような奴が来た事があったな」
そのフレーズにハッとし即座に聞き返す。
「その人の事、詳しく、教えてもらえませんか」
店主は困った顔をして、ひとしきり頭をひねり答えた。
「すまんね、かなり昔のことだから覚えてないな」
「そう、ですか…ありがとうございます」
掴んだかと思った糸は、たやすく手をすり抜けてしまった。落胆と共に小さく溜息を吐いた。
「力になれなくてすまんね。だがまあ、ここも悪い所じゃあない。道を探すのはあんた次第だが、ひとまずここでゆっくりしていきな。力になれなかったお詫びに幾つかは俺の奢りって事にしてやるよ」
そう言う店主を前に席を立つのも気が引け、ひとまず好意に甘える事にした。
店主との話の中で何か手掛かりを見つけられるかもしれない。そうしたらまた外で探せばいいだろう。そう思いながら1つ目のカクテルを飲み干した。
アルコールが周り、ほどほどに気分が良くなってきた。
「兄ちゃん、次はどうする」
「ええと、ではこのインペリアル・フィズというのを」
「はいよ、また少し待ってな」
「出来たよ兄ちゃん。これは俺の奢りだ」
目の前に今度は、透明掛かった乳白色のカクテルが差し出される。
口をつければレモンの酸味と炭酸が口の中で弾け、甘さの中にアクセントを奏でる。そして、同時にまた酔いが回る。
かなり顔が暑くなってきて思考も安定しない。さっきまでの重要な事もしばし忘れ、私は店主との話の海に漕ぎ出して行った。
店主がこの店を始めた所以。普段来るお客の話。そして自分のここに来る前のこと。とつとつと話しているうちに時計の短針は1時を回り2時を回り、少し酔いが冷める頃には3時を回っていた。
「もうそろそろ店を閉めなきゃならねぇな。あんたはどうする」
もう、そんな時間か。揺らいでいた頭がすぅっと冷めていく感覚がする。
そうだ、私も出なければならない。答えを、探しにいかなければ。
身支度を済ませた私に店主が声を掛ける。
「最後に1杯、これも俺の奢りだ。ジプシーってんだ」
なるほど、さっきまで何かしら手を動かしていたのはこれの為か。
ここで断るのもなんだか申し訳ないので、好意をありがたく受け取る事にした。
「ありがとうございます。いただきます」
最後だと言うのに、強めのアルコールが喉を撫でる。
ここでの思い出を、脳に刻むような酔いが回る。店主との、最後の時間を味わった。
「ありがとうございました」
「はいよ、良かったらまた来な」
たった1杯分の代金を払い、来た時よりもいい笑顔を携えた店主に見送られ店を後にする。
さあ、答えを探しに行こう、そうしてまた暗い道に新しい1歩を踏み出した。
外に出た途端、ひんやりとした夜風が頬を撫でた。
ぽつりぽつりと立った街頭のおかげで、暗さに対する恐怖はさほど湧かない。
ひび割れたコンクリートの上を千鳥足で進む。
火照った体を夜風が冷やし、熱で溶けた頭が再びかたちを持ち始める。
始めの頃は気にとめる余裕などなかった街並みも、だいぶ落ち着いて見られるようになってきた。
明るい時に見れば、さぞや良い街なのだろう。ただ、今は日がとっぷりと暮れてしまい、標しるべは建物か街頭の明かりだ。
せめて懐中電灯でもあれば───悔やんでもどうしようもない。来る時は突然だったのだから。
道に這う街頭の明かりが遮られ、酔いの霧が立ち込める街に、ふらふらと新しい影が伸びる。
歓談しながら───だいぶ酔いの回った様子で、だが───歩く二人の女がこちらを見る。
「おにーさん!新入り?」
「新入り…?いえ、私はここの者ではありません。気づいたらここに迷い込んでいて、今出口を…」
「出口?ないない。ずぅっとここにいるんだよ」
「そんな、ことは」
ない、と言いかけて、ついと口を噤む。
先が見えない場所を歩いて、このまま出口は見つかるのだろうか。
不意に黙り込んだのを見て、声をかけてきた方の女がケラケラと笑った。
「この街は楽しいよ。何しても誰も何も言わない。昼間から酒飲んだってねぇ!」
「ちょっと、この街に昼なんてないでしょ」
「そうだった。あはは。アタシも焼きがまわってきたかねえ」
「あなたに回ってるのはヤキじゃなくて酒!」
「うまくないねえ!酔った頭がいい感じに冷えたよ」
女二人が振りまくアルコールの匂いに当てられたのか、せっかく覚めた頭がまた溶けてくるのがわかる。
一つため息をついて、女二人に向き合った。
「申し訳ないですが、私はここに留まる気は一切ないので。できればさっさと出たいのです、脱出の仕方に心当たりはありませんか。」
「ええそうなん?物好きな奴もいたモンだねえ。うぅん、外への出方か…。」
「わかんないなあ。たまにふらりと迷い込んでくるのもいるけど、大抵この街に馴染んで、外に行きたいとか言わなくなるし…」
「この街の酔いに当てられた、とか表現する人もいるけどなァ」
「でも楽しいのは事実でしょ?」
「旅人が街から出たいという意思は、住人として尊重するのが筋ってもんじゃないのかい」
「それはまあ…そうだけど」
酔っ払い二人の、要領を得ない会話をぐだぐだと聞き流す。
「…まあ、知らないなら結構です。私はそろそろ道を探しに出ますので、それでは。」
「つれないねえおにーさん!そうだ、先立のアタシがいいコト教えてやろう」
信じられかは別として気になる語句に、なんですか、と足を止めて振り返る。
話を聞く姿勢を見せた私に好感触を感じたのか、女はニタリと笑った。
「この街の名前さ。酩酊街って言うんだけど───文字通り酔っぱらった街だ。そして、酒ってのは中毒性がある。おにーさんも飲んだコトあるならわかるだろう?」
「ええ、それはまあ…」
ほろほろと意識が溶ける感覚、柔らかな酔いは、ひとときの陶酔感と悦をもたらす。
少しばかりの快楽の代償を次の日支払ってでも、変えがたい魅惑がそこにある。
フン、と女は鼻を鳴らし、溶けた眼まなこを剣呑に細めた。
「一度酒の酔いを快と知ってしまえば、それなしには戻れない。この街の安寧を一度知れば、もう外の世界は苦痛でしかない───戻って来ちまうんだよ。ココに。」
「戻って」
自分はそんなことはない。
言いかけた声は、喉の奥につかえて、吐き出されることのないまま溶けていく。
「酩酊街。───誰が言い出したのかは知らないけど、なかなかうまいもんだと思わないかい?少なくともお兄さんの世界の人たちは、この街をこう呼ぶ。そして、アタシたちも、この街をこの名で認識してる。」
最初、この街の温度は、自分にとって生ぬるかった。不安と恐怖の対象だった。
だが───今はどうだろう。人と話し、頭を酔わせ、街の名を知り───最初はまとわりつくようであった空気が、己を包み込んでくるように錯覚する。
冷たい枷が酔いによって滑らかに外れ、じんわりとあたたかく、脳髄を満たす。
馴染んで。この街と。
心地よいと。
戻れなくなる、と。
「おにーさん、だいぶ酔ってたみたいだけど、ようやっと分かったようだね。…ああ、酔ってんのはアタシもか。」
「どうすれば、どうすればこの街から出られる…?そもそも、なぜ私はここへ」
「ああ、酒に酔った時、一気にものを考えるのはよくない。酔っ払いが考えていいのは、いつだって今と、昔だけさ。」
「だめだ。早くここから出ないと。」
いつの間にか、女の隣にいた影は見えなくなっていた。
女は少し眉をひそめ、小さくため息をつく。
「この街は慈悲深く、そして愚かだ。意思があろうがなかろうが、入って来た時点で合意とみなす。みんなみんな、霧に惑わして、この街の作った安寧に引きずり込んじまう。───アタシの横にいたあいつは、この街に望んで入ったし、この街の酔いを好んでるし、外を嫌ってる。」
でもおにーさんは違うだろ?外の人間だ。と、女は自嘲のような声音を混じらせ笑った。
「本当は、この街にいちゃいけない。この街にいたら悪酔いしちまう、強くて冷たい、ただの人間。」
「出る方法、だっけ?」女が、しばし宙に視線を彷徨わせる。
少し考えるそぶりを見せると、「そうだね」と、酔いに赤くなった顔をあげた。
「強い意思、かな───。何があっても絶対にここから出てみせるっていう、真剣な思い。甘ったるい酔いから覚めて、厳しい現実へと戻る、覚悟。」
これでもアタシ、昔は霊感強いとか言われててね。不思議なモノとか、色々見て来たんだ。占いの真似事とかやったり───今はほとんど忘れちまったけど。
おにーさん、運が良さげだからね。強い思いさえ持ってれば、きっとそれが指針となる。
「そしてね、そういう人には、自然とチャンスが流れてくるモンだよ」
「そう、ですか…」
正直、ここで、酔っぱらった女の戯言だと聞き流すことは簡単だ。
街の人を増やしたいがために、口から出まかせを言っているとも考えられる。
ただ、この女の声音には、妙に力があった。信じてもいい、行き先を預けてもいいと思える、引力が。
「ありがとう、ございました」
「は、アタシも本格的に酔い…ヤキが回ったね。こんなこと、昔は金貰わないと言わなかったのに。」
「どうなるかはわかりませんが、きっと良い方に巡ると信じて。行ってみます。」
「おうおう。頑張っといで。大丈夫、出られなくても、アタシが酒とつまみの一つくらいは奢ってやるよ。」
帰り際不穏な一言を残し、女がカラカラと笑う。
そして、来た時と同じように、ふらふらと力なく歩き去って行った。
ひたすら足を動かす。前へ。とにかく前へ。
進めば何かがある。きっと。
これ以上ここに止まってはいけないと、惚けた頭が警鐘を鳴らしていた。
常に警戒心は持っていないといけない───酒の酔いが心地よすぎる。セピアの街並みはあたたかすぎる。
この街にずっといたいと、そう感じてしまう前に。
進むという覚悟を握りしめて、動かす足に力を込める。
街頭に照らされ、ところどころ欠けた塀。
「酩酊街」と書かれたホーロー看板が目に入り、堪えるように目線を逸らした。
行けども行けども、何も見つからないまま時計の針は回ってゆく。
強靭な意志は続けども、そろそろ精も根も尽き果てようとしていた。
そんな時、T時路の先にぽつりと佇む1件の駄菓子店に目を惹かれる。
先程まで無かったようにも思えるその店と、そのなんとも言えないものに手を引かれ、歩を進める。
店の前にたってみれば、その部分だけ過去を切り取って貼り付けたような外観と共に、懐かしさが身を包んだ。
少し上を見れば古ぼけて所々剥げたり汚れたりして読みづらい看板に、"伏木駄菓子店"と店名を読むことができた。
聞いた事のないその名前、でも何処か懐かしい響きを含んでいるようだった。
足を踏み入れれば、古ぼけた木の香りと少し湿った空気が身を包む。
店の中はかなり狭く、両側に棚が据え付けられている。
その棚に整然と並べられた、瓶や色とりどりの包装に入れられた菓子が目を奪う。
所狭しとと並べられていて、動かされた形跡など微塵も感じられないほど整頓された菓子の列に圧倒されながらも、入って何もしないのも変なので近い棚に向かおうとした。
「いらっしゃい、探し物だね」
と、店のその1番奥にあるカウンターで広げられた新聞紙のその向こうから、落ち着いた声が飛んだ。
そちらを見れば初老の、縁どりの細い眼鏡をかけ、立派な顎髭を蓄えた店主が、先程まで読んでいた新聞を閉じこちらを見ていた。
そのレンズの奥の瞳が、こちらの奥底を覗くように私を見据えている。なぜ、私が何かを探していると気が付いたのだろうか。言いようもない不気味さが背を撫で、咄嗟に嘘を吐く。
「いえ、特に探し物がある訳ではないのですが…少し気になって」
そこまで言っていらないことを言った、と後悔した。店に入る理由を、いちいち伝える者は居ない。
だが、ここに探し物がないと言うのも事実だ。私が探しているのはここから出る方法であって、食べたいお菓子では無い。
「いんや、そいつは違うな。ここは伏木駄菓子店、あんたも看板を読んだろう?悩める者の手助けをする菓子を売る場所だ。何処にでもあるが、気が付かなきゃここには来ない。あんたがここに来たって事はそういう事だよ」
と、店主の一言が全ての疑問を根こそぎ流す。
…なるほど、そういう事か、そういう事にしておこう。
そもそも菓子に助けられるという事はにわかに信じ難い。この奇妙な街の存在を知った今でも、だ。
だが、そんな夢物語に少し縋りたくなるようなもう1人の自分に抗えず店主に話を合わせる。
「では、私はこの中から自分の悩みを解決する菓子を探しに来た、ということですね?」
「…いや、あんたが選ぶ必要はない。そもそも選ぶ事が出来ないがね。分からないだろう?どの菓子になんの力があるのか、なんて。
私が見繕ってやる。こっちに来なさい」
「は、はい」
店主に言われるがままカウンターに足を進める。
美しい菓子たちに見守られ、答えへの道を歩んでいく。そんなことが頭を過ぎった。
店主がゴソゴソとカウンターの後ろで作業をしている。
これから何を渡されるのか皆目検討もつかず、ただその物音を聞くだけだった。
「…あんた、大体分かってるが聞いておこう。何を悩んでる」
「…私は部外者です。この街に迷い込んできた1人。そしてここから出る為の手掛かりを、探しています」
「長く長くこの街を彷徨って、精も根も尽き果てようとした時にこの店を見つけました。もしあなたが言うことが本当なのであれば、私を助けて貰えますか」
「助けるも何も、ここはそう言う店だ。安心しな、きっとあんたを導いてくれるだろう」
「そう、ですか」
「ああそうとも。もう少し待ちな。…目当てのやつは何処だったかな」
沈黙と、何かを漁る音が流れ、時計の針は小刻みに音を立てながら回ってゆく。
待って数分だろうが、十、二十分ほど待ったような感覚がした。
「ほらあんた、こいつだ。こいつがあんたを助けてくれるだろう。だが、注意書きは絶対に見るんだ、そして忘れるなよ、いいな?
…まあ、二度と戻れなくなってもいいんだったら好きにすりゃあいいがな」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
「あ、あの代金は…」
「そんなもんはいらんよ。他にあるただの菓子を買いたいんだってなら話は別だが。それにあんたはもう行くんだろう。目当てのものが手に入って、少しは明かりが灯ったはずだ」
「そう、ですかね…ではありがたく」
「はいよ、じゃあな。もう会うことは無いかもしれないけどな」
少しぶっきらぼうな店主の口調に背を押されるように、貰った菓子の包みと、胸に感じる何処とない暖かさと共に店を出る。湿った風邪が頬を撫でた。
しばらく歩いてふと振り返ってみれば、そこに駄菓子店の面影も漏れ出る明かりも無く、ただ青白い街灯が転々と並んでいるだけだった。
消えた店に一抹の不安を覚え、抱えた紙袋の中を覗いてみる。
そこに綺麗な包みが入っているのを確認し、ひとまずは安心した。
それと同時に、それすらも時間が経てば消えてしまうのでは無いかという漠然な不安を感じ、早足でどこか座れる場所を探す。
やっとの思いで手繰り寄せた、たった一本の糸を手放すわけにはいかなかった。
少し歩いてみると手頃な公園が見つかったので、そこのベンチに座り小包を取り出す。
綺麗な模様が施されたその包みを開けてみれば、また小さく包まれた丸いものが見える。
どの包装も凝っており、カラフルなお花畑が包みの中に広がっているようだった。
童心に還ったような気持ちがふつふつと湧いてくる。少し楽しくなってどれにしようかと迷うその手前で我に返り、誰もいないのに恥ずかしさで赤面した。
気を取り直して一つ取り出して見れば、伏木駄菓子店の文字が印刷された包装紙に包まれた小さな飴。
飴は飴なのだが、これまで見てきたどの飴とも一致しないように見えた。
外見に際立った特徴はなく、ただの茶色の鼈甲飴のようにも見える、が飴の艶が絶えず流動しているようにも見え、どこか引き込まれるような飴である事は確かな様だった。
この飴が私を助けてくれるのだと言うが、それでもやっぱり信じられなくて悶々とする。
しばらくして、食べない事には仕方がないだろうという結論に行き着いた。
さあ食べようかと包みを開くその時、ある言葉が頭をよぎる。
"だが、注意書きは絶対に見るんだ、そして忘れるなよ、いいな"
…なんということだ、大事な事を忘れてしまうところだった。
この機会を無下にするという事は、次が無いという事と同意義。急いでその注意書きを探す。
飴が入っていた包みの裏に、それは書いてあった。
"用量(一回一粒まで)を守ってお召し上がりください。どうしてもという場合は、何かを失う覚悟の上お召し上がりください"
湿った風が頬を撫で、嫌な汗が背中に流れる。直接心臓を握られたような感覚がする。
もしこの一粒が意味をなさなかったら、という妄想が頭を埋め尽くし、腕を硬直させる。
渋っていても時間は刻々と過ぎていく。
用法を守れば何ら問題はないと自身の中で結論を下し、意を決して艶やかな玉を口に放り込む。
舐めてみれば、それまでの不安がどこかに流されていく感覚が舌から脳へと伝わって行く。
懐かしい柔らかい甘さの中に、どこか爽やかな味がする。今までに食べたことのあるお菓子の、どのそれにも当てはまらない味が。
少し舐めていると爽やかさが増してきた。喉を抜け鼻を抜け、頭の奥を塞いでいた霧が押し流される。
あの感情が力を取り戻す。
「帰りたい」と。
ふと気がつけば疲れ切っていた足は動き出し、前へ前へと私を急かし始めた。
未だかつて来た事もなく、道も何も分からない街を、自身の意志も置き去りにして、運命の糸に引かれるように。名も無い何かに呼ばれるままに歩む。
薄暗い路地を、より暗く、細い方へ。この先何が起こるのか、一抹の不安すら感じなかった。
辺りには静寂が満ち、風の音すらも届かない。辿り着いた場所はかつての袋小路。
私の当てもない旅が始まった場所。
絶望と焦燥、その他諸々の負の感情の吹き溜まりには、来た時には無かったはずの新しい道が続いている。
より薄暗いその道は希望として、私の求めた答えとして吹き溜まりに光る。
もう迷うことはない。全ての出会いに別れを告げる。
私は必ず、街へ還る。
いつもと変わらぬあの街と、ただそこにあるその街の、日常を繋ぐその扉に。
物語の終焉を告げるように、次の来訪者を待つように、霞が一つ立ち込めた。
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