行方不明人事記録: 代前 友

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行方不明人事記録

財団記録部門作成


職員名: 代前 友 Shiromae Yû ≪人事ファイルを開く≫

職員種別: エージェント/異常性保有者

最終確認日: 2017/8/13

失踪状況: 当該職員は2017/6/1から継続的に、異常物品との関与が疑われる商業組織であるミクランティ・カンパニーへの潜入調査を行っていた。当該職員の保有する異常性を利用し、当該企業の外部顧問のひとりである町永 修氏に成り代わることで情報を収集していた。

潜入調査はサイト-8147と当該企業を往復する方式で行われていたが、2017/8/13にサイトを出発したまま連絡が途絶え、別エージェントによる当該企業への潜入捜索も行われたものの身元は発見できなかった。

現在の対応: 当該職員の保有する異常性から身元の発見は困難であるため、捜索は打ち切られた。

[2017/5/31(Wed) 9:27 サイト-8147]

「つまり、貴方には当分の間ここで生活して貰う事になります。ご理解頂けましたか?」
「理解も、何も……」

町永は困惑していた。出勤中に得体のしれない連中に連れ去られたと思ったら、やたら広々としたコンテナハウスに押し込まれ、"ここで大人しくさえしていれば相応な報酬を払うし、元通り復職もさせる"と突拍子もない事を一方的に言いつけられたのだ。

「わ、わかりました。良いでしょう……元よりそうアウトドアな性分ではありませんし、ゆっくりさせて貰いますよ」
「ご協力ありがとうございます」

彼は暫し悩んだのち、"断ったら何をされるか判ったものではない"という恐怖心と、"まあ金が貰えるなら……そこまで環境は悪くないしな……"という下心から、その交渉を承諾してしまった。

「という事で代前、君には今回この男に成り代わってもらうよ」
「見る限り、そう目立った特徴のない男だな。口調、歩幅、食欲、どれを取っても平凡だ。こういう奴の方が逆に演じ辛いんだが……まあいい」

明かりが落とされた監視室、モニター越しのその男を観察しながら俺は率直な感想を漏らした。

「どの道君は完璧にコピー出来るだろ」
「何の労力もなしに成り代わっていると思われるのは心外だがな」
「どうどう、単に君を信頼してるって話だろうに」

俺と冗談交じりにミーティングを進めるこの男は高井という。俺に潜入任務が転がり込んできた時は、決まってこの男がそれを伝えに来る。そうして潜入開始から経過報告、事後処理までをサポートする。

「なら良いんだが。それで、今回はどの程度の作戦期間で見積もってるんだ?」
「それが、全く見通せてないんだよね。普通の会社にしちゃガードが固すぎるんだよ、このミクランティって会社。だからこそまずクロで間違いなさそうなんだけど、証拠を掴めるまでどの程度探りを入れなきゃならないかは全然わかんないって感じ」
「あー、既に気が滅入って仕方ないんだが」

一応文句は口にするが、生憎と俺に拒否権はない。俺のようなPoI上がりの異常性を持つ職員の自由は、こういう所のシワ寄せで担保されるのだ。勿論それがおおっぴらに成文化されることは無いが、成り代わる対象を先に拐かしてからこの話を持ってくる辺りに露骨な退路の塞ぎ方が見て取れる。

「まあそう悲観しないでよ、ちゃんと全力でバックアップするからさ」
「当たり前だ、そんなもん」

その点、高井は異常性も持たないごく普通の職員にも拘らず、俺に振られた難儀な任務によく付き合ってくれている。それは否定できない。やろうと思えば幾らでも投げっぱなしにできるのを、真摯に受け止めてくれている方だ。

「傲慢だねぇ。ま、そんな訳で今回もご安全に頼むよ。ね」
「……当たり前だ」

視線を落とした手元の肌が白みを帯びる。男性にしては色白で、シミや傷痕のない──良く言えば綺麗な、悪く言えば──怠け者の手だ。

「それで、今回の体の調子はどうなんだい?」
「典型的な運動不足と睡眠不足の不良物件だ、肉付きも悪いから内側で誤魔化すのも難しい」

この力は己の肉体を老若男女問わず意のままに弄ぶが、身体機能を外見と違わせることはできない。今回の体はその点で偵察行為に支障をきたしかねない不良物件だ、潜入を開始したら密かに少しずつ体格を修正していく必要があるだろう。

「町永がまだカンパニーと直接的に接触してなかったのが救いだね」
「問題は別にこの体だけじゃあないけどな」

むしろ身体機能の不満などありふれた話だ、今回の場合より重い問題は──

[2017/6/1(Thu) 10:11 ミクランティ・カンパニー本社応接室]

「春海運輸から参りました、町永 修です。この度は外部顧問としてお招き頂きありがとうございます」
「初めまして、町永さん。私はガラス・ミクランティ。ご存知の通り、このミクランティ・カンパニーのCEOを務めています。どうぞ気楽にガラスとお呼び下さい」

ホワイトベージュを基調とした小広い応接室。全体的に明るい色味の空間にスモーク張りの窓が悪目立ちしている。俺を出迎えたのは白い長髪を後ろで束ねた男──いや、正確には。

要注意人物報告

財団記録部門作成


登録番号: PoI-5491

個人名: ガラス・ミクランティ Glass Micranti1

性別/身長: 不明/175cm

生年月日: 不明2

出身国/人種: 不明/ゲルマン系白人(推定)

脅威レベル: 未定義

状態: 監視・調査中

説明: 編集中 編集権限を確認しました。≪編集を開始する≫

──とまあさしずめ、未知の生命体Xといった所だろうか。顔立ちも声色も絶妙に中性的で、性別がどちらとも判別し難い。少なくとも男性用のスーツを着用しているため、一先ず男として認識することにした。嘘吐き特有の微笑みが板についている、うっかりボロでも出そうものならこの手の人間は目敏く嗅ぎつけるとみていい。

今回の作戦最大の問題が良く分かった事だろう、調査対象の事前情報が何一つ揃っていないのだ。俺に仕事を割り当てた人間とて、俺を無為に使い潰したい訳ではない筈だ。ともすれば見切り発車的この潜入調査も探れるだけ探った末の苦肉の策だったことが窺える、全くたまったもんじゃない。

「ガラスさんですね、畏まりました」
「さて、それでは早速業務の説明に移ります──と言いたいところですが、生憎私は次のスケジュールが迫っていまして。申し訳ありませんが、ここから先は私の秘書が担当します」
「秘書の片原です、よろしくお願いいたします」

彼の傍らに控えていた低身長の女性秘書が、彼の言葉に応じる様に一歩こちらへ歩み出た。男とは対極的に無表情な日本人の女だ。瞳の奥に押し隠した排他的な視線を感じる、俺が疑われているというより誰に対してもこの態度と見える。

「畏まりました、お忙しいところ恐れ入ります」
「それではお先に失礼いたします、埋め合わせと言ってはなんですが。今晩、宜しければ食事にお誘いしても?」

[2017/6/1(Thu) 11:26 502小会議室]

「──以上が、町永さんに担当いただくプロジェクトとなっています。何かご質問は?」

当然と言えば当然だが、町永はあくまでも表向きの取引の一つに介入するために招かれたに過ぎないようだ。事前知識は詰め込めるだけ詰め込んできた、一先ず当分の間は順当に職務を全うして信頼を稼いでいく流れになるだろう。

ミクランティ・カンパニー。元は輸入品の売買を専門とする企業だったが、次第にその事業の幅を広げ、飲食店や音楽レーベル、果ては劇場まで持つバラエティに富んだ企業だ。それらを"フロント企業"と言い換えたなら随分と親しみが湧いてくる。今回任されたのは彼らの新事業である北陸地方への企業展開の補佐だった、新幹線の開通に乗じた物だろう。

「業務に関しては問題ありません、お任せください」

課された職務は想定の範囲を超えない、おまけに棚ぼた的に標的と距離を詰める機会まで手に入った。前情報が無いという重大なマイナスを補いきれるプラスとは言えないが、ある程度光明が見える出だしとなった。

「ありがとうございます。では私から最後に一つだけ宜しいでしょうか」
「はい、お伺いいたします」

眉一つ動かない無表情が俄かに上瞼を持ち上げる。

「ご入用の際は6階の秘書室へお越しください、私がご対応致します」
「……?はい、ありがとうございます……?」

当たり障りのない内容に思えることを敢えて改まって話した真意が掴めず曖昧な返事をする俺を置いて、彼女は足早に会議室を後にした。

[2017/6/1(Thu) 20:14 某レストラン]

硝子張りの摩天楼。都市の眩耀も照らし出せぬその頂きに粛として差し込む月気は、洋白銀のカトラリーを淡く照らし出すばかりだ。白スーツの男はその光に細身のワイングラスを差し出し、透き通ったグリーンの水面をゆらりと弄ぶ。一頻りの戯れを済ませてから視線を此方へ、二人きりの個室で一人と一人の視線が漸く重なった。

「初日のお勤めお疲れ様でした。如何です?私の会社は」
「驚きましたよ、とりわけタスク管理の面で他の追随を許さないように感じます。私も持ち帰れるものがありそうです」

彼の言葉がこの奇妙な閑を瞬く間に現実へと引き戻した。その緩急につい食い気味で応えてしまった俺に、男は目を伏せてくすくすと形ばかり笑って見せる。

「持ち帰れるもの、ですか。見かけによらず野心家でいらっしゃるみたいだ」
「いえそんな、買い被り過ぎですよ。私のすべき仕事をするまでです」
「するべき仕事、ね」

コトリ、プレートが純白のテーブルクロスを踏み締める。未だ揺れている水面にちょうど俺の顔が映り込んでいた。

……俺の顔が、だ。町永の、冴えない中年の顔はそこに無い。

「君にとっての仕事はきっと、私の社員を教え導く事じゃあないんだろうね。そしてとっても大きなものを持ち帰ろうとしている」

立ち上がろうとする手に、脚に力が入らない。俄かに頬骨を撫でる汗を拭う事も、生唾を飲み込むこともできない。

バレた。なぜ、いつ?最初から?わからない。

殺意は……ない、こいつは何がしたい?俺に何をした?

「問おう、君はその仕事に誇りを持っているかい?」

蝋で固めたように動かなかった唇が焼き網の上の蛤のように勢いよく開き、乾いた呼気を吐き出した。

すぐさま始末される訳ではないのなら、逃げられる訳でもないのなら。落ち着いて答えてやればいいじゃないか。言い聞かせ、もう一呼吸の猶予を稼ぐ。男はそれを咎めるでも急かすでもなく、ただ俺を待っている。

大丈夫、落ち着いた。答えられる。答えてやる。

「誇りはない、する必要があるからやってるだけだ」
「その必要が無ければ、敢えてやる仕事でもないと。それじゃあ、君はなぜその仕事を?」

素直に答えてやる義理もなければ、それが賢明とも思えない。だがこの男を前にして、ほんの少しでも偽証を働くことができるとはまるで思えず。それを言い訳にするように、俺の口は淡々と言葉を連ねた。

「俺みたいなのが居場所を手にするには、それを勝ち取るよりも……賜るほうがずっと楽で賢いんだよ」
「君みたいなの、とは。具体的に説明してもらえるかな」

この問答に何の意味がある?俺の後方支援を探るつもりなら時間の無駄だ、俺はここに居る間全くの孤立無援なのだから、探る方法などありゃしない。

「力を与えられたってのに知性も押し付けられた、獣にも成れない日陰者の事さ。あんたもそうなんだろ?」
「私は一度だって自分が日の当たらない場所に居ると思ったことは無いよ。そして、君にもそうあって欲しい」

くいっとグラスを空にした男が、ゆったりと立ち上がり俺に歩み寄ってくる。殺意はおろか、悪意すらも汲み取れず。俺の勘が狂っただけだと信じたいのを、花を愛でるような笑みが拒んでくる。なぜそんな顔をする?拷問でも初めてくれた方がずっと納得という安心を得られるだろうに、男はただ俺の手を取った。ひどく冷たい手だ。

「その力は、君を影に追いやる物であるべきじゃない」
「何が言いた……い……?」

声色、いや、手指も。グラスに映る顔も、俺の物じゃない。

「私が君に、スパイより相応しい舞台を与えよう」

男は俺の脇に手をやって軽々しく立ち上がらせる。慣れないハイヒールによろめきそうになるのを、胸の下に添えられた手が柔らかに押しとどめた。

幾つかの疑問の言葉が浮かぶ。その中から選びだした一つだけを投げ掛けた。

「……何のために?」

男は手を離し、俺の正面へ向き直ってから目を細める。そうして十分に勿体ぶってから端的に答えた。

「私は人が心動かされる様を見るのが好きなのさ」

[2017/6/2(Fri) 19:30 ヴオッコ劇場, 楽屋]

光量が強すぎる楽屋の中、演者たちは各々の準備を大方終え、露骨さの多少はあれど揃って同じ方向を窺い見ていた。視線の先にはこの劇場の支配人と、見慣れぬ女が一人。"見慣れぬ女"はその視線がひどく冷たく刺さっては身を縮こませていた。

「台本は読み込んできたかな?」
「……ええ、この程度なら一晩で十分です」

化粧台の鏡に映るのは20歳そこらに見えるピンクブラウンのロングの女。作り物のような──いや、本当に紛い物ではあるが──美形のそれを直視していると得も言われぬ嫌悪感が湧きたつ。これまで何度も不愉快な外見を経験してきたが、此度はとりわけ。誰かに成り代わるのなら兎も角、架空の存在の皮を被り、期待されるままの美貌を拵えるというのは売り物じみていて反吐が出る。

「なんだ、徹底してくれるなんて案外乗り気じゃないか」
「ふざけないでください、あくまでも取引です」

「君には私が持っている劇場で役者をやってもらう。まっとうにそれをやり遂げてくれれば君が求めている情報を渡すし、君がしくじった事が君のお仲間に決してバレないよう計らってあげよう」
「……それをどう信じろと?」
「解らないかな、私は君の才能を高く評価しているんだよ。君を此処へ送り込んだ彼ら以上にね」

拒否権は無いに等しかった。断ったらどうなるだとか以前に、この憎たらしい姿は俺の制御を離れて不変のものとなっていた。この男の力なのか、或いは何らかのアノマリーに頼ったのか、いずれにせよこの姿から解放されない限りは何も起こらなかったかのように取り繕う事すら出来ないのだ。

「少し揶揄っただけじゃないか。不機嫌な顔は似合いませんよ、ミス・アマーティ」
「……はい、支配人」

この楽屋においてこの男は"支配人"であり、俺は"支配人が突然の欠員を埋める為に連れて来た舞台女優"だ。他の演者はそう認識している、だから俺は舞台裏でもこの役を演じ続けなければならない。今まで何度もやってきた事だというのに、この男に操られているという感覚だけで何倍も不快だ。

「折角、君が主役の舞台を用意したんだ。是非とも無駄にしないでくれ」

そう、主役。稽古なしに舞台に上がらせるというだけで馬鹿げているというのに、この男はあろうことか俺を主役に仕立て上げた。これまで稽古を重ねてきた演者たちからすれば俺の事が疎ましくて仕方ないだろう、それを裏付けるような視線が絶えず注がれている。

「ああ、君の代わりに抜けた主役を気の毒に思う必要はないよ。彼女にだけはあらかじめ伝えてあったし、よりよい舞台も用意しておいたからね」

つまり俺の潜入はそれだけ前から筒抜けだったという事だ、どうやらハナから負け戦だったらしい。

「難しい事は考える必要はないさ、君は君の実力を発揮するだけでいい」
「実力、ですか」
「ああ、そうさ。楽しんでくるといい」

実力。それは恐らく、異常性この力を指している訳ではないのだろう。

……久しく、受け止めた覚えのない言葉だった。

≪シラクサの乙女 第三幕≫

二つのスポットライトが舞台の両端を照らす。薄墨色のマントで身を覆い隠したアマーティが舞台の下手に走り去ろうとするのを、上手から舞台に現れた男が呼び止めた。

「おおアウローラ、貴方が貴方を愛さずして、誰が貴方を愛すというのですか!幾ら御父上が貴方に──」

男の説得に対し、アマーティ演じるアウローラはそれを遮るようにゆったりと振り返った。男はアマーティの悲哀に満ちた視線に言葉半ばで息をのむ。

「違うの、ディエゴ。私は、私に愛されたかった訳ではないのよ」

アマーティは一言だけ残して再び背を向ける。男はそれ以上彼女を追う足を踏み出せない。

「だけどどうやら、私が愛さなければならないのね──貴方は私を、愛してはくれないのでしょうから」
「待ってくれ、アウローラ!僕は、ただ──」
「さようなら、優しい人。私は一人でも生きていけるわ」

アマーティは舞台を去り、男のそれ以上の台詞を許さずスポットライトは消える。暫しの暗転ののち、さざ波の音と共に青白いライトで舞台は明転した。アマーティは舞台の中央で真っ直ぐと遠く、海原が広がっているであろう観客席を眺めている。静かに脱ぎ捨てたマントは、風の音とともに舞台袖へ引き込まれていった。

「ありがとう、私を縛り付けた全て。私を愛せなかった全て。お陰で私は、在るべき場所を探し求める事ができる」

ステージライトは陽光の黄を帯びる。雄大なマドリガーレの演奏と歌声が舞台に流れ出すと、アマーティは潮風に乗るように踊り出した。水縹色のリネンワンピースが、ピンクブラウンの長髪が、照明と、観衆の視線に照らし出されて鱗粉を纏う。

それきり台詞は無く。フェードアウトしていく演奏の中で一心に踊り続けたまま緞帳は下ろされた。

「お疲れ様。どうだったかな?初舞台は……少なくとも、観客は饒舌なようだけれど」

耳が割れるような拍手の中、舞台袖まで逃げ遂せた俺をその男は至って緩慢な拍手で迎え入れた。他のスタッフは作業に追われて散り散りになっている。

「どうもクソもあるかよ、連中が見てたのはアマーティ、或いはアウローラだ」

俺じゃない。あそこに立っていたのは俺じゃないんだ。

「──だけど、間違いなく輝いていた。君の人生で一番ね。違うかい?」

俺はどう答えるべきなのだろうか。拒もうにも歓声に思考を遮られ言葉が浮かばず、逃げるように髪を掻きむしる。ヘアオイルのアイリスが他人事のように香った。

「……輝きゃいいってもんでもないだろ」

絞り出したのはそんな言葉だった。

[2017/6/4(Sun) 9:02 サイト-8147]

「ああ、誰かと思ったら。随分老けた皮を選んだな、どんな風の吹き回しだい?」

高井の至極まっとうな質問は、幾ばくか熱にあてられたままだった俺に冷や水を浴びせた。

「まあ、なんだ。自分を保つためだと思ってくれ、あそこは異質過ぎる……」
「珍しく参ってるね。あの報告書を読む感じ、無理もない反応かもしれないけど」

高井は俺が提出した情報にざっと目を通したに過ぎなかったが、それでも俺の消極的な態度に納得を示した。ガラスが俺に寄越した情報はアノマリーとの関連を示すものでは無く、より表向きな情報だった。にもかかわらず、それですら高井を納得させるに十分なほど異常なのだ。

「社長は勿論の事、秘書、部門責任者、その他重役。一人残らず"出自不明"ときた。十中八九消してるだろうね。いやはや、出来るとしてやるかな?普通」
「普通なものか、それでいて誰もが正常なつもりで働いてるんだ」

俺が頭を抱えている理由は当然そんな情報のせいではないが、それでもその言葉は真に感じた物だった。

歪だ。表面的な秩序は極めて整然としているにもかかわらず、そのちゃちなベールを剥ぐと隠す気もない怪奇が息をひそめている。この会社の構造も、俺の弄び方も、全てあの男の計算に基づいているというのだろうか。

「今まで数多くの潜入調査を熟してきた君とは思えないほどに弱気だね、そんなに厄ネタかい?今回のは」
「……まだ、分からないさ。見掛け倒しだって事も、まああるだろう」

ああ、全くもって自己欺瞞だ。

[2017/6/4(Mon) 8:54 社長室]

「その調子だと、君は秘密を秘密のままにしたようだ」
「潜入が筒抜けで文字通り踊らされたのち情報を掴まされました、とでも報告しろと?」

誰よりも早く出社した俺を出迎えたのはそれをすっかり見越していたらしいガラスだった。

「案外、その方が君にとっては楽だったかもしれないよ?君があの舞台をまったく唾棄すべきものだと思っているのならね」
「全ては情報の為だ。偽の情報を混ぜて掴まされたとしても、財団ならその真偽ぐらい見抜けるだろう」

お粗末な自己正当化だ、結局のところ俺は彼らに見放されるのが怖いだけなんだろう。

「ふむ、私の差し出した情報が真実であるか疑わしいのなら、契約を変えてあげてもいい」

俺の葛藤と自己弁護の応酬を知ってか知らずか、ガラスは出し抜けにそんな提案を持ち掛けてきた。

「話だけは聞いてやる」
「随分な言い回しじゃないか。まあいい、茶化していては話が進まないね。契約の内容はこうだ──君が定期公演に出演し続ける限り、私は君のスパイ行為を黙認しよう。勿論、私の会社を潰そうなんて企てる気なら止めざるを得ないが……今の君は、まだそうする許可を得ていない。そうだろう?」

全くどこまで筒抜けなのやら、或いは憶測で語っているのか。どちらにせよ、より俺がNOと言えなくなる術を熟知したその提案に対する俺の答えは、首を縦に振る他に無かった。

横に振らせてもらえなかったのは、ここに来て何度目だろうか。ここに来る前から数えるのはやめた方が良さそうだ。

[2017/6/7(Thu) 13:11 601執務室]

本社ビル6階、執務室。手狭なこのオフィスは俺の為に設けられたもので、来客は基本的にない。毎朝送信されるタスクリストに基づいて然るべき部署のオフィスに出向く形で仕事をしている。日常的な監視がないというのも実におあつらえ向きで、まったくナメられている。だからその随分と珍しい来客に身構えたものだが──

「それで、貴方はお受けしたのですか」
「ん……ああ、あんたも知っている側の人間か。そりゃそうか、秘書だもんな」

──来客は社長秘書の片原だった。事情を認知している彼女に対して取り繕う必要もないと俺は口調を崩す。

「私は……いえ、そうですね。職責の方も全うして頂ければ、それで構いません」

彼女はほんの少し言い淀んだが、いつも通りの排他的な視線がそれを塗りつぶした。彼女は果たして俺に対しどのような感情を以てこのような視線を送るのだろうか、少し探ってみてもいいかもしれない。いや、そうやって探りを入れでもしないと自分を見失いそうだったともいえる。いずれにせよ、そんな動機で俺は片原に問いを吹っ掛ける。

「構いません、か。なあ、時に片原。あんたはあの社長をどう思ってるんだ?その口振りを見るに、忠誠って感じではなさそうだが」
「……」

彼女は沈黙で返した。どう答えるか悩んでいるというより、答えるか否かで悩んでいるように見える。

「……お答えできる事はございません。では」
「ああ、そうかい」

どうやら、俺は答えるに足らない存在だったらしい。しかし一枚岩でない事が知れただけで満足だ。だから俺は引き留めもせず立ち去るのを見送ろうとした。

「……一つ、宜しいでしょうか」
「ん?あぁ、何だ、言ってみろ」

だから、彼女が部屋を後にしようとして扉の前で立ち止まったのは全くの想定外だった。覚束ない返事をしてしまった。

「貴方には、家族は居ますか?」
「あ……?いや、いないが……親の顔も知らん」
「……そうですか」

真意の判然としないその問いかけを最後に、片原は今度こそ部屋を去っていった。

[2017/7/7(Fri) 19:30 ヴオッコ劇場, 楽屋]

「アマーティさん楽屋入りです!」
「「お疲れ様です!」」
「こんばんは、皆さん。今日もよろしくお願いいたしますね」

"主演女優"が大楽屋に足を踏み入れると、演者たちは嬉々とした声で彼女を受け入れる。ほんのひと月前の冷淡な視線は、とうに見る影もない。

当の本人はその眼差しを眩しがってか、そそくさと自身の小楽屋へ引っ込んでいった。そこでようやく、彼女に付き添っていた支配人が口を開く。

「ふむ、君のコミュニケーション能力にはやはり光るものがあるね。ミス・アマーティ」
「単に、実力を買って頂けたというだけではないでしょうか」
「まあそう言わないでくれたまえ、君の実力は確かだけどね……さぁ、君の第二作だ。存分に楽しんでおいで」

俺はガラスの言葉を軽く振り払うようによれよれになった台本を傍らに音を立てて置き、そのまますっくと立ち上がる。

「ご満足いただける演技を致します、契約ですから」

視線を合わせるでもなくそう言い残し、楽屋を後にした。

≪カンパニュラの怪訝 第二幕≫

聖堂のステンドグラスを模した色とりどりのスポットライトがアマーティ演じるシスターを照らしている。シスターの前には数人の敬虔な信徒が跪き、彼女の言葉を賜っている。

「主は皆さんの信じる心を試しているのです。如何なる苦難をも絶え忍び、一心に信じ祈る事こそが皆さんの救われる道なのです……!」

静かに、されど熱弁するシスターの言葉に、信徒たちは疑うそぶりも見せず恭しくその言葉を受け入れた。舞台にごうんと鐘の音が響く。それに促されるように信徒たちは舞台を後にし──鮮やかな照明は傾き、シスターを陰に追いやる。

「私の声は、全て彼らに届いてしまう。私が拙い言葉を並べようとも、全ての言葉が、平等に」

シスターは無人になった聖堂で独白を始める。ステンドグラスの方へ向き直り、仰ぎ見る。

「ならば、私が敬虔に、誠実に在る理由とは何でしょうか。私が私としてここにある理由は……一体、どこに在るというのでしょうか?」

ばつん、尻切れ蜻蛉にステージライトが落とされ……遅れてスポットライトも減光の末に消えた。

「舞台で演じてみて、改めて感じましたが……随分な台本ですね」
「おや、思う所があると?」
「白々しい……」

第三幕まで終え、悲劇に相応しいシトシトとした拍手に見送られた俺はそんな訴えをせざるを得なかった。

「私がここに居る意味を、私自身に見つめ直させようという魂胆が見え透いています。第三幕で結局、問いに答えを出さなかったのもその為なんでしょう」
「仮にそうだとして、君は私の満足いく答えが出せるのかい?アマーティの中の君が居る意味を、君は出せるのかい?」

ガラスの神経を逆撫でするような問い掛けに俺が眉をひそめた丁度その時、周りにいたスタッフがその場から捌けた。それを一瞥した俺は感情のままに胸倉を掴み、ぎりりと手繰り寄せる。

「珍しく感情的だね、それだけ君も悩んでいるという事かな」
「他人事みたいに言いやがって!お前はどうして、そこまで……」

危うく殴りかかりそうだった俺と対照的に、ガラスは満足そうに微笑むばかりだった。その顔を見て俺は不意に脱力し、手を離す。

「……やめだ、こうするのもお前の思惑じみてて気持ち悪い」
「酷い言いようじゃないか、だけど……君に良く考えて欲しい意図があったことは認めよう。そして、今すぐ答えを見つけてもらう必要もないさ……契約なんだろう?君の中でそうなら、今はそれでいい」

ガラスが扉を指さす。その意図を汲んで一歩引きさがったところへ扉を開いたスタッフが入ってきた。さりげなく襟を正し、"さあ、戻ろうか"と俺の背に手を当てる。

「いずれにせよ、私が君の事を誰よりも買っているのは揺らがないけどね」
「……どうとでも言え」

今は演じてやる。俺の役目さえ果たせば、こんな劇場でこんな下らない事に悩まされず済むんだ。

[2017/7/23(Sun) 11:02 サイト-8147 談話室]

「またイメチェンか。随分迷走してると見えるね」
「あー……」

琉球人の皮を被ってロングピースを吹かしていた所に高井がやってきた。連日の酷暑に耐えかねファイルで顔を仰いでいたせいで、俺の煙をもろに顔に浴びて噎せ返った。そういやこの部屋は去年禁煙になったんだったか。

「中々真に迫る情報も手に入ってないようだし、居心地も悪いと見える。もし町永が何事もなくあの会社に赴いてたならそれこそ気の毒な事になっていただろうね」
「私は別に、居心地が悪いとまでは行ってない。ただ、焦ってはいるかもな」

渋々携帯灰皿に吸いかけのそれを突っ込み、窓を開け放つ。その窓に反射して姿が映っていた高井はぽかんと何か珍妙な物でも見るような顔をしていた。

「どうかしたか?」
「あぁ、いや。職場で私なんて言ってる君を見るのが初めてだったから。少し驚いただけだよ」
「……俺が?私って言ったのか?」
「何だ、無自覚か?」

高井がわざわざ嘘を言う理由もない、ならば本当に俺が言ったのだろうが……にわかに信じ難い。

「珍しいね、君が役にのめり込むなんて。あんまり自分を見失うなよ?」

何も知らない高井にとって、その言葉にはそれ以上の意味はなかったのだろう。しかし俺にとって余りにもタイムリーで。こんな問いを投げ掛けずにはいられなかった。

「なあ、高井。俺にとっての"自分"って何だと思う?」
「何って……」
「俺には"元の姿"がない。物心ついた時から容姿を弄び続けたせいで、自分ですら正しい自分の姿がないんだ。サイトで使っている姿も、此処の連中に俺を俺と認識させるための"普段使い"に過ぎない」

"何故今そんな話を?"そんな疑問が高井の顔に浮かび上がっているのを気付かないをふりして問いを続ける。

「外身がダメなら中身はどうだ、お前は俺の性格を説明できるか?」
「そうだね……明朗とは言い難いけど、ネガティブとも違うし、丁寧な振る舞いはしないがとりわけ乱雑でもない。中庸と呼べるほど全くの無個性でもない……難しいね」
「面と向かって言われると中々堪えるものがあるが……まあ、言いたいのはそういう事だ。食の好みもなければ、ろくな趣味もない。煙草も同僚が吸ってるのと同じだから選んだだけ。環境が俺をそうしたと言いきるのも乱暴だ……なあ、改めて訊かせてくれ。俺にとって、"自分"とは何だ?」

俺の問い、或いは吐露を聞いた高井は、3秒ばかり間をおいてぽつりと答えた。

「さあね、僕に聞かないでよ」
「……」

……ああ、こいつも別に、俺に大して興味はないんだな。所詮仕事仲間、か。

≪無貌のグロキシニア 第三幕≫

明転する舞台。静かな風の音が三度舞台を過るまで、彼女は置物のようにそこに佇んでいた。初老の紳士が扉を敲き、静寂を破る。

「フレデリカ」

顔に包帯を巻いたフレデリカは、舞台に対し斜めに背を向けた椅子で窓の外を眺めている。彼女の名前を呼ぶ老紳士の声には反応を見せない。

「フレデリカ。いつまでそうしているつもりなんだ、君は」
「フレデリカ・シュバリエは死にました。此処に居るのは、かおを失い、家を追われた燃え滓に過ぎません。お母様にも、先生にも、お姉様にだって見限られ……輝かしき歌姫は御伽噺に還ったのです」

フレデリカはゆったりと立ち上がり、老紳士に向き直る。質素なワンピースの下に、肩回りまで広がった火傷痕がまろび出ている。

「貴方も災難でしたね、遠い血縁だからと厄介者を押し付けられて。もっと他人行儀にしていただいて構いませんのよ」

フレデリカは彼の嫌悪を引き出さんと、その醜く焼け爛れた肌を隠すことなく歩み寄る。しかし老紳士は顔をしかめるどころかフレデリカに歩み寄り、その火傷痕を首から肩にかけてひとたび、優しく撫でた。

「フレデリカ、君は勘違いしている。君は私の下へ押し付けられたのではない、私が望んで君をここに招いたのだよ」
「慰めのつもりなら、もっと上手に誑かしてくださいまし」

老紳士はゆったりとひとたび首を左右に振り、言葉を連ねる。

「私は、君が貌を失おうと失えはしないその歌声に誰より惹かれてるのだよ。あの火は、君の喉と肺までもを焼いてしまったのか?いいや、違うだろう。そんな筈はない。フレデリカの死を言い張るその声は、間違いなくフレデリカ・シュバリエの声だ」

フレデリカの無意識な震えを、老紳士の温かな両手が握り止める。

「恥ずかしげもなく言わせてもらおう、この老いぼれは君の声に恋をしているのさ」
「貴方が私をがえんじたところで、私が歌姫と呼ばれることは能わないのです。私は傲慢な獣、歌姫でない私を私とは認められないのです、貴方はご存じないでしょう」

老紳士の手を振り払うフレデリカ、しかし老紳士はそれに悲しむでも憤るでもなく、クローゼットの前まで歩いていき、持ち主の断りを入れずに開く。

「なら、試してみようか。君が本当に、歌姫足り得ないのか。このクローゼットに眠った君の未練を連れて、ね」

老紳士はラベンダーのフープドレスを取り出す。フレデリカはそれから静かに目を逸らし、舞台が暗転する。



舞台の中央がスポットライトで照らされる。フレデリカは胸元に手を当てて俯いている。

暫しじっと小さく震えていたが、観客がざわめき出さんとする直前に包帯を巻いたままの顔を上げた。

一歩、二歩、観客へ踏み出す。

大きく息を吸い、次の瞬間にはフレデリカの清廉なソプラノが劇場を駆け抜けた。

フレデリカの独唱が、他に何もない劇場に高らかに響き渡る。観客は無貌の歌姫に、それが劇中劇であることも忘れ心を奪われていく。

5分弱の魔法が解けたのち、静かに一つ礼をしたフレデリカに万雷の拍手が降り注いだ。

「……ああ、此処こそが。私の在るべき場所なのですね──」

[2017/8/4(Fri) 22:40 ヴオッコ劇場, 応接室]

「紹介しよう、彼はヒルトンさん。この劇場の後援をして下さっている」
「こんばんは、アマーティさん。お会いできて光栄です」
「ど、どうも。こんばんは」

舞台が終わり、帰路に在り付けるものと思っていた俺はガラスに連れられ、すっかり人の掃けた劇場の滅多に使う機会もない応接室で一人の男を紹介された。

彼の事は知っている、ミクランティ・カンパニーに乗り込む前に、支援者や関連企業について一頻り調べたデータに載っていた。肩書きこそ北欧系の大手電機メーカーの若社長だが、その実は趣味人そのもので舞台をはじめとする芸術分野は勿論、スポーツアクティビティにも並みならぬ出費が確認できた。身長181cmのスーツの下には自意識を具現化したような筋肉が激しく主張している。この劇場に多大な投資をしている事も知っていたし、自由人と思しきプロフィールが何となく気に食わなくて記憶に残っていたが、面と向かって話す機会があるとは思いもよらなかった。

「彼は舞台の君を大変気に入ってくださっていてね。初演から今作に至るまで必ず第一週に見に来て下さっていたんだ」
「そうなんですね、ありがとうございます」
「貴女は本当に素晴らしい。文字に書き表された美がそのまま肉体を得たような方だ」
「は、はぁ……ありがとうございます?」

そういえば以前、ガラスが"私の舞台はある作家の小説を元に脚本を書いている"と話していた。この男は原作のファンという事だろうか。褒められているのだろうがいまいちピンとこない。

「本当に感謝してもしきれないよ、ガラスさん!まさか彼女とご一緒出来るなんて!」
「……えっ」

"ご一緒"?この男は何を言っている?

「いやはや、私もまさかミス・アマーティの口から快諾を貰えるとは思ってもみませんでしたけれどね。作品を愛してくれる方ならばと」
「ああ、素晴らしいよ!なんて役者精神に満ち溢れた方だろう!」

ガラスの片手が俺の背中に当てられ、ぐいと押してくる。二人が何を言っているのかまるで理解出来ないが、目の前で喜び悶えている男の二の腕の不自然な位置に肌色の絆創膏が貼られているのがカッターシャツ越しに透けて見えているのだけ不思議とすんなり認識できた。

「粗相のないように、ミス・アマーティ。ヒルトンさんもどうかお手柔らかに、彼女は初めてなんです」
「何を、言って……」

思考からそのまま降りてきた問いが溢れて渋滞している口が、ひとりでに閉じてしまう。背を押される力に逆らっていた脚が、ふと脱力して前に二三歩進み出る。

支配人はアマーティの耳元でただ一言囁く。

「私は、人が心動かされる様を見るのが好きなのさ」

[2017/8/5(Sat) 4:21 ヴオッコ劇場 仮眠室]

「ゔぉっ、えぇ……げほっ、かぁっ、はぁ、うぇっ……」

ようやく独りになった開かれた檻の中、洗面器に胃液が空になるまで吐き捨てる。膝をつき、洗面器にしがみついていたのを崖を這いあがるようにして顔を上げ、洗面台の鏡に映った売り物の貌を狂乱のままに叩き割った。この白く小さな拳では罅を走らせるばかりで硝子の破片を散らすこともできず、傷の一つも付きやしない。

無力感のままにタイルカーペットに崩れ落ち、目一杯に床を殴りつける。誰かに止められるまでこうしているかもしれない。誰かに止められたらそれを殺めるかもしれない。わからない、今は兎に角怒りに身を任せ、他は何も考えたくはなかった。

「お疲れ様、ミス・アマーティ。突然の事で──驚いただろうが、カトラリーはそう使う物ではないよ」

いつ握っていたのか、なぜ握っていたのか。ナイフだったかフォークだったかも判然としないそれはノックもなしに入ってきたガラスの顔の横を過って廊下に飛んで行った。

「どの面下げて入ってきやがった!」

立ち上がって掴みかかる気力すら残されておらず、ただ感情を爆発させる他には何も出来なかった。

「ちゃんと嫌悪してくれたようで何より。それで?君はどうする?」
「……殺す」
「殺すか、それが出来るかは兎も角、賢い選択肢ではないだろうね。殺した経緯を君はどう説明するつもりだい?ターゲットに絆されて二か月も舞台で良い思いをした上でいざこざで殺しましたと?それとも事故死を装うかい?彼らの眼を誤魔化せるとは思えない。じゃあどうしようか、私の下から逃げてみるのはどうだろう。私が追わずとも、君のお仲間が君に首輪を掛けに掛かるだろうね。自死を選ぶかな?いや、私の知る君はそこまで愚かではないね」

ガラスは長々と語って見せる。それが余りに冗長で、俺は段々と正気を取り戻してしまっていた。

「……何が、言いたい」
「解らないかい?君は現状維持しか出来ないのさ。私の下を離れる事も出来なければ、君のお仲間に助けを求める事も出来ない。或いはお仲間なんて呼べるものはまず居ないのかもね」

現状維持。またこんな仕打ちを受けるかもしれないと怯えながら日々を過ごせと言うのか。しかし、奴の言う通り、他の道が見えてこない。

「安心してくれ、今回のはただの保険さ。君が私の下を離れる事が出来ないようにね……二度とこんなことはしないさ、誓わせてくれ。私だって、心を痛めてるんだ」
「……なぜ、そんな事が言える?こんな事をしておいて?」

ガラスの言葉が余りにも理解しがたく、怒りすら湧いてこない。

「解らないかい?何度でも言おう。私は君を誰よりも評価しているんだ。君は、誰よりも多くの人間の心を動かす才能を持っている。私は君が心動かす様を一番近くで見ていたいんだ。故に君の事を手放すわけにはいかないんだよ……どんな手を使ってもね。だから先ずは、君の心を動かすことにした」

ガラスの深青色の瞳がじっと俺を見据える。いつになく見開いたその瞳は狂気こそあれ欺瞞を見出すことは出来ず、それにどんな意味も込める事無く漫然と惰性的にひとつ頷いた。

「まあ、今の君に何を語っても真っ当な反応は期待できないだろうね。ごめんね、今日はもうお帰り。また月曜に会社で会おう」

"鍵はここに置いておくよ"と一方的に言い残し、ガラスは部屋に私を置き去っていった。

「……私は、どうすればいい?」

答える者は居ない。

[2017/8/6(Sun) 9:21 サイト-8147]

「おはよう、代前」
「……」
「おーい、聞こえてんのか?」
「え、あぁ……俺か」

いつもより早く職場に入った俺は、呆然とデスクに向かったまま1時間強を費やしていた事に気が付いた。

「お前以外に代前なんて苗字がどこに居る?全く……まるっきり魂が抜けたような顔してるな」
「悪い……寝てないんだ」
「その調子じゃ、昨日送信したフォルダも確認してないんだろうな」

まるで心当たりがない。促されるまま職員用の端末からメールにアクセスすると、やけに大きなzipファイルを添付したメールが1通届いていた。

「これは?」
「ここのサイトで記録されたPoIの記録一覧だよ。半分ぐらいのPoIには顔写真の登録がある。君は確か子供の頃にPoIとして登録・収容されたのちに職員になった、そうだったよね?なら当時の顔写真が残っている可能性だってあるんじゃないか?」
「……」
「……おい、うんとかスンとか言ってくれよ。わざわざ資料を持ち出してきてあげたんだから。ホントは君のデータだけ引っこ抜くぐらいしてあげても良かったんだけど、いざ探して見つけた資料に写真が載ってなかったら骨折り損だろう?だからまあ、シュレディンガーの猫って事でここはひとつ自分で探してくれ」
「……いや、悪い。お前がそこまでやってくれるのが意外だったもんで、つい。ありがとう」
「これでも悪かったとは思ってるんだよ、先週のあの言い草は。つい本音がね」
「本音なんじゃねぇか……」
「そこはまあ、僕が答える事じゃないってのは確かだからね。そんなわけで頑張ってよ、応援してるからさ。じゃあね」

バタン。そこまで言いたいことを言うだけ言って、黒井はオフィスを去ってしまった。

「……」

暫し呆然と画面を見詰める。俺を苛む諸々から、ほんの少しだけ心が離れた。まあ、気長に探して行こう。

[2017/8/9(Wed) 10:02 秘書室]

「それで、探し物は見つかったのですか?」
「いいや、残念ながら。俺の情報そのものはあったが……画像は載っていなかった。ま、そんなものさ」
「そうですか」

ガラスが社外へ赴いていたその日、本社秘書室にて。片原にこんな話をわざわざ持ち出したのは、勿論理由があった。片原もそれを察しているだろうに、表情は崩さない。

「だが、資料を見つける中で思わぬ発見があった……これだ、見てくれ」

俺は片原に、タブレットに表示したファイルを差し出して見せる。

そこに添付された画像は、間違いなく片原の顔写真だった。

要注意人物報告

財団記録部門作成


登録番号: PoI-5031

個人名: 澤上 巴 Sawakami Tomoe

性別/身長: 女/158cm

生年月日: 1989/3/4

出身国/人種: 日本国/日本人

脅威レベル:

状態: 失踪中

説明: PoI-5031は受動的異常性保持者です。PoI-5031は記憶処理に対し完全耐性を有し、現実改変を伴う記憶の改変に対しても同様の耐性を示しました。PoI-5031はインシデント-████-██において記憶処理の対象となったものの、全ての記憶処理が失敗に終わったため異常性の保有が疑われました。検査の結果前述の異常性が発覚し、要観察対象となりました。しかしサイト-8147管轄圏内で同時多発的に発生した民間人失踪事件に巻き込まれる形で行方不明となったため、現在は消極的捜索対象となっています。

「私、ですね。ええ、財団に記録がある事は認知してましたよ」

相変わらずの無表情、動揺していないどころか、いつかこの時が来るのを察していたかのような落ち着きを感じる。

「……ガラスは?奴はお前が異常性を有している事を知ってるのか?」
「知りません。そうでなければ、あんな雇用はしないでしょう」

片原が俄かに目を伏せる。寡黙な瞳の奥に熱を感じた。

「雇用?ああ……重役全員が身元不明っていう、あの……」
「そう。社長は、私を含めすべての重役を過去改変と記憶改竄で作り出した"絶対に足のつかない人材"で揃えたんです。どんな異常を用いたのかは定かではありませんが」

"出来るとしてやるかな、普通。"いつぞやの黒井の言葉を思い出し、反芻する。この世界には、存在して欲しくない全てが存在している。恐らくそれが、渡るべきでない者の手に渡ってしまったようだ。

「つまりお前にも本当は家族が居て……」
「社長に全て、消し去られました。家族は他人になり、故郷は私を憶えていません」
「……」

生憎と俺は、他人の不幸話に共感できるタチではない。しかしそれでも、幾ばくか気の毒に思えてきてしまった。

「奴は、なぜそこまで異常な手段に拘ったんだ?」
「……これを」

瞳の揺らぎもとうに抑え込んだ片原──澤上と呼ぶべきだろうか──が、スマートフォンに撮った画像を俺に見せる。本社の前で明朗に笑う二人の人間が映っていた。一人はガラス、もう一人は……

「…………ミス・アマーティ」

[2017/8/9(Wed) 23:44 サイト-8147 資料室304]

暗い部屋にぼうっと点灯するブルーライト。冷房を掛け忘れてじっとりと滲む汗にも構わず、俺はデスクトップに齧りついていた。間も無く日付が変わる事にもつい先程まで気付いていなかった有様だ。

「アマーティ・ロベリア。小説家であり、社長の内縁の妻でもあります……いや、この関係は社長から見れば、ですが」
「つまり、ガラスにはアマーティという恋人が居て……」
「社長は彼女に酷く心酔していました、それはもうみっともなく。彼女の書く物語に心奪われていただけに過ぎず、彼女の一言一句、一挙手一投足が社長にとって肯定の対象でした。傍から見ている分には夫婦なんてものではなく……犬と飼い主にしか見えませんでしたね。社長には会社をまっとうに営む技量があったにもかかわらず、彼女の言葉に踊らされるまま彼女の理想郷を作り上げました」

澤上は、写真を俺の端末に送るとその場で自身のスマートフォンから削除して見せた。

「しかし、彼女はある日忽然と姿を消しました。初めからそこに存在しなかったかのように。社長は酷く取り乱し、あらゆる手段で彼女を探し、それでも彼女の足取りを何一つ掴めないと悟った時……彼女を知る全ての人間から、彼女の記憶を奪い、己の記憶の中に閉じ込めました。あれは夢に過ぎなかったのだとでも言うつもりなのでしょうか」
「それじゃあ、お前たちをそんな異常な手段でかき集めたのも……」
「彼女に何かを吹き込まれたのでしょう。私にはそれを確かめる術はありませんし、興味もありません」

てっきり澤上が復讐や、或いは罪の所在を定かにする為に秘書を続けていると思い込んでいた俺はその淡白な反応に拍子抜けしてしまった。

「なぜだ?お前の仇なんだろう?ガラスとアマーティは。彼らに復讐したいとは思わないのか?」
「復讐というのは、ほんの少しでも成り立つ見込みがあるから企てるものです。社長を見れば解るでしょう、あれは確かにアマーティに踊らされた愚者ですが、それでも人間ではありません。社長がどのような力を秘めているのか、私達はその片鱗しか知らないでしょう。"何が出来るか"で社長を知ることが出来ても、"何が出来ないか"で知ることは出来ないのです。そう考えたら、全く馬鹿らしく思えて仕舞いました」

澤上は、ほんの少し口早に、しかし温度を示さないように語り尽くす。

「とりあえず、私からお話しできるのはこの程度です。これを聞いて、貴方はどうお考えで?」

唐突に聞かされた真のアマーティの存在。つまるところ、俺は。

「はぁ……そうか、なるほど。俺は、ただの代替品か。道理で、あの目は俺を見てないんだ。俺の才能がどうのと抜かす癖に、端から俺の中の俺は邪魔者だったわけだ……下らないな、本当に下らない。おめでとうミクランティ、たった今ようやく俺の心は動いたぞ」
「別に、貴方が何かを起こすつもりなら止めも助けもしませんが……貴方は、どうするおつもりですか?」

その問いに対し己の口元に拳を当て、少しだけ思案する時間を求める。

「……俺は今、緩やかに破滅へと向かっている。真に助けを求められる相手も、真に安らげる居場所もない」
「……」

澤上は相槌すら打たず、俺の言葉が終わるまで待っている。

「舞台は確かに居心地が良かった。それはもはや強がって否定できる段階でもないだろう。じゃあ、俺が"現状維持"を選んだら?」

ガラスは、俺にアマーティの幻影を見ているのだろうか。それにしては、飼い慣らさんという意志が強すぎるだろう。二度とアマーティを逃がすまいと必死になっているのだろうか。或いは、俺をアマーティであると見做したい思いと、否定したい思いが二律背反を起こしているのかもしれない。……いずれにせよ。

「俺は一生、奴に振り回されるだけの人生を送ることになるだろう。舞台に上がる喜びも、次第に陳腐になっていくかもしれない……ならば、俺は。このままじゃあ気に食わない」
「どうにかできるつもりでいるんですか?」

澤上の視線は至って単調で冷淡だ。俺の事はさぞかし感情的に映っているのだろう。実際のところ、俺は俺の正気を証明することなどできやしない。

「どうせどうにも立ち行かなくなった人生だ。奴の思い通りにさえならなければ、他はどうだっていい」
「……はあ、そうですか」
「ああそうさ、それに……」

もはや秘書室に居座る意味もない、俺は端末を閉じて立ち上がった。

「お前だって、本当にまるっきり諦めてるなら、わざわざこんな風に俺と関わろうとしないだろう。まあ、お前の為じゃないが、何かは起こしてやるさ」

アマーティがもし、能動的に姿を晦ましたのなら。どこかで財団の観測網がキャッチしている可能性は大いにある。それがPoIとして記録されているか、SCiPとして収容されているか、あるいは超現記録へ端的にアーカイブされているだけかもしれない。兎に角なにか少しでも、アマーティを知るすべを……

──そこに、私は居ないでしょうね。

声がした。驚き跳び上がるように椅子から立ち上がり後ろを見る。そこには非電子資料の棚がせせこましく並ぶばかりで、人ひとり立つスぺ―スすらない。

──私より饒舌に、私を語れる人など居るのかしら?あの人ですら、私を真に知る事はできなかったのに。

囁く声は俺の耳元に貼り付いて離れない。私の声だ、何度も口にしてきた声。この声の主が誰でどうやって語り掛けているのか、そんな疑問は不思議と浮かばず、代わりに"何が言いたい?"と端的に問い掛けた。

──大丈夫、自信を持って。貴方はもう、私の次に私を知っているから。

デスクトップの横、積み上げたファイルの上にはそこに置いた覚えのない、折れ跡でヨレヨレの台本。吸い込まれるようにそれに手を伸ばした。

──そして、貴方なら私のように私を知れる。

掴みとった台本は瞬きの間に手の中で形を変え、ずしりとした確かな重みを得る。俺の手は、数冊の小説を抱え込んでいた。

──時間ならあるから、ゆっくりと私を知って……それから、貴方がどうしたいか、決めるといいわ。

それきり声は聞こえず。読書灯には無骨過ぎるディスプレイライトに、呆然と本を披く私が照らし出されていた。

[2017/9/22(Fri) 19:42]

代前が消えてから1か月が経った。最初は異常職員を漏出してなるものかと躍起になっていた捜索隊も、全く掴めない足取りにすっかり諦めムードだった。来月にも彼の記録には"捜索打ち切り"の文字が載る事だろう。

一応、代前と一番近くで働いていたつもりの僕は何かと諦めきれずに一人最後まで行方を探ってみたが、本職に探り得ないことが事務職の僕に掴めるはずもなく。結局手にしたのは"少し休め"という上司の言葉と、押し付けられた数日の休暇だった。

甘んじてその休暇を消費していった僕は、最終日の夜ともなるとやる事も思い浮かばず適当に街を歩き回っていた。気付くとそこは隣駅の繁華街で、花の金曜日を闊歩する疲労困憊のサラリーマンで賑わっていた。その喧騒を疎み、逃れるようにひとつ道を外れると、擦れたサラリーマンにはとても見えない紳士淑女で賑わう建物を見つけた。誘蛾灯のようにそれに引き寄せられ、看板を見上げると──そこには、"ヴオッコ劇場"と掲げられていた。

≪ミス・サントリナ 第一幕≫

赤いステージライトが暗く舞台を照らす。その中央に佇む白髪の魔女の周りには、ピクリとも動かない屍が転がっている。

「ああ、不愉快だ。私を否定するしか能のない彼らは、如何して否定するに足りる力も持たないのだろう?」

魔女は屍の間を縫うように上手へ足早に歩きながら、とめどない嫌悪を口にする。

「貴女は、否定される為に生きているのですか?」

下手から現れたピンクブラウンの髪をした女が、その背中に問い掛ける。

「誰だか知らないが、つまらない問いだ。肯定されることなぞ、私はとうに諦め、て……」

魔女は声の主の方へ振り返り──思わず息をのむ。見惚れている、のだろう。そうであると決定づける演出は一つだってないのに、観客席から遠巻きに見た彼女の姿でさえ、一目惚れするに十分な輝きを放っていた。

「誰かに認められるにはまず、誰かを認めれば宜しいんですよ。試しに、私を褒めてみるのは如何ですか?」

彼女はくすりと微笑み、屍を踏み越えて魔女の下へゆったりとした足取りで歩み寄っていく。

「……お前は、誰だ?」
「私はサントリナ、この喉で日銭を稼いで旅をして生きていますの。一曲、聞いていかれませんか?」

「……美しい歌だった。すまない、私は歌を評する言葉を知らないのだ」
「構いません。その顔を見れば言葉よりずっと饒舌ですもの」

僕には演劇の知識もなければ歌の教養もないが、サントリナの歌を聞いて抱いたのは魔女と全く同じ感想であり──それは恐らく、他の観客たちも同じだったのだろう。少なくとも、左右を見渡す限りでは彼女の魅力に呑み込まれた者しか居なかった。

「ひとつ、頼みがある」
「どうぞ、お聞きしますわ」

歌唱の際に入れ替わった白いステージライトの中、魔女は黒い手袋を嵌めたままの手でサントリナの手を取った。

「私にお前の、他の歌も聞かせてはくれないか。然るべき対価は払おう」
「でしたら……私、今日の宿に困っていますの」

照明が暗転し、次に明転すると二人はティーセットを挟んで談笑していた。窓際の席についたサントリナが静かな所作でティーカップを傾ける。

「この辺りはじき雨季が来る。どこから来てどこへ向かうか知らないが、どの町に向かうにしても降りやまぬ雨に悩まされることになるだろうよ」
「そうなのですね。すみません、この辺りのことは疎くて……貴女に出会った事すら、奇跡のようなものだったのです」
「旅人だというのに、随分と無計画だな……おや、紅茶が切れているじゃないか。待っていてくれ、いま湯を沸かして来よう」

そう告げて魔女は立ち上がり、テーブルを後にする。そうしてキッチンまで一人やってくると……胸元を抑えながら身悶えした。

「ああ!なんだこの感情は、彼女は私に魔術を施したのか!?いいや違う、私に魔術が通じる筈がない!じゃあなぜだ、なぜ私は今、彼女を引き留めようとした!美しい歌声を持つから?それだけでこの私が揺らぐはずもない。今更私が人間よろしく情を抱くなどありえない!認めん、認めんぞ……」

魔女は一頻り孤独に騒ぎ立てたのち一つ溜息をついて、しゃんと立ち直った。ティーポットに蓋をして、チンと指先で鳴らす。それを持って魔女はサントリナの下へ戻っていく。

「サントリナ。私はお前があの西の空から迫る雨雲に喰われやしないかと心苦しいんだ。しばらく、半年もかからないさ、あの雨雲が東へ去るまで此処に匿わせてはくれないか」

舞台がゆっくりと青色に明転する。雨音をバックにサントリナの弾むような歌声が劇場に響き渡っている。窓を開け放ち、時折入り込んでくる細かな雨水を身に浴びながら明朗快活に歌うサントリナと対極に、魔女はロッキングチェアに腰かけ、一冊の本を読みながら耳を傾けていた。

「けほっ、くしゅん……」
「ああもう、体を冷やすからそうなるのだよ。もう窓は閉めなさい」
「ふふっ、すみませんね」

サントリナは少女のようにいたずらに笑って、窓を閉める。雨音がフェードアウトし、照明が白色に転じる。

「どうですか、その小説は。お気に召しましたか?」
「ああ、良かったよ。色恋物を読まない私でも楽しめた。しかしこの男の、長髪はどうにかならないのかい?短い方がすっきりするだろうに」

魔女は、サントリナが窓を閉めたのを見て本を閉じ立ち上がり、壁際に掛けたハンガーから上着を外してサントリナに着せた。

「あら、随分古風なお考えですね?」
「じゃあなんだ、こういうのが好みなのか?」
「ええ。私の憧れは今も昔も、その通りです。それこそ、この旅の道連れにする程には」
「ふむ……そういうものか」

サントリナの答えに魔女は不可解そうに眉をひそめ、本の表紙をまじまじと見詰めている。それからおもむろに歩き去っていく。

「少し待ってろ」

そう言い残して魔女は上手に消えた。それを見届けてからサントリナはゆったりとした足取りでその本を手に取った。表紙を優しく撫で、憂いがちにため息をつく。

「本当なら、今頃はとうに……」

そこへ魔女は戻ってきた。魔女は髪を後ろに束ね、白いスーツを身に纏っている。

「こんな感じでどうだ」
「わぁ……!ふふ、髪は真っ白ですが、そっくりですね」

ぶっきらぼうに問い掛ける魔女に、サントリナは両手で口元を抑えながら驚き、胸元で手を合わせながら目を輝かせて喜んだ。

「……そこまで喜ばれると、それはそれでこそばゆいな。着替えてくる」
「もう少し、そのままでもいいじゃないですか」

再び上手に消えようとする魔女をサントリナは小走りで追いかける。

「揶揄うんじゃあない!」

魔女は振り返ることなく歩き去ろうとする。間も無く舞台から見えなくならんとする所で、ちょうど舞台の真ん中辺りまで来ていたサントリナがつんのめるようにして転倒した。

「おいおい、随分姑息な引き留め方じゃないか。お前らしくもない」

姑息だと咎めながらも魔女は立ち止まる。サントリナの返事はない。

「……サントリナ?」

返事はない。魔女が振り返る……サントリナは、倒れたままピクリとも動かない。

≪ミス・サントリナ 第二幕≫

二つのスポットライトが魔女とサントリナを照らした。ベッドに腰かけるサントリナの傍らには、装いそのままの魔女が大きく厚い本を開いている。

「血を採らせてもらった。……お前は、病に侵されているな?」
「……はい」
「この病は知っている、致死の病だ。そしてこれを患ったものは町を追われる、そうだな?」
「ええ、ご存知でしたか」

サントリナは魔女を真っ直ぐ見詰めているが、魔女は彼女と視線を合わせようとしない。

「……お前は、死に場所を探していたのだな」
「ごめんなさい。こんな所に家があるなんて、知らなかったのです」

魔女は天井を仰ぎ、本を閉じる。そうして再び俯いた。

「私がこれに罹ることはないが、私にはこれを治す事も出来ない……お前を助ける事は出来ない」
「そうですか。むしろ安心しました、貴女に成し得ないなら、きっと世界のどこを捜しても治す術はないのでしょう。ありがとうございます」

魔女は観念したようにサントリナに視線を合わせる。サントリナは魔女を気負わせまいとふにゃりと笑った。

「私の亡骸は適当に捨てて下さいな、貴女ならきっと上手なやりようがあるのでしょう」
「今からそんな話をする必要はない!」

声を荒らげる魔女に、サントリナは目を閉じて静かに首を横に振って答えた。

「いいえ、もう数日もない私ですから。あの雨雲は、私を連れていくことでしょう。迷惑料は、この喉で賄わせて下さいな」
「……ひとつ、聞かせてはくれないか」
「どうぞ?」
「お前は、私に出会わず死んだ方が幸せだったか?」

魔女は今にも泣きだしそうな震え声で問い掛ける。それを宥める様に、サントリナは魔女に手を伸ばし頬を撫でた。

「まさか。私は楽しかったですよ……ほんの短い間でしたが、とても。あと数日ばかり、お付き合いいただけますか?」

魔女は、答えを口にする代わりに崩れ落ちた。暗転した舞台に彼女の泣き声だけが力なく響いている……

「またダメか……今度は何がいけない?」

スポットライトはひとつ。下手で照らされた魔女は寝かせて置いた人間そっくりの人形にため息を漏らし、束ねた髪を掻きむしる。サントリナと同じ髪色のそれは、それ以外の共通点を持たない。動き出す事すらない。魔女は人形の首根っこを掴み、上手へずるずると引き摺って行く。魔女を追って動いたスポットライトが、上手に山のように積まれた人形を照らし出した。たったいま持ってきた人形もその上に積み重ねられた。

「サントリナ、君にはもう二度と会えないのかもしれない……当たり前の事なんだろう、しかしそれが私には耐えられないのだ」

魔女は人形の山に背を向け、下手に戻ろうと歩き出すと……もぞり。人形の山が蠢き、ぐらりと崩れた。

「まさか……」

崩れた音に驚き振り返った魔女、その視線の先で……人形の山を崩し、その下から這い出てくる腕。まもなく顔が見えたそれは、間違いなくサントリナの姿をしていた。

「サントリナ!サントリナなんだな!?」

彼女に駆け寄り、その脇を掴んで人形に埋もれた下半身を引っ張りだす。

「……誰、ですか?」

魔女は沈黙する。肩を掴む力がほんの少し緩んだように見えた。

「私は……私の事はいい。お前は、その。自分の名前も、わからないのか?」
「はい。サントリナと、言うんですか?」

声はサントリナだ。いや、役者が同じなら当然ではあるのだが。魔女は自分に言い聞かせるように小さく数回、頷いた。

「いや……違うさ、君は、君だ……名前は、これから考えればいい」

困惑する彼女をひしと抱きしめ、それから解いてすっくと立ちあがった。

「帰ろう、此処はもう必要ない」

舞台が暗転する。階段を歩くような音がしたのちに明転すると、そこは魔女の家だった。彼女はテーブルに向かわされ、ティーカップに手を付けるでもなく、落ち着かなさげに背凭れから背を離して椅子に座っている。魔女は空いていた窓際の席に座った。

「君の名前を考えていた。……ニンバス、そう呼ばせてくれないか」

後光ニンバス……いや、この文脈なら雨雲ニンバスだろうか。僕がそんな考察を逡巡していると、彼女は魔女を見詰めたまま小さく首を傾げた。

「はい、構いません。私は何も、覚えてないので……」
「恐らく、そうじゃない。君は最初から知らないんだ。だから、君が感じたままに答えて欲しい」

魔女の声は至って落ち着いている、先程までの言い聞かせるような口調も落ち着き、僕には彼女がサントリナではないことを正しく飲み込めているように見えた。

「それなら、私は……ニンバスと呼んで欲しいです。貴方がそう名付けたのなら、きっと意味がある名前なのでしょう」

ニンバスは胸元で手を合わせながら、ぎこちなく微笑んだ。その様を見た魔女は、無意識にぽかんと口を開き……はっとしたように閉じる。それから、ひとつ問い掛けた。訊かずにはいられない、そんな口ぶりで。

「なあ、ニンバス。君は歌は歌えるかい?」

≪ミス・サントリナ 第三幕≫

舞台が明転する。舞台の上に設けられた舞台にニンバスが立ち、それを観客が囲っている。それを僕らが観客席から眺めている構図だ。

間も無く伴奏が流れ出し、ニンバスが歌いだす。サントリナの明るく弾む様な歌い方とは対極に、しとしとと穏やかに、どこか哀愁を帯びた歌声だ。同じ役者でもここまで歌い分けが出来るのかとつい舌をまいてしまう。いずれにせよ、その歌声は僕らに再び深い感銘を受けさせた。しかしやはり最初のサントリナの歌声がバイアスとなっているのか、その静かな歌声に違和感を覚えてしまう。

彼女の歌が終わり、深く一礼すると彼女を囲んでいた観客がわっと歓声と拍手を浴びせた。ニンバスはやまぬ歓声を背に受けながら舞台を降りる。そこへ白スーツ姿の魔女が現れて、ニンバスの手を取り舞台裏へ連れ去っていく。

一度暗転した舞台が明転すると、場面はいつもの魔女の家に移った。

「お疲れ様、ニンバス。今日も素晴らしい歌声だったよ」
「ありがとうございます。観客の皆さんにも喜んで頂けたようです」

魔女は窓際の椅子に座って遠くを眺めながら、ニンバスに労いの言葉を送った。ニンバスは相変わらず背凭れに身を預けないしゃんとした佇まいで魔女の言葉を受け取った。

「ああ、君の歌声は多くの心を動かす才能に満ちている……いや、これはもはや使命と言っていいだろう。君はあの凡庸な者どもの心を動かし、彼らをその普遍の檻から解き放たなければならない。君の非凡の才に、憧れを抱かせなければならない」
「貴方は、不思議なお考えをお持ちですね。普通である事は罪なのでしょうか?」

ニンバスは不意に溢した魔女の思想に対し素直に疑問を返した。魔女は視線を窓の外に送ったまま答える。

「ああ、罪さ。己を普遍であると自負する者は異常を排除することに疑いを持たない」
「排除、ですか」

魔女の声色が低く、憎悪を帯びたものに転じる。ニンバスはそれを咎める事も、或いは恐れる事もなく魔女の答えを反芻する。

「そうさ。そうじゃなければ……」

魔女はそこまで言って、やめる。ため息と共に自戒のように首を横に振った。

「すまない、君にする話ではなかった。少し、出かけてくるよ」

魔女は一方的にそう言いつけて舞台の上手に去っていった。ニンバスはひとり残されている。

「私の歌を褒めて下さるときの貴方は、どうしてあんなにも苦しそうなのでしょうか」

ニンバスは返事のない部屋で独り言ちる。先程まで無表情を貫いていたその顔もまた苦しそうだ。椅子を立ち、窓辺に寄っていく。

「……サントリナ」

ニンバスはぽつりとその名を呟く。彼女にとって、記憶の最初にあるのは魔女がサントリナを呼ぶ声だった。

「貴方が語ってくれなくとも、解っているんです。貴方はきっと、今もその、サントリナという方の幻を追っているのですね」

窓を閉じ、力ない足取りで舞台を横切りながら俯きがちに独白を続ける。

「貴方が求めているのがサントリナなら、私はニンバスであることを望んで辞めるというのに。貴方は、私をニンバスとして扱います。"なぜですか"と問うまでもありません、私ではサントリナにはなり得ないのですね……」

本棚の上の花瓶に生けられた山吹色の花を指で弄ぶ。その指がつい力んで、ぷつりと花を摘んでしまった。

「ああ、いけない……あら?これは……」

花が落ちたのを追ってニンバスがしゃがみ込む。そうして観客の視界から一度隠れたのち、立ち上がったニンバスは本棚の下の方から一枚の正方形の薄っぺらな紙箱を取り出した。その紙箱の中から出てきたのは、一枚のレコードだった。

「タイトルは書いてありませんね。蓄音機ならありますけど……今思えば、使っている所は見たことがありませんでしたね」

興味本位か、何かに導かれるようにそのレコードを蓄音機にセットした。歌口をレコードに下ろす……

「……この、歌声は……」

流れてきたのは、サントリナの歌声だった。彼女の春の陽気のような歌声が舞台に響き渡る。それは記録に過ぎない、生きていない声だ。しかしそれでも彼女の魅力を肌に感じるには充分な物で……

「ああ、貴方が、サントリナなのですね……」

ニンバスは、軽快な音楽には似合わない悲嘆を顕にしながら顔を抑え、蹲る。泣きじゃくる声は音楽に呑まれ、殆ど聞き取れない。

「私は……私は、貴方になりたい。貴方にならなければならないのです。どうか……力を、貸して頂けますか?」

顔を抑えていた手を離し、何処へともなくそんな問いかけを浮かべた。

「……私が、あの人の心を動かしてみせます」

問いは決意に転じ……曲は流れたままに、舞台が暗転した。

「あら、お帰りなさい。随分と遠くまで行ってらしたのね?」

明転した舞台、魔女の部屋の、その窓際。彼女はスポットライトにキラキラと照らされたその椅子に座っていた。読みかけの小説をテーブルに置いて魔女を見詰め、微笑んで軽く首を傾けた。

「……」
「どうしたのですか?呆然となさって」
「お前、は……」

魔女は手にしていた麻袋をどさりと落とし、目をまん丸に剥いて駆け寄っていく。

「サントリナ、なのか……?」
「私の他に、どなたが居ると言うのです?」
「あ、あぁ……」

魔女は、彼女に縋りつくように抱きしめ、ぐったりと体重を掛けながら号泣する。彼女はそれを優しく背を撫でて宥めた。

「サントリナ。ああ、サントリナ……お前はまた、私の為に……」
「ええ、勿論です。何をお歌いしましょうか?」

魔女は抱きしめていた手を解き、改めて彼女に向き合う。目元を己の拳で拭ってから、彼女の問いに答えた。

「お前の為に、歌を作ったんだ。拙いかもしれないが、それでも……歌ってくれるか?」
「私の為に、ですか?それはきっと、素敵な曲なのでしょうね!」

胸元で手を合わせながら眩い笑顔を見せる。魔女は満足げに目を閉じ、一つ頷いた。

「ありがとう、お前が気に入ってくれる事を祈るよ……タイトルは、"ミス・サントリナ"だ」

舞台が暗転する。次に明転するとそこは彼女のステージだ。白スーツの魔女が手で合図を送ると、黒子の奏者が伴奏を奏で始めた。

それに導かれて彼女は目を見開き、ひとつ息を吸ってからその歌声を観客席に行き渡らせた。何処までも透き通っていて力強い、嵐の後の快晴のような歌声だった。

[2017/9/22(Fri) 22:36]

劇場を出た僕はポケットを探り、他の観客に紛れて駅に向かいながらメンソールのガムをひとつ口に放り込む。

悪い劇じゃあなかった。ただまあ、最後の歌詞は……魔女にとって、都合良く捉えすぎていただろう。


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執筆者: Ruka_Naruse
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最終更新: 17 Aug 2023 06:49
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