Nobody remembers us.

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 財団から逃げ出せたのは、まったく幸運によるものだと言う他になかっただろう。このトラックがどこへ向かう予定だったのかは知らない。ただ、移送トラックに詰められて暗闇で待ち、強い衝撃が来たかと思えば次に瞼が開いた時には火の中にいた。襲撃者の目的が何だったのかはついぞ分からない。私が知れたのは、私が幸運にもまだ燃えていない草むらの上に吹き飛ばされていて、周りに音を立てるものはもう炎以外には残っていなかったということだけだ。

 しばらく歩いてみて、知らない町並みではあるものの滅びた世界が元の通りになっていることに気づいた。完全なものとは言えない。まさしく諺の文字通り、「太陽が東に傾いてもあり得ない」ようなことが現実に起きている。空には不気味な青白色が蠢いているし、水に映る自分の顔は網膜にたどり着くやいなや歪んでいき、目をそらすともう思い出すことはできない。私の頭は英語で考えているはずなのに、聞き覚えのあるはずもないインディアンの発音が思考にちらつく。それでも、文明的な建物が建ち、船の沈没のニュースは『タイタニック』の宣伝以外では見受けられず、歩いている人々はここ10年間良いことも悪いこともなかったかのような顔をしている。どうやって「再起動」が為されたのか、私の生まれた世界は本当に存在したと言えるのか。今ではそれを知る者は誰もいないだろう。であるならば、は知っていたんだろうか?唯一分かることは、私の肉体はあのボトルメールと共に死に、記憶だけが世界に思い出されて甦ったということだ。私の身体はとうに深海へと沈んでしまっているのに、この記憶は名前さえ知らない他人の身体へと乗り移っている。そういった意味でも、私は正しく過去の世界の亡霊というべき存在なのだろう。

 財団の収容房に入っていたころは徹夜明けかでなければ認知症のように頭が霞みがかっていた。事故の衝撃が幸いに転じたんだろうか、今では大分まともに考えられる。一歩歩くごとに、思い出したいことまでのリールを巻いていくようにゆっくりと自分が想起されていく。自分自身の思考がはっきりとしていくうちに、私には何処も行く当てもないことに気が付いた。それでも私の足は、歩くという現状を止めたくないからなのか、身体が行くべき場所を知っているのか、一度破れたリールを無理やり見返そうとしているのか、歩みを止めない。

 そのうちに、随分と近代的な街に来た。天さえも信用できず、今が何時なのかは分からなかったが、どこへともなくせわしなく向かっていく労働者の波が尽きない。スペクトルまではやり直せなかったのか景色はハイカラともモノクロともつかない色をしていたが、街の雰囲気は明るく、或いは私の知っていた前の世界のどの場所よりもそうかもしれない。

 通行人の一人が、ペットボトルを取り落とす。彼の服は濡れ、悪態をついたが、その後は何もなかったかのように歩き去っていく。交差点にある店には、見たこともない形の世界地図が張り出されている。どこかでけたたましくサイレンが鳴っているが、その方向を気にする気分にはなれなかった。この音が何のサインであろうと、その先にあることが解決しようとしまいと、この世界も最後には何一つ残すことなく忘れ去られる。今日か明日か数十年後か、また怪物は現れ、ここは跡形もなく消え去るだろう。その後にはやがて草が生えて動物が住み着き、数百年後か数千年後かに財団はここに焼き付いた思い出の破片から街を再構築する。そしてまた、そしてまた…

 人の群れから逃げ出すかのように、波に逆らって太陽の方向へ行く。近未来的に見える向こう側に対して、こちら側は取り残されたかのように、せいぜい2階建て程度の工場がズラリと並んでいる。人々がほとんどこちらに漏れ出てこないのを見ると、最早彼らは全て役目を終えているのだろう。その証拠に、ここを秘密の遊び場として見つけたティーンエイジャーたちでもいるのか閑静な空間に時折スケートボードのタイヤが地面とぶつかる音が回折してくるのみだ。

 自分の足が未だ動いているのに気付いた。目的地があるのだろうかと前へ頸を向けると、見慣れてしまったシンボルが目に飛び込んできた。三本矢印、そしてS-C-P Foundationの文字。しかし、その忌まわしく懐かしかった文字も、ある違和感に打ち消された。

 錆びている。

 古い工場だ、少し程度のサビはあるだろう。事実、周りのどの工場も、こすれば剥がれ落ちる程度のサビがついている。だが、ここだけは違った。全面、ビッシリと、完全にサビが覆っている。その様は、工場全体が濁った血に浸されたかのように思えた。何百年もの間、ここだけが海水の中に浸されていたかのようだ。

 異様な外観に疑問符を浮かべながらも、財団記章をもう一度見直す。よく見ると、S-C-P Foundationと書いてある金属製のプラカードには、少し小さい字でもう一つ「怪奇部門」と書かれていた。ドアノブに手をかける。見た目に反して、ドアは彼女を待っていたかのように滑らかに開く。さすがは秘密組織、外から見ればサビ以外は何の変哲もない工場だったが内部は違うようだ。監獄かホテルのように、各部屋へと通じる廊下への道のみがあった。

 一番入り口に近い扉へ手をかける。横のプラカードには、" 彼の怒り"と書かれている。開けた瞬間、彼女は部屋を完全に満たす水を目にした。息を吸うには間に合わないと気付く代わりに、水はそのまま微動だにしなかった。もう驚くことにもなれた、そうぼやきながら物理法則を諦め、中にあるものをはっきりと目にするために水の中へ顔だけを入れる。部屋の中にはオリーブの若葉 ──なぜオリーブだと確信できたのかは分からない── と、猿のような化物の死骸があった。人間よりも数段大きい。見るだけで嫌悪感を催すような、呪われた姿だ。もし彼女が悍ましい、或いは驚くべきものを見たのがこれで初めてのことだったなら、部屋の水は吐瀉物と混じっていただろう。物理と争うように反射的に扉を閉め、今の不快感を忘れられることを願いながら廊下を奥へ歩き始める。

 ほとんどのドアは揺らせど軋むのみで開くこと能わずといった状況だったが、それでもいくつかの扉に手をかけられた。部屋はどこも無機質なコンクリートで、内部には様々なものが置かれていた。各々のドアの横にもあるプラカードも相まって現代アートのような印象を受ける。どれもこれもロクなものじゃない。万年筆の筆先からずっと漏れで続けて何処かへ流れていくインク、木星人のような巨大なヒトデ型の死体、おそらく血で描かれている国旗、手と目で構成された紋様、ゲームセンターにあるようなアーケード。バスケットボールやまだ新鮮な寿司が机に置かれていたこともあったが、遊んだり食べたりといった気分にはとてもなれなかった。

 奥まで来た。突き当たりには地下への階段がある。数段先も見えない暗闇だったが、足は躊躇いなく降りていった。何年も何年も通り続けた家路を歩くかのように、先があることに確信を持って。

 降りた先にあったのは上階と同じ景色だった。視覚はそう認めたが、第六感は否定している。上の階とは何かが違っていた。永く閉ざされていた地下の冷え切った空気はそうでありながら来訪者を歓迎しているように思える。

 自分がここへ誘われた理由は分からなかったが、歩みは止めない。最早このブラックボックスを一つずつ開けていくのは無意味だろう。そう思った刹那、そのアイデアは粉々にされて否定へと還っていった。ドアだ。何一つとして他と変わりはない、劣化具合もホコリの溜まり具合も同じだし、半開きになっていたりもしない。だが、そのドアは彼女とのシンパシーを、そして尋常でない異質さを放っていた。この長い廊下、長い地下1階へ降りてきたときの違和感。それはこのドアのみから発せられていた圧力が薄められた感覚である、そう知るのに時間はかからなかった。プラカードには他と同じように語が刻まれている。しかし、他の部屋のようなゴシックの画一的な他のものと違って、これは手書きだ。

"Remember us."

 そう、手書き。私の筆跡だ。私が投げ捨てた。私が投げ込んだ、あの渓谷に。落下、終末、地盤変動、経年劣化。どれを取っても、あれは意志の行為でしかなく、あの事実は世界の中で世界と共に消えてなくなったはずだ。あり得ない。あり得ないことはこの世界のモットーだろう。だが、諦めても、諦めても、その怪奇の理由を求める脳は止まらない。吐きそうなほどの呼吸、狂いそうなほどの頭、倒れそうなほどの身体、張り裂けそうなほど鼓動する心臓、その全てを支配するのは至難の業だったが、どうにか一歩、一歩と前へ踏み出し、冷たいドアノブへと指を乗せる。ノブが回転する間にさえ何度かの終焉が過ぎ去ったかのように時間が延びる。回し、引き、部屋を見る。開けた瞬間、見えない誰かが出て行ったような心地がした。

 想像よりあっけなくありきたりなものが目に入った。デスクライト、パイプ椅子、事務机、ペンと手帳、パイプ。暗い部屋の雰囲気も相俟り取調室のようだ。だが、その正常性に反して、全身を震えさせる赤信号のシグナルは止む気配がない。最初に目を引いたのはパイプだ。だが、それを詳しく調べる必要はなかった。中には文書が詰まっているだろうが、一言一句まですべて中身は知っている、覚えている。それに、異質さはそのパイプから来るものではない。その隣、間違いなく手帳からだ。メモ帳サイズの安売りそうな手帳を宝石のように持ち上げる。パイプと違い、手帳の上だけではなく下にも埃が積もっている。即ち、この手帳はこの施設にある奇々怪々と共に置かれたのではない。誰かしら或いは何かしらがその後、それも埃の量から見て永い永い時が経ってからこの手帳を置きに来たに違いない。糸で引かれるように手は動き、1ページ目を開いていく。

Nobodyのメモ


このメモ帳が君の前に現れたなら、さぞかし困惑しているだろう。

我々は「Nobody」、何者でもない者だ。

そして君も我々の一員だ、顔も知らぬ、名もなき者よ。

Nobodyとは仮染めのアイデンティティだ。存在していない者に与えられる、間に合わせの定義だ。

そして、その誰もが真の定義を手に入れることを望んでいる。


別称: 引継のメモ、反アイデンティティ、遺書


概要: 何者でもない者たちによって唯一継がれてきたメモ帳。

直観か異常な作用かは不明だが、Nobodyに選ばれた者は自然とこれを手に取る。

● このメモがNobodyを定義する。故に、Nobodyはいつだって1人しか存在しない。

● 諸々の破壊耐性程度は持っている。形而上での強度も問題ない。

● 書き込みは市販の鉛筆でもボールペンでも構わないが、書いた文字をNobody以外が消すことはできない。

● 受け取る時が理解できるのと同様、受け渡す者もその時が分かるようだ。

● どういうわけかページの残数が減ることはない。途中のメモに追記もできる。

● 以前の記録を見るに、例え誰かに引き継がずに前の者が役目(の欠落)を終えても、

 新たな者の手に自然と届く。

脅威:

少なくとも、あらゆるNobodyにとってこれは有益だ。

必要な物品のメモ、記録。我々がどのように何者でもなくなり、君に引き継ぐ前に何者かになったのか。

ここには「Nobody」という団体のおおよそ全てが記されている。


遺言

この自分探しの旅を諦めたくなる者も中にはいるだろう。私もそうだ。私はもう、自らが存在しなかったことに堪えられない。

無論、単にこのメモの所有権や所持を放棄しただけでは無意味だ。遺志を告げ、自らの物理的な存在さえも抹消する必要がある。

だがNobodyは誰かに継がなくてはならない。継いでいかなくてはならない。だから私は財団に、その最も深い闇の中にNobodyを託す。

神の思し召しなのか、私は封鎖人より先にこの埋められた深淵を見つけられた。

私は君の顔も名前も知らないが、それを覚えているものはもう誰もいない。君の過去は埋没し、君は今ここに存在しない。

私は疲れた。私の代わりに、何者かになってくれ。そのために君に「Nobody」を継いでもらう。

私はこれから忘却の海に身を投げる。

身体は形而上の海の底で粉々になるだろう。そして、その精神もどうなるか分からない。

天か地か西の果てへか酩酊の中へか、波の行く末まで逃げることにする。すまない、さようなら、何者でもない者よ。

君が私の分まで、この世界で何者かになれることを願っている。



███████████████████████████████████

 手帳をめくる。いくつかの、今日見たもの達と同じくらい珍妙な存在について書いてある。

 手帳をめくる。筆跡が変わっている。別れの言葉はなく、挨拶の言葉もない。

 手帳をめくる。3人目がいる。何やら境遇を長々と語っているが、どうにも読む気になれない。

 手帳をめくる。書き手の外見などないのに、このページを書いているグレースーツの男がありありと目に浮かぶ。

 手帳をめくる。白紙。

 手帳をめくる。異国の言語だが、何が書いてあるのかは分かる。

 めくる、めくる、めくる、めくる。ページが尽きることはありそうになく、いつしかページの中身を読むことをやめ、そしてめくることもやめ、手帳を閉じた。

 何処かで水が滴り、地面に落ちる。自分が財団の標準服ではなくありきたりなスーツを着ていることに気付く。服は体に馴染み、手帳は服に馴染む。思い込みなのか、自分がまだ世界に承認されていない存在だという事実をようやく受け止められた気がした。は、まだ。もうこの部屋にいる必要はない。部屋を出て、階段を上り、無数の亡霊が潜むドアの前を一歩一歩進んでいく。スペクトルの捻じ曲がった太陽光を顔に受けながら、入り口のドアを閉める。振り返る必要はなかった。もはやそこに工場は存在しないからだ。

 手帳の裏にはこう書いてある。

「Nobodyは何をなし得ることも出来ない。」

 なぜ出来ないと?無に向かって反論する。あらゆるものには先駆者がいる。「出来ない」とは不可能を表す言葉ではない。成し遂げた者が誰もいないNobodyだけだ。出来なかったのなら、私が成し遂げればいい。

 彼女は無気力な無数の労働者の波へと歩いて行った。世界は、スーツを着ていた女が影法師さえも最初から存在していなかったことに気付いた。


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