O/O: Black San Birthday

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冷たい二人


 ゆっくりと、黒色の液体がコップを満たした。待ってましたとばかりに氷をそこに落とせば、熱膨張差の生むパチパチとした音が少年の耳を楽しませる。ワイングラスか何かのようにそれを掲げて呷った彼は、一口目が喉を滑り落ちる前に、コップをテーブルに戻していた。

「苦い」

「そりゃコーヒーですから」

 クスクスとした含み笑いが聞こえそうな表情に、少年がムッと頬を膨らませる。いかにも不服そうなその顔に、男はまた口許を押さえて笑った。

「何で教えてくれなかったのさ」

「面白そうだったので」

「酷いよ、フロスト」

 フロストと呼ばれた男は、足を組んで座ったまま中途半端に腰を折った。会釈にもならない謝罪だったが、少年はそれで満足して、またコーヒーを口に含む。今度はすぐにコップを置かなかったが、渋い表情は落胆に満ちていた。

「どんな味を想像していたんです?」

「何となく、甘いのかなって。いつも飲むコーラは、黒くて甘いから」

「コーヒーはこの苦味を楽しむものなのです。まぁ、ただ苦いだけのコレを、わたしはコーヒーと呼びたくありませんが」

 フロストにとってのコーヒーは、ただ黒くて苦いだけでなく、複雑な酸味と深いコクを持ち合わせていた。そういう意味で、彼の手の中で冷え切ったそれは、コーヒーではなく苦豆汁とでも形容すべきものだった。

「中央の人たちは、こんなものをありがたがって飲んでるの?」

「酒や煙草と同じですよ。要は慣れの問題です。嗜好品と呼ばれるものは、慣れる頃には手放せなくなっているのです」

 フロストは舐めるようにコーヒーを飲み、微かに顔を顰めたあと、シンクにそれを流した。磨き上げられた銀色の上を流れていくコーヒーは、彼の目には飲み物ではなく、唾棄すべき悪として映っている。フロストは少年の手からコップを奪い去り、先ほどと同じようにシンクへ流した。

「もったいないよ」

 フロストは少年の頭を撫でた。柔らかな癖毛は上質な絨毯か、血統書付きの長毛種を連想させる。その愛おしい感触は、少年を見るフロストの瞳に、哀れみの影を落とした。二度とこんな安物を少年の口に入れるものか、フロストは誰にいうでもなく密かに誓った。

「いつかわたしが、本物のコーヒーを淹れてあげますから」

 少年がコップを差し出すと、フロストは手早く冷蔵庫の扉を開け、中から2Lサイズのコーラを取り出した。糖分過多なジュースも褒められたものではないが、安っぽい苦味とカフェインだけが取り柄のコーヒーに比べれば、いくらかマシだ。

 ゆっくりと、黒色の液体がコップを満たす。気泡が弾け、パチパチと小気味良い音がリビングに溢れた。
 
 
 


 
 
 
 少年とフロストは新堺市Shinsakai Cityの外れに居を構えていた。三次元的に増築された灰色の箱が並ぶ公営住宅ボックスハイツ。簡易な作りの箱型物件が敷き詰められた街の一角が、二人の自宅だった。

 2020年代後半。増え続ける人口に対処するため造られた小型宇宙ポケットユニバースは、皮肉にも更なる人口の増加を招いた。ふんだんにパラテクノロジーを取り入れた異次元都市は多くの人間にとって魅力的に映ったし、実際そこは魅力に満ちていた。

 最初に目をつけたのは言うまでもなく企業たちだ。新たな場所は新たなビジネスを生み、新たなビジネスは新たな雇用を生んだ。腕に覚えのある優秀な人材がサカイに集まり、街は瞬く間に発展を遂げた。大阪府ならびに新堺の名はあらゆるメディアを席巻し、特にサカイ地区は商業、交通、生活のあらゆる面で要衝となった。

 多くのビジネスマンや高額納税者が都市部を買い占めたあと、民間人の流入も始まった。少年とフロストは新たな居場所を求めてその列に並び、たとえそれがコンテナを繋げたような小さな箱だったとしても、安住の地を見つけたことに歓喜した。時代の最先端、その最後尾に乗り遅れなかったことは、少年のささやかな誇りとなった。学校に通っていなかった彼にそれを自慢する相手はいなかったが、手の中のタブレットがサカイの名を告げる度、彼の頬は綻んだ。

 画面に映るのはいつも決まって煌びやかな商業特区で、の人々にとって新堺市とは中央部とその辺縁のことだった。二人の住む灰色の街に注目するものはおらず、上層の夜景が企業連メガロの働きで星羅する間、街は静かに息を潜めていた。それこそがフロストの狙いだったが、少年が13になる夏、彼はフロストに街を見たいとねだった。少年の言う街とは、当然、新堺市の中央部のことだった。彼は最近できた巨大ショッピングモールで映画を見たいとフロストに言った。

「僕一人を連れてくぐらい訳ないでしょ?」

 フロストは曖昧に笑い、黒手袋をタイトに嵌めた手で少年の頭を撫でた。少年はやや恥ずかしそうに目を伏せたが、嫌がりはしなかった。フロストが映画館の並列電影像パラレルシアターのチケット代を説明するより先に、少年の目は彼を射抜いていた。

「やっぱり、難しい?」

 潤んだ水色の瞳は、どんな言葉よりもフロストの心を揺さぶった。フロストは慣れない跳躍路で少年が酔ってしまう可能性と、空力車輌エアカーのレンタル代を秤にかけ始めた。そして壁にかかったカレンダーに、休日の予定を書き加えた。
 
 
 


 
 
 
 映画館から出た少年はしきりに頭を気にしていた。電脳移植手術インプラントオペを終えていない少年は、皆と視覚を共有するために、専用の外殻電脳器ヘッドギアを装着する必要があった。鼻から上を肩甲骨にかけて大きく覆う鋼の殻は、映画の内容以上に刺激的だった。目の部分は分厚い双眼鏡のようで、見る角度によって様々な色彩に変わるレンズは、図鑑で見た虫の複眼に似ていた。段々に重なる頭頂部から背中にかけてパーツは、ダンゴムシやグソクムシを想起させる。そしてそこから伸びる幾つものケーブルが、少年の脳に新鮮なビジョンを届けた。シアターは、全員で同じ夢を見るような技術だった。

「こんな旧式のギアを寄越すなんて、配慮が行き届いていません」

 フロストは少年の頭に重いギアをつけることを拒んだが、当の少年はその禍々メカメカしいデザインに魅了された。子供向けの最新ギアに関するフロストと係員の諍いは、迫る上映時間と共に少年の一言で終わった。

「フロスト、僕はこっちの方がかっこいいと思うな」

 エンディングが流れ、おまけの映像ポストクレジットシーンも終わり、二人は席を立った。フロストは日用品と食料を買いに行きたかった。しかし、少年が抱えるLサイズのポップコーンはまだ半分以上残っていた。キャラメルの匂いを撒き散らしながらのショッピングは気が引ける。フロストは悩んだ末、30分以内に帰ってくると約束し、少年を映画館前のベンチに座らせた。

「何かあったら、このボタンを押してください」

 フロストは掌サイズの端末を少年に握らせ、中央の大きなボタンを指差した。
 
 
 


 
 
 
 少年がベンチでポップコーンを頬張っていると、一人の少女が隣に座ってきた。少年はちらりと少女を見やったが、気にせずポップコーンを食べ続けた。彼は目の前の容器を空にするのに必死だったし、フロストが自分を置いていったのは、このお菓子が原因だと何となく理解していた。

「さっきの人、誰なの?」

 余裕のある、甘い声だった。フロストの優しく、しかし底冷えするような声とも、少年自身の、高い、声変わり前の声とも違った。毎日キャラメルポップコーンを食べて過ごしているような、とろみのある声だった。

「ねぇ、貴方に言ってるのよ。さっきの人、誰なの?」

 少年はそこで初めて、少女の方を向いた。ブロンドの髪は束ねられた絹のようで、白い肌は瑞々しい透明感に満ちている。美しく研磨されたエメラルドを思わせる、澄んだ緑がこちらを見つめていた。少年は先ほど見た映画のヒロインを思い出した。ヒロインは白髪で、その瞳は紅かったが、現実離れした美貌は空想の人物を重ね合わせるのに十分な説得力があった。

「さっきの人って?」

 ようやく少年は言葉を発することができた。少年は同年代の人間とほとんど関わってこなかった。唯一の家族はフロストで、唯一の友人もフロストだった。一日の大半を灰色の箱の中で過ごし、本やタブレットで学習に励んだ。この小型宇宙ポケットユニバースで過ごした時間は人生の半分にも満たなかったが、幼い少年の中でそれはこの世の全てに等しかった。

「背が高くて、髪の毛がない人」

「……あぁ、フロストのことね。僕の家族で、勉強とかを教えてくれる人だよ」

「父親ってこと? それとも教師?」

 少年は言葉に詰まった。フロストと少年の間に血の繋がりはない。つまり親ではない。では教師かと言えば、それも違う。教師は寝る前に分厚い外国の本を読んではくれないし、好物のコーラが冷蔵庫から無くならないように気遣ってもくれない。それに、フロストは単純な国語や数学だけでなく、生きるための知識を少年に与えてくれた。先ほどの映画にも主人公の通う高校の教師が出てきたが、彼は教科書をなぞっているだけで、本当に大事なことを教えてはくれなかった。本当に大事なことを教えてくれたのは──少年はフロストを言い表す適切な言葉を思いついた。

「師匠」

「師匠? 師匠って、漫画に出てくるような?」

「そう。フロストは僕に、本当に大事なことを教えてくれるんだ」

 少女はふぅん、と退屈そうに目を細めた後、少年の抱えるポップコーンを見つめた。熱心に頬張ったおかげで、容器は底を見せ始めている。あともう一口、というところで、少女が容器に手を突っ込み、最後のポップコーンを奪い去った。少年は呆気に取られ、薄い茶色に染まったポップコーンが少女の口に吸い込まれるのを見つめた。底には、硬く弾けなかったトウモロコシの粒だけが残った。

「フロストだっけ、さっきの人」

 少女の口から発せられたのは、謝罪でも感謝でもなく、この場にいないフロストのことだった。少年は怒りこそ覚えなかったが、そのあまりに堂々とした態度にただ困惑した。訝しむような視線に気づいていないのか、少女は言葉を重ねる。

「私わかるわ。あの人はヤバいって」

「ヤバい? フロストが? なぜ?」

「だってまず異様に背が高いでしょう? それに頭に髪の毛が一本もなくて、男なのに女みたいな顔をしている。コウモリみたいに真っ黒な服を着てて、手袋まで黒かった。何もかも変な人よ」

 少女の言うヤバい要素は、少年が彼と出会ったときから何一つ変わることのない日常の一部だった。天井についてしまいそうな背丈も、ツルリと毛穴すら見えない頭も、面長で、細い双眸が嵌め込まれた顔も、何一つ変に感じたことはなかった。確かに映画フィクションにも報道ノンフィクションにもフロストのような人間は居なかったが、それは単に彼がいつしか言っていた、十人十色という言葉の中に収まる話だと思っていた。それにフロストは、動物のような人間や人間のような動物が闊歩する時代に、見た目でとやかく言うのはナンセンスだとも言っていた。外見の差異は、性格や能力を図る上でノイズでしかないと。

 しかし、少年の心に渦巻いた不満や困惑を言い表す言葉を、少年は持ち合わせていなかった。時間をかければ導き出せるかも知れなかったが、そのモヤモヤとした感情は、反論として少年の口から飛び出した。

「でも、フロストは優しいよ」

「貴方にはね。でも、彼の優しさが平等だとは限らない。そもそも貴方、両親はいるの? 兄弟は? 姉妹は?」

 少年はまた言葉に詰まった。彼は家族に関する一切の記憶を有していなかった。両親や兄弟という言葉を耳にする度、彼のどこかが僅かに痛んだ。しかしそれだけであり、何かの記憶がフラッシュバックすることも、夢で見知らぬ人物に出会うこともなかった。彼は孤独ではなかったが、孤独を感じられるほど他者と関わってもいなかった。

「フロストは……」

「もういい」

 まるで読んでいる本を栞も差さずに閉じるような勢いで、少女が言った。そしてすっくと立ち上がると、掌から何かを取り出した。あまりにも早い動作だったので、少年は少女が指の間からそれを一瞬で抜き取ったように見えた。現代の技術を考えればそれもありえない話ではなかったが、同年代の少女が持つにはいかんせん現実味のないものに思えた。それは金属製の栞を思わせるカードであり、ツヤのない漆黒に9桁の数字が刻まれていた。

「貴方がそのフロストや、あるいはもっと別のことで悩んだり、困ったりしたら、この数字に連絡して。いい? この事は、あのヤバい人には絶対に言っちゃダメよ?」

 少女のものとは思えない気迫に押され、少年はゆっくりと頷いた。少女はカードを少年の胸ポケットに押し込むと、くるりと踵を返して立ち去った。漆黒のカードは、全くと言っていいほど厚みも重さも感じさせなかった。少年はまだ自分が映画を見ているのではないかと疑い、頭の辺りを触れたり叩いてみたりした。当然、そこに外殻電脳器ヘッドギアはない。柔らかな灰色の癖毛が、少年の手を押し返した。

 フロストはまだ帰ってこない。少年はベンチを立ち、少女が消えた人混みの方を見つめた。知っている人間は一人もいない。不意に少年を不安が襲った。それは見知らぬ場所で一人になったものが感じる不安だった。それは少年が初めて感じる孤独かも知れなかった。少年はポップコーンの容器をベンチにおいて、人混みの方へ歩いていこうとした。とにかくここで待つのは限界だった。しかし少年は一歩踏み出すことも叶わずに、たたらを踏んだ。体がよろけ、後ろでポップコーンの容器が床に落ちる音がした。コロコロと転がった固い粒が、リノリウムの上を走った。世界が丸ごと斜めっていた。
 
 
 


 
 
 
──地震?
 真っ先に過ったそれは真っ当な考えであるように思えた。しかし、少年の知識はすぐにそれを否定した。ここにはプレートどころか、踏み締めるべきまともな大地すらないのだ。

 凄まじい揺れがその場にいる全員を襲った。断続的に、強く、激しく、まるで新たな命が脈動するように。少年は思索する余裕もなく、手を地面につけ四つん這いで逃げようとした。しかし体験したことのない恐怖が周囲の混乱と混ざり合い、鎌首を持ち上げた絶望に見つめられて、少年はぴたりと動けなくなった。頭が真っ白で、意味もなく嗚咽が漏れた。喉が渇いていた。打ち上げられた魚のように、パクパクと口が酸素を求めた。

 津波のようになった人の群れが怒涛の如く押し寄せ、ショッピングモール内は地獄の様相を呈した。今や新堺せかい全体が揺れており、誰もが確かな情報と安全な居場所を求めていた。しかしそれを提供できる者は一人もいなかった。いかなる企業も、行政も、機関も、この災害の原因を知らなかった。

 少年の頭の中で現実と空想とがマリアージュし、夢遊病者、あるいは薬物中毒者のように全てを重ね合わせた。眼前を過ぎ去る足の群れは、少年にとって映画の中の帝国兵を思わせた。一糸乱れぬ隊列を崩せば、幹部が彼らに罰を与えるのだ。主人公はその惨たらしい光景に歯軋りしていた。映画のラストシーン。邪悪な帝国から解放され、各々自由にスキップするキャラクターの足並みはてんでバラバラだった。しかし主人公はそれを見て微笑み、「まったく違う歩き方をする人々が、同じ目標に向かって進むのが平和だ」と独りごちるのだ。それなら誰もが我先にと走り、出口に向かって追い縋るこの光景は平和なのかと少年は考えた。答えが出るより先に、誰かのスニーカーが少年の頬を蹴り飛ばした。一撃は靴を履いた誰かの意思ではなかったが、少年を蹴ったことを認めつつもそのまま走り去ったのは、確かにその誰かの意思だった。口いっぱいに嫌な味が広がり、少年はそれが血だと気づくのに数秒を要した。

 やはり映画を見ているのだと少年は思った。こんなの現実じゃない。ただ静かに生きている人間に降りかかっていい不幸ではない。少年は柔い癖毛に爪を立て、何とか頭の外殻電脳器ヘッドギアを外そうとした。少年にとっての現実は、映画館でケーブルに繋がれ脳にビジョンを流し込まれる自分だった。全ては悪い夢で、またフロストとの他愛もない日常が続くはずだった。

 フロスト。少年はそこで初めて、彼に貰った小さな端末の存在を思い出した。それは紐で繋がれ、首にかかって胸の辺りで揺れていた。少年はそのボタンを押すことで、全ての悪夢が覚めるものだと信じた。
 
 
 
「──ラン! ランはいますか!」
 
 
 
 不意に、強い喚起の声が耳朶を打った。乱、欄、覧、卵、RUN。──。頭の中で、必死になって叫ぶ声と自分の名前が結びつく。少年は、人混みを掻き分けて、流れに逆らうように映画館へ走ってきた男を眺めた。針金のような長躯、卵に似た頭、白い肌を覆い隠す漆黒の外套。紛れもなくそれはフロストであり、少年の師匠だった。カチリ、と視線が交錯した瞬間、確かに少年は時が止まるのを感じた。しかしフロストは人間離れしたスピードで、止まった時流の中を駆けてきた。少年が何か言うより先に、その細い腕は少年を抱き抱え、長い足は重力を無視するように風となった。ほとんど地面に足がつかないような、見たことのない走法でフロストは地を駆った。少年の目に周囲の人間は、ぎこちなく動く人形のように映った。

「待たせてすいません。もう二度と、約束は破りませんから」

 フロストは少年に微笑みかけた。余裕のない、かろうじて笑顔だと判別できる口の動きだった。いかにも可笑おかしげに、ただでさえ細い目をさらに細めるいつもの彼はどこにもいなかった。そのことは少年を不安にさせたが、内心の焦りを必死に抑え込むフロストの姿に、少年も口を噤んだ。何より、このスピードで喋っては、舌を噛みちぎりかねなかった。少年は気づいていなかったが、少女が立ち去ってから5分も経っていなかった。
 
 
 


 
 
 
 あらゆる娯楽を凝縮した巨大ショッピングモールの駐車場はやはり並外れた大きさであり、旧来の動力車輌ランドカー、宙を駆る空力車輌エアカー合わせて20000台の車輌を収容することができた。角ばった螺旋構造には市政府の定めた投影標識ホロサインが立ち並び、都市のあちこちに伸びる高架射出橋カタパルトは点滅する矢印でお客様を安全に送り出す。圧倒的情報量で見るものを押し潰す内部のショッピングエリアとは正反対に、四隅に設置されたパーキングエリアは厳正な秩序のもと運用されていた。

 ほんの、数分前までは。

 そこには混沌カオスがあった。かつての渋谷スクランブル交差点を更に酷くしたような有り様で、人間と機械と車との区別はもはやないように思えた。蠢く人混みが極限まで引き伸ばされた時間の中で陽炎のように揺らめき、ここではフロストと自分だけが正気で、他は全て狂気の渦の中にあるのだと少年は思った。芋洗い状態と言うのだったか。少年は辞書を引いて見つけた興味深い言葉を思い出した。しかしそれを言うなら、今の惨状はクラムチャウダーを洗濯機にかけたようなものだと少年は思った。それはまさに狂気の渦だった。

 D-23。フロストは自分達の車が置かれた場所を見つけると、そこに勢いよく駆け出した。半ば宙を跳んでいるような凄まじいスピード。少年の両腕が自分の首に絡みつき、まだその五体が引き千切れていないことに心の底から感謝する。せっかく買った商品のほとんどは、少年を探す過程で捨て置いていた。今の彼に少年の笑顔より優先すべきものはない。自分の命さえ、この渦中に捨ててもいいと本気で考えていた。

 D-23の奥側に、フロストの借りたトキワ/AIR-ONEが停まっていた。トキワ自動車の開発した空力車輌エアカーは飾り気のない宝石箱を思わせるフォルムで、ほとんど宙を滑る部屋そのものに等しかった。日本車らしく燃費がよく、市場でも人気の一台だ。

「あなたは助手席に。荷物は後ろに積みましょう」

 しかし、純黒の扉は静かに二人を拒んだ。干渉ハックされている──フロストは瞬時にそう判断した。駐車場の車はほとんどが出払ったか、先ほどの揺れで破損していた。つまり、間違えるはずはない。

「その車を譲ってくれ」

 振り向くと、白のスリーピースに身を包んだ大柄な男が立っていた。胸には薬師寺製薬Yakushi──この街で幅を効かせる大企業の一角──を示す社章が燦然と輝いている。男は切羽詰まった態度で言葉を重ねた。

「私は薬師寺製薬の社員だ。少なくない人間を救ってきた自負がある。──わかるか? こんなところで死ぬわけにはいかないんだよ」

「しかし……」

「そこの少年」

 不意に、男が少年を指差した。少年はどうなるのかとハラハラしながら、フロストの腕に身を寄せた。

「その少年を安全な場所に連れていく、というのはどうかね? その後の生活も、私が保証しよう」

 男は言外に、フロストおまえのような奴を連れて行けるか。と言っていた。これは交渉であり、互いにとっての賭けだった。

「わかりました」

 フロストは意外にも素直に従った。少年は彼の思索を探ろうとしたが、その瞳からは仄暗さ以外は何も感じ取れない。

 男は胸を撫で下ろし、先端が複雑に凹凸おうとつを変化させている、黒い棒状のものを取り出した。

「マスターキーだ。私も一本持っているので遠慮なく受け取りたまえ」

 フロストはマスターキーを懐に収めると、少年の肩を持ち、前に押し出した。少年は不安げな瞳でフロストを見上げたが、彼はなにも言わなかった。白スーツの男は何かを察したように頷くと、自らのマスターキーでAIR-ONEの扉を開き、助手席に少年を押し込む。男の右手が微かに発光し、その指先に幾何学的な紋様が流れた。電子的な干渉。おそらく彼の人工電網皮サイバネティクススキンが車を操作しているのだろう。

「揺れだけじゃない。塔から汚泥が漏れだし、街を腐らせている。君も私の車のようにドロドロになりたくなかったら、早く足を見つけることだ」

「ご忠告痛み入ります」

 男は助手席の扉を閉じると、反対側に回り運転席に乗ろうとした。だが男が扉を開くことは叶わなかった。フロストの細長い手が男の頭を鷲掴みにし、サイドガラスに勢いよく叩きつけたからだ。中にいる少年は、男の鼻の骨が砕ける鈍い音と、驚愕と恐怖から来るくぐもった叫びを聞いた。フロストが手袋を脱いでいるのを少年は初めて見た。手足と同じように細長く骨ばった指には、青白い血管が不気味に浮き出ていた。AIR-ONEが単調な機械音声で、車外の急激な温度低下を告げた。何か訳の分からないことを喚く男の頭は、指が食い込んでいるところから徐々に凍結していた。眼球と口内の水分が凍りつき、男の頭部が無口な氷像と化すのに10秒もかからなかった。

──凍り漬けの脳みそフロスト・ヘッド

 いつかフロストがそう揶揄されていたことを少年は思い出した。それは初めて知る記憶であり、恐らくは一種のフラッシュバックだった。師を称する言葉は鮮やかに脳裏を駆けたが、いつどこで、誰が彼をそう呼んだのかは思い出せなかった。わかるのは、目の前の出来事が彼の異名を強く裏付けるものだという事実だけだった。

 フロストは明らかに力を込め始め、その1秒後に男の頭はスイカのように弾けた。シャーベット状の冷たい脳漿が飛び散り、彼は手についた頭蓋骨の欠片と男の血液を素早く拭って、ハンカチを捨てた。イチゴのかき氷を内部から爆発させたような光景だった。フロストは手袋をきつく嵌め、何事もなかったかのように運転席に座った。そして勢いよくアクセルを踏み込み、虚空のそらに向かって車を走らせた。彼の視線の先には、崩れかけた高架射出構カタパルトがあった。それは跳躍路が道のりを省略スキップするのに対し、車輌を文字通り跳躍ジャンプさせるためのものだった。》》》》加速信号に導かれ、AIR-ONEは地面に別れを告げた。

 凄まじい轟音と共に世界がひっくり返ったのは、それと同時のことだった。天地が反転し、どす黒い汚泥に溶かされたショッピングモールがボロボロと奈落の底に落ちていった。車輌は急加速と共に強い重圧Gに襲われたが、それを打ち消したのも、やはり車輌の空力機構だった。ぐんぐんと高度を上げていくAIR-ONEは明らかに電影標識ホロサインを無視していたが、今やそれを咎める人間は全て地の底に沈んでいた。フロストはひたすら運転に集中していて、上から落下してくる瓦礫や人間を避けるのに必死だった。キラキラとネオンを纏った摩天楼が落下していく様子は、流星群を思わせる荘厳なものだった。しかし、少年のあらゆる感情は疲労の波に押し流され、どこかに消え去っていた。狂ったように汚泥を吐き続ける第二太陽の塔が、ふとこちらを見た気がした。

──あそこには神さまがいる。エビスさま。鯛を抱えた商業あきないの神さま。
──輝ける黒い太陽土着神霊ゲニウス・ロキ

 今や神は狂っていた。暗黒色の汚濁は全てを等しく飲み込んだ。不眠と謳われた企業連メガロのビル群も、憧れだった商業特区も、煌びやかな中央街区も、ただひたすらに黒い泥土に覆われて、沈み行く運命にあった。そして当然、そこに住む人々の命も、黄泉比良坂から伸びる冥衆の手に絡めとられていった。

 ふつふつと沸き立つ汚泥を、少年の目はかつての、ささやかな思い出と重ねた。

──コーヒー。

 汚泥は黒いカフェイン飲料を、更にきつく煮詰めたような色をしていた。

 虚空に鯨の咆哮が響く。大気を震わせるそれはやがてその声音を変えていき、赤子の産声になった。逆さ吊りウランバーナの地獄の空に、いつまでも、いつまでも、赤子の絶叫が鳴り響いた。それは悪徳による繁栄と前進を旨とする、新たな街に対する祈りと呪いの声だった。
 
 
 


 
 
 
 少年は夢を見ていた。眩い光が視界を覆い尽くしていた。世界には希望が満ち、全てが己を言祝いでくれるのに、なぜだか少年は涙が止まらなかった。力の限り叫んで、何かを吐き出そうとしていた。それは記憶であり、かつての古い魂かも知れなかった。彼は産声をあげて、清潔な白が支配する部屋で誕生した。

 分娩室には医師たちの他に、三人の人物がいた。真っ白い髪を丁寧に切り揃えているのはおそらく母親で、黒髪を若々しくハネさせているのは父親だった。金髪の少女が誰なのかは、少年にはわからなかった。両親は笑っており、少女は無表情だった。医師たちの顔は光にぼやけてよく見えなかった。

 突然扉が開き、何かが転がり込んできた。それは異様に背が高いスキンヘッドの男だった。場が一瞬にして恐怖に張り詰めた。男はまず医師たちに手を伸ばすと、その頭を片手で砕いた。笑ってしまうほど軽快な音と共に、医師の頭が弾けた。床にばら撒かれたのは血と脳漿ではなく、薄茶色に染まったポップコーンだった。

 男は床をポップコーンで埋め尽くし、両親の頭をクラッカーか何かのように弾けさせた。少女は相変わらず無表情に、少年の瞳を覗き込んでいた。スキンヘッドの男は部屋の照明を破壊し、静寂と暗黒が世界を塗り潰した。だが少年の目は少女の口が粘土細工のようにぐにゃぐにゃと動き、言葉を発するのを確かに見た。

「「「彼の優しさが平等だとは限らない」」」

 少女は三人分の声を一斉に発した。少女のものではない二人分の声は、先ほどまで少年が両親だと思い込んでいた映画のキャラクターのものだった。不意に光が戻り、少年は目に突然刃を差し込まれたかのような痛みを感じた。目が眩み、ゆっくりと慣れていく視界の中で少年は、自身の五感が少女のものとそっくり入れ替わっていることに気がついた。目の前に自分がいるのは奇妙な体験だった。そして更に奇妙だったのは、自身が赤子の姿になっており、その体に覆い被さるようにして不気味な外殻電脳器ヘッドギアが装着されていることだった。複眼に似た偏光レンズは、ちょうどフロストの目を思わせる紫色になっている。それは梅雨の紫陽花を少年に見せることもあれば、秋口の桔梗を連想させることもあった。しかし、彼の細めた双眸の先にいつも広がっていたのは、鮮やかな初夏のラベンダー畑だった。薫衣草とも呼ばれるそのお淑やかな紫が、最も彼らしいと少年は考えていた。

 少年は少女の体を借りたまま、少しずつ今日の出来事を思い出した。初めて乗る空力車輌エアカー。月並みなストーリーのアニメーション。人形のような少女。地獄と化すショッピングモール。
──フロストによる惨たらしい殺人。迫り来る暗黒色の汚泥。天地反転。鯨と産声。

 AIR-ONEを最高速で飛ばして辿り着いた自宅で、少年は事切れるように眠った。車輌の助手席は少年の漏らした尿で濡れており、ズボンにも大きなシミができていたが、着替える余裕はなかった。しかし眠り落ちる前の僅かな微睡みの中で、フロストがベッドに倒れ込んだ自分の服を脱がせてくれたのは理解できた。

──波の音で少年は目を覚ました。

 鼓膜にあの鯨の咆哮と、赤子の産声がこびりついていた。ベッドも服も汗でぐっしょりと濡れていたが、少なくとも夜の間に着替えは済んでいるようだった。少年はふらふらと立ち上がり、狭い寝室を出て廊下にやって来た。リビングは暗く、光が漏れ出ていたのは浴室だった。風呂とトイレが質素な壁一枚で仕切られたそこから、波を思わせる水の音が聞こえてきた。音はやがてパチパチと雨音に似たものに変化し、少年はフロストがシャワーを浴びているのだと思った。ただ一言、感謝を伝えたかった。沸き立つ疑念や不安よりも、まずはそれを言いたかった。

 少年はそっと歩き、浴室を覗き込んだ。扉はなく、簡素で清潔な布が仕切りとしてひらひらと揺れていた。御簾を思わせる布一枚を隔てて、一糸纏わぬフロストが踞っているのが見えた。やはり体を洗っているのだ。少年は思った。長身のフロストは、体を折り曲げなければ満足にシャワーも浴びることもできないのだろう。少年のいるこちら側、すなわち体を拭き取る洗面所には、夜を剥ぎ取ったようなあの外套が綺麗に折りたたまれて置かれていた。下着やシャツも用意されており、それら全てがフロストの体にぴったりと合うよう設計された特注品だった。彼がそれ以外の服を着ているところを、少年は見たことがなかった。一対の黒い手袋は、まるで猟奇殺人鬼が切り取った手首を並べるように、標本めいてそこに置かれていた。彼の長い腕を肘まで覆うそれは、少年のブーツに加工できそうな大きさだった。

「フロスト」

 少年は彼の名を呼び、御簾をさっと払い除けた。最初に視界に飛び込んできたのは、フロストの背に紋様めいて刻まれた蒼銀のタトゥーだった。最も目を引くのはモチーフの中心となっている一対の心臓で、向かい合ったそれは線対象に、まるで切り取った脳の断面図のように見えた。二つの心臓が一つの大脳を構成している奇妙な図柄は、怪しく光る冷光インクを用いた線と相まって、氷漬けの脳みそフロスト・ヘッドの名を冠する彼にこそ相応しかった。そしてその心臓脳に抱きつくように、やはり冷光インクで彫り込まれた細長い腕が、ぐるりと腹回りを一周していた。雪山で互いの体温を高め合う遭難者にも、今まさに心臓を握り潰し脳を犯そうとする悪魔の手にも見えた。

 タトゥーは背中全体に彫り込まれており、隙間はやや薄いインクで、聖言とも譫言ともとれる複雑怪奇な文字で埋め尽くされていた。それは精霊の呪文であり、最も古い奇跡である自然の災禍を操るためのものだった。フロストはその身の内に、冬の冷たい嵐を宿していた。

 少年はただ一言、素直な気持ちを伝えようとした。駐車場での事件は少年のフロスト像をそれこそ氷のように打ち砕いた。しかし、幼いながらに彼は、全てのものがもう一度積み上げるチャンスに恵まれていることを知っていた。少なくとも、そう信じて生きていた。二人の間には信頼があり、言葉を交わせばいかなる傷も埋めることができると少年は思っていた。少年は御簾を引いた勢いそのままに、「ありがとう」とフロストに言おうとした。説明は互いに落ち着いてからで十分だと考えていた。

 しかし少年の喉と舌が「a」の音を形作るより先に、フロストは動いた。瞬きすら許されないような速度で、浴室に満ちた全ての水が凍りついた。浅く張られた湯船は底まで白く濁り、冷たい驟雨を彼に浴びせていたシャワーはその動きを停止した。金属製のシャワーヘッドには薄く霜すら張っていた。

 フロストは異能ちからを行使するのと同時に振り返った。そして自分が何をしてしまったのかを瞬時に悟った。視線の先には驚愕し動けなくなった少年がいて、彼の体は怯えて震えていた。カチカチと鳴る奥歯の音が、寒さと恐怖、そのどちらに起因するのかフロストにはわからなかった。

「これは……」

 フロストは言葉を欲した。この状況を、冷え切った浴室を優しく溶かしてくれるような温かい言葉を。しかし彼の体は獲物を凍てつかせるためにあり、フロスト・ヘッドという人間かいぶつはどこまでも冷血だった。喉元に迫り上がっては戻っていく言い訳の束を、フロストは心底恨めしく思った。やはり自分は子供を育てることなどできない。自ら怯えさせてしまった少年を見て、フロストは半ば諦観の境地で考えた。しかし当の少年の口から飛び出た言葉は、フロストの想像を軽々と超えてきた。

「──泣いてるの?」

 少年は恐る恐る踏み出し、薄氷を進むようにフロストへ歩み寄った。そして膝を折った彼の頬に、そっと掌を添えた。フロストの両目は赤く腫れており、それは彼がずっと泣いていたことを示していた。フロストはゆっくりと自身の頬に指を這わせ、とめどなく流れる涙を初めて知覚した。彼自身も気づかない内に、シャワーは滂沱を紛らわしていた。今度こそ、彼の細い喉から喘ぐような嗚咽が漏れた。少年は足の裏が冷気で痛むのも気にせずに、フロストのつるりとした頭を抱き抱えた。その機能をようやく取り戻したシャワーヘッドが、二人の体に冷たい雨を降らせた。雨は次第に強くなり、フロストと少年は浴室で互いが混ざり合うような錯覚を覚えた。
 
 
 


 
 
 

着火・真っ赤・ハッカー

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最終更新: 29 Apr 2026 05:33
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  1. portal:6286008 (07 Apr 2020 06:11)
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