ごっこ遊び

 目の前の女性が「待った?」と小首を傾げるので、僕は腕時計に目をやった。先程まできちんと真上を指していた長針はすこし傾き、二の文字にたどり着こうとしている。
「七分……や、八分くらいですかね。待ってました」
 僕の言葉を聞いて、彼女の唇はふっと失笑をこぼした。
「ばか正直に待ったなんて言うもんじゃない。こういうときは『今来たところです』と返すもんさ」
「……今来たところです」
「よろしい。本当に、覚えが悪いな君は」
 そもそもどうして、僕にそんな嘘をつかせたがるのだろう。何度頭を捻っても皆目検討は付かなかったが、さも満足そうに笑う彼女を見ていると、ま、いいか、と思考を放棄せざるを得なくなる。先程までのよそよそしい笑顔より、こっちの方がずっといい。願わくば、これ以上彼女のご機嫌を損ねることのないように。
「じゃあ、行こうか」
 彼女の指先が僕の手に触れる。
 僕の掌が彼女のそれを握り返す。
 ごっこ遊びの一日が、また始まる。

 いつから僕の貴重な休日が彼女に支配され始めたか、僕は覚えていない。日常にすっかり浸透してしまったルーティーンは食事や睡眠、排泄等の行為と変わらず、初めて食事をとった日のことを誰もが思い出せないのと同じように、僕にはその始点に思いを馳せる必要がなかった。(こればかりは僕の頭が記憶処理剤でイカれきっている事実とは無関係なのだと弁明しておく。)
 確かなことは、週に一度の“デート”は彼女から企画されたものであること、本来これは恋人同士が行うべきものであること、部外者の不躾な勘繰りは曖昧な笑みで躱すのが最も効果的であること、一人きりで過ごすたまの休日はひどく退屈であること、それくらいだ。

 慣れない思考に黙り込んだ僕の手から、彼女の手が滑り落ちそうになる。慌てて指を組み直せば、警告音を発し続ける踏切に注がれていた彼女の視線が、僕の元へと帰ってきた。
「そっち、行きたいですか」
「ああ」
「まだ、ですよ。今日はまだ終わってない」
「……うん」
 俯く彼女をよそに、急行列車はごうごうと通り過ぎていく。どこかの誰かをすてきな場所へと誘いながら──彼女の命を連れて行くことを拒否するようにして。

 この関係の始まりを、僕は覚えていない。彼女から目的を告げられたこともない。僕から詮索したことも、勿論ない。それでも、僕は気づいてしまった。普段から察しが悪いと叱られてばかりの僕だけれど、不思議なこともあるものだ。いや、こう何度もそれ目的で連れ出されていれば、誰でも気づけるものなのだろうか?ともかく、僕を連れ回し揶揄っているだけに見える彼女の真意を僕は知っていた。要は、彼女は死にたいのだ。そして同時に、彼女は自身が死にたい思いを抱えている事実を、心の底から恐れている。退屈は人を残酷にさせる。僕はつまり、彼女の暇を潰し尽くし現世に繋ぎ止めるために使われる、ちょっとした玩具の一種なのだ。

 僕たちはデートを楽しんだ。通りかかった雑貨屋でピアスを買った。ベンチの代わりにブランコに腰掛けた。たっぷりのクリームに蓋をされたココアとシンプルなカフェオレを一口飲んで交換した。ビルの隙間を縫って届く夕陽の赤に目を細めた。彼女の右耳のピアスが煌めいた。僕の左耳にもきっと同じ光が宿っていた。肌寒さを身を寄せ合って凌いだ。星空に目が慣れるまで、手を繋いだままでいた。
「それで、次はどこにしようか」
 彼女が口にした言葉に、僕は深く安堵する。僕らのデートには“次”がある。今日一日の僕の振る舞いは、彼女を延命させるに足る出来栄えだったようだ。
「映画を見ませんか」
「何を見る?」
「それがまだ決めきれてないんです。大きなスクリーンの前に腰掛けるのって、とてもわくわくするでしょう」
「次までに決めておいで。なに、猶予は一週間もある」
「そうします」
「映画なら██駅かな」
「それなら、あの時計塔の前で」
「もう迷うんじゃないぞ」
「分かってますよ。今度は待たせたりしませんから」
 二人の指が、名残惜しげに解かれていく。
 
 
 
 そうして、あれから一週間。
 時計塔の前に一人の女性が佇んでいた。
 腕時計に目をやるたび、右耳のピアスがちらりと揺れる。
 長針はここに来てからもうすぐ五周目に差し掛かろうというところに来ていた。
 俯き顔に、すうっと夕陽が差し込んでくる。
 彼女は、そこから去っていった。
 
 
 
 ずいぶん長い間眠っていたように思う。何せ自分がいつから眠っていたのか、思い出せないでいるのだから。ベッドの傍らの研究員は、僕に僕自身の名を言うように促した。沈黙は研究員が正解を口にするまで続いた。重症だな、これは。あるはずのない“経験”が、僕にそう囁いた。
 見覚えのない自室に帰ってすぐ、僕はベッドに倒れ込もうとした。どれだけ寝ても頭が重いのだ、記憶処理剤とかいうもののせいで。そうして僕は、過去の自分のがさつさを呪った。ただでさえ狭いベッドが、映画雑誌や文庫本で埋め尽くされているのだ。僕は横になれるスペースを確保するべく、紙束をひとつひとつ選り分けていく。文庫本の山を築きながら、当分眠れそうにないことを悟った。本の一冊一冊はみな、今日が返却期限の貸本であったのだ。

 ただでさえ重い体は、大量の文庫本によっておもりのようになっていた。壁に体を預けながら進む廊下はひどく長い。その上僕はこの建物の構造すらも記憶にないので、道を間違えたことに気づくまでにも時間を要した。「図書館 天ノ川」の文字を仰ぎ見たとき、ため息が無意識に這いずり出た。
 カウンターに文庫本を積み上げていく僕を見つけ、司書と思しき人物が「ご返却ですね」と声をかけてきた。本の一冊一冊をを確認していく辿々しい手つきを、僕がぼんやり眺めていたのに気づいたのか、司書は少し恥ずかしそうに口を開いた。
「どうも、まだ慣れていないもので」
 こういうとき、どう言葉を返すのが正解なんだろうか。経験値のない僕には分かり得ないことだった。いや、もともと僕にはこういうときに気の利く言葉をとっさに返すことなど出来なかったのかも知れないが。
「前の司書さんがね、急に……いなくなってしまいまして。私は代理なんですよ。それも新しい司書さんが来るまでの繋ぎとしてのね」
 黙り込む僕を気にも止めずに、その人は話し続ける。
「また何か借りて行かれますか?」
「いえ、当分は」
 ようやく絞り出した言葉はひどく掠れていたけれど、問いかけへの返事としては十分のクオリティだったようだ。司書(代理)は笑って頭を下げた。

 大仕事を終えて部屋へ帰る。二度目の帰還ともなれば、自室もずいぶん見慣れるものだ。念願のベッドに身を預け、思ったよりもぎこちないスプリングの感触に、僕は顔を顰めた。
 記憶処理のせいもあって、今日からしばらくの間は休暇だ。そのうちに目を通すようにと大量の資料を投げ渡されたので到底気は休まらなかったが、どうせほかに予定もないのだ。不満を訴える気すら起こらない。暇つぶしに本でも借りればよかったろうか?いまさらの思いつきに、僕は「あの人からは借りる気になれない」などと心の中で言い訳した。

 退屈な休日になるだろうな。そんな予感を抱きながら、僕は目を瞑った。
 

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