金烏の鳴かぬ豊葦原 前編
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 自分の靴音を聞きながら、一人きりの廊下を歩いている時。ふと目を逸らして、暗い沈黙を湛えた空間を覗きこむ時。思考と視界が重なるのを自覚したその瞬間、それは自分の意識のやわらかい部分を掬っていく。 

 自分にとっての絶望とはいつだって、薄暗い廊下にある、存在しない扉の形をしていた。

 幼稚な背信を後悔と名付けて、憧憬を踏みつけて歩いてきた成長の旅路に置いてきたとき、じくりと存在を訴えた「もう取り返しがつかない」という痛みが、今でも記憶の中から消え去らない。
 小さいころに作った微かなひっかき傷は、今もなお、脳の裏側で血を滲ませている。 
 
 


 

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    「夢の話をしよう。楽園の話を。自分の正しさで思い描いた、世界の理想の秩序の話を」


     
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     濃紅の目とパチリと視線が噛み合った瞬間、冷たいものが背中を滑り落ちた。

     嫌な予感がする、と。この感情には別に理論も理屈もなく、強いて論拠とするならば人生経験と言うようなものだった。柄にもなく自分の直感に頼りながら、ぼくは言うことを聞かない足を前に動かす。マンション内のエレベーターまではあと数メートル。
     階段へ繋がる穴のほうがいくばか近いのだけど、十四階にある自宅まで階段を登るには、いくらぼくが現役の財団エージェントであっても正直きつい。さらに言えば背を向けたマンションの出入り口は階段より近いが、わざわざ踵を返して寒風吹きすさぶ冬の街の中に飛び込む気にはならない。

     ──あの人間は見なかったことにしよう。結論を出したのは多分一秒にも満たなかった。上矢印を示す薄いボタンが沈むのを確認したところで、とん、と肩に指先が触れる感触。
     

    谷崎たにざき翔一しょういちだな?」
    「……」
    「沈黙は肯定と見なすぞ」
    「……そう捉えていただいて結構です、お嬢さん。ぼくに何かご用ですか?」
    「詳しい話は上でする。お前の部屋に行け」
    「……」
     

     自分でも驚くほどあっさりと頷いてしまったのは、妙な目をしたこの少女が、ここずっと持て余していた退屈を少しでも紛らわせてくれると期待したからだろうか。

     それ一つが星のような引力を持つ、濃紅の双眸。金属の混じる足音。意識的に整えた呼吸。ところどころ不自然に膨らんだ、黒のロングコート。──ろくでもない人間だろうな。自分でも幅の少ない自覚がある対人関係のフォルダの一つ「戦闘民族」に見知らぬ少女を振り分けつつ、ぼくは言われるがままに自宅へ向かう歩を進めた。
     
     

     金烏の鳴かぬ豊葦原 前

     


     
     
     ぼくは知っている。あらゆる色の絵の具を混ぜた時、そこにあるのは黒なんかじゃないことを。確かに黒っぽく濁っているけれど、どんな色相にも区分できない、なんとも形容できない──ただの汚い色が出来上がることを。
     

     手に持っているあらゆる表情の中から取るべき面持ちを選びあぐねたような顔で、なぎくんはソファーに座る客人を見た。
     多分、ぼくが今まで見てきた中で三番目くらいに間抜けな無表情だったと思う。人間というのは、何もかもを与えられると何もできなくなる。彼がこの一瞬で一気に混ぜ込んだ色がいったいどれだけあって、その一つひとつがどんなものであったのかぼくは知らないけれど、強張った肩を見るにおおよそろくなものじゃないなと見当はつけられた。

     ちょっと様子のおかしい薙くんのことは何度か見てきたけれど、普段の彼に関わった人間ならこんな薙くんはあんまり想像しないし、そもそもできないだろう──重ねた時を数えたら千を超えるような折り紙付きの名家の嫡男で、恵まれた体躯と寡黙な性格、優秀な戦闘力で人から頼られ同時に恐れられるエージェント・応神いらがみが、まさかこんな人間らしい顔するなんて。

    「久々だな、薙坊」

     黒陶こくとう由倉ゆくらと名乗った客人は、さっきまでぼくに散々饒舌に話しかけていた時よりやや平坦な声音で、薙くんにそう声をかけた。手には、出した時から半分ほど減ったチーズケーキのフォークが握られ、目の前には減りの遅い淹れたてのアールグレイが置かれている。彼女が動くたびに丈なす濡羽色の髪がさらりと揺れて、その奥の白い肌と紅い目がちらちらと視界に映った。
     ──容姿は少女なんだけど、長く存在するもの特有の、匂い立つ蜜のような艶がある。……ぼくは触らないけどね。甘い蜜に見えるものはどうせ全部毒だし。幼女は趣味じゃないし。
     

    「……誰に何言われて、何しに来たんですか」
    「仕事」
     

     やっとのこと、自分がやるべきものを見出したような口調の薙くんに対し、由倉さんの口調はどこまでも淡々としていた。──どちらかというと、わざと感情を乗せないようにしている風に見えた。

     正直この空気はかなり気まずい。薙くんと由倉さんの間に何があったかは知らないけど、正直、かなり、気まずい。部外者のぼくとしては。由倉さんと会った時一瞬だけ、これは面白そうなものが見られそうだとか思った自分を殴りたい。──薙くんがちょっとおかしくなるのを本人から暴かせてもらえるのは悪い気がしないけど、ちょっとおかしくなってしまうのはぼくにとって本意じゃない。自分の道具には常に最高最適のコンディションで働いてほしいというのがぼくの願望である。……いや、薙くんは人間であって、厳密には道具じゃないけど。
     

    「翔一、どんな経緯でコレを家に上げたんだ」
    「狂ったウサギの顔とハシバミ色の目を持った、パーカーのフードにウサ耳がついてる男を探してたらしくてね。マンションの待合で張り込みされて脅されてこんなことになってる」
    「何がなんだかまったくわからんが、わかるべきことはわかった。お前のことをそんな風に評するってことは、アイランズさんからの指示だな。──アンタ、なんでわざわざ関東まで来てアイランズさんのお使いしてるんですか」
    「お前が言うアイランズさんって、ジョシュア君のことか?調停官の?……別に私は東京観光のついでに奴からのお使いを頼まれたわけじゃないぞ」
     

     ぼくの脳裏に、ぼくのことを「狂ったウサギの顔をした男」と評するアイランズの姿が浮かぶ。──そういや、ぼくの印象を最初にそう言い出したのって彼だっけ。外交官という、普段から言葉を自在に操る職業に就いているだけあって、彼のアクティブ語彙はぼくとしてもなかなか興味深いものがあった。
     

    「言っただろ?仕事だって。薙坊と──谷崎翔一とか言ったかお前、あとジョシュア君。それと私で仕事」
    「しごと」
    「一緒にな」
    「いっしょに」

     おうむ返しに言葉を呟く薙くんの声が、ぼくの聴覚と意識を現実に縫いとめている。
     首をもたげた二律背反が思考をぐらりと揺らした。あー、行きたいけど行きたくない。行きたい気持ちも行きたくない気持ちも同じくらい存在していて、それぞれに論拠を握ってぼくに選択を迫ってくる。

    「四泊五日の出張だぞ。場所は山梨。楽しみだな」
    「アンタがいなければ最高でしたね」
    「ひどいなあ。私はこの任務を中心で動かせとお上から言われてるのに」

     薙くんが夏場でも纏っている黒のロングコートが彼の手によって丁寧に畳まれ、ひとまずカウチの足元に居場所を与えられた。黒く塗りつぶされたサングラスに隔たれた目が由倉さんを睨む。──どんな状況でも感情でも、教えられた礼節はきっちり守る姿勢、嫌いじゃないよ。育ちのよさってこういうところに出るんだろうなあとぼんやり考えながら、目の前の二人の成り行きを見守る。ああ、薙くんにもケーキとお茶出さなきゃ。アールグレイは多分冷めてしまっただろうけど。おいしいと言って食べてくれたメニューと、作ったことに感謝してくれた態度は案外ずっと覚えているものだ。

    「暇持て余してたんだろ?山梨の自然に囲まれてうまいもの食って適度に運動する。いい気晴らしになるだろ」
     

     薙くんはともかく、確かにぼくがここずっと時間を持て余していたのは確かだった。手の中の暇を転がしながら、気が狂いそうなほどの倦怠感を何度も飲み下した。人は常に能動的に動くようにプログラムされた生き物なんだなあと思いながら、手の中の万年筆を弄びながらクロスワードパズルやら数独やらに向き合う日々をこれ以上続けていたら、本当に息ができなくなりそうだと思っていたから、正直願ったりかなったりの提案である。

     普段とはまったく別の意味で言葉を発さない薙くんに、ぼくは努めて普段どおりの態度でドライフルーツ入りのチーズケーキを出した。冷めた紅茶は出したくなかったけど、ぼくが淹れたのが飲みたいと言われたら渡さないわけにもいかない。ぼくも自分の分のケーキを切り取りながら、限りなく黒に近い色の無表情で黙り込む薙くんの濡羽色の双眸を盗み見た。
     

    「わかってるとはおもうが、拒否権はないぞ」
    「……わかってますよ。絶対断らせないために、わざわざアンタを寄越したんだろ。俺が嫌がることも知ってて、わざわざ翔一の方に声かけて」
    「いや、後者は想定外だな。私はてっきり、薙坊が昔みたいに『ユクラねーちゃん』って呼

     ドン!と音が聞こえて、ぼくは思わず首をすくめた。由倉さんが言いたかった言葉は正直最後まで聞きたかったが、とてもじゃないけどぼくが軽口叩ける空気じゃない。お二人の間に何があったのか、ぼくにもわかりやすく教えてくれますか?──絶対言わないし、言えないな。あいにくながら、好奇心に負けて好奇心に殺されるほどぼくは子供じゃない。
     

    「ジョシュア君から書類を預かってる。ケーキを食べ終わったら共有しよう。私達に回ってくるくらいには面倒だが、投げ出したくなるような難易度じゃない」
    「翔一、すまねえが新しく紅茶を淹れ直してくれ。頼んどいてなんだが、やっぱりお前のは淹れたてが一番うまい」
     

     空のカップを手に居間を抜けて、ダイニングと地続きのキッチンへ立つ。この任務終わったら新しい茶葉を買いに行きたいな。薙くんと、──きっとアイランズも一緒なら楽しいだろう。茶葉が有名なのは山梨じゃなくて静岡か。向こうでおいしい茶菓子でも見繕って、帰ってきたらみんなで労いのアフタヌーンティーとか。

     自分がやっていることが現実逃避まがいのことだと知りながら、ぼくはやかんの湯をポットに注いだ。
     ぼくに限ってそんなことはないにしろ、まだ薙くんとは今まで通りの関係を続けていきたいし、何かのきっかけで関係性と態度を変えるようなことがなければいいな。家がどうとか財団がどうとかあんまり関係ないところで、ぼくは薙くんとの同居を決めたし、これからもそれが揺らぐことはないんだけどな……。
     
     
     

     
     確保対象は蒐集院由来のPoI、妖術者だと聞いたからてっきり薙くんの家に資料があるかと思ったけど、当てが外れた。
     

     応神薙。
     元は蒐集院に名を連ねていた名門、応神家の嫡男。そしてぼくと同じ、財団に務めるエージェント。
     二丁を持つ拳銃の射撃精度は常に上位一パーセントの成績を叩き出し、二刀を使う剣術をはじめとしたあらゆる戦術をおさめ、あげくの果てには名家の後継ぎという、ライトノベルの無双主人公も真っ青の技術と立場を持つ。ついでに言えば料理も上手い。──一家に一台応神薙、欲しいよ。家事もボディーガードもしてくれるじゃん。まあ、ぼくは現在進行形で彼の優秀な生活能力と戦闘能力の恩恵を享受しているわけだけれど。
     致命的な弱点としては、食事と糖分が切れると室外だろうが廊下だろうが行き倒れてクソデカ産業廃棄物になることだ。黒くて重くてでかいゴミ。産廃と違うのは、自発的に呼吸をしていることだろう。あと、燃料を与えるとまた動き出すこと。

     彼とは色々なことがあったけど、ぼくと薙くんはそれなりに仲良くやっているし、大きな亀裂もなく二年間の同居生活を送っている。

     
     応神家が所蔵する資料──通称「応神文庫」は、「大量」と言ってもその言葉から実際の量がこぼれ出すくらいの数があった。資料としての価値も計り知れない。それでも、今回の任務の標的──「加茂屋かもや杏夏きょうか」に関しての記述は見当たらなかった。
     財団が管轄するデータを漁って半日、薙くんが彼の父君──現応神家当主の風路ふうろ氏に蔵書の調査を頼んで、返事がくるまで丸一日。なるべく思考を前向きにおし進めながら来るべき果報を待ったけど、結局最初に由倉さんが持ってきた以上の情報を得ることはできなかった。

    「由倉さん。もしよければ、現状持ってる資料を拝見しても」
    「ん?ああ、いいぞ」

     由倉さんが渡してきたタブレットを受け取り、ロックのかかった資料にアクセスする。読み込まれた文字列を自分の言葉に直し脳裏に刻みつけながら、ぼくは画面に指を滑らせた。
     

     調査、確保対象は加茂屋杏夏。タイプ・ブルー。蒐集院が解体されたのち、どこの組織にもつかず財団への抵抗と院の再興を狙う、いわゆる蒐集院残党と呼ばれるたぐいのPoI。
     添付された画像には、要注意人物だと言われ警戒されるよりも、大人たちにかわいがられて笑っているのが似合うような少女の姿が映っていた。背まで流した黒髪に、学制服のような意匠の服。撮影場所の住所は東京になっていたけれど、都内にこの制服を持つ学校はなかった。
     周りのものと比べるに、おそらく高校生くらいの背丈だろう。

     写真に目を凝らすと、耳や指に嵌められた石や金属のアクセサリーが伺える。
     ──おそらく急いで撮られたのだろう。ピント調整もままならなかったような写真では彼女が身につけた装飾の細やかな部分を確認することはできなかった。

     ぼくは添付画像を拡大した。アイラインのはっきりしたまろい瑠璃紺の眼が、レンズを、液晶を隔ててこっちを見ている。──妙な既視感があると思ってたけど、やっと思い出した。薙くんの目に似てるんだ。自分の行動を、捕縛から鏖殺に切り替えた時の。
     

     画面をスクロール。職員コードの読み取り。二重の認証。
     

    「術者にとっての禁忌、ねえ。……」

     無事にロックをパスした先にある文章を読みながら、ぼくはカウチに体を沈めた。
     薙くんは昼食の買い出しに行っていて、由倉さんはこの部屋をまるで自宅のように使っている。椅子に座ってぼくに淹れさせたコーヒーを甘くしている姿にもとっくに慣れてしまった。 

    「由倉さん」
    「どうした?」
    「つかぬことお聞きするんですが、本当にあるんですか?不老不死のまじない」

     手元に目を落とす。特別なクリアランスを使ってパスした認証の先には、蒐集院の研儀官であったという人が書いた記録と、加茂屋杏夏とかつて親交があったという人間の日記が入っていた。
     

     ──加茂屋杏夏は一切老いることがない。
     術──記録いわく薬剤を媒介とした術──を行使したその瞬間から、生きるものが必ず向かう「死」への歩みを完全に止めてしまった。
     

    「不老不死があるのかないのか?」
    「はい、由倉さんはどうお考えですか?元蒐集院所属の身として、もしくは財団職員として」

     由倉さんが、思考の海に身を沈めた──ように見えたのはほんの一瞬だった。つまらなげな顔で甘ったるげなコーヒーを一口飲む姿が、露骨に「興味がない」と言外に語っている。
     だが、ぞっとしない顔をしていたのもほんのわずか。すぐに何かを閃いた様子で、ぼくに艷やかな声を向けてきた。
     

    「これはわりとありきたりな質問なんだが。いいものだと思うか?不老不死。多大な労や金品を代価にして求めるほど、価値のあるものだと思うか?」
     

     宝くじ百億円当たったら何したい?──そんなノリの言葉だった。

     いや、ごく普通の人間にとって、宝くじ百億円と不老不死って、わりと似たような場所にあるのかもしれない。つまり、「絶対にありえないこと」という意味で。ありえないけど、もしそうなったらどうする?──そんな、無責任な持論を聞き語り笑い合うのにふさわしい話題として。
     

    「なったことないからわからないですね。古今東西の文献を見るに、あんまりいいものでもなさそうですが」
    「そうだな。……まあ、一定数いるんだ。無限の生がもたらす絶望より、やがて訪れる死への恐怖が勝る奴が」
     

     まるで見てきたかのような語り口だった。そういえばぼくってこの人がどれだけ生きてるのか知らないな。薙くん(確かぼくと同じ学年だとアイランズが言ってたはずだから、今二十四、五歳)がまだ小さいころから彼を見てきたようだけど、コートの中のセーラー服のせいで、少し背が低い中学生くらいにしか見えない。
     意識的に整えた呼吸、乱れのない足音、無駄のない体の動かし方は確実に常人のそれではないけれど、一体何十年くらい生きているんだろうか。甘く艶を含んでいるけれど、涼やかな余韻のおかげで粘着な印象は受けない声音は、ときどきひどく老成した響きを見せる。

     ──女性の歳を聞くのはマナー違反ですよ。脳内にやってきたイマジナリーアイランズが、ため息まじりに腕を組んだ。

     ぼくの好奇心を世間体と道徳の観点から丁寧にたしなめてくれる仮想イマジナリーアイランズを丁重に脳内から叩き出し、ぼくは読んだ資料に再び鍵をかける。加茂屋杏夏自身の資料から、具体的に任務遂行の資料となるデータへ、指先ひとつで記録を飛ばす。
     

     任務地は山梨の山中。どうやら、ターゲットはその中に隠れている可能性が高いらしい。 
     地域民の間に「百鬼夜行」の噂が広まり始めたのが、だいたい十月から十一月ごろ。最初は「鬼火」とか「狐火」だけだったのが、最近は古くなった道具が動いてるのを見ただとか、ご近所の〇〇さんを最近見ないだとか、本格的に古の百鬼夜行の体をなしてきているそうだ。……黒い太陽を見たっていうのもあるらしい。さすがにこれは眉唾ものだけど。人の噂は尾ひれ羽ひれつきやすいし、「百鬼夜行」があると言われたらこんな話を付け足す人がいてもおかしくないだろう。

     目撃情報を総括し、潜伏の拠点になっている可能性が一番高いという場所の写真をクリックする。派手な黄色と黒と赤で「立ち入り禁止」が示されたテープの奥に、観覧車が写り込んでいた。
     ──テーマパークブームの残滓。バブルの亡霊。完成はされたが、二度と開園することはない、山の中の遊園地。そこに、加茂屋杏夏は居座っている可能性が高い。
     

     ぼくは写真をもう一度見た。ずっと気になっているのだけど、ぼくが知っているものに比べて観覧車の位置がやや高いような気がする。よほど大きいのか、それとも建っている位置が高いのか。……そこはまあ、現地入りしなくてはわからないことだ。資料を閉じて、足を乱暴に投げ出す。

     玄関の扉が開く音。薙くんが帰ってきたのか。今日は確かスーパーのポイント二倍デーだから、昼食、ついでに夕飯を求める人で結構混んでいただろう。乱れのないリズムで近づいてくる足音を聞きながら、ぼくはカウチに頭を沈み込ませた。おやつは何がいいかな。そういや今朝、アイランズから午後に行ってもいいかと連絡が来たんだった。みんなでたくさんつまめるように、クッキーでも焼こうか。生地の砂糖を減らして、おいしいジャムやチョコチップをこれでもかってくらい入れよう。クッキーを焼くのは久々だけど、薙くんやアイランズは甘いお菓子が大好きだから、きっといつもみたいに喜んで食べてくれるはずだ。
     
     


     

     

    一日目

     
     東京から山梨まで、おおよそ120キロと少し。
     「湯の宮 あたらよ旅館」と書かれた看板を見つけたのは、そこから更にバスで行ったところだった。

     360度、どこを見ても必ず視界に山が映る。──無意識に最寄りのコンビニまでの距離を検索し始めたぼくの指を止めて、その代わりスマホのカメラを起動した。

    「薙くーん。アイランズー」
    「どうした」
    「なんですか?」
    「記念撮影しよ」
    「なんだ谷崎君、私も混ぜろ!」

     十秒間のタイマーをセットしておいたけど、それは役目を果たさないうちに解除された──受付の人が、今の時間は手が空いているからと撮影を代わってくれたのだ。
     3、2、1、パシャリ。にっこりと写真用の笑顔を浮かべたぼくの右隣で薙くんが変わらない無表情をしていて、左隣のアイランズは迷ったあげく軽くピースサインをした。アイランズの脇で、由倉さんがピースサインとキメ顔をしている。何枚か撮った写真をSDカードの方にも保存して、ぼくはスマホを鞄に入れた。
     
     
     
     
     入ってすぐの左手側にフロント、ロビーの方に土産物屋。その手前にはまるで上品な置き物のように、木製のピアノが鎮座している。「ご自由にお使いください」の貼り紙に、ぼくは自分の意識がそちらに吸い寄せられるのがわかった。どっかのタイミングで触れるかな。

     「明月」と書かれた和室は日当たりがよく、派手さはないけど洗練された調度品が整えられていた。夏に比べて奥ゆかしくなった太陽が、部屋の壁をつたい滑るように入り込む。広縁には小洒落たソファーとテーブルが置かれ、窓を開けると中庭が見えた。
     予算の都合的に「びっくりするほど高級な宿」とかではないだろうけど、丁寧に磨かれたあめ色の廊下や、すれ違う客の品のよさから、丁寧に仕事をするいい場所なんだろうなと思った。
     四人用の部屋をぼく、薙くん、アイランズで使って、隣の小さめの部屋を由倉さんが使う手筈になっている。
     

     最後に温泉旅館なんて来たのいつぶりだったかなと思ってから、そもそも自分は旅館なんてまともに来たことがないことに思い至った。親は人並みに外に連れ出してくれたけど、子供と一緒に温泉なんてような風情はなかったし、財団に来てからいつも仕事を詰め込んでいたから温泉どころか銭湯にも行ってない。
     ホテルとか旅館とかの、「お客様」感にはどうしても慣れないなあと思いながら、地面から数センチ浮いたような座布団の布を指先でなぞった。なんとなく、足先が地面につかない。自分の居場所はここではないのだという薄い層のようなものが、ぼくの体を空間に沈み込ませ溶け込ませてくれない。

     それに引き換え、薙くんとアイランズの、場所への馴染み方がすごい。カメラを向けたら、そのまま旅行誌の写真に使えそうだ。

    「人生の半分を和室で過ごしてたら、勝手もわかるし馴染みもあるだろ」
    「……どこから口に出てた?」
    「俺とアイランズさんはこの部屋に馴染む、ってあたり」

     平然と言いながら手際よく荷物を整頓する薙くんと、三人分のお茶を淹れるアイランズ。ああもう、どうせぼくは庶民代表だよ。薙くんみたいに立派な書院造の実家でもてなされ慣れて育ったわけじゃないし、アイランズみたいに方々のホテルとか旅館とかに泊まり慣れてるわけでもない。他人からの至れり尽くせりは体がちょっとむず痒いんだ。

    「入りましたよ」
    「すまねえ」
    「熱いので気をつけて「熱っ」話聞いてください」

     不用意に入れた舌の先を熱が刺す。

     お着き菓子として置かれた信玄餅の袋を広げる。昔は正しい食べ方を知らなくてきなこを散らかすことが結構あったから、あんまり人前で食べたいものじゃなかった。餅を出して、きなこだけになった容器に蜜を入れる。いただきます。

     甲斐国で食べる信玄餅は包装も味も東京の信玄餅と同じだったけど、薙くんやアイランズと「味が同じ」だと笑い合えたから、東京のやつより少しだけ特別なものの気がした。
     
     
     
     
    「大の字に寝転がっても怒られないかな」

     内部を見回るついでに温泉に行ってくると言った薙くんを見送り、ぼくはアイランズに言った。

    「ぜひとも私がやりたいくらいですね」
    「やる?」
    「荷物の整理が終わらないので。どうぞ、谷崎」

     畳の上にこてんっと体を転がすと、こころよい畳のかたさ、冷たさが肌に触れる。
     

     ジョシュア・アイランズ。渉外部門の外交官──人事ファイルの記録は「調停官」。どうやら本人は後者の名前で呼ばれる方が気に入っているらしいけど、ぼくは彼が自分のことをそう名乗った機会を数えるほどしか知らない。
     真面目で勤勉。慎重だが柔軟。経験不足とか言われてる割には、アイランズが仕事をしていない時をあまり見たことがない。ストレスも溜まりづらいし体も丈夫だから、人手不足の渉外には願ったり叶ったりの人材なんだっけ。──わあ、外交職って厳しいなあ。

     本人の尖ったところのない人格に反して、周りの人間関係はわりと面白……特徴的だ。尖ってる。どうやったら要注意団体の職員だの秘匿部門の職員だのと連絡ができるようになるんだい?あとそこらのインシデントに絡みすぎだよ、キミ。おかしくない?時には自分に敷かれた監視の手すら利用してみせる豪胆さは評価できるものがあるけど。それはそうとしてちょっと異常だよ。なんか呪われてたりしない?薙くんにちゃんと見てもらって、なんかあったら祓ってもらう?

     
     アイランズがぼくの名前にさん付けをしなくなったの、いつからだったっけ。慇懃な敬語は抜けないままだけど。なぜだろう、財団に入ってから薙くんと会うまでの、アイランズと二人だった数ヶ月の時間をよく思い出せない。そののことはやけに鮮明に覚えているのに。
     まあ、覚えていないということは、特に思い出さなくていいことなのだろう。ぼくは瞬きをして、アイランズの綺麗な顔を見上げた。ぱちりと目が合う。全てを包みこむような夜空の色に、地の草木を思わせる緑がかった光を纏う色。色相を嵌めるとしたら蒼色かな。覗けばこちらが映り込むほど凪いだ光が、ぼくの姿を静かに見ている。

    「想定通りとはいえ、今日は動けませんね。本格的な調査は明日に回しましょう」
    「眠い」
    「昨日の夜ちゃんと眠れました?」
    「昨日?目が冴えて眠れなくてね、クロスワードパズル解いてたら朝になってた」
    「遠足の前日に興奮して眠れない小学生ですか?」

     ぼくは声の代わりに首をすくめることによって返事とした。いや眠い、眠いとも。眠いけどさ、公共機関内で眠るのはぼくのポリシーに反するんだ。──いや、眠気を自覚したら一周回って眠くなくなってきた、かもしれない。若干吐き気はするけど。無慈悲に下界を照らす渇いた光と小鳥のさえずりを感じる、完徹朝の絶望感知ってる?──いや、アイランズなら知ってるだろうね。渉外部門は万年人手不足だ。ぼくが机やらソファーの上やらで迎えた朝を二乗したってお釣りがくるくらい、徹夜の経験があるだろう。

    「おとなしく移動中に寝ればよかったのでは?」
    「人前で寝るのは嫌いなんだ」
    「知っています」

     知ってることを知ってる。

    「適度に頑張って、そこそこに休んで、一番いい形の成果を出して、のんびり帰宅しましょうね」
    「そうだね」
    「貴方がたとこうして一緒に仕事がしたいとはなんとなく思っていましたが、こうして実際叶ってみると、先行きに看過しがたい不安感があります」
    「どうして」
    「ご自分の胸に聞いてみたらどうですか?」

     ……心当たりがないわけじゃないから、何も言えないな。

    「貴方はいつも面倒なことを積んで積んで、崩れかけてどうにもならなくなった頃にやっと人に頼るんですから。早めに言ってください」

     遺憾の意を表明せざるをえない。──いや、結局崩れたことはないんだから大丈夫だろ?そりゃ安定しているに越したことはないけど。最後の最後まで突き詰めた先にあるのは一つなんだから、過程の選択肢がどうであったって……。いや、安定したルートを辿るに越したことはないんだって。ぼくもそう思ってるよ。それでも、どうにもならない時があるだけで。
     

     畳に寝転がってぼんやりとしているうちに。静かに睡魔の波が寄せてくる。──寝たくないんだけど。こんないつ誰が入ってくるかわからない場所で。冷静な意思に反して、体は眠りの海にぐいぐいと引きずり込まれていく。この畳の上で寝たらきっと気持ちいいんだろうな。眠いな。でもな、でもな……

    「アイランズ」
    「なんですか?」
    「夕飯何時だっけ」
    「確か、十八時くらいですね」
    「今何時?」
    「十五時は回ったかと」
    「…………一時間の間、この部屋に誰か来たら適当に追い返してくれる?」
    「応神はどうするんですか」
    「薙くんは……いいよべつに」

     すでに意識は眠りの中に半分くらい浸かっている。

    「ゆくらさんとか」
    「善処します。あの人が入るなと言って大人しく聞いてくれるかはわかりませんが」
    「がんばっておいかえして」
     

     おやすみ世界。これは本当に、イレギュラー中のイレギュラーだ。任務の調査はやっぱり気を張るし。これはいつものぼくじゃない。でも、こんなところに来たんだから少しくらい、いつもと違ったって許される。
     「私はいいんですか?」意識の浅いところでそんな声をすくい上げた気がしたけど、ぼくはその声を言葉として受け止めきれないまま、ごぽりと水の底に意識を沈めた。
     
     
     

     
     夕食のメニューに対し、おいしそうだとかおなかがすいただとかより先に「量が多い」と思ってしまった。

     先付けは湯葉と白滝の豆乳寄せ、前菜は寒干大根にチーズをかけたもの。柚子の入ったお吸い物、炊合せの里芋寄せ、白ごはん、メインは甲州牛のステーキ。──いつもの夕飯何回分くらいの品目が並んでいるんだろう?由倉さんが来なければ、今晩もぼくは東京で暇だ暇だと時間をすり潰しながら薙くんの作るおいしい夕食を食べていたはずだ。もしかしたらぼくが薙くんと会わなかったりアイランズを知らなかったり財団に入らなかった時系列もあるかもしれない。人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。

    「ドリンク何にする?俺は日本酒」
    「私も日本酒で。谷崎は」
    「ウーロン茶」
    「私もそれでいいか。あ、お願いしまーす」

     酒は好きじゃない。大学の飲み会で散々な目に遭ってから、二度と飲むもんかと心に決めた苦い思い出がある──そもそも、摂って正気を失うようなものは絶対に手をつけたくない。ウイスキーボンボンとか、ブランデー入りのチョコとかは食べるけど。

     並んだ料理の何をどう食べればいいのか迷う様子もなく、きれいな箸さばきで並ぶ皿を軽くしていく薙くんを見ながら、やっぱり和服が似合うなと思った。ぼくが見慣れているのはあの黒くて長いコートだけど、本人が着慣れていそうなのは浴衣だ。

     全ての料理に少しずつ箸を付けつつ、ぼくは美人の仲居さんが運んでくれたウーロン茶を受け取る。瓶に入った飲み物って、なぜだか知らないけどちょっと特別感があると思う。ペットボトルに入れたほうが量が多いし楽なのはわかるけど。
     

     そういえば昔、近所の駄菓子屋にあったラムネが好きだったな。行ったのがわかると親があんまりいい顔しなかったから、たまにしか行かなかった。──友達に誘われたからと心の中で免罪符を着けて。瓶に溶け込んだ街の景色を眺めるのが好きだったのか、中のビー玉が綺麗だったから好きだったのか、家では飲まない脚色された甘さのラムネの味が好きだったのか、喉元を過ぎていく炭酸が子供ながらに特別感と背徳感を味わえて好きだったのか、今となっては判別がつかないけど。
     

     「酌でもしてあげようか?」隣の薙くんをつっついたら普通に断られた。いや、冗談だって。

    「薙坊、実はお前結構酒に弱いだろう。あんまり飲むと明日に障るぞ?」
    「アルコールくらい自分で管理できる……アンタは飲まねえんですか」
    「私はこのあと風呂に行きたいんだ」
    「調子乗ってのぼせないでくださいね?」
    「薙坊こそ。一回風呂場で倒れて騒ぎ起こしてただろう」
    「何年前のはなししてんですか」

     多分ぼくの想像の倍くらいは大きいであろう応神家の風呂を想像しながら、ぼくは口の中で里芋を転がした。そういやぼくも温泉入ってないや。周りはみんなアルコール摂ってるから、誘うこともできない。月を見ながら露天風呂──なんて旅情のあるイベントに心惹かれないわけではないけど、いいや。明日の朝入ろう。吸い物をひと口飲むと、柚子の風味が吹き抜けて、体が芯からじんわり温まっていくのを感じた。
     

    「かわいかったなー昔は。素直で一途で。私が屋敷に行くと隠しきれない笑顔で迎えてくれてな」
    「やめてください」
    「今はこんなステゴロゴリラだけど、小さいころはそりゃあ愛らしい子供だったんだぞ?顔がよくて」
    「やめてください」
    「けいこをつけてくださいとせがんできた時もあったな。道場の床に転がしたが」
    「 、やめ」

     酒も入っていないのに、アルコールに浮かされたように、由倉さんは楽しげに話し続ける。彼女の口から語られる「応神薙」と、ぼくの知る「エージェント・応神」は、同じ人間のはずなのにどこかが決定的に違ってしまっているような気がした。
     

     ぼくから見えない薙くんの姿。
     ぼくの知らない応神薙の姿。
     彼女とぼくの目に映る人間は、同じもののはずなのに絶対に違う姿をしている。空の星が、角度によって様々な姿を見せるように。太陽は照らす。太陽は食われる。受け取り方の違いなんて甘いものじゃない、決定的な差異が、齟齬がある。
     

     あるがままで変われない。
     あるべき姿のまま動けない。
     いつまでも変わることはない。
     自分が知らないどこかの面を、自分が知ることは決してない。
     

    「ペースが早すぎです、応神。もう少し落ち着いて飲んでください」
    「うるさい」
    「こら、応神」

     薙くんが酒の続きを注ぎ足した手を、アイランズさんが軽く叩く。そのままヒョイっと徳利を奪って、自分が一気に飲み干した。──人のこと言えないんじゃない?急に飲んだら一気に回るよ。キミだって、薙くんほど弱くないけど特別強いわけでもないのに。状況がうまく飲み込めていなさそうな薙くんの頬に手を当ててみる。熱い。白い肌がほんのりと赤くなっていて、濡羽色の目が若干溶けている。……サングラス着けてないからかな、いつも積み上げているはずの、感情を隔てる壁がぐずぐずになってる。
     あーあ、本当にそろそろ自重しないと。明日どうなっても知らないよ?

    「おいしい」
    「味一緒だろ」
    「そろそろ一旦切り上げないと、飲んだことを後悔することになりますよ」
    「うるせー……」

     浴衣姿で猪口を傾ける動作と、全体的に色素の薄い日本人離れした容貌が、アンバランスなのになぜか妙に様になる。──多分、世界一日本酒が似合うアメリカ人だ、アイランズって。

    「飲みたいんですか?」
    「え」
    「いや、さっきから目を離さないので……」

     違う違う。誤解。ぼくは首を横に振ってから、ステーキにフォークを刺した。視界の端で、涼しい顔のアイランズが何杯目かわからないさかずきを注ぐ。明日に響いても知らないよ。言いかけた言葉をしばらく舌の上で転がして、結局、東京とあんまり味の変わらないウーロン茶と一緒に飲み込んだ。
     
     


     

     

    二日目

     
     悪い夢を見た。

     悪い夢を見たのだという実感だけがある。そこには具体的な記憶が伴わない。ただ、朝目覚めたのだからきっとこれは悪い夢だったのだろうと思う。闇の底に沈んだ意識の中で、脳裏に描いたのがよい夢ならばきっと、朝が来ても目覚められないのだ。ずっと夜の中に浸りたいと願い、囚われることを選んでしまうだろうから。
     

     ノロノロと起き上がり、体育座りに丸めた膝の上に頭を置く。少し目を閉じていると、だんだんと頭に血が巡り、思考を覆っていたまどろみの薄もやが晴れていくのを感じた。

    「おはよう、翔一」
    「おはよう、薙くん」

     活動時間が噛み合わなくても、眠気と疲労が色濃くあったとしても、起きた時には朝の挨拶をする。それは薙くんとぼくで定めた決まりごとの一つだった。
     「いい天気だね」綺麗な朝だ。透明度の高い空気は陽光をまっすぐに運んでくる。差し貫くような光がぼくの体を照らし、太陽に背を向けた薙くんの輪郭を浮かび上がらせた。黒いサングラスに隔たれていない、薙くんのほんものの虹彩がぼくを見ている。太陽の光を閉じ込めた宝石のような瞳だった。

    「よく眠れた?」
    「それなりに。翔一は?」
    「ちゃんと起きられたよ」
    「ならいいんだ」
     

     「……ん」ぼくの後ろで眠るアイランズが、軽く身じろぎをした。彩度の低い、薄茶色の睫毛が瞼を縁取り、影を落としている。「アイランズ?」思わず小さな声を上げると、瞼の奥から、眼窩に嵌め込まれた蒼色の目がゆっくりと姿を表した。

    「…………おはようございます」
    「おはよう、アイランズ」
    「おはよう、アイランズさん」

     んんん、と軽く身じろぎをしたあと、寝返りを打って頭を布団に収めてしまう。だがすぐにまた小さく肩を揺らしたあと、緩慢な動きで首を覆う掛け布団を引き剥がした。
     半分ほど眠気に沈んだ双眸と目が合う。今にもこぼれ落ちそうな、ぐずぐずに溶けた氷のような瞳の中で、ぼくの姿が像として線を結んでいた。

    「おふとん、畳んだほうがいいですよね。端に積んどきますか」
    「二度寝したい」
    「だめですよ。朝ごはんの時間も決まってるんです、から……」

     そう言うアイランズが一番寝落ちしそうだ。もし彼が本当に体ごと布団に倒れ込みそうになったら、肩でも揺さぶって起こそうか。目覚まし時計なんかの大きな音で、静謐な朝を切り裂かれるのは無粋中の無粋だし。

     アイランズが重たい目を擦ったところで、パァン!と空気を切り裂く音が聞こえた。
     

    「朝だぞ〜ガキ共。お、全員起きてるな。えらいえらい」
    「おはようございます……黒陶さん。朝からお元気ですね」
    「年寄りは朝が早いっていうからな」
    「なんか言ったか薙坊」
    「何も」
     

     大人しくふとんをたたみ始めたアイランズを横目に、由倉さんが部屋に上がってくる。急に音の密度が上がり、冷たく清く静かだった空気がぶわりと熱を持った気がした。

    「さっきここらを散歩してきたんだが、いい景色だったぞ。撮った写真を待ち受けにしといた」
    「それはいい。一緒に歩かない?薙くん」
    「ふっふー。写メ送ってやろうか」
    「今は写メじゃなくてLINEですよ」
    「私の個人用携帯はEメールもキリ番付きの個人サイトもケータイ小説も現役だぞ」
    「完全に進化と隔絶されてますね。文字通りのガラパゴス携帯じゃないですか」

     ぼくと薙くんの分の布団も畳んでくれたアイランズに礼を言って、ぼくは広縁の椅子に腰を下ろした。窓を少し開けると、透き通るような日差しとともに風が吹いてくる。

     いつもよりも、空の位置が近く感じた。太陽は変わらぬ美しい姿で、ぼくたちを静かに見下ろしている。
     

    「谷崎君、ジョシュア君。ちょっと頼みごとしていいか?」
    「ものによります」
    「山を少し降りた道路に、小さな祠がある。それを見てきてくれないか?」
    「社……?」

     言ってから、すぐに脳裏で言葉が像を結んだ。
     バスで山を登る途中、
     
     
     

     
    『怪現象?私は見てないけど、お隣さんが見たって言うのよ。今時百鬼夜行なんてないわ、タチの悪い悪戯よ。早く犯人が捕まってくれないかしら』

    『珍しいわねえ外人さんが来てくれるなんて。そこのお店の紅茶が美味しいわ、一杯どう?……うふふ、それで何を聞きたいの?……ああ、怪現象?私は詳しく知らないけど、なんでも例の山の方から出てるって話じゃないの。それで気味悪がって旅館の方にも近寄らない人が多いらしいわ。……え、その旅館に泊まってるの?ええ、あそこいいとこでしょう。ゆっくりしていってね』

    『怪現象調査の探偵?かっこいい!誰だろうそんなの頼んだ人……僕ができることならなんでもお手伝いしますよ!──あー、ええと、怪現象に関係あるかはわからないんですけど、なんか最近黒い蛇をよく見るって母や妹が気味悪がってました。白蛇ならまだしも、黒蛇ってあんまりいいイメージなくないですか?』

    『高校生くらいの女の子?……そりゃ高校生なんてたくさんいる、誰がどうなんて──いや、一度山の方に一人で登ってる女の子を見たことがあるな。珍しいからって声かけたんだが。妙な目をした子だったな、声をかけたら不機嫌そうに顔をしかめて、気づいたらいなくなっちまった』

    『遊園地について知りたい?俺はバブルの成金が作ってそのままってことしか知らねえけど。何、中学校の自由研究とかか?それなら図書館に行くのが早いぜ。平日の昼間からウロウロしてる俺みたいなのに聞くよりかはな』

    『ヒッ、ヤクザ!?あっいえーなんでもないですー睨まないで……。私が言えることならなんでも言いますからー……え、山のとこの遊園地の話?うーん、おじいちゃ……私の祖父が昔そこの建設に関わってたらしいんですけど、なんでも一番の目玉は観覧車だったらしいですよ?一つ飛び出した上の方にあって、すごく見晴らしが良かったとか』

    『あのねおじさん。ぼくのともだちがね、ゆうえんちにおばけ退治に行ったんだって。うそじゃないよ、だってそのともだちが言ってたんだもん。ゲンインフメイのコウネツで休んでたんだけど、このあいだ会ったんだ。おじさんたちもあのゆうえんちに行くのなら、ゲンインフメーのコーネツに気をつけてね。──ぼく?行かないよ。だってそのともだち、すごくこわがってたもん……』

 
 

 
 

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執筆者: Taga49
文字数: 18146
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最終更新: 01 May 2021 13:35
最終コメント: 29 Apr 2021 10:07 by Taga49

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