雨島のTale
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皐月

 そろそろ梅雨に入る頃合いだというのを、櫛の通りにくい髪の毛で気付かされた。
 
 ひとつため息をついて、手の中の道具を小さな櫛からヘアブラシに持ち替える。やわい乳白色の光沢を持った髪が肩に落ちたのを、指先で軽く弄んだ。いつもはさらりと流れる髪は、うねりを持って指に絡みつく。
 小さく舌打ちをしてから、膨れた髪をざくざくとブラシで梳き始めた。

 言うことを聞かない長髪を両手で後ろに流し、目にかかる前髪をピンで留める。シャツのボタンを嵌め、普段は付けないタイで首元を飾った。黒一色のスーツの中で、紅い飾りがきらりと美しい光を描く。
 
 いつもより少しだけ背を伸ばす。普段より少しだけ素敵な自分を思い描く。
 今日は大切な日なのだ。──最後の仕上げとばかり、真っ白な手袋をきっちり嵌めて、雨霧あまぎり霧香きりかは部屋を出た。
 
 


 
 ──きっと外では、紫陽花が綺麗だろうな。

 体中の力が抜け落ちて、ずるずると椅子から落ちた元・人間を見ながら、この場にまったくそぐわないことを考えた。目の前にいるものは確かに少し前までは気丈に振る舞う人間だったけれど、意識と思考を失った肉の塊を雨霧は人と呼びたくない。

 聞くべきことは聞いた。雨霧はもう足元の元・人間を振り返ることなく扉を出る。使い捨てのゴム手袋と注射器をダストシュートに投げ捨て、大きく息をついた。
 やるべきことを反芻。今回の対象者、そこから引き出した情報に関しての二、三の質問に答えること。作業に関しての書類をまとめて提出すること。雨霧は再度長く息をついてから、消毒液を手に吹き掛けた。長らく潔癖症と付き合い続けているせいか、一区切りのたびに消毒液を手に塗るのはほとんど癖になっている。
 
 これが自分の仕事なのだ。ここまでが、ここだけが自分の仕事なのだ。
 深く考えることはなく、やるべきことはまだ多い。
 
 ひとでなし、と微かに吐き出されていた声が、今更になってじんわりと耳の奥を侵していく。
 

 個人用ロッカーの中を開ければ、見慣れた黒スーツが丁寧に畳まれ鎮座していた。脇にある鏡を見ながらシャツの襟を整え、髪の毛を手で軽く梳き、ヘアピンを留め直し、タイを結び、白手袋を嵌める。
 鏡の中で少しだけ口角を上げてみてから、すぐに普段の無表情を作り直した。誰に言われたわけでもないのに、慣れない表情なんて無理に作るものじゃない。

 誰に言われたわけでもないのに──なんとなく浮かれている自分の心情が、自分自身でも理解できない。

 いつもより早鐘を打つ心臓を押さえつけて、手首に巻いた腕時計を見る。かちりと秒針が動き、時計盤が午後一時を告げた。
 
 
 
 例えば。財団こんなところに拾われなければ、生活水準はさておき、もう少し普通の人間らしい暮らしができたのだろうか。
 例えば。"拷問官"なんてしなければ、職務内容はさておき、もう少しまともな人間らしい生き方ができたのだろうか。
 おおよそ雨霧の持たない全てを持っていて、雨霧と全く正反対の生き方をしていて、雨霧を理解すれども共感することは決してない目の前の男を見ながら、そんなつまらないifに思いを巡らせる。

 自分をじっと見つめる雨霧の視線に気づいたジョシュア・アイランズは、少しの瞬きのあと、雨霧に向かってにこりと微笑んだ。時刻は午後二時を少し過ぎたあたり。場所はサイト内の食堂。ピークを過ぎ去りひと気の亡くなった空間の片隅で、雨霧とアイランズは食後のデザートに手をつけようとしていた。
 
 向かいの席に座った彼は自然に背筋を伸ばしており、普段から人に見せるための姿勢に慣れている者だとわかる。ごちそうさまでした、と手を合わせる端然とした所作を眺めながら、きれいな人だな、と雨霧はぼんやり思った。姿形がそうというよりは、内面のうつくしさが雰囲気やふるまいに滲んでいるような気がする。

 外交官という職業の人は皆こうなのだろうか。アイランズ以外に外交職とあまり関わったことのない雨霧は、言い訳のようにそう考えた。心のきれいさというか、穏やかさが雰囲気に出ているのは、彼女の一番の味方である職員寮の主もそうであるけれど。
 
「そろそろ暑くなってきましたね。季節の変わり目で体調を崩さないよう、雨霧さんも気をつけてくださいね」
「夏、お好きなんですか」
「ええ。甘いものがおいしくなる時期です」
「そういえば、食堂の新商品の試食をしてるとか言ってましたが……どうなりましたか」
「順調ですよ。81JHの新しい名物ができそうです。完成したら持ってきますから、一緒に食べましょうか」
「楽しみにしています」

 レモンゼリーが喉の奥に滑り落ちる。爽やかな甘さが舌を溶かして、唇をなめらかにしていく。
 

 雨霧と話しているときのアイランズは終始機嫌がよく、雨霧の拙い言葉にも嬉しそうに相槌を打った。まるで、話を聞くことそのものが楽しくてたまらないというように。

 向こうは話術のプロであるのだから、自分ももう少し上手く話せないかとは思うのだが、如何せん普段会話があるのは数人の同僚と、人間性に欠けた上司。それ以外に聞くものといえば、人として大切なものを失った何か、それからそもそも人と呼べない何かの怒声罵声懇願嬌声泣き声唸り声その他もろもろ──会話の成立しない、言葉にならない声だ。そもそも社交的な性格ではない自分がこんな環境に置かれて、まともなコミニュケーション能力が育まれる方がおかしい。一般人程度にすら話せなくなるのも仕方がないと思う。

 そもそも、まともな会話が必要とされていないのだから。

 こうと定められていて、自分もそれに是と返したものを今更「こちらが正しいから」と言われて「はいそうですか」と覆すのはとても難しい。仕方がないとはいえ──こういう、ごくありふれた──自分にとってはとても貴重な──人間らしい会話をもう少し上手くやることはできないかと、内心釈然としない気持ちになる。

 人に特別な何かを思って、「自分との時間が楽しくあってほしい」と願うことは、これがはじめてだった。
 

「──そこまではよかったのですが、たまたま室長が空腹で機嫌が悪くて。今度仙拳で部屋を壊したらサイト内でのチャイナドレスの着用を禁止すると──……雨霧さん?」
「え?」
「いえ、どこか上の空な様子だったので……。体調が悪いのなら救護室までお送りしましょうか」
「大丈夫です。少し考えごとをしていて」


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