境界の星見たち

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自分の信じるべき太陽を見つけなさい、というのが、死んだ祖父の口癖だった。


 
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    2013/5/3


     
     角砂糖ふたつが、軽やかな波紋を揺らして、重たく底に沈む。
     色を変えずに黒々と澄み渡るコーヒーに、音もなくミルクが差し入れられた。
     くるりとマドラーを動かすと、黒と白がまだらに混ざる。

     先ほどよりも薄い色に統一された水面を確認してから、応神いらがみなぎはようやく、カップに口を付けた。
     
    「スイーツの横にカフェオレを置く生活続けてたら、血糖値が上がってそのうち倒れますよ」
    「余計なお世話だ。アイランズさんこそ、机仕事の合間の菓子は太るぞ。」
    「現場業務も多いので、食べた分くらいは動いています。ご心配なく。」

     釈然としない顔で、 応神は期間限定・特盛さくらチョコレートパフェ(税込1050円)を口に運ぶ。
     
     サイト8100は、人も敷地も予算も桁違いなだけあって、食堂のメニューも充実している。
     唇を舌の先で軽く舐めて、応神はまたひとつ、空になった器をテーブルの隅に置いた。

     4杯目。
     コトリとテーブルに器が置かれる音と、応神の前に座ったジョシュア・アイランズのため息が混じり合う。
     
    「エージェント・応神。入ってからそろそろひと月経ちますが、どうですか財団は。慣れてきましたか。」
    「ああ…まあな。好きに鍛錬もできるし、飯の味も悪くない。いい職場だ。」
    「そう言っていただけて何より。では仕事と精神が落ち着いてきたあたりで、そろそろ貴方の居場所を決めましょう。」

     アイランズが、テーブルの上にスマホを置く。
     自分に向けられた画面に軽く目を走らせた応神が、砂糖の中に混じった砂利を噛んだような顔をした。

    「ルームシェア」
    「サイト宿泊でごまかすのも厳しくなってきましたからね。少し遅くなりましたが、相手が見つかりました。」

     白玉ぜんざいを食べるアイランズの所作は、日本人の応神の目から見ても非常に整っている。
     だが、今その目はうっすらとクマが貼り付いていて、元々白い肌は血の通う気配が薄かった。
     
     ただでさえ人手不足である渉外部門、その即応要員として働くジョシュア・アイランズの仕事量は、過密という言葉も生ぬるく聞こえる。
     普段の多忙さに追加し、ここずっと、応神が持ちかけてきたルームシェアの相談の解決に応じていたのだ───ちゃんと休めているのか、という言葉を、応神は喉の奥に呑み下す。それを聞いたところで、自分がアイランズにできることは、この場の会計を持ってやるくらいだ。
     
    「最初にお伝えしましたが、私はごめんですからね。貴方と暮らすなど、胃薬がいくつあっても足りません。───貴方の実力は財団も高く買っているようですが、それはそうとして、協調性のなさは致命的だと思ってください。今回も、数少ない候補からやっと選んだ相手なのですよ。」
     
     アイランズの言葉には、言外に「だから、これ以上問題を起こさず、素直にルームシェアをしろ」という意思が見て取れた。
     

     名前を辿れば遥か平安の世まで遡る名門、応神家。応神薙はその嫡男であったが、ひとたび財団に入れば、等しく今年雇用された新人に違いない。

     彼は言うならば誇り高き烏だった。抜きんでた力を持ち、物に聡い。
     そして、群れない。

     人と合わせることを知らず、妥協なく個人主義を貫く応神が起こした揉め事は、就職から1ヶ月弱の今すでに、そろそろ両の手の指が足りなくなってくるまでに達している。
     

    「まあ切羽詰まってるのが現実だが、ルームシェアを実際にするかどうかは、会って考える」
    「選り好みしている場合ではないのでは?貴方と大人しく同居してくれるような物好きな───失礼。奇特な方は、貴方が思っている以上に稀少ですよ。」
    「…思った以上に疲れがたまってんな。寝ろ。」
    「まあ、貴方がこれからの財団生活を共にする相手として、決して悪くはないと思います」
    「悪くないかは俺の目で見極める」
     
     伝票を持って立ち上がった応神に、アイランズは大きなため息をついた。
     
     

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       サイトを出た応神は、ひとりでバスに揺られていた。
       バスがアナウンスする停車場所は、教えてもらった住所に近づいていることを示している。いつの間にやら、車窓の景色から高いビルは消え、代わりにマンションが立ち並ぶ住宅街になっていた。

       裾がバスの床にこすれるほどの、黒いロングコート。表情を隠す黒いサングラス。180cmを超える長身。応神薙という人物は、ただそこにいるだけで目立つ───そして、おおよその人間が、目が合ったと知った瞬間視線を逸らす。
       だが、彼にとっては慣れたことだった。このバスでも好奇と恐怖の入り混じった目を向けられていたが、応神は気にせず、後ろから3番目の席に腰を下ろし、腕を組んでいる。

       もうひとつバス停を越えたところで応神は立ち上がり、運賃を流し入れる。目的地はマンションの14階だ。
       財団の息のかかったマンションだと聞いていたが、傍目からは他の建物となにも変わらない。
       エスカレーターが、目的の階への到着を告げる。
       
       少し視線を走らせると、コンクリートの中にぽっかりと浮いた、マホガニーの扉を見つけた。
       応神の手がノブに伸ばされる。指先が触れかけた瞬間、見計ったように扉が開き、中から笑みを浮かべた青年が出てきた。

      「時間ちょうど。さすがだね。」
      「お前が俺の同居人か?」
      「そうだよ。はじめまして。」

       ハシバミ色の目を細め、にっこりと微笑まれる。
       丁寧に作られた笑顔の下に、うっすらと蠢いた狂気の気配を察して、応神は無意識に足を一歩引いた。

      「アイランズから大体の話は聞いたよ。詳しい話は中で。」

       了承を述べて、応神は促されるまま部屋に足を踏み入れた。
       

       清潔感のある部屋だった。廊下は浅い色の木のフローリングで、それなりに掃除もなされている。
       部屋の中はいわゆる吹き抜け───メゾネットタイプになっていて、両階は木製の階段で繋がっていた。

      「14階と15階が部屋だ。上がってくれ。」
      「1人で住むには随分と広いな」
      「…ああ、そうだね」

       青年はなぜか一瞬だけ言い淀み、それから応神に先んじて靴を脱ぐ。
       応神は自分のものと共に、青年の脱いだ分の靴を丁寧に揃えた。
       
       廊下の扉を開けると、小綺麗なリビングだった。
       テレビ台があり、その前にはカウチと足の低いテーブルが置いてある。奥にはキッチンとダイニングテーブルがあった。
       決して物が多いわけではないが、全ての調度品は住みやすいよう計算して置かれたのだとわかる。

       部屋の窓からの見晴らしはよい。
       無機質な街と青い空が、窓枠に切り取られた景色の向こうに広々と続いていた。
       
       青年は応神にコートを脱ぐことをすすめ、それから椅子に座るよう促す。
       
      「まずは自己紹介からかな。ぼくは谷崎たにざき翔一しょういち。財団所属のエージェントだ。主な業務は異常が絡んだ犯罪、事件の解決とか…法と心理に関係して色々やっている。」

       軽薄な声だが、耳通りはいい。しかし、言葉の意図は見えない。
       用意された台本を読み上げるような、色のない声色だった。

      「キミが言いそうな質問のうちの、いくつかには先に答えておこう。ぼくもルームシェアの相手を探していてね、アイランズに聞いたんだ。そうしたらキミがきた。」
      「ちょうどぴったりに扉を開いたな。俺が、ルームシェアとはなんら関係のない来客だとは思わなかったのか?」
      「残念ながら、財団に関係のなさそうな一般人は、わざわざ拳銃を持ち歩かないし、足音を意識的に操作したりしないんだ。」

       いっそ愉快げな色さえ滲ませた声。応神が警戒するように目を眇める。

      「…どこからそれを知った」
      「拳銃はコートの膨らみ方。あと、キミは無意識にそこに触れる癖があるね。持ち慣れてないのはわかるけど、早々に直した方がいい。武器を無条件に相手に開示する行為は命取りだ。足音はキミが階段を上る音、廊下を歩く音からかな。立ち方がそもそも違う、武術の心得があるんだね。」
      「優秀な観察眼をお持ちで」
      「キミもやろうと思えば、眼なんていくらでも鍛えられる。あとぼくには、人より少し出来過ぎた耳があってね。」
      「へぇ」
      「まあ、キミを当人だと断定したのは、アイランズから特徴を聞いていたからだよ」
       
       キミは、自分が思うより特徴的だし、存外人の記憶に残りやすい。いい意味でも悪い意味でも、わかりやすいよ。
       谷崎と名乗った男が、応神の体の上から下に視線を流す。
       
      「ルームシェアはぼくも歓迎しよう、応神薙くん。アイランズが言うなら、きっとキミも信用に値する人物なんだろうしね。」
      「たいそうな信頼だな」
      「おや?キミも似たようなことを考えていたと思っていたけど」
      「人は自分の目で見て判断するのが俺の主義だ」

       谷崎は、応神の主張に、意外と納得が混じり合ったような顔をする。寸分の時を置いて、谷崎は愉快そうに声をあげた。

      「そうか。ならば、キミもぼくを見て判断するといい。───なに、時間はあるんだ。しばらく同居してみてから正式に関係性を決めるのも、悪くはない。…キミの目にはぼくがどう見えていたのか、引き出せるときが楽しみだよ。」

       そう言って谷崎は笑った。
       笑っていたが、友好的な雰囲気はない。社交辞令的な笑顔だった。
       


       

      2013/5/4


       
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       春というには肌寒く、夏の湿気と冬の乾燥が混じりあった、生ぬるい風が吹いていた。
       「自宅」に向かうエレベーターに乗り込む。渡されたばかりの銀の鍵が、鞄の底で音を立てた気がした。

       幸いにも、もうひとりの家主は既に戻っていたため、応神が鞄の奥に押し込められたその鍵を回す必要はなかった。
       扉を開けると、部屋の中から甘い匂いがとろりと外に零れ出す───15階に応神と谷崎の自室は置かれていたが、14階は2人共通のリビング・ルームになっていた。
       
       「おかえり、応神くん」谷崎が言った。手には厚手のミトンが嵌められている。

      「ちょうどよかった。歓迎の意を込めて、菓子を焼いたんだ。キミが味見をしてくれ。」
      「それは構わねえが…お前の好みは?」
      「どうせ食べるのはキミしかいないんだから、別にぼくが食べなくたっていいだろう。───いい苺をもらったんでね、それでマフィンを焼いた。」

       谷崎が示したテーブルの上には、いくつかのマフィンが転がっていた。横には丁寧に、ウサギの飾りがついたフォークも置いてある。
       
      「あー………美味い。これ、結構いい砂糖使ってるだろ。」
      「お気に召したなら何よりだ」

       そう言う谷崎は、一向に手をつける様子がない。
       
       よい砂糖。さりげなく味を整えられた苺。振るった粉しか出せない食感と、完璧な焼き加減。
       菓子作りに慣れていて───かつ、それなりの手間をかけないと出せない味。

      「いや、お前が作ったんだろ。食わねえのか。」
      「別にぼくはそこまで甘いものが好きじゃない」
      「…」

       応神はどこか居心地の悪さを感じながらマフィンをかじった。
       菓子は美味しい。だからこそ、これをひとりで食べていることに違和感がある。
       
       自室で食べようかとも思ったが、大量のマフィンを自室まで運ぶ───上に、続きを焼こうとキッチンにいる谷崎を置いて引き揚げるのも気分が悪い。
       

       喉を滑り落ちていくマフィンの中で、砂糖と苺の甘ったるい味が、ざらりと舌の上に残っていた。
       
       

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        2013/5/6


         
         午後のあたたかいまどろみのような、やわらかに包んでくる真綿のような、その中で、口の中に残る砂利を噛みしめるような。そんなふうに過ごした3日間を終え、応神は自分に宛てがわれたベッドの上に身を投げ出した。
         
         わからない。
         
         自分の目で判断する、と言い切った過去の自分に舌打ちをする。今のところ、自分とひとつ屋根の下で暮らす相手について、なにも掴めていない。
         

         彼について自分が知っているのは主に3つ。人よりも特段出来のよい耳を持っていること。菓子を作るが、自分は決して手をつけず、また菓子作りも好んで行ってるわけではないこと。
         自身を形容する「狂ったウサギ」という言葉を、存外気に入っていること。
         
         現状応神は、谷崎翔一という男が特段好ましく思えなかった。
         3日と少し過ごしただけで、相手の人格を断定するのは自分でどうかと思う。あくまでこれは思考の区切りであり、印象の整理だ。

         声音は軽薄。言葉は飄々としていて、行動も捉えどころがない。
         応神の顔を見れば、大抵笑顔のかたちを作ってくれるが、同じ点を見つめているはずの目の焦点は噛み合わない。
         手を離せばどこかへ消えてしまいそうなのに、手を伸ばすとひらりと躱されて、3歩先でふわふわと笑っている。
         
         なにものにも縛られず生きているようでいて、時々垣間見せる、圧された者の目。
         あれが好きでない。
         

         ぐるぐると巡る思考は、応神に対し、前へ進むための建設的な意見をなにも与えてくれない。

         妥協のない鍛錬といくつかの書類を片付けた心身は、自覚がなくとも確実に疲弊している。水でも飲んで、余計なことは考えずに目を閉じて、さっさと今日を終わらせてしまおうか。そんな思いで身を起こしたとき、薄く開いたドアから漏れ出る光を視界に認めた。
         


         
         廊下の電気を消して、その代わりに部屋の電気のスイッチを入れた。
         やわらかいクッションを置いた椅子に身を落とす。谷崎はひとつ息をついて、机の上に散乱したいくつかのものから、1本の万年筆を手に取った。
         もう片手でノートを開く。かさりと音を立てて、白紙のページが現れる。
         
         軽い音を立てて開かれた万年筆を、紙の上に滑らせていく。
         藍色のインクが紙の繊維をつたい、滲み、色のついたかたちとなって現れる。

         特段自分の字が綺麗とも思っていないが、好き勝手に紙を滑らせていく感覚は愉快で、生み出されたものを眺めるのも楽しい。
         
         鋭敏で、繊細な聴覚を持つ谷崎にとって、世界に溢れる音は谷崎にとっての情報、武器であり、時に谷崎自身を貫く刃だ。
         音の方向。性質。変化。それを感じ取り、情報として組み立て、利用していく。

         常に世界に溢れる音を観測し、管理し続ける谷崎にとって、1番心安らぐ時間は「静寂」だ。
         空間に存在するのは、自分が許した音のみ。その贅沢は、なにものにも変えがたい。
         
         肘に当たったタブレットを傍に押して、谷崎は紙の上にうさぎの落書きを始める。
         
         軽いノックの音。

        「どうぞ」

         谷崎は片眉を引き上げた。
         
         ややあって、廊下の足元につけたライトの光が部屋の中に零れる。
         音もなく入ってきた応神に、谷崎は脇に置いた丸椅子を勧めた。

        「眠れないのかい?お茶がある、今淹れよう。」
        「いや、お構いなく…お前は寝ないのか」
        「どうにも目が冴えてしまってね。眩しかったかい?」
        「そういう訳じゃない。大丈夫だ。」

         部屋の主が立ち上がり、ティーパックの袋とケトル、カップを持って戻ってくる。
         机の下奥のコンセントに線を差して、慣れた手つきで側の水の入ったペットボトルを入れた。
         スイッチオン。
         
         ここまで来て、谷崎は自分の手元を見つめる応神の視線に気がついた。
         具体的には、手元に置かれたもの。
         万年筆。

        「…なんだそれ」
        「万年筆だよ。あとインク。知らないのかい?」
        「いや、万年筆は知ってる。使われてるところを初めて見たって話だ。」

         じっと見つめてくる視線をなんとなく意識の中に引っ掛けながら、谷崎は応神に見えるように万年筆を走らせた。
         小さく描かれていたうさぎの横に、もう少し大きなうさぎが描かれる。
         お世辞にも可愛いとは言い難いその顔に、応神は少し眉をひそめた。
         

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        「気でも狂ってそうな顔してるな」
        「絵は得意じゃないんだ」
        「色は綺麗だな」
        「だろう?就職の記念に、キミも一本買ってみるのはどうだい。おすすめの店はあるから、次の休日そこで」
        「結構だ」

         応神の一蹴と、ケトルが役目を果たしたことを示す電子音が、空間の中に重なる。
         強く、冷たい語気に谷崎の笑顔が一瞬凍りついたが、すぐに気を取り直し、万年筆の蓋を閉じた。
         
        「鉄観音、という中国のお茶なんだけど。口に合わなかったら遠慮なく言ってくれ。」
        「お気遣いどうも」

         谷崎のマグカップに描かれたうさぎの柄が、湯を注がれて色を変えていくのを、応神は頬杖をついて眺めていた。
         自分の手つきをじっと見るその視線に、谷崎はなんとなくやりづらさを感じたが、気にせず作業を進める。

         ことりと目の前にカップが置かれたのに、応神が顔を上げた。

        「あちい」
        「火傷したなら早めに言ってくれ」
        「してない。多分。ちょっと驚いただけだ。」
        「気をつけてくれ。早めに注意をしなかったぼくの責任でもあるが。」

         ふうっと息を吹きかけると、お茶の匂いがふわりと鼻孔をくすぐる。ずず、とお茶をすすると、あたたかいものが体を滑り落ちていった。
         
         谷崎は、金色の光を湛えたお茶を覗き込む。
         ゆらりと揺れた水面に、見慣れた自分の顔が映った。
         
         

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          2013/5/18


           
           ほぼ完璧に近い円形のパンケーキが切り取られていくのを、アイランズはコーヒーの湯気の向こうから眺めていた。

          「初任務が入ったそうですね」
          「ああ」
          「谷崎と共同ですか」
          「そうだ」
          「私は手を出せませんが、まあ、頑張ってくださいね」
          「…」

           ふわふわのパンケーキ(1日40食限定、生クリームとナッツのキャラメルパンケーキ)を飲み込んだ応神が、およそ菓子を食べたときには出ないような渋面をする。

          「甘い菓子を美味しく感じられないのなら、あなたにそれを食べる資格はありませんが」
          「いや、パンケーキはすごく美味え。…じゃなくて、任務が、な。」
          「特筆すべき支障が?先に言いますが、私はその内容に関わる許可を得ていませんよ」
          「知ってる」
          「では、その上で私に言いたいことでも」

           アイランズがひと口コーヒーを飲んだ。応神は飲めない、ブラックのコーヒー。
           ふわふわと上がる湯気が揺れて、消えて、晴れて、その向こうから碧色の視線が応神を射ている。

          「なあアイランズさん、なんで俺と谷崎組ませたんだ?」
          「それは、私が言うべきではありません。今回の任務から何かを得たのなら、それが答えです。」

           音の高低はなだらかだが、有無を言わせない冷たさがあった。
           応神が閉口する。

          「俺は現場、あいつは指揮。通信繋げてくれるらしい。」
          「適材適所ではありませんか?」
          「俺はあいつの指示に従いたくない」

           応神の言葉に、アイランズが眉を寄せた。何か言いかけて開いた口に、応神がパンケーキの刺さったフォークを差し込む。

          「むぐ」
          「言いたいことはわかってる。俺だって自分の立場は理解してるんだ。ちゃんと従う。」
          「─── そうしてください」
          「谷崎は─…頭がいい奴なんだろうとは思う。指示も意見もはっきりしてるし、論理立ってる。」
          「ええ」
          「感情論や持論じゃなくて、事実だけを見て、そこからなにができるかを探っているように見える」
          「でしょうね」
          「ただ、俺から見れば失策に思える意見も多い」
          「それはそれは」
          「あいつが俺の意見をどう思っているのかは知らんけどな」

           おそらく肯定的には見てないんだろう。そんな意味を込めて、応神が吐き捨てるように呟いた。
           かちりと、ソーサーにカップが置かれる音がする。

          「意見というのは、場に並べるだけのものではありません。意味をすり合わせ、吟味し、意見から計画へと昇華させていく必要があります。」
          「そうだな」
          「貴方がたに足りないのは、対話ですね。人間関係を作るにおいて、焦りは禁物です。ひとつ屋根の下で暮らし、職も生活も共にする相手なら尚更。」

           アイランズが、湯気の薄くなったコーヒーを啜った。応神のパンケーキはすでに大半が消えている。

          「基本的な計画はもう組み上がっているんだ。応用が成り立つのは堅実な基礎があってこそだが、もうその基盤はできてるように俺は思える。あとはその場に合わせて柔軟に対応していけばいいんだが、谷崎は違う、まだ足りないと言うんだ。」
           

          応神くん。キミの意見もわかるけど、もう少し慎重にことを進めるべきだ。この任務に関しては、ただでさえ信用に足る情報が少ない。あらゆる事態を想定して動かないと。
           

           大人が幼子に言い聞かせるような声音だった。その時の苛立ちを思い出したのか、応神が眉をひそめる。アイランズは黙って応神の話を聞いていた。

          「起こるかわからないことを考えてぐだぐだ詰めるのは時間の無駄だ。不測の事態の想定を重ねに重ねて机に積み上げていれば、自分の身動きが取れなくなる。物事は進まない。」
          「…ええ」
          「谷崎が考えてるのが、全部机上の空論にしか聞こえねえんだよ」

           「歩み寄れる気がしねえ」と、応神は小さく息を吐いた。
           そんな応神を、アイランズは半ば呆れたような、思案するような、適切な言葉を選ぶような様子で見ている。

          「個人的な所感で申し訳ありませんが、私が見ている限り、貴方がたは結論を急ぎすぎている気がします。───いえ、結論を急いでいるのは貴方だけ、ですか。」
          「俺ひとりが空回りしてるとでも言いたいのか」
          「…そういうところですよ。もう少し言葉を継ぐなら、意見を並べて、思考を合わせて、ふたりで同じ方向を向いて、同じ着地点を探していく努力が必要かと。」
          「着地点」
           
           小さくため息をついて、アイランズが応神の方を向いた。

           応神はこの目を好ましく思っていた。が、同時に厭わしくも思う。
           アイランズが人間に向かい合うときの目だ。対話し、なにかしらの解決を求める時の。
           普段仕事で向き合う人々と自分が同じ目で見られていると知ったとき、応神はこの碧を直視できなくなった。
           
          「私は厳密には、貴方がたのような現場に立ったことはありません。ですが、戦場は違っても、戦いは同じです。───いいですか、応神薙。貴方の言うことはもっともです。過分な準備は重荷に。行き過ぎた想定は不安に。不安が進めば恐怖に。恐怖は我々にとって最大の敵です。前に進めなくなりますから。」
          「ああそうだ。だから、俺はこれ以上不安要素を積み上げるなと言った。事態が動くのは机の上じゃない。」
          「ですが、谷崎の言うこともやはり、正しいのです。私たちが相手にするのは、人間だけでは
          ありません。いつ出てくるかわからない、不合理、不条理。人間の頭では理解できないものたち。彼らは想定のはるか先を超え、あるいは思考の斜めの隙から切り込み、時には積み上げた前提の全てを突き崩し真正面から来ます。」
          「見てきたように喋るんだな」
          「事前準備はしておくに越したことはないということですよ」

           応神は黙ってアイランズを見た。アイランズもまた、応神を見つめ返す。
           視線が空中で絡み合い、机の中央でぱちりと嵌まった。

          「どうすりゃいいんだよ」
          「正解なんてないということですよ」
          「…どうしろってんだよ…」

           応神が視線を逸らす。行き場のないため息が、ふわりと宙に消える。

          「仲違いしていると、容易く行けるものも上手く運びませんよ。さっさと和解してください。」
          「俺らの仲がどうだろうが、別にアイランズさんには関係ねーだろ」
          「間に挟まれている私の気持ち、考えたことあります?」

           あまりにも正しい言葉に、応神は黙り込んだ。
           現にこうしてアイランズに解を求めている。2人の仲がこのままな限り、応神はことあるごとにアイランズに相談を持ちかけるだろう。そして、谷崎とて同じことをしないとも限らない。

          「アイランズさんの胃を大事にしなきゃな…」
          「貴方がどんなことを思ったのか知りませんが、自分ひとりの面倒くらい、私はきちんと見られています。貴方が気にすることではありませんよ。」

           ほんとか、と言いたげな顔で応神がパンケーキの最後のひと口を切り分ける。
           すっかり湯気の消えたコーヒーを啜り、アイランズは小さく息をついた。

          「100%完璧なものは誰も求めていません。たとえそれが、妥協に妥協を重ねた次善策でも構わないのです。ふたりで考えて、突き詰めて。選び取ったその答えに、質はどうであれ価値を見出せたら、きっとそれが貴方がたにとっての最適解です。」
           
           

            • _

             

            2013/5/25


             
             ───どうしてここにきて突然、アイランズの言葉を思い出したのだろうか。
             脳裏に瞬いた蒼色の光を振り払って、応神は薄暗い廊下の中でまた、1歩を踏み出した。
             
             日本生類創研の施設に関連する情報収集、それに機動部隊と協力しての襲撃。
             暗記するほど読み返した書類の文面を、応神はもういちど反芻する。何をするべきか、何をしなくてはいけないか。事前に立てた計画の全ては応神の頭の中に入っていた。

             応神にとっても、谷崎にとっても、今回が初任務だ。
             首筋を痺れさせる緊張感と、現場特有の、肌を焦がす熱。
             それを感じながら、応神の頭は、自分でも驚くほど冷えていた。
             
             うるさいほどの静寂が肌を刺す。
             薬品の匂いはいつの間にか消えていた。
             
            通信状況が芳しくないんだが。聞こえるかい?
            「微妙にノイズが入るが、聞こえる」
            そうか。では、今の状況を手短に説明してくれ。
             
             応神は1度足を止めた。ぐるりと周囲を見回す。
             通信機器から零れ落ちる谷崎の声が、今の自分の行動の指針だ。
             
            「地下だ」
            それは知ってる。先ほど隊長と話していただろう。アノマリーと人員の確保は機動部隊に、こちらは研究の書類を確保すると。
            「ああ。で、研究室をうろついていたら、地下に下る梯子があった。それを、お前に下るよう指示された。ここまではいいか?」
            オーケー。で、わざとらしく隠された入り口の奥に進んでいるわけだが。どうだい、それらしきものは?
            「ない」
             
             応神が再び歩き出す。
             どこへ歩こうが、道は1本しか見当たらない。だんだんと暗く淀んでいくそこを、 緊張の糸をたるませないように気を張りながら───応神は躊躇いなく進んでいく。

             
            「谷崎」
            なんだい
            「想像を言っていいか?」
            どうぞ
            「地下の構造に覚えがある」
             
             数秒間の沈黙が下りた。
             [続けてくれ]谷崎の声が耳に流れてくる。
             
            「防空壕って知ってるか」
            …おやおや
            「ここは多分、防空壕に見せかけた地下施設だ。ここを潰して情報を奪えば、俺の任務は完遂。」
            俺たち、と言ってくれ
            「どうだか」
             
             応神が足を止める。
             目の前には金属製の扉。
             
            「ビンゴ」
            施錠手段は?
            「南京錠。対応する鍵が必要だ。」
            少し引き返してみよう。仕事熱心な研究員が機動部隊を掻い潜ってこちらに来ていたなら、そこから失敬すればいい。
            「お前もなかなか…随分な性格してるよな」
            さっさとしてくれ。撤退までの時間は残り少ない。
             
             返事の代わりにひとつため息をついて、応神が踵を返す。

             幸い、仕事熱心な職員にはほどなくして会うことができた。足を怪我していたが、構わず応神は無力化処理を行う。
             
            銃は使わないのか。意外だね。
            弾丸タマの無駄遣いはしない主義だ」
            へえ
             
             研究員が着ていた白衣の内ポケットから、金色に光る細い鍵を出す。
             南京錠に差し込むと、軽い音と共に、戒めを解かれた重たい錠が床に落ちた。

             応神が扉の側に立つ。
             
            「…人間の気配がひとつ。他には何も感じない。」
            なるほど。本当に、人間以外はいないんだね?
            「確証は持てない。が、結局中には行かねえと書類は手に入らねえだろ。」
            ごもっともだ
            「出入口はここしかないと思いたいが、施設全体に抜け道なんざいくらでも作ってるんだろう。ならば」
            抜けられる前にさっさとカタをつけるべきだとキミは言いたいわけか
            「ご明察」
             
             応神が扉の脇に立った。
             「Go突撃?」応神が口の中で谷崎に指示を仰ぐ。
             

             谷崎の返答と、鉄製の扉が盛大に蹴破られるのが、ほぼ同時だった。 
             


             

             足を1歩踏み入れた瞬間、違和感に気づいた。
             決して主張はしてこない。だが、確かに存在する忌避感。両手がゆっくりと伸びてきて、首にかかった指に力がこもっていくような。
             
             部屋の奥に、壁際中央に置かれた古い机があった。
             壁の脇には古い棚。中には薬剤と思しき瓶。
             応神は机の上を見た。机は古い木製で、厚みは4センチはある。その上に、応神には理解できない言葉で書かれた研究文書が散らばっていた。

            「これを持って帰れば終わりか」
            周りも確認してくれ。なるべく回収する。
            「了解」

             応神が書類を手に取る。
             
             刹那、応神の後ろで、鋭い金属の音がした。

             咄嗟に振り返る。扉は固く閉ざされ、重い鍵がその役目を果たした状態でぶら下がっていた。
             「…!?」なぜ。応神は得物に手をかけ、扉の方へ足を踏み出す。それを見計らっていたかのように、応神の隣で盛大に棚が倒れた

            応神くん!?今の音は!?とりあえず身の安全を最優先にしてくれ!
            「了か───

             返事をするために吸った僅かな息は、しかしその後の動向を左右するのに十分な働きをした。
             咄嗟に口を覆ったが、寸分間に合わない。足元には割れた瓶が転がり、中から溢れた紫色のものが部屋を満たしていく。それは例えるならば湯気のようなかたちをしていたが、一定のところで視認ができなくなった。ただ、見えないだけでそこにあるのだろう、と応神は思う。

             3、4歩後ろへ下がる。足元がぐらりと揺れた。景色の輪郭がぼんやりと薄れていく。
             
            「───手荒なことをしてすまない。はは…終わったらすぐに解放するから、許してくれ。」

             倒れた棚の向こうで、白衣の男が薄く笑っていた。
             古い棚は理不尽な衝撃に耐えられなかったのだろう、木の板は無残にも折れていた。それを踏みつけ、乗り越え、男は応神の前に悠々と立つ。
             微かな笑みと共に漏れた息が、応神の鼓膜を揺らす。

            他人研究者の大事な成果たからものに勝手に触れるなんて。野暮。無粋。これだから凡俗は。」
            「うるせ…」

             口が回らない。体に力が入らない。筋肉が役目を放棄してしまったようだ。応神はがくりと膝を折り、机に手をつく。
             男の背後には、先が見えない狭く、暗い空間が続いている。
             視界が揺れる。応神は息を吸った。───瞬時に後悔するが、体に巡る空気は戻ってはくれない。強烈な吐き気と共に景色が反転し、応神は床に崩れ落ちる。

             鈍い音がした。
             
            応神くん!

             イヤホンから声が聞こえる。
             
            「ようこそ、私の秘密の実験室へ。───1回やってみたかったんだよね、この文句。」
             
             男は笑った。ひどくたのしげに。
             
            「喜んでくれ。君はこの実験で初の人間の被検体だ。」

             男がポケットから注射器を取り出し、ゴム手袋を嵌める。そして、もうひとつの棚の中から小瓶を取り出した。
             透明な液体で満たされた注射器を、見せ付けるように応神の前で掲げる。
             応神の側で膝をつくと、男は応神の黒い手袋をずらした。黒いコートの袖の下から、手首が露わになる。

            「クソ、やめろ、お前、何を!」
            「大丈夫、一瞬チクッとするだけだから」

             言葉を聞き終わらぬうちに、手首にぷつりと痛みが走り、何かが流れ込んでくる感覚がある。

             なんとか抵抗を。されるがままなど絶対にできない。
             淀んだ頭がぐるぐると空回る。

             刺された跡がひどく熱い。

            「──────終わりだ。よく頑張ったね。」
            「クソ、何を、入れ、」
             
             [───応神くん、返事をしてくれ]どこか遠くから、通信の向こうの声が脳に流れ込んでくる。
             「たにざき」小さく呟いた声に、手袋を外していた男が瞳を眇めた。

            「おともだちがいたのか」
            「友達じゃない…」

             吐き出すように、ひと言、応神は声を絞り出す。 

            「友達じゃない」
             
             
             
             ならば、君のお仲間か。そうか。
             男は口元だけで笑みを浮かべると、応神に腕を伸ばした。 
             


             
             
            応神くん?

             声が聞こえた。

            『谷崎』
            大丈夫………じゃないか
            『…』

             通信機の向こうで小さく息をつく声に、応神は小さく肩を跳ねさせる。
             『俺は大丈夫だ』吐き出した声は、自分が思っていたより力がなかった。
             
             
             応神家というのは、から日本生類創研と因縁が深い。初任務でニッソとは何の因果だろうかと、応神はため息をついた。
             ───ここで責務を疎かにしてしまっては───倒れてしまっては、先祖たちに顔向けができない。
             

            『谷崎』
            …なんだい
            『指示をくれ。俺はまだ戦える。』

             返事はなかった。
             その代わり、応神の意識を割って、研究員の言葉が流れ込んでくる。 
             

            「はは。そうだ、ひとつ取引をしないか。」
             

             【…落ち着いてくれ応神くん。僕は僕の選択をするだけだ。

             谷崎、と思わず声をかけたが、通話の声は案外平静だった。
             

            「───彼の身の安全か、私の研究か。ふたつにひとつ。君に選ばせてあげよう。」
             

             ひゅっと、息を呑む音が聞こえる。
             応神は握った拳にきつく力を込めた。手にぬるりと生温い感覚がある。血。
             
            『谷崎、俺は大丈夫だ』
            『ここで優先すべきは任務だ』
            『研究を取れ。俺はちゃんと戻れるが、逃した成果は2度と戻らない。』
             

            「こたえないのかい?」
            「言葉がつっかえて出ない、といった感じだね。」
            「はは、やさしいね」
            「大事にされてるね」
             

            『谷崎』
             
            【───研究成果をもらおう。彼は大丈夫だ。僕は彼を信じてる。】
             

             ───ああ、これで大丈夫。
             ふと安堵した瞬間、目の前が暗くなった。
             


             

             きっかけはなんでもよかった。
             
             表面張力というのは、それそのものが微妙な均衡を保っているが、ギリギリで差し止まったものは崩れるのも一瞬だ。
             極度な緊張状態───特異な環境、ひどい疲労、追い詰められた精神───に、少しだけ。ほんの些細でいい───ひとさじの過ぎた圧をかければ、案外簡単に、あっさりと崩れ去る。
             

             男は少しだけ考えてから、応神から奪ったイヤホンを拾い上げた。
            「───聞こえるかい」[…!]イヤホンの向こうから、息を呑むような声が聞こえる。
             
             表面張力に圧をかける、最後の1滴。背中の信を奪うこと。
             
            「君のおともだちは今、私の実験に付き合ってもらっている。それを私が見る間、少しだけ私と話をしないか?」

             イヤホンからはしばらくの沈黙が流れ出していた。しかし、やがて重苦しく「いいでしょう」という声が聞こえてくる。

            「君たちの望みは、私の研究成果か?」
            ………ええ。そう受け取っていただいて結構です。
            「そうか」

             男は微かに笑いを漏らす。通信機の向こうからでも、相手が緊張しているのが伝わってきた。

            「別に、研究成果を素直に君たちに渡してあげるのもやぶさかではないんだ」
            …は?
            「ああ、まあ、その場合彼は死んでしまいそうだけどね」
             
             男は応神を見た。
             息は浅く、ときどき肺からそのまま流したようなおかしな音が零れ出している。額にはじんわりと汗が滲んでいた。
             時々何か痛みを堪えるように目を眇めていたが、男と目が合うと、極度に張り詰めた色を持って、僅かに目を見開いた。
             
            「これはね。元々軍事研究だったようだ。簡単に言えば、兵士の退路を断つための薬。いかにも、前線を知らない者が考えそうなことだね───まあ、私も戦争を経験した世代ではないのだけれど。」
            負の遺産をわざわざ引き継いだのですか?
            「研究資料が残されたノートを見つけたんだ。最後のページに、これはどうしても残したかったとメモがあった。…私も研究者だ。残した者の気持ちが痛いほどわかった。───だから、引き継いだ。もちろんそのままではない。 超常技術我々の力も大なり小なり混ぜたがね。」

             転がった応神実験体を眺め、男は笑みを浮かべる。やわらかい。あたたかい。情に溢れた。
             自分よりちいさいものを、弱いものを哀れみ、慈しむ目をして。

            「君にとって、生きる意味とは何かね?人生を賭しても得たいもの、遂げたいものはあるかね?自分の身を捧げて奉じたいものは?」
            ぼくは
            「私にとっては研究だ。研究者にとっては、叡智の探究が人生だ。おそらく君たちの仲間が捕らえた者たちも、かわいそうに、なくなってしまった者たちも、そう答えるだろう。」

             「君は研究は好きかい?ひとつの問題に対し、深く思考することは?」男は通信機の向こうに問いかけた。
             [必要とあらば、いくらでもします]答えが返ってくる。

            「ならば、思考は君にとっての義務か」
            ノーコメント。ぼくはあなたのことがわかりたくないんだ。
            「わかりたくない…ああ、凡俗にはわからないだろうな。この熱。この信念。いっそ崇高なほどに、側から見れば愚かしいほどに、惹かれ求めたもの───楽しかった。愉快だった。私の研究。私の人生。探究こそ我が喜び。私は知のしもべだ。」

             ニッソなどには見せない。目先の金しか考えられなくなった有象無象の手に継がれてたまるものか。小さく男は吐き捨てた。

            「こんな状況でなければ、ゆっくり話をしたかったね。君は私のことを理解してくれそうだ。」
            …理解はしません。決して。
            「はは。そうだ、ひとつ取引をしないか。」

             相手が一気に緊張したのがわかった。
             それに対し、男はいっそ不釣り合いなほどに、優しい声音で話しかける。

            「研究者というのは、自分の研究に責任を持たなくてはいけない。研究の手綱を握らなければいけない。この意味がわかるかい?」
            …彼に施した薬剤の解毒方法が、あると?
            「話が早くて助かるな。君たちが欲しいのは私の研究成果だろう?」
            …はい
            「どうだい。彼の身の安全か、私の研究か。ふたつにひとつ。君に選ばせてあげよう。」

             ひゅっと、息を呑む音が聞こえた。
             
             声にならない小さな音がする。
             すぐにやってくると思っていた言葉は、いつまでもこない。
             
            「こたえないのかい?」
            「言葉がつっかえて出ない、といった感じだね。」
            「はは、やさしいね」
            「大事にされてるね」

             男は笑い声を吐いた。

            「───ああ、わかった。君たちの素敵な友情に免じて──────」
             


             

             『薙』

             声が聞こえた。
             聞き慣れた声だった。ただ、ここで決して聞こえてはいけない声。

             応神は顔を上げる。途端、乾いた音が盛大に鳴り、頬に熱い痛みが走った。

            「!?」
            『何を呆けている、薙』
            「は、え…?」

             頬を押さえて顔を上げる。
             黒い着流しを身に纏った、老年の男が立っていた。歳を経てもわかる端正な顔立ちは今、不機嫌そうに眉をひそめている。

            「じいさ…先代!?」
            『一々驚くな』
            「去年冥土に行ったはずだろ!?俺はまだ死んでねえぞ!」
            『…まだ幻覚と現実の境が曖昧なようだな。』

             相手がため息をつく。応神は混乱したようにその姿を見ていたが、不意に自分の耳に手を当てた。
             右耳に嵌っていたはずのイヤホンが、どこにもない。

            「やっと気づいたか。ならば、さっさと自分のやるべきことを考えろ。』
            「やるべきこと…」
            『お前の身と思考を蝕むのは毒物だ。ならば、解毒の術で対処するのだろう。日生研の任務というのに、そんな備えもしていないのか?』
            「もちろん、毒に対しての備えはしてある。…でも、どうして、俺は谷崎と、」
            『"死なせたくない大切な相手"として選ばれた相手にしては、信頼が薄いように見えたがな。…まあいい。現実に気づいたらもう、自分がやることはわかるな?』
            「……… ああ」

             応神はこの一瞬でひどく疲れたような顔をしたが、すぐに気を取り直し、相手の目を真っ直ぐに見た。

            「すまなかったな先代。俺はまだまだ未熟だ。」
            『はっ、お前ごときが成熟を語るなど片腹痛い。いいからさっさと行け。己が為すべきことを為すんだ。』
            「おう」

             応神は頷く。その目を、相手は静かに見据えた。

            『薙』
            「なんだ」
            『太陽は見つかりそうか?』

             応神は一瞬動きを止める。
             だが、それに返事を返すことはついぞなく、口の中で毒消しの文言を唱え始めた。
             


             

             巷では科学という名の光が世を照らす中、その光によって影が濃くなるのもまた、事実だった。超常りかいできないものは息づいているのだ───案外すぐ後ろに。
             

             かつては蒐集院屈指の名家であった応神家は、伝える術式も幅広い。
             応神は特段術が得意なわけではなく、またこの場合、ちんたらと術を発動させている余裕もない。

             少しだけ考えたあと、応神はコートから短刀「雨覆アマオオイ」を取り出した。
             躊躇うことなく肌に刃先を当て、少しだけ押し込む。ぷつりと肉が裂け、真っ赤な血がぷくっと浮いた。とろとろと手を伝う鮮血に霊力を注ぎ、応神は丹に力を込めた。
             毒消しのまじない───の、短縮詠唱。時間はかからぬ分効能は落ちるのと、術者の練度に応じて結果が左右されがちな術だが、その粗を応神は血で補った───1滴だけでも強い、応神の血。そこに応神は宗家直伝の文言を組み合わせた。
             

             視界が晴れる。
             

             完全とまではいかないものの、先ほどよりも口も思考も回り、四肢も正しく動いた。
             雨覆を鞘にしまい、応神は立ち上がる。
             


             

             男は白衣のポケットの中から、携帯式のライターを取り出した。
             オイルは半分ほどしか入っていないが、それで充分だろうと男は見当をつけた。ポウッと明るい炎が先端に現れる。男はそれを書類の先に近づけた。

            「後悔はしていない。私は最後まで知の僕として生き、その最期の息を看取れるのだ。私の理想。私の全て。私は私を識り、私の望むように生きた。」

             誰に言うでもなく呟く。ゆらりと燃えた緋色の炎は、白い紙の先を赤く染めた。
             
             ───刹那、男は気配を感じて振り返る。

             底冷えのするような殺気だった。気づいた時にはすぐ後ろにいた。
             書類とライターが手から滑り落ち、新たな居場所を得た炎が床を這う。男は小さく悲鳴をあげたが、構わず応神は机の上の書類を手早くまとめる。燃やされた紙は先の方が焦げていたが、最低でも6割程度は読み取れそうだった。

            「触れるな!」
            「チッ、余計なことしやがって…お前も来い、さっさとしないと煙に巻かれて死ぬぞ。」
            「お前、なぜ───薬剤研究成果も使った、手始めに薬も巻いた!あれには筋弛緩剤も入ってたんだぞ!なのにどうして、」
            「生憎だが俺の家は、お前らが必死で暴こうとしてた暗闇不合理の中のモノを使うのが得意なんだ。───ご自慢の研究成果もこんなもんか。散々ご高説垂れてたようだけどよ。」
            「うるさい!まんまと罠にかかっていた癖に…」

             男が引きつった声で叫ぶが、悠々と部屋を蹂躙する炎は、もう壁の方に差し掛かっていた。
             男は小さく舌打ちをする。

            「私は江崎えざき!お前は実験台の分際で私の研究を侮辱した、この借りは必ず返させてもらう!」

             言うが否や、倒れた棚を踏んで、暗闇の中に消えていく。
             

             応神はコートのポケットから出した鍵を差し込んだ。
             開いた扉の隙間に体を滑り込ませ、手早く扉を閉める。
             
             
             
             谷崎の声が聞こえないことに気づいたのは来た道をしばらく戻ってからだが、今更戻ることもできないだろうと、そのまま長い道を歩き続けた。
             


             


             
             満身創痍で戻ってきた応神に、谷崎が特に何かを言うことはなかった。
             肌を包帯で隠し、医務室から出てきた応神を、待ち合いの椅子に座って待っていた。
             その様子が、借りてきた猫のように大人しく、所在なさげだった。
             
             目深に被っていたパーカーのフードを上げ、疲れた顔で少しだけ微笑んだ谷崎に、応神は微かな舌打ちをした。
             
             
              • _

               

              2013/5/26


               
               薄暗い部屋の電気を消し、冷えた布団に横になり、ひと晩泥のように眠り。
               目覚めたとき時計が示していたのは、午前10時を少し過ぎたあたりだった。
               
              「よく眠れたかい、応神くん」
              「───お陰様で。布団でぐっすりだ。」
              「ならよかった。今日はぼくが昼食を作るから、キミはゆっくりしていてくれ。」

               ダイニングテーブルの上には、ラップのかかったホットケーキ。
               だるい体をずるずると引きずって椅子に座ると、目の前に空のカップが置かれる。

              「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
              「コー…紅茶」

               答えてまもなく、湯気を立てる金色の液体が注がれた。
                
              [───続いて、関東地方の天気です。東京は午後から雨が降るでしょう。───]

               テレビから流れ出す天気予報が、ぶつりと切られた。顔を上げると、谷崎がリモコンを画面に向けている。
                
              「アイランズさんが心配していたよ。連絡のひとつでもしておくといい。」

               声とともに携帯が差し出された。着信2件、メールが1件。
               メールの中身は、応神の体を心配するもの。任務の是非については触れられていなかった。

               無言で携帯を閉じた応神の前の皿に、もう1枚、新しいホットケーキが乗せられる。
               
              「報告に行かなくてはいけないから、昼食が遅くなる。食べておいてくれ。」
              「… わかった」

               パサついたホットケーキを、紅茶で流し込む。咥内がいやに乾いていて、もう1度、熱い液体を口に含んだ。
               


               
               終始無言だった。
               財団の出口へ向かう廊下も。バス停へ歩くわずかな道も。バスの車内も。
               濁った沈黙があり、その少し上を、街の喧騒が通り過ぎた。
               

               靴をしまうのもそこそこに、谷崎がカウチへと沈み込む。
               「疲れた」小さく呟いて手足を伸ばす。やわらかなクッションが彼の身を受け止めた。

              「お疲れさまだね、応神くん」

               そう言った声には覇気がなく、かんばせには隠しきれない疲労が滲んでいる。少し色も白いだろうか。
               谷崎は側にあったウサギの形のクッションをぽふりと叩いた。「ルームシェアのお祝いと今後の活躍祈願」だなんて、同僚から貰ったものである。目として据えられた大きなボタンが、持ち主の暴挙に抵抗するようにゆらゆら揺れた。

              「キミだって疲れが抜けてないだろう。ぼくは少し休めば大丈夫だ、昼食ができるまでひと眠り、なんてどうだい。」そう言ってウサギを腕に収め、くたりと横になる。

               隣を示すようにソファーの空きをポンポンと叩いた谷崎に、応神は首を横に振った。明確な否定の代わりに、口から滑り落ちたのは別の言葉だった。
               
              「谷崎、任務と俺を選べと言われたとき、結局お前はなんて答えたんだ?」
               
               半ばまどろみの中にあった谷崎の目が、応神のそれにかちりと嵌る。
               
               問いのかたちではあったが、応神の中では明瞭に答えが出ているようだった。

              「それを聞いて、キミはどうしたいんだい」
              「聞かれた質問に答えてくれ」

               ひとつ息をついてから、谷崎は応神から目を逸らした。
               

              「答えなかった。何もね。」
               

               応神が僅かに目を見開く。

              「───なるほど、キミは、ここで任務の反省会をしたいわけか」
              「答えろ谷崎。どうして俺を信じなかった。」
              「信じるも何も、…」
              「任務を取るのは財団職員としての仕事だ。どうして正しい判断をしなかった。」
              「…」

               谷崎はウサギのクッションに顔を埋めて黙り込んだ。これ以上会話したくない、という空気がありありと出ている。
               小さく息をついてから、応神は重い口を開いた。

              「俺は動けた。俺の中の最善があった。そしてあの任務の中で、俺はお前にそれを開示したつもりだ。だが、お前は余計な心配でそれを阻んだ。」
              「余計な心配…?あんな状態から、それを覆せると判断し信じる人間こそ馬鹿だろう。過信だ。」

               応神の小さなため息が空気に溶ける。谷崎はその微かな呼吸音にひくりと身を硬くした。自分への糾弾から身を守るような行為だった。

              「谷崎。話をするぞ。俺ができることできないこと、お前ができることできないこと。考え。きちんと共有するべきだ。」
              「なるほどね………アイランズに何を吹き込まれた?」
              「…今アイランズさんは関係ないだろ」
              「自分の意思で、思考の中で、キミがそんなことを言い出すようには思えない」

               応神が小さく舌打ちする。

              「お前は言葉が足りない。なにもかもひとりで思考を完結させるのはお前の悪い癖だ。」
              「会ってひと月も経っていないのに、随分と知った口を利くんだね。」
              「俺はお前のことを信頼して、指示を仰いだ。そしてお前も、俺を信じて俺を動かせばよかったんだ。」
              「それじゃあ、」
               
               一瞬、沈黙が下りる。

              裏切られた、とでも言いたいのかい?キミは」
               
               谷崎は微かに、嘲笑うような笑みを浮かべた。
               
              「…アイランズになんて言われたのか、当ててあげようか?」
              「いや、いらん。行動するのは俺たちだ。俺はお前と話がしたかった。」
              「ぼくは今キミと対話する気はないんだ。任務の件で色々と疲れてる。キミもだろう。」
              「いいタイミングだ、と思っただけだ。お前が会話する気があろうとなかろうと。」
              「理不尽だね」
              「俺から見ればお前の方が」

               谷崎が身を起こし、応神がサングラス越しに谷崎と目を合わせる。
               黒い色の向こう側で、応神の金が一瞬だけ瞬いた。

              「充分な説明と共有をして、今後のあるべき姿を考えたい。この先も俺とお前が一緒に任務を行うのなら当然。」
              「そう決まったわけじゃないのに?もう黙ってくれ。キミは疲れてる。」
              「言葉を放棄するな」
              「していない」
              「俺との会話を投げたのにか」
              「ぼくは少なくともキミより思考を大事にしているし、キミよりも言葉を大事にしているつもりだ。ぼくはいつだって、ぼくの最大限を行っている。」
              「今回の任務もそうだったと?」
              「ああ、そうだとも。キミが軽んじて踏みつけていったものを、ぼくは拾い上げて、机の上に並べて…同じように戦った。」
              「軽んじたわけじゃない」
              「軽んじてる。少なくとも、自分の行動への責任が足りない。キミは自分の力を過信してる。」
              「口だけは達者だな。人の言葉を勝手に解釈して。表面をなぞるだけで満足するのは楽しいか?」
              「勝手に解釈をするのはキミだって同じだろう。キミは全体的に、独善的な理想論で考えすぎだ。」

               応神が小さく舌打ちをする。
               明らかに嫌悪を見せたその表情に、谷崎は一瞬、僅かに目を見開いた───途端、ウサギを乱暴に叩きつけ、勢いよくソファーから立ち上がった。
               
              「───黙って聞いてれば!そもそもキミは!」
              「!?」
               
               応神が寸分怯んだような顔を見せ、足を1歩後ろに引く。谷崎は一瞬ひどく怯えたような、切迫したような様子を見せたが、やがて力任せに言葉を吐き出した。
               
              「───じゃあ聞くけど、キミは隣にいる奴が自力で毒消し使ってあの状況を打破できるなんてこと、考えられるかい?」
              「いや、それは」
              「あのねえ、キミがそんなトンチキ能力持ってるって知ってたら、ぼくだって相応に作戦を立ててた!」
              「トン…」
              「トンチキだよ。非科学的だ。いくら超常が跋扈する世界だって言ったって無理がある!なんだいキミは、自分の血を使って術を強化?ふざけるな!そんなことできてたら人間もっと楽に生きられるし、職員の死亡率だって減る。ぼくはぼくの中で持った知識で、キミにできるであろう最善の作戦を組んだ。ああ、キミはそれに意見する権利があるとも。罵倒する権利も。ただ、キミができることを正しく開示せず、その上で信頼だのなんだのぐだぐだ抜かすなら、それはキミの言えたことじゃない!ぼくはぼくの知るありったけで頑張ったのに───キミはそれを無視した、キミの方から隠しておきながら、知らないことを罪だと言って糾弾した!」
               
               谷崎は開いた口をそのままに、熱の抜けきらない目で応神を見た。
               
              「今更遅いんだよ、応神くん。信頼だのなんだのを持ち込むなら、任務の前にきちんと言って欲しかった。───それこそ、キミが何ができて、何ができないのかの話を。」
               
               応神は黙った。谷崎も口を閉ざした。
               応神の目にはある種の絶望感のようなものが横たわっていたが、谷崎はあえてそれを見ないふりした。目を逸らし、ぱちりと瞬きをする。次いで口から零れ落ちたのは、彼自身の言葉ではない。
               思考停止のスイッチ。
               
              「キミとぼくとは、致命的な思想の齟齬があるようだ」
              「ああ、そうだ。───ずっとそうだった。今さら気づいたのか。」
               
               悲しみの色さえ湛えた谷崎の声音に対し、応神の声は冷たかった。突然冷たい静けさを取り戻し、それを刃にして谷崎に向けているように思えた。

              「ぼくはキミに、なるべく好意的に接しようとしていたのに」
              「ああそうかよ。俺はずっとお前のことが嫌いだった。」
              「…そうかい」
               沈黙という名の凪いだ水面が、互いの言葉でゆらゆらと不均衡に揺れているような。そんな空間だった。

               きっとこの静けさは、少し深くまで声を立てれば容易く荒らされ、2度とはかえってこないだろう。2人はそこに立ち、静寂を共有していた。ひとりはこの沈黙を奥深くまで浚い、引き出し、吟味することを望み、ひとりは沈黙を沈黙のままとし、静穏が続くことを望んだ。

               谷崎がぼふっとソファーに身を落とし、ウサギのクッションを持って横に丸まる。うっすらとかかった前髪を隔てたハシバミの目は、どこか拗ねたような、それでいて全てを諦めたような色を持っていた。
               
              「俺の言うこと、ひとつもわかってねえだろ」
              「…聞いている。覚えているよ。キミの声。音。」
              「目に見えることだけ盲目的に信じると、いつか足元をすくわれることになるからな」
              「ぼくは、ぼくに必要なものしかいらない」
              「俺との話はお前にとって邪魔か」
              「キミの中のぼくはそこまで重たい存在なのかい?時間をかけて対話をして、掛け違えた認知を丁寧にすり合わせていく労を割く必要があるくらいには。」
              「少なくとも、その労は必要だと感じた」
              「ならばぼくはこう返そう。ぼくは今まで付き合ってきた中でキミのことを理解してきたし、ぼくはその認知に合わせてキミに指示を下すことも、共に付き合うこともできる。今更キミが言うような話し合いなど必要ない。」
              「俺はお前のことがわからない。だから知りたい。」
              「それは義務かい?」
              「責任だ」
              「それは、キミひとりの責任だね。自分で勝手に背負い込んだものに、ぼくを巻き込まないでくれ。」
              「お前がこれからも俺のことを隣に置いておくなら、お前はその責任を取って、俺の話を聞くべきだ。」
              「ならば、キミがぼくのところから離れればいいだけの話じゃないのかい?」
               
               そう言って、谷崎は口を結んだ。
               黙ったまま応神に目を合わせる。応神も黙っていた。

               お互い、常に頭の片隅にあることであり、どこか恐ろしいような響きさえ湛えた言葉だった───ただ、1度外の空気に触れさせてしまえば、直視しないわけにはいかなかった。
               
               ただのルームシェアだった。いつでも打ち切れた。
               財団の方に申請を行った手前、こんなすぐに切るのは芳しくないとしても、一切顔を合わせず、話をせず、ただ屋根を共にするだけの他人、として振舞うことなど簡単だった。少なくとも谷崎にとっては容易いことであったし、それができるかどうかを判断するほど、谷崎は応神に踏み込んではいなかった。

               少しの時間関わり合った、他人なのだ。
               別に任務だって共にする必要はなかった。
               ルームメイトであるからといって、仲の良い顔をする必要だってなかった。
               
               隣にいる必要もない、ただの、
               

              「少し頭を冷やしてくる」

               応神が足音を乱して立ち去る。
               扉が乱暴に閉まる音に、谷崎の肩がびくりと跳ねたが、階段を降りていく応神には、背中の後ろの気配は見えなかった。

               

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                 行くあてもないまま、春の街をぼんやりと歩いていた。
                 ポケットの中には携帯電話。それに、小銭入れ。

                 少し考えて、自販機に120円を流し入れる。初めて部屋に入ったときよりは暖かくなったな、と思いながら、「つめた〜い」のコーヒー缶を押した。
                 音を立てて落ちてくるブラックのコーヒー。一瞬だけ買ったことを後悔したあと、開けることなくコートのポケットに入れる。
                 
                 公園のベンチに座り、コーヒーを開けた。平日の中途半端な時間。広い敷地にはまばらにしか人がいなかった。
                 舌に残る苦さが咥内と喉に流れ込んできて、応神は顔をしかめる。砂糖が欲しい。アイランズはいつも、こんなものを飲んでいるのか。

                 ベンチの背もたれに身を預け、空を向いて息を吐く。
                 行き場なく漂った音のない声が、閑静な空気に溶けて消えた。
                 

                 5分ほど考えて出した結論は、やはり谷崎と話をしなくてはいけない、ということだった。
                 冷静ではなかった。自分は。

                 まずは謝罪を。そして、相手の思いを知る努力を。応神は自分が取るべき行動の筋道を立てる。
                 ひとりだけで行っても谷崎が話をしてくれるとは思えないから、アイランズに仲介を頼むべきだろうか。外交官の話術で、上手く自分たちの仲を取り持ってくれるだろうか。
                 間違えたとは思わなかったが、何が正しいのかは、応神にはわからなかった。

                 任務に行く前、アイランズが言っていた言葉を思い出す。
                 結局、話し合いは行き違いのまま終わってしまった。呆れられるだろうか。怒られるだろうか。
                 
                 誰も彼も、進むべき道の導は示していてくれたのに、結局自分は、大切なことがなにひとつできていない。
                 

                 肌を打った冷たい感覚に、顔を上げる。
                 雨だ。応神はベンチから立ち上がった。早く帰らなければいけない。あたたかいカフェオレでもいれて、ゆっくりと話を。
                 


                 
                 開くはずの扉を開けることを、鍵の存在に拒まれた瞬間、うっすらと、嫌な予感が背を滑り落ちた。
                 
                 努めて冷静に、静かに部屋に入っていく。大きな音を同居人は好まない。元々扉を丁寧に閉める習慣があった応神は、そういうところを褒められたことがあった。

                 電気は付いていない。ぱちりという音が、いやに耳障りに耳をなぞる。
                 明るく照らされた部屋に人影はない。
                 
                「谷崎」
                 
                 キッチンへ。薄力粉と砂糖が出しっぱなしになっていて、閉め切れていない棚の扉がふらふらと揺れていた。
                風呂場へ。小さいがシャワーも付いていて、応神は好んで使用していた。綺麗に洗われている。タオルのしまい方が少し崩れていた。
                 
                「谷崎」
                 
                階段を上がる。1段1段。
                 
                「谷崎、入るぞ」
                 
                 自分のものではない部屋の扉をノックする。もともと、この扉に鍵はかからない。ノブを回す。
                 床に散らばった書類、机に投げ出されたルーズリーフ。固く閉ざされたノート。
                 部屋の持ち主の気配はない。

                「谷崎」

                 心なしか、声が大きくなっていく。
                 返事はなかった。
                 


                 

                04.png

                 
                 なんとなく、あの家にいたくなかった。
                 ただそれだけのことだ、と無意識に自分に言い聞かせて、谷崎はふらりと歩く。
                 行くあてはない。
                 
                 澄んだ空と高い建物、行き交う人が、谷崎を押し潰すようにして存在していた。
                 谷崎は無意識に、耳元にかかったパーカーの布を引く。布一枚を隔てた場所から、たくさんの音が谷崎を突き刺した。

                 さっきから思考が同じところをぐるぐると巡っているのに気が付けるほど、谷崎は冷静さを持っていなかった。
                 応神の言葉が音になって耳から入り込み、脳を刺し、心臓を潰す。
                 

                 谷崎は不満だった。
                 そもそも、谷崎翔一にとって、応神はそこまで大きな存在ではなかった。大勢の人間のひとり。言うならばNPC。世界を構成する情報の中のひとかけら。少しばかり自分に近い位置にいるからといって、なんの引っ掛かりもない。「自分以外」という枠で括られた、愛すべき他人その他大勢

                 それがどうして、こんなにも自分に踏み込んでくるのだろうか。

                 谷崎翔一の指針を決めるのはいつだって谷崎翔一であった。自分を定めるかたちを決めることを誰に委ねたこともなかったし、自分に敷かれた道のコンパスを誰に預けたこともなかった。財団に来たのも、「Agt.谷崎」のあり方を決めるのも、「谷崎翔一」だった。

                 そのあり方を乱してくる。歪ませてくる。応神薙。
                 磁石を乱す。
                 消したはずの火が燃え、置き去ったはずの薪が炭に変わる。

                 過ぎた炎が身を焦がす。
                 

                 自分に流れ込んでくるたくさんの音が質量を持って、自分の中を蹂躙してくるような心持ち。
                 谷崎はフードを目深に引いた。これはよくない。落ち着かなくてはいけない。
                 
                 風の音。
                 車が通る音。
                 足音。
                 人の声。
                 
                「うるさい」
                 
                 不安定に宙に揺れた薄い声が、自分のものだと気づくまで少しの時間を要した。
                 

                 ぽつりと、冷たいものが頬を打つ。
                 いつの間にか、予報通りの雨が降ってきていた。
                 
                 

                  • _

                   
                   ジョシュア・アイランズはひと仕事を終え、デスクで伸びをした。
                   久々にまともに動かした肩がぱきりと鳴ったのに、少し困ったような笑みを零し、立ち上がる。

                   すっかり冷え切ってしまったコーヒーを飲み干して、アイランズはデスクを離れた。仕事を進めるためではなく、休むために。体は疲労感に満ちているが、心は達成感があった。
                   

                   財団渉外部門、職務は外交官。アイランズ調停官、と呼ばれその責務を全うする彼の業務は、多忙と言うに余りあった。ただでさえ渉外は人が少ない───徹夜、連勤は確実、突然舞い込んでくる新たな仕事に、今までの計画をあっさりと突き崩す新展開。過密な日程と、気の休まることのない業務。

                   それでもアイランズは、この仕事に相応のやりがいを感じていた。
                   調停官。仲立ち。交渉。銃の代わりにペンを。足の代わりに口を。頭と体を絶え間なく際限なく動かし続けた先にある争いの終わりは、アイランズにとってひとつの到達点だった。
                   それがたとえ、ほんのいっとき、かりそめのものであったとしても。
                    

                   それはそうとして、ひどい疲労だった。
                   あたたかい布団が恋しい、とアイランズは微かに息をつく。

                   体が椅子の上で固まってしまったようだった。凝り固まった手首を回し、よぎる痛みに眉根を寄せる。

                   久々に自宅に帰る余裕を手に入れたが、さてどうしようか。アイランズは重い頭を巡らせた。 
                   目の前には、明日1日の休日のために、詰め込みで終わらせた書類の束。
                   
                   ───今日はサイトの中の自室で寝よう。アイランズは思った。
                   自宅に戻るのは明日だ。
                   
                   何もないはずの半日以上の休みが仕事に化ける体質が、どうか発動しませんように。アイランズは心からそう願ってから、操作を待って薄暗く光るパソコンをシャットダウンした。
                   


                   

                   冷え切った体をずるずると動かして、谷崎はなんとかサイトに戻ってきた。自宅に帰る気にはならなかった。
                   髪も肌もずぶ濡れ。服もしこたま水を吸い、重たく水滴を垂らしている。明らかにただごとではない様子に、いく人かのお人好しが谷崎に近づいたが、その全てを谷崎は拒絶した。
                   
                  「キミが真に人間のことを思える人格者なら、なにも手を触れない正しさ、優しさがあるということも、どうか理解してくれ」
                   
                   外されたフードを被り直し、谷崎はふらふらと歩いていく。
                   行けそうな場所はひとつあった。自分を見放さず、ただ決して手を触れられることのない場所が。
                   


                   

                   ぼたぼたと水を垂らす黒いかたまりを見たとき、アイランズは、1度その場から踵を返しそうになった。

                   なぜ、自分の部屋の前に、頭から水を被った男が体育座りで座っているのだろうか───考えども、答えになりそうなものはない。
                   厄介ごとの気配に、アイランズは天を仰ぎたくなった。

                   人影に近づくと、自分の姿に気づいたのか、見上げられた目が合う。
                   
                   アイランズの記憶の中では、狂気とも言うべき光を孕ませ、好奇を滲ませたハシバミの色は、捉え難き深い闇の中、絶望の中に沈んでいた。パーカーは明らかに布のそれではない黒に滲み、角度を変えると濃紺の色に瞬く髪からは絶え間なく滴が滴り落ちている。
                   「………やあ、アイランズ」真っ白な唇が薄く開き、力のない声が零れ落ちた。

                  「谷崎!?なんですかその格好は!?」
                  「気づいたら雨が降ってきていてね。のんびりしていたらこんなことになってしまって。」
                  「はあ!?ああもう………とりあえず鍵を開けますから、話はその後です!」

                   鍵が開くと同時にアイランズは中へ飛び込み、谷崎を中へ引っ張り込む。奥から出したのは乾いたタオルだ。それを谷崎に渡し、椅子に座らせると、机に置いたケトルのスイッチを入れる。2人分のカップを机に置いたあと、アイランズは壁にかかったコートを外した。

                   もともと人を呼ぶために設定されていない狭い部屋は、しかし人間が生活していくために必要な最低限が揃っていた。タオルを渡された体勢のままぼんやりと椅子に座っている谷崎の膝の上に、アイランズの手によって物が積まれていく。バスタオル。乾いたシャツ。

                  「… 忙しないね」
                  「とりあえず、濡れたパーカーは脱いでください。それと、濡れたところをできるだけ拭いて。」
                  「つかれた。少し眠らせてくれないかい。」
                  「風邪拗らせて肺炎になりたいんですか?何はともあれ、体の水分を拭き取ってからです。」
                  「…」

                   谷崎がおぼつかない手つきでぽふぽふと髪を拭くのを横目に、アイランズは音を鳴らしたケトルに向かった。2人分のカップに紅茶のスティックを入れ、分量も見ずに湯を流し込む。
                   隣の谷崎を見た。ノロノロとパーカーのファスナーを下ろしている。アイランズは谷崎の頬に手を当てた。冷え切っている。脱ぐために前屈みになった体がぐたりと倒れ込んできて、アイランズは首筋に手を回し、あやすように軽く後頭部を撫でたあと、濡れた髪と肌をタオルで拭いた。

                   「谷崎」小さく話しかけたが、返事はない。その代わり、肺から零れたようなおかしな息の音が耳を掠った。
                   行き場のない手の上に、自分の手のひらを乗せる。じんわりと、熱が奪われていく。

                  「貴方の好みかはわかりませんが。ミルクティーです。」

                   ひと口飲んだ谷崎が「既製品の味がする」と呟く。それには何も答えず、アイランズは濡れたタオルとパーカーをビニール袋に放り込んだ。口を縛る。

                  「私はこれから自宅に帰ります」
                  「………ぼくはどうすればいいと思う?」
                  「大人しく一緒に来てください」
                  「…」
                  「10分後に出発します。とりあえず、数分待っていられますか。」

                   谷崎が小さく頷いたのを確認し、アイランズは部屋の電気を1段階暗くする。
                   部屋を出ていく瞬間、背中の向こうで何かが床にぶつかる鈍い音がして、アイランズはぎょっとして部屋の電気を付けた。
                   


                   
                   着替えにと用意した服はことごとく裾が余っていたが、この際贅沢なことは言っていられない。
                   あたためたタオルを渡すと、小さな声で礼を言われた。先ほどまで真っ白だった肌が、うっすら赤みを帯びている。
                   なるべくあたたかそうなタオルケットを用意し、谷崎にかけてやる。

                  「寒い」
                  「紅茶は飲めましたね。…白湯のほうがよかったですか。」
                  「アイランズ、ひどく寒いんだが、体が熱い。これはなんだと思う?」
                  「十中八九、風邪ですね。あれだけ濡れていればそうなります。」
                  「かぜ…」

                   谷崎が曖昧な笑顔で首を傾げる。音と言葉の意味が繋がらない、という顔だった。
                   アイランズは小さくため息をつき、ぬるくなった自分の分のミルクティーを啜る。つくりもののような甘い香りと味が口の中に広がった。

                  「なにがあったかは、今すぐには聞きませんが───貴方の同居人から連絡が来ています。返事の内容は?」
                  「…返さなくていい」
                  「そうですか」
                   
                   なまぬるい液体は半分ほどアイランズの腹に収まったが、谷崎が何かを言い出すような気配はなかった。
                   アイランズは眉根を寄せ、またひと口ミルクティーを口に含んだ。糖分が脳を侵す。目の前の男が作ったと、たまにお裾分けされていた菓子の味が、なぜだか鮮明に思い起こされてならなかった。

                  「今日はこの部屋で寝て結構です。ベットはそこにありますから、ゆっくり休んでください。」
                  「…なんで来たのか聞かないのかい」
                  「それは明日。私も非常に疲れているのです。」

                   谷崎は釈然としない顔だった。同時に、何か張り詰めていた糸のようなものが、ふつりと切れたような顔をした。

                  「ぼくは後悔してる。ひどい後悔だ。彼のせいで、ぼくとしたことが。ぼくが置いてきたと思っていたものは、案外すぐそこにあったんだ。」
                  「谷崎、落ち着いてください」
                  「名付けるとしたら、強い情動を…どうして、」
                  「谷崎」
                  「アイランズ、寝る前にひとつ聞いてもいいかい」
                  「枕が変わると寝られない、とか言いませんよね。シーツはこの間洗ったあと使ってませんから、そのまま寝てください。」
                  「ずっと気になっていたんだけど」
                  「少々硬いですが、慣れるとまあ、休めはします。仮眠室よりはよほど楽だ。寝る前に白湯でもひと口飲んでおきますか?」
                  「なあアイランズ、なぜキミは、ぼくと応神くんとを引き合わせたんだい?」
                   
                   アイランズが谷崎の方を見る。
                   「寝てください」ゆっくりと口が開く。
                   嗜めるような、拒絶するような口調だった。
                   
                  「何かあったのでしょう。明日ゆっくり聞きますから。」
                  「自分で言うのもなんだけど、ぼくは彼が───応神くんが、好ましく思うような人間ではないと思うんだけど」
                  「貴方がそう思うのならそうなのかもしれませんね」
                  「キミは自分の行ったことを間違っていたとは思わないのかい」

                   アイランズは瞬きをした。それから谷崎の方をじっと見た。
                   蒼の双眸が、思案の色に揺れ動く。
                   
                  「私は、人並みに間違いを犯します。反省も、後悔も。しかし、自分の身を鑑みて過ちを悔いることに対し、何ら嘆いたことも、後ろめたさを感じたこともありません。」
                   
                   今日は休みましょう、とアイランズは呟いた。
                   明日のことは明日に回せば良いのです、と。
                   それは、谷崎にではなく、アイランズが自分自身に言い聞かせているように見えた。
                   


                   

                  2013/5/27


                   
                   谷崎は泥のように眠った。
                   
                   
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                    夜空.png

                     夢を見ているとき、ふと、これが夢だと気づくことがある。
                     そうなると、動かすのは前よりよほど容易くなるが、夢から覚めることはなかなかに難しいものだ。
                     
                     谷崎翔一は目を開ける。
                     目の前に、空と、乾いた砂の満ちた地平が広がっていた。
                     
                     ああ、ここは夜だと谷崎は思う。月のない夜。
                     地には文字通りしかなくて、谷崎以外の動物どころか、草木の息づいた気配すらなかった。
                     人も木も地も、そこにあった息遣いも、全てが燃え果てて消えてしまったような世界だった。

                     ふわりと風が頬を撫ぜて、谷崎は空を見る。
                     ブルーブラックのインクを流し込んだような色だった。目を凝らすと、黒と藍が混じり合っているのがわかる。谷崎がじっと空を見ていると、やがて、藍色だった部分も黒く染まっていった。
                     

                     静謐な風が吹き抜けていく。
                     黒く滲んだ空。
                     
                     その中にひとつ、強く瞬く光。
                     

                     吸い寄せられるように、谷崎はその光をじっと見る。
                     金とも白ともつかぬ色の光だった。谷崎はその光を、自らが指針としたそれだと、不偏であり不変の太陽だと認めた───星をしるべに歩くなんて、ロマンチックなものだと含んで笑う。
                     
                     手の中には、小さな明かりの灯ったランプが握られていた。
                     藍色の炎が谷崎の手元を照らし、星の方に向かってその火先を揺らめかせる。
                     谷崎は歩き出した。さくりと踏んだ砂は、しかし彼の足にもたれることなく、その道行みちゆきに跡を残した。
                     
                     夢の中で夢だと気づくことは、明晰夢と言うらしい。これをぼくが初めて知ったのは小学生の頃だった。ああこれは夢だと思っても、案外思い通りにはならないというのも同時に学んだ。
                     この夢はどんな夢なんだろうか。意識は覚醒したばかり。───いや、ぼくはまだ夢の中だから、覚醒したとは言えないか。
                     ただひとつわかるのは、ぼくは進まなくてはいけないということ。
                     大丈夫。星はそこにある。

                     
                     
                     
                     ざくざくと砂を踏んでいる。

                     青色の炎はゆらりと揺れ、消えることなく谷崎の手元、足元を照らした。
                     黒いランプに金の装飾。デザインは上質な骨董品のような趣があったが、不思議と古さは感じられなかった。
                     谷崎は手元の炎を1度見、そしてまた前を向く。

                     光源となる燃料を入れるところは見当たらなかった。が、炎は勢いを弱めることなく、谷崎の指先を藍色の光に染めた。
                     
                     足の疲れはなかった。だが、眼前にただ広がる砂を踏みしめて歩くのは、ときどき気がおかしくなってしまいそうなほどの虚無感を彼にもたらした。
                     ただ、それでも谷崎は1歩、足を前に踏み出した。ブルーブラックの空。藍色の火。限りなく白に近く、時々金の瞬きを持って輝くたったひとつの星。

                     進むことに意味があった。進み続けることで、谷崎翔一は彼でいられた。
                     彼が信じたものは、いつも谷崎のもとにある。

                     幾度となく見上げても、空の景色は変わらない。
                     
                     砂を踏む。足を止めることはなく、後ろを振り向くこともない。
                     
                     低い温度の火は緋色。そこから金色、白、と進んでいって、高くなるほどに青くなる。
                     藍色の炎はさぞや高い温度なのだろう。ランプの中の火は触れられないし、触れる気もないけど。
                     昔、藍色のもたらす意味を聞いたことがあったけど、なんだったっけな。スピリチュアル的な側面が強かったから、ぼくはあまり気にしていなかったけど。思い出せない…。

                     
                     
                     夢の中では時間の感覚が曖昧になるものだ───谷崎は砂と空の世界に新たなオブジェクトを認めて、ふとその足を止めた。

                     箱の形をした建物だった。谷崎は少しだけ悩んで、そこが学校だと認識した。
                     自分で通っていたのか、それともなにか別の形で関わった校舎なのか、谷崎には認識できなかった───箱の形は凡庸で、普遍的だった。

                     きっと冬だろう。谷崎は思う。
                     冬の日の校舎という存在は、谷崎の記憶の片隅にひとつ、引っかかるものがあった。少し前───谷崎翔一が谷崎翔一として生きるべき転換となった出来事の少し前───に、まだ今のようでなかった1人の少年は、あの校舎の中で、ひとつの夢を語っていた。明るく、希望に満ちていて、ともすれば一笑に付すことのできる幼い夢だった。 

                     少しだけ悩んだ結果、谷崎は校舎の中に足を踏み入れた。見れば見るほど、記憶の中の学校のようでいて、どこかが明確に違うと違和感が警鐘を鳴らしていた。

                     結局、ここは違うはずだと谷崎は結論づけたが、目眩にも似た強烈な既視感が谷崎の心拍を早めていた。
                     校門は閉じていたので、側のプレハブ小屋に足を向ける。黒く変哲の無いバンが側に止まっていたが、中には人が誰もいなかった。
                     小屋の戸を叩きかけて、谷崎は上げた腕を下ろす。きっと、ここには誰もいやしない。

                     どこからか、聞いたことのある音が聞こえる。音楽室からだろうか。
                     覚えのあるクラッシックだが、名前はどうしても思い出せない。

                     緩やかに、だが追い立てるように繋がる音に背中を押されるようにして、谷崎は学校を出た。
                     空を見上げる。星は遠く遥かにある。
                     だが、見上げれば確認できるほど側にある。
                     
                     砂を踏む。足を止めることはなく、後ろを振り向くこともない。
                     
                     瞼の裏がずきりと痛む。
                     何かが喉の奥、あるいは眼球の裏側に引っかかっている。ぼくはそれを知っているはずで、でも絶対に知り得るはずがなかった。
                     ああ、違う。ぼくは進まなくてはいけないんだ。こんなところにいるわけにはいかない。
                     立ち止まるのはまた今度だ。

                     
                     
                     見覚えのある人影があって、谷崎は目を凝らした。

                     じっと目を凝らしてみるが、谷崎の目の焦点が合えばその人影は霞み、意識を飛ばすと実体感が濃くなる。
                     谷崎はそれを決して見てはいけないような、さりとて絶対に見なくてはいけないような、相反した意思に視界を奪われた。アスファルトが砂を侵して広がっていき、陽炎が立ち上る。

                     谷崎にとっては、積み上げられた無数の記憶の中のひとつ。歩いてきた無限の道行の1歩。常に胸を苛むわけではなく、しかし決して消えることはなく、谷崎の頭を締めあげる夏の空
                     
                     谷崎はその人影を見ることを諦め、空を見上げた。今まで天高くあった空が、どこか近くなっている。谷崎は星を探したが、ぼやけ、薄くなっていてよく見えない。

                     そのかわり横たわっているのは、光を散らしたような天の川だった。

                     谷崎は小さく息をついて、ランプを高く掲げる。
                     藍色がゆらりと揺れて、一瞬───ほんの一瞬、ランプから溢れんばかりに高く燃えた。
                     
                     小さく瞬きをし、空を見る。
                     火は元の大きさに戻り、天の河は消え、あの光が変わらぬ姿で強く瞬いていた。
                     
                     砂を踏む。足を止めることはなく、後ろを振り向くこともない。
                     
                     これは夢だ。ぼくはこれを知らない。
                     ───ああ、それにしても、ぼくの手にこの藍色の炎はよく馴染む。
                     ぼくが支えられているもの。ぼくの過去。

                     金色こんじきの太陽。藍色の意思。

                     
                     
                     座れ、と言わんばかりの椅子があった。
                     ヴィクトリア朝風の座椅子が、砂漠の真ん中に置いてあるのも奇妙な話だと谷崎は思う。だが、これは夢の中のことであるから、少しばかりおかしなことが起きたって特に動じない。

                     少しだけ、と自分に言い聞かせて、椅子の背を持とうと腕を伸ばした。
                     指先が背に触れる瞬間、谷崎ではない誰かによって、椅子が後ろに引かれる。

                    「…驚いた。ここに、ぼく以外の人間がいたなんてね。」

                     座椅子に手をかけ、谷崎よりも頭ひとつ分背の高い人影が、谷崎のことをじっと見ていた。
                     サングラスに隔たれた目は、谷崎の記憶の中では金の光を持った濡れ羽色だったが、今は強い光を宿した金色きんいろになっている。

                     黒いコートの裾が風にはためき、裏地に染められた紅を谷崎の視界に現した。

                    「座ってはいけない、というのかい?」
                    「…」

                     相手は何も答えなかった。谷崎は小さくため息をつき、一歩その場から足を引く。
                     「話したくないのなら、何も言わなくていい」そう言ったあと、少し間を置いて「来るかい?」と聞いた。

                     相手が小さく頷いたのを確認し、谷崎は手元の明かりを持ち上げた。
                     藍色の火は、まだ谷崎の元で燃えている。
                     
                     砂を踏む。足を止めることはなく、後ろを振り向くこともない。
                     横を見上げて、金色の目と視線を合わせ、隣を歩く人影と歩調を合わせた。
                     
                     彼と歩調を合わせながら、ああ、金色の補色は藍色だっけ、なんてとりとめもないことを考えた。
                     思い出したのだけど、藍色───インディゴは、静寂の中に身を隠す色だった。深海の色、宇宙の色。闇と静寂。
                     眩しすぎる光、溢れる音は、時に真実を隠し、本当に見たいものまで覆い隠してしまう。だから、深く暗い世界で、内面と向き合う色なんだそうだ。眉唾ものだけどね。大抵こういうのは、誰にでも当てはまる要素をそれらしく並べて、信用を引き出すものだから。
                     ───それでもまあ、たまには乗っかってもいいかな。
                     金色は太陽の光。藍色の中で手繰り寄せた真実の放出。

                     
                     
                     隣の人影はひと言も喋らなかったが、ときどき谷崎が口を開くと、賛同するように、時には諌めるように、谷崎に向けて目を向け、僅かな行為で表した。
                     ふたりの間には大抵沈黙があったが、それは谷崎にとって不快なものではなく、ただそこに横たわる美しい静寂だった。言葉を継ぐ合間の重たい間ではなく、ただそこに在る静穏だった。
                     
                     長い道を歩いた。星はいつもそこにあった。
                     谷崎はときどき足を止めることがあったが、その度相手は谷崎の手を取り、星の方へと向かわせた。逆に谷崎は、相手が求める場面で、その行き先を示した。
                     長い道を歩いた。本当は、それほど長くない道だったのかもしれなかった。
                     
                     
                     谷崎は足を止めた。
                     
                     隣の影は谷崎の手を取ったが、谷崎はゆるゆるとかぶりを振る。
                     金の瞳が訝しげに眇められた。
                     
                     「すまない」谷崎は小さく呟く。「そろそろ、夢から覚めなくてはいけない頃だ」

                     砂漠の向こうから微かに、薄い明かりが漏れていた。
                     
                     相手が僅か固まったあと、言葉の意味を理解したのか、腕を掴む力が強くなる。
                     いたい、と微かに呻いたあと、谷崎はサングラスの奥で揺れる金の目をじっと見た。

                    「…すまないね。だが、ぼくが進む場所はここじゃない。」
                    「 」
                    「夢はいつか覚めるものだ。ぼくはここから出なくてはいけない。」
                    「 」
                     
                     いつの間にか砂漠は切れて、底の見えない暗闇が広がる空間が、足下近くに広がっていた。
                     相手が首を振る。嫌だ、とでも言いたげだった。

                     谷崎は微かに笑う。
                     
                    「ありがとう───キミが隣にいてくれてよかった。例えその時間が、ほんの少しだけだったとしても。ぼくはこれからひとりで行ける。」
                     
                     とん、と足を1歩引く。
                     ぐらりと体が宙に浮く。
                     どこかで声が聞こえるが、水の底に沈んだときのように、くぐもっていてよく聞こえない。
                     

                     強烈な浮遊感とともに、体が下へ下へと沈んでいく。
                     手から離れたランプが逆さに落ち、伸ばした指先に藍色の火が触れる。

                     ああ終わりだ、と目を閉じた瞬間、
                     
                     彼と過ごした時間は、きっとぼくにとって大切な意味を持っていたんだろう。ぼくはまだ、それに対して明確な答えが出せてない。明確な言葉を与えて、かたちにできていないけれど。
                     ああ、夢から覚めてしまう。もう少しまどろんでいたかった気もするし、夢の中でも歩き続けるなんて、ぼくはどこまでも変わらないと自虐めいた気持ちで笑いたい気もする。ぼくにとってのぼくとはなんなんだろうか。それを見つけるための藍色なんだろうか。自分を見つめ、あるべき本当の姿を探すために、ぼくは

                     
                     引きずられるように意識が浮上した。
                     
                     

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                      2013/5/28

                       ぱちりと目を開ける。
                       視線だけで横を見ると、机の前に座った人影が、どこかに電話をかけていた。

                      「(…アイランズ?)」
                      「───ええ、きっと疲れているんです、あなたも。今日は休みでしょう、休息を取ってください」
                      「(誰かと電話…息は安定してる、馴染んだ相手?仕事ではなさげだ)」
                      「───そんなことを言うほど弱っているから、おかしな夢だって見るんですよ。いいからまず体を温めて、美味しいものでも食べて寝てください。どうですか、久々にご家族に連絡を取ってみるのも───おや」

                       アイランズがこちらに気づいた気配を感じ、谷崎は反射的に毛布を被って目を閉じた。
                       指先に、あたたかい羽毛の感触がある。谷崎が前アイランズの部屋を見たときには見当たらなかったものだった。
                       自分のために持ってきてくれたのだろうか。さすがにその考えは驕りすぎだろうか。布団の中でゆっくりと目を開ける。

                      「───すみません。1度切りますね。…はい、少し用事が…。………はい、では。」

                       プツッと電話が切られ、その代わり「谷崎」と自分を呼ぶ声が降ってくる。
                       谷崎は布団の中から顔を出し、気怠い顔で横を見た。携帯をしまったアイランズがこちらを見ている。

                      「おはようございます、谷崎。よく眠れましたか。」
                      「ああ…おはよう、アイランズ。おかしな夢を見た。よく覚えてないけど。」
                      「そうですか」
                      「ええと…今は何時だい?」
                      「9時を回ったあたりですね」
                      「…そう」

                       昨日よりはずっとマシだが、体が重い。だるい。昨日熱にうかされた頭で聞いていたところによれば、休日は今日までだったはずだ。明日からはまた、何食わぬ顔をして仕事をしなくてはいけない。
                       谷崎は長い息を吐いた。頭がぼんやりとしている。夢で見た景色や声が現実の視界とぼんやり重なり、気持ちの悪い既視感を演出していた。

                      「昨日よりは顔色が良くなりましたね。…失礼。ええ、熱もだいぶ引いている。丈夫な体で何よりです。」

                       軽く添えられたアイランズの手が、谷崎の額から離れる。まるで小さな子供のような扱いだと谷崎は思ったが、口には出さなかった。

                      「色々迷惑をかけてしまってすまない。その…つかぬことを聞くが、どうしてぼくはまだキミの部屋にいるんだい。」
                      「昨日はどうにも動かせそうな状態ではなかったので、便宜上ではありますが私の部屋で寝かせていました。自宅の方が良いだろうとか、医務室に寝かせた方がとかあれこれ意見が出ていましたが…起こしたら戻したので、貴方。」
                      「………すまなかった」
                      「大丈夫ですよ。ある程度は予防できるとはいえ、起きてしまった体調不良は仕方のないことです。」

                       「仕事の合間を見て来ましたが、大丈夫そうですね」アイランズは言った。

                      「頭を下げたら半休が取れました。3時のおやつとお茶でもいかがですか。もちろん、貴方が嫌ならやめますが。」
                      「いや、いい…すまない、その、本当に」

                       自分の側からアイランズの気配が離れていく。谷崎は頭から布団を被ったが、眠気はやってこなかった。ひどく重たい虚無がぐるぐると頭を支配している。谷崎は少し考えてからゆっくりと起き上がり、壁に手をついた。部屋を出ていく寸前だったアイランズと目が合う。

                      「…アイランズ。3時のおやつの時には、鉄観音が飲みたい。ぼくが淹れるから。」
                      「だめです。病人に火を扱わせたくありません。用意はしておきますから、大人しく休んでください。」
                      「………わかった」

                       谷崎は膝を折り曲げ、そこにぐたりと頭を落とした。アイランズの小さく短いため息の音が耳をかする。

                      「…まあ、最後にはきっと、いい落とし所があるでしょう。私は助力はできますが、助力しかできません。自分の言葉を明かす覚悟は、しておいてくださいね。」

                      静かに扉が閉まる。宙を漂っていた言葉は、空を裂いた谷崎の咳の音により霧散していった。
                       


                       

                       針が15時を打つちょうど30分前に、アイランズは部屋へとやって来た。

                      「谷崎、アフタヌーンティーの予定が変わりました。」
                      「…何がどうしたんだい」
                      「さすがにこの散らかった部屋でゆっくりと話というわけにもいかないでしょう。1番良いのは、貴方…貴方がたの自宅だと思うのですが」

                       提案の形ではあったが、アイランズの中では既に決定事項のようだった。
                       「応神は用があって1日戻れないそうですから、部屋を使いましょう」確認するように谷崎を見る。
                       谷崎は小さく頷いた。頷くしかなかった。
                       


                       

                       我が家というべき場所を空けるのはほんのわずかだったが、とても久々に来るような、他人の家に上がる時のようなよそよそしい思いがあった。
                       玄関に置かれた靴箱に、アイランズは少し驚いた顔をしたあと、手際良く自分の靴をしまった。
                       「応神くんが欲しいと言ってね」谷崎が補足する。谷崎ひとりでは設置されなかったもののひとつだった。

                       カウチに腰を下ろした家主の代わりに、アイランズは袋から食べ物を出し、キッチンで湯を沸かす。しばらくして、2人分のカップに鉄観音を持ってやって来たアイランズに、谷崎は怪訝な目を向けた。

                      「これはなんだい?」
                      「アイスクリームです」
                      「それはわかるよ」
                      「バニラとチョコレートが混ざっています。アイスはお嫌いですか。」
                      「いやそうじゃなくて。なんで風邪なのにアイス?」
                      「栄養補給にちょうどいいんですよ。あと、美味しいので。」
                      「…」

                       目の前に置かれた足の低いテーブルからスプーンを取り、カウチの背にぽふりと身を預ける。
                       熱い舌の上にアイスが溶けて、ひんやりと喉を滑り落ちていく。熱にうかされた体がじんわりと冷えていくような感じがして、谷崎の体から少し力が抜けた。
                       湯気を立てる鉄観音に手を付ける。花のような香りは谷崎の覚えの通り清廉で、確かな渋みは機械時計よりも複雑だった。ふわふわと漂う湯気と胃に染みるあたたかさに、縮こまった四肢がゆるやかにほどけていくのを感じながら、谷崎はもうひと口お茶を啜る。

                      「貴方ほど上手く淹れられているかはわかりませんが」
                      「いや、美味しい。ありがとう。」

                       時計の針が緩やかに進む。漂う湯気と染みる糖が、谷崎の頭を滑らかにしていく。
                       凪いだ水面を覗き込むと、金色の液体に、自分の顔が映り込んだ。その顔はまるでつくりもののような、どこか演技者めいているような感覚があり、谷崎は小さく息を呑む。短く吐き出した小さな声が、さざなみのように水面を揺らした。

                      「おかしな夢を見たんだ」
                      「……… おかしな、夢」
                      「よく覚えてないんだけど…ええと、僕は砂漠の中に立っている。周りにはぼく以外の気配がなくて…歩いて行くんだ。星に向かって。」
                      「星」
                      「ああ、星だ。たったひとつの。空に浮かんだ小さく、強い輝き。ぼくはそれを導と認めて、そこに向かって歩いて行く。手にはランプがあって…確か火がついてたんだ。それで近くを照らして、歩いて行く。」
                      「それは…貴方ひとりだけでしたか?」

                       それに何も答えず、谷崎は小さく「最後は、暗闇に飛び込んだ」と呟いた。「高いところから落ちれば、夢から覚められるんだ」

                      「恐ろしくはなかったのですか?」
                      「底が見えないからこそ───底が深いとわかっているからこそ、ぼくはどれだけ深い穴にも飛び込める」

                       アイランズは如何ともし難い顔をしていた。少しだけ驚いたような、何かに納得したような、僅かな何かを諦めたような、ひと言に名を付けられないような顔だった。

                       谷崎は少しだけ目を見開いたあと、目線を手元に落とす。アイランズは何かを思案しているようだったが、谷崎がその思考に何かをすることはできなかった。

                      「貴方がたは、その、本当に、こう…」
                      「…なんだい?なにか心当たりでも?」

                       夢占いでも持ち出すつもりかい?と冗談めいた口調で言った谷崎に、アイランズは小さくため息をついた。
                       「…心当たりでは、ありませんが」と前置きをしてから、言葉を選ぶようにして口を開く。

                      「私ではありませんが。貴方が起きる少し前、夢の相談をされました。」
                      「…へえ」
                      「奇妙な夢だったそうです。自分は平原の中に立っていて。道標はなかったから、自分は自分で歩く道を決めて、そこに向かって歩き出した。そう言っていました。」
                      「…」
                      「途中で、いろいろなものがあったそうです。山の中の建物で、置いてあったコントラバスに触れてみたり。山奥の神社に行ったり。」
                      「… 随分と鮮明な夢だね」
                      「途中で、自分以外の人に会ったそうです。その人の声は聞こえなかったそうですが、表情や仕草でなんとなく、言いたいことは伝わったとか。」
                      「…」
                      「ふたりで歩く道行きの中、ひとつ、明確に伝わったことがあったそうです───その相手は、自分の顔を見てこう言ったのだとか。"藍色の意思"と。」
                      「…どういう、意味だろう」
                      「私にはわかりません。ですが、その言葉は起きたときにもなぜか頭に残っていて、その言葉を口に出してみた途端、確信を得たそうです。夢の中で自分が選んだ先は、歩いた道は、間違っていなかったのだと。」

                       あいいろ。谷崎は小さく呟いた。
                       アイランズは話を終え、ひと口お茶を啜る。アイスは大半が消え、少しばかり溶けたものが皿の底に沈んでいた。

                      「…谷崎。貴方は、これからどうしたいですか?」
                      「これか、ら」

                       声の調子だけ聞けば、まるで言葉の意味がわからずおうむ返ししているようだった。
                       微動だにせず、とぼけた様子で聞く。が、すぐに言葉を継ぐように「どうしたいのだろうね」と言った。

                      「戻りたいですか?」
                      「何に?」
                      「ひとりの生活に」
                      「人生というのは本質的に孤独なものだよ。いつだって自分を変えるのは自分しかいないんだからね。」

                       谷崎は薄く笑った。
                       


                       

                       アイランズはすっかり冷めてしまった茶をひと口啜った。
                       次の言葉を脳内に並べ、最適な1手を思考する。

                      「あれはね、ぼくから見てもとてもおもしろいと思う」

                       そう言う谷崎の顔色がずいぶんと良くなっていたから、アイランズは内心で胸を撫で下ろした。
                       テーブルの上に置かれたアイスは大半が消えている。

                      「ええと…ぼくはね、彼と動いてみたいかな」
                      「それが答えですか」
                      「ああ…今のところ、ぼくにとってはこれが答えだ」

                       少しだけ息がしやすくなったような顔をして、谷崎は小さく笑った。

                      「少しでいい。たとえ少しの時間でも。たとえ永遠に平行線でも。僕は彼の隣に立って、同じ道を歩いてみたい。」
                      「同じ星を?」
                      「ぼくにとっての太陽が、彼にとっての太陽と同じであるとは限らないからね。」

                       アイランズは鉄観音の最後のひと口を飲み下したあと、側にあったビニール袋を引き寄せた。中から出てきたのは袋のスナック菓子。

                       パアン!と音を立てて袋が破かれる。

                      「どうですか、少し」
                      「…キミがそういうのを好むとは思わなかったな。あと、それこそぼくが食べたらよくないものなんじゃないかい。」
                      「ええまあ、私が食べるために買いますからね。───美味しいですよ、たまに食べると。」

                       そう言ってアイランズはスナック菓子のひとつを持ち上げ谷崎に見せると、それを口に放り込んだ。
                       さくりと音を立てて、スナック特有のわざとらしく強い塩気が口に広がる。一瞬で口の中の水分が奪われ、アイランズは鉄観音を飲み切ったことを少しだけ後悔した。

                      「アイランズ、ぼくはキミの問いに答えたけど、ぼくがキミに問うた質問の答えはまだ持ってないよ」
                      「ええ、覚えていますとも」
                      「どうなんだい」
                      「それは、私から言っていいことですか?」
                       
                       アイランズは並べた手札カードを1枚ずつ抜いた。
                       もう少し。もう少しで手札が切れる。谷崎はそれを見抜いているのだろうか。アイランズは瞬きもせず、スナックをかじりながら谷崎の方を流し見た。

                       アイランズが最後のカードを引き抜いたとき、谷崎は。それが意識的であれ無意識であれ。
                       谷崎翔一はそういう人間だと、アイランズは彼を見てきた2ヶ月で理解していた。
                       
                      「少しだけ思い出した。ランプの中にあったのは、藍色の光だったよ。」
                      「藍色、ですか。心理学───よりかは曖昧ですが、心理的な意味としては、『内側との繋がり』『自分の真実』。『すでに自分の中にある答えを信頼する』なんて意味もあるそうですよ。」
                      「おもしろい話だね」

                       アイランズは曖昧に笑った。手元のカードはあと1枚。

                      「星はどこにでもあるんだ。空にも、地上にも。…人の心の中にもね。」
                      「… ええ」
                      「キミにとっての星はなんだい、アイランズ」

                       アイランズは少し間を置いてから答えた。「光です」

                       手の中を見る。カードはもう1枚もない。
                       アイランズは谷崎を見た。蒼色とハシバミ色の目が合い、視線が絡まる。

                      「アイランズ」
                      「はい」
                      「キミから見た意見でいいんだ。ぼくは自分の星に従って、正しく進めていると思うかい?」
                       
                       秒針がかちりと刻を刻む。いつの間にか、時計は16時に差し掛かろうとしていた。
                       アイランズは小さく息を飲んだ。喉から滑り落ちた言葉を、舌の先で転がす。
                      ややあってから、ようやくゆっくりと口を開いた───最後の最後まで、言うのを躊躇っているような声だった。
                       
                      「私の目には、そう見えます」
                       
                       そうか、と、少しだけ安心したような声で、谷崎は言った。
                       それを聞きながら、アイランズは少しだけ眉根を寄せ、ついと目を伏せる。
                       

                       君がそうなった理由を、私は結局知らないままなんですよ。谷崎。
                       
                       

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                         応神が戻ってきたのは、17時に近くなった頃の話だった。
                         
                         

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                          2013/5/29


                           
                           朝の眩しい光のような。冷たく光る刃を打ち合わせているような。その中で、確かに存在するなにかを掴み取ったような。そんな風に過ごしたひと晩だった。

                           応神薙はベットの上に身を投げ出す。
                           自分なりに、谷崎と向き合い、自分の思いを話した。それが彼にどう届いたのか、伝えた言葉はどう受け止められていたのか。応神にはわからなかったが、自分なりに真摯に向き合えたから、それでよかったのではないかと思った。

                           ベッドに横になり、毛布を引き上げる。
                           今日1日、谷崎と上手く過ごせただろうか。夕食の席の彼の顔を思い出す。
                           肩の力が抜けたような無表情が、なぜだか安心できるように思えた。


                           
                           谷崎翔一は夜食を探していた。
                           元々少食な彼は、あまり小腹が空くという経験がなかったが、それはそうとしてなんとなく腹が減っていた。
                           
                           夕食の席を思い出す。メニューは応神特製、鮭のムニエルだった。
                           こんがりと焼いた鮭に、金色に溶けたバター。溢れた湯気が香ばしい香りを放っていて、谷崎はふわふわと食卓に吸い寄せられていった。横に置かれた付け合わせの野菜が真っ白い皿に乗せられ、ふたり分、テーブルへと運ばれる。

                           谷崎が白米1杯で半分の鮭をゆっくりと消費している間、応神は谷崎が食べない鮭もう半分も含め、合計で2切れ半を食べた。次々と減っていく米を見ながら、よくもまあこんなにも手際よく箸が動くと内心で笑ったのは秘密である。
                           
                           床に膝をつき、棚の中をゴソゴソと漁る。確か同僚にもらったインスタントラーメンがあったはずだった。
                          棚に肘がぶつかり、痛、と声が出る。
                           それに重なるように、控えめなノックの音がした。

                          「どうぞ」

                           ややあって、廊下の足元につけたライトの光が部屋の中に零れる。
                           音もなく入ってきた応神に、谷崎は脇に置いた丸椅子を勧めた。

                          「眠れないのかい?」
                          「いや、電気がついてたから…探しものでもあるのか?」
                          「ああ、どうにも何か食べたくなってしまってね」
                          「さっき夕飯食っただろ」
                          「こういうのは気分の問題だ」

                           応神が来るのを見計らっていたように、目当てのものはすぐに見つかった───醤油と塩のカップ麺。ケトルに水を注ぐ谷崎の横で。応神が少し意外そうな顔をした。

                          「お前そういうの食べるんだな」
                          「いや、これは僕が買ったんじゃない。もらい物なんだ。キミも食べるかい?」
                          「あー…お前がいいなら」

                           谷崎が塩ラーメンのフィルムを破る。
                           ややあって沸いた水を規定量まで注ぎ、蓋をする。「粉末スープを先に入れてたりしないかい?」「ンなことするかよ」軽口を叩きながら、蓋の上に重し代わりの割り箸を乗せた。

                          「熱湯4分…数えててくれ」
                          「俺かよ!ええと、今大体30秒くらいか、あー、33、34…」

                           神妙な顔で黙り込んだ応神がなんだかおかしくて、谷崎は彼に聞こえないように小さく笑いを零した。
                           
                           
                           
                           応神時計がちょうど240秒を告げたとき、半分まで閉じられていた蓋がピリピリと破られた。
                           なんとなく、部屋の隅にしゃがみこんで、ふたりで腕を持つ。割り箸を横に割り、応神は丁寧に手を合わせた。
                           いただきます、という声を追うように、谷崎も小さく挨拶を呟く。

                          「………」
                          「…どんな感情だい、それ」
                          「いや、初めて食ったんだがその、味が濃い…」
                          「インスタントだからね。こんなもんだろうよ。」

                           谷崎は涼しい顔でラーメンをすすったが、応神は微妙な顔をしていた。
                           それでも、中の麺が3分の1は消えたころ、応神が「気になってたんだが」と口を開く。

                          「なんだい?」
                          「いや、お前のこと、下の名前で読んでもいいか」
                           
                           少しだけ沈黙が下りた。
                           谷崎は箸を止め、応神の方をじっと見る。あまりにも唐突で、どう言葉を返せばいいか迷うような処理さえできていない顔だった。
                           
                          「…ええと…それは何か、キミにとって重大な意味を持つものだったりするかい?」
                          「重大、というほどでもないが。名前は縁だ。俺は、お前と縁を繋いだ証を持ちたい。」

                           しばしの沈黙。
                           ようやく言葉の意味を腑に落としたのか、谷崎が先ほどとは違う顔を応神に向ける。

                          「…素面?」
                          「至極正常な頭だ」
                          「よくもまあキミ、大真面目にそんなこと」

                           谷崎がはあ、ともああ、ともつかない息を吐く。

                          「名前なんてただの記号に過ぎないのに」
                          「かもしれねーが…記号だってひとつひとつ、意味は持ってるだろ」
                          「もしかして、ぼくもキミのことを下の名前で呼ぶべきかい?」
                          「財団に"応神"は複数人いる。俺は俺という唯一でありたい。」

                           応神が真面目な顔で言った。谷崎がそれを半ば呆れたような顔で見る。

                          「名前は存在を区切るものだ。自己を定義することにおいて欠かせない───だから、その呼び方を変えることによって、何か特別な意味を持たせたいとでも言いたいのかい、キミは…。」

                           谷崎が声にならない声を吐き、どうしようもないという顔でラーメンを啜る。ふわふわと湯気が漂った。塩気の濃い匂いが部屋を這っていく。

                           谷崎の言葉を聞いた応神が、寸分呆けたような顔をしたあと、僅かに眉根を寄せた。

                          「…ええとなんだ、お前、相当下手だな」
                          「何がだい?」
                          「生きるの」
                           
                           沈黙という名の重石が、突然2人の前に降ってきたようだった。

                           ズドン、という音を、確かに谷崎は聞いた。は?という声と共に、応神と目を合わせる。室内で、しかも夜だからか、応神にはいつものサングラスがかかっていない。濡れ羽色に染まった目の中に、強く瞬く金の光がちらついた。
                           
                          「…心外だな」
                          「生きるのヘッタクソだな。敵ばっか作ってただろ。」
                          「少なくともキミよりは要領よく生きていられるよ」
                          「そうか」

                           ずず、と応神がラーメンをすする。谷崎はその横で、質感のない、野菜と名付けられたなにかを噛んだ。
                           少しだけ頭を巡らせる。

                          「…やっぱりキミ、面白いね」
                          「それは褒めてるのか?」
                          「どうだろうね」

                           応神が水分を吸った海苔をつまむ。

                          「はは、面白いなあ、もう」
                          「何笑ってんだよ。こっちは大真面目だぞ。」
                          「いや、うん。はは。」

                           こみ上げる笑いを隠そうともせず、谷崎は愉快げな声を上げた。
                           怪訝な顔をする応神に、谷崎はさらに笑い声を滑らせる。
                           
                          「───ああ、いいとも。キミの口車に珍しく乗ってあげよう。」

                           薙くん
                           
                           口車ってなんだよ、と言いかけた応神は、谷崎の次の言葉に口を閉ざした。

                          「…それ、おい」
                          「深夜に成人男性2人、暗い部屋で夜食のカップラーメン。冴えない絵面で何こんなこと言ってるんだか。」
                          「俺は至極真面目だって言ってんだろうが。それに人間誰しも夜食くらい食うだろ。」
                          「ぼくは初めてだったんだけどね」
                          「本当か?」
                          「本当と書いてマジと読む」

                           応神の顔にでかでかと「マジか」と書かれている。

                          「その代わりと言ってはなんだが、キミはぼくのことをずっと、谷崎翔一として見ていくんだ。いいね?」
                          「………? ああ。よくわからんが、わかった。約束する。谷崎翔一───"翔一"。」

                           ありがとう、と谷崎翔一は小さく笑う。
                           応神薙もそれを見て、微かに口元を綻ばせた。
                           

                          「ところでそれ、ひと口貰えねえ?」
                          「急に距離詰めてくるねキミ」
                          「いや、味が濃い。…お前のはどうなのかなって。」
                          「…そう。はい、ひと口だよ。」
                          「───………味濃いな」
                          「インスタントだからね」
                          「今度俺が美味いラーメン作ってやる」
                          「期待してるよ」
                           
                           
                           
                           ゆるやかに時は過ぎ、静かに夜は更けていく。
                           僅かに空が白んでいき、東の空から眩い星が顔を見せようとしていた。
                           
                           

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                            2013/6/1


                             
                             フローリングの床を踏みしめている椅子は巨木のようだった。巨木とてその枝葉は柔らかい。同様に、座面も応神と谷崎の腰をそれぞれしっかりと受け止めていた。
                             応神はしっかりと奥まで腰かけ、その長い足を組んでいる。対照的に谷崎は、浅く腰掛け、やや前のめりになって5指を合わせていた。
                             
                            「これから、どうするんだ?ルールとか」
                             
                              先に口を開いたのは応神だった。
                             ルール、と口の中で言葉を反芻して、谷崎がぱちぱちと瞬きをする。「ルール。ルール、そうか。最低限のものしか決めていなかったね。」そう言った声は先程より少しだけ上気していて、口元には笑みさえ浮かべるようだった。

                             随分と機嫌がいい、と応神は思う。谷崎が少し前まで作っていた菓子の具合がよかったのだろうか。
                             「今日のメニューは?」「水ようかん」「珍しいな、和菓子なんて」「たまにはね」谷崎が軽く手首を振ると、手の中から魔法のように彼愛用の万年筆が現れた。
                             目を見開いた応神に悪戯っぽく笑うと、谷崎はポケットから出した4ツ折りのルーズリーフを手元に置く。

                            「ルームシェアの決まりごとを定めよう。ここ1ヶ月はなんとなくで過ごしてしまったけど、きちんと決めなくてはね。」
                            「了解。…お前が書くのか?」
                            「何か文句でも」

                             谷崎がメモの1番上に「ルームシェアの決まりごと」と書く。

                            「その1。家事の分担。」

                             ルンバが颯爽と走っていく。

                            「………ずっと気になってたんだが。あのルンバ、お前の自費だよな。」
                            「さすがにアレを経費で落としてくれるほど財団は優しくないし、資金も潤沢じゃない」
                            「いるか?あれ。自分で掃除すりゃいいだろ。」
                            「キミはそう思うかもしれないけど。減らせる手間はなるべく減らした方がいいだろう。」
                            「…」

                             軽いモーター音を上げるルンバは、応神の足元にまとわりつくように床を滑り、ダイニングテーブルの下を回り、谷崎の足元の横を通り抜けて行った。
                             「…どうでもいいんだが、あのルンバ、俺のことをゴミかなんかだと勘違いしてねえか?」応神が怪訝そうに眉をひそめる。

                            「まずは…食事」
                            「キミが作ってくれた飯は美味い。だからキミでいい。」
                            「お前は作んねえのかよ」
                            「菓子があるだろ」
                            「菓子作れるなら料理もできるだろ」
                            「キミの作る料理でぼくは満足している。だからそれでいい。」
                             
                             涼しい顔で言う谷崎に、応神は小さくため息をつく。「わかった」という小さな呟きを拾い上げ、谷崎は軽く笑った。

                            「あと、掃除洗濯か」
                            「今まで通りでいいだろ。まとめて洗うので。」
                            「賛成だ。箪笥にしまうのは各々だな。」
                            「掃除は?」
                            「自室は自分で。水回りはお前。他は俺。」
                            「わかった、ぼくの自室はぼくがやろう。で、水回りもキミがやる。ぼくはピアノでも弾いてるよ。」
                            「は?」
                            「そう怒るな。キミがBGMが必要ないと言うなら、まあいいだろう。今まで通りってことだね。了解了解。」

                             谷崎が、ルーズリーフにさらさらと文字を書いていく。

                            「財布」
                            「これも今まで通りでいいんじゃないのかい?共有物と食費、電気光熱は共同の財布。家賃折半。自分のものは自分で。」
                            「お前が追加で欲しいものはあるか?俺は靴箱買ってもらったが。」
                            「あー…キミが来たからね、料理の道具をもう少し増やして、整理しておきたいんだ。キミがいらないなら別にいいんだけど。」
                            「いや、やっていいなら甘んじる。家からいくつか道具送ってもらって…あと、今度買い物行くぞ。2人で。」
                            「なんでぼくも」
                            「共有スペースのノウハウは共有しておいた方がいいだろ」
                            「それもそうだ」

                             谷崎が指先でくるくるとペンを弄んだ。応神が机の上の紅茶をひと口飲む。

                            「あとは?」
                            「プライベート問題」
                            「キミとの生活はやりやすいよ。望まないところに決して踏み込んでこないからね。」
                            「…大勢の人間と同居してきたからな」
                            「もう少し入ってきたっていいんだよ」
                            「それは、俺は触れられたくないところには触れてこないからという信頼か?それとも、触れられたくないところには決して触れさせることがないという自信か?」
                            「どうだろうね。でも案外、ぼくはキミが思うよりキミを信用してるかもしれないよ。」
                            「そりゃあ光栄なことだ」

                             連綿と継がれた文字に、応神は眉をひそめた。
                             谷崎の癖字は慣れると読めるが、それでも解読に時間はかかる。
                             「俺が書く」応神は言った。あとで読むための配慮も必要だ。

                             応神はボールペンをかちりと鳴らす。

                            「なんだろうね。共用スペースは清潔に、とか?」
                            「できてるだろ。一応。…部屋にあげていい人とか。」
                            「ご自由に…と言いたいところだけど、ぼくは夜も作業をしたい時があるんだ。恋人を連れてくるときはひとこと言ってくれ。」
                            「………お前もな。タバコは?」
                            「吸わない。キミもだろ。」
                            「じゃあいいな。あと生活で気になることは?」

                             谷崎が軽く首を傾げ、応神が腕を組んだ。

                            「ひとつ聞きたかった」
                            「なんだい?」
                            「お前、どうしてこんな広い家にひとりだったんだ」

                             谷崎が少し目を見開く。そして、少し言いづらそうに言った。

                            「本当は、キミ以外にいたんだ。ひとり。」
                            「…おう」
                            「ただ、少し事情があって、ぼくと暮らせなくなってしまって。だからキミを頼った。」

                             キミのことを替えみたいに扱っているのだから、あまり言いたくなかったのだけどね。
                             谷崎が苦笑を漏らした。
                             

                            「ところで薙くん」
                            「どうした翔一」
                            「確認したいのだけど」
                            「なんだよ」
                            「キミ、ぼくとルームシェアすることに異議や後悔はないのかい?」

                             谷崎の言葉に、応神は目を瞬かせる。
                            ややの間あって、応神は若干目を逸らしながら、途切れ途切れに言葉を継いだ。

                            「アイランズさんが言うなら、まあ悪い縁ではないんだろうとは、思ってたが」
                            「うん」
                            「今は、ルームシェア相手がお前でよかったと思う。翔一。」
                            「…そうか」

                             ありがとう、薙くん。
                             そう言って、谷崎は本心からの笑顔で笑った。
                             

                            メモ.png

                             

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執筆者: Taga49
文字数: 50653
リビジョン数: 237
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最終更新: 03 Jan 2023 15:27
最終コメント: 28 Dec 2020 02:39 by Dr_Knotty

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  1. portal:6217955 (25 Mar 2020 05:21)
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