見てゐしは

7月の初め、暑さもまだ本物でない夏の夕に丹崎咫央は浜辺に降りた。数か月前まで外国みたいに思っていた窓の外はエレベーターを降りれば徒歩10分だ。前に外に出たとき、彼女は一人でそれをやってのけその代わり監視者からはひどく叱られた。動きを制限するためつけられた点滴は意味はないのに何をするにも邪魔で確かに効果はあった。投与されたものはおそらく、ブドウ糖とか、ビタミンとか。点滴がとれても彼女はしばらくは大人しくしていて、日がな一日窓の外を眺めていることが多くなった。今回の外出は抜け殻のようになっていた彼女を心配した来前が言い出したことだった。彼女はそれを聞いて口を開かず笑った。

裸足になり砂を踏んだ彼女はそのまま波打ち際に近づいた。穏やかな波の少しのしぶきが足にかかり服が濡れた。濡れた足元を確認するとまた一歩海へと入っていく。足が完全に浸かり、砂が波に攫われまた戻るのを彼女は足の裏で感じていた。温度はなく、ただ体が沈む感覚をしばらく楽しんでいた。少し遠くからそれを眺めていた来前に、彼女は時々振り向いて笑みを見せた。

もうどれくらいこうしていたことだろう。日は完全に沈み、かすかな月明かりが波に反射し視界に煌めいている。来前の携帯で足元を照らしながら、海岸線を二人ゆっくりと歩いた。浜辺の終わりは岩場に続いていて、濡れた岩に足を滑らせないよう二人手をつないだ。来前だけが女の冷たさに気付いた。冷え切った指先から流れ込んでくるものを来前は拒まなかった。ただ歩みを少し遅くして、「引き返そう」と声をかけた。小さな声であったが咫央の耳にはしっかりと届いた。彼女の返事はない。咫央はこういうときに我儘を言う女ではなかった。ただ純粋に疲れたと、その場にしゃがみこんで来前の顔を見上げた。それは来前にもわかっていたしだから彼は何も咎めず同じく膝をつき彼女と目線を合わせた。

「蟹がいるよ」

咫央の足元には確かに小さな生き物が歩いていた。ただこのときの彼女の視線がどこにあるかは来前にはわからなかった。咫央が手を岩につくとそれは驚いて、そそくさとその場から逃げてしまった。

「怖くはない?」

来前は咫央だけを見ていた。

「小さいのは怖くないの。でも大きいのは嫌よ。ほら、人が食べちゃうようなやつは」

「家族で住んでいた時近所に水族館があったの。小さな水族館。私、深海展示がとても怖かった。通路は薄暗かったしなのに水槽だけは不気味に光っていたわ。一番奥にタカアシガニの殻が展示してあったの。私、その前を通るのがとても嫌いだった」

彼女がよく喋るのは久々で、来前はやっぱり彼女だけを見ていた。

「とても怖くて、高い所にいるときみたいに足がすくんだわ。幼かったからかもしれないけど、今でもあれはあまり見たくないの」

「どうして?」

「わからない…。驚いたのかも。あれほど綺麗に殻が残ること。あれでは死んでるか生きてるか見分けなんてつかないわ」

小さな声でもしっかりとしたその口調が来前にはひどく寂しいものに思えた。いたたまれない気持ちで来前は初めて顔をそらした。

「人が死んだらちゃんと腐るよ」

「見たことがある?」

彼の顔を見て尋ねる彼女に来前は答えなかった。少しの沈黙が生まれた。手は繋がれたままだった。

「蟹はさ…器なんだよ」

「お前が見たのは蟹の器で、蟹の中身はまた違うんだ。器は俺たちの皮膚とはまた違って、だから…お前は器じゃないから大丈夫なんだよ」

「お前が死んだらちゃんと溶ける」そう続ける彼に咫央は少し驚いた様子だったが彼の下手な慰めに気づくと顔を伏せて笑った。来前はそれを見て安心した。繋いでいないほうの手で彼女の顔をあげさせると咫央は「私が死んだらちゃんと燃やしてほしいの」とまた笑った。来前は今日初めて彼女の笑顔を見たような気がした。

「それが怖かったの?」

「なんのこと?」とほほ笑む彼女に来前の不安はもうなくなっていた。立ち上がりそのまま彼女の腕を引っ張りあげる。顔が向き合うのが恥ずかしくてそのまま向きを変え歩き出す。

「咫央は器じゃない」

それはもうわかったよと彼の背中に答えると咫央は自分の手が赤くなっているのを見た。指先の感覚が鈍くなっていることがわかり来前が強い力で手を掴んでいたことに気づいた。彼女はそれを言わなかった。ただ引かれるまま砂を足に付け来前のあとをついた。咫央の視界の端で何かが煌めいている。波か月かと彼女はそれを見ようとしなかった。ただ前だけをみて彼女は歩いていた。

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