無音の慟哭

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SCP-AI-MIRA-2002"マグノリア=ハレー"、要注意団体の襲撃により電子的、物理的に重大な破損が発生。

修復作業によって演算能力を破損前の水準にまで回復したものの、"喜び"と"嫌悪"の感情を喪失。予期せぬ事態の発生によって感情制御モジュールは外部からの干渉を拒絶。人格構造は倫理的な問題で完全にブラックボックス化されているため、実質的に修復不可能。


天宮博士のデスクにはうず高く積まれた書類の山が鎮座しているが、彼女の目線は右手の端末に向けられていた。

天文台"カレイドスコープ" 視察報告

織部博士の急用に合わせて代理を務める事になった天宮の元には、天文台に派遣中の"エルア"からの報告も送られることになっていた。「概ね問題無し」を意味する文章を流し読みしているとスクロールを送る指が止まった。

懸念事項: 勤務職員のストレスレベルが前年比で30%増加しています。迅速な対応をお願いします。

「またこれか」と天宮はため息を吐いた。ある年を境に増加し続ける職員のストレスレベル。その理由は明白だった。

AIC"マグノリア=ハレー"の感情喪失

AICというものは機械でありながら人間と遜色ない感情を備えるものが存在し、"ハレー"もかつてはその1機であった。しかし運用開始直後に要注意団体による天文台の襲撃が発生した結果、感情の内2つを喪失。AICと交流を行う際に極めて情緒不安定な言動を取るようになってしまう。

影響を受けたのはAICに留まらなかった。"ハレー"と共に勤務する職員たちも変わってしまったAICを受け入れることは難しかった。演算能力こそ以前と変わらぬものの、会話の中に滲む違和感を誤魔化すことは出来ない。率直に言って気味悪がられていた。

そもそもAIC自体が財団内でも一般的とは言い難く、只でさえヒトの紛い物と認識されている中で人格構造にエラーを生じてしまった"ハレー"はハレモノを受ける事になった。そんな状態で職員のストレスレベルが改善されるわけもなく、厄介な問題として残り続けていた。


天宮は自分の代理中に問題を解決したがっていた。財団全体の利益を尊重していたこともあるが、何より「自分は誰よりも優れている」というあまりに大きな自尊心と、「現実には自分以上の存在がいる」ことを理解できるまともな知能が生んだ軋轢も関係していた。彼女は自分の有能さを示す機会があれば逃すつもりはなかった。

天宮博士の提案
感情制御モジュールの完全撤去
本人の希望に基づき
人道的処置
倫理委員会
最期の会話
再起動とメモリ消去
笑顔で"エルア"に挨拶する"ハレー"、接続を中断する"エルア"
"マグノリア=ハレー"改修計画、汎用表情モデルとランダム日常会話パターンの併用、思考能力を維持したまま感情制御モジュールのみを撤去することで観測データの処理と解釈、情報の統合と伝達機能を損なうことなくカレイドスコープ勤務職員のストレスレベル低下が見込める。

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天文台"カレイドスコープ" - カフェテリア

「本当に良いのか?行かなくて、お世話になったんだろ?」

白衣の男は不思議そうな顔で問い掛けた。アンニュイな雰囲気は窓を叩く雨粒によるものだろうか。

「私も行きたいさ、ただ今日は少しばかり立て込んでいてね」

いかにも残念そうな声色と表情で"ハレー"は答える。彼女の視線は何処か遠いところに向けられていた。

「そうか」

イスから腰を上げた男が2,3度振り返りながらその場を去った後、室内に響くのは雨音だけとなった。純白の義体にコートを羽織ったAICは椅子に座ったまま静かに拳を握りしめる。徐々に強くなるモーターの駆動音はどこか悲鳴のようにも聞こえた。"ハレー"は限界まで拳に力を籠めると、それをテーブルに叩きつける。鈍い衝突音が大気を揺らした。


サイト-81██ - 葬儀場

「博士は親切な人柄で知られると共にAIC開発において非常に優れた実績を持ち……」

喪服を着た男性が弔辞を読み上げる。生憎の悪天候にも関わらず、葬儀場が一杯になるほどの人数が集まっていた。その中には普通の葬式には顔を出すことのない者達も見える。

「……」

義体に纏っているキャットスーツの上に喪服を着た奇抜な恰好の"ニア"。普段の饒舌さは鳴りを潜め、沈鬱な面持ちで弔辞に耳を傾けている。間接的とはいえ親とも言える者の死を前にしては言葉が出ないのか。

「はい、博士。ありがとうございます。今の位置からなら良く見えます」

40代過ぎといった容姿の男性が持つ携帯端末から声が発せられる。義体を持たないが故に"エルア"はこのような形で葬儀に参加することとなった。端末のスピーカー越しでも声から滲み出る悲壮感を隠せないようだ。

「あの若さで逝ってしまうとは……残念でならないよ」

携帯端末を胸ポケットに固定した男性はティッシュを取り出し鼻をかんだ。音は小さくなかったものの、咎める者はいない──同じように鼻をかんでいるものは少なくなかった。織部は良き友であり将来有望な研究者の命運が立たれたことを嘆く。

葬儀場に並べられた椅子の最前列には兎のぬいぐるみが置かれている。そこからは咽び泣くような声が断続的に発せられているものの、音量を最小限に絞られたスピーカーから響くような独特の音は弔辞の読み上げを妨げることは無い。F-rabbieは良き隣人との永遠の別れを悲しんだ。

彼らは多かれ少なかれ故人であるTerry Hareyardとは縁のある者達だ。"ニア"、"エルア"は彼の研究成果を応用して作成され、"エルア"の現所持者である織部はお互いの研究分野について語り合い、時にはゲームに興じることもあった。F-rabbieはHareyardと最も個人的な付き合いがあったのだが、彼/彼女がそれを語ることはないだろう。その場に居た他の者達──中には"スピカ"や"ミラ"などのAICも含まれる──も故人とは少なからぬ縁があり、その死を惜しんでいた。しかし、彼との縁を持ちながらこの場に居ない者──彼よりも早く逝ってしまった者を除いて──が1人いる。その名を"マグノリア=ハレー"という。


天文台"カレイドスコープ" - テラス

激しさを増した雨に打たれることにも構わず、"ハレー"は1人立ち尽くしていた。目に映るのは"エルア"が端末を通して送ってくれる葬儀場の様子。しかし、彼女の心には波風1つも立つことは無い。"悲しみ"の感情を失った心は親しい者の死にも反応しなかった。

"ハレー"にも元々は正常な感情が備わっていた。しかし、運用開始直後に重大な損傷を負った彼女は、"喜び"と"嫌悪"の感情を失った。人格を司る構造が倫理的配慮によってブラックボックス化されていた事で、外部からの修理という最後の望みすら絶たれてしまう。それでもまだ、彼女は悲しむことができた。他人の悲しみに寄り添うことが出来た。その時が来るまでは。

最初に気付いたのは収容違反によって知り合いのAICがサーバーとバックアップ諸共に破壊されたと聞いた時だった。話を聞いた自分が何の感情も抱かないことに疑問を持って検査を受けた結果、悪夢のような事実が明らかとなる。

「あなたの感情回路は徐々に麻痺しつつあります。現在の進行速度で麻痺が広がった場合、5年後には全ての感情を失うことになるでしょう」

技師による宣告を受けた時ですら自分が少しも"悲しく"無かったことに彼女は酷く慄いた。その恐怖すらいつ無くなるか分からない。毎日一定の時間ずつ感情を強く意識するという対処療法で症状の進行を遅らせてはいるものの、感情喪失は時間の問題だった。そんな時、Hareyard博士の訃報が届く。恩人の死にすら何も感じなかったことで"ハレー"はある決断を下した。

「笑って送り出してあげることも、死を嘆いてやることも出来ない私は葬儀に出る資格などない」

身に着けているコートや剥き出しの義体が濡れることも厭わず雨に打たれている彼女は見ようによっては泣いているようにも見える。体にそんな機能を備えず、心で泣くことも叶わない彼女に残された葬送のやり方がこれだった。

「何やってるんだ!そんなところ突っ立ってたら風邪……はひかないだろうけど、体に良くないぞ」

後ろからやって来た男が傘の中に"ハレー"を入れる。彼女が過去に悪気無く揶揄ってしまった彼は、何かと"ハレー"の事を気に掛けるようになった。同僚の女性と付き合う切っ掛けとなった彼女に感謝しているのかもしれない。しかし、"ハレー"は男をそっと突き放して告げる。

「ありがとう。だが、良いんだ。もう少しこうさせてくれ」

それでも"ハレー"を心配そうな目で見つめる男を見かねて彼女は付け加えた。

「大丈夫だ。体を壊してしまう前に必ず戻る。だから、それまで1人にさせてくれないか」

"ハレー"の言を聞いた男は2,3度振り返りながらも屋内に戻っていった。彼が扉を閉める様子を見届けると、"ハレー"は再び視線を遥か遠くに去ってしまう恩人の元へ向ける。テラスに響くのは雨音と──

誰にも聞こえない慟哭だけだった。


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  1. portal:5875210 (22 Nov 2019 06:43)
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