全ての希望の果て

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この街そのものが二人を殺そうとしていた。
投石から火炎瓶、それと様々な種類の火器。
彼らの乗るBMW X5の車内には、雨に打たれるトタン板の様な音が響く。

後席に座る少年は膝の上に拳銃を置き、指が白くなるほど強くそれを握りしめている。努めて冷静さを保とうとしていたが、額から首筋まで汗が滲み、悲鳴を上げる事を恐れているかのように奥歯を噛みしめ、恐怖を隠しきれない様子が見て取れた。

すぐ脇をRPGが飛び抜け、屋上から投げつけられる火炎瓶がすぐ目の前で燃え上がる度に、ハンドルを握る男は何度も"ファック"を飲み込んだ。少年を不用意に怯えさせないよう、彼はただ外をよく見張っているよう、出来るだけ冷静な声でノアに告げた。呼び掛けられた少年は、青白い顔で小さく頷いた。

そのSUVは防弾仕様だったが、小銃弾の集中射撃に耐え得る程ではなかった。RPGか重機関銃弾が直撃でもすれば一巻の終わりだ。バックミラーに映るリアウィンドウは、数えきれないほどの蜘蛛が一斉に網をかけたのかと錯覚するほどに真っ白で、後ろの様子は全く分からなかった。それでも銃声と、時折外板に当たる銃弾の音、飛び散る火花が、今なお殺意が注がれ続けている事を、彼らに伝えていた。

男は、勿論自分たちが孤立無援ではない事を知っていた。ヘルファイア1とペイブウェイ2で武装したドローンが、ローテーションで常に滞空している。

彼は歯噛みした。
その"上空からの死"が差し向けられれば、祭りの参加者共もそれどころではなくなるだろうに。

そして彼は、それが叶わない理由も知っていた。

これは正規の作戦ではない。そして例えここが麻薬戦争の中心地であるという事実を以てしても、ここが市街地であるという事実を歪める事は出来なかった。ドローンが武装しているのは、もし彼らが追う目標を破壊する必要がある状況が生じた時に、彼らの代わりにそれを成し遂げる為だった。

大通りに出ると銃撃が減り始めた。ドライバーの男は、まだ辛うじて脱落せずに持ち堪えているサイドミラーに目をやった。彼の目に追ってくる車が1台、安っぽいピックアップトラックと、その荷台から身を乗り出しながら小銃を構えた男が映った。撃ってこない。彼は一瞬、その理由について思考した。

――弾切れかジャムか、それは分からなかったが追ってくるという事はまだ俺たちを攻撃する手段があるという事だろう。或いはぶつけるつもりか。

助手席に居る奴が手に持った何かに火をつけるのが見えた時、男の疑問は解消した。

「坊や、そいつを撃てるか?」
「やれます!」

男の呼び掛けに少年が応じる。切迫した返事と共に、彼がシートベルトを外す。自分が先ほどまで握りしめていたドイツ製の9mm拳銃をホルスターに収めると、それより遥かに大きな銃を手に取り、銃身の下のハンドルを何度か操作して既に装填されていた弾を取り除いた。筒のような形をした灰色のカートリッジが銃の側面から零れ落ちる。続いて彼は銃の負い紐に収められている弾薬、その中の青いショットシェルを4つ手に取った。右側のハンドルを押し下げると薬室に1発、続けて弾倉に3発。そして安全装置を解除。

「あいつが横に並んだら、ドアを開けて助手席の奴をぶっ殺せ。止まるまで撃ち続けろ」

タイミングと告げると共に男がロックボタンを押す。少年がドアハンドルのグリップを引く。
その瞬間、彼らの車が何かを踏んだせいで激しく揺れ、ドアが閉まりかけた。

少年は瞬時に反応した。開きかけたドアを蹴り開けて発砲、セミオートで3発。スラッグショット3が薄っぺらいトラックの外板を突き破る。血の飛び散った窓の向こうで、助手席の男が力なく上体を倒すのが見えた。直後、キャビンが炎に包まれ、車が分離帯に突っ込んで横転するのが、そして荷台の男が放り飛ばされるのが見えた。

――ざまあみやがれ。

男はそう呟いた。
少年は使わなかった4発目の銃弾を最初と同じように銃から排除、元通りになると漸く深く息をついた。



「よくやった、ノア」

それは、男の素直な感想だった。少年は男が持ってきた銃を教えた通り正確に操作しただけではなく、土壇場で想定外の事態に見舞われながらもそれに適応し、為すべき事を成し遂げた。
――本当に奴はよくやった。"溜め込み屋4"なんかに雇われているのが気の毒なくらいだ。

彼は少年に賛辞を送りながら、別の相手に呼び掛けた。

「ヴェラクス、アーク16より支援要請。グリッド885-342、Danger Close5

「・・・アーク16、冗談は止せ。Negative」

彼らに直接指示を下す司令部は、無線越しでも分かるくらいには呆れを隠さず、冷たく回答した。男はそれを聞きながら、交感神経系が沈静化するのと共に笑いが込み上げるのを感じていた。一方の少年は初めて男に"坊や"ではなく名前で呼ばれた事に気づき、男よりは控えめに笑った。

――おお、ファック。

目の前にボンゴトラックが急に飛び出してくるのが見えるまで、二人はずっと笑っていた。

衝撃。

視界がセピアに染まる。



倉庫番の一人が奴らのサイトから逃げ出したとしても、それで俺たちが何かを失う訳じゃない。だが、そいつが逃げ出す直前にあの名前、俺たちが知る限り人類史上最悪のイカレ野郎、あの変態共の親玉の名を告げたとなれば話は別だった。奴らも最初は自前の保安チームで捜索を試みたそうだが、間もなく根を上げて俺たちの"本社"に助けを求めてきた。DIRGE葬送曲6という縁起の悪い名前のチームが招集されたが、"合衆国暫定ヴェール・クリアランス"とやらのお陰でそいつの足取りを掴むまでは3か月程掛かった。奴らが余計な事をしなければ、もっと早く見つけられただろうに。

奴らが俺たちが追いかけるまでも無いものを溜め込んでいる限り、奴らは俺たちの敵じゃない。だが、閉じ込めておく事が何か解決になっているのかと問われれば、勿論違う。奴らはそいつらを閉じ込め、研究の対象とするが、それは奴らの言う所の"収容"をより効率的に維持する為のものだ。

俺たちはもっといい方法を知っている。要らない物をいつまでも取っておいたら、いずれ倉庫は満杯になるが、
それを捨てれば、盗まれる心配も無くなる。

尤も、俺は"ヴェール"という言い方を気に入っていた。中々に洒落が利いているし、何より本質を的確に表わす例えだと思う。相手が流儀を弁えていなければ、新婦じゃなく奴でもやろうと思えば何時でも捲る事が出来る。少なくとも俺はそういう風に解釈していた。

アレクサンドラという名のその"元"研究員、現PoI-2533は勤務用と私用の端末の両方を逃げ出す時に破壊していった。メールも電話もメッセンジャーも使わず、PVSSにも映らなかった。ブリーフィングで聞いた所に拠れば、奴は自分自身の顔を変えたか、PVSS7の死角を計算して動いたか、或いは視覚的認識阻害パターンを展開していたのかもしれないと。1番目と3番目はまだマシだ。何の痕跡もなく異常な手段を行使する事は出来ない。だから、こっちもそれに合わせた手段と装備で検出できる。2番目に関しては一番考えたくない話だった。それを成し得た能力そのものは奴の逸脱性に起因するにせよ、採った戦術そのものは逸脱戦の範疇から外れる。言うなれば、基底戦の範囲内でズルをしているのと同じ事になるからだ。そしてその化け物染みた演算能力を考えれば、"理論上は可能"を現実にする事が出来る。そして何より、奴が"相互作用"したオブジェクトとその結果を見る限り、その予想は恐らく当たりで、しかも奴はまだその能力の全てを見せてはいないだろう。

データボードに彼女の顔写真は載っていなかった。今や奴はいつでも好きなように姿を変えられるから、という理由だった。それは別にいい。だが、彼女のフルネームが伝えられていないのは奇妙だった。秘密主義の溜め込み屋連中はDIRGEも含めて俺たちの誰にもその情報を伝えて来なかった。

結局、奴の足取りは本人とは全く違う所から齎された。

ロス・セタス8に数多く存在する分派の一つ、その中にネオ・サーカイトに傾倒した連中が居る。ヴェルトロ星辰派、"ヘルハウンド"の別名で知られる奴らは、暗殺の為の実働部隊を仕切る、ロス・セタスの中でも一番後ろ暗い一派だ。"奴らに狙われた被害者の死体は絶対に見つからない。奴ら自身が残らず食いつくしてしまうからだ。"そう噂されていて、実際に遺体の断片から儀式的カニバリズムの痕跡が見つかった事もある。しかし、それでさえ奴らの表の顔の一つに過ぎない。どういう手段を使ったかは分からないが――同席していたPERCIVALS9の連中は、"夢を通じて奴らとコンタクトしたのかも"と言っていた――、事前情報を信じる限り、猟犬集団は"標的"と直接接触する事は無かったが、連中の間でのやり取りはしっかり傍受されていて、そのインテリジェンスから推測する限り、奴らは彼女を迎え入れる事に決めたようだった。

そんな状況下で俺たちは奴を拘束しなくてはならない。その上、追加のオーダーまであった。奴が変容したオブジェクトはまだ回収されたばかりで碌に解析も出来ていない事を理由に、可能な限り財団は奴を生け捕りにする事を望んでいる。

作戦――トラップト・ジーニアス閉じ込められた天才という妙に思わせぶりな作戦名だーーはこうだった。財団が寄越してきた"最適の人材"、ノア・フェッツジェラルド・ウィーラントという名の収容担当官をアレクサンドラ元研究員の居場所に送り届ける。彼は俺たちにも明かされていない隠し玉を持っていて、それはアレクサンドラに対して決定的な一撃になる筈だ、という事だった。その為には両者が生きていなくては意味が無い。その為、既にSERPA10が先行して現地入りしてCDSI11とTITACS12を実施中、俺は彼を護衛しながら目的地に送り届けなくてはならない。今回は前回よりも大分奥まで浸透する事になるから、目立たないように俺とノアだけで潜入する。上空支援と監視はリーパー13とレヴェナント・ガンシップ14。直接支援はSEALチーム915の狙撃チームが担当する。つまり、CRITICS16単独ではなく逸脱戦対応軍17単位での作戦。



少年はこんな場所が本当に存在するのかと困惑していた。ニュースや映画でしか見た事の無い光景。コンテナ式の兵舎とテントが並び、完全武装の兵士が警備する場所。軍用車両が行き来し、時折ヘリが上空を旋回している。彼はここまで2人の歩哨にこれから会うべき相手の場所を聞いたが、1人目が教えてくれた場所には既に居らず、そこにいた2人目の教えてくれた場所でようやく男と対面した。

「財団から派遣された特務収容スペシャリストです。よろしくお願いします、少尉」

彼は部屋の中を見渡しながら、そう告げた。男は、おおよそこの場所には似つかわしくない声に顔に乗せた雑誌を避けると、上体を起こして少年を見やった。
――いつから財団は子供を職員に登用するようになったんだ?第一、到着は明日の筈だろう。

「あー、少尉。正確な到着のタイミングはプロトコル上ずらす事になっていて・・・」

――財団の連中が故意、過失問わず正確な情報を寄越さないのは今に始まった事じゃない。俺が聞きたいのは別の事だ。つまり、髭剃りの使い方も知らないガキの子守りをするとは聞いていない。

「学生のアルバイトじゃないんだぞ、坊や」
「僕は正規の職員ではなく、それと名前はノア・フェッツジェラルド・ウィーラントです。ダニエル・ハリソン連邦国防軍少尉」

「坊やじゃないと俺が確信が持てるまで、お前は坊やだ。文句を言うな」

男は会話を一方的に打ち切り、少年に自分と同じ士官用の個室を案内すると、彼に今後の予定について話す。

「Goが出るまではまだ時間がある。その間、お前にはこの作戦を生き延びる為に最低限必要な訓練を受けてもらう。体力に自信は?」
「基礎体力測定では良好と。それと拳銃による護身術過程も修了済みです」
「"倉庫番18"にはそれで足りるかもしれないがな。いいか、俺たちが行く場所は戦場だ。相手は街中にいるチンピラでも、発狂した研究員でもない」

少年は緊張を隠さない表情のまま、ただ了解の旨を告げるしかなかった。



訓練とは言っても、動作が身体に沁み込むまで回数を重ねるだけだ。勿論、幾つかの不確定要素を入れる事は忘れない。弾倉にはランダムに発射薬が入っていない空の弾を混ぜておき、銃に取り付けられたデバイスのバッテリーを切れたものに交換しておく。腕立て伏せやランニングで体に負荷をかけた状態から間を置かずに射撃。不発に戸惑う彼に"さっさと拳銃に持ち替えろ"と叱咤を浴びせる。最初、彼は俺の"嫌がらせ"に遭遇する度に動作を止めたが、数日もすると当たり前のようにそれを乗り越えて見せた。

彼は気丈だった。そして愚直だった。

俺が彼の護衛で、ノアは戦闘員じゃない。俺が撃たれて動けなくなる状況が生じたら、その時はノアも同じキルゾーンに居る筈だった。だから少なくともそこから生きて出られるよう、俺が持っていく予定の武器――STIG19で使われているのと同じ標準的なセットアップをした308NATO仕様のSCAR20とベネリM321――を手にした時に戸惑う事がないくらいにはしておく必要がある。それが彼に伝えたストーリーだった。

だが、本当の目的はそれじゃない。標的が"猟犬"共と合流した後、すぐにその場を離れる可能性は低い。もし俺が道中でくたばったとしても、QRF22として待機しているt-Det23の連中がノアを回収できれば作戦は継続できる。肝心なのは財団がこんなガキをジョーカーに選んだ理由、それを聞き出す事だった。尤も、それが分かったのはずっと後の事だったが。

「坊や、お前はこの任務に志願したのか?」

その日の訓練を終えて泥と汗に塗れたノアは、一瞬苦しそうな顔をした後無表情に戻り、答えた。

「財団の人事担当者が家に来ました。両親が財団で働いていた事も、その時初めて知りました」
「親御さんは反対しなかったのか?危険な仕事にまだ未成年の息子を放り込むなんて、普通じゃない」

この問いに、彼は何か思う事があったのだろうか。顔を一瞬曇らせた。

「母は恐らく知らないと思います。父は僕が幼い頃に他界しました。どうしてそんな事を?」

個人的な事情に踏み込むのは趣味じゃないが、それでも"相棒"になるかもしれない相手のバックグラウンドを知っておく事は必要だ。それと、個人的な好奇心も少しだけ。

「俺たちはチームだからだ。だがこのチームはイレギュラー要素が多すぎる。知ってるだろうがうちの会社と財団は仲が悪い。いや、それどころじゃない。嫌い合ってる。だが、それとお前自身が信用できるかは全く別問題だ。俺がお前を信用するには、お前のストーリーが必要だ」

彼は手を止めながら一瞬考えた様子を見せ、その後にこう答えた。

「分かりました。着替えてから少尉の部屋に伺います。30分後に」



ノアにビールとオレンジジュースのどっちが良いかを聞き、彼は少し驚いた顔をしてから後者を選んだ。俺はオレンジジュースを注いだグラスとアーモンドを盛った皿と一緒に彼の前に置いて勧め、自分はビールの缶を開けて彼が話し始めるのを待った。彼は遠慮がちにグラスに口をつけ、どこから話始めようか考えているように見えた。

考えてみれば、随分と不躾な話だ。だから、まず俺からストーリーを話す事にした。まだ俺が正規軍にいた時の話。

俺は当時、野戦憲兵旅団の軍事情報中隊で小隊長を務めていた。俺たちは第11野戦猟兵旅団から抽出された1個大隊とのタスクフォースとしてモロッコに派兵されていた。任務は北部リーフ地方のテトゥアン――欧州に潜伏するジハーディストの保育器とも呼ばれる場所――にあるイスラム過激派の拠点を捜索し、その資金源となる人身売買、麻薬密輸のネットワークを破壊する事だった。俺たちが捜索と軍事情報オペレーション、猟兵部隊が斥候と強襲を担当する。

偵察任務中、ある街区で俺たちの小隊は民兵共のキルゾーンに入り込んだ。先頭のASV24がRPGの直撃を喰らって大破、小隊も釘付けになった。俺は1個分隊と共に負傷者を引き摺って後退しようと試みた。射撃班Aがストレッチャーで負傷者を運び、射撃班Bと俺、小隊軍曹がそれを護衛する。射撃班Bの4名が次々に撃たれて脱落し、別のASVがRPGの至近弾を何発も浴びながら、彼らと俺たちを救出する為に前進してくる。

俺たちがキルゾーンを脱した時、俺たちが連れ出した負傷兵は既に死亡していた。射撃班Bの4名のうち2名も基地で救命治療中に死亡、1名は1週間後の手術中に死んだ。

俺は当時の指揮及び戦術上の判断の正統性を喚問され、最終的にはそれが認められたが、そんな事はどうでも良かった。良いか悪いか、そんな事は誰にも分からない。2名を救おうとして、追加で3名を死なせたという事実だけが俺の記憶として残っている。

全員、ノアと同年代の若者だった。

翌日、俺たちは破壊された装甲車の残骸を確保する為に同じ場所に送り込まれた。そこで見たのは、息子を探しに来た母親たちの姿だった。彼女たちは息子の亡骸を見つけ、まるで祈るかのように天を仰ぎながら泣き叫んでいた。その中の一人と目が合う。女は、哀しみと怒りを混淆した表情を向け、血まみれのAKを手にした。

平手打ちのような音が聞こえ、彼女はその表情のまま倒れ込むのが見えた。
直後に低くくぐもったような銃声。50口径の音。

気が付くと周りは静まり返っていて、周りの女たちの視線は俺たちに注がれていた。

"やめろ、そんな顔で俺を見るな。被害者のつもりか?ふざけやがって。俺の部下はそいつらに殺されたんだ。死んで当然だ。親子揃ってクソ地獄に送ってやる。"

俺はM4を構えながらそう叫んでいた。
そんな俺を制止した小隊先任軍曹は、いつ俺が発砲してもおかしくない様子で気が気じゃなかったと後で言っていた。

帰国してすぐ後、CRITICS批評家たちというふざけた名の非公式部隊からスカウトされた。曰く、戦場の霧の中を経験した現場指揮官が必要なのだと。俺のような経験をした奴は大勢いるだろう。何故俺が、という疑問に対して、エージェントはこう答えた。「我々が遭遇する霧は更に濃い。それを振り払えるのは"人間性"の集合体だけだ」と。最初は言っている意味が分からなかったが、今なら分かる。逸脱戦を戦うべきは人間だ。そういう事だったんだろう。

ノアは微動だにせず、俺の話をただじっと聞いていた。時々、何かを考える様な目つきをしながら。そして、俺が話し終えると、遠慮がちに口を開いた。

「今の少尉は、もし自分の部隊のメンバーが家族だったらどうしていたと思いますか?」
「戦場では、仲間は家族以上の存在だ。俺の代わりに撃たれるかもしれない、俺の背中を守ってくれる奴ら。だからその質問には答えられないな」
「僕には家族がいません。父は写真でしか見た事がないし、母とはたまにビデオメッセージで話していたけれど。だから、そういう人との結びつきを感じた事が無いんです」
「友達は?学校には行っていないのか?」
「母の仕事柄、シニア・ハイスクールから先は全てリモートでした。久しく、誰かの顔を覚えようとしたことがありません」

彼はそれっきり気まずそうに黙り、グラスを静かに煽った。

「もう一つ聞いていいですか?少尉はなぜ軍人になろうと?」
「俺の爺さんは海兵隊員だった。ベトナム帰還兵の。彼らが帰国後どういう目にあったかは聞いた事あるか?」

首肯。

「俺の両親は爺さんを見て、俺を絶対に軍人にはさせないよう努力したようだ。いわゆる"リベラル"って奴だ。親父は医者だったから、両親も俺をそういう職、"誰にでも尊敬され、社会に必要とされる職業"に就かせようと望んでいた。ガキの頃、俺は親父に"軍人だって尊敬され、必要な職業じゃないのか"と聞いたが、親父は俺をぶん殴ってこう怒鳴った。"お前のお爺さんを見れば分かるだろう"ってな。それで俺は軍人になろうと思った。決心したのは911の時だけどな」

そのせいで今でも家族とは絶縁状態だ、とは言わなかった。だから自分が家族を持つ事はないだろう、とも。

「良く分かりません。ただの反抗心とは違う気がします」

ノアが親に反抗する様子は想像できなかった。いや、多分そんな機会さえ無かったんじゃないだろうか。俺はそんな事を考えながら続けた。

「勿論、親への反抗もあったんだろうが、一番はそれが正しいとはどうしても思えなかったんだ。爺さんは俺を狩りに連れて行ってくれたし、銃の撃ち方を教えてくれた。初めて紙の標的のど真ん中に当てた時は、普段は全く笑わない偏屈ジジイの癖に顔をクシャクシャにしてたな。ただ、幾ら聞いても絶対に戦争の話はしなかった。俺が軍に入ろうと決意した時、爺さんはもう老人ホームにいてまともに歩く事も出来なかったけど、その時に初めて爺さんから戦場の事を聞いた」

目の前で戦友が地雷で吹き飛ばされた話、味方の筈のARVN25が、敵の攻撃が始まったとたんに報道記者を置き去りにして一目散に逃げだした話、そして民間人に紛れて攻撃してくるVC26を、群集ごとM60で薙ぎ払った話。今思えば、爺さんは俺を委縮させようとしたんじゃなくて、そんな場所に行く覚悟があるのか問いかけていたのかもしれない。

俺は自分の話を終えるとビールを飲み干し、彼がやったように相手の話に傾注する事にした。
彼は順番が回ってきた事を察したらしく、少しずつゆっくりと話し始めた。

ノアは父親が亡くなった後も、殉職者向けの基金から支給を受けていたが、その振り込み元はそれまで両親から聞かされていた表向きの勤務先の名義だったらしい。だから彼は"財団"なんて存在を知ることなく、少なくとも生活するには困らない程度の金があった。彼は両親が共に脳神経学の研究者である事は知っていて、だから同じ道を志そうとしていた。財団はこうやって未来の職員を養成しているのかもしれない。もしそうだとしたら随分と趣味の悪いやり方だ。効率は良いだろうが。

ノアの話は核心に入った。俺が一番興味があった事。つまり、何故彼がこの仕事を引き受ける気になったのか、という事だった。そしてそれは少なくともブリーフィングでは聞かなかった話だ。

アレクサンドラ元研究員、またの名をPoI-2533はノアの母親が開発に"深く関わった"薬物を服用していた。それは公には認可されていない向精神薬で、今は財団の職員なら誰でも医療部門の許可があれば処方できる。アレクサンドラはその初期臨床試験の頃から志願した被験者で、その服用期間は全職員中最も長い。そして彼女のとった行動は、その薬を長期服用した事による副作用、特定の生理状態で短期的な失見当識を引き起こす可能性を示唆していた。ノアは財団がどういう組織なのか、少なくともある程度は説明を受けていた。その職員に広く使われている薬品が、それ自体は致命的ではなくとも、職務中に発症した場合には局地的では済まない被害が生じるという事は
直ぐに理解できただろう。

お前の母親のせいで、世界は危険に瀕している。それが顕在化したのがインシデント2533/C12だ。お前はその切り札になる機会を得た。

彼は気丈に過ぎた。何の疑いもなく、彼は背負う事を決断した。

彼の聞かされた話が、"溜め込み屋"お得意の"カバーストーリー"とやらの可能性だってある。第一、事実だとすれば随分と強引な話だ。新薬に欠陥があるなら、その責任は承認した奴であって開発した奴ではないだろう。だが、それを口にするのは憚られた。彼にとってそれが動機なら、それを揺るがせるべきではない。

もう一つ分からない事があった。

なぜノアが切り札なのか。

話の終わりにそれを問うと、彼はこう答えた。

「詳細は言えませんが、一つだけ。私にはPoI-2533に作用する固有のミーム媒介源としての機能が埋め込まれています。接触できれば、それがPoI-2533の行動を抑制できる筈です」

彼はグラスに口をつけ、残る中身を一気に飲み干した。

「少尉、一つお願いがあります。もしPoI-2533の心理構造が根幹から変容していた場合、私が齎すミームはPoI-2533に通用しないかもしれません。その時は、PoI-2533を爆撃するよう指示してください。僕が巻き込まれようと構いません」

18歳のガキにこんな表情が出来るとは、いや、そう強いる事が出来る方法を俺は知らない。だから俺は返事をしなかった。



「ハリソン、おい、目を開けろ!ヴェラクス、キャラコ・ジャック。アーク16を確保」

不意に名前を呼ばれ、頬を叩かれた事に気付いた。

「ヴェラクス、キャラコ・ジャック。了解した。アセットは単独行動を続行。リーパーが追跡中。状況に変化が生じたら再度連絡せよ、アウト」

左右から俺の肩を支えている奴がいる。周りには銃を構えて周囲を警戒する奴も。そんな中でも意図しない言葉が次々に出てくる。

「ノア、奴らが何を言っても気にするなよ。お前がどう思ってるかは知らないが、俺はお前を信用している」

身体中が痛い。そして妙に眠気が襲ってくる。視界がぼやける。

「ハリソン!クソッ、ヴェラクス。アーク16の意識は混濁している。GCSは7、応急処置の為退避許可を要請する」



気が付くと、俺はコンクリートの上に寝かされていた。妙に薄暗くて、それが部屋の中なんだと気づくのには少し時間がかかった。

一人の男が俺を見下ろしている。

「気付いたか。所属と階級を言えるか?」
「ダニエル・ハリソン、連邦国防軍少尉。認識番号527-65-8589」
「ヴェラクス、キャラコ・ジャック。アーク16が復帰。意識は安定・・・あー、身体機能にも影響は無さそうだ」

キャラコ・ジャック、俺たちの浸透を支援する為にSEAL9から派遣されてきた偵察狙撃チームのコールサイン。チームリーダーらしき男に、俺は状況の説明を求めた。

分かった事は2つ。
1つは、BMWが大破してから3時間が経過している事。
2つ目は、ノアは後席にあった俺の装備を持って単独で任務を続行している事。

俺は傷を確認し、関節が動く事を確認すると、彼らが気を利かせて回収してくれたトランクの中の装備を身に着けた。

「ヴェラクス、アーク16、任務に復帰する。パッケージは捕捉しているか?」

「アーク16、リトルバード27が向かっている。コールサインはヴァイパー46。LZはアンカー04が確保済み。SEALチームと一緒に行け」



始めて銃を持たされたのは2か月前。財団で標準的に使われている9㎜の自動拳銃。
"彼女"を捕まえる作戦はアメリカ軍の非公式部隊と合同で行う。
僕だけが彼女と交渉できる。
だから、僕は彼らに同行しなくてはならない。
財団の人達にはそう聞かされていた。

僕は、久しぶりに他人の顔を認識した。
滅多に帰ってこない母の代わりに財団が寄越したハウスキーパーは毎回違う人だったから。
毎日モニター越しに顔を合わせる"家庭教師"は、人でさえない。

他人と僕とは距離が遠すぎる。だから、人と距離を取るのが当たり前になっていた。
誰にも興味を持たれず、だから僕も誰にも興味を持たない。

母か、それ以外の人か。

少尉は顔に似合わず苛烈で口汚い人だったが、僕が上手くやれない時にも否定するような叱り方はしなかった。僕が確かに理解していないまま肯定しようとすると強烈な皮肉の効いたジョークと共に怒鳴りつけたが、その後に手本を見せ、何が駄目なのかを教え込もうとしていた。そして僕が上手くやれる様になると、ストレートな言い方で褒めてくれた。

そんな風に接してくる人と、久しく接した事が無かった気がする。

だから、楽しかった。



LZは目標地点から凡そ500m程、もし標的が居ても、街並みを超低空で掠め飛ぶリトルバードには気づけないだろう。長く続く麻薬戦争で半ば廃墟と化した街中を徒歩で進む。5m間隔。道中は不気味なほど静かだった。途中でアンカー04――先行して現場に潜んでいたSERPAのCIP28チーム――から、ノアの姿を確認したと連絡があった。彼は迷う様子もなく、廃墟の一つに入っていったきり、1時間ほども出てこないと。俺は"キャラコ・ジャック"に周辺への展開を指示し、自分はノアと合流するつもりだった。CIPのチームには2挺の50口径狙撃銃、SEALチームには338ラプア口径の狙撃銃に加えて最新型のM60機関銃とAT-4CS29がある。待ち伏せを受けても、最低限の足止めくらいは出来る火力だ。俺が気がかりだったのはノアの安否だけだ。

その場所は、空爆と砲撃で半壊した教会だった。俺は銃のライトを点灯し、"相棒"の姿を探す。
ライトの先に、白く浮かび上がるノアの姿。彼は俺のベネリM3を背負い、代わりに拳銃を自分の頭に突き付けていた。

「ノア!銃を捨てろ!バカな真似は止めてこっちを向け!」

彼は従わないどんな表情なのか伺う事も出来なかった。その時、廃墟の一角、何もない真っ暗な影から"標的"が姿を現した。病的なまでに真っ白な女。肌と見分けがつかない白いフード付きのコートを着ているせいで、顔は見えない。

「母さん」

聞き間違いか?

「母さん、僕が判る?」

「ノア・・・。どうして」

"標的"が苦しそうに呻く。

冗談だろ。

「同僚の人達が、母さんが何をしたのか教えてくれたよ。お願いだから、黙って僕についてきて」

「ノア・・・ごめんなさい」

彼女の腕がいきなり不規則に形を変え、ノアの手から拳銃を叩き落した。
ノアは呆けたように地面に落ちた拳銃を見つめると、俺の方に向いた。

「少尉、すみません。しくじりました。爆撃の指示を」
「ファック!黙れ、ノア。一体何がどうなってやがる。おい、そこの。お前はノアの母親なのか?」

彼女は何も言わない。まるでオブジェか何かのように突っ立ったままだ。

「アンカー04、アーク16、警戒しろ。北からヘリが接近中。所属不明。現在識別中。ヴェラクス、Bittersweets30だ。Bogey dope31
「ヴェラクスより作戦中の全ユニットへ。Bogeyは財団所属機だ。機種はクーガー32
「予定にないな。交戦は?」
「ヴェラクスより全ユニット、Continue dry33だ。繰り返す、Continue dry」

ヘリは教会のすぐ横でホバリングしながらサーチライトを点灯させ、俺と、ノアと、それから"彼女"を照らし出した。強烈な光線から目を守る為、俺は手をかざした。

その時だった、あの忘れもしない嫌な音が聞こえたのは。

例えるなら湿ったタオルを叩きつける様な、或いは水風船が破裂する時のような。

直後、ヘリの側面に取り付けられた機関銃が発砲し始めた。

"彼女"が力なく倒れ込むノアの身体を抱きかかえると、降り注ぐ銃弾の雨からそれを守ろうとしているかのように彼女の肩から巨大な腕のようなものが生えてきた。赤黒い皮膚と白い歯のようなもので覆われたそれの先には6本の冗談みたいに巨大な爪。それが地面に食い込み、その間に血の色をした膜が形成されていく。それは降り注ぐ308NATO弾をも防いでいた。

無線では怒鳴り声が響いていた。

「アンカー04、ヴェラクス!Blue on blue34!アーク16とアセットが攻撃を受けた!対象は逸脱状況に移行!溜め込み屋のクソ共に射撃を中止させろ!」
「ヴェラクスより全ユニット、Weapons Hold35、繰り返す、Weapons Holdだ。交戦は許可しない。キャラコ・ジャック、直ちに退避しろ」
「アセットを放棄するのか?ヴェラクス、確認を」
「先ほどコンタクトがあった。アセットはDナンバーだそうだ。キャラコ・ジャック、アンカー04と合流せよ」

俺はそのやり取りを聞きながら、辺りに着弾した銃弾が地面を掘り返し、砂煙を上げる中、全身から力が抜けそうになるのを必死で堪えながら歩いて行った。彼と彼女の元へ。

「ヴェラクスよりアーク16、直ちにその場から離脱しろ!ダニエル!聞こえないのか!」

聞こえていない訳じゃない。ただ、俺は目の前で起きた事を飲み込むのに必死だっただけだ。

彼女は――泣いていた。肉と骨で作り上げた傘の中で。
俺が目の前にいる事に気づいた彼女は、ノアの亡骸を抱いたまま立ち上がって、真っすぐ俺に目を向けた。
その時、俺は初めて彼女の顔を見た。

半分は赤黒くゴツゴツした皮膚に覆われ、瞳の色はワニの目みたいに黄色く、裂け目のような瞳孔。
何を思ったのか、彼女は俺に向かって手を伸ばしてきた。こいつは俺を殺すつもりだろうか。いや、殺すなんていう意識は無い筈だ。俺たちが彼女に対して認識するのと同じように。

しかし、もう半分は違う。
その表情には見覚えがあった。

それと同時にノアとの会話が思い出される。

堪え切れなかった。



気が付けば、全身黒づくめの装備に身を固めた一団が俺たちを遠巻きに包囲していた。G36にPN21K暗視装置、ヘルメット一体型のフルフェイスマスク、それから見た事もない形状の装置を構えた奴も。どれも軍の装備じゃない。財団子飼いのクソ野郎共。私服の上にボディアーマーと抗弾仕様のヘルメットを付けた男が、周りの連中に指示を下している。そいつは周りの兵士が俺たちに銃を向ける中、こっちに向って歩いてきた。

「アレクサンドラ研究員、抵抗は無意味だ。拘束を受け入れろ。それからハリソン少尉、武器を捨てろ。我々に敵対の意志は無い」

俺は反射的にライフルをそいつに向けた。周りの連中が武器を一斉に構えるが、その男が片手を上げると、示し合わせたかのように構えを解いた。

「なぜノアを撃った?」

俺は肩付けの姿勢を維持したまま問いかけた。

「ああ、D-9234の本名か。彼にはそのオブジェクトに、自分が招いた結果を教えてやるという役目があったんだ。そしてそれは見たところ、十分に果たされたようだ」
「ふざけるな、初めからその予定だったのか?」
「おいおい、銃を向ける相手を間違っているぞ、少尉。君達の得意な"逸脱戦"のターゲットは君の隣にいるそのオブジェクトだろう?」

男が続ける。

「本当ならそのまま戦意喪失状態が続くか、少なくとも衝撃から立ち直る前に制圧を終わらせたかったんだがね。操血術を駆使する以上、対処方法はタイプ・ブルーと変わらない、意志に指向性が生じる間も無いほどの短時間に火力を集中すれば終了できる。上手くいけば最初の制圧射撃で片が付くはずだったんだ。とはいえ、プランBはある。こっちが本命だ」

彼は軽く後ろに目をやった。ステディカムとAT-4と馬鹿デカい鋏を組み合わせたような装置。それを構える兵士のバックパックからは幾つものケーブルがそれに繋がれている。そいつらは
気味悪く蠢いていて、生きているかのようだ。いや、若しかしたら本当に生きているのかもしれない。

ふと横を見ると、"オブジェクト"は、あの時の母親と同じ顔になっていた。

その後は一瞬だった。

横から、聞いた事もない声――それは、慟哭だったのかもしれない。それは得体の知れない猛獣の咆哮にも、何人もの泣き叫ぶ女の声のようにも聞こえた。彼女の腕が、肉と骨で出来た肉食動物の顔のように変化し、目の前の男を上半身ごと食いちぎると、その残骸を吐き出した。

俺は突っ立ったまま、ただ叫ぶ事しか出来なかった。
"止めろ"と。

その後何があったのかはよく分からない。俺は頭を抱えて伏せていただけだったから。気が付けば、一面に血と肉片が散らばっていた。遠くではぐちゃぐちゃになったヘリの残骸。そして、白と赤で染まるアレクサンドラの姿。何かを言おうとしている。俺は彼女の傍に這い拠ると、彼女の口に耳を近づけた。

「ノアの願いを、叶えてやってほしい。彼は貴方に会えて幸せだった」

掠れた声だったが、俺はそれを確かに聞き届けた。俺は肩のIRビーコンを外し、彼女の手に握らせてやった。

「ヴェラクス、アーク16。ターゲットを拘束した。ナイトゴーント11へ支援要請、グリッド311-954、ターゲットはIRで指示する」
「アーク16、了解した。ナイトゴーント11は3分後に上空に到達。地上の全チームは直ちに撤収せよ、Danger Closeになる」

「ありがとう」

後ろからそんな声が聞こえたが、俺は振り返る事が出来なかった。
きっと彼女が泣いている事に気づいてしまうだろうから。



ジェフリー・フィリップ・ガイスト中佐は苛立っていた。手元にある報告書の束、目のディスプレイに映っている物、そしてヘッドセットから聞こえる声が彼をそうさせていた。

「そちらのアセットとやらは、我々の兵士達がただ殺されているのを見守っていただけだと?これは両者の信頼関係に悪影響を及ぼす可能性がある事象だ、大佐」

――何を言っているんだ?いつから俺たちは奴らの召使になったんだ?自分のケツも拭けない奴らが戦場に乗り込んできた事を考えれば、当然の帰結だろう。

ガイストはマイク越しにそう怒鳴りつけてやりたい衝動を必死に抑えながら、慎重に次の言葉を選ぶ。だが、どうやっても穏便な言い方では済ませられそうになかった。

「まず第一に、我々はあなた方が、あのノアという少年の同行以外に本作戦に介入する事を知らされていませんでした。次に、彼の護衛を務めたダン、失礼、ダニエル・ハリソン少尉が彼から聞かされていたターゲットのバックグラウンドは全て嘘でした。尤も、少尉は半信半疑だったようですが、そんな事はどうでもよろしい。いずれにせよ、誠意を欠いていたのはあなた方であって我々ではない。私の部下は危うく下手くそな射撃で殺される所だったのですよ」

ダンが上げてきた報告のうち、少なくともあの現場で起きた事については、SERPAやSEALチームの連中からも言質が取れている。そして、ダンの心中は察するに余りあった。"相棒"と呼べる存在が、奴らに使い捨てられた事。そもそも今回の標的自体、ある意味では財団の犠牲者に過ぎない事。

――そう、彼女はあのオブジェクトに接する上で最低限必要だと思われるあらゆる措置――いわゆる認識災害や幻覚に対するそれら――を受けていなかった。IASS36の送ってきた報告書によれば、それに加えて彼女はペイヴ・メアⅠのETAに合わせて40時間以上に亘って待機業務を命じられていた。その間の休息は5時間のみで、しかもそのタイミングは実験区画非常警報システムの動作チェックと重なっていた。それに加え、実験室のエアロック開放の際の動作時に発せられる警告ブザーと非常警報音は似ており、あのオブジェクトの予期された特性、緊張による重圧、そして過労による判断力の低下。全てが負の作用を及ぼした。

「大佐、あなたは本案件の重要さが理解できていない。脱走したオブジェクトがどれほどの脅威になるのか、一度でも考えて見た事があるのか?」

――クソ、こいつらは自分達を巨人だと思い込んでいる。奴らは誰からの統制も勧告も受けない。外部の調査機関が入る事もない。NTSB37の調査官がこのインシデントを見たら呆れるだろう。

彼はそんな事を考えながら、不毛な会話を継続しようと努力する。

「脅威にしたのはあなた方でしょう。一つ言っておこう、マッセナ主任収容担当官。私は個人的にもあなた方のやり方が気に食わない。何も知らない少年に嘘を信じ込ませ、犠牲になる事を強いた上、考証の余地さえ考慮に入れなかった。その上、お膳立ても尻拭いも我々に押し付けた。それで信頼関係とは笑わせる」
「大佐、我々は異常事物との共同戦線を維持する為に・・・」
「共同戦線だと?いつあなた方が戦ったのですか?戦っているのは私たちの兵士だ。それがあなた方の指揮下であったとしても。この際だからはっきりさせておこう、ミスター・マッセナ。我々には逸脱戦へ対応する意志と能力があります。あなた方とは違って」

――そう、"溜め込み屋"は戦い方を知らない。銃の撃ち方、亡霊やクリーチャー、グリーンやブルーをどうすれば拘束できるかは知っていても、それを成し遂げるまでにどんな段取りが必要なのかまで想像する事は出来ないのだ。それが、財団の機動部隊に我々が戦力を提供している最大の理由だった。

以前、財団の離反者が含まれるコミュニティへの強襲作戦を指揮した時の事を思い出す。作戦立案の段階でさえ、認識の大きな隔たりを感じざるを得なかった。何せ奴らは電子戦を展開するにも対象の周波数や位置、時間的な発振パターンを事前に調べ上げ、それを単なる情報の集積からインテリジェンスとしてのパッケージ化というプロセスを経る必要がある事さえ知らない様子だった。それどころか、COMJAM38は他人の会話を妨害する為に大声で騒ぎ立てる様なものだという事も。

「何が言いたい?大佐」

ディスプレイの向こうでは、会話の様子が変わってきた事に戸惑う様子のフランス人が映っていた。

「シンプルですよ。第一に、我々に協調を求めるのであればあなた方は態度を改めねばならない。第二に、"正常性"を定義するのは人間であって"財団"ではない」
「我々が"怪物"だと?」

フランス人は、思わぬ告発を受けて戸惑いを隠せなかった。自信の根拠が揺らぎ始めたからだ。
そもそもの今回の作戦実行にあたっての財団内部での承認手続き、それについては考えが及ばなかった。

――そういえば、あのDクラスはどこで雇用されたのだろう。その取扱いは適切だったのか。
――標的が離反者として認定されたのは、彼女が引き起こした事象以外に根拠があったのだろうか。

「そうならない為に、財団には"倫理委員会"とやらが存在するのだと思っていましたが」

マッセナ主任収容担当官は、自分が財団という巨大な官僚組織の文化に染まり過ぎている事には気づきはしなかったものの、少なくとも無能な男ではなかった。自分の職務、即ちアメリカ軍の逸脱戦対応部門との調整連絡という役割に忠実ではあったが、それは財団側のプロセス、そしてそもそもの経緯が完全に合理的であるという前提でのみ成立する。今の彼は、自分が立っている位置が不動の丘ではなく、今にも倒れそうな高台である事に気づき始めていた。

――一刻も早くこの不毛な議論を切り上げ、自分達自信の足場を固めなくてはならない。
彼はこのやり取りが発生する切欠を作ったのは自分であるという事はひとまず忘れる事として、会話を終了する為に必要な事柄を考え始めた。



フェルドン倫理委員長は3つの勤務用端末を使い分けている。1つ目は自分が表向き在籍するフロント企業のもの、2つ目はSCiPNET用の端末、そして最後にO5とのホットラインに使用するデスク上の端末だ。彼はそのうちの2つ目で日毎のルーチンであるメールのチェックに追われていたが、不意にその中の一通に目が釘付けになった。その送信元アドレスは2日前に廃止になったアカウントで、それだけで異常事態だったが、もっと恐ろしかったのはその内容だった。掲題は空欄、本文にはURLが添えられているのみ。スパムメールがSCiPNETのメールサーバーに入ってくる事は理論上有り得なかった。彼は念のため、そのURL――事もあろうにYoutubeだった――を手書きのメモに控え、私用の端末からアクセスする事にした。映像が無く、音声のみの動画ファイルの内容は、倫理委員会が承認していない作戦について、批評家連中の指揮官と財団職員のやり取り、いや、ほぼこれは言い争いだろう――が記録されていた。彼はそれを聞き終え、再生回数が3回と表示されている事、そして"限定公開"の表示に気づいた。彼は慌ててそれをもう一度再生しようとページを読み込んだが、プレイヤーには"動画を再生できません"の表示のみ。彼は混乱した。

――このタイミングで動画が消去されたという事は、彼の私用端末からこのURLにアクセスしたという事を、恐らくこのメールの送信者は何かしらの方法で検知したという事に他ならない。そして、あのメールが勤務用の端末に届いたという事を併せて考えると、その何者かはSCiPNETのアカウントと私の私用端末の両方を掌握しているという事になる。

彼は自分が導き出した可能性に衝撃を受けつつも、他の多くの財団職員と同じように、自分の仕事に忠実であろうとした。まずはあのマッセナという名の収容担当官に事情聴取をしなくてはならない。もしこの内容が事実なら、我々は明らかに何かを見落としている。



基底現実にあった半身は爆撃で吹き飛ばされた。

私はかつてここと叡智圏と呼び――それが本当に正確な表現なのかは分からないが――、その前には"余剰次元に存在する量子レベルの情報基盤"という曖昧な概念でしか言い表せなかったその領域に、私の自己同一性を担保する概念が残っている。情報と、それに満たされた"場"、云わば"情報界"とでも言うべき世界。

私は考えた。なぜ私たちだけがあのオブジェクトを知覚する事が出来たのか。そして、何故私はここに至ったのか。二つの事象には相関性があるように思えた。
私はあの瞬間、あの簒奪者の名を呼んだ事を覚えている。一部では伝説上の英雄にして始祖、私たちにとっては人類種最大の脅威にして天敵。だが、ここが彼に由来する世界ではない事は明らかだった。

私はこの時間も空間も存在しない場所で、考えながら待つ事にした。遠い未来、誰かが再び私と息子の概念を呼び起こしてくれることを信じて。
きっとその時には、私はより答えに近づいているだろう。

私は、概念化されたアレクサンドラの人格とノアの記憶の集合体。




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  1. portal:5828346 (02 Nov 2019 14:12)
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