おはぐろどぶの水底に

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 えぇ、こちらはね。演目ではないんでござんすよ。イヤ、正確には私の師匠がね、演目にしようてんで、記録にはつけた。だけれども、あんまり不気味というから、今までずーっと闇の中でござんした。ネエ、篠田先生1。私は、アンタが、この明治の世の中に、御一新前のことを集めてる奇特な方だって、聞いておりやす。…モシ、駄目なら駄目でそりゃいいんですがね、どうか一つ聞いておくんなせえ。私も、モノにはならなかったとはいえ、講釈師の端くれだったことがござんす、飽きるようなお噺はしませんから…。

 安政二年、確か春の頃でござんした。その頃私はまだ若うござんして、何か楽な世渡りの術は無いもんかね、とこうずっとおもっておりやした。随分とひねた根性でござんすが、そこはおひとつお許し下すって。
 そして、考え抜いた末に、そうだ講釈師にでもなろうとこう思ったのです。昔ッから辻講釈だとか、寄席に行くのは大好きでござんしたから。それでもって、その頃本所の方に住んでおいでなすった神林伯玄…それも、今ご活躍の六代目の先生の、さらにそのまた師匠にあたる四代目の先生ですヨ。身分不相応にも、かの「大伯玄」に弟子入りを乞うたわけです。
 それでね、私が師匠のお屋敷…つまりは、師匠は立派なお侍様だったんです。三百六十石取りだったかしら…まあ、とにかくご立派な門があってね、奥の方に広い平屋があるんです。そして、そこに行きますと、釈台を据えて稽古をしていらっしゃった。お歳の程は三十幾ら、髷は小粋に結っておられて、服装は黒の羽織に藤鼠色の色無地を下にきて、袴は白でござんした。
「先生、あっしは根津からめえりやした、仁介てえ者でござんす。先生に弟子入りしてえと前々から思っておりやした。どうぞ、お許し下すって」
「そりゃア構わんが、お前さんうちは厳しいぞ。どうやってもモノにならん、ということもあるかも知れん。それでも良いかな」
「勿論でがす。あっしのやれる限り、できる限り尽くして、芸を磨かせてもらいやす」
「そんなら良かろう。おうい、伯太郎や。こいつの面倒を見てやってくれい」
 なんてね、その日あっしは見習いになりまして、白忠なんて高座名を師匠からもらったんです。まるで鼠みてえでござんしょう。でも、いまだに大事な名前でござんす。
 …それでね、ここからがようやっと本題なんですが、あっしが弟子入りをして少し経った後。まあ、時節は秋の頃でございますな。
 ある時、師匠があっしに声を掛けたんです。
「おい、お前さん。吉原へ行くぞ」
「ええ、吉原ですか」
「そうだよ。だから、上等な着物を着ていくことだよ」
 先生もご存知の通り、吉原てえとあんなに華やかなところはないでございますな。ええ、四十種類の桜が咲いて、大門の向こうの仲之町から、各町の木戸門を抜けると張見世てえのがございます。そこには、何と云うんですか、イヤ、この辺りのことは疎くって申し訳が無い。兎に角、煌びやかに飾った格の高い遊女がコウ端然と座ってね、市中の下の方の店とは訳が違いまさ、ああしてケバケバしい女が無理に連れ込むんでなくて、向こうの方はツンと澄ました顔でコッチから来るのを待ってるんで…。
 ははは、ごめんなすって。とはいえ、師匠は廓遊びなんてことをする人じゃアございませんでした。これは間違いございませんよ先生、あの人はね、ご新造を早くに亡くされてから、ご子息に義理を立てて、家の為に貰った後添いの方の他には、妾なんかも持つことはございませんでした。
 態々吉原まで足を運んだてえのは、ソウ…今風に申しますとね、慰安の為なんです。あるでしょう、戦地の兵隊さんへの慰安という奴が。アレなんです、何しろね吉原の遊女てえのは、厳重なお調べがないと廓から外には出られないんです。かの江島生島事件2てのはご存知でしょう先生、大奥の姫君とは格も違うでございましょうが、篭の小鳥てえのはどちらも変わりがないんです。
 マア、ですからな。あちらの方でも時折は遊女の何か慰めになる事をしてやろうと、そう思ったんでしょうな。そこで、その頃江戸一の評判だった師匠を呼んで一席設けてもらおうとそう考えた訳だ。
 今のお金にして五十円にはなるでしょうかな、その頃ございました中梅楼という大店のご主人がね…これが洒落としか思えないんですが、仁兵衛と云うんです。世に、廓の主人は忘八なんてえ云いますのに、仁兵衛だなんてネ…兎に角、それだけのお金を師匠にお支払いをして、是非とも一席やって貰えまいかと仰った。流石にそれだけの心持ちときては、師匠も断れないから、貸本屋を呼んで遊女の好きなお話を十、二十演目に仕立てて出かけて参りました。私はその付き人で、まあ荷物持ちの様なものとお思い下さいませ。
 サテ、それでその日の昼に大門を潜りまして、京町二丁目の中梅楼まで二人で歩いて行ったんです。中梅楼は二丁目の端の方、一つ先には羅生門河岸てところにあったんです。
 そこでね、師匠が楼に行きますと待ちかねたと見えて、あちこちの店の遊女達がわっとお出迎え。あれには流石に嫉妬したもんです。そうして、暫くぶっ続けで演目をやるんです。でも、よくもまああれだけやるものがあったのだなア、と今でも感心しておりますよ。何しろね、向こうさんからは心中物は駄目だ、とかあんまり淫猥なものは駄目、とか言われる訳でございましょう?それでもって、かと云って太平記や忠臣蔵を演ったって受けるわけがない。ですから何とか師匠は智慧を絞って噺の筋を立てて演った訳ですな。
 マアそれで、見事に一席は大入りでございまして、夜になる。夜になると女達は客を取らなきゃなりませんから、そこでお開きてえことになる。楼主さんのご厚意で、その日は部屋を一つ頂いてそこで休むことになりました。遊女も呼べますがと云われましたが、それは師匠が断りましてね、芸をやる男の下手くそなのを呼んでそれをネタに酒を呑んでましたよ…。
 でね、真夜中のことなんです。この吉原の凄いところてえのは、その日のうちに灯りが消える時てのが無いんです。ずーっと明るい。仲之町なんかに人の繁華が絶えることがない。でもね、時折それが煩わしくって、ちょいと私は楼を抜け出して静かなところに行きたいと思ったんです。
 それで、楼を出てそのまんま羅生門河岸の方に出た。羅生門河岸というのはね、吉原の東側にあった、四角のヘリの辺りのことなんです。皆さん知っての通り、あの場所はこうぐるっと高い塀ともう一つ、大きなどぶが堀みたいに囲んでるでございましょ?羅生門河岸ってのは正にそう云うとこなんです。みんな、その囲むどぶのことを「おはぐろどぶ」なんて云っておりました。その側にあるから、川に見立てて河岸なんて名前がついてるんでしょうか。
 それはともかく…私は楼を抜けた後、何くれともなくその辺りを歩き回っておりました。あの辺りは吉原でも最下層の店があるんですよ。切見世と云いましてね、イヤ、先生にはきっと釈迦に説法でしょうが、これも後の世の為ということでご勘弁を。…その頃、切見世の文句は一ト切百文て云いました。こうちょーんと拍子木が鳴るまで、大体十五分かそこらでしょうか、それで百文。その位安いってんで、みんな見栄を張って仲之町の大見世を回った後、結局はそこに落ち着くんです。
 そこには長屋がずーっとあって、土間に二畳敷きの畳があってそこで客を取るんです。これがあんまり見てられない…まあ、下世話な話はこの位にして。
 それでね、ずっと河岸を歩いておりました。秋の頃とはいえ、その日は暑かったもんでございますから、おはぐろどぶから鼻が曲がる様な匂いがずっと届いてくるんですよ。嫌なもんですがねえ、本当に。だけれども騒がしいよりはマシと思って歩いてた。
 すると、廓を囲んでるはずの壁に穴があるのを見つけたんです。何か、古くなったので崩れたのかとそう思いましてね、その向こうすぐにどぶがあるんです。
 オヤ、と思ってそっちの方に行ってみると、なんと誰かが叫んだ。
「足抜けだア!」
 足抜けてえのは、遊女が年季明けの前に逃げ出そうていうことです。これは大変なご法度、折檻だけじゃア済みませんや。私もこれは大変だと思って、野次馬がてら行ってみた。すると騒ぎは例の穴の辺りで起きてる。すすっと、人の波を抜けてそちらへ行ってみると、アア確かに、真っ黒などぶの中で着物の裾がひらひらと動いてる。綺麗な紅色の振袖みたいなのがね…バシャンバシャンと水音がしてるのを見ると、溺れてる様だと判りました。
「アレは中梅楼の小鷺さんだヨ!すぐに引き上げなきゃ!」
 それを聞きまして、私ハッとしました。確かにあの柄の着物、中梅楼で見たぞと。そうともなれば、お客様のところの女の人だ、何としたって助け申さなくては不義理になろうとソウ考えた。
 覚悟を決めてどぶにバシャーと飛び込む。生温かい水が体に触れてアア気持ち悪い…そう思いながらも私は泳いで手を伸ばした。そしてね、必死で相手の手指のところ、ソウ、こうして五本ぎゅうと掴んだ!その時ですよ。
「あっ!」
 と思った時にはね、なんとその指五本がまるで饅頭を破る様にサーッと千切れて離れてしまったんです。何、と驚いた時にゃもう遅い、ブクブクブクブクと体は真っ黒などぶの底に沈んでしまいました。なんてことだ、と呆然としてしまいましたよ。
 それで、指五本握りしめたまんま、ボーッと浮いていると、
「この馬鹿!何をしてンだ、すぐに上がれ!」
 見ると、息急き切った様子の師匠が立っていて、えらい剣幕でござんした。どうやら相当焦って、追いかけてきて下すったらしい。
「師匠てえへんです!小鷺さんが、小鷺さんが…」
「後で聞くわい!先ずはどぶから上がれ!」
 それでどぶから這い上がりましてね、蝿がたかる様な格好でしたが、なんとか師匠にことの次第をお話ししたわけです。本当に単純なオツムの造りで、私はこの時懐に仕舞い込んだ指のことをすっかり忘れておりました。
「何、小鷺さんが足抜けだって?」
「ええ、そうなんです。ついさっきまで溺れてましたが、確かにあの着物は小鷺さんの振袖でございやした」
「馬鹿云っちゃいけねえや。今から楼主さんに質してみるぜ。間夫も付けずに足抜けなんてそんな無茶を、振袖着れる身分の女がするもんかね」
 楼に戻ってみますと、仁兵衛さんは驚いたご様子で、
「これは先生、とお弟子さん。何かあったのですか!」
「いやあね、向こうで足抜けだッてんで、このおたんこなすがどぶに飛び込んで、助け上げようッてお節介を焼いたのサ。一つ風呂沸かしてやってくれめえか」
「は、はい。ところで、どこの娘です?足抜けなんてしたのは」
「それがねエ、なんとここの小鷺さんに服が似てたなんてな事を云いやがる。手間で相済まねえが、ちょいと確認してくれねえかな」
「な、そうなのですか!おい、お前!今日小鷺は…」
「小鷺さんはお馴染みの民谷様のお相手を…」
「部屋にいるかすぐに確認してきなさい」
「はいはい」
 そうして、私と師匠は暫く待っていた訳ですな。そうすると、襦袢姿の小鷺さんが不機嫌そうな面持ちでやって参りましてね、
「一体なんでありんすか」
「おや、いらっしゃいましたか。いやね、これは失礼さんでございます。実は羅生門河岸の方で足抜けがありましてね、それがまあ、小鷺さんの着ている振袖によく似たものを着ておりまして…」
 ってんで、師匠が説明をすると、
「あら嫌だ!わっちはもうじき年季も明けるってのに、そんなことするわけが無いでありんすよ。おぶしゃれざんすな」
 と大層不機嫌そうにキセルを口にお咥えなさる。後から気が付いたんですが、あの人は指の爪のところに紅を差していなすった。きちんとね、細っこい綺麗な指が十本揃いで、紅が塗ってある訳です。これが白粉をつけるとまた映えて綺麗でございましたよ。
 さて、それで小鷺さんもいたことがわかったので、ドウヤラこの若造が早とちりをしたに違いが無い、と皆その様に思い、私は少々バツの悪い思いで風呂にめえりました。でね、いそいそと濡れた服を脱ぐと、アッ、とあの指のことを思い出して、思わず褌のまま駆け出してしまいましてね。女どもがキャアキャア叫ぶのを置いて、急いで師匠にコウ云いまして。
「師匠、こいつをみておくんなせえ!」
「な、なんじゃいきなり!」
 ソウボロボロと指を零してしまいますと、これまた驚いたのなんの。いつも冷静飄々としていた師匠がうひゃーッなんて飛び上がって、指を包んで仁兵衛さんのとこに駆け出して行きました。
 …それでね、ここからは師匠から伝に聞いた話でございますがね、この通り、爪に妙な色の紅を塗った五本の指がある。おまいさんの他に、こんな紅をさす女がいるかいと、コウ話してみると、なんと小鷺さんヨヨと泣き出して、アレ、どうしてこれがこの様な。これはきっとバチが当たったのでござんすと申します。なんでもね、この人悪いことにね、人に金をやって投げ込み寺の浄閑寺の方へ行かせて、筵に包まれた骸から指を切り落とし、馴染みとの指切りの契りに使っておりましたと、その様に白状したのだとか。
 あんれまあ、と空いた口が塞がりませんヨ。これがね、爪だの断髪だのと云えばまだ云い訳の立とうてものを、指を切らせるてんじゃあ、後になってドウ理屈をつけるつもりだったのでございましょうか。
 それでね、その指五本どうしたかと申しますと、師匠が寺の方へ行ってよくよく供養をさせまして、また小鷺さんのお馴染みさんにもそんなことをした義理ではございませんがね、わざわざ話をつけてやったんですよ。なんだってそんなことを、とお聞き申し上げますとネ、
「おはぐろどぶには何があるかこれが分からぬよ。噺のタネになるやも知れん。コイツは、腰を据えて調べるための下拵えでトコなのさア」
 …ト、マアこんなところで不思議のお話はお仕舞いでがす。なんともつまらんお話になってしまった様な気がしておりますがね…。ン、なんですかい?アア、結局のところあの溺れていた女は何者か、そこをお聞きになりたいんでショ?…ところがね、もう二度とあの正体は分からねえんです。…あの一件があってから、一度羅生門河岸方のどぶを攫おう、というお話があったんですヨ。ところがね、その後直ぐに…あの安政の大地震3が来たんでがす。殊に、浅草吉原の方は皆真っ平らになっちまって、小鷺さんも、中梅楼諸共消えておしまいになった。あの方はね、最後は火事から逃げようとしたのか、おはぐろどぶに浮いていたそうでござんすよ。後のことは、師匠は一言も教えちゃくれませんでしたし、私も家が潰れッちまったもので、結局は駿河の親類に頼って江戸下がり。アレが今生のお別れ、講釈の道も絶えてしまったものでございますよ。
 …この位でどうぞご勘弁を。何しろ、たッたこれだけのお話でございますからね。

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  1. portal:5825127 (01 Nov 2019 09:12)
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