松輪竹伸梅土筆

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時に文化五年、時代は江戸の後ろ。文化いよいよ爛熟し、人々みな浮世に酔っておりました時代。甲州街道一番目の親宿、現在若者の繁華街でございます新宿、その前の姿でございます内藤新宿、そこでの一幕でございます。

さて、この内藤新宿、他の宿場の例に漏れず、栄える所に廓ありというわけで、通りの端から端まで何十軒と飯盛女を抱えております旅籠屋が軒を連ねております。
飯盛女といいますと、今日日では馴染みのないものでございますけれど、昔は吉原の様な官許のとこでないと、ええ、そうした商売はご法度でしたから、遊女と称するわけには参りません。その為に頭を捻って出したのが飯盛女、という建前でございます。で、そんな飯盛女のいる場所を岡場所と申しまして、江戸時代何度も取り締まりの対象となっていたそうで。
今回のお噺は、内藤新宿の一角にございます、屋号を如月屋と申します不思議な旅籠屋に、粋な通者を気取る与太八郎と八重五郎という兄弟分が訪れるとこから始まります。

件の如月屋ははやけに背が高くって、これが二階三階というのが天の極みといいますお江戸の建物、ところがこの旅籠屋にはなんと側から見ても四階ばかりの高さがございます。
ここまで来ますとどこぞのお城の天守の如きでございますれば、当然御公儀の詮議も入るのではと思われますが、これが不思議とずっと宿場の隅っこにありまして…。
「オイオイ兄さん、こりゃアドウにも変な宿屋じゃござんせんか。エ、なりは立派で吉原の高楼みてえに高いんですが、立て看板をご覧なせえ」
「んなもんよく見てりゃアわからぁよ。木賃なら兎も角、御本陣様もかくやの店構え、なのにこの店とくりゃア乞食の宿より安いわな。確かに怪しいもんがあるが、だからこそこの与太八郎気になるってエもんじゃねえか」
「へい、いらっしゃいませ!」
「おう、世話んなるぜ。それからここにゃあ…」
「勿論、とびっきりのがおりますよ、さ、まずはお履き物をお預かりいたしましょ」
「すまねえなぁ」
「な、なあ丁稚さん」
「へい、なんでございましょ」
「表の看板なんだが、ほんとにこれっぽっちの銭でいいのかい?」
「勿論でございますよ。この旅籠は、内藤新宿で一番に安いのに、一番に豪華絢爛てのを自慢にしておりまして、へい」
「野暮な事を聞くんじゃねエよ、にしてもすげえもんだねえ、四階建てたァ、お寺の五重塔じゃあねえの」
「特別に匠の方々にお願いをいたしまして、立てて頂いたんです」
「いや、本当に凄えやこりゃ。品川の土蔵相模や大湊にも劣りゃァしないねえ」
中を見回してみますと、まさしく言葉の通りでございまして、あちこちの部屋から三味線やら唄の声が響いておりますし、辺りは忙しく丁稚や遊女が走り回っております。
まさしく、『表の間は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、道中女郎屋の冠たるべし』1という風情。
「お客様、四階へお通しいたします」
「ほほう、最上階とはツイてるねえ」
四階の窓から、外を眺めて見ますれば、この内藤新宿の風景はおろか、遠く江戸まで見渡す事も叶います。
「さ、こちらで。既に花魁は待ってござんすよ」
「嬉しいねェ」
「ようこそおいで下さいました」
さて、部屋に入りますとこれまた真紅の絹に、所々煌びやかな装飾を散らし、一部の隙もない島田の髪に、金の簪、七宝やらを散らした櫛を入れております。
ところが、その風体は少しおかしく…。
「ほほう、お初会だが、出てくれるのかえ」
「花魁が出てくれるってエのは嬉しいがね、兄さんよく見てごらんなせえ。まるで浄瑠璃の黒子じゃござんせんかね。顔を隠した花魁てのは、ちょいと恐ろしくって…」
「おやおや、男にお生まれでいらっしゃいますのに、女子一人が怖いとは。江戸の男も落ちたもんでありんすな」
「ば、馬鹿にするない!こちとらァ」
「やめんか八重五郎。己が通じゃと思う者ほど、そうして無粋と馬鹿にされるものだぜ…にしたって、顔を隠した花魁てェのも、中々に面白えじゃアねえか、なぁ」
「ほほほ、此方のお兄さんは中々に粋でござんすな。わっち、惚れ込んじまいました」
「おいおいそりゃアいけねえよ。天下の花魁と来た日にゃア、そんな簡単に惚れた腫れたのしちまえば、格が下がるってもんだぜ」
「おや、まあ。わっちみたいな御女郎に、そんな事を言っちゃあ、故郷のお嫁さんが泣きますえ」
「なんでえ、今日はおまいさんが嫁じゃ。さあ、酒と魚を持ってきとくれ!今日はとことんって奴よ!」
「兄さん兄さん、やっぱりこりゃァ危ないんじゃないかえ、俺ァ不安だよ」
「八重五郎、そんなに不安ならお前だけ帰っちまえ。俺は今日はここへ泊まるからな」
「わかりましたわかりました…」
「で、花魁は名前はなんて言うんだい?」
「梅春って言うのよわっちは」
「ほほう、好い名だねぇ、さ、もっとこっちへよってくんねえ。飲もうじゃねえか」
などとすっかり色男の気取り。太鼓持なんざを呼び出して飲めや歌えの大騒ぎでございます。いくら勘定が安いからといっても、ここまでの騒ぎを一人でやれるたぁ一つの才覚でございましょうが、兎に角まあ言うに耐えない聞くに耐えない乱痴気騒ぎでございました。

さて、愈々夜も更けてまいりまして。
ちょーん、ちょーん、と拍子木の音が四つ。こちら引け四つと申しまして、吉原でございますと遊女達が見世から引き上げる、つまりは遊廓で申しますところの終業のベルでございます。こちら現在の時間に直しまして午前零時頃て言いますから、錦糸町の店々よりかは多少マシと言う次第でございますな。
「おや、もう引けかい?」
「兄さん、兄さん」
「なんだ八重五郎、おめぇ全然酔いもしてねえじゃねえの」
「い、いやあ、そんな。しっかり頂いてますぜ」
「ほんにねぇ。こちらのお方は全然。それに引き換え、お前さんはほんに通でありんすなぁ」
「にひひ、そうかいそうかい」
「もう引けだけどねぇ、わっちは惚れちまったよ。さ、隣の部屋へ…」
さて、こうなればもう男と来た日にゃ喜び勇んでしまいます。与太八郎、ここで断りゃ男の名折れと思い、弟分も顧みず、そのまま隣の床部屋へ。
「兄さん、ちぇっ。何から何まで忌々しいやな、ケッ!」
仕方ないので八重五郎、そのまんま起きてるのも癪でございますから、一杯あおって横になります。
「あーあ、よくねえとこに来ちまったぜ」
その様な風に不貞腐れ、目を閉じて眠ろうと来たその時…、
「うぁ、うわぁぁぁぁ!」
「な、何だ何だ!」
兄貴分の恐ろしい悲鳴が部屋にこだまし、すわと思えば!がりっ、ごりっ、という、何かを噛みつぶす様な恐ろしい音が響きます。
「に、兄さん、兄さん!」
勇気を震わせ八重五郎、戸をガラリと開けてみますと!
そこに居たのは、何と花魁一人きり。与太八郎は影も形もございません。
そして、その花魁というのが何とも恐ろしい。素顔には口の他には穴はおろか凹凸もない、真っ白な白粉が塗られているだけの真っ平ら。その実口は裂けているのかと思うほどに大きく、歯は真っ黒なお歯黒を塗っております。側から見ますと、真っ白な雪原に、ぽっかりと大きなクレバスが空いている様な様子。
「ひ、は、与太八兄さん、ど、どこへ…」
「見られちまったものは仕方ないでありんすなぁ。お前さんも、も少し待つ肚だったけど…」
そう申すやいなや、口をぐぁぁっと開けまして、そのまま頭にがぶりとかぶりつきます!
口の中には、サメの様に鋭い歯がびっしり。
「いだ、痛えよ、お母ちゃん!」
サッと避けたがこれが間に合わない!なんと恐ろしい、片腕一本スパーンと刀で切ったように、肘から下が消え失せてしまいます。
「すばしっこいことねぇ」
さて今一度と化け物が、今度は逃すまいとまたさらに大口を開けて襲い掛かります。
「や、やめろ、助けてくれぇ…!」
悲鳴を上げますが、哀れ八重五郎、そのままあんぐりと丸呑みにされてしまいました。
「げふっ。はぁ、味はイマイチ。ちょいと安くするのも考えものって事かしら。店の構えも高すぎて逆に怪しいと来たら、人もよっては来ないわねえ。それに、のっぺらぼうなのも考えもの…」
そう呟きまして、パンパンと手を叩きますと、あたりの下男やらがふっと消えます。そしてガタガタと建物が大きな音を立てまして…。

与太八郎と八重五郎はがぶりと食われてそのまんまお仕舞いでございましたが、お噺は未だもう一幕。
江戸の日本橋、今はもう無くなって久しいでございますが、店を出しておりました分限の者が一人おります。屋号を正直屋と申しまして、当主の名前を梅右衛門と申します。
その息子にして跡取りが梅枝…なんか噺家みたいな名前でございますけれど、そういう名前で。
そしてこの梅枝というのが、放蕩者ってわけじゃア無いんでございますが、大変な廓好き。
よくよく仲間内で集まっては、やれあの花魁はどうだのあの太夫はどうだのと、あれこれよしあし言の葉草やしげるらんといった次第。
ところがこういう奴ほど、真の通には程遠いと申しますのは今も昔もさして変わりはございません。真の通はあれこれとうるさく語る事はございませんで、まあ、こんな風にうるさく語るのが商売の我々はじゃあ皆野暮てんかと言えばそういうわけでもございませんが…。
さてこの梅枝、一応若いは若いなりに所帯を持っておりまして、梅次郎という当年五歳になる息子が一人あります。
五歳と言いますとまだこんな小さい子供でございまして、人生でも一番二番に可愛い時期でございます。六歳過ぎてきますと単なる糞が、げふん、失礼致しまして。
で、この梅次郎無邪気にも父親に甘えてこれを尊敬しておりました。いずれは自分も吉原なんぞへ行ってはみたい、とはいえ吉原はどんなところかわからないとこういう次第でございます。

時に梅枝、最近吉原へばかり行って段々と飽きが来た。ここは一つ行ったことのねえ処へ行ってみたいと思い立ち。
「廓てえと天下の吉原だが、品川にもいいとこがあると聞くぜ。俗に土蔵相模なんていうからな、だが、いかんせん品川てえのもみんな行ってる気がして通じゃないねぇ。ここは一つ、内藤新宿に行ってみるというのは。そういえば、あそこには如月屋という奇異なる店があったと聞くが」
そう思って支度しておりますと、そんな所へ梅次郎がてろてろ歩いてきて、
「おとっつぁん、また吉原へ行くの?おいらも連れてってくんな」
「お前ね、吉原は子供の行くとこじゃあないんだよ?」
「いやだいいやだい、おいらも行くべ、行くべ」
昔っから泣く子駄々っ子には、何を尽くしても勝てぬものでございまして、ほとほとといった梅枝。しかしこの折、密かに思いを改めまして、一計を案じます。
「そういえば、遊女の中には子供が好きというのも多いと聞くが、ここは一つ連れて行きゃア、佳い人がいた折に口説くだしになるやも知れぬ」
こういう考えが生まれる時点で浅はか者を露呈しておりますけれども、まあとにかくそんな次第、さっきまで邪険にしておりました息子に急ににこりと笑いかけ、こんな事を言い出します。
「ようしようし、お前さんね、そんな風に言うのなら、特に連れて行ってやろう。だが、お前さんに吉原はまだ早いから、内藤新宿へ連れてってやろう」
「どこなのそれは」
「吉原に行く奴は、みんなここで修行をするんだぜ?」
「いやだ!おいら、吉原に行きたい!」
「おいおい、ついさっきまで一緒に行きてえと言ってたじゃあないか」
「とにかく吉原に行きたいんだい!」
結局梅枝はなんとか宥めすかしまして、梅次郎に行く事を承知させるわけですが、その事は割愛と致しまして。

翌日内藤新宿。梅枝立てた策のため、梅次郎共々やって参りました。
梅次郎、普段の服ではお話になりませんから、家に有りましたお大尽の見事な服を仕立て直しまして着せてあります。
「おとっつぁん、どこに行くの?」
「ここの向こうに如月屋てえ店がある。そこへ行くんだ。お前さんはお大尽様、今日はお前にも一人とびっきりのお女郎をつけてやろうじゃねえか」
「おとっつぁんお女郎ってなんだい?」
さて、こちらは梅春。化け物の本能てぇんでしょうか、こっちへ来る人間の気配には敏感でございまして、おや、男と子供が来ると気がつくと、早速手近の化粧台を引き寄せて、墨にて文字通り引眉引き目をします。美人画なんぞを見つつ己の顔を描いていくというわけ。この上に黒子の顔隠しをして、お迎えの準備を万端整え、
「こうすりゃあ、多少はらしゅう見えるじゃろうて」
とこういう老獪な具合。
化け物手ぐすね引いて待っている巣に、飛び込むは今か今か!
「おいおい、聞いてた話と違うじゃねえの。五層の天守みてえな建物と聞いてたがなァ。これじゃあ、二階っきりで、普通の廓と変わりはしないじゃないの」
「おとっつぁんここ何の店なの?」
「ん?ここはな、お宿だよ。旅に出た時に泊まるお宿さあね」
「ふーん。それよりも、この服歩きづらいよ。いつものじゃだめ?」
「あんな野暮ったいもの着てってごらんよ。みんなの笑い物さね…おい、ごめんよ!」
「へい、らっしゃいませ!ようこそようこそ」
「俺ァここはお初会なんだがね、あちこち廓回っちまって、もう凡そ楽しみ尽くしちまったんだ。それでな、せっかくだから愛しの息子にも、こんないい趣味をおしえてやりてえと思い立ってな、こうして連れてきてやったてえ寸法だ」
「へえ、そりゃもう、お目が高うございまして、へえ」
「それじゃあね、子供に酒は毒だから出さねえでくんな。だけどもよ、花魁の出し惜しみてえのはやめとくれよ。せっかく子供に廓の良さを教えてやろうてんだから、どうか頼みますよ」
「へい、わかりやした。それじゃ、うちの板頭の方にね、ご案内をいたしますんで、へえ」
さて、店の者が二人を奥の方へと案内して行く訳でございますが、これが不思議でございまして、最近まで四階建てだった建物が、なんと二階建てに縮んでおります。此れも物の怪のなせる技なのか、それとも建物自体に仕掛けがあるのか。
とにかくも二人は二階の奥の間へ通されて、梅春といよいよご対面というわけです。
「あらあ、ようこそお越し下さいました」
梅春とを開けて出て参りますと、これはと無い目を見張ります。目がないのになんだって見えるんだという大遅刻の指摘はさて置きまして、梅春心中で思うには、
「これは大人の方は不味そうでいけないが、子供の方のなんと旨そうなことか。大人の様に不摂生をして体が駄目になってもいないし、下手に色気付いたところが無いから、妙な香りで気が削がれることもない。それに何においても新鮮で良い、今すぐにでも食べてやりたいが、今少し待った方が上手くなりそうなものだ」
「俺ア日本橋の正直屋の倅で梅枝、こっちは俺の倅の梅次郎。よろしくなぁ」
「なあおとっつぁん、この女の人はなんだって布を顔にかけてるんだ?」
「あらかわいい坊ちゃんでござんすな。わっちは梅春。坊ちゃん、なんだってこの布があると思いんす?」
国は違いますがさながら赤ずきんにも似ておりますな。この口はお前を食べるためだなんてな事は言えないが、取り繕うには梅春得意なことでございます。
「わっちは顔を売りにしてるそこらの花魁とは違うんよ。顔を見せずとも、お客様を楽しませることが出来んす。ほんの僅かの馴染みにだけ、わっちは顔を見せるんでありんすよ」
「ほほう、奥ゆかしいってんだねぇ。気に入ったぜ、今日はとことん飲もうや。新造さんなんかも呼んどくれ!」
「ねえおとっつぁん、つまんないよ、手習でもしたほうがマシだよ」
「いいからいいから。お前さんはどーんと、お大尽らしく構えてなぁ」
とは申しましても、まだまだ遊びたい盛りの子供でございますから、どでんとこう構えるって言ったってェ貫禄というものが足りません。さしずめ市川新之助に暫をやらせる様な物2でございます。
「あらまァ、お大尽様はお気に召しませんの?だったらもう少し出し物を工夫させましょ」
梅春がぱんぱんとを打ちますと、今度は新造等が子供にも分かりいいように、昔の武者なんぞの出し物をしてやります。するとお大尽様、こちらはお気に召したご様子で、きゃっきゃと笑ってお喜び。梅枝も、この席は己は太鼓持、陣笠の一つに過ぎねえやと思いなして、立って踊ったり下手くそな常盤津節を謳いなんぞして、場を盛り上げて参ります。
「いやァ、こりゃいいね。おい梅次郎、こっちへ来ねえ、固めの盃をしようやァ」
「そりゃなんだいおとっつぁん」
「廓へ行くとね、これはと見込んだ女と、固めの盃を交わすんだ。何があるかもしれねえこの浮世だ、それでも千秋万歳を誓うわけだな。エ、これぞ真の粋ってもんだァな」
「そうかい、じゃ、おいらもやってみる」
「あらうれしや。お初会でも固めてくれるでありんすか」
などと申しましても、当年五つの子供に酒を飲ませるわけには参りませんから、ここで一つ思案のしどころ。何か良い手はないものかとみれば、これが面白い、
「お大尽様、こちらの蜜柑で固めをしんす」
「みかん?おいらみかんは好きだけど、それで固めができるの?」
「あい。思いの深さがあるのなら、酒に拘ることはござんせん」
皮を盃、汁を酒に見立てて飲み干そうとこういう具合。なるほどこれは子供でも好きでございますから、うまく行くでありましょう。
「さ、お大尽様、これにてわっちとお前さんは夫婦も同然となりんした。これからどうぞ末長う宜しゅう頼みんす」
「夫婦、嫌だヨおいら。内のかあちゃんとおとっつぁんいつも喧嘩して」
「こりゃ!そんな無粋な事は言うもんじゃァねえ!」
さて、夜も更けて参りますと、子供の事ですから、引けの時間が来る前にもう既に眠気が来ております。
「ふあ、あぁ。おとっつぁん、おいらもう眠くなってきたよ」
「おいおい、まだ鐘四つも来てねえじゃあねえか。こんなまだまだ宵の口から寝ちゃァ台無しってもんだぜ」
「お大尽様が眠いと仰せであるならば、お付き合いするのもわっちの勤めでありんすよ」
「そう言うもんかい?」
「おいら眠いよおとっつぁん」
「はいはい、お大尽様、お隣の部屋に床が用意してありますからね」
お床入りと申しますと、何やら色っぽいものでございますけれど、これが五歳の子供ですから本当にどこに入って寝入っちまうわけですね。
梅春はその間美味そうなと思う心を押さえるに必死、他方梅枝は我が策成れりと屏風の太公望へとほくそ笑み。こんな不気味な思惑も露と知らず眠るお大尽梅次郎殿。果たしてこの後どうなるでしょうかな。

さて、この後も懲りない梅枝は、梅次郎を連れて如月屋へと足を運びます。
何たって梅春どうやら子供好きとみえましたから、ここらでものにしてやろうとそう思うわけですな。
他方梅春は梅春で、子供を引き止める口実が欲しいもんですから、あれこれ思わせ振りな態度を見せて梅枝が来る様にあれこれと仕向け、一方子供の方には自分へ懐く様にとあれこれ機嫌をとってやります。
梅次郎大尽はといえば、段々と梅春へと靡いていきますが、それでも根っこは子供でございまして、たとい花魁の六枚布団の中でも惜しげもなく寝小便を垂れるという。ところが強か者の梅枝、これを奇貨と致しまして、敷き初めとして装束ちょうど一切を新調してやり、梅次郎の名前で梅春にくれてやるというわけ。
面の見えない花魁相手にどんな入れ込み方だとお思いでしょうが、私の方も信じられない心持ちでして…。
しかし、ここまで梅枝心を尽くし物を尽くし、となんとかやって来ましたが、未だ梅春を手にする事はできませんで、これが哀れな事でございます。
元より梅春は梅次郎が美味そうだってんで色々とお世辞も出ようというもの、親父の方はてんで不味そうですから興味もへったくれもございません。最近では梅次郎が来たらすぐに連れて引っ込んでしまって、ろくすっぽ話もしない始末です。
梅枝これはまずいと焦りまして、慌ててこれはこれこれこういう謀なのだと息子に含めようとしますがこれがまたうまくいかない。
「ちぇっ、よもや五つの息子に寝取られるたァ思わなんだね。出来る事なら、俺と体を取り替えてえものだな」
などとぼやいている間、床の方では二人して人形遊びなんぞをしながらこんな話がありまして。
「ネエ梅次郎さん、わっちすっかりお前さんに惚れっちまったヨ。あんな艶二郎3から、こんなに大通な子が生まれるなんてねェ。ネエお前さん、年が明けたら、固めの通りわっちと夫婦になっておくんなんし」
「そりゃあ駄目だよ。『一寸先も分からぬ浮世』っていうじゃないか」
「もう、そんな釣れない事は言いっこ無しにしておくれな」
「おいらだってね、お前さんが何よりもかわいいよ。おとっつぁんよりも、かあちゃんよりもお前がかわいくってならないけれど、お前、今まで一度も顔を見せてくれてないじゃない」
「わっちもお前さんならと思うけど、こんな商売してるとネエ、義理も何もない人達と会う事も多いんよ。どうかわっちをお見捨てくだしゃんすなエ」
「おいらはそんな事しないよ。嘘はいけねえって嘘ばかりつくおとっつぁんに言われたもの」
「おや、まあ。そいじゃあね、次に来た時にゃあすっぱりこの顔を見せてやろうじゃないの。そいだらきっと、お前さんが十五の歳になったら年も明けるから、わっちと一緒になって下しゃんせ」
「そりゃ楽しみだ!何たって梅春だもの、きっと絵に描いた様な美人に決まってら!」
まあ、実際面のとこに絵を描いてるわけですけども。さて、皆さん大体お察しかと思いますけれども、梅春いよいよ我慢がならない。
「こうして見ててもよだれが出てくる。寝小便かと誤魔化しも効くから良いが、もう時期辛抱たまらぬ事にもなろう。されば、次に来た時すっぱりここで一飲みに」
と心の底で思っております。
となれば早よう逃げねば、というのに梅次郎の方も白い糸の如しですっかり廓に染まり、梅春に会いたいが為に、おとっつぁん今日は行かぬの、明日は行かぬのと袖引っ張って訪ねる始末。
果たしてこれが恐ろしき結末と相なるか、しかし事はとんでもない幕切れとなりまする。

「若旦那、ちょいと来て下せえ。梅右衛門様がお呼びでござんす」
「あいよ!……そいでおとっつぁん、話ってぇのは何でしょうか」
「馬鹿もん!言われんでもわかるだろうに、お前さんが新宿の女郎なんぞに入れ込んで、やれ敷き初めの、やれ祝儀だのと揚げ代の他にも金を湯水の如く使うもんだから、愈愈身代傾いて、この家が潰える極じゃわい!」
「ひっ、こりゃ、こりゃどうも本当にすみませんで」
「それならまだ倅故、馬鹿をしても可愛いと思えるが、よりにもよって己の倅を廓へ連れて行くとは一体どんな了見じゃ!かくまでものが見えぬというなら、もはや子とも思えぬわい!勘当じゃ!」
「ひ、ひえっ…ちっくしょう、女はあの餓鬼に取られ、俺ァ羽織一枚でもって勘当たァ、勘定が合わねえやい」
「何をぶつぶつ言っておるか!早よう出て失せい!」
梅枝剣幕に驚き兎に角荷物をまとめて店を転がり出る。その様子を見た梅次郎、急いで追いかけてきて、
「おとっつぁん、新宿へ行くならおいらも行くぜ」
いつの世も、若者、粋な者は新宿へ集まるという訳でございましょうか。
それではこれにて、お仕舞いでございます。

原案 四代目神林伯玄
作 六代目神林伯玄
演 四代目神林伯道

昭和三十五年 伯楽亭定期講演より
令和三年 十一月三十日 左坂勘四郎

編者補記
四代目神林伯玄が収集した奇譚を元に、明治に入って六代目伯玄が創作した演目。表現や噺の筋立てに関して、山東京伝4や同時代の作品の顕著な影響が見られる事から、既に四代目の時代には半ば演目として整えられていたと考えられる。
演目そのものの典拠は四代目の随筆、『伯翁葦葦言』の一節、『島原にておそろしの花魁を聞く条々』より。


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