現在このページの批評は中断しています。
資料番号:830-JP-096
資料名:裏千早菊水逆流1
説明:本資料は、現在収容中のSCP-830-JPについて、蒐集院が文久三年に入手した資料を元にあらすじと新たな注釈を付し、電子化したものです。蒐集院側で付された注釈は『原注』として区別しています。記述に関しては付属資料の一部を除き全て現代仮名遣いに統一しました。
尚、本資料は保存状態が悪く、また蒐集院からの引き渡しの過程でかなりの部分が散逸・失伝しています。予めご了承ください。
外題:裏千早菊水逆流
成立:文久元年
作者:四代目神林伯玄
あらすじ:康正二年2、室町幕府第八代将軍足利義政は内裏の再建を達成。その褒賞として時の天皇から勅使を迎え、右近衛大将に任じられる事となった。今日はその披露目であり、勅使や全国の諸大名たちを迎えて盛大な式典が行われる
(室町殿。大上座に束帯姿の足利義政、その下段には太刀持ちや直垂の大小名が居並ぶ)
細川勝元(勝元)「公方様に申し上げまする」
(勝元、義政に向き直る)
勝元「居並びまする方々に、成り代わりまして申し上げます。管領細川右京大夫、謹んで、公方様の右大将ご就任を、お祝い申し上げまする」
大小名「御目出度うござります」
勝元「内裏より勅使をお迎え致し、また御分国が三十二屋形、山城近国の大小名お祝いの為に参上仕りましてございます」
太刀持ち「勅使が参られます」
(花道から束帯の勅使と付き人が出てくる。勅使は義政の前に座って一礼。勝元脇に引く)
勅使「征夷大将軍右馬頭源義政殿に帝より勅命である」
勅使「『征夷大将軍源義政。右少弁藤原朝臣勝光伝へ宣り権中納言藤原朝臣持季宣る。勅を奉るに、件人宜しく右近衛大将に為すべし』」
大名「右大将とは目出度しや」
大名「武門の太祖頼朝公も」
大名「賜りし高き御位おんくらい」
大名「内裏の落成果たせしからは」
大名「相国3以来例なき」
勝元・大名「武門の誉にござりまする」
義政「うむ」
大小名「万歳万歳万々歳4」
(義政、太刀持ちと共に花道の前まで移動)
楠正成(楠)「何たる事か!」
(楠正成、花道セリから登場。漆黒の具足に大太刀を二本前下がりに差して、後ろには菊水の幟を立てた小者を引き連れている)
楠「そこに立てるは足利の逆賊の裔と見たり。恐れ多くも万乗の君に弓引く尊氏の、孫子義政、遂に右大将。如何に三国広と云えど斯くも道理に合わぬ事、神武以来にござらぬわ」
大名「何と尾籠なる野武士ぞや」
大名「恐れ多くも右大将」
大名「世を治めたる大将軍」
大名「源氏武門の棟梁を」
大名「諱を以って呼び付けに」
大名「夷の地にも知られたる」
大名「行儀作法も知らぬやつ」
大小名「切られても尚余りある」
勝元「大罪なれど、今は目出度き事なれば、剣を穢すも罪深し。今この場より叩き出し、二度と都へ戻らす勿れ。それい者共出会えい」
小者「ヤアヤア。お覚悟召されい」
楠「よもや拙者を捕らえようなど、このような小者を差し向けるとは。見くびられたわ」
(楠正成、小者とで立ち回り。楠、抜刀して全員を下す。この間義政は後ろへ退く)
大名「おのれ刀を抜きおった」
大名「刀を抜きし折からは」
勝元「最早生きては帰れぬぞ。出会えい!何と、誰も居らぬと申すのか」
楠「何たる腰抜けか。足利の太平に慣れて、刀の使いようも知らぬと見えるわ。その様な腰抜け共に、この楠和泉守が斃せるものか!ええい!義政観念!」
(義政逃げる。代わりに太刀持ちが斬られ、手に持っていた緋色の刀袋を落とす)
太刀持ち「ギャァア」
(義政走って逃げる。周りの大名達も恐慌状態。「楠正成が幽鬼じゃあ」などと叫んで逃げ回る)
楠「おのれ義政逃げおるか!ええいこの場は仕方がない。今宵はこの太刀にて復命致そう。我が君に良き土産となるわ」
勝元「あいや待たれい。我が君とは如何なる者か」
楠「恐れ多くも吉野に座す、後村上院四世の後裔、北山宮自天王様なり」
(楠、舞台中央へ)
楠「今に正成、神璽と宮を具し奉り、都へ戻って参ろうぞ。まず手始めに、伊勢と大和の深山に、一夜に築く千早城。以って賊めの墓と成さん」
序幕 終
あらすじ:正成襲撃から一年経った長禄元年5。嘉吉の乱でお取り潰しとなった播磨守護赤松家の遺臣である上月満吉は、正成によって奪われた足利家の秘宝鬼丸国綱と、朝廷の神璽6を奪い返す事で主家の再興を図ろうとしていた
(幕が上がる。何処かの山の中。上月中央に小者と共に立っている)
上月満吉(上月)「遠く仰ぐはみ吉野の、ひいては父祖ある播磨の地。西へと飛びぬ雁かりがねに馳せし思いはうら悲し7」
(石見太郎、花道より登場)
石見太郎(石見)「オオ、これは兄弟上月殿や」
上月「石見太郎殿。花の御所より奪われし、足利家重代の家宝鬼丸国綱、去年より探し仕るも、未だに見つけ得ずにおりまする」
石見「此方も左様、神璽も宮も御姿をだに見つけ得ず。これでは主君の大恩も、果たせぬ事に成り果てぬ」
上月「なんとも情けなし、己も武士の端くれと、思うが故の苦しさに、焼くや藻塩の身も焦がれ、道と誉に愧じる処この上無く」
石見「なれど此処にて相果てなば、君に合わせし顔も無く、御赦しもえ下されたまはず。今は互いに一命預け、大事の成りしその時に、以ってその罪を君に謝そうぞ」
上月「仰る通りにござります」
(丹生谷兄弟、花道から登場)
丹生谷帯刀(帯刀)「おうい、おうい。上月殿、石見殿」
丹生谷四郎(四郎)「随分久しき事ですなあ」
石見「やや、これは」
上月「丹生谷帯刀、四郎殿」
帯刀「嘉吉の折より十四年、何と長き年月か。未だ神璽は見つからず、播磨還るもまだ成らず」
四郎「然し遂にぞ見つけ申した見つけ申した。十津川の深き所にあらんと探し奉るも、見つからず南北東西右往左往」
帯刀「遠き八嶋の果て迄も、旅を続ける覚悟にて、居ればこそこの悦びの、深き所は底知れず」
四郎「神璽宝刀見つけたるは、何と伊勢路の深し山の内」
帯刀「山のそばに住みし民草の、童歌いしことに曰く『伊勢のお山の奥の奥、吉野の宮様立ち給ひ、楠支えて都へと、神璽と共に立ち戻る』。歌に従いて分けいらば、朽ちたる砦に菊水の、旗に錦の御旗あり。これ楠が城に相違無し」
四郎「その山の名はそこそこにて、此れ急ぎ伝え申さんと、三里の道を駆けに駆け今ここにてお会い申し上げる事の嬉しさよ」
上月「おおこれは、何と何との吉報にござる。伊勢と云えば北畠、かの顕家公8の遺徳に頼りて今一度京へと登らんとするや」
石見「これは最早時少なし。早う伊勢へと立ちて、神璽宝刀取り戻さねば」
帯刀「取り戻したる暁には」
四郎「御赦免あってお家再興」
上月「必ずや、成るでござりましょう」
石見「されば疾く疾く立ち申さん。これ三蔵」
小者「へえ」
石見「この事急ぎ散らばりし、赤松が遺臣に伝えよや。古今一代の大事なれば、この四人ではよも成せまじ。人は多くば多いほど良し、伝えて急ぎ参らせよ」
小者「承知致しました」
(小者退場)
帯刀「されば伊勢へと」
四郎「駆けに駆けて」
上月「参りましょうぞ」
(鳴り物を入れる)
全員「応」
(四人、花道より退場)
(上月、花道より登場)
上月「おおこれは、今我が何処に在りしかな。仲間にはぐれ山の内、彷徨うとは何ともこれは恥の事。急ぎ道まで立ち戻り、街道駆けて伊勢へとゆかねば」
(上月、袖に向かう)
姫君「そこなお人。しばしお待ち下さいませ」
(古風な服の姫君、セリから登場。ゆっくりと花道から舞台へ)
上月「やや、よもやこの様な山奥にて、人に会うとは。装いに立居振る舞い、ただ人にはよもあらじ。何処のやんごとなき人にておわしまするか」
姫君「わたくしはこの山中に蟄居して、浮世を離れただ一人、道に入りて師も無き事なれど、尊き経を読誦して後世を弔いて過ごしております」
上月「これはこれは。何とも心高き事、この常なき浮世にて、発心いと難しきに、御前はやんごとなし姫君なれば、尚もまた難しきを、成せるは美事にござります」
(上月一礼)
上月「なれども、拙者急ぐ身にて、お助け申し上げるは叶わぬ事。何用にてお呼び留めになられようとも、留まる事は叶わぬ事にござる。では、さらば」
姫君「あいや、お待ち下さいませ」
(姫君、袖を掴んで止める)
姫君「御無礼にもお留め致しますには、これ御助けを請う事にございませぬ、恐れながら御方々の、楠が事の戦を御助けせんが為、利発なる物奉らんとて山中にお待ち申しておりました」
上月「あいや、それは真にござろうか。しかして、如何にして我らが楠の戦に出でると知りなされたか」
姫君「世に流れたる言の葉の、行き着く先は何処かと。御身の事も聞こえ流れてござりますれば、知りし事もまたことわりなる事」
上月「嗚呼なんという事。一度武門に生まれしからは、名をば流れて世に聞こえしは、正に誉と思えども、殊に大事の前なれば、その事御他言召されるなかれ」
姫君「仰せならば他言は金輪際致しませぬ。なれば、わたくしの奉る物、お受け取りあって、伊勢へと急がれませ。裏道もお教え致します」
上月「ム。されば、志をば受けぬと申すも無下なる事に候えば、頂戴を致しまする」
姫君「こちらをお納め下さいませ」
(姫君、紫の袋に入った刀を献ずる)
姫君「もし楠らとの戦となり、命危きことあらば、この袋を解きなさり、中の物を使われませ」
上月「これは刀にござろうか。いや、真に有り難し。なれども、何故御前はこの様な物を下される。差し支えなくば、御教え願いたい」
姫君「我が家の祖は武士にて、吉野の宮に候う者にございましたが、金ヶ崎の戦にて討たれておりまする。此度楠が死霊、迷い出て公方家に仇為すと伝え聞き、もしや我が父祖も、如何なる宿世の報いにか、未だ迷い出でなんと思い、そうであるなら、せめてと思い」
上月「後世の弔いもまたその為にでござるか。いやはや、真に尊き志。もし叶うなら、御前を妻にもしとうござる」
姫君「有り難き仰せなれど、それは叶いませぬことにて、申し訳ござりませぬ。さあ、これを受け取りなさったからは」
上月「おお、疾く疾く伊勢へと参らねば」
姫君「後に着いて下さいませ。この道越ゆれば伊勢にございます」
(二人、退場)
第一幕 終
あらすじ:日の暮れ方、遂に伊勢へと辿り着いた赤松遺臣達。幕府軍と合流した彼らは、山の上に聳える楠の山城を目にする。
(伊勢国。すでに山の前には、赤松家の家臣や、幕府の命を受けた軍勢が集まっている。陣幕が設られ、上座には諸将の座る席がある)
石見「遂に伊勢へと辿り着いたぞ。日暮れも近いが、夜には間に合った」
帯刀「やや、あれをご覧になられませ」
四郎「京兆殿9の御命令か、はたまた公方様の御文なるか、山の裾野にあの幟旗」
石見「山城国人伊勢国人。越智に長野に木造か。いずれも名だたる大小名」
帯刀「そしてあちらに翻る、二つ引きに両三つ巴」
四郎「あれなるは、我らが主家の赤松の」
石見「絶えて久しき大幟」
帯刀「諸国諸地より集まりし、同胞達の旗なりし。いやはやこの日を待ち侘びて、いく年経つことか」
四郎「遂に遂に赤松の、武名を再び天下へと、轟かす機が遂に来れり」
上月「ヤアヤアヤア、遅れ申した遅れ申した」
(上月、花道を走って舞台へ)
石見「おお、上月殿。伊勢路への国境、山中深き所にて、逸れていたのを心配致しており申した。御無事にて、何よりの事」
上月「山中にて、幸運にも遭いし姫君に、道をば案内された故、ここまで出で来ること叶いましてござる」
帯刀「それはそれは」
四郎「日頃の我らの忠節を」
帯刀「伊勢の御社も嘉み給うものかな」
(太鼓を三回打ち鳴らす)
小者「御大将、御出でになられます」
(鳴り物。同時に具足姿の武士達が花道より登場し、上座に座る。赤松の家臣達は跪いて礼をする)
武士「皆々控えい控えい」
武士「ここに座すは、京兆殿の御一門」
武士「御相伴衆にして、三国の守護」
武士「細川讃岐守様なるぞ」
赤松遺臣「ははあ」
細川讃岐守(成之)「いやいや、左様控えられずとも良い。赤松の方々、面を上げ、楽になされよ」
石見「ありがたき仰せにござります」
成之「貴殿らの知らせを受け、取り急ぎ近在の国人に触れを出し、ここに集いしは二千余騎。その大将を我成之が拝命致した。また数日のうちに、京兆殿も、二万騎の兵を差し下される旨御命あれば、神璽は取り戻したるも同然であろう。されば、其方ら赤松が臣の功、大なるは並びなき事なれば、必ず厚く褒美が下されるに相違無し」
上月「ありがたき仰せにござります」
成之「して、山へはいつ分け入るべきか。北畠は動く気配は無いが、早いに越したことはなかろうて」
石見「はは、されば。夜半に夜襲をかけまするか。幸い此処には、伊勢国人も揃っておりますれば…」
(太鼓の音。鬨の声)
成之「何事じゃ、何事じゃ!」
武士「やや、あれは」
武士「山の上をご覧なされい」
武士「何と何と、これは」
武士「日の出の折にはなかった筈が」
武士「日の沈みゆく暮れ方に」
上月「尾根から尾根に板塀逆茂木」
石見「櫓も三つ四つ連なって」
帯刀「旗差しはやはり菊水の紋」
四郎「何と楠、幽鬼なればこその事。一夜と立たず城を築きおった」
成之「何とあれこそ一夜城。ムム、これは早々手出しがならぬ。鎌倉の戦の折には、百万の北条勢をも退けし楠が守城じゃ。二千余騎にて落とすのは、とてもとても望めぬ…」
(陣太鼓。鬨の声)
小者「申し上げます申し上げます!」
成之「何事じゃ!」
小者「あの城を見し我が軍の先手の者共、本陣の命を待つ事なく、手に手に刀槍を持ち、城へと攻め懸けておりまする」
上月「何と!」
石見「命も待たずに飛び出すとは、功を逸るにも余りの事」
小者「注進致す、注進致す!」
成之「ええい!今度は何事じゃ」
小者「兵はおろか、将に至るまで、さながら物の怪にでも憑かれたように、突進を繰り返しておりまする!」
帯刀「何とこれは」
四郎「よもや幽鬼の邪術左道」
上月「ひとまず我らも戦場に…」
(鬨の声と戦太鼓。同時に赤糸縅の鎧武者が花道セリから現れ、複数人の兵を引き連れて、本陣へと現れる)
武士「敵じゃあ!」
尊良親王(尊良)「やあやあ我こそは、吉野の主上が一の宮にして、一品親王上将軍、中務卿尊良である!東方の蛮夷、鎌倉の逆賊、足利尊氏が与党細川をば、成敗致す!」
(尊良親王、成之に切りかかる)
武士「讃岐守様を守り参らせよ!」
(武士達、太刀を抜いて各々成之を守る為に下段へと降りる。赤松遺臣達もそれぞれ武器を持って成之の前に立つ)
尊良「ええい木端武者が邪魔をするでないわ!」
(立ち回り。尊良親王が、数名の武士を切り伏せる)
武士「グエェ」
(切り伏せられた武士は倒れる。尊良親王の後ろ側袖から、幕府方の兵士達が舞台へ)
石見「何と剽悍な。あれが優美華麗にて聞こえし中務卿宮か!」
兵士「幽鬼中務卿宮、お覚悟召されい!」
(兵士達が刀を抜いて尊良親王に切り掛かろうとする)
武士「ゔおおおおおお」
兵士「こ、これは如何なる」
(切り殺された武士達が立ち上がり、兵士達を切る。切られた兵士達も程なく立ち上がり、呻き声を上げながら成之の方へと寄せる)
尊良「ははは。覚悟せい細川。鎌倉執権さえも逃れ得ぬのだ。一片の家臣たるお主は逃げられるはずもないぞ」
上月「あいや、此処は防ぎきれませぬ」
石見「讃岐守様は、一先ず別の陣へとお逃げくださりませ」
帯刀「この場は、我らが防ぎ仕る」
(成之退散。しばし、尊良親王の兵達との立ち回り。その後、鉦の音が鳴る)
尊良「ウムム、敵の大将を逃したか。なれど、退き鉦とあらばやむを得まい。皆の者、引き上げぞ!」
(尊良と兵達退場。同時に赤松遺臣達も退く)
第二幕 終
あらすじ:楠軍の策と異様な術で幕府軍は大きな損害を出す。このままでは、援軍が来たとしても城は落とせない。そう考えた上月は一人作戦を立てる。
(荒れ果てた陣所に、成之と赤松遺臣達が息も絶え絶えに駆けてくる。帯刀と四郎は手傷を負っており、他にも鎧に皆矢が突き立っている)
上月「敵は引きましてございます。此処までくれば、もう心配は要らぬでしょう」
成之「皆の者、大儀であった。必ずや、京兆殿に申し上げて、然るべく褒賞の下される様取り計らおうぞ」
石見「有難う存じます」
成之「しかし、此処にも兵は居らぬのか。今や、誰が何処で戰をしているのかさえ、とんと分からぬ」
帯刀「まるでかの千早赤坂でござるのう。鎌倉の兵も城へと誘い出され、百万の大兵が悉く潰走致した」
四郎「二千騎の兵が、今や四散して、悉く消え失せた」
石見「敵の邪術の絡繰が分からねば、この上二万イヤ、百万二百万騎を差し下そうとも」
上月「皆名越か維盛公10の二の舞となりましょう」
成之「うむむうむむ…」
(花道からボロボロの兵士登場。壊れかけの具足と棒切れを持っている)
兵士「おお、これはお館様」
成之「其方は…」
兵士「はっ、お館様の領国三河国より参りましてございます。戦にあっては、此度の先陣和泉守様の軍におりまして、敵の大手門を攻めました」
上月「なれども敵の戦激しくして…」
兵士「はは。恥ずかしくもこの様な有り様でございまする」
成之「いや、良い良い。いま兵達が悉く戻らぬ中で、戻りし其方こそ真の勇士である」
兵士「然しながら、拙者はこれよりまた戦場に戻らねばなりませぬ。如何なる犠牲を払おうとも、あの城は落とさねばなりませぬ故」
石見「何。なれば何故ここへと戻られた」
兵士「得物の槍も折れ、太刀も奪われ、同胞悉く敵の術に囚われてございますれば、取り急ぎ陣より何某かの得物を取って戻ろうとの腹積り。されば…(周りを見回す)。この幟をお借り致しまする。では、御免!」
(旗を持って走り去ろうとする)
成之「待て待て待てい!留めよ、留めよ」
上月「はは」
(上月、兵士を抑える)
兵士「お離し下され、お離し下され!皆敵の術にて囚われ、幽鬼と化しておりまする。もはや拙者のみにござれば…」
上月「自ら命を捨てる事もあるまいに。それに、敵を誘うは楠の常道。そこもとが、幟一本で白へ向かわんとするのも敵の術のうちなれば。一度留まられよ、どうしてもとあらば、エイ!」
(上月、当て身で兵士を気絶させる)
石見「これにて敵の術は分かりましたな」
帯刀「恐らくは、手近の得物を担がせて、無謀なる敵を引き寄せて」
四郎「後は殺めて幽鬼と成す」
成之「敵は減り、逆に味方は増えるというわけだな…」
石見「やはり、百万の兵も無駄になりかねませぬなあ」
上月「……おお!石見殿!讃岐守様!」
成之「何事じゃ上月殿。出し抜けにその銅鑼の如き大声はやめられよ」
上月「イヤこれは失礼。実は一つ、策が浮かびましてございます」
石見「ホウ策が」
成之「浮かびしとな?」
上月「はは。恐れながら、皆々様お耳を拝借」
(皆集まる)
上月「拙者が思いまするに、今総攻めをかけようとも、兵を失うばかりにござる。されば…」
石見「されば」
上月「胆力武勇に秀でし者を選び抜き、城の尾根より潜り込ませ、楠一人討ち取るべきと愚考いたしまする」
成之「あいや待て待て。確かにお主の言は良し。なれども、城は険阻な山間なれば、崖に取り付き尾根を這うのは、さながら薄紙の橋を渡るが如し。更に敵はあの楠。その様な奇襲には既に備えてござろう。なれば、それは中々に難儀な事ではござらぬか」
上月「そこで讃岐守様にお頼み申す。今山々の篝火を見まするに、恐らくは五百余りの兵はおりましょう。彼らにお命じなさり、篝火を大いに焚かせ、旗指物を立て直し、宛ら数万の兵が山に布陣したかの如く繕われませ。そして事が済みましたなら、五百の兵を盾を先頭に大手に並べ弓を射掛けさせるのです。さすれば敵の注意は大手に向かい、搦手から討ち入ることも出来ましょうぞ」
帯刀「然し乍ら、敵の策は如何致しまするか。城を一目見れば、皆気を失うた様に逸りに逸って城方に射すくめられるは必定にござるぞ」
上月「故の盾にござる。盾の裏に身を隠し、城をば目に入れずに居れば、逸る事などござらぬ。万一策に嵌まろうとも、盾を前に上にと押し立てて行かば、盾の重きに足は進まず、また盾の堅きに矢は通るまじ。弓方は仮にも武門の者なれば、弓のみを得物として持たせれば、仮に策に嵌まろうとも、よも弓にて切り結ばんとは思わじ。それでも尚不安に思し召されるならば、綱にて大樹の幹に括り付ければ宜しかろう」
石見「ウムム、妙策とは申せぬが、他に策がないのも真なり。然れども上月殿、何人をもってこれに充てる腹積りか。この務め、武勇随一の者にも易くは務めえず、並の武士にはよも成せまじ。良くて楠と刺し違える迄の仕儀になるまいか」
上月「さらば、元よりこの上月満吉が務めと思うておりますれば、拙者一人で城へと忍び入り、例え肝脳地に塗るとも、楠正成と差し違えてご覧にいれまする」
石見「なんと」
帯刀「なんたる」
四郎「何たる事を申される」
成之「そうじゃ。其方は嘉吉以来、幾年にも渡り、御家再興が為に身を粉にしてきたではないか。その労苦を一夜にして無に帰するとは、是不忠の行いではあるまいか」
上月「イヤイヤこれこそ主家が為。拙者武門の端くれにて、益荒男とも呼べぬ木端武者にて候えども、唯武勇殺にかけては僅かに覚えがござりますれば、その道一つを以て御家に尽くすが理にござる。元より戦に参りましたのも、一命かけて武功を立て、赤松の家を今一度栄えさせんが為。その為に今世の命を捨つるは本望にて候えば」
(上月前に出る)
上月「君が為 この身は野辺に 朽ちるとも 名をだに残せ 百代の末」
(見栄を切り、鳴り物を入れる)
(以下数幕失伝。恐らくは、上月が潜入した城内での戦いや、策を仕掛ける幕府軍と城方との戦が描かれたと思われる)
第四幕11
あらすじ:上月が城へと忍び込んでいる間、城方の大広間には自天王以下、楠方の諸将が集まっていた。各々が勝利を寿ぐ中、遂に上月が大広間に到達する。
(城の広間。正面後ろの上座には自天王の席。その下には、かつて南朝方で戦った武将達が居並ぶ。その上手側に箱台でもう一つ上座が設られている)
(鳴り物。音楽)
長唄方「宮様の御成」
(太鼓)
(袖から子役の演じる自天王が登場。後ろの付き人が神璽を入れた箱を捧げ持つ。武将達は皆跪いて迎える。自天王が上座に着いたら、太鼓を止める)
自天王「皆の者、面をあげよ」
武将達「ははあ」
(武将達、陣中椅子に戻る)
新田義興(義興)12「此度の東賊との戦、敵は先手なれど、緒戦は我が軍の大勝利に終わりました事、お祝いを申し上げます」
自天王「うむ。敵は二千騎と号し、城を攻め立てるも楠が防備を破る能わずして、一千を超える兵を失った。この上は、鎌倉の例に倣い、百万の敵と雖も負ける事は無かろう。楠」
楠「はは」
自天王「皆々大いに功を立てる中、其方の功は殊に賞すべきなり。此度の武功一等、褒美を取らす。先ずは高座に着かれよ」
武将達「武功一等楠殿、高座に着かれなさいませ」
楠「では、ござれども。高座はあまり恐れあり」
義興「楠殿には何遠慮。宮様のお褒めを賜る上は」
尊良「疾く疾く」
武将達「高座へ」
楠「然らば、いずれも様。高座御免下さりましょう」
(楠正成、上手の高座へ)
自天王「これより楠を、戦の大将軍と仰ぎ、明日明後日にも来たる、足利が本軍を討つべし」
武将達「ははあ」
楠「この楠、此度仕掛けましたる業を以ちまして、再び足利が兵ををして、此度は義政が首を挙げて見せまする」
(戦太鼓、鬨の声)
尊良「これは何事じゃ」
楠「これは足利が陣太鼓。あの様な負け戦にも懲りず、またもや城へと打ち寄せるか」
義興「見れば大手のあの山々、篝火多く山燃えるが如し。あの数引いても、十万二十万には達するか」
楠「あの篝火は兵にあらず。近在の民が村から逃げたか、或いは偽兵の篝火にござる。敵の援兵は未だ都を出ざりければ、攻め手も一千騎を超える事はありますまい」
(兵士二人袖から登場)
兵士「申し上げます。足利勢五百余り、大手門に押し寄せ、矢を盛んに射掛けておりまする」
兵士「敵は盾を前に上に抱え並べて矢を防ぎ、その間に木々の間より矢を射掛けて参ります」
楠「なれば心を砕く必要はあるまい。矢如きで城は小揺るぎもせぬ。援兵への時間稼ぎとみたわ」
義興「では、拙者が兵を率いて敵を押し留めまする」
楠「よかろう、では行ってまいれ」
義興「は」
(義興退場)
自天王「おおそうじゃ、楠よ。其方の武功に報いる為、褒美を与えなければならぬ」
楠「有り難き幸せ」
(かつて幕府軍の陣中にいた武士達が刀袋を持って現れる)
自天王「これは源氏が家宝鬼丸国綱。橘の其方には合わぬ物かも知れぬが、神璽を奪還し、敵の武者数百を討ち取りし戦功に報いるに、此れの他には今は無い。いずれ都に戻りし折りは、畿内五カ国を持って報いる故、今はこれにて許せ」
楠「過分なるお褒めのお言葉、またその上宝刀まで賜ります上からは、かつての湊川での誓いの通り、七生生まれ変わりましても、天恩に報いる所存にござります」
(武士が楠の元へ国綱を持って行こうとする)
上月「チョイと待ったぁっ!」
(武士達皆立ち上がる)
(上月、舞台セリから登場)
上月「ヤイ楠!花の御所より盗み出したる足利家重代の家宝を、よくもぬけぬけと受け取れる物だな!盗人猛々しいとはまさにこの事。断じて剣は渡さぬぞ!」
(上月、武士を切り捨てて国綱を取り戻す)
尊良「何と不埒な!一人で城へと忍び入りこの狼藉!」
武将「行儀作法も知らぬ、尾籠なる木端武者め」
武将「畏れ多くも宮様の御前なれば」
武将「武門ならば皆礼を知り、これを尽くすものを」
武将「それさえ知らずあまつさえ、近侍を切り捨て宝物を奪い去る」
武将「天地も此れを罰せざるは無し!」
上月「はっはっは、これは異な事を申される。先に花の御所に押し入って、無礼千万狼藉三昧、挙句盗人同然に宝物を奪い去りしは、其処にて踏ん反り返りおる、楠正成ではないか」
尊良「おのれ!切れ!切り捨ててしまえ!」
(武将達殺気立って刀に手を掛ける)
楠「各々方控えられよ!」
尊良「なんと」
楠「敵陣に一人で忍び入り、宮様の御前まで辿り着き、この楠にこの口上。武芸もさる事ながら、勇智共に優れおる。当代稀なる大丈夫、寄ってたかって切り刻むは武門の恥ぞ!ここは楠一人に任せ、各々方お引きくだされい」
(武将達退く)
楠「さて、貴殿は粗忽なる無礼者なれど、当代稀なる大丈夫なれば、先ずは名乗りたまえ」
上月「我こそは、播磨国の住人にして、播磨守護赤松家が家臣、上月、カッカッカッカ、満吉!」
(上月見栄を切る)
武将「何と播磨の赤松と」
武将「赤松といえば赤松円心」
武将「主上を裏切り賊をば扶け」
武将「その後主人を裏切って」
武将「討ち取られたる満祐の」
武将「その不肖の家臣がこの者か」
武将達「はっはっは」
上月「おのれ言わせておけば!」
楠「まあ待て待たれい。皆々様、赤松殿には真に相済まぬ事あらば、そうは仰せになられまするな。建武の折には、討幕功あるにも関わらず、所領召し上げとなられた故の事なれば、武門の習いにて戦し奉るもやむを得ぬ事」
楠「然れども、赤松円心殿またその主人足利尊氏の逆臣なるは変わらぬ事なり。なれば上月殿」
楠「逆臣の家臣たるは貴殿の武勇才覚を穢す事なれば、此処にて我等に同心されよ」
上月「何を申すか楠正成!」
上月「今この時までは、朝敵と謗られし者なれど、智仁徳を具え、戦が才覚は世に冠絶されしお方と敬い奉りしを、よもや幽鬼になられ、かくも見る目が曇られし事の悲しさよ。拙者が主家を捨てて、百年の宿敵にそうおめおめと下ると思われるのは、心外の上にも心外にござる」
楠「まあ待たれい待たれい。一度話を聞いてみよ。其方の思うところは分かる、なれども世の道理もある故に、一つ聞いてはもらえぬか」
上月「うぬぬぬ、なれば一度は堪えよう」
楠「先ずは、逆臣足利家が大罪を申し述べる。いずれも八虐の大罪なれば、天地もこれを受け入れるまじ」
(楠舞台中央へ)
楠「一つ。足利尊氏は、永きに渡り、北条家の恩顧を受けながら、突如として矛を逆しまにし、六波羅を焼き、主家一門を誅戮す。是主家に逆らう不義の罪。第二に、足利尊氏は、北条家に飽き足らず、恣に将軍を称し、吉野の主上に叛逆し、恐れ多くも都より追い出し奉る。是主上への大逆不敬、謀反13の罪。第三に、足利尊氏並びに義詮は、永きにわたる戦乱を助長し、三種の神器無くして主上を建て、正しき主上へ叛し国を引き裂き、都を灰塵に帰す。是御所への大不敬、謀大逆の罪。第四に、足利直義は、兄尊氏へと叛逆し、これを殺さんと企んだ。是悪逆の罪。第五に足利義量は、酒色に溺れ政務を顧みず、累代の社稷を揺るがす。是父祖への不孝の罪。第六に、足利義満は、蕃国と通謀し、剰えその臣下として振る舞い、主上を差し置き不敬にも日本国王と名乗る。14是謀叛の罪。第七に、足利義教は濫りに無辜を殺傷し、宮中へ押し入り皇親公卿を刑戮す。是不道の罪。最後に義政、義政は民草が飢饉に苦しみ、伯夷叔斉が如く、山々へ登り僅かの蕨を集める中、御所にて享楽奢侈に耽り、主上の恐れ多き勅諫にも従わぬ。是大不敬の罪。以上が足利家の八虐の大罪。斯くの如き逆臣に従い、己も逆臣の汚名を着る事は武門永代の恥なるぞ。今ここに正道に立ち帰り、真の主上の下で忠を尽くし、麟閣に画を掲げ15、富貴を極むべし」
(楠見栄を切る)
上月「ぬあっはっは。楠殿が如何程の言葉を下されるかと恐々としておりましたが、何たる事にござろうか。これ程までに道理の通らぬお話は、古今如何なる琵琶法師も語るまじ。拙者も語ろうぞ!」
(上月中央に。楠は舞台奥へ)
上月「先ず第一の罪は、北条高時が無道を除き、主上の下に政を戻し給えとの叡慮勅命に従っての事。新田義貞も御家人なれどこれに従って鎌倉を討つ。是不義に非ず、忠勤の行い。第二の罪は、四条河原の落首にも有るが如く、功有る者に仇もて報い、白拍子が如き浮薄の者に恩賞を給わす主上の無道を因とする事なれば、謀反に非ず、天命なり。第三の罪は、是正平の御一統に反し、都に兵を向けられし吉野方の罪なれば、足利家の罪に非ざるなり。第四の罪は直義公の罪ならず、奸臣高師直が仕組みし事なり。直義公は院への不敬を刑を以って収めし忠臣なれど、それを無道にも囲み奉り、己が私欲を満たそうとするは師直なり。然るに是直義公の罪に非ず。第五の罪はそも真かさえも怪しき事。義量公が年若くして薨去されしは真なれど、酒色の事は何事にも書かれ給わず。故に罪とは言えぬ事なり。第六の罪は更に罪にも非ず。16通交せしは蕃国に非ず大明国なり。古来大唐の大明大宋との通交は国の拠って立つ処の一。古きは大唐より学び、今にあっては大明よりの品々によって国は富み、主上もことの外にお慶びになられ、なればこそ義満公は鹿苑院太上法皇の御名を賜ったのでござる。よって是も罪に非ず。第七の罪は確かに無道なれど、義教公にはまた功もござる。大明との通交を再度開き、強訴し世を乱す社寺を罰し、坂東の逆賊を討って世を鎮むるは功なり。八の罪はもはや一片の実も無し。主上の勅を賜った上からは、即座に普請をお止めになり、民草を救わんと思し召された。罪はおろか功にござれば、これにて足利家が八虐は悉く無きに等しき物となれば如何?」
武将「おのれ此奴は」
武将「畏れ多くも吉野の主上を」
武将「無道呼ばわりするとは」
楠「おのれ…おのれ言わせておけば!」
(楠激昂する)
楠「これ以上の無礼はもはや許せぬ。さらば、我が本地を以って其方を討ち取って進ぜよう」
(楠舞台後方のどんでん返しへ。そこが回転して、恐ろしい鬼の姿をした俳優と入れ替わる。以降の楠は別の役者である事に注意)
楠「うあっはっは。湊川、かねての誓いの通り、七度までこの世に生まれ変わり、主上が天恩に報いん。貪瞋痴が三毒の剣を佩き背負い、大森彦七を踏み潰し、今こそ足利の首をば討って主上に奉らん。さあさあ!」
(楠上月に切り掛かる。上月は必死で受けるも、ややあって押され始める)
上月「やや、流石に楠正成。日本国に武勇にて並ぶ者無しとはげにや」
(上月の刀が折れる)
上月「おお!」
楠「終いじゃ!エエイ!」
上月「ヤァ!」
(上月、咄嗟に背負った紫の刀袋を掴んで前へ突き出す。楠の刀は弾かれ、その一撃で袋が破れる)
楠「何ぃ」
上月「おおこれは、国境の山中にて御前より賜りし宝剣。さては、この時にこそ使うべき物でござったか」
(上月袋から刀を出す)
尊良「ま、待て貴様。その剣は…」
(上月刀を抜く)
尊良「累代の東宮の守り刀、壷切の御剣ではないか!」
楠「何じゃと…!」
尊良「おのれ!何故貴様がそれを持っておる!」
姫君「妾わたくしめがお授け致しました」
(舞台セリより姫君登場)
尊良「何奴か!よくもぬけぬけと、女が城へ潜り込めたものだ!」
姫君「お久しゅうございます、宮様」
尊良「何…?余は其方の顔など知らぬぞ」
姫君「思い出すも難しは尤も。なれども、悲しき事なれば。『橋姫の心を汲みて高瀬さす』…」
尊良・姫君「『棹のしずくに袖ぞ濡れぬる』…」
尊良「おお、おお其方は、かつて恋い焦がれ、今生の別れと惜しみて行きし…」
姫君「左様、橋姫の中君か大君か。絵巻物の中より出し女子と仰せられ17、金ヶ崎にてお果てあそばされ、首級にてお目見えしました…」
尊良「御匣の君!」
御匣「よくぞ思い出して下さいました。如何なる宿世の結縁にか、こうして再び目通り叶い、嬉しき事の限りなさ」
尊良「源氏の君の物語、そこにて垣間見した日より、慕い恋して今日ここまで。金ヶ崎にて後世にも共にと腹を切ったも懐かしき」
御匣「妾も、後世にて共にと祈りつつ、都にて後を追え侍れど、何たる縁の不可思議なる事は、我が身一人がこの世に生まれ出で、宮様は何処と問えども見えず、一人山にて弔い奉るに、伊勢の山中にて楠正成殿と同心し、幽鬼と変わられなさったと」
尊良「余は生まれは皇親なれど、果てし時は武士なれば。罪深き事とは知りながら、主上の為にと思い詰め、二度と人の世に生まれるは叶わじとは思えども、こうして幽鬼と成るは僥倖なりと、こうして城へと立て篭もるのじゃ」
御匣「ああ、故にこの世にお生まれ叶わず、また縁あれどもお目通りも叶わず。悲しみの上にも悲しみに。何卒御心をお変えあそばされませ。この妾めが先導奉り、共に黄泉路へ参りましょうぞ」
尊良「今は叶わぬ、叶わぬ事じゃ」
御匣「何故に」
尊良「再び馬に鞍を積み、鎧を仕立て旗を立てるは、逆賊義政が首を挙げ、都に戻りて皇威を示さんが為。是成りし時、さすれば余も黄泉路へ旅立とうぞ」
御匣「ああ宮様宮様。何故に妾が、この城へと入ること叶のうたと思し召されまするか。あの山中にて上月殿に、壷切の御剣をお預けした折りからは、最早この世の者ではござりませぬ」
尊良「なんと」
御匣「この世にて叶わぬ事なれば、最早人の身に生きるも詮無い事、共に幽鬼と成り果てて、さすれば同じ身にあらん、言葉も届く事あろうとて、自刎し奉り、今日ここまで参上致しました」
尊良「おお、おお何と…」
御匣「深く恋路に身をやつし、罪深き事と知りながら、宮様を慕い続けておりますれば、例え如何なる道へ出でども、後世も更なる後の世も、共に参ります」
楠「なりませぬ、なりませぬぞ宮様!女人の言葉に耳など貸されますな!」
尊良「楠…」
楠「義興殿も居られまする、女人に心を惑わせて、大業をお捨てになられまするな!」
尊良「……」
(尊良、鎧を脱いで狩衣姿に)
楠「宮様!」
尊良「すまぬ、楠。すまぬ、皆」
(御匣殿の手を取る)
尊良「思えば、人を殺めるも、戦を続けるも、元より余に出来る事ではなかった。たった一人の妃さえ、余は顧みられなんだ。すまなかったな」
御匣「いいえ、宮様。行く先は何処か、今は知れませぬ。なれども、例え千載の時が過ぎても共にありましょう」
(二人、花道より退場。同時に鳴り物を入れる)
上月「さてさて、楠正成。あとは其方一人ぞ。新田義興は外の味方が抑え、残りは取るに足らぬ雑兵なれば、其方一人を討ち取れば戦は終わりじゃ」
楠「おのれ逆賊の木端武者め!」
上月「遂にそれしか申せぬか!」
(楠と上月の立ち回り。楠の剣が壷切に触れるたびにへし折れる。そして、遂に三毒の妖刀全てが折れる)
楠「何!?」
上月「覚悟!エエイッ」
(上月、楠を切る)
楠「うおおおおおおおっ!」
(断末魔の声をあげて楠倒れる)
上月「楠正成、討ち取ったり!」
(上月が名乗りを上げると同時に城が揺れ出す)
上月「おお、何と…」
(そのまま場面転換)
第四幕 終
(場面は夜明けの山中。上月が真ん中で寝転んでいる)
上月「は!?此処は…」
石見「上月殿、上月殿!」
帯刀「ご無事か!」
上月「いや、楠を討ち取ってから、城が揺れ出し後の事は分かりませなんだ」
成之「うむ。我らも城を攻め、新田義興と戦を続けておったが、突如として城が揺れだし、程なくして崩れ落ちおった」
上月「ははあ…うっ、痛てて。そうだ、そういえば…見つけましたぞ!」
帯刀「何をでござる?」
上月「神璽と国綱の宝剣でござる。石見殿、しばしその辺りを…」
石見「うむむ…こ、これは!」
(石見、そばの草むらから刀袋と箱、そして小さな髑髏を持って来る)
石見「これぞ神璽と宝剣にござる。そしてこの髑髏は…」
上月「恐らくは、自天王の君でござろう。あの場では、たった一人の生者と思っておりましたが、まさか…」
成之「…何にせよ、これにて神璽に宝剣は戻ったのじゃ。それに、自天王の君は兵乱を起こしたとて帝の縁戚。厚く弔い奉ろう」
兵士「申し上げます、申し上げまする!」
成之「何事じゃ!」
兵士「管領細川京兆尹様、二万の兵を率いて御着陣の由。讃岐守様は何処にと仰せです!」
成之「左様か!よし、上月殿、石見殿。神璽と宝剣を持って着いて参られい。管領殿に戦功を申し上げ、赤松家のお赦しを願い上げようぞ」
勝元「其れには及ばぬぞ」
(勝元、袖から兵達を引き連れて現れる)
成之「京兆様!」
(皆平伏する)
勝元「皆面を上げよ。そう畏まるでない」
全員「はは」
勝元「既に話は成之の手の者から聞いておる。上月殿、まこと大儀であった。此度の戦功第一であるな」
上月「有り難きお言葉」
勝元「なれば、かねてよりの其方らの願い、叶えぬ訳には参らぬな」
石見「されば…」
勝元「うむ。赤松家の御赦免、我が細川家からも公方様へ願い立て致そう」
全員「有難うござりまする!」
勝元「では、都へ戻るぞ!神璽宝剣をこれへ!」
上月「は!」
勝元「勝鬨を上げよ!」
全員「えい、えい、応!」
(幕。鳴り物を入れる)
一 本作についての作者の言及
嘉永四年文月十六日。奇譚有りと聞き及ぶに、伊勢国に下る。兼ねてより[判読不能]山に、一夜にて城の立ちけるとの譚あるを探らんが為なり。果たして真なり。古くは北畠[虫喰い]が城なりと史書軍記にありし処なり。去年の師走、大和屋18に頼まれし事にて、この怪しの事を治めけるの実じちをたねとして、狂言きようげん一つ書きつく。なれど、本道に外れし事にて、殊にすさまじきものなれば、復たこれ書くまじき事なり
四代目神林伯玄『伯翁葦葦言』19より抜粋
二 蒐集院における記録(現代語訳)
本資料は、文久二年の夏、江戸守田座にて初演の予定であった演目について、事実を基盤とした事が判明した為、急遽これを押収したものである。幸いにして第███番が江戸庶民に流布する事は避けられたが、同時に既に狂言作家が死亡している事も明らかになった。今後、如何にしてこの資料が作成されたかの調査は極めて難しいものとなるだろう。
文久三年師走 初瀬蒐集官
四代目神林伯玄によって唯一執筆された歌舞伎狂言。『伯翁葦葦言』によれば、最晩年の文久元年、守田座の座元である守田勘彌(屋号は喜の字屋。歌舞伎役者としては坂東三津五郎で、そちらの屋号は大和屋)の依頼を受けて執筆した物。本来の歌舞伎狂言とは形式を異にしており、また幕数や公演時間も非常に短い。
予定では文久元年のうちに守田座で初演される予定であったが、その年の春に伯玄が急死した為に延期となり、文久二年に追善の形で公演される直前で蒐集院が急遽押収した。
蒐集院か伯玄本人かは不明瞭であるが、資料を参照する限りは一応は事実を基盤とした演目であり、故に押収の対象となった様である。
史実調査部 左坂勘四郎
1800-1863
江戸時代後期の歌舞伎役者、及び三座の一つ守田座の座元。歌舞伎役者としては坂東三津五郎。破綻状態が続いていた守田座の復興に辣腕を振るい、また生世話物を得意とした幕末における歌舞伎の名優、立役者の一人。
ページコンソール
批評ステータス
カテゴリ
SCP-JP本投稿の際にscpタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にgoi-formatタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
本投稿の際にtaleタグを付与するJPでのオリジナル作品の下書きが該当します。
翻訳作品の下書きが該当します。
他のカテゴリタグのいずれにも当て嵌まらない下書きが該当します。
言語
EnglishРусский한국어中文FrançaisPolskiEspañolภาษาไทยDeutschItalianoУкраїнськаPortuguêsČesky繁體中文Việtその他日→外国語翻訳日本支部の記事を他言語版サイトに翻訳投稿する場合の下書きが該当します。
コンテンツマーカー
ジョーク本投稿の際にジョークタグを付与する下書きが該当します。
本投稿の際にアダルトタグを付与する下書きが該当します。
本投稿済みの下書きが該当します。
イベント参加予定の下書きが該当します。
フィーチャー
短編構文を除き数千字以下の短編・掌編の下書きが該当します。
短編にも長編にも満たない中編の下書きが該当します。
構文を除き数万字以上の長編の下書きが該当します。
特定の事前知識を求めない下書きが該当します。
SCPやGoIFなどのフォーマットが一定の記事種でフォーマットを崩している下書きが該当します。
シリーズ-JP所属
JPのカノンや連作に所属しているか、JPの特定記事の続編の下書きが該当します。
JPではないカノンや連作に所属しているか、JPではない特定記事の続編の下書きが該当します。
JPのGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
JPではないGoIやLoIなどの世界観用語が登場する下書きが該当します。
ジャンル
アクションSFオカルト/都市伝説感動系ギャグ/コミカルシリアスシュールダーク人間ドラマ/恋愛ホラー/サスペンスメタフィクション歴史任意
任意A任意B任意C-
- _
注意: 批評して欲しいポイントやスポイラー、改稿内容についてはコメントではなく下書き本文に直接書き入れて下さい。初めての下書きであっても投稿報告は不要です。批評内容に対する返答以外で自身の下書きにコメントしないようお願いします。
- portal:5825127 (01 Nov 2019 09:12)
今回の原作様
http://scp-jp.wikidot.com/scp-830-jp
今回は歌舞伎的なアプローチです。正直著者にはそうした知識がゼロなので、生暖かい目かめちゃくちゃに厳しい目線でご覧下さい(恐怖)