仮題 天ノ娘

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 えぇ、世の中で演じられます噺やら講釈と申しますのは、これまた様々に種類があるそうでございまして、その中でも、人情噺1という、種別が御座います。この人情噺と云うのは、私共講談師ですな、この世界で言いますところの「世話物」2と云う。で、それを講談はただ説明書きのように読みますが、落語では感情を込めて、お客様に申し上げると云う。これはまあ、上方落語の大家で在ります桂米朝師匠3の、お言葉で御座いますが…。
 本日申し上げますお噺は、まあ主人公がお侍ですから、厳密には「世話物」とは言えないので御座いましょうが、まあ細かい事は、一旦置いておきまして…。

 明和八年の、春のことで御座います。奥州の御大名家にお仕えをしておりました、跡部勝左衛門。250石をお取りなさった、勘定方のお侍で御座いましたが、この人の嫡男に、麟之助という人があった。この人がまあ、眉目秀麗で質実剛健という。剣の道に秀で、その一方で漢学詩文にも長ずるという、その上お侍として道を踏み外す様なことは決して御座いませんで、大層将来を期待をされていた。
 ところが、麟之助が14の歳に、父の勝左衛門が火事に巻き込まれて命を落としてしまうという。で、お家を継ぐにもまだ14では、御役目にも差し障りがあろうというので、故人とは竹馬の友であった真鍋十郎右衛門と言う人が、この人の後見人といたしまして、お家によく出入りをしていたという。
 麟之助も、亡くなった父の意思を果たそうというので、まあ大層努力をしたので御座いましょう、16の歳にはお家の跡目を継ぎ、御役目も相応に頂けるようになったという。これには後見役の十郎右衛門も大喜びで、いやはや、さすが勝左衛門の嫡男。博学英才にして眉目秀麗、まさしく業平が如しという大層な褒めそやし。いずれは良家の娘と縁づけて、更に高みは昇らせてやらねばと、そう考えていたそうで御座います。

 かくして、麟之助が18になった時分。この人は、ちょいと考え事があるとよく外へ出て、1人で空を見上げて考える事が多かったといいます。その日は御役目もございませんでしたから、1人で外へ出て、風にでも当たりながら何か、考えようと。
「真鍋の叔父上様は、斯様な愚か者でも、英才と過分にお褒めくださり、この上はお殿様にもお引き立てを願おうと仰っている。しかして、拙者にその様な大役務まるわけが…」
麟之助はまあ、悪い癖と申しましては些か、意味が通りませんでしょうが、あまり自らを高く見るという人ではございませんで、まず第一に「自分にそれが務まるか」という事をお考えになる。まあ仕方のない事やもしれませんな、今のご時世でも、何か大役が与えられるという時に、まず一言目に出ますのは、「私には過分なお役目で」とこういう訳で。他人に迷惑をかけるという事を、人一倍嫌う麟之助でございましたが…。

 その眉を潜めつつ、真剣に物思いをしながら麟之助が、こう道を歩いておりますと、いつの間にやら森の中に迷い込んでしまいまして。人間てえのは考えにふけると、よく前を見失うなんてな事がよくありますが…。
「はて、ここは何処であろうか。如何なる道を辿って来たのか、とんと思い出せぬ」
 麟之助があたりを見回しまして、どちらの道に行くかとこう思案をしておりますと、やけにあたりが騒がしく感じます。何事かと見やりますと、鴉でございますね、あれが何匹も集まってギャアギャア騒いでる。それだけならいいんですが、その中心に、なにやら人影らしきものがある。
「うぬ、生き死には問わず、畜生に喰らわれんとする人を助け申さぬは、武士の道にあらず」
と、すぐに考えをまとめました麟之助、太刀の鯉口をサッと切りまして、ええい!っと気合と共に斬り込みますと、鴉はたちまちまた声を上げながら去っていきます。
 これでよし、と麟之助。刀を収めて、人影の方を見やりますと、どうやらまだ息があるようで、助け起こしてやろうと手をかけた。すると…はて、何とも手応えがおかしい。人の腕と言うのは、骨が一本通っていて、その上に肉が付いておるが、この人には、それがない。骨のような硬い感触こそあれど、その他のところは、どうも、布団を触るような感覚であったと申します。訝しんで一歩引きますと、今度は周りに鴉の黒い羽に混じって、真っ白な羽が落ちているのにも気がつく。愈々これは怪しいと見まして麟之助、意を決して着物の袖をサッとまくる、すると…何とその人には、手と腕がなくって、代わりに鳥の様な「翼」があったといいます。私のこう肩から手にかけまして、これが全部羽になってると、そう云う事でございまして…。
 流石にこの様なことには生涯会ったことのない麟之助、思わずギョッとして後ろへ一歩飛び退く。すると、それで目が覚めたんでしょうな、倒れていたその人が目を見開く。
 その人はどうやら娘さんの様でございまして、長い髪を結いもせず、バサバサのままにして、着ている着物はそれこそ、穢多非人も着ない様な、擦り切れたひどい有様のもので…。体はひどく痩せ細っていて、足なんぞは本当にこんな棒切れみたいに細っこく、ただ羽のある両腕だけが、不自然にちょいと盛り上がっていると云う。
 娘は目を覚ましまして、こう体をグッと起こしますが、どうも上手く力が入らない様で立てないんですね。で、麟之助が見たところ、着物には所々血が滲んでる。ははあ、先程の鴉にやられたかと麟之助は得心しましたが、かと云って両腕が翼になっていると云う、面妖な娘を簡単に助けようなどとはどうも思えない。今と違いまして、物の怪の類と云うのがまだある程度信じられていた頃の事ですから、如何に麟之助といえど、簡単に助けることはできないと云うわけで。
 娘さんの方は、痛みで時折顔を歪ませながらも、立ち上がろうともがいていますが、どうも足の骨が折れたかどうかしてしまって、やはり立てない。そうこうしているうちに、自分をじっと見つめている麟之助に気が付いたのでしょうが、彼の方に視線を向けます。
「何じゃ其方、拙者に何ぞ、申したいことでもあるか」
「……」
娘さんはじっとこれを見つめて、何も云おうとはしない。
「何じゃ、何とか申さぬか」
「……」
「もしや其方、口がきけぬか」
「……」
 そんな問答をしている時、何やらガヤガヤ人の声。近くの農民か何かが、柴でも刈りに来たんでしょうな。すると娘さん、はっきりとそれを怖がりだしまして、慌てて逃げようとする。しかし、さっきついた傷がこれを邪魔して、這いずることしかできない。そうしてる間にも、声は段々近づいてくる。これまでか、と娘さん覚悟したことでしょうが、ここで麟之助が動きます。麟之助、娘さんの身体の下にグッと手を入れて、身体を持ち上げる。まあ、「お姫様抱っこ」と云うものに近いのでしょうな。そしてそのまま抱き抱えながら、山を降りて行く。
 さて麟之助、娘さんを抱えたはいいものの、また訝しく思うのは、やけに軽いと云うところでございます。普通、この位の年頃の娘ならもっと重いと思うのですが、どうもこの娘の目方は6か、7貫。大体20キロばかりしかない様だと、これまた不思議なことで。
 鳥と云うのは、その大きさに見合わず目方が軽いと申すが、この娘、よもや鳥の化けたのではあるまいな、なんてな事を考えながら、山を降りまして、人目を避けながら城下町の中の、自分の屋敷へと連れて行ったと云う。

 さ、連れて来たいいものの麟之助、今迄女子に触れた事さえないものですから、どうして良いやら分からない。母親はお産の時に亡くしておりますから、聞くことも叶わぬという。一応下人と云うのも使っておりますが、翼を持つ娘などと云うのを見せたが最後、何を云い出して、お家の名に傷がつくか分からぬと云う。一先ずは、身綺麗にして、何某かの着物を着せてやって、一応は常人に見える様繕ってやらねばならぬと云うわけで。
 先ずは、身体を綺麗にしてやらねばと云うので、井戸から桶に水を汲んで、手拭いを浸して支度をする。自分で出来るかと見たが、もとより彼女は腕の代わりに翼ですから、脱ぎ着もこれはできないと云うわけで。仕方が無いから、帯を解いて脱がしてやると、逆らいもせずに為されるがままと云う。で、身体を拭いてやりますが、やはり所々に生傷がある。鳥の爪で着いたのもあれば、松明か何かが当たったんでしょうが、火傷の跡もある。年若い娘が、何の科あって斯様な仕打ちを受けるか。たとい物の怪の類といえど、今少し情けをかけても良かろうと云う気持ちになったんでしょうな、戸棚から薬なんぞを持って来て疵口につけてやる。滲みるのでしょうが、時折身体を震わせはしますが、逃げようとはしない。
 で、身体をきちんと拭いてやって、亡くなりました母の着物か何かを出してきて、不器用に着せてやる。幸いにも袖口が長いもんですから、翼の方はうまく隠れて見えない。で、乱れた髪の毛の方もまあ不器用なりに何とかまとめてやる。そうしてはたと見直すと、これはまた、何とも見目麗しい娘になっておりまして。多少頬がこけてはいますが、きちんと顔の泥汚れを取ってやると、かくも人の容姿は変わるものか、という。
 暫く互いに見つめあっていましたが、やがて麟之助が我に帰る。
「ところで其方、名は何と申すか」
「……」
「そうか、口がきけぬか。では紙と硯を持って来るからここに書け…いやいや、其方は翼故字を書くことも叶わぬか。なれば…」
仕方が無いというので、麟之助は紙を持ってきて、墨を用意して、さらさらと大書する。そしてそれを娘さんにこう見せる。
「よいか、其方の名は今日より『鶴』じゃ。のう。その見目と、翼に因みそう名付ける。良いな、今日より、『鶴』か『お鶴』と呼ばれたなら、それが其方じゃ」
そう云って、お鶴にその紙を渡してやる。お鶴は何とかその紙を支えて、じっとそれを見つめております。
「では、これより飯を持って参ろう。今日は何故か皆、祝言だの法事だの、何やらで出払っておるでな。不味い飯で我慢せよ」
そう云って麟之助、一応炊いておいた米と、適当に沢庵やら何やらを付け合わせにして、汁物と一緒に持ってきた。ほら食え、とは申せども相手は箸も使えぬというのに思い当たりまして、仕方が無いから一口一口自分の手で運んでやる。
 思えばこの辺り、麟之助という人はどうも、お侍の中では奇特な方で、250石取のお家の主人が、娘に手づから飯を食わすというのは、あり得ないことでございまして。当人の麟之助も、心中、己は何をしているのかと考えていたことだろうと思いますが…。

 まあこうして、麟之助の邸にはお鶴という、他には居ない大変変わった居候が住み着くというわけで。麟之助は一応はこれを内密にしては居ましたが、まあ人1人隠しおおすと云うのは大変な事ですから、程なくして下人たちもあれこれ噂をしだす。やれ、麟之助様が一目惚れをされてもらい受けてきただの、遊女を見受けしただの、いやいやあの娘は生き別れの妹君だろう何と云う。まあ流石に、何処かの娘を拐かしてきたなどと云う風聞が立たなかったのは、この麟之助と云う人が常日頃から謹厳実直だと云うのが、周りにも知れていたからだという証左な訳で。
 ところが、これで気が気でないのが後見役の真鍋十郎右衛門。今迄は、他のことなど目に入らぬと云う調子で持って、高みへ高みへと目指していた麟之助が、どうも女にかまけてばかりと聞けば、これはどうも、心境としてはあまり宜しくはない。早速邸の方へ出向いて、麟之助に談判をする。
「麟之助さんね、ここ最近、お前さんがどうも、変な娘を邸に囲ってるなんて噂を聞くんだが…」
「はっ?それは一体、誰が申しておりましょうか」
「いやね、この邸に仕えている下人の者達が、時折見覚えの無い娘を見かける。それに、ここの所はどうも食材の減りが早い様だと申しておる」
「……」
「よもやあり得ぬことかと思うが、娘を囲って、それにかまけて、お父上の志を忘れたなどとは…」
「いや!その様なことは断じてござりませぬ!」
「なれば、その娘は、明日にでも邸から追い出しなさい。素性の知らぬ娘というのは、1人の道を誤らせるばかりでなく、この跡部のお家も潰すことになるやも知れないよ?」
「叔父上様。貴方様のお言葉は、拙者にとっては父の言葉にも等しいもの。尋常の事であれば、謹んで、仔細漏らさずその通りに致すべきですが、今回ばかりは、この通り、ご勘弁を願いたく存じます」
はて、麟之助という人は、とかく万事年長者の云う事に素直な人だったが、斯様なまでに強情なのは初めての事。なればと十郎右衛門、少し思案をしてこう云います。
「であれば、その娘をここに連れて来なさい。もしも、お前さんを誤らせる様な娘ならば、よく云って聞かせて、このお家からは出て行ってもらうよ」
まあ十郎右衛門に云われたのでは、無理に断ることもできませんから、麟之助手を叩いて、
「お鶴。お鶴!ちょいとこっちまで来な」
そう云って、お鶴を呼びつけます。

 程なくして、お鶴が襖を開けて、部屋へと入って来る。もう怪我はすっかり治りまして、自分の足で歩いている。後を閉めて、畳の上に正座をしますと、麟之助の動作を真似してるんでしょうな、ペコリと十郎右衛門に頭を下げる。ですが、口はきけませんから、名乗りをする事はない。
「お鶴さん、と云ったね。あんたは一体、何処から来たのかね?」
「……」
「叔父上、お鶴は口がきけませんので…」
「麟之助さん、お前さんは少し黙っていなさい。お鶴さん、私はこの人の後見役で真鍋十郎右衛門と云う。私はね、とてもこの人の事を心配してるんだ。優れた才覚がありながら、道を違えてしまった人というのは大勢ある。麟之助さんがそうなってしまっては、お父上に申し訳が立たないから、もし邪な気持ちがあるのなら、直ぐに、ここから出ていつまでもらいたい」
そうピシャリと云い放ちます。するとお鶴、これを理解しているか否か、十郎右衛門の顔をじっと見据えていたかと思うと、瞳から一筋スッと涙を零す。そしてそれを拭おうともせず、一つ、また一つとポロポロ涙を零しながら十郎右衛門を見つめ続けます。これにはさしもの十郎右衛門といえど、狼狽えてしまう。まあそれはそうでしょう、綺麗な若いお嬢さんから見つめられながら泣かれるなんてえのは、男なら平静じゃいられません。気不味げに、麟之助の方をチラリチラリと見て助けを求める。

 そして麟之助、遂に意を決しまして、膝を進めてこう云った。
「叔父上、お鶴は尋常の娘ではありませぬ。それを今からお目にかけますが、どうか、それを他所へお漏らし下さいますな。さすれば、叔父上のご心配を今すぐに、お取りいたします故」
「あ、ああ。分かった。分かったよ。誓う、絶対に他所には漏らさないよ」
「父の霊に誓えまするか」
「武士に二言はないよ。お前さんのお父上に誓おう」
なれば、と麟之助立ち上がりまして、お鶴の袖を引いて近くへ来させる。そしてその袖をバッまくり上げると!本来人には決して無い、真っ白な美しい翼が現れたのでございます。十郎右衛門は腰を抜かしまして、流石に声を上げるなんて事は無かったですが、信じられぬものを見たという風情で…まあ、これが普通なんでしょうが。
「り、麟之助殿。こ、これは一体…」
「お鶴は今から一月ほど前、街を出て暫く行った先の森で、鴉に襲われているのを助けました。その折に、この世の人にはあらざる翼を見て、人目に晒せば必ずや物の怪の類とされ、下手をすれば磔にもなりかねませぬ。それ故に、邸に閉じ込め、でき得るだけ下人にも触れさせぬようにしてまいりました。食材の減りが早いのは、密かに拙者がお鶴の食事を用意していたからにございます」
「いやはや…これは何とも…」
流石の山海経や奇異雑談集にも、この翼人なんてのは記述がありませんで…十郎右衛門の驚き様と云うのも察せられます。
「叔父上、拙者がお鶴を助け申したのは、襲われて今まさに死なんとする者を見捨てるは、まさしく武士の恥と父より幾度も叩きこまれた故でございます。どうか、どうかお鶴を物の怪の類として、此処より追い出される事の無き様、この跡部麟之助、一命を賭してお願いを申し上げます」
「…あいわかった。流石に、麟之助殿に此処まで頼まれては、この真鍋十郎右衛門、嫌とは答えられぬ故」
「はっ、有難う存じます」
「何ぞ、入用があれば申し付けておくれ。金子やら着物やらが要る事があれば、私が用意をするから」
てんで話がまとまりまして、お鶴は引き続きこの邸でもって暮らしを続けると云う。
 あいも変わらず、外は出る事は有りませんが、時折麟之助が屋敷の庭に連れ出してやったり、口はきけないが色々と話をしてやったり、手習をさせて何とか意思を表せる様にしようと云う、そんな風で仲睦まじく過ごしておりましたが、その年の暮れでございます。

 折しもその年は、麟之助のお仕えをしています大名家が参勤交代をする年でございまして、麟之助はその江戸在番役の1人に選ばれたと云う。流石に江戸在番と云う御役目を辞退するなどは考えられぬ仕儀ですから、麟之助も出立の支度をし始める。しかし、問題はお鶴にこれをどう伝えるかというわけで。立場は自分のが上ですし、ご主君の命でもありますから、一言のうちに切って捨ててしまえば良いとも、思し召されるでしょうが、やはりそこは誠実な麟之助、一度しっかりと話をせねばなるまい、とお鶴を呼んで、こう話を切り出した。
「良いかい、お鶴。拙者は今度お殿様に従って、江戸という所に出向く事となった。だから、今より一年、この邸には戻って来れぬ。しかし、心配する事はない、叔父上と信用のおける女中に今後のことを頼んであるから、その人達の云う事を聞いて、帰って来るのを待っておいで」
そう云って、部屋を出ようとするとお鶴が袖口を掴むんです。いや、摑むったってこうやって摑むわけじゃなくって、羽でそっと触れるくらいなもんなんですが、いかせまいとする意思ははっきりと、こりゃわかると云うわけで。
「良いか、お鶴。その様に見上げても駄目なのだ。主の命とあらば、死をも恐れぬのが武士なのだ。此処で其方の為に命に背くなら、拙者は無論のこと、叔父上や其方も罪に問われ、跡部の家はお取り潰しじゃ。そうなれば、もう其方に会うこともできぬし、何より父上やご先祖さまに申し訳が立たぬのだ。だから此処は、聞き入れておくれ」
するとお鶴は今度はハッキリと、首を横に振って、翼をぱっと広げて麟之助に抱き付いて、あの時と同じように涙を浮かべている。此処で話して仕舞えば、きっと自分の手の届かない処に麟之助が行ってしまう、と理解をしていたのでしょうな。
「お鶴、どうか良い加減にしておくれ」
「……」(黙って首を振る)
 そうしたやりとりを何度か繰り返すうちに、麟之助も段々と聞き分けのないお鶴に怒りが湧いてきまして、ついカッとなって、自分の手で以ってバシーンとお鶴を打ち据えます。
「いい加減にするのだ!お鶴!」
打擲をされましたお鶴は堪らず手を離し、畳に手をつき、それでも麟之助をジッと…恨むでも、怒るでもなく、ただただ悲しみをたたえた瞳で見つめていると云う…。決まりの悪くなった麟之助は、そのまま黙って部屋を出ていく。そうして2人は、顔こそ合わせるが言葉も何も交わすことなく、出立の日を迎えてしまうと云うわけで…。

 麟之助が出立をしてから、暫く時間が経ちましたが、お鶴の様子は目に見えてどんどん弱って参ります。十郎右衛門か、後を託されました女中のおきせという人が、食事を持って行きますが、食べないか偶に食べても吐き戻してしまう。一日中部屋の隅っこに座り込んで、後生大事に抱えている、あの「鶴」と麟之助が大書した半紙を、また泣きながら眺めていると云う。
 そうしてるもんですから、元より痩せているのが更に痩せてしまいますし、気鬱になると、更に食事をする気もなくなる。もうまともの食べ物は受け付けなくなりまして、僅かな粥と野菜だけで生きながらえておりました。

 ところが、それから一月ばかり過ぎますと、何故だかわかりませんが、急にお鶴が食べる様になった。今の今迄、部屋でもって引き篭もってばかりだったのが、また庭先にも出る様になりましたし、きちんとした飯も食う様になった。
 人間安心すると気が緩むと申しますが、これはこの邸の人にも当てはまる。どういう事かと申しますれば、一月ばかし粥と僅かな野菜で生きながらえてきたお鶴。ところが、にわかに食欲を取り戻しまして、よく食べる様になった。ああ、これは良かったとおきせも十郎右衛門も喜んで、久しぶりにずっと張っていた気を緩めてしまったわけですな。

 さて、その日はお鶴と麟之助が出逢って丁度一年の日。
 夜明け前で御座いました。お鶴はハッと目を覚まし、そろりそろりと足を動かして、注意深く戸を開けまして邸の外に出る。戸の近くでこっくりこっくりやってたおきせが人の歩く音で目を覚ますと、お鶴が邸の外へ出て、西の方へ行こうとしている。
「あれ、お鶴さん。いけません、お待ちになって。お邸へお戻りなさってくださいな」
そう声をかけますと、お鶴がはたと振り返る。その目は、「必ず、必ず江戸まで行かねばならぬ」と並々ならぬ思いをたたえております。
 そうしていると、お鶴がタッと走り出す。おきせも捕まえねばとまた走り、後を追いかける。元よりお鶴は体が弱いで御座いますから、おきせの方が段々と距離を詰めていく。そして後もう少しで、手が届くと云う処で急にお鶴がバサッと、翼を羽ばたかせて空へと飛び上がったので御座います!そうして何度か翼を羽ばたかせると、お鶴は春の東風に乗って、たちまちのうちに空へと飛び上がっていく。日が昇りまして、空の方が白んで参りますと、その空には真っ白な羽を羽ばたかせるお鶴が段々と小さくなっていくのが見えます。おきせはそれを、少しの間見つめておりましたが、兎に角は十郎右衛門の処へ行かねばと思い当たりまして、急いでその邸の方へ走って参りました。

 さて、朝日を背にして江戸へと飛ぶお鶴。もとより身体が弱いから、時折は降りて休息をしなくてはいけない。しかし、それでも諦めるなんて事はしませんで、風が吹き始めると、再び羽ばたいて空へと飛び上がる。そして三日三晩飛び続けまして、4日目の日の出前に遂に江戸へと辿り着いた。
 しかし、江戸へ辿り着いたお鶴が空から見たのはまさしく、地獄で御座いました。明和九年の如月と申しました時、何人かのお客様はピンとこられたでしょうが、如月の29日。
 目黒行人坂の大円寺から出た火が折り悪く吹いていた東風に煽られ、たちまちのうちに猛火が江戸全域へ広がり、900以上の町、170の大名屋敷、山王神社に湯島聖堂までを焼き尽くし、2万以上の死者行方不明を出した大火事の出た日でございました。
 後世「明和の大火」と呼びまして、「明暦の大火」や「文化の大火」と並び称されるとてつもない大火事で御座います。

 江戸全域を包み込み、天をも焦がせと闇夜を照らす猛火。それを見たお鶴は何を思ったか。彼女は直ぐに、麟之助を助けなければと思い至る。既に限界を迎えつつあった翼をなおも羽ばたかせ、お鶴はどこにいるともわからない麟之助を空から探す。
 そうして飛びますと、お堀端のある大名屋敷。火が出てきたというので、梁が燃えて屋根に穴が空いてる。鷹の目なんて喩えが有る通り、鳥と云うのはとかく目が良い。お鶴はその穴の中に、米粒よりも小さかったでしょうが、見事に麟之助の姿を見つけた。そして、そこへと翼を羽ばたかせて、屋根の穴を目指して飛んで参ります。

 他方麟之助。延焼してきた火から、何とかお家伝来の宝物や、或いは奥方様やお世継ぎをお逃し申し上げねば、と燃えつつある邸に残って、逃げ遅れがないかと見て回っている。そうして、遂に自分が最後かと確かめて、自分も逃げようとすると火で梁が燃え落ちて、ガラガラと、屋根を支えておりました材木やらが崩れ落ちて来て、逃げ道を塞いでしまったわけです。
「もはや、これまでであるか…」
火の熱と煙で苦しみながら、麟之助遂に此処に果てるかと覚悟を決める。そしてその脳裏に浮かんだのは…国許に残してきたお鶴の顔。叔父上に頼んだ故、手抜かりはないであろうが、自分が死んだ後も、どうか平穏のうちに生きてくれ…。
 そう思っていたら、崩れ落ちた屋根の穴から、バサバサっと羽ばたく音が辺りに真っ白な羽が散らばります。
よもやと思って、見上げてみるとそこに居たのは、他ならぬお鶴。
「おつ…」
そう名前を呼ぶ暇も無く、麟之助の身体が宙へ浮かぶ。お鶴は翼がある故手では持てない。さりとて足に鉤爪があるわけでも御座いません。ではどうやって?そう、お鶴は麟之助の後ろ襟を噛んで、歯で以って麟之助の身体を支えておりました。
 だが、一端の男を支えられる程、歯というのは丈夫では有りませんし、お鶴の力も、もはや限界で御座いました。そして、邸から脱出をして、門前の道路まで何とか飛びますと、此処で麟之助を離して、積み上げられた夜具なんぞの上に落とす。その直後、邸全体がガラガラと、完膚なきまでに崩れ落ちたのでございました。
 夜具の上に落とされて、何とか無傷の麟之助。自分が助かった事を喜ぶよりも前に、お鶴は何処と空を見上げる。すると、空に小さな白い影が浮かんでいて、それが火と風に煽られて、フラフラと墜落をしていくのが見えた。
「お鶴!お鶴!」
麟之助、一心不乱に走りまして、お鶴が落ちた邸の門前まで息を切らせて駆けつける。ところが、其処は老中となりました田沼侍従意次殿4のお邸。人でごった返して、とても邸へは入れない。
「お頼み申す!お頼み申す!拙者跡部麟之助と申す者、合力申し上げる為、参上仕った!」
そう叫んで火に燃える門を潜ろうとすると、当然あたりの人に止められる。
「おやめなさい。もう、手の施しようがござらん。御命を大事になされよ!」
「どうぞ、どうぞお情けを以って、行かせて下さいまし!どうぞ、どうぞお頼み申します!」
その悲痛な叫びも虚しく、遂に邸は崩れ落ち、お鶴諸共、火の中へ消えて行ったのでありました…。

 火事の火がすっかり消えました後、麟之助は田沼殿のお邸まで出向いて、誰ぞ人の骸が出なかったかと問い合わせをしたそうですが、誰の骨も出ることはなかったとそうお答えがありました。
 ただ、どうも奇妙な事というのが、その燃え落ちた邸の跡から幾つかの鳥の羽が出たそうで御座います。どれも、宛ら冬の鶴の如く真っ白な…そして、ポツポツと紅の血が付いていたという、お話で御座いました。

 果たしてお鶴は、今何処を飛んでいるので御座いましょうか、そんな不思議を残しまして本日の一席は、読み終わりで御座います。

 作 四代目神林伯玄
 演 五代目神林伯道


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