赤き夜明け

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 昭和六年冬、某所。
 小雪が舞う厳しい寒さの中、数名の一団が波止場で船を待っていた。
「行くのか、向こうへ」
男の一人がそう言った。聞かれた男は、傍らの妻の肩を抱いて頷いた。
「しかし、少なくなってしまったものだ」
もう一人の男が、そう呟いた。長き闘争の末、彼らの同志達は今やここまで数が減ってしまった。
「…諸君。希望を捨ててはいけない。私は必ず帰る。この、美しい祖国の為に」
そう言うと、男と妻は船に乗り込んだ。行先は、遙か北の地。
 昭和六年。日本共産党の指導者、野坂参三はその妻龍と共に社会主義の総本山、ソ連へと入国した。
この四年後、獄外最後の中央委員袴田里美が逮捕され、第二次共産党は壊滅し、その復活は終戦を待つ事となる。

 昭和四年、年末。帝都のとある邸宅で開催された中央委員会は、暗澹たる雰囲気に包まれていた。
「四月一六日…!四月一六日…!」
何度も何度も、譫言の様に日付を呟く。同志が捕らえられ、目の前で連行されるのをただ隠れて見ていることしかできなかった悔恨が、行き場のない憤りが、彼にそう呟かせていた。
 昭和四年は、まさしく再建された日本共産党にとっては悪夢の年であった。三月五日、帝国議会において治安維持法改正に反対し、一人孤塁を守って来た山本宣治議員が刺殺され、四月十六日に行われた特高警察による一斉検挙によって、渡辺政之助、佐野学らを筆頭とする中央常任委員、他にも多数の幹部層が逮捕され指導部は事実上壊滅。彼らにとって落日は、着々と身に迫っていたのだった。
 「…同志諸君、よく集まってくれた」
この会議の招集者が冷静に言った。彼は参加した者の顔を一人一人見て行く。野坂、紺野、宮川等…。数多な弾圧事件を潜り抜けてきた歴戦の活動家達。そう言えば聞こえはいいが、逆に言えば粛清の目から逃れる程度の小物である。少なくとも招集者の目にはそう映った。ただ一人、野坂参三を除いては。
 「それで、この時局に我々を集めるとはどう言うことですかな。…尾崎さん」
上座を占める招集者、尾崎秀美に対し野坂は疑いの目を向ける。何しろ、中央委員の検挙が相次いでいる状況で、その上「公式上は日本に居ない」者の家で会合を持つなど正気の沙汰とは思えなかった。
「いや、何しろ重大事ですからな。私も急遽、満州から戻って来たのですよ」
余裕たっぷりに尾崎は答えた。何年もの間人々を欺き続けた彼にとって、幾度と無く壊滅の憂き目に遭っている国内の指導者達など警戒する価値もない。
「実はこの度、モスクワから招待状が来ておりましてね。それを皆さんに、お届けに上がったんです」
そう言うと尾崎は懐から手紙を取り出す。内容はシンプル、「日本の同志を一人、クートヴェに招きたい」。言うなればソ連への留学招待状であった。
 当時世界の共産主義者は、メキシコのトロツキーの支持者でもない限り猫も杓子もソ連で教育を受けた者を尊んだものである。日本とて例外ではなく、多くの指導者や幹部候補をソ連へと送り込んでいた。
「…だが、そう簡単に行くわけには行かないな」
野坂は冷静に言った。確かに、ソ連に渡りより深く理論を学び、指導者として成長するチャンスは逃したくない。しかし、今の共産党にとって獄外の指導者を一人外国へ送る事は非常に手痛い損失になっていた。まさしく野坂が案じていたのもそこである。
 野坂の心配を察してか、他のメンバーもお互いを見つめてヒソヒソと話す。どうするべきか、彼らは考えあぐねていた。
 「ご安心下さい」
尾崎は彼らの悩みを断ち切るべく、自身の切り札を出した。それは隣室に控えている、二人の人間のことである。やがて部屋の中に入って来た二人を見て、野坂達は総毛立った。二人はまさしく、彼らを圧倒したのである。
「ご紹介します。彼の名はゾルゲ。リヒャルト・ゾルゲ。もう一人の方は…」
「海軍より参りました、地崎と申します」
一人のドイツ人と日本人。彼らにしてみれば、単なる外国人であり、何も知らぬ軍人に過ぎない。だが今この瞬間、彼らは支配された。圧倒的な力によって。
「彼らが、今後の闘争を牽引します。問題ありませんよ。二人と、これから留学する方の手によって、貴方方は生まれ変わるのです。新しく、ね」

 昭和二十年四月二十日。モスクワ。一度は世界に片手をかけた総統はもはやベルリンに追い詰められた。おそらく今日が彼の最期の誕生日だろう。
「野坂参三。入ります」
クレムリンの一室、誰も近づく事のない寂れた部屋。一人の日本人がそこにやって来た。迎えたのは、立派な口髭がトレードマークの委員長閣下である。
「よく来たな、野坂君、時は来た。判官会の地崎少佐から連絡があった。帝国はいよいよ崩壊に向かう、そして君の才腕を活かす時がいよいよ来たのだ」
「承知しています」
 第四異常対策委員長は、満足げに頷いた。新しい時代がやってくる。

 昭和二十一年、野坂参三は再び日本の地を踏む。かつてとは違う、新たな志を秘めて。


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