蚊帳

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起きてるか、と問うと、お陰で目が醒めたと言う。思わずくすくすと笑いが溢れた。
蚊帳の中は存外に快適で窮屈でなく、懸命に背伸びをして吊った甲斐があったと言う物だ。ぬるい夜風を孕んで網が波打つ。外は激しい雨天で、屋根をばすばすと穿つ様に降っている。あまりの騒音に寝付けず寝返りばかり打っていた。

ランプを引き寄せ手元を薄く照らし読み掛けの小説を開く。栞の押し花は未だに瑞々しく咲き誇っている。しかし小説は何十年も前に発行された紙媒体の本だ。やや劣化が見られ角や綴じ部分がほつれている。背表紙に刻まれていたであろう題名も掠れて判読不能になっていた。

しかし手元を照らしただけではやはり読み辛い。字がミミズの踊りを見ている様だ。そう思ったが、単にこれも掠れているだけであった。早々に読書を諦め、ラジオの電源を入れる。中々つかない。買い換えるべきだろうか。周波数を合わせれば雑音混じりに放送が聞こえる。
今夜は局地的にひょうが降る事。明け方には日の出に伴う強力な熱波と市街戦に注意する事。明日は強い酸性の降雨がある事。来週分の配給予定日から今日の死亡者数まで。

たった5年で世界は大きく変わってしまった。突如として破壊されたオゾン層。その影響で起こる異常気象の数々に、甚大な被害をもたらす災害。
ついでにSCP財団とか言うのも現れて私達の生活はすっかり様変わりした。衣料や食糧は配給制になり、労働の対価は金銭ではなく配給切符。嗜好品はあれど煙草1箱貰うには丸1週間分の切符が要る。交通網は全て地下に移動し最早地上で暮らすのも難しくなってきた。長年暮らした家は降り頻るひょうであっさりと破壊され、今は如月工務店が建設した通称「蚊帳」と呼称される頑丈な仮設に入居している。

地上にあるのは瓦礫と埃ばかりだった。
近々他の惑星に移住する案も検討されているらしく、政府発行の新聞には1面に大きく一般面接の募集が載っていたりする。手始めに月を開拓するらしい。知人も何人かそれに賛同して行ってしまった。
ラジオの音に目を覚まし布団から抜け出して来た同居人が、黙って隣に座っている。うるさいだろうとラジオの捻りを摘まんで音量を下げようとすると、別にいいと静止された。

彼は元々SCP財団でフィールドエージェントとして働いていたと言う。彼が言うには、今回の大災害の発端はオブジェクトの収容違反が原因なのだと。そしてそれの収容に間接的だが関わっていたのも彼だった。
結果として彼は心を病み財団から離れ、現在はここで銀行員として働いている。しかし元財団に居ただけあって少しだけ優遇されているのだ。私はそのお零れに与っているに過ぎない。彼とは旧知の仲だった。

閑話休題。

さりとて彼は心を病んでいる病人なのだ。稼いだ切符は薬に変わる。その副作用なのかすこぶる眠りが浅い。毎日目の下に大きな隈をこさえては化粧で誤魔化してふらついた足取りで仕事へ行く。それでは身がもたないだろうと飯の支度や家事を率先したりして極力休ませてやるのだが(何せ彼は私より給料がいい)、緩やかな浅い波に揺られるだけであった。今度上等な寝具を工面してやろうと思う。
彼はやや眠気が残っているのか頭をふらふらとさせながらラジオを聞いていた。眠ろうとしても眠れないのだろう。単調な放送は寧ろ眠くなりそうなものだが。

『緊急……送です──だん。……SCP財団より放送です』
禁酒法時代のジャズを流していた周波数に、突如に財団の緊急放送が挟まる。今度は何だろう。収容報告か、災害派遣か、それとも配給の調整か。耳を傾けていると隣人が泣きそうな顔でこちらを見ている。ごめん、と一言謝りラジオを消した。彼の傷を抉る真似はしたくない。
ラジオから音が流れなくなると彼は安心した様にのそのそと布団に戻った。規則的な寝息が聞こえる頃、型落ちしたヘッドフォンを着けてラジオをつける。耳元にぽつぽつと速報が流れた。大型の蚊が発生している事、竜巻頻発地域の更新情報等々。
今日の内に蚊帳を吊っていて良かったと思う。これは日本生類創研が開発した支給品で、アフリカから飛来した大型の蚊や熱風、砂塵、強い紫外線を遮断する代物だ。各家庭に普及した事により感染症や皮膚病が前年から減少している。
一通り放送を聞いてラジオの電源を落とす。そろそろ電気の使用制限時間だ。蚊帳の網を一陣の涼風が抜けて行く。これも元は熱風だったのだが熱を奪われている。
就寝前に発電機を起動しておく。これで明日も問題なく電気が使える筈だ。

ここ暫く同居人の姿を見ていない。と言うのも最近になって彼は夜勤になってしまったから、単に起きる時間と出掛ける時間が擦れ違っているだけなのだが。朝覚醒した時に隣人がいない寂しさや空しさと言うものがいっぺんに襲って来るのだ。
銀行に夜勤などあるものかと疑問し1度だけ彼に問うた事がある。曰く、勤務先が変更になっただけである、と。万一に備え住所は知らされていた。彼が元気でやっているなら文句は無いのだが自分だけが置き去りにされてしまったかの様な錯覚を覚える。
起床して発電機の助力によって朝食を用意し食べる。食糧の配給も量が少なく質も低くなった気がする。今朝の食事は固形状の栄養補助食品と少しの野菜。食事を摂ればあとは仕事をするだけである。今日の仕事は旧時代のパソコンからデータをバックアップする事だった。

配給量が少ないと同僚の愚痴を聞き流して終業時間を迎える。朝8時に出社して夕方6時に帰宅出来るのだから恵まれているのだと実感する。今日は珍しく夕陽を拝む事が出来た。普段なら火山灰や煙でぶ厚い雲があると言うのに、それが晴れ間を見せたのだ。神の気紛れに胸を昂らせていると通信端末に着信が入る。発信者は彼だった。内容を確認するとショートメールでたった一言「迎えが欲しい」。現地で撮影したのかそれに添付された特徴的な丸い看板の写真。外は雨が降り始めていた。
驚いた。無頼漢の彼が人を頼るなど。ましてやハンカチも必ず持ち歩く性分であるのに折り畳み傘の1本も鞄に入れていない。
急いで彼の勤務先へ向かう。通信端末の地図案内を頼りに到着すると彼は黙って軒下で煙草をふかしている。こちらを認めると薄く笑む。普段の黒いスーツに見慣れないネームタグをその細い首から提げていた。
彼を傘に入れて帰路につく。大の男2人が安物のビニール傘に入れば当然肩がはみ出、お互いに袖や肩口を濡らした。「もう1本持ってくれば」と指摘され苦笑する。「お前が傘を忘れるのは珍しいよ」と返すと、彼は悲哀とも羞恥ともつかぬ何ともいえない困った様な表情を浮かべている。諦めた様に上を見、恥ずかしそうに顔を伏せ、そして「実は」と切り出した。
「銀行を辞めて、財団に戻ったんだ」
「へえ。それはまたどうして」
心底意外だった。職員時代の責任から逃れる様に毎日精神安定剤を飲んでいたと言うのに。贖罪のつもりか、それとも。
「もしかしたら元の世界に戻せるかもしれないんだ」
今日は彼に驚かされてばかりだ。動揺を隠して「どうやって」と問えば「タイムマシンの様な物だよ。理論は同じだ」とだけ端的に答えた。
そして声とは裏腹に悲しそうな表情を浮かべこう言った。
「まあ、観測されなくなった未来はそれまでって事だな」
形容し難い予感がした。
それはどこか独占欲にも似て。
その全てを仕舞い込みつとめて明るく振る舞う。
「じゃあその煙草も?」
「うん。この世界最後の娯楽だ」
煙草など10年近く吸っていない。狡い奴だ。
「残ったやつくれるかな」とわがままを言うと「勿論」と手に箱を握らせる。何本残ってるか訊ねると1本しか吸っていないと言う。
災害無線から警報が鳴りひょうが降り出す頃に帰宅すれば、余程疲れていたのだろう、彼は食事を摂るなり布団に沈んでしまった。彼は明日から新しい道へと歩いて行く。そしてその足で土を踏みその手で未来を掴むのだ。
私も眠る事にした。この世界と言う可能性が終わるのだとしても明日の日は昇る。布団に入ったままラジオを聞き頭に情報を入れる。
今夜は強い熱波で熱帯夜が予想される事。明日は台風が上陸する事。来週からは配給量が見直されて少量になる事。今日の死亡者数は200人でその主な原因は巨大なひょうに潰された事。次第にラジオから流れる音は禁酒法時代のジャズに変わる。ラジオをつける度に覚醒していた隣人は穏やかな眠りについていた。
就寝前に冷房機をつけ熱帯夜に備える。しかし夜は電気の使用制限がかかっている為発電機に繋げた。明かりを落とし再び布団に潜る。

夜明け前に覚醒する。噴く様な発汗で肌着がべっとりと湿っていた。冷房機が意味を成さない程の酷暑だと言うのか。隣人は脱水でも起こしていないかと隣を見れば、そこには丁寧に布団が畳まれているだけで彼は見る影も無かった。
ああ。
彼はもう、行ってしまったのだ。蚊帳の外へ、新しい分岐へと。もう少しこの穏やかな蚊帳の中に居ても良かったじゃないか。蒸し暑い夏夜にもっと談笑していたかった。無意味にラジオを流していたずらに起こしてやりたかった。
ふと、視界の端に彼の残滓が映る。掌に納まる小箱には「short peace」と記されている。煙草に火をつけ有毒な煙で肺を満たした。短い安寧で遅すぎる後悔を上塗りする様に。
もしも引き留めていれば結果は変わっただろうか。寂しい、とだけ言えば或いは彼が未だ隣人で居てくれたかは知らない。
溜め息を排煙で隠した。






無機質な通路を歩く。歩いて行く。ギシギシと不吉に剥き出しの骨を軋ませながら稼働する老いた昇降機は、今日でも錆びた財団の施設において現役である。電気消費量を削る為ごく薄く抑えられた間接照明が空間の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
鉄骨は剥き出しで打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた部屋は、かつての仕事部屋だった。現在SCP-███-JP収容違反前から引き継いだ財団の施設と言う物は大方焼け落ちてしまい、総じてこの様な無機質なものである。
脚をガムテープでぐるぐる巻きにして補修されたデスクに皮の破れたパイプ椅子。それが幾つかあり、既に幾人かの同僚が座っている。そして机上には『エージェント・カササギ』とネームペンで書かれた名札が。椅子に浅く腰掛けて回覧書類を流し読む。それによると財団は3日後に時空間溯行システムを完成させるらしい。そのテスト人員を募集しているとの事。周囲の面々を見回すと誰もが他人事の様に惰性で文字を追っていた。当たり前だろう。
窓の外は重油の様な重い黒だった。窓と形容したがそこにガラスは無い。融点に達しかけて変形した窓枠が残っているだけだ。そこから入る温い風を扇風機がかき回している。
今夜は随分と暑い。

過去、財団は過ちを犯した。予測し得る最悪の観測未来のその1つに世界は分岐してしまったのだ。私もその関係者である。災厄を引き起こしたオブジェクトの収容に関わっていた。実際に担当したのは現場の報告を書き起こして上部に回しただけだが、それでも私の脆い精神が衰弱するには十分だった。
本来ならば自分に不要な罪を必要以上に誇大し、虚空の罪から目を背け加害者の様にただじっと俯いて生きていた。死人の様に惰性で過ごしながら。財団から離れて暫くしてから、本当に死のうと思い水以外摂取しなくなった事がある。その時にはもう味覚も失われていた。毎日財団から支給される少し多目の食糧を消費しようと道行く人に押し付けて歩いていた。そんな折、自分も食べるべきだとその行為を止める人物があった。
それが蜂鳥縞だ。今でも心底不思議に思う。当時食糧の競争率が配給品の中で最も高かった。食糧が足りているのかと思えば、今日を凌げるかも怪しかったのである。
蜂鳥縞と言う男は数少ない友人(もっとも知人や友人と呼べる同僚などは収容違反時に全て死亡したが)でよき隣人であった。私がエージェントとしての名を与えられる以前から交流が続き、そして一度財団を抜けた後もそうであってくれた。彼だけが本名を知っている。彼だけが私と言う人間を知っていた。
旧知の友が生きているとは露知らず、私は面食らってしまって彼のなされるがままに家に招待され、なけなしの食糧から私に食べさせ、風呂に入れられ、布団に放り込まれた。勿論布団は煎餅なのだが、心身共に疲弊しきった私は簡単に意識を手放したのである。その翌日は昼過ぎに起きた。机には2食分のレーションとこれを食べるようにと言う旨の控書が添えてあった。
数日休んだ後財団の関係組織に仕事を斡旋してもらい、銀行員として働き始めた。と言っても罹災証明書を受理して書類を作成し判を押したら横に流すだけの作業なのだが。家はサイトの職員寮が焼け落ちたので蜂鳥縞の家に居候した。
彼と過ごしている間は酷く静かだった。明日の命も知らない今日を生きる為に稼働する他人の心音や闇市の雑踏や新たな二次災害による悲鳴やらが煩くて仕方がなかったが、彼の前だと自然とそれらを意識せずに済んだのである。通称蚊帳と呼称される如月工務店が開発した仮住居の優秀な防音性能のおかげではない。彼の穏やかな声と、ラジオの音とが私に安寧を与えてくれた。
そうして夏を過ごしていたのだが、残暑が厳しいが終わりを迎えようと言う時に財団から書面が届いた。再度人員を召集するのだと言う。私のようにかつて職員だった者、新たに集った者。来歴は様々だが今は人手が必要らしい。その人手はいわゆるタイムマシンのテスト試行に使われる。ただし絶対の生還は保証出来ない。転送先の座標を間違えて高度から落下死だの、逆に地中や海中に送られ窒息や溺死なども有り得るのだ。立候補した者から順に転送されると言う話だった。今の財団に残った最後の人間らしい優しさなのだろうか。
窓の外の夜は未だ明けない。
夜明けと共に起床する彼は一体何を思うのか。かつて好んで嗜んでいたと言う煙草を置いてきたが、彼は許してくれないだろう。最後に本を渡せば良かった。電子媒体ではない。数年前に消費し尽くされてしまった紙媒体の物だ。彼も、私も読書が好きだった。もっともっとあの蚊帳の中、夜に語らっていたかった。
なんと浅ましい。これでは共依存ではないか。
目を閉じて風の音を聞いていると、突如遠方で爆発音が響いた。何事かと窓辺に駆け寄ると僅かに火の手がありそこから黒煙が立ち上っている。すぐに熱風がここまで届いた。火消しの警鐘が鳴る。あの方向は彼の家が近くにあった。胸騒ぎが治まらぬまま夜明けを迎える。
朝方に流れるラジオで火事の詳細を知った。彼がよく夜中に聴いていたラジオだ。無機質な眠たくなる様な音声に耳を傾ける。
『本日未明、仮説住居群で発生した火災事故について速報です。現在火元は鎮火されており、焼跡から1人の遺体が発見されました。また、この住居に住んでいた蜂鳥縞さんと連絡が取れない事から、自治警察隊は遺体の身元調査を進めています』
空白。
全く情報が処理出来ないまま、ラジオは無情にも私を置いていく。
『出火元は煙草と見られ、着火した際の火の粉が布団に延焼したものと推測されています』
嗚呼。
今日は酷く暑かったし、砂塵も吹いていたし乾燥していた。何故。何故私は煙草を渡したのか。高すぎる代償を支払ってまで嗜好品を楽しんでもらいたかった訳ではない。勿論予測出来なかった事だから仕方がない、と彼は笑って言うだろう。
息が出来ない。過呼吸を起こした私を同僚が適切な処置を施していく。止めろ。このまま呼吸も臓器までも止めさせてくれ。私は霞む世界の中で何かを叫んだ。何を叫んだのかは聞こえなかったが、恐らく彼の名を呼んだ。

暗転。

エタノールの匂いで覚醒する。様子を見にきた医療班に訊ねると過呼吸を起こした末に意識を失った為医療室に運んだのだと言う。病床を埋めてしまった事に後悔を覚えながら、ぼんやりと天井の裸電球を見詰める。夜虫が集っていた。周囲の仕切りカーテンがまるで蚊帳の様で遅い後悔に苛まれた。
医療室から出てその足で外出申請を出し、火災現場に献花を届けに向かった。贖罪と言うには傲慢な自己満足である。花束もみすぼらしく、道端に力強く咲き残っていた白詰草を摘んだだけである。
焼跡からは鉄が焦げる様な鼻をつく臭いがした。仮説と言えど頑丈な造りの蚊帳は壁が焼け落ちてその骨が剥き出しになっている。そして何かが破裂した様な損傷も見受けられた。現場で片付けをしていた作業員に話を訊けばガスボンベに引火したのだろうと言う。私は誰かの手によって設置された献花台に花を置き、手を合わせた。痛かったろう。苦しかっただろう。煙に喉が焼ける痛みに、肺から空気を絞り出される恐怖に、そして安全だった筈の蚊帳の中が地獄に塗り替えられていく絶望に。
誰かに怒って欲しかった。こうなったのは全てお前のせいだと。十字架を背負って生きていけと告げてくれる誰かが欲しかった。しかしここには怒ってもらう為に来たのではない。離別を告げる為に来た。
神は死んだ。
未練たらしく足掻き勝手に背負って生きていく。
胸元の通信機から連絡が入る。どうやら出発時間の様だ。1時間以内の帰還命令が下される。後ろ髪を引かれるも踵を返し歩んで行く。時間遡行に成功し事件を起こさなければこの未来は無かった事になる。観測されなくなった未来はそれまで。人類は再び日常を歩き始めるだろう。否、人類は何事もなく日常を続けるのだ。この災厄も帳消しに。
ただ1つ惜しい事がある。彼──蜂鳥縞への後悔はこの分岐未来に残していこうと思う。そうでもしないと私はきっと前に進めなくなる。彼はそれを望むだろうか? 否である。記憶処理剤を摂取して人類の輝く望まれた未来へと向かうのだ。


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