世界を救うための会議

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2010/7/26 02:35

 玄関の扉を開けることすら、鉛が埋まった右腕では難儀した。やっとの思いでドアを押しのけると、待っていたのは神すら茹だる深夜の熱気。気力を削がれて一度ドアを閉める。また開く労力を考えて即座に後悔することになった。
  それによく考えれば、冷房の働かないこの部屋も十分過ぎるほど暑い。ふぅ、と使い古した渋団扇を仰いで息を吐き、それから、靴箱の上にそっと置いた。縁起物とは程遠いが、無いよりはマシだろう。

 再び扉を開き、外に出る。ドアベル代わりの風鈴が、その音色で茹だった夜闇を梳いた。少しおとなしくなった空気を、一歩ずつ踏みしめていく。後ろで扉はばたりと閉まる。

 夜が更けるまではまだ時間があるし、夏が終わるまでもかなり時間がある、けれど  きっと。私たちの夏は、私たちの夜は。それよりも早く、過ぎていく。

machibito







2010/6/29 12:06

 二十歳になったことに気が付いたのは、誕生日の正午を回ってからだった。もっと正確に言うと、引っ越しバイトの昼休憩で飯屋に入り、300円で頼んだミニチャーハンを待つ間。ぼんやり眺めた店内の壁にかけられた日めくりカレンダーが、それを俺に知らせてくれた。
 記念日に頓着がないわけではない。そういえば一昨日あたり、「もうすぐ二十歳か」なんて感慨深く思っていた気がする。今日は朝から暑過ぎて日付を気にする余裕がなかった、というのが正解か。

 なんにせよ、二十歳。午後も仕事だから常識的にやらないが、法律的には今すぐにでも生ビールを頼んでいい年齢だ。実感は全く湧かないし、やってきたミニチャーハン(ミニの量ではない)が普段より美味しく感じたりもしないが、めでたいことに違いはない。仕事が終わったら、ちょっとしたデザートでも買ってみようと、ちょっとした決意をする。

 そのためにも、午後の仕事は長引かせたくない。久しぶりに仕事への情熱を抱いて、集合場所へ直行。そこに停まっていた車には既に何人か……というか、俺以外の全員が集合していた。結果的に俺が遅れたように見えるが、まだ休憩時間は10分ほど残っているから遅刻ではないし、結局車は予定時刻まで出ないから特に問題はない。

大淀おおよど りょうです。休憩から戻りました」

「OK、じゃあ乗って待ってて」

 名前を伝えると、運転手は薄っぺらい書類を見て、曖昧に頷いた。運転手が書類に目を落とした後に車内を見回すと後部座席左しか空いていなかったので、そこにしっかり腰掛ける。

 今日の仕事仲間は、俺と運転手を除いて2人。俺より若い奴は助手席で本を読んでいて、俺より年のオッサンは俺の隣で水を飲んでいる。両方、顔馴染みではない。日雇い歓迎のウチではよくあることだし、別に仲良くする必要もないと思うのだが……流石に、10分ずっと沈黙は居心地が悪かったらしく、おっさんの方が俺に話しかけてきた。

「大淀くんだったっけ。午前暑かったね、大丈夫?」

「そうですね、暑かったけどなんとか」

 50代くらいだろうか。無駄に気さくな言葉使いとTシャツを境に焦げた肌を見る限り、この仕事は俺より長そうだ。加えて言うなら、めんどくさいくらい人好きらしい。何せ、今日の朝一度、定型的な自己紹介で名乗っただけの名前を覚えている。

「流石! 若いっていいねえ、大学生?」

「いや、大学は行ってないですね」

「おや! 大学は出てたほうがいいぞ?」

 うわめんどくさ、と言いかけて、なんとか表情までに抑える。別にいいだろ。大学に行かなかったのも、親元を離れることも、俺の選択なんだからあんたとは関係ないだろ。けどそう思ったところで、おっさんは話すのを止めない。

「俺は大学行けなかったけどね、そのせいで若い頃苦労して──」「この歳で肉体労働──」「俺の若い頃は──」

 嘆息。こういうバイトをやってると、このタイプのしち面倒臭いおっさんには何度か出くわすものだが──何度出くわしても、この俺にとって全く無益な喧しさには心底辟易する。こんなことになるなら大学生って言っときゃよかった。
 しかし、反論したらもっと面倒なのは知っている。聴き流し続け、話が終わるのを待つしかない。

  じゃないと、いつまで経っても人生負け組だよ?」

「は? 別に負けてないんですけど」

 しまった。口に出してから、笑顔が消えた顔を見て後悔する。一瞬前の思考はどこへやら、ついカッとなって反論してしまった。「正直だよね」なんて子供のころは褒められたものだが、二十歳になってのバカ正直はただのバカだろう。
 しかしまあ、歳を取るだけで賢しくなったら苦労はしない。それを体現するかのように、オッサンがまた口を開く。

「君ねえ、年上に向かってその口の利き方は無いだろう。今は煩いだけかもしれないけど、この年になってからじゃ遅いんだよ?」

「いえ、自分で選んだことなので。大丈夫です」

「私は君のことを考えて言ってるんだ。今はわからないだろうけど」

「大丈夫だって言ってんでしょ。そもそもあなたも  

「あの」

 若干粗くなった語気の出鼻を、助手席からの声で挫かれる。身を乗り出してきた彼は、沈黙した俺ら二人に呆れた目を向ける。

「静かにしてもらえます? 大の大人の言い争いなんて聴きたくないので」

 高校生ほどに見える青年の、情け容赦ない一刀両断。生意気なガキと彼を切り捨てるには、俺たちの状況は悪かった。すまん、と、オッサンが先に謝ったので、俺も一応頭を下げておく。

 頭を上げた俺の目を、青年は虫眼鏡でも取り出しそうなほどまじまじと観察する。目を逸らすと、彼は唐突に俺から興味を失い読書に戻る。困惑しているうちに時間は終わったようで、運転手は黙って車を出す。

 ……嫌な誕生日だな。少しだけ、そう思った。




2010/6/29 17:42

 引っ越しバイトは肉体労働だが、たまに休めることもある。今回みたいにビルの高い階に運ぶ時は、なんならエレベーターの待ち時間の方が長いくらいだ。
 そしてその待ち時間は、一人で待つだけのものではない場合もある。例えそれが昼にちょっと嫌な空気になった相手だろうとも。

 昼の時の、助手席に座っていた青年。彼が今、俺の隣でエレベーターを待っていた。言い争ったオッサンと待つよりはいくらかマシだが、気まずいものは気まずい。
 ただ、どうやら青年の方にはそんな気持ちなど微塵もないらしく。こちらの気持ちなど全く鑑みずに声をかけてくる。

「あの時、なんでやり過ごさなかったんですか?」

「へ?」

「返答すれば面倒になるのはわかってたでしょう。馬鹿なのか、それとも何か理由があるのか教えてほしいです」

 女に見紛う程に愛嬌のある顔とは似ても似つかない、ストレートで容赦ない言葉。生意気なガキで終わらせるのは簡単だが、逃げたようで嫌でもある。どうせエレベーターが来るまでの間だし、話すくらいならいいだろう。

「俺はな、『負け』って言われるのが嫌いなんだ。だって、一度も負けたことなんてないから」

「……へえ。そりゃまた、大きく出ましたね」

 青年はにこりともしないし、頷きもしない。興味があるのかないのか釈然としないが、話は続けてやる。

「そもそも、あいつが言い出した人生の勝敗なんて自分で決めるもんで、他人に決めさせるものじゃない。俺は今の人生が負けてるなんて思ってないし」

 青年は顎に手を当てて少し考え込むそぶりを見せ、手を離して重ねて聞いてくる。

「いや、それにしたって、『負けたことがない』は言い過ぎでは? スポーツとか、じゃんけんとか、色々あるでしょう」

「スポーツはこれまでやってこなかった。じゃんけんでも負けた覚えはないし……まあ、負けてても端数みたいなもんだろ」

 その答えに、青年はちょっと笑った。まあ、たしかに今のはおかしな回答だった。だが実際に、何かに負けた記憶なんて無いのだから仕方ない──と、青年が唐突に右手を向けてくる。

「じゃーんけーん、ぽん」

 咄嗟に反応してチョキを出すと、少年は手を広げていた。どうやら勝ったらしい、と勝敗を確認してから、本当に負けないのか試した、と気付く。青年はなるほど、と腕を組んでちょっと考えた後、こちらに向き直り礼をする。

「協力ありがとうございます、お陰で疑問が解決しました」

「いや、別に。そんな大した話じゃない」

 さっきまでの無礼が嘘のような、ぴしっとしたお辞儀。正直例を言われるようなことをした覚えはないが。ちょろっと話した後、ジャンケンふっかけられただけだ。
 本当に、変な奴だ。あるいは、初対面でここまで話した自分の方もおかしいのかもしれない。どちらにせよ、エレベーターが到着した以上は会話を続ける理由もなかったし、これ以上話したいとも思わなかった。

 エレベーターに乗り込む俺。なぜか見送る青年。

「……乗らないのか?」

「18歳未満は8時間しか働けないので、帰ります。それでは」

 エレベーターに乗り込む俺に、彼は手を振る。それに手を振り返すか迷っていると、彼は言葉を付け足した。

「……お兄さんが今後も負けないことを祈ってます」

 彼の笑顔とその言葉だけ残して、エレベーターの扉は閉まった。
……本当に、よくわからない奴だった。願わくばもう会いたくない。




2010/6/29 20:31

 借りているアパートまでは、最寄駅から15分ほど歩く。明るい大通りをまっすぐ向かうその15分が、俺は嫌いではなかった。居酒屋の喧騒や焼き鳥屋から流れる煙は、ただ歩くだけの15分を飾り付けてくれる。

 今日はスポーツバーが賑わっている。備え付けのテレビは今日行われたワールドカップのリプレイを流していて、キャスターは日本代表の敗北を伝えている。いや、キャスターが伝えずとも、青いユニフォームを着た客の表情を流し見ればわかることだが。あまりスポーツに興味は持てないのだが、その表情を見ると流石に、残念だなあ、くらいは思う。

 彼らの中には、酒に酔って泣いている人までいる。机に突っ伏している彼に、誰かが「ずっとは勝ち続けられないんだから」なんて言っているのが聞こえた。その言葉に思い出すのは、数時間前の言葉。


 お兄さんが今後も負けないことを祈ってます。


 あれはどういう意味だったのだろう。単に"good luck"のようなニュアンスで言ったものと捉えれば簡単だが、直前のやりとりの文脈と言葉の響きから、どこか不快感が残る。まるで、"そんなことできないだろうけど"とでも言われたような。

 ……流石に考えすぎか。あの青年の不気味さが、余計な勘繰りをさせているだけだろう。そう、自らに言い聞かせて歩く。ただまっすぐ、歩き続ける。

 そう。まっすぐ歩き続けていたので、曲がるタイミングを逃したことに気がつけなかった。明るい大通りは既に過ぎ、見上げれば鳥居が鎮座している。
 この鳥居には見覚えがある。自宅から徒歩3分のところにある最寄神社だ。初詣は実家で済ませるから、来る機会はほとんどなかったのだが  これも何かの縁もしれない。そんな考えから、俺はその鳥居をくぐる。

negaigoto

 蛍光灯が照らす境内は当然のように無人。特に有名でもない神社だから当然か。営業時間も既に終わっているので、お守りなんかも買えない。

 夜の神社に足を踏み入れる行為は、もう少し恐ろしく、不気味なものかと思っていたが。しっかりと備え付けられた照明のおかげで、夜闇への怖さは特になく歩けた。もしかしたら、別に暗くても怖くなかったかもしれないな。特に神や妖怪、オカルトの類を信じているわけではないのだから。
 それでも賽銭箱に小銭を投げ入れるのは、なんとなくの気紛れだ。せっかく来たのだから、それくらいはしてもいいかな、というだけの。

 1円玉がささくれ立った木材にぶつかって、小さい音を立てた。財布をしまいながら軽く目を閉じて、一年の健康だけ祈っておく。

 さあ、これで寄り道は終わり、帰ってのんびりしよう。そう思って振り返った矢先。
 視界の端で、何かが動いた。続いてガタン、と何かが落ちる音。不可抗力で背筋がびく、と動く。

 そっ、とそちらを見る。シャッターが閉まった受付の方、照明を反射してひかるプラスチックの箱が地面に落っこちている。どうやら、あれが落ちただけのようだ。ビビらせやがって。
 近づいて詳しく見る。どうやらおみくじの入った箱らしい。100円入れて一つ紙を選ぶ、セルフサービスのおみくじ。ポケットに入れた財布にちょうど100円があったのを思い出す。

 そういえば、これまでの人生でくじ引きをした記憶はない。特に避けていたわけでもないが、やる機会がなかった。二十歳になった今日だからこそ、やってみるというのも悪くないかとしれない、そう思う。元々あったであろう位置におみくじを戻してから、100円を金銭入れに入れる。箱の中の紙をガサガサと無造作に漁り、折り畳まれた紙を一つ摘んで引きずり出す。

 さて、結果、は…………ああ。

 やっぱ、今日は嫌な誕生日だ。

 大凶、より下の詳しい所は見ることなく、その紙切れをポケットにぶち込んだ。気紛れがいい結果を生むことなんてない。それが学べただけ、よしとしよう。

 昼間の暑さが残る中で、おみくじを入れた右ポケットだけ、嫌な気配で冷え切っていた。

 俺が覚えている昨日の記憶は、そこまで。二十歳最初の夜に何をしたのか、そこからはどうしても思い出せない。この部屋  殺風景な六畳が俺の部屋であることは確かだ。けれど床に敷いてある布団の酒臭さも、激しい頭痛の理由も、狭い床に転がるチューハイの缶も、まったく覚えがない。ただ、酒を飲んだのだろうと推測ができるだけ、それらはまだマシな不可解だ。

「おはよう、大丈夫?最悪の目覚め、って顔だけど」

 何が起こってこうなったのか全く分からない非常事態。知らない女が俺の顔を覗き込んでいる。「一体、寝る前の俺は何をやらかした?」

「あれ? 覚えてないんだ」

 声に出ていたその問いに、見知らぬ少女  高校生くらいに見える  が首をかしげる。寝ぼけた頭では理解が追い付かない。いや、寝ぼけていなくても理解できたとは思わないけれど、とにかく。どうしてこうなったのかを、俺は急ぎ知る必要がある。

「覚えてないも何も……訳が分からない。まずお前は誰で、どうしてここにいる?」

「私はずっと、君が生まれた時から君と一緒にいたよ」

「それはどういう  


「私は貧乏神。君の不幸すべてを司るものだ」


 少女はどこか人間離れした微笑みと優しい語気でもって、俺にそれを告げた。





2010/6/30 8:10

「……は?」

 困惑。ぽかんと開いた口から言葉が漏れる。次いで出てきたのは失笑だった。そんな変な嘘に騙されるわけが—  -。切り捨てて詳しく追及しようとしたところで、インターフォンが鳴る。

「すいませーん、大淀さん?」

 大家さんの野太い、しかし優しい声。目の前の女から一瞬目を離して、ドアを見る。もう一度女を見て、少し固まる。

「出たほうがいいんじゃない?」

 (自称)貧乏神がドアを指さす。こいつに聞きたいことはまだあるが、それは大家さんと話した後でもいい、か。

「そこ座ってろよ、終わったら詳しく色々聞くからな」

「はーい」

 ひらひら手を振って、少女が座る。状況が状況じゃなければ可愛らしさを感じる仕草だが、知らない奴に自室でやられると不気味さが勝つ。彼女から視線を外し、ノックされている扉を開くと、大家さんの顔。彼はその優しげな顔に似つかない太い声で用件を伝える。

「突然すみませんね、来週からゴミ出しの曜日が変わるのでお伝えしようと思って」

「ああ、わざわざどうも」

 ゴミ出しの日程表を受け取り、それに目を通す。頭の中でゴミ出しのシュミレートを始めたせいで気が付けなかった。大家さんら俺の後ろ……もっと言うなら見知らぬ少女を見ている。

「あの、そちらの方は……?」

「え……?」

 俺にもわからないんです、と答えないくらいの思考力は、二日酔いで痛む頭にも残っていた。缶チューハイの転がった部屋に知らない少女を連れ込む20歳男性がいたら、俺だったら「あっ……」という顔で110番する。大家さんは既にその「あっ……」の段階までは来ていた。なんとか誤魔化せないものかと頭を巡らせ、巡らせ、咄嗟に出たのは、言い訳としては随分とベタなものだった。

「あー、妹なんです」

「妹さんいたんですね?」

「ええ、実は。急に押しかけて来て困ったもんですよ、はは」

 最後以外、全部嘘だ。彼女が妹ではないのは当然として、そもそも俺に兄妹はいない。そして俺の下手な嘘は、当然のように疑われる。

「そうなんですか?」

 俺の肩越しに、大家さんは見知らぬ少女に声をかける。彼の声色は優しいが、そんなことはこの状況の恐ろしさには関係がない。万が一通報されたりここを追い出されたりしたら、ただでさえギリギリの生活がさらに困窮する。神に祈る気持ちで、神を名乗った少女に目配せする。

「はい! 兄がいつもお世話になってます」

 俺の祈りを汲んだ、と思うにはアッサリしすぎた肯定。別にそんな睨まなくてもそうしてたよ、とでも言いたげな即答、表情。

 ともあれ、本人からの肯定が得られれば、不安はなくなったと考えていいだろう。ふぅ、と内心だけ息を吐く。

「いえいえ。まあ、そう言うことなら大丈夫です。なんかすいませんね、疑ってしまって」

「似てないってよく言われるので慣れてます! ね、お兄ちゃん」

「……はい」

 渋々、渋々頷く。突然現れた不審者に大きな顔をされるのは、それはそれで納得がいかない。今からでも本当のことを話してやろうかな、と大家さんに向き直ったところで、扉が閉まる。

「うん、なんとか乗り越えられたね」
 
「…………そうだな」

 なんとか、本当になんとか。その言葉だけ、矜持として捻り出した。言いたいことは山ほどあったが、ここで冷静さを書くのはなんとなく負けな気がした。
 胸が高鳴る。それは不可解な少女への恐怖であったり、怒りであったりする。少し間違えたら吊り橋効果で恋に落ちてしまいそうな……いや。流石に吊り橋そのものに惚れるバカはいないし、今はそんなことはどうだっていい。

「で、何を聞きたいの?」

 少女はいかにもやる気のない、覇気のない言葉遣いでそう聞いてくる。なんで興味なさそうにしてるんだよ。お前のせいでこっちの情緒はズタズタなんだよ。髪引きちぎるぞ。

 ……じゃなかった。そう、あくまで冷静に。少なくとも会話ができているうちは、冷静に。

「ああ、聞きたいことは山ほどある。まず、お前は、何処の誰だ?」

「さっき答えたじゃん。貧乏神。君の不幸を司るカミサマ」

「そんなわけがねえんだよ」

 埒があかない、会話にならない、だから冷静さを失ってもしょうがない。2010年だぞ今、そんなバカみてえな嘘信じるわけないだろ。相手の思想をノールックで斬り捨て、苛立ちはさらに高まっていく。

「え、なんで?」

「こっちが聞きたいわ。なんでそんなオカルトで押し通せると思った?」

「あれ、神様信じないタイプ? 昨日おみくじであんなガッカリしてたのに?」

 なんでお前がそれを、と言いかけて、床に散らかった缶を見てやめる。酔っ払った俺が昨日話した、なんて聞かされたらちょっと恥ずかしい。立ち上がっていた足を一歩引いて、一つ深呼吸をいれた。

「……百歩譲って神様がいたとしても、俺の部屋に不法侵入する理由がない」

「神様にも依り所は必要なんだよ。特に貧乏神は特定の家や人に取り憑くものって相場が決まってるの」

「そんな相場知るかよ」話の筋も理屈もめちゃくちゃだ。それこそ人と話している気がしない程に。

 話した距離を詰めるように少女に詰め寄る。彼女は特にそれを意に介さず、ただ俺の目を見ている。目を逸らした。

「何回でも言うけど、そんなわけがねえんだよ」

「本当に?」

「しつこいな」

 舌打ち。今日は特に予定もないが、明日はバイトを入れている。この狂人の話に付き合って、無駄な体力を消耗したくない。

「いい加減に  

「君、人より不幸だって思ったことないの? それ、わたしのせいなんだよ?」


 わたしのせいに、できるんだよ?


 互いの言葉が肌にかかるほどの、至近距離。彼女は俺を見上げていた。俺はふっと言葉を止めた。単に近さに驚いたから、だろう。そのはずだ。

 彼女の言葉に動揺したから、では。

「ない」

 彼女の瞳が動くのと一緒に、息が動き出す。目線に合わせて、体が揺れている。

「俺は。人より不幸だなんて、思ったことない」

 体が揺れている。視界が覚束無い。理由はわからない。わからない、知らない。

「……わかった。そう思いたいなら、いいよ」

 自称貧乏神は、一歩引いてそう言った。さっきより離れ、緩くなった距離感で、俺の視界は安定する。少なからず、彼女が引いてくれたことに安心する自分がいた。それを誤魔化すように、言葉だけは詰め寄っていく。

「というか、だ。お前の言う通りなら、お前は俺の不幸全てを司ってんだろ?」

「うん」

「じゃあ、俺が『人より不幸と思ってるか』は分かる筈だろ。そう思うことも不幸だろうし」

「……あー、そこら辺は事情が複雑、というか」

 彼女はここで初めて、困ったようなそぶりを見せた。苦笑いで口調を濁し、明らかに誤魔化そうとしている。それを見て、あ、やっぱり嘘だったな、と確信できた。同時に、こんな嘘にほんのちょっとでも揺らいだ自分に驚いた。

「あのな、流石に『神様です』なんて嘘突き通すのは無理があるんだよ」

「いや、わたしは本当に貧乏神なんだって」

「もういいって」

 そう否定する彼女の腕を取って、無理やり玄関に連れて行こうとする。するり、と抜けられた。

「いい加減本当のこと話して、それで出て行ってく……あれ?」

 するり。たしかにそこに見えている腕を取ろうとして、空振る。試しに何回かやってみる。結果は同じ。まるで、実体がない虚像みたい、に、って……。

「あ」

 そして当の本人は、何かに気づいたようにぽん、と手を叩いた。そして俺の体を文字通り『すり抜けて』背後に回り、ターン。

「もしかして、最初っから非実体化して見せれば信じた?」

 半透明の首を傾げて、少女はそう尋ねた。

「…………とりあえず、最初よりは」

 いや、神がこんなにアホだと信じたくはないが。


2010/7/1 20:10

 翌日の夜。バイト帰り、家の扉を開いて電気を付けると、そこには未だ少女がいた。どうも、幻覚ではないらしい。

「自分が間違ってるとは思わなかったの?」

 しかし  扉を開けて第一声がこれだから、俺は舌打ちをした。疲れてんだよこっちは、カミサマはこの部屋でぼーっとしてて暇だろうけどよ。

「あ? 何が」

「昨日のこと。酔っ払って女の子連れ込んで記憶飛ばしたとか、そういう過ちを犯したとは思わなかったの?」

「ああ……」

 言われてみれば確かに、あの状況は真っ先に自分の失態と考えることもできた……というか、そう考えるほうが納得できる状況だ。

「でも、俺がそんなことするわけないし。それならまだ、お前が貧乏神だって方が信憑性ある」

「すごい自信だね?」

「そうかもな」

 俺は間違えないし、負けない。それは、俺に取っては当然のことだった。たとえ酒を飲んでいても、それは変わらないと信じている。

「いや、待て、違う。そもそもお前はなんで昨日俺の部屋に現れたんだよ」

「だから。ずっと前からいたんだって。たまたま君が昨日から見えるようになっただけで」

「その理由は?」

「……え、と」

 何か言い訳考えてるな、とすぐにわかる沈黙。早く答えろよと睨んでいると、自称貧乏神はこちらを見てにっこり笑った。

「教えない!」

「は?」

「教えたら私に都合が悪いから、教えない」

 なんだそれ。あまりにもそっちに都合が良すぎる、そう指摘しようとして……気がついた。

「あ、気がついた? 私に教える義理はないって」

「……クソ野郎」

「野郎じゃないよ?」

 空のペットボトルに苛立ちを詰めて、投げる。完璧な放物線で彼女の脳天に吸い込まれ、そしてすり抜ける。
 物理法則の及ばないすり抜け。これのせいで、俺は彼女を力ずくでつまみ出すことができない。この女から、自力で逃れる術は現状ない。その、偏った力関係に、気がついてしまった。

「私は長居する気だから。ね、仲良くしよう?」

 にっ、と手を差し出す女を無視して、布団を広げる。無視はせめてもの反抗だ。居心地が悪ければ、ひょっとすれば出ていくかもしれないから。

「ちょっと、無視はないんじゃないの?」

 幸いというかなんというか、貧乏神を名乗るわりに俺に具体的な危害はない。このまま無視し続けていれば、ただ喧しい女がいるだけ、だ。

 それに、最悪の場合警察にでも通報すればいい。自称貧乏神に戸籍なんてあるわけもなく、法律に従うかもわからないが。なんとかなるだろきっと。

「ねえってば。寝てる場合じゃないよ」

 聞こえない、聞かない。歯を磨く音で声を掻き消す。得体の知れないものは放っておいたほうがいい。手に負えないことを背負うのは愚か者の証だ。

「そろそろ電話かかってくる頃だから」

「え?」

 振り返る、フローリングと素足が擦れる音。貧乏神の声。それらを、固定電話の響く音が全て上塗りした。

 直面した問題に背を向けるのもまた。愚か者のすることと。そう、俺は気がつくべきだった。
   もっとも、気が付いたところで、俺に抗う術などなかったのだが。


2010/7/2 21:01

 常識の埒外に出くわして、畏れより先ず怒りが来るのが大淀亮という人間性だ。だからその日の日没と共に、俺は自室のドアを蹴り上げて帰宅し、その勢いのまま足を蹴り上げ、貧乏神に向けて靴紐の切れたスニーカーを飛ばす。

 当然のようにすり抜け、バンズのつま先が賃貸の壁に凹みを作る。しかし今の俺にはそれを気にする余裕は全くない。

貧乏神!」

「うん、ようやく認めたね」

「っざけんなよお前……!」

 昨日、契約しているバイト先から入った電話。身に覚えのない失態での解雇通知。朝一直談判しに行こうとしたら電車が運転見合わせ、ようやく着いたらまさかの事務所移転済み。移転をなんとか聞き出して、ようやくたどり着いた頃にはお昼過ぎ。そこからなんとか誤解を解くのに日没まで。いくつかの不運がありえないほど積み重なって、結果として丸一日が溶けた。

 人生一不運な日だったと、舌打ちして思考を閉め切る。普段なら、それで終わるのだが。棲みついた少女の存在と過去の発言で、切られた思考は結びつく。理不尽な不条理が、ただ目の前に居ると悟る。

「ふざけんなよ、お前」

 数刻前と同じ台詞を、今度はしっかりと口にする。『私は君の不幸全て』と、出会った時に少女は言った。あれは誇張ではないのだと知る。彼女はそれなのだろう。今日のたった1日に積み重なった無数の不運そのものなのだろう。妖怪も神も、これまで信じたこともなかったが……ここまで異常を目の当たりにすれば、嫌でも認めざるを得ない。

「ふざけてはいないよ?」

 ただそこに見えている、雰囲気だけは儚げな少女が首を傾げる。その真っ直ぐな黒髪が。ちり紙よりも真白な肌が。10円玉に似た錆色の瞳が。その全てが俺の部屋にあることが。

 俺は、なによりも嫌だった。

「今後も同じことになるなら、今すぐ出てってくれ」

「今日の不運なら、ある程度勝手になっちゃうし」

 そんなことをのうのうと貧乏神は吐く。俺はそれに首を振る。ああ、実際、この問答に意味なんてない。そんなことは俺もわかってはいる。

「それでも、出ていってくれ」

「やだ」

「……クソ野郎が」

 昨日と同じ言葉を、昨日以上に最悪の気分で吐き捨てる。わかっていた。この程度の言葉で出ていくのなら昨日そうしていただろう。けれど、それでも、抑えられない感情の捌け口を求めていた。目の前の最悪の象徴をひたすらに罵倒してやりたい。俺の日常をズタズタにしたこいつの四肢を引き裂きたい。

「……?」

 しかし、当の本人は俺の怒りも言葉もさして気にしていないような  というより、まるで。
 "この程度で?"と、疑問に思っているような。そんな、白けた顔をしていた。

「でも、辞めさせられはしなかったんでしょう? 仕事」

「ああ」

 一日駆け回って、なんとか最悪の事態は免れた。けれど、今日一日走り回った結果が"現状維持"じゃあ割りに合わない。そもそもコイツがいなかったら、本来しなくてよかった苦労ならなおさらだ。

「その程度の不幸で、ここまで怒るの?」

 自分のことを棚に上げて、貧乏神はいけしゃあしゃあとそんなことを言う。まるで理解できないその言葉と思考に、ただ苛立ちだけ募っていく。

「お、まえが……それを言うか? 引き起こしたのはお前なんだろうが」

 見たことがない生き物を見るような目で、錆色の瞳は俺を見ていた。同じ目は俺もしていたろうが、違うのはきっと畏れの有無と、怒りの有無。

「うん、私は貧乏神だから。でも、君は……本当に、自分を不幸だと思ってないんだね」

 本当に。本当に驚いたように、ソイツは目を丸くした。

「知るかよ」

 その驚きにすら腹が立った。勝手に不幸にして、勝手に驚いて。身勝手に俺の日常をひっくり返す。こんな不条理が許されていいわけがない。だが、怒り続けるのにも体力を消費する。

 ……そうだ。明日は、仕事だ。それが、俺がこいつから今日守り抜いた普段通りだ。明日早いからと、理屈で感情を押さえつけて、俺は無理やり夜を終わらせた。


2010/7/3 19:00

 その日は朝から、呼吸を止めたくなるような雨が降っていた。上着を着ていないわたしが肌寒さを感じるほどの、冷たい雨だった。そんなことを感じる神経も  肉体も。わたしには備わっていないというのに。

 部屋を見回して、今取り憑いている、大淀とか言う男のことを考える。……本音を言うならば、わたしだって彼に憑きたくはなかった。挙動を一目見るだけで「そう」とわかる、あのめんどくさい性格。依り好みできる立場なら、真っ先に無視する男。しかし今のわたしでは  少なくともこの近辺では  彼以外に取り憑けなかったのだ。

 いくら神と名乗ったところで、今は人の代。我ら妖の類は旧い時代に取り残された遺物で異物。そんな、中で弱まり続けた貧乏神としての力では人を不幸にするにも苦労が伴う。しかし。

「……"神"が、聞いて呆れるな」

 嘆息、自らの現状を嘆いて笑う。しかし  誰かに、何かに取り憑いて、不幸にしなければ生きていけぬのが、貧乏神という種。我らは、そう定義された妖。そのまま弱って種としての自己を保てねば、あとは忘却と虚無への一本道。

 消えたくはない、ただそれだけの願いのために、あの手この手を尽くして貧乏神は生きている。例えばある同族は貧乏神が主題のラブコメを自ら出版社に持ち込んだ。また別の同族は数少ない、貧乏神を祀る神社に住み着いた。
 そしてわたしは、わたしでも不幸にできる人を探すことにした。つまり、不幸になりやすい人を。

 それで見つけたのが彼、大淀亮だ。彼自身の言葉を借りれば、"負けたことがない"男は、しかしだからこそ、不幸にするのも容易かった。
 それはもともと彼の周囲の運勢と確率が、"勝ち続ける"せいで歪んでいたから。本人はそれが異常だと思っていない……というより、"俺が負けないのは当然だ"と思っていた所があるが。とにかくわたしは、耕された土を掘るように、簡単に彼の運勢を歪めることができた。
 勝ち続けていた奴が急に負け始め、不幸になれば。その分の絶望も、わたしへの恐れも強くなる。その分わたしは力を増して、より彼を不幸にできるようになる。貧乏神にとっての永久機関が彼だ。多少の性格難くらい我慢するというもの。

 懸念点といえば、彼の異様なまでの運の良さくらいか。仕事を辞めさせるつもりで不運に傾けても、瀬戸際で彼の運は何故かそれを留まらせる。
 しかし、"運のいい人間"なんてのは特段珍しいものでもない。上手く見えないのに点を決めるサッカー選手、タイミングが良いだけの政治家、どんな事故に巻き込まれても死なないドライバー。運の種類は数あれど、そういった人間は大抵どこかの分野で成功を収める。
 それに比べて、大淀亮はただ"負けない"だけの高卒フリーターだ。このまま力を取り戻せば十分下ろせる程度の運だろう。

 そう楽観的に考えて、伸びをしたところでチャイムが鳴った。あの男が帰って来たかとドアの方を向いたが、はたと思い直す。それにしては、やけに早い。

「すいませーん、誰かいますかー」

 ノックと共に聴き慣れない声。この家の主人がする理由もなく、まず間違いなく来客、なのだが。あの男に来客なんて来るだろうか……?
 応答しないで無視しようとも思ったが、なんとなくの不信感から玄関の覗き穴を覗いた。

 警官が二人立っていた。その後ろに、大淀。その光景から不審者の通報をしたんだろうな、とは容易に察せる。続いて思う。

 彼はやっぱり、馬鹿なんじゃなかろうか。時代を跨ぐ妖が、今更警察程度に捕まるわけがないだろうに。
 すっ、と実体をを消して、鍵を開けて入ってきた大淀と警察を見る。一方的に、視覚に映らない目で。

 ひとしきり大淀がぎゃあぎゃあ喚いてから、警官は帰る。そりゃそうだ。不審者本人がいないのなら彼らにやれることなんてない。残されたのは騒ぎ過ぎて肩で息をする大淀と、姿を表したわたしだけ。

「……」

 全部お前のせいだ、とでも言うように、彼はわたしを睨む。その目はとうに見飽きていたけど、やっぱり、わたしは彼が気に入らない。この程度の不幸で既に耐えきれなくなるほど幸福な彼が。その軽薄で軽率な狼狽が。どうしても気に入らない。

 不幸者達に寄り添い続けたわたしにとって、その贅沢は見るに耐えない。

「無駄だよ」

 だから、さっさと終わらせようと思った。"取り憑く"貧乏神として彼の全てを奪い、力を取り戻して、さっさとこの安アパートを後にしようと。そう思った。

 大淀亮は咳をして、舌を打ち、それから麦茶を手に取る。部屋の空気は、わたしが来る前からずっと淀んでいた。


2010/7/6 15:10

 一週間が経てば、"負けたことがない"なんて口が裂けても言えなくなった。飲み物の買い出しジャンケンで負けて、歩いて10分のスーパーに歩いていく。別に大した手間でもないし、多少休憩時間が潰れるだけだが、ここ最近積み重なる不運に心は沈む。

 手に取ったカゴにお茶を複数投げ込むと、人数分には一つ足りないことに気がつく。最近ずっとこの調子だ。舌打ちして辺りを見回すと、一人、未会計のお茶を持った青年がこちらを見ていた。

「人数分足りないなら要ります? 僕別にコーラでもいいので」

「あ、助かります」

 こちらの状況を的確に見抜いた一言に感謝した後で、その顔をどこかで見たのに気がつく。いつだったか、この低い背と顔を見たのは  

「一週間ぶりですか、負けたことがないおにーさん」

「……ああ、うん」

 思い出した。貧乏神と出会う前、最後に話したクソガキだ。緑茶とコーラを俺のカゴに加えて、そいつは俺を見上げる。

「前会った時より、色々あったみたいで。歩きながらでいいので、また話聞かせてくださいよ」

 彼の目から見て何が変わったのか、話してどうなるのか。そもそもバイト中だ。しかし……俺はなんとなく、頷いてしまった。

 この青年は既に引っ越し業者のバイトはやっておらず、俺と出会ったのは偶然たまたま近くに住んでいたからだという。それは……幸運というか、不運というか。なんにせよ、話を聞いてもらえる相手は俺にはほとんどいないし、相談できるなら正直誰でも良い。

 とはいえ職場までの短い時間で話せることなどさして多くないし、年下の学生相手に真剣に語る気もない。だから俺は、ただ一言こう聞いた。

「君、貧乏神って信じる?」

 いきなりのその問いに、青年はわずかに固まって、それからぬるりと首を傾げる。

「貧乏神、ですか」

「ああ。信じられねえだろうけど、俺は今貧乏神に取り憑かれてる」

 ふっ、と。青年は、俺の言葉を小馬鹿にするように鼻で笑った。この前までの俺も同じ反応をしただろうが、今の俺にはそれがひどく腹立たしい。何も知らないガキに八つ当たりしている自覚はあるが、それでも口調を荒げるのを止められない。

「別に笑ってもいいけど、俺にとっては深刻な悩みなんだわ。靴紐は切れるし、ジャンケンは負けるし、仕事は手違いで辞めさせかけられるし」

 仕事場までの道を歩きながら、その不平不満を語る。

「いや、別に信じてないわけじゃないですよ。名前も知らない僕に話すくらい、切羽詰まってるみたいですし」

 青年は見て取れる愛想笑いを浮かべ、沈める。信じられるなら鼻で笑うなよ、と眉をひそめる俺の心情を知ってか知らずか、彼はそのまま話を続ける。

「単におかしかっただけです。その程度の不運で、ここまで落ち込んでるお兄さんが」

 ……は?

 斜め上の返答に固まった俺を置き去りに、二歩。そこでようやく俺を追い越したことに気がついたように振り向き、こて、と首を傾げる。

「だってそうでしょう? 手違いで被害を受けたり、靴紐が切れたり……そのくらいの不幸、割と誰にだってありますよ」

 言葉に詰まる。青年の言葉を飲み込めず、慎重に咀嚼する。
 彼の言葉は一見妥当な意見だが、俺にとっては的外れだ。だってそれらは、貧乏神が来るまでは無かった不幸だ。だからコイツの言っていることは、今の俺にはそぐわない。そう思うのに、何故か貧乏神の言葉が思い返される。

『その程度の不幸で、ここまで怒るの?』

「お兄さんは、もっと考えるべきだと思います。とりあえず今気にするべきは、なんで貧乏神が自分の元にきたのか、ですよ」

 青年は自分の短髪を手で梳きつつ、こちらを見つめている。その視線から逃れるように、俺は止まる前よりも早足で歩き出す。

「なんで、俺の元に……」

「不運に形がないなら諦めるしかないけど、お兄さんには"貧乏神が来た"、"だから不幸になった"という法則があるんですから」

 仕事をしているビルが見えてきた。手に持っているビニール袋を持ち直して、話を聞く。

「あいつに聞いても、答えるとは思わないけど」

「そこら辺は知りませんよ。僕は今話聞いただけの部外者ですから」

 散々話を聞いておいて、青年は俺を突き放す。しかし、彼の言うことは至極真っ当だ。どう考えても年下で、特に深い関係でもないコイツに、そこまでの助けを求めてどうするんだ? ここまで話を聞いてもらって、意見までもらっておいて、それ以上を求めるのは……この一週間でズタズタに傷ついたプライドでも、流石に情けないと引け目を感じる。それ以上、俺は何も言わなかった。

 少し歩いて右に曲がるとすぐ、仕事場のビルに着いた。止まっているトラックの側に集まっている同僚が、貧乏ゆすりなんかしながら俺を見ている。時計を持っていないからわからないが、あの様子だとどうやら時間を使いすぎたらしい。

「お、そこですね。じゃ、僕はこれで」

 青年もその集団を見て察したのか、そそくさとその場所を離れようとする。頷いてさよならと言いかけて、やめる。代わりに出たのは別の言葉。

「待て」

「なんですか?」

「……名前だけ教えてくれ」

 流石にここまで話を聞いてくれた相手の名前を知らないのは、なんとなく嫌だった。職場の人間や青年の視線から逃げるように、少し俯く。

 青年は意外そうに眉を上げ、それからずいぶん今更ですね、と苦笑する。

「僕は飯尾。飯尾いいおゆいです。どこかで会ったらまた面白い話聞かせてくださいね、お兄さん」

 でも、最後にはしっかりと応えてくれた。もう二度と話したくなかったはずの青年  飯尾は、最後に手を軽く振って、脇道に去っていく。それを見送ってから、俺はトラックの側、同僚たちの元に向かい、遅れたことを謝罪しながらお茶を配る。

 自分の名前を名乗り忘れたと気がついたのは、ビニール袋に残ったコーラの缶を見てからだった。


2010/7/6 18:38

 疲労の残る腕で自宅の扉を開けると、カーテンが揺れていた。そのすぐ側に立っている貧乏神は、どうやら窓の外を眺めているらしい。

「何を見てるんだ?」

 それを声にしたのは、単純に疑問に思ったからだ。ここはそれなりに都会で、見える星は多くはない。この時期の日没直後、気を取られるものなんて何かあっただろうかと。
 ただ、貧乏神にかけた言葉で、特に負の感情がないものはこれが初めてだった。だから驚いたのだろう、彼女は答えずにしばし沈黙した。

「……金星」

 平坦のない声でそれだけ言って、彼女は窓の外を指指す。靴を脱いで窓の方に歩くと、確かに宵の明星が輝いていた。このアパートには一年以上住んでいるのに、俺が星を窓から見るのは初めてのことだった。

「へえ、見えるんだ」

 とはいえ、あまり星に興味がある方でもない。俺の感想は実に淡白だった。どちらかというと星そのものよりも、この得体の知れない妖怪に、星を見る情緒がある事に驚いた。

 僅かな会話が終わったら、狭い部屋には静寂が訪れる。これが、今の俺と貧乏神の距離感。お互いに干渉は無意味と知っているからこその、静寂。

 昼休憩で飯尾と会ったときに買って渡し忘れ、なんとなく飲まずに持って帰ってきたコーラを、内容物の少ない冷蔵庫に入れる。今日は比較的早く仕事が終わったが、そういう日に特段やることはないのが、無趣味な俺の日常。手持ち無沙汰に冷蔵庫を漁ろうにも、何も入ってないのは一目瞭然だ。電気代も勿体ないし、すぐに冷蔵庫を閉じる。

 今日の昼から、考えていた。何故俺の元に貧乏神が来たのか。何故俺に取り憑いたのか。そもそも貧乏神とはなんなのか。知ろうと思って、今日、なけなしの金で何冊か貧乏神の本を買った。紙袋からそれを取り出し、読み始める。

 吹き出すような笑い声がした。

 目線を上げると、貧乏神が何かを堪えるように震えていた。俺を避けるように思いっきりそっぽを向いて。

「何がおかしい?」

 笑われる筋合いは何もない。眉の筋を切れそうなほど引き攣らせて、彼女を睨む。

「……いや、ごめん……だって」

 口元をどこかから取り出した渋団扇で隠し、真っ赤な顔で彼女は首を振る。その反応に余計腹が立つ。

「なんだよ。この本になんかあるの?」

「……だってそれ……知り合いが書いたラブコメだから……めちゃくちゃ深刻な顔で読んでるの面白くて」

 彼女は俺の本  『貧乏神5柱と同棲したら国が滅びた』の一巻を指差して、腹を抱えて笑っていた。

 ……いや、表紙のアニメ調の絵を見る限り、明らかに真面目に読む本ではないが。本の帯に"貧乏神についての考証がしっかりしている"って書いてあったし、民俗学系の難しそうな本よりはまだ読みやすいし……と、いや待てよ。知り合い?

「お前に知り合いとかいるの?」

「そりゃ、いるよ。神とか妖怪とか結構」

「……貧乏神が貧乏神のラブコメ書いてるの? なんのために?」

 その言葉に、彼女はすっと笑顔を消した。笑っていた時の熱量は全て引いていき、また昨日までの重く冷たい空気が部屋に戻ってくる。

「わたしたちが、生きるためだけど」

 くすんだ輝きの瞳に見つめ返される。窓は空いているのに、何か空気が足りない気がした。呼吸がおぼつかない。

「生きるため……って、金稼ぎか?」

「違う。貧乏神が、その存在が忘れられないため」

「忘れられなければ、生きていけるの?」

「……端折ったら、そうだね」

「貧乏神が生きていくために、金はいらないのか」

「人もそうじゃん」

 感情的に言葉をぶつけていく俺に、彼女は淡々と言葉を返していく。

「『生きてるだけで丸儲け』、だよ。わたしはそう思ってる。君はそう思わないって、知ってるけど」

 彼女はその先を喋らなかった。何故忘れられてはいけないのかも、忘れられたらどうなるのかも。彼女が俺をどう思っているのかも。

 知ったこっちゃないと思った。貧乏神がどうなってもいい、他人がどうなっても知らない。俺が"勝てる"ならそれでいい。そして多分、コイツもそうなのだろう。俺がどうなろうと知ったことではなく、ただそうする必要があって俺を不幸にしている。何故コイツが俺の部屋にいるのかなんて、考えるのもアホらしくなってきた。

 冒頭だけ読んだ本を畳んで、部屋の隅に置く。それだけでスペースが減ったと感じるくらい、この部屋は狭い。なんでこんなところにいるんだろうなと、ふと思う。地元から離れて、何をするわけでもなく、この部屋で俺は何をしているんだろう。

 この部屋にあるものは、何一つ進んでいなかった。宵の明星だけ、ゆっくりと沈んでいった。


2010/7/7 8:00

 事務所に着くと、見慣れない観葉植物が部屋の隅っこで当然のように居座っている。誰もそのことに触れなかったせいで、それが観葉植物ではなく笹だと気がつくのには数分を要した。まばらに吊るされた短冊。そうか、今日は七夕だ。

 俺がぼんやり笹を見ていたからか、事務の偉い人がペンと短冊を持って来てくれた。

「君もやっておくかい?」

 そこまで用意されて、別に願い事はないからと断るのも忍びない。それに、今の俺には明確に願い事がある。藁にも笹にも縋る思いで叶えたい願いが。ペンと短冊を受け取って、手早く願いを書き上げる。

負けたくない。

 ふわっとした願いだね、なんて事務さんに言われる。そりゃあまあ、他人にはこの切実さは分かるまい。愛想笑いで筆を置き、俺は指定の制服に袖を通した。無風の室内で、短冊は静かに吊るされている。

「で、今日の仕事はなんですか」

「うん、えーっと、今日はちょっと何人か休んで午前中は君しかいないんだけど」

 ……負けたくは、ない。
 

 貧乏に暇はない。大淀は今日も、朝から忙しなく出掛けていった。財布に入らないほどの貧乏を蓄えた私は、無人の部屋で今日も暇を持て余す。

 窓の外を眺める。もう正午だが、雲に覆われて太陽は見えない。朝から降り続ける雨かわ降り止む気配もまるでなし。七月とはいえまだまだ梅雨の範疇、それは何もおかしいことではない。だからきっと悪いのは天候ではなく、七夕をこの日と定めた誰かなのだ。

 ……まあ、そもそも。わたしは七夕が好きではないし、むしろ嫌いだ。ラッキーセブンなその日付と、未来への願いでごちゃついた笹。どちらも不幸の象徴としては受け入れがたい。空を覆い隠す雲によくやったと言ってやりたいくらいだ。

 外に出ることもないし、雨による不都合は特にない。晴耕雨読なんて言葉があるが、あれが適用されるのは畑を耕さなければいけない人間だけだ。わたしは貧乏神、部屋を腐らす日陰者。ついでに言えば彼が買ってきた本は既読だし、この部屋にはそれ以外の物が特にない。

 ……本当に、何もない部屋だ。安アパートの六畳間を広いと感じるほどに、この部屋はがらんとしている。床に直置きの固定電話、広げられた敷き布団、小さめの冷蔵庫、動くのか不明なクーラー、備え付きの靴箱。それら以外に物はない。机や椅子すら、この部屋で見たことはない。立ち上がって歩き回るが、広い。本当に、この部屋には何もない。不思議なほど、不気味なほど。

 大淀亮という人間に対して、私は何も知らない。知る必要がないと思っていたし、だからこそ、これまで考えもしなかった。彼は一体何故、この何もない部屋に住んでいるのだろう。

 漠然と答えを求めてふらふらする私の視線を、壁のクローゼットが引き止めた。

 結局のところ、飯尾唯が欲望のまま生きていくのは難しいのだろうと思う。狂った好奇心を満たしたいという欲求の先にあるのは、社会は異物を弾くという障害と、そもそもこの欲望が満たされることはないという事実だけ。

 でもだからって、割り切って生きてなんかいけない。

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